松浦寿輝『吃水都市』(思潮社、2008年10月30日発行)
松浦寿輝『吃水都市』の一番の特徴は文字表記がいままでの詩集とは違うということである。旧かな遣いと、をどり字(おどり字)の採用。「まだまだ」というような表記を松浦はとらず、二度目の「まだ」は「く」が2字分にのびた文字を採用している。同じ音を繰り返すときにつかう特殊文字である。現代では、多くの人はそういう文字を表記に利用していない。それを、松浦はあえて採用している。
これは、これは重要なことである。
をどり字を多くの人がつかっていた時代(新聞や教科書でもそれを見かけ、また実際に手紙などで書いていた時代)の人間とは違って、現代ではそういう文字をつかわないから、それを読むときには、読者の方で繰り返しを意識して読まないと、それが「ことば」にならない。
そして、この意識された「繰り返し」がこの詩集の(あるいは、松浦の文学すべてに共通する)思想である。繰り返しを意識するとき、その「繰り返し」の「間」のなかに生じる意識が松浦が文学(ことばの活動)の本質である。「繰り返す」ということは「間」をつくりだすことである。
巻頭の「眠る男」。その書き出し。(をどり字を再現できないので、ここでは○をかわりにあてておく。をどり字に濁音がついたものは、濁音を省略した。原文はテキストで確認してください)
をどり字以外にも、松浦は「繰り返し」を多用している。冒頭の「眠る男、眠る男よ、きみはかなしい、眠る男よ、きみはとてもかなしい、」が特徴的である。「眠る男」が3度、「かなしい」が2度繰り返されている。その「間」で変化したことは2点ある。
1点目。「とても」が挿入された。
2点目。「眠る男」が「きみ」に変化した。
この2点が、松浦の思想である。1点目は「間」の拡大、「間」のなかみを充実させること。2点目は「ずれ」。そして、その2点に共通していえることは、ふつうは「意識できない」間のひろがり(あるいは充実)、「ずれ」であるということだ。ふつうは意識しないことを、松浦は意識的にことばにする。「わざと」ことばにする。
をどり字の採用は、そういう「わざと」がくっきりとあらわれたものである。「くりかえし」を「わざと」意識させる。そして、その「くりかえし」の「間」に、ふつうは意識しないことがらを、意識できないことがらを書き込んでゆく。ふうつ、それを意識できないのは、それが非常に微細なことだからである。どんなに風変わりなこと、華麗なことが書かれていても、それは「間」が見えて来ないかぎり、そこには存在しなかったものなのである。
「眠る男」に、「よ」がつけくわわって「眠る男よ」になる。そこには呼びかけが付け加えられたことになる。呼びかけであるから、「眠る男」が「きみ」と呼称がかわっても、ふつうは何かがかわったとは意識しない。自然な変化に思える。無意識に読んでしまう。「きみはかなしい」から「きみはとてもかなしい」の変化には「とても」がつけくわえられている。「とても」というのは「微細」なものではないが、具体的ではないので「巨大」ともいえない。微妙な変化であり、それは、いわば「情緒」である。感情でしか把握できないもの、感情の意識(?)だけが感じることのできるものである。理性にとってというか、客観的なことがらと比較すると、その「とても」は測定不能なもの、つまり非常に微細なものということができる。言い換えると、クォークが3個から6個になったときのような「とても」大きな「微細」なのである。ことば(論理)にしたときにのみ、はじめて存在するものなのである。
「間」の拡大、「ずれ」によることばの運動は、どうなるか。どう展開するか。詩のつづき。
「間」の拡大、「ずれ」は、結局「行き着けない」という結論に達してしまう。カフカの「城」の世界である。
「行き着けない」世界のなかで、人間は、感覚をただ濃密にする。拡大する「間」、「ずれ」ることで増殖する「間」。「ずれ」とは、最初に存在したものとの「間」によって生じるものだから、松浦は、結局、「間」だけを書いていることになるともいえる。
