大崎二郎『幻日記』(青帖社)。
1945年 8月 6日。この忘れてはならない日のことだけを大崎二郎は書く。この忘れてはならない日は、その日一日では終わらず、今もつづいているからである。
「昿野のラッパ」(「昿」は原文は正字)の表現に従えば、大崎はいつも「そこ」(現在の場所)にいるけれど、「そこ」は存在しない。存在するのはいつも1945年8月6日の広島である。大崎にとっては1945年8月6日がいつでも「ここ」なのである。
「昿野のラッパ」は「爆心地」を探し、「爆心地」とされている食堂で思ったことを書いた詩である。私たちは普通、今、自分がいる場所を「ここ」と呼び、自分が存在していない場所を「そこ」と呼ぶ。ところが、大崎は、実は「ここ」と書いていない。「そこ」と書いている。それは大崎にとって、訪ね歩いてたどりついた食堂、現在の食堂は「そこ」でしかない。「ここ」は別なところにある。大崎にとっては、1945年8月6日という時間が刻印されてこそ、初めて「ここ」なのである。
1945年8月6日という時間の刻印が消えているとき、大崎にとって、広島は常に「そこ」である。現実ではない。1945年8月6日という時間とともにあるときにのみ、広島は「ここ」になる。この詩集には「ここ」という表現は出て来ないが、それは、そうしたことが大崎にとって自明のことであるからだ。自明でありすぎて、説明する必要がないから書かなかった。筆者にとって自明でありすぎて書き落としてしまうことばを私は「キイワード」と呼ぶが、1945年8月6日という時間が刻印された広島が「ここ」であること、それ以外は「そこ」にすぎないこと、それが大崎の「キイワード」である。
この詩集に書かれているのは記憶ではない。大崎にとっての「ここ」である。大崎はいつでも「そこ」ではなく「ここ」を描いている。
ここでは何が起きているか。同じ「昿野のラッパ」から引用する。
「故郷忘れじ難く」。自分の思いを語ることもできずに死を強いられた女性。その女性の声にならなかった声。それが「ここ」を「ここ」たらしめるものである。
「ここ」を「ここ」たらしめるものは無言の死者の声だけではない。生き残った人間の声、その瞬間に立ち会った人間の驚愕も「ここ」を「ここ」たらしめる。原爆の証言者の原民喜を描いた「渇仰」。
トンボ。トンボの青。それを見てしまう人間の不思議さ。生きていることの不思議さがそこにある。生きている、生きていくということは、人間の生(生への意志)とは無関係に存在するものを知り、そこから自分自身の生を感じ取ることである。自分が自分でなくなって、たとえば「トンボ」となって生きる可能性、ふうわりと飛んで楽しむいのちの可能性を知ることである。生きるよろこびが、そこにある。可能性を感じるこころに、生きるよろこびがある。
原爆は、そうした生きるよろこびを一瞬の内に奪いさったのである。
いのち、生きていることの不思議さを実感するからこそ、そのいのちを奪う行為に対しての怒りが生まれる。
書く。1945年8月6日の広島を「ここ」にするために書く。それが同じ時代を生き残ったものの仕事であると大崎は自覚している。そうした仕事をしている人への共感も描いている。「吃音」は、その共感を描いたものである。画家に重ね合わせて描いた大崎の自画像でもある。
1945年8月6日の広島を「ここ」にするという仕事は、たとえば「吃音」の画家や原民喜だけの力ではできない。すべての人間がしなければならない仕事である。大崎はそう自覚して、先人に大崎を重ねる。そうやって先人の仕事を引き継ぐことで、「ここ」を描く。
大崎は1945年8月6日の広島を描き、同時に現代をも描く。現代を厳しく批判する。広島原爆が一過性のものではないことを告発する。
「投下」のルビ「プッシュ」はもちろん「ブッシュ(米大統領)」への揶揄である。広島は形を変えてイラクでも展開されている。こうした現実批判があるからこそ「ここ」とは「1945年8月6日が刻印された広島」という意味が重くなる。
*
詩集中の「吃音」は非常にすばらしい作品だがあえて引用しなかった。ぜひ詩集を買って、読んでください。青帖社の住所、電話番号は
781-0251 高知市瀬戸西町1-293
tel・fax 088・841・4238
1945年 8月 6日。この忘れてはならない日のことだけを大崎二郎は書く。この忘れてはならない日は、その日一日では終わらず、今もつづいているからである。
私はそこにいるのに
そこ はもうなかった (「そこ」に原文は傍点がある)
「昿野のラッパ」(「昿」は原文は正字)の表現に従えば、大崎はいつも「そこ」(現在の場所)にいるけれど、「そこ」は存在しない。存在するのはいつも1945年8月6日の広島である。大崎にとっては1945年8月6日がいつでも「ここ」なのである。
