詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大崎二郎『幻日記』

2006-04-30 21:57:21 | 詩集
 大崎二郎『幻日記』(青帖社)。
 1945年 8月 6日。この忘れてはならない日のことだけを大崎二郎は書く。この忘れてはならない日は、その日一日では終わらず、今もつづいているからである。

私はそこにいるのに
そこ はもうなかった   (「そこ」に原文は傍点がある)

 「昿野のラッパ」(「昿」は原文は正字)の表現に従えば、大崎はいつも「そこ」(現在の場所)にいるけれど、「そこ」は存在しない。存在するのはいつも1945年8月6日の広島である。大崎にとっては1945年8月6日がいつでも「ここ」なのである。
 「昿野のラッパ」は「爆心地」を探し、「爆心地」とされている食堂で思ったことを書いた詩である。私たちは普通、今、自分がいる場所を「ここ」と呼び、自分が存在していない場所を「そこ」と呼ぶ。ところが、大崎は、実は「ここ」と書いていない。「そこ」と書いている。それは大崎にとって、訪ね歩いてたどりついた食堂、現在の食堂は「そこ」でしかない。「ここ」は別なところにある。大崎にとっては、1945年8月6日という時間が刻印されてこそ、初めて「ここ」なのである。
 1945年8月6日という時間の刻印が消えているとき、大崎にとって、広島は常に「そこ」である。現実ではない。1945年8月6日という時間とともにあるときにのみ、広島は「ここ」になる。この詩集には「ここ」という表現は出て来ないが、それは、そうしたことが大崎にとって自明のことであるからだ。自明でありすぎて、説明する必要がないから書かなかった。筆者にとって自明でありすぎて書き落としてしまうことばを私は「キイワード」と呼ぶが、1945年8月6日という時間が刻印された広島が「ここ」であること、それ以外は「そこ」にすぎないこと、それが大崎の「キイワード」である。

 この詩集に書かれているのは記憶ではない。大崎にとっての「ここ」である。大崎はいつでも「そこ」ではなく「ここ」を描いている。
 ここでは何が起きているか。同じ「昿野のラッパ」から引用する。

その女は川岸に辿りつき
黒焦げの身体を川水に漬(つば)けて冷やした
血の色の水をのみに のみ
うつ伏せに浮いて
引き潮にさらわれていった
が 再び
故郷忘れじ難く
込み潮にのり
遡ってくるのであった

 「故郷忘れじ難く」。自分の思いを語ることもできずに死を強いられた女性。その女性の声にならなかった声。それが「ここ」を「ここ」たらしめるものである。

 「ここ」を「ここ」たらしめるものは無言の死者の声だけではない。生き残った人間の声、その瞬間に立ち会った人間の驚愕も「ここ」を「ここ」たらしめる。原爆の証言者の原民喜を描いた「渇仰」。

精根つき果て
漸く 目に染みる青のほとりに立つ
風にのってひらひら
流れゆくトンボの影をみる
あ トンボ よ
(略)
原民喜は いままた手帖のつづきを開き
“風に流れてゆくトンボ”と書いた
悪夢(ゆめ)からさめたような新鮮な驚きであった
オブラートのようにはかないトンボの羽が
微かにふるえながら
地獄の遠景にだぶりつつ
ふうわり 空中に浮かんでいるのを見る
みていると かさかさに乾いた眼球(めだま)を
しだいに 透明な水膜が潤してひろがってゆくのである
ああ生きている
烈しい生への
渇仰であった

 トンボ。トンボの青。それを見てしまう人間の不思議さ。生きていることの不思議さがそこにある。生きている、生きていくということは、人間の生(生への意志)とは無関係に存在するものを知り、そこから自分自身の生を感じ取ることである。自分が自分でなくなって、たとえば「トンボ」となって生きる可能性、ふうわりと飛んで楽しむいのちの可能性を知ることである。生きるよろこびが、そこにある。可能性を感じるこころに、生きるよろこびがある。
 原爆は、そうした生きるよろこびを一瞬の内に奪いさったのである。

 いのち、生きていることの不思議さを実感するからこそ、そのいのちを奪う行為に対しての怒りが生まれる。

 書く。1945年8月6日の広島を「ここ」にするために書く。それが同じ時代を生き残ったものの仕事であると大崎は自覚している。そうした仕事をしている人への共感も描いている。「吃音」は、その共感を描いたものである。画家に重ね合わせて描いた大崎の自画像でもある。
 1945年8月6日の広島を「ここ」にするという仕事は、たとえば「吃音」の画家や原民喜だけの力ではできない。すべての人間がしなければならない仕事である。大崎はそう自覚して、先人に大崎を重ねる。そうやって先人の仕事を引き継ぐことで、「ここ」を描く。

 大崎は1945年8月6日の広島を描き、同時に現代をも描く。現代を厳しく批判する。広島原爆が一過性のものではないことを告発する。

脳と目と指は 正確に 反射運動し
悪魔の軌跡をなぞる
ぶるっと身ぶるいし
目は カッと見開いたまま
投下(プッシュ)!

 「投下」のルビ「プッシュ」はもちろん「ブッシュ(米大統領)」への揶揄である。広島は形を変えてイラクでも展開されている。こうした現実批判があるからこそ「ここ」とは「1945年8月6日が刻印された広島」という意味が重くなる。

*

詩集中の「吃音」は非常にすばらしい作品だがあえて引用しなかった。ぜひ詩集を買って、読んでください。青帖社の住所、電話番号は
781-0251 高知市瀬戸西町1-293
tel・fax 088・841・4238

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渡辺めぐみ『光の果て』

2006-04-29 13:52:08 | 詩集

 渡辺めぐみ『光の果て』(思潮社)。
 途中まで何が書いてあるのかわからなかった。未来と思われる時代が設定されている。そこでは不毛な戦いがある。そのために、その虚構に登場する人物のこころは傷ついている。登場人物は複数であるから、こころも複数である。複数のこころが重なり合ってつくりだすものは「抒情」である。時代の抒情である。なぜ、渡辺がそうしたものを描くのに現代ではなく、未来と思われる時代を設定したのか。いま、ここにある渡辺のこころを傷つけたくなかったから、渡辺自身が傷つきたくなかったからか。なんだか、現代の「若者論」をなぞっているようで気持ちが悪い。何が書いてあるかわからなかった、と書くしかなかったのは、その気持ち悪さのせいである。
 しかし、逆なのかもしれない。渡辺は傷つきたくないのではなく、傷つきたいともがいているのかもしれない。

今日わたくしの魂は一度空に飛んでいってしまった
高く高く
さあ呼び戻しにいくぞ
そう言い聞かせて
鳥になる
そう言い聞かせて
鷹になる           (「盛夏」)

 渡辺の虚構は突然はじまるのではない。「鳥になる」「鷹になる」の「なる」がそう告げている。まず、自分自身を変形させて、たとえば鳥に、たとえば鷹に変身させて、そこから物語りははじまる。
 想像力を定義して、存在をゆがめて見る力、といったのはバシュラールだと思うが、渡辺は渡辺自身をもゆがめてしまう。ゆがんだものは脆弱である。傷つきやすいからである。より深い傷を求めて、渡辺のこころは「ゆがんだ存在」に「なる」。
 一方、自分以外のものも変形させてしまう。名づけるという行為で。

木を植える
わたしは 一本の木に
いまだ(未)よわい(齢)と書いて
みれい(未齢)と名付けた    (「植樹祭」)

 名付けるとは何かを何かに「する」行為である。「なる」と対極にある。

 渡辺は何かに「なる」、そして渡辺は何かを何かに「する」。そして、そこで今、ここに存在するものとは違った渡辺とある存在が出会う。そこから虚構の物語りがはじまる。傷つきたいからである。渡辺以外の存在には不思議な力をもった存在になってもらいたい。そして、渡辺を傷つけてもらいたい、という思いが「植樹祭」の木にはこめられている。詩は、次のようにつづいている。