「間」は「魔」でもあり、そこでは、人間は、その意識、感情は、つぎつぎに最初の形を失なってしまう。失ないながら、それでも人間でいつづけている。その矛盾。矛盾の連鎖。--「間」があるから、そこに感情や意識が誘い出されるか、それとも感情や意識が揺れ動くから「間」が生まれるのか。
わからない。
たぶん、それは同時におきることなのだろう。
そして、この「同時」ということが、また重要なのだと思う。(松浦は「同時」ということばはつかっていないけれど……。)
「間」「ずれ」の増殖。増殖するには、ふつうは「時間」がかかる。なんでもそうだが、増殖するのに「時間」のかからないものはない。けれども、松浦にあっては、その「増殖」は「時間」とは無縁なのである。「同時」なのである。「間」「ずれ」の増殖は瞬時というか、人間が存在することと不可分の「一瞬」のできごとなのである。どんなに拡大し、ひきのばしても「一瞬」でしかない。それは「行き着けない」のではなく、すでに「行き着いている」ことだからでもある。
「行き着けない」と「行き着いてしまっている」を松浦は往復するのである。その往復は拡大すればするほど接近する。接近すればするほど遠くなる。
松浦は、そういう「世界」へ、「繰り返し」と「をどり字」をつかって、誘い込む。
その世界は、「意味」ではなく、音、音楽の世界である。「意味」を拒絶している。「をどり字」が「踊り字」でもあって、読者は、松浦の音楽に誘われて、ただ踊る。意識の、感覚のダンス。どこへも行かない。ここで、ただ、踊ることで「ここ」が「ここ」ではなくなる陶酔の愉悦--そういう世界だ。そしてそれは、読者が自分から積極的に「繰り返し」の意識し、その「繰り返し」に参加しないことにはあらわれない「世界」でもある。
松浦寿輝『吃水都市』の一番の特徴は文字表記がいままでの詩集とは違うということである。旧かな遣いと、をどり字(おどり字)の採用。「まだまだ」というような表記を松浦はとらず、二度目の「まだ」は「く」が2字分にのびた文字を採用している。同じ音を繰り返すときにつかう特殊文字である。現代では、多くの人はそういう文字を表記に利用していない。それを、松浦はあえて採用している。
これは、これは重要なことである。
をどり字を多くの人がつかっていた時代(新聞や教科書でもそれを見かけ、また実際に手紙などで書いていた時代)の人間とは違って、現代ではそういう文字をつかわないから、それを読むときには、読者の方で繰り返しを意識して読まないと、それが「ことば」にならない。
そして、この意識された「繰り返し」がこの詩集の(あるいは、松浦の文学すべてに共通する)思想である。繰り返しを意識するとき、その「繰り返し」の「間」のなかに生じる意識が松浦が文学(ことばの活動)の本質である。「繰り返す」ということは「間」をつくりだすことである。
巻頭の「眠る男」。その書き出し。(をどり字を再現できないので、ここでは○をかわりにあてておく。をどり字に濁音がついたものは、濁音を省略した。原文はテキストで確認してください)
眠る男、眠る男よ、きみはかなしい、眠る男よ、きみはとてもかなしい、きみの頭蓋のなかにはきら○かな悪の金粉が舞つてゐて、おほきな黒猫の毛並のやうな悪い艶をおびてゐるその暗闇を、きみはた○降下してゆくことしかできない、
をどり字以外にも、松浦は「繰り返し」を多用している。冒頭の「眠る男、眠る男よ、きみはかなしい、眠る男よ、きみはとてもかなしい、」が特徴的である。「眠る男」が3度、「かなしい」が2度繰り返されている。その「間」で変化したことは2点ある。
1点目。「とても」が挿入された。
2点目。「眠る男」が「きみ」に変化した。
この2点が、松浦の思想である。1点目は「間」の拡大、「間」のなかみを充実させること。2点目は「ずれ」。そして、その2点に共通していえることは、ふつうは「意識できない」間のひろがり(あるいは充実)、「ずれ」であるということだ。ふつうは意識しないことを、松浦は意識的にことばにする。「わざと」ことばにする。