「昿野のラッパ」は「爆心地」を探し、「爆心地」とされている食堂で思ったことを書いた詩である。私たちは普通、今、自分がいる場所を「ここ」と呼び、自分が存在していない場所を「そこ」と呼ぶ。ところが、大崎は、実は「ここ」と書いていない。「そこ」と書いている。それは大崎にとって、訪ね歩いてたどりついた食堂、現在の食堂は「そこ」でしかない。「ここ」は別なところにある。大崎にとっては、1945年8月6日という時間が刻印されてこそ、初めて「ここ」なのである。
1945年8月6日という時間の刻印が消えているとき、大崎にとって、広島は常に「そこ」である。現実ではない。1945年8月6日という時間とともにあるときにのみ、広島は「ここ」になる。この詩集には「ここ」という表現は出て来ないが、それは、そうしたことが大崎にとって自明のことであるからだ。自明でありすぎて、説明する必要がないから書かなかった。筆者にとって自明でありすぎて書き落としてしまうことばを私は「キイワード」と呼ぶが、1945年8月6日という時間が刻印された広島が「ここ」であること、それ以外は「そこ」にすぎないこと、それが大崎の「キイワード」である。
この詩集に書かれているのは記憶ではない。大崎にとっての「ここ」である。大崎はいつでも「そこ」ではなく「ここ」を描いている。
ここでは何が起きているか。同じ「昿野のラッパ」から引用する。
その女は川岸に辿りつき
黒焦げの身体を川水に漬(つば)けて冷やした
血の色の水をのみに のみ
うつ伏せに浮いて
引き潮にさらわれていった
が 再び
故郷忘れじ難く
込み潮にのり
遡ってくるのであった
「故郷忘れじ難く」。自分の思いを語ることもできずに死を強いられた女性。その女性の声にならなかった声。それが「ここ」を「ここ」たらしめるものである。
「ここ」を「ここ」たらしめるものは無言の死者の声だけではない。生き残った人間の声、その瞬間に立ち会った人間の驚愕も「ここ」を「ここ」たらしめる。原爆の証言者の原民喜を描いた「渇仰」。
精根つき果て
漸く 目に染みる青のほとりに立つ
風にのってひらひら
流れゆくトンボの影をみる
あ トンボ よ
(略)
原民喜は いままた手帖のつづきを開き
“風に流れてゆくトンボ”と書いた
悪夢(ゆめ)からさめたような新鮮な驚きであった
オブラートのようにはかないトンボの羽が
微かにふるえながら
地獄の遠景にだぶりつつ
ふうわり 空中に浮かんでいるのを見る
みていると かさかさに乾いた眼球(めだま)を
しだいに 透明な水膜が潤してひろがってゆくのである
ああ生きている
烈しい生への
渇仰であった
トンボ。トンボの青。それを見てしまう人間の不思議さ。生きていることの不思議さがそこにある。生きている、生きていくということは、人間の生(生への意志)とは無関係に存在するものを知り、そこから自分自身の生を感じ取ることである。自分が自分でなくなって、たとえば「トンボ」となって生きる可能性、ふうわりと飛んで楽しむいのちの可能性を知ることである。生きるよろこびが、そこにある。可能性を感じるこころに、生きるよろこびがある。
原爆は、そうした生きるよろこびを一瞬の内に奪いさったのである。
いのち、生きていることの不思議さを実感するからこそ、そのいのちを奪う行為に対しての怒りが生まれる。
書く。1945年8月6日の広島を「ここ」にするために書く。それが同じ時代を生き残ったものの仕事であると大崎は自覚している。そうした仕事をしている人への共感も描いている。「吃音」は、その共感を描いたものである。画家に重ね合わせて描いた大崎の自画像でもある。
1945年8月6日の広島を「ここ」にするという仕事は、たとえば「吃音」の画家や原民喜だけの力ではできない。すべての人間がしなければならない仕事である。大崎はそう自覚して、先人に大崎を重ねる。そうやって先人の仕事を引き継ぐことで、「ここ」を描く。
大崎は1945年8月6日の広島を描き、同時に現代をも描く。現代を厳しく批判する。広島原爆が一過性のものではないことを告発する。
脳と目と指は 正確に 反射運動し
悪魔の軌跡をなぞる
ぶるっと身ぶるいし
目は カッと見開いたまま
投下(プッシュ)!
「投下」のルビ「プッシュ」はもちろん「ブッシュ(米大統領)」への揶揄である。広島は形を変えてイラクでも展開されている。こうした現実批判があるからこそ「ここ」とは「1945年8月6日が刻印された広島」という意味が重くなる。
*
詩集中の「吃音」は非常にすばらしい作品だがあえて引用しなかった。ぜひ詩集を買って、読んでください。青帖社の住所、電話番号は
781-0251 高知市瀬戸西町1-293
tel・fax 088・841・4238