出血する激戦区が拡大しても
どこまでも どこまでも
生も死も抱(いだ)き終え
吹かれてあるように
酸欠の 焦土と化した 地上にも
姿なき全身を晒し
どこまでも どこまでも
吹かれてあるように
颯爽と 稜稜と
風を食み
吹かれてあるように
わたしは未齢という名の木を植えた

 存在し続けるのは木であって、「わたし」ではない。「わたし」が名付けた木(存在)である。「わたし」が作り出した存在である、と言い換えてもいいかもしれない。「わたし」が作り出した存在が存在し続けることで、間接的に「わたし」を存在させようとしていると願っていると言い換えた方がいいかもしれない。
 「未齢」という木がある。その木が存在しているのは「わたし」が消えていってしまったからである。消滅した「わたし」が存在したことの証明として「未齢」という木がある。そういう世界を渡辺は思い描いている。その木を見るたびに誰かが「わたし」という存在を思い出してくれることを夢見ている。

 しかし、この夢は、かなり自己満足的なものにすぎないのではないか。私は再び気持ち悪くなる。一本の木に「未齢」と「わたし」が名付けたことなどだれも知りはしない。もし「未齢」という名前と木がいっしょに存在し続けるとしたら、それは木と無関係に「わたし」が存在し続けたときだけである。「わたし」が歴史として他者によって記憶されないなら、その「わたし」が名付けた「未齢」という木は単なる無名の一本の木にすぎない。「未齢」という木が残ると夢想するのは、あまりにもセンチメンタルである。

 虚構のなかで傷つく「わたし」、名もなく消滅する「わたし」を描いて感傷にひたるのではなく、いま、ここで渡辺がどんなふうに傷ついたか、それをこそことばにすべきだろうと思う。傷つける力を持った存在に出会わないのだとしたら、渡辺自身が加害者となって暴れればいいのではないだろうか。
 現実を渡辺のことばで破壊する。傷つける。そうした詩をこそ読んでみたいと思った。
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愛敬浩一『夏が過ぎるまで』

2006-04-28 14:33:50 | 詩集
 愛敬浩一『夏が過ぎるまで』(砂子屋書房)。
 「いつものこと」あるいは「いつも」という表現に何度も出会う。

十字路では
右折のため長い列が出来ている
いつものことだ
いつものことだが       (「吉凶の四つ角」)

真っ直ぐ急いで行ったら
いつもより早く職場に着いて  (「古代エジプトの絵のような」)

振り返ると
いつもの羊          (「いつもの羊」)

いつものように
四つ角を曲がると片側二車線になるので
アクセルを踏み
一気に加速する        (「月曜日の朝」)

車に乗って出かける。
いつも通りに。        (「旅の空かよ」)

詩なんていつでもくらでも書いてみせる
               (「いつもの四つ角」)

 「いつも」をいつも意識している詩人らしい。しかし「いつも」と書きながら、そこにあるのは「いつも」という「普遍」ではなく、それぞれのとき、「個別」の瞬間である。「いつも」でありながら、そこには差異が存在する。意識するとき、そこに存在するのは「いつも」ではなく、ある瞬間のある一瞬である。ここに矛盾がある。そして、その矛盾こそが「詩」である。
 「詩」について触れた行も多い。

すべて
私の詩のように
思いつくまま
投げ出されているのに     (「朝の水やり」)

 「いつも」という時間も、ただ投げ出されているだけのものかもしれない。意識されずに、そこに投げ出されて存在する。そして、あるとき、それに気がつく。「いつも」と同じように存在すると意識して、そこから「いつも」とは何なのだろうかという意識がどこかで動き始める。その瞬間「いつも」は「いつも」でなくなる。「詩」になる。意識化された「いつも」が「詩」である、と言い換えてもいい。

 詩集中、一篇変わった作品がある。「理髪店にて」。

同じ店に行くのが嫌なのだ

 愛敬はいつも、いつもとは違った理髪店へ行く。ここにも矛盾が存在する。「いつも」はここにあって、ここにない。そこにも「詩」という表現が出てくる。

剃刀を持つマスターの手も震えていたが
私の心も震えていた
まるで、しゃかりきになって詩を書いている時のように
血管はどっくんどっくん波打っていたが
私はその静けさを維持した

 詩を書くとき、愛敬は興奮する。しかし、静けさを維持する。ここにも矛盾がある。
 愛敬が書いている矛盾を積み重ねると、愛敬という詩人の姿が立ち上がってくる。「いつも」の中に「いつも」と違う何かを感じる。興奮する。それを書き留める。「詩」が生まれる。ただし、愛敬はそれを興奮の中にひき留めるのではなく、そっと「いつも」の静かな場所に戻す。「いつも」の場所は興奮の場であってはならない。静かな場でなくてはならない、というのが愛敬の思想のようである。「いつも」は「いつまでも」でなければならない、というのが愛敬の思想のようである。
 そして、「いつまでも」という表現を含む行もある。そこに愛敬には珍しく、いわゆる「思想」のことば、観念が出てくる。たぶん、愛敬はそうしたことばを使いたくなかったと思う。しかし、そのことばしかなかった。仕方なく使うことば。そこにこそ、詩人の思想が明確にあらわれている。「いつものように/四つ角を曲がると片側二車線になるので」ではじまる「月曜日の朝」。

雨が降った翌日の若葉が風を受けている
いつまでも見ていたい風景だ
一瞬の内に流れる景色を見ながらあれこれ考えてはみたが
やはり永遠などというものはないと思う
繰り返しもない
反復しない
ただ一回限りの時間が流れるだけのことだ
世界はいつも小さな破滅と小さな生成を繰り返している

 「一瞬」と「永遠」、「破滅」と「生成」。「反復しない」と書いてすぐに「いつも……繰り返している」と書いてしまう矛盾。ここで愛敬が書いているのは、その矛盾こそがすべてだという意識だ。「いつも」に「いつもではないもの」が出会う。その瞬間が「詩」である。そして、それを愛敬は、また別のことばで書いている。「現実」と。
 同じ「月曜日の朝」。

いつものように
四つ角を曲がると片側二車線になるので
アクセルを踏み
一気に加速する
ファミマを過ぎ
餃子の大将を過ぎ
日通を過ぎると
たぶんそこからが現実だ
(略)
仕事は仕事
晴れても曇っても
雨でもなんでもやるしかない
雨が降った翌日は若葉が風を受けている
いつまでも見ていたい風景だ

 「いつも」は「永遠」が「現実」と出会う「一瞬」である。「いつも」のなかには、いつもそうした瞬間、出会いの瞬間がある。そして、その「現実」をリアルに描き出したとき、そこに自然と「詩」が立ち上がってくる。
 愛敬は、それを興奮して見つめ、それからゆっくりと「いつも」の静けさの中へ返してやる。そして「いつも」に戻る。
 たぶん、こうした生き方は多くの人に共通する生き方だろう。思想とは意識しない思想だろう。
 意識していないから、静かである。静かで美しい。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(7)

2006-04-27 23:00:55 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(7)

 「ダクマ・だれがそれを」(『われアルカディアにもあり』)の「直列の詩学」は強烈だ。

だれがそれを沈黙の塔と呼び
しかも死者たちの最後の祭典
最初の転身の場所としているのか
ひとはそこにはいきなりは行けない
間道もなく 多くの 多くの
大地の漂う平原 光の無限の点
闇を転がる白い天体 などから命名され
命名もしている 絶え間ない爆発 連理のつばさを
連祷を 饒舌を経て それともその
あいだの ときたまの半潮を経て