をどり字の採用は、そういう「わざと」がくっきりとあらわれたものである。「くりかえし」を「わざと」意識させる。そして、その「くりかえし」の「間」に、ふつうは意識しないことがらを、意識できないことがらを書き込んでゆく。ふうつ、それを意識できないのは、それが非常に微細なことだからである。どんなに風変わりなこと、華麗なことが書かれていても、それは「間」が見えて来ないかぎり、そこには存在しなかったものなのである。
「眠る男」に、「よ」がつけくわわって「眠る男よ」になる。そこには呼びかけが付け加えられたことになる。呼びかけであるから、「眠る男」が「きみ」と呼称がかわっても、ふつうは何かがかわったとは意識しない。自然な変化に思える。無意識に読んでしまう。「きみはかなしい」から「きみはとてもかなしい」の変化には「とても」がつけくわえられている。「とても」というのは「微細」なものではないが、具体的ではないので「巨大」ともいえない。微妙な変化であり、それは、いわば「情緒」である。感情でしか把握できないもの、感情の意識(?)だけが感じることのできるものである。理性にとってというか、客観的なことがらと比較すると、その「とても」は測定不能なもの、つまり非常に微細なものということができる。言い換えると、クォークが3個から6個になったときのような「とても」大きな「微細」なのである。ことば(論理)にしたときにのみ、はじめて存在するものなのである。
「間」の拡大、「ずれ」によることばの運動は、どうなるか。どう展開するか。詩のつづき。
からだは縦になり横になり斜めになり、厚ぼつたい寒気の淀みではふはりと横にそれ、かぐはしい精気はざつくり切り裂いて滑空し、少しづつ少しづつ、着実に、眠りの底に向かつて近づいてゆく、下へ行けば行くほどあたりは茫漠と広がつてゆくやうだ、しかしきみの眠りの底の底はた○一点に収斂してもゆくやうだ、はるか下方にひときは猛々しく輝いてゐるあの一点、あれは町だ、きみの街、そこに、きみはどうしても行き着けない、
「間」の拡大、「ずれ」は、結局「行き着けない」という結論に達してしまう。カフカの「城」の世界である。
「行き着けない」世界のなかで、人間は、感覚をただ濃密にする。拡大する「間」、「ずれ」ることで増殖する「間」。「ずれ」とは、最初に存在したものとの「間」によって生じるものだから、松浦は、結局、「間」だけを書いていることになるともいえる。
「間」は「魔」でもあり、そこでは、人間は、その意識、感情は、つぎつぎに最初の形を失なってしまう。失ないながら、それでも人間でいつづけている。その矛盾。矛盾の連鎖。--「間」があるから、そこに感情や意識が誘い出されるか、それとも感情や意識が揺れ動くから「間」が生まれるのか。
わからない。
たぶん、それは同時におきることなのだろう。
そして、この「同時」ということが、また重要なのだと思う。(松浦は「同時」ということばはつかっていないけれど……。)
「間」「ずれ」の増殖。増殖するには、ふつうは「時間」がかかる。なんでもそうだが、増殖するのに「時間」のかからないものはない。けれども、松浦にあっては、その「増殖」は「時間」とは無縁なのである。「同時」なのである。「間」「ずれ」の増殖は瞬時というか、人間が存在することと不可分の「一瞬」のできごとなのである。どんなに拡大し、ひきのばしても「一瞬」でしかない。それは「行き着けない」のではなく、すでに「行き着いている」ことだからでもある。
「行き着けない」と「行き着いてしまっている」を松浦は往復するのである。その往復は拡大すればするほど接近する。接近すればするほど遠くなる。
松浦は、そういう「世界」へ、「繰り返し」と「をどり字」をつかって、誘い込む。
その世界は、「意味」ではなく、音、音楽の世界である。「意味」を拒絶している。「をどり字」が「踊り字」でもあって、読者は、松浦の音楽に誘われて、ただ踊る。意識の、感覚のダンス。どこへも行かない。ここで、ただ、踊ることで「ここ」が「ここ」ではなくなる陶酔の愉悦--そういう世界だ。そしてそれは、読者が自分から積極的に「繰り返し」の意識し、その「繰り返し」に参加しないことにはあらわれない「世界」でもある。
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