 この冒頭の9行目の「それともその」の「その」とは何か。だれにもわからない。渋沢にもわからないだろうと思う。「その」とはいいながら、それは「その」ではなく「それらの」でもあるのだ。ふいにあふれてくることば、無数のことば。そのうちのどれが「その」であるかが問題ではなく、あふれてくることばと、それぞれが直列に結びつくことが重要なのだ。「それら」ではなく、複数ではあるけれど、瞬間瞬間に単独にどれかと結びつく。直列に結びつく。
 「命名され/命名もしている」と相反するふたつの動作が共存するように、すべてが常に存在し、つまり存在は常に複数であり、なおかつ結びつきは直列(単独に、それぞれ一つずつ)という一種の矛盾。いや、これはあらゆる生成が可能な混沌(カオス、無)というものに違いない。
 さきの引用に、ことばはさらにつづく。(一部を重複して引用する。)

連祷を 饒舌を経て それともその
あいだの ときたまの半潮を経て
貸し借りや物まねや 樹に大きな傷をつけすぎる
はてしない景色の照り返しなどに
飽満しながら そして樹よりも深く傷つきながら
むかでの足と吸殻の眼の
一々で歩いてゆくのだこれはもう
たかきびおろしの
ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし

 「樹に大きな傷をつけすぎる」「樹よりも深く傷つきながら」という構文は、先に見た「命名され/命名もしている」に類似している。常にどちらでもありうる。それは「直列」のプラスとマイナスの極のようなのもだ。対立する極があるからこそ、それを求めて「直列」という構造が生じる。直列はプラスとマイナスの極をつなぐ、並列はプラスとプラス、マイナスとマイナスをつなぐものである。渋沢の詩において、相反するように見えるもの、対極にあるものが同時に存在しなければならないのは、渋沢の言語の接続方法が直列であるからにほかならない。
 いま引用した部分で重要な行はもうひとつある。「一々で歩いてゆくのだこれはもう」という行だ。この行は意味的には「一々で歩いてゆくのだ/これはもう」であり、「これはもう」は改行されてしかるべきものだ。しかし、渋沢は改行もしなければ句点も挿入しない。強引に結びつける。この強引な直列が渋沢の詩学の特徴だ。強引であるからこそ、ことばは、そのエネルギーは暴走する。スパークする。
 「たかきびおろしの/ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし」ということばには何の意味もない。何の必然性もない。そして逆説的な言い方だが、何の必然性もないからこそ、そのことばは必然なのである。ことばの直列、直列の詩学は、エネルギーの暴発のためにまったく予想外のことばとなって爆発する。その爆発が直列の詩学の必然である。
 「一々で歩いてゆくのだ」の主語は、「ひとはそこにはいきなりは行けない」と関連づけることで「ひと」と特定できるかもしれないが、そんなことはほとんどどうでもいいことである。直列の詩学によってことばが暴発する。そのことを体験するだけでいい。
 渋沢のこの作品は「ひと」を主語としたまま、次のようにつづく。(ここでも一部重複して引用する。)

一々で歩いてゆくのだこれはもう
たかきびおろしの
ねむりぐさ うつぼほおずき ねむりむし
それというのも
逃れることができないのだから この国から
あんまり明るくて境界もなくて 夏だから
浅い裂片をいくつも数え 片割れの括弧や
中絶符や ああもう駄目だや多くの海を
泳ぐにせよ潜りぬけるにせよ
逃れることはできないのだから塔への道の
腐食画の 熱狂の痛みの一刻ずつを

 「ああもう駄目だや多くの海を」の強烈な結合、直列。そして「多くの海を/泳ぐにせよ潜りぬけるにせよ」の行の渡り。こうしたことばの行き着く先はどこにある。

しかもだれがこれを偽善や裏切りや盲目でなく
冒涜でもなく 愛などと そして
だれがそれを沈黙の塔と呼び
死者たちだけの転身の場所としているのか
ひとはそこへはいきなりは行けない
間道もなく 多くの 多くの
大地に漂う平原 無限の点………

 冒頭に引き返し(円環を描き)「………」で終わるしかない。それは渋沢のことばが「詩」であって、散文ではないからだ。散文はことばを積み重ねることでどこかへたどりつく。しかし詩はその場所にとどまりつづける。ただそこでエネルギーをため、エネルギーを炸裂させて見せる。それが詩である。その炸裂をより強烈にするために、渋沢は「直列の詩学」を実践する。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(7)

2006-04-26 08:22:07 | 詩集
 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(7)

 われアルカディアにもあり』(1974)。冒頭の「蓮華のしたたり」は「ひとり」「ふたり」「三にん」「四にん」「五人」「六人」「七人」という数え歌風の「形式」が素早いことばの運動を促している。その動きもおもしろいが、「の」の働き、特に行末の「の」がさらにおもしろい。

病める無限はひとり
呪われた断片はふたり
断片の思考は地平の犯し
数花ずつの白熱の
無為の祈りを
何が聞き何がさらに白熱させるか

 「ひとり」「ふたり」という数え歌風の行の展開には、意識の反復がある。2行目の「断片」が3行目で繰り返されなければならない理由は、その反復の意識にこそある。そしてこの反復のなかでは呼吸が難しくなる。息継ぎが必要になる。それが文末の「の」である。
 「数花ずつの白熱の」のあと、私は深い呼吸を聞く。思いっきり息を吸い込む渋沢の呼吸の音を聞く。ため込んだ息を一気に吐き出すようにして「無為の祈りを/何が聞き何がさらに白熱させるか」ということばがつづくとき、「白熱の」に先行するそれまでのことばを「の」のなかに凝縮し、その凝縮をバネに一挙に「白熱させるか」に結びつく。途中のことばが飛び越されている感じがする。

形式は落下せよ
たくさんの畸形の海の失踪のあとをどこまでも
桃色珊瑚は落下せよ スカンポも落下せよ
純白の擾乱渦動の
美しい全体性を窺(のぞ)き見よ

 「純白の擾乱渦動の」の行末の「の」はやはりそれに先行するイメージを凝縮し、次のことばへ飛躍するための深い深い呼吸である。文意的には「純白の擾乱渦動の」は「美しい全体性」を修飾することばだが、文末に「の」があることで一種の断絶が生まれ、そこに深い呼吸の音が響いている。そして深い呼吸(息継ぎ)の後、水泳のクロールでいえば、ぐいと新しい力で水をかくようにして新しいことばが引き寄せられ、押し出される。
 あるいは「の」が登場するたびに、ことばは、それまで先行することばを飲み込み、新しい次元へ飛躍するといえばいいのだろうか。

狂いは三にん
欠如は四にん
夢の三斜晶系は蓮華のしたたり
魂から遊離する無数の
無数の叫びは
山毛欅(ぶな)の林で息絶える

 「魂から遊離する無数の/無数の叫びは」の「の」。これが先行することばをすべて引き受けていることは明白である。先行することばを引き受けて、あらためて「無数の叫び」と「無数」が繰り返される。
 「の」は渋沢の「直列の詩学」の象徴でもある。「の」に先行するエネルギーが「の」を経由することで次のイメージに強く結びつき、新しいことばを遠く深く(あるいは高くでもいいけれど)へと押し進める。
 最後の2行。

たくさんの剥離と目覚めのうずまくなかをどこまでも
空と海との刺し交(ちが)えの苦しげな恍惚の擾乱のなかをどこまでも

 もう息継ぎの必要はない。ただひたすらことばを直列させ、エネルギーをしたたらせるだけである。
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萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その4

2006-04-25 14:04:55 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その4。

 「ホッチキス」は『セルロイド界隈』のなかでもっとも自然で無理がない。ここにはつくられた抒情がない。ただ読者の想像力をくすぐることばの戯れだけかある。

なんの
関係で
ホッチキス
するのか
ももいろか
きいろか
大型か
グアバリと

がるのかあ

みなもと
橋かけるでしょ

かますのですね
まあ
ひとつその
交接
咬ませて
ください


尖頭
とがって
よろしくホッチキス
火照っしまって
てかてか
しますね
もしもし
そちらへ

がってもいいですか

 「股/がる」「かます」「咬ませ」る。そうしたことばが連想させるものを連想させるままにしておく。何もつけくわえない。抒情をつけくわえない。そのとき、つけくわえられていないものを読者は自分の体の中へ探しに行く。その探しに行く肉体が萩原と読者のあいだで共有される。
 そこにこそ「詩」がある。
 「もしもし/そちらへ/股/がってもいいですか」というのは、とぼけていていい。「もしもし」の使い方は最高にいい。ちょっと現実につかってみたい気持ちになるではないか。

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萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その3

2006-04-24 13:28:53 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その3。

 「月の汁」。私はこの作品の前半の1-3連が好きだ。

うどん屋の女房は
眉間に三日月の傷をつけて
のれんの下に立っている

煮立てすぎた
うどん玉
白い手に
湯が
はしる

熱い
と思うのですが
じゃこ
けずりぶし
こんぶ
北海と日本海の月
とりまぜて

 特に3連目の「熱い」がいい。うどんをさばくうどん屋の女房の手を見ている。そのうごきに萩原の肉体が重なる。湯が手に走る。そのとき熱いのは萩原ではなくうどん屋の女房である。しかし、萩原は「熱い」と瞬間的に思う。女房の手が萩原の体だからである。こういう一体感は美しい。
 一体感があるからこそ、それにつづく「じゃこ/けずりぶし……」がほんとうにうまそうに見えてくる。うまいものをつくってくれているのだと感じる。
 ところが、その後が、どうにも気に食わない。うまいはずのうどんが一気にまずくなる。

片ちんばの箸で
ゆっくりと
すすってください

玉つなぎの隙間に
満月をみて
湯気ごしに
振り返れば 十六夜の鳥居
くろい雀が
か細い小骨を
身いっぱいひろげて飛びたつ
うどん屋は
てんぷらを揚げている
いく筋かは
五指にからまって
頭髪 何本とじましょか

 うどん屋の、ちょっとうらびれた感じを表現したいのだろう。ちょっとうらびれたものに「抒情」を込めたいのだろう。こうした作為がうどんをまずくする。「熱い」からはじまったうどんのおいしさが、一気にまずくなる。食欲をそそらなくなる。
 「片ちんばの箸」というような、今はだれも書かないようなことばを選んだことがまず間違っている。萩原は古い時代の色を出したくて(抒情をかきたてたくて)、わざとそうしたことばを選んだのだろうが、そうした不揃いの箸でうどんを食べるとするなら、「ゆっくりと/すす」ることはないだろう。一気にがつがつとかきこむ。4連目から萩原のことばは肉体を離れる。事実を離れる。
 「玉つなぎの隙間に」からはじまる5連目は、特にひどい。「満月」の2行先には「十六夜」が出てくる。おい、いったい、どっちだ。まさか2晩足掛けでうどんをくっているわけではないだろう。「満月をみて/湯気ごしに/振り返れば」というのがうどん屋の状況としてどういうことなのかわからないし、だれが振り返るのかもわからない。それにつづく「くろい雀」がいったいどこから「飛びたつ」のか、それもわからない。だいたい満月(十六夜でもいいが)の夜に雀がどこにいるのだろうか。雀は夜になれば人の目から姿を消すものである。
 「熱い」とうどん屋の女房に肉体として一体化しながら、その後、うどん屋がてんぷらを揚げながら、そこに髪の毛も混じっている、と描写する神経もわからない。

 しかし、最後の2連が、また不思議な展開をする。

膝がかゆい
細長い脚に
早い風が すぎていく

外套の胸
かきあげても
まだまだ
冬ごと
お汁のなかにいる

 「膝がかゆい」はやはりうどん屋の女房の膝のことであろう。ここでも萩原は女房の体と一体化している。うどん屋の、足元を冷たい風、速い風が吹きすぎていく。その冷たさを、女房といっしょに感じながら、女房のつくってくれるうどんをすする。その一種の幸福感が、うどん屋を出て、「外套」(これはまた古くさいことばである)の胸をかきあげても残っている。というか、外の寒さを痛感すればするほど、こころは、あつあつのうどんの汁のなかにいる。

 肉体が感じたものと、頭で書きたいと願っているものが、萩原の詩では奇妙に分離している。その分離は「満月」と「十六夜」に似ている。そのふたつは肉眼で見るかぎりはそっくりである。差がない。しかし「満月」「十六夜」と書いてしまった瞬間から、頭のなかでははっきりと区別されるものになる。この違いが、『セルロイド界隈』のころの萩原には認識されていない。
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萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その2

2006-04-23 22:42:46 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』再読その2。

 萩原の文体は主語が乱れる。主語が揺らぐ。実景からことばが始まるのではなく、抒情からことばが動きだし、実景を呼び寄せようとするからである。「水舞台」の冒頭の6行を読む。

網の目のような運河が
黒い顔
見せている
河であるのにそれは
水を漲った
遠景の劇場に見える

 3行は「見せている」の主語は運河。6行目「見える」の主語は「わたし」。もし、4行目以下も「運河」を主語とするなら「遠景の劇場に見える」は「遠景の劇場に似る」あるいは「なる」となるかもしれない。しかし、萩原は主語を統一しない。わざと揺らがせるのではなく、たぶん、主語が揺らいでいることを萩原は意識できないのだと思う。
 この主語の揺らぎは、「黒い顔/見せている」の助詞「を」の省略と重なる。助詞は主語と述語を強く結びつける。もし「を」ではなく、「に」だったらどうなるか。6行目と同じように「見える」という動詞がくるはずである。そして、この作品の場合、「黒い顔(に)/見える」だと不都合なことがあるかといえば、私には不都合なことがあるとは思えない。しかし萩原は「(に)見える」という構文を拒む。
 なぜか。
 単に「見せている」という表現をつかいたいからだ。
 これは何を意味するだろうか。萩原は実感ではなく頭で最初の3行を書いたということを意味すると思う。まず書きたいことば「見せている」があって、それにあうように情景を選択したのである。
 もちろん、そうした詩の書き方があっていい。それはそれでひとつのことばの運動のありかたである。しかし、もしそれを選んだのなら、その構文をつらぬかなければならない。その点が『セルロイド界隈』が徹底されていない。

 思うに、この詩では3行目の「見せている」が決定的に無理がある。頭で書いた無理がそこに噴出している。
 萩原の詩は、まず、抒情がある。それにあわせて情景を呼び込む。ということは、常に「私」が存在していなければならない。「黒い顔(を)/見せている」というような「私」を主語にすると成り立たない構文は、基本的に萩原の文体には合致しない。頭で書いているがゆえに、萩原のことばは、その後遺症のようなものをひきずってしまう。
 2連目を引用する。

橋上を過ぎる
電車
まっくろのガラスに
幼い目が貼り付いている
水舞台では
単調な浮沈劇がつづいている
私の目が
分厚い窓を突き破り
瞳ごと飛び込む
瞳ごと煮こごる

 いま、萩原は橋の上を通る電車に乗っている。そして車窓から「水舞台」を見ている。しかし、そこに実際に「水舞台」があるわけではなく、それは幼い萩原が見た「水舞台」であり、萩原はそれを思い出している、というのがこの作品の意識の構造である。
 萩原が描いているのは「思い出す私」である。抒情を思い出す私、が作品を貫く私であるといえるかもしれない。思い出がテーマではなく、思い出す私の抒情性、私はこんなに抒情的な人間ですという主張がテーマである。
 私の抒情性を前面に出そうとするからこそ、「街の鬼」の硬貨はどきりとする音ではなく「かすか」な音でなければならなかった。この作品でも、最後は事実ではなく「抒情」をいっそう「抒情的」に盛り上げることばが呼び寄せられる。

そして
薄い夜具の中
植物や虫たちの生命を育む
雨の夜も
布団は
溺れるように水を飲み
吐きながら
胸を
濡らしていく

 この作品で絵か描かれている「台風」(引用を省いた部分に出てくる)と「水舞台」の関係が私にはよくわからないが、「水舞台」というのはたぶん、台風が襲ったときに床上浸水か何かが起き、萩原も祖母や兄弟たちと水に浮かんで浮き沈みしたということだろう。その記憶をそう呼んでいるのだろう。そのときもちろん布団も水浸しになった。布団はすぐにはかわかない。水を奥深くにしまいこんで湿っぽい。その布団で眠る。気持ちがいいものではない。しかし、それを気持ちが悪い、思い出したくない、ではなく「胸を/濡らしていく」と悲しみの抒情にしてしまう。
 こうした抒情の操作は、私には、とてもつらく感じられる。

 頭で呼び寄せた抒情の風景。それは頭で説明するしかないときがある。そのときがもっとも詩が破綻するときである。「半ズボンの夜」。その3連目。

右へいっても、左へいっても
行方を求めていないのだから同じ。
小銭をもらって部屋をでる。
赤ら顔の主人がけげんそうに見るのもわかる。
四つのこどもが、親を残して
夕暮れの花街へと、くりだすのだから。

 「赤ら顔の主人がけげんそうに見るのもわかる。」がなんともいえず、いやらしく、うさんくさい。もちろん4歳のこどもの感受性は敏感だから「赤ら顔の主人」の目つきが何を見ているかはわかるに決まっている。しかし、そうしたとき4歳のこどもは「赤ら顔の主人」が何を見ているか(彼の頭のなかで何が生じているか)がわかる以上に、もっと切ない感情で一杯になる。いやだよ、哀しいよ、泣きたいよ、でも泣いちゃいけないんだ。そんな、ことばにならない思いをたぐりよせなければ文学の意味はない。「四つのこどもが、親を残して/夕暮れの花街へと、くりだすのだから。」では情景ですらない。説明でしかない。

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萩原健次郎『セルロイド界隈』再読

2006-04-22 15:12:54 | 詩集
 萩原健次郎『セルロイド界隈』(書肆ガルシア)再読。
 「街の鬼」が読みやすい。唯一、この詩集で明快な作品だ。しかし、明快で読みやすいといっても、とても奇妙な部分がある。

かけていくと子供たちは
抒景になっていく。
小走りの鬼は、いまごろ銭湯あたりか、
牛乳屋のあたりか、それともうどん屋あたりか、
鬼が唯一の親なら逃走する子供たちは
ひとしく抒景の子である。

走る
走る、走る鬼。

車輪に磨かれた市電の線路が
息をつまらせ黄変したポプラが
煤けた工場の巨大な八本煙突が

分解写真のように
ギクシャクして、上下に揺れる。

 描かれているのは1960年代の街である。鬼ごっこの子供の動きにしたがって街が描写される。銭湯があり、牛乳屋がある。市電電車があり、工場の煙突がある。子供の遊び場と、そうしたものがひとつの街に共存した時代である。
 この作品が読みやすく感じるのは、街の描写と子供の走る動きが重なるからだ。

 ところが、いま引用した最後の2行目あたりから様子が変わってくる。読みにくくなる。実景ではなくなってくるからだ。もちろん1960年代の街だから実景ではない、記憶なのだが、記憶であっても実景として描くのが文学である。(というのが、普通である。)しかし、萩原は実景として描かない。記憶として描く。記憶している、という点に重きがおかれる。
 「分解写真のように」という比喩がそれを明確に語っている。鬼ごっこの子供は、走るときに見える街を「分解写真のように」はけっして見つめはしない。
 「かけていくと子供たちは/抒景になっていく。」という書き出しからすでに記憶ではあるのだから、より正確には、記憶の中でさらに記憶が生まれる。たぶん、この二重構造(あるいは多層構造)が萩原のことばの動きの特徴である。
 記憶が多層構造を持ち始めたことは、次の第4連ではっきりする。街の描写に子供の視線以外のものが入り始める。

とりのこされた
小さな空き地
雑草のあいだで2B弾が、
幼い動物たちを犠牲にして炸裂したって
逃走する義務のあるものは
ふり向かず
かけていかなければならない。

 「……したって、……しなければならない」。これは実景ではない。鬼から逃げる子供が「……しなければならない」というようなことを考えるとしたら、ただ単に「鬼に捕まらないようにしなければならない」というだけである。それ以外のことは鬼ごっこをしている子供には考える必要がない。「鬼」の立場から見れば、彼らはただただ逃げていくだけである。それを追いかけるだけである。鬼が追いかけるのだから、鬼以外は「……しなければならない」というようなことを考えながら遊ぶことはない。
 萩原が書いていることは、子供の視点で見た風景ではない。子供時代を過ぎ去って、あとから大人が考え出した論理である。感情である。したがって、そこでは感情(思い)が風景を決定している。風景が感情(思い)を決定しているのではない。
 『セルロイド界隈』はいかがわしい詩集である。うさんくさい詩集である。そこが魅力的な部分だが、いかがわしさ、うさんくささの原因はここにある。
 萩原のことばは、まず実景(存在)があり、それに触れて詩人(人間)の感情が動くのではなく、動かしたい感情があって、それにあわせて風景を選択している。萩原が詩制作当時(1984-1985年)の時代の街ではなく、記憶の街を題材に選んだ理由もそこにある。記憶の時代、記憶の街なら、風景の選択は現代よりも自由である。(と、萩原に見えたのだと思う。)
 このあとは、もっと街の実景が選択的になる。実際に子供が見たものというより、その詩を書いた時代に萩原が思い出したがったものが描かれる。

職業安定所の前
ポプラの下のわずかな土の上に
いつものアルコール死人が
あたたかい平穏な表情で横たわっている。
死人のズボンからこぼれ出た硬貨は
ざっと見積って、百二十円。

たぶん酒で死んでいるのだろう。
生活で死んでいるのではない。

それぐらいは、わかっている。

 この「それぐらいは、わかっている。」がまた非常にうさんくさい。こうしたことが「わかる」のは子供ではない。また一個人の大人ではない。「街」そのものがわかるのである。「街」として、そういう生活、そういう人がいることが人が大勢いる、いっしょに生活している街のあり方だ、それが「村」とは違うことだ、と街としてわかることがらである。
 萩原は、ここでは個人の記憶をすら語っていない。街の記憶を語っている。それはつまり、一種の宣伝である。だから、うさんくさい。
 萩原は、しかし、非常に巧妙である。このうさんくささを、とても美しいものに変えてしまう。変えてしまって詩を閉じる。

その固く閉じた瞳をのぞくようにして
素早く小銭を拾う。

それぐらいは、わかっている。

(略)

鬼が戻った路地に
轟音だけが、
ガラガラ、ガラッと
反響している。

そのとき、
ポケットの中の十円硬貨も
かすかに、鳴った。

 この作品のなかの「鬼」は萩原であった。萩原は鬼ごっこの鬼をしながら酒に酔いつぶれている人がこぼした硬貨をくすねたことがあった。そんなふうに自己反省してみせる。これが私には、またうさんくさく見える。反省がうそっぽく見える。そんな反省などしてみせなくてもいいじゃないかと思う。だいたい、他人の金をくすねるようなことをしたとき、その硬貨が「かすかに、鳴った」と子供は思うだろうか。その音はどんなに小さくても、路地の轟音「ガラガラ、ガラッ」により大きく耳に響くはずだ。ほんとうに「かすかに」しか聞こえなかったのだとしたら、途中にでてくる「それぐらいは、わかっている」という表現そのままに、大変なすれっからしである。
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竹田朔歩『軽業師のように直角に覚めて』

2006-04-21 22:46:59 | 詩集
 竹田朔歩『軽業師のように直角に覚めて』(思潮社)。
 書き出しに魅力的なことばがたくさん登場する。

寒雲が
灰色の石の空から
かすかに顔のかけらをのぞかせて
しずかに鼓動する  (「冬の別れ」)

拡がっていく大気の皮膚を震わすのは
陽差しあたたかいアルトの声に揺れている向日葵の群れ
           (「しなやかに奔る」)

ゆさゆさ 空をゆする欅の大樹よ
おまえは元気でやっているか
風にめくられる澄んだ青空が大樹の葉陰にみえかくれする
          (「精霊の家」)

 しかし、この魅力的なことばが持続しない。まったく違ったものへと変質していく。ことばが肉体とのつながりをなくして、堅苦しい論理にかわってしまう。なぜなんだろうか。
 「眠りの流域」まで読み進んだとき、ふと、気がついたことがある。

レム睡眠から
巻き上がってくる気流の蔓

 「レム睡眠」。これは肉体のことばではない。肉体が見つけ出したことばではなく、頭が見つけ出したことばである。もちろん頭が見つけ出したことばにも、ことばの力はあるし、それなりの運動がある。しかし、私には、竹田の場合、そのことばがうまく働いていないように感じられる。
 竹田のことばは、肉体が見つけ出したものが動きだそうとして、動きだせない。頭が見つけ出したことばが肉体のことばを動かしていこうとして、ふたつの運動の間に亀裂が入ってしまっている。そんな感じがする。
 たとえば表題作の「軽業師のように直角に覚めて」。

みひらく眼が
見果てぬ街をさまよいあるいていく
風景のなかの一本の橋上にたどりつく

 ここまでは魅力的だ。「風景のなかの一本の橋上」は抽象的であるけれど、抽象的であるがゆえに、その橋に視線が吸いよせられていく。橋をもって見たいと思う。そうした私のこころを知っているかのように、橋そのものの描写が始まる。

短くもなく長くもなく生命の肉化したかたちが細々と横たわる
真夜中の橋
焦燥と苦悩でどろどろになって
ただれている脳の眼が一切顛倒している

 「脳の眼」ということばが象徴的だ。そこではもう肉眼は何も見ていない。焦燥も苦悩も肉眼では見ていない。肉体では感じていない。ただ「脳=頭」が見ている。
 たぶん、竹田には、「脳の眼」と「肉体の眼」が見ているものの区別がつかないのだと思う。区別がつかないけれども、区別がつかないということは少しは感じているように思える。そこに竹田の詩の「救い」のようなものがある。
 「脳の眼」が「肉眼」をすり抜けて存在を見てしまう、存在ときりむすび、ことばになってしまうことを竹田は少しは自覚している。それは次の行からわかる。同じ「軽業師のように……」の3連目。

純粋に言葉を発すること
そんなことは知りつくしていることなのに
どうして自己の内部に逸れていくのか
どうしてペルソナを剥奪しないのか

 知っていても(自覚していても)、それを実現できないことがある。むしろ知っているからこそ実現できないこともある。知ってしまっていることを、それがなかったことにするのは仮面を脱ぎ捨てるような具合にはいかない。
 竹田が書いているように、自分の内部に逃れていくことは簡単だ。自分の頭のなかに逃れていくことは簡単だ。難しいのは、自分の肉体の外へ肉体そのものが出ていくことだ。そのことを竹田は少し感じ始めている。
 次の詩集で竹田はどんなふうに変わるだろう。きっと変わるだろう。そう祈りながら詩集を読み終えた。
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豊原清明「コウモリが住むニートの木」

2006-04-20 23:50:42 | 詩集
 豊原清明「コウモリが住むニートの木」(「SPACE」67)があいかわらず不思議だ。1行目。

木はぴんぴんとして存在する

 この1行だけで私は楽しくなる。突然、木が見えてくる。今は春なので、花びらが散ってしまったあとの辛夷の木、葉桜、淫らな八重桜、光を反射している木が見えてくる。あ、あの木もどの木も「ぴんぴんとして存在する」のか、と思う。いや、違うな。木ではなくて、本当は私の体のなかで「ぴんぴん」としてくるものを感じる。私自身が「ぴんぴんとして存在する」と感じ始める。
 描かれた木のあり方に共感するのではなく、木をそんなふうに描く豊原に直接共感してしまう。
 「ことばの垣根」というと変かもしれないが、そういうものを一気に吹き飛ばしてしまう何かが豊原にはある。ことばを生成させなおす力がどこかにある。「ぴんぴんとして存在する」ということば、その「ぴんぴんとして」と「存在する」はともにすでにだれにでもなじみのあることばだが、そういうことばの結びつき(使い方)はだれもがするものではない。むしろ、そういう使い方をしない。だから、そうしたことばに出会った瞬間、普通は、「乱れ」を感じる。ところが豊原の場合、「乱れ」としてではなく、何か新しいものがあふれてくる感じがする。あふれるものがあるから「乱れ」が浮き立たない。まるで、岩を乗り越えて流れていく水のように、ことばの表面がつやつやと光り、輝く。そして、その輝きには、当然のことながら太陽の光の届かない暗い部分もあって、その黒が水の反射をいっそうつややかにするような感じだ。

木はぴんぴんとして存在する
しかし時代は「成長」を認めない
混沌の世の中は尻尾を
ちょん切られた狐みたいに軽く
虚しい渦の中の仕事
手元が滑って白球が
校長先生の股間に当った時
微笑してボールを
返してくれた
あの姿が
かげろうの中で
くろくろしている

 このことばの動きは制御できない。そこが、とてもいい。他人のことばを制御できないのはあたりまえだが、私のいう「制御」とはことばの動きをあらかじめ推測し、安心してみつめる、というくらいの意味だ。豊原のことばの動きは推測できない。そして、推測できないものなのに、その動きは何の不安も呼び起こさない。つやつやしていて美しい、という印象を呼び起こす。

 豊原の詩と比較して申し訳ないが、同じ号の萱野笛子「五丁目電停札所」。この作品の、たとえば次の部分に私は惹かれた。

レジのところにたいがい文月さんがいた
文月さんと言うより文月さんの笑顔がいた

 情景がくっきり見える。萱野と文月さんとの関係も見える。そういう的確で美しい描写だと思う。しかし、魅力的なのは、やはり豊原のことばの動きの方である。
 何が違うのか。
 豊原のことばが世界を破っていくのに対し、萱野のことばは世界を修復していく。その違いだと思う。豊原のことばは、世界を破ることが唯一世界を修復する方法だと、体の奥の奥の方で確信している。そう感じる。
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丁海玉「ゆうごはん」

2006-04-19 11:23:18 | 詩集
 丁海玉「ゆうごはん」(「ドードー」11号)が奇妙に気にかかる。

きょう
あなたはけいわしょいきです、と
男につうやくした裁判所からの
かえりみち
デパ地下に寄って
かつおのタタキを買ってから
ホームの電車に飛び乗った

一人分あいている席に尻をねじ込み
携帯電話をマナーモードにかえる
きょうの人は
けいむしょいきを聞いても
あんがい平気だったな
膝の上のビニール袋が
刺身用の氷でつめたい
かつおは
たまねぎをいっぱい
スライスして食べよう

 日常(かつおのタタキを買う、など)と非日常(あなたはけいむしょいきです)の組み合わせ、その表記の仕方が、何か意識を揺さぶる。「けいむしょ」「つうやく」など普通は漢字で表記することばがひらがなで書かれている。ひらがなで書かれることによって、何か、それが現実感のないものになって浮き上がってくる。丁にとって、それは現実感がないもの、単にことばとしてのみ存在するものかもしれない。それを現実として受け入れたくないという意識が働いているのかもしれない。「けいむしょいき」と聞いても男は平気だった。それは「あんがい」のことだった。「あんがい」であってほしくない、という気持ちが丁にはあるのだろう。
 3連目は次のようにつづく。

家についてすぐに米をあらう
はんせいしています
にどとしません
の、男のことばは
ざくざく
米のとぎ汁に流れていく
炊飯ジャーのスイッチを入れた
赤いボタンがひかりはじめる

 「はんせいしています/にどとしません」。その男のことばも丁には現実感のあるもの、真実味のあるものとして響いてこなかったということかもしれない。(刑務所へ行くことに平気な人間が簡単に反省のことばを述べるとしたら、それは嘘ということだろう。)あるいは、そういうものを丁自身の現実にはしたくなかったのかもしれない。そういう心理が働いているのかもしれない。
 「つうやく」というのは丁にとって仕事か、ボランティアか、いずれかわからないけれど、そういう仕事をしながら、ことばを「つうやく」としてつかうのではなく、違うものとしてつかいたい(たとえば、詩をかくことに)、という思いもそこには含まれているだろう。
 ちょっと切ない、いや、かなり切ない気持ちになってしまう。
 丁のことばは、たしかに「実務」ではなく「文学」「詩」の形でも美しく動く。たとえば「膝の上のビニール袋が/刺身用の氷でつめたい」という2行はとても美しい。「けいむしょいきです」というようなことばを「つうやく」してきたこころにとって、肉体の方から覚醒させるような、現実感のあることばがほしい、という気持ちが働いているのだと思う。そうした肉体とこころの交差する姿が、とても自然に、だれにでもわかるように鮮明に描かれている。
 この2行は、何度も何度も繰り返して読みたいという気持ちになってくる。電車に乗って、膝の上の氷のつめたさを感じたい、いま、これが、これこそが現実なのだと感じたい、それ以外はすべて遠い世界だと感じたい……。そんな気持ちになってくる。

 ひとこと苦言。3連目の1行。「米をあらう」。このことばには違和感を覚える。米は洗うものではなく、研ぐものである。(したがって「ざくざく」という音も、研ぐにはふさわしくない、と私は感じる。)丁はもしかすると日本語が母国語ではないのかもしれない。しかし、「膝の上のビニール袋が/刺身用の氷でつめたい」というような美しい表現ができるのだから、細部にも気を配ってもらいたい。

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『渋沢孝輔全詩集を読む。(6)

2006-04-18 13:54:28 | 詩集

 『漆あるいは水晶狂い』(1969) 。巻末は「水晶狂い」。この作品にも不思議な「直列」がある。「弾道学」とは別の形をとった「直列」がある。

巌に花 しずかな狂い
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない水草の周辺を
誕生と出逢いの肉に変えている
物狂いも思う筋目の
あれば 巌に花 しずかな狂い
そしてついにゼロもなく
群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる
この比喩の渦状星雲は
かつてもいまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か

 「物狂いも思う筋目の/あれば 巌に花 しずかな狂い」。「あれば」は「弾道学」の「叫ぶことは易しい叫びに」のことばの結びつきとは逆に「分断」されている。分断によって、渋沢は「物狂い」「思う筋目」「巌に花」「しずかな狂い」が同等のエネルギーとして「直列」していることを提示している。直列されたそれぞれのエネルギーには差異はない。
 あるいは、こういうべきなのか。
 直列される存在が、わざと分断され、それぞれのエネルギーを強調する。明晰にする。「弾道学」では直列は隠す形(「けれども、その」の省略)によって示されたが、ここでは直列されたものを、あらためて並列を装ってみせている。「弾道学」が「隠蔽された直列」であるなら「水晶狂い」は「偽装された並列」である。
 「並列」の偽装。これは存在を明晰にするための、渋沢の方法である。
 「群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる/この比喩の渦状星雲は」は意味的には「群りよせる水晶凝視だ/深みにひかるこの比喩の渦状星雲は」だろう。しかし、渋沢がそう書かないのは、後者の場合は単なる並列になってしまうからだ。「偽装」が消えてしまう。その結果「この比喩の渦状星雲は」のインパクトが弱くなる。インパクトが弱くなった分だけ「詩」が遠ざかる。
 ことば、そんざいの強調、そのために直列を分断し、並列を偽装する。あるいは可能性を示す。それは「金輪際」を「金輪の際」と書くところにもあらわれている。「金輪際」とひとつにして認識することが一般的なもの(隠蔽された直列)を「金輪」の「際」と分断し、偽装の並列も可能だと暗示させる。

 この詩のもっとも複雑なところは

この比喩の渦状星雲は
かつてもいまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か

だろう。この5行には「大いなる省略」がある。「弾道学」の「けれども、その」のように単純に省略されているものが見えてこない。
 「この比喩の渦状星雲は」いったい何を「否定している」のか。その何をが省略されている。そして、その省略に「詩」がある。渋沢の肉体のなかで完全に認識され、ことばにする必要を感じていないことば、渋沢だけのことばがある。
 何を否定しているか。
 存在してしまったことば、意味になってしまったことば、そのすべてである。一語ではあらわせない。だから省略する。完全に省略してしまう。存在してしまったことば、意味になってしまったことばは無数にある。
 すべての存在してしまったことば、意味になってしまったことば。その否定。それは、ある意味では「狂気」だろう。そうしたことを渋沢は予感している。実感している。だからこそ、「水晶狂い」は次のように書き出されなければならなかった。(先に引用した部分には先行する7行がある。)

ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来りつつある水晶を生きようとしているのか
痛いきらめき
ひとつの叫びがいま滑りおち無に入ってゆく
無はかれの怯懦が構えた檻

 ここに否定されていないものがひとつ出てくる。「無」。そしてこの場合「怯懦」はもちろん、逆説である。「無」へ入っていけるものは強靱でなくてはならない。「無」とはその後の詩の展開に出てくる「この比喩の渦状星雲」がくりひろげる世界そのものだからである。そこには何もないのではない。あらゆるものが「直列」をめざして、繋がりをもとめせめぎ合っている。新しいエネルギーにかわろうとしている。「出逢い」と「誕生」をもとめて、うごめき回っている。疾走している。そこに存在するものは「明晰」すぎて目ではとらえられない。「スピード」ありすぎてことばではとらえられない。

 「水晶狂い」の最後の6行。

いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生のことばの意味を否定することはだれにもできない
痛いきらめき 巌に花もあり そして
来りつつある網目の世界の 臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ 水晶狂いだ

 「否定している」ものは省略された。だが「否定することのできないもの」は省略されていない。「未生のことばの意味」。これが「詩」だ。「未生のことば」が「詩」である、といった方がいいかもしれない。
 渋沢は「未生のことば」を書く。そしてその方法が「直列の詩学」である。渋沢はこの詩集で方法とテーマを確立したのだと思う。

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小網恵子『浅い緑、深い緑』

2006-04-17 22:16:42 | 詩集
 小網恵子『浅い緑、深い緑』(水仁社)。
 「呼吸」「息」ということばが何度か出てくる。小網の詩は何かと呼吸をあわせること、同じ呼吸をする世界を描いている。「月夜」という作品の全行。

取り込み忘れた毛布が月の光を浴びている
湿り気がわずかにあって
毛羽立った奥まで光が染み渡っている

毛布を抱いて眠ると
草原が広がってくる

青白くざわめいて
胸元まで寄せてくる草
呼ばれているようで
じっとしていると
呼吸が緩やかになる
月が身体をくまなく照らす
いつ息を吸っているのか 吐いているのか…
草の呼吸になっている

突然 肩先から蟷螂が跳ぶ
割り箸のような後ろ肢が視界から消える
その跳躍で私は揺れ続ける
やっとおさまると
地面を蹴る小刻みな足音
私の根元を野うさぎが走り抜ける

その呼吸さえわかれば
蟷螂にも
野うさぎにもなれる
草原を飛び出すこともできる

 「草の呼吸になっている」とは、小網自身が草になることだ。草になってしまっているからこそ「突然 肩先から蟷螂が跳ぶ」ということがおきる。「突然」はこのとき「当然」と同じ意味を持つ。
 最終連の「その呼吸さえわかれば」の「その」は「蟷螂の」「野うさぎの」という意味である。
 日本語には「呼吸があう」という表現がある。「息があう」という表現がある。何かと一体になる、という意味である。小網の詩には、その「呼吸があう」という肉体的な運動がしっかりと定着している。
 この作品では、そうした「意味」とは別に、3連目の「呼ばれているようで」にひどくこころが動かされた。「呼ばれている」のなかにある「呼吸」の「呼」。だからというわけではないが、何が何を呼んでいるかというと、「草の呼吸」が「小網の呼吸」を呼んでいる、と感じる。そして何よりも、それが自然に感じられるのは、それが断定ではなく「ようで」と憶測で書かれている点だ。「感じ」として書かれている点だ。
 「呼吸があう」「息があう」というのは、計測しようとして計測できるものではない。ただ肉体をとおして「感じる」ものである。小網は、この「感じ」を大切にしている。その大切にする気持ちがとても静かでおだやかだ。

 小網のことばは日本語の呼吸がとても深い。深いところで呼吸している。「真夜中の井戸」の第1連。

荒い息をしながら井戸に近寄る男がいる。石造りの井戸の縁につかまり釣瓶を下ろす。水を迎えにいく。力を振り絞って滑車を引くと漲った水が上がってくる。水の面に星々がゆらめいている。桶の水を飲み干す。昼間照りつける太陽のもとで家の土台の石を運ぶ。それが男の仕事。汗が噴出し、夜になっても喉が渇く。身体の推量が少なくなっている。身の内の魚が動かなくなっているのでそれと分かる。

 「水を迎えにいく」。この文章にこころを奪われた。「迎え」のなかには「歓迎」が含まれている。ただ単にゆくのではなく、「むかえに」いく。そこに、おのずとこころがあらわれている。だれのこころか。男の肉体のこころ、男の「身の内の魚」のこころである。「身の内の」が肉体をしっかりととらえている。
 「呼吸をあわせる」「息をあわせる」とは精神的な意味合いが大きいが、小網の場合は、それは精神というより、まず肉体としての呼吸、息である。呼吸、息が肉体を感じさせるものだからこそ、「真夜中の井戸」をはじめとする散文形の詩、内容が「身内の魚」のように現実を超越している詩においても、ことばが自然に肉体に迫ってくる。
 肉体の広がりを備えたいい詩集だと思った。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(5)

2006-04-16 11:34:40 | 詩集
 『漆あるいは水晶狂い』(1969)。巻頭の「弾道学」で渋沢が確立したのは「直列の詩学」である。「直列」というのは電池のつなぎ方の「直列」である。

叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難かしい

 この2行は「易しい」と「難しい」の対比に見えるが、そうではなく緊密な結びつき、絶対に切り離すことのできないつながりにあることは15日の文章に書いた。「けれども、その」という緊密な結びつき、逆説を経由しながらさらに緊密になる結びつきがそこには隠されている。この緊密な結びつきを私は「直列」の結びつきと呼びたい。

凍原から滑り落ちるわるい笑い
わるい波わるい泡
波さわぐ海のうえの半睡の島
遙かなる島 半分の島 半影の島
喉につかえるわるい沈黙
猫撫で声のわるい呪い
血の平面天体図をめぐるわるい炎

 これらの行は、そして並列ではなく、直列を求めて動き回る精神の軌跡なのだ。反復、往復は、よりよい直列を求めて動く精神の模索である。精神の模索を、渋沢はそのままことばとして残す。模索を省略して端的な直列の素材だけを提示したのでは世界は描けない。並列に見える「わるい」の繰り返しは、いわば、直列を求めてのたうちまわる長い長いコードなのである。
 そして、長い長い経路の果てに渋沢が見つけるものは、それまで並列の形で並べてきたものとは断絶したもの、飛躍したものである。詩は、次のようにつづく。

きみは鋏のように引きちぎられて
わたしの
錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく
おまえはだれ鬼はだれわるいだれ
でもその木霊をすこしかしてくれ

 唐突に登場する「きみ」と「鋏」。「鋏」は「半睡」「半分」「半影」と「は」という頭韻を踏む。同時に「は」は「わるい」の「わ」とどこかで通い合う。(日本語の「は」は冒頭以外では「わ」と読まれることが多い。助詞の「は」、あるいは「は行」五段活用動詞の「は」。)その通い合うものと通い合わないものの「ずれ」。それをつくりだすのが、たとえば「鋏」だ。
 15日に、「アルミ製の筒花」が何であるかわからないと私は書いたが、「鋏」については私なりに推測ができる。渋沢のことばとわたしのことばの間に通路をつくることができる。もちろんこの通路は私がかってにつくりあげたもので渋沢の「肉体」の本質とは関係ないかもしれない。しかし、肉体に触るということは、基本的にそういう接触だろう。全体には触れない。触ったと感じた部分を肉体と思うしかない。
 この唐突な「鋏」の登場のあとで、直列の配置を呼び戻す「その」が繰り返される。
「錠前がその闇のなかで静かに眠ることもなく」の「その」は何を指しているか。「でもその木霊をすこしかしてくれ」の「その」は何を指しているか。本当のところは渋沢にもわからないかもしれない。読者には(少なくとも私には)さっぱりわからない。「その闇」の「その」は「鋏が引きちぎられて」できた闇かもしれないが、そんな闇など誰も知らない。そんな闇はことばのなかだけにしかない比喩にすぎない。だからこそ、私は思うのだが、ここで大切なのは「その」が何を指し示すかではない。「その」が引き起こす運動である。「その」は先行して発せられたことばを指し示す指示代名詞である。「その」というとき、ことばは、それ以前へ引き返す。引き返し、結びつけ、そして先へと進む。これが渋沢のことばの運動、精神の運動だ。
 「直列」は「並列」と比べてエネルギーが巨大だ。巨大なエネルギーを得たあと、ことばは大きく飛躍する。詩はさらにつづく。

わたしの中心の燃える円周となれ
涜神の言葉となってはじける歌
狂暴なサヴァンナで
有毒の花 癲癇の朝 首刎ねられる太陽の歌
         (「涜神」の「とく」は本文は旧字体)

 この行に「意味」はない。ここに何かを、つまり渋沢の思想や感情、訴えを読み取ろうとしても何もつかみ取ることはできない。ここにあるのは直列によってつくりだされたことばの光である。それは強烈な太陽のように、読むものの網膜を焼き尽くす。つまり、読者がそこに「意味」を取ろうとしても、それは拒絶される。
 ここではただことばの発光、ことばの発熱を感じればいいのだ。
 「詩」は「ことばの発光」「ことばの発熱」、太陽としてのことばが「詩」なのである。渋沢は「直列の詩学」によって「太陽としてのことば」をつくりだすことに成功したのだと思う。

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