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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「獄中●●の木橋」

2020-12-31 17:36:57 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「獄中●●の木橋」(「飛脚」26、2020年11月03日発行)

 石毛拓郎「獄中●●の木橋」は、こうはじまる。

だが 腑に落ちない●●点もある
あの時 十三歳の少年は
哀しみの荒野にいて
それも 身ひとつで
なによりも 手ぶらであった
根雪がふる ふりつもる
木橋は揺れるように そこに見えていた
かれは その橋を渡らないことには
何も始まらないことすら わからなかった

 「●●」は何か。タイトルの●●と一行目の●●は同じものか。「一行目の」と書いたのは、この詩には●●が何度も出てくるからである。

まだ 腑に落ちない●●面もある
なぜ 凶器を使ったのか
かれは 虎の影に追いかけられ
どこへ行っても 憐憫の瓦礫が目をふさぐ
塹壕のどん底から
樹木の高みへと 逃げる術など
思いもよらなかった
狂気のせつなさ 雪がしぐれてくる
手ぶらの狂暴が 熱くささやいた

 ●●を修飾することばが同じだから、そこに同じことばが入るかどうか。同じことばを入れてみたい気がする。ことばを入れて「答え」を出したい気持ちになる。
 これが問題なのだと思う。
 私はなぜ答えを求めるのか。なぜ●●をことばとは受け止めないのか。私の知らないことばがある、ということだけで私は満足できないのか。
 「腑に落ちない」と繰り返されることばは、はたして同じか。「だが」ではじまろうが、「まだ」でひっぱりだそうが、同じことばか。そもそも「だが」と「まだ」はどう違うのか。「点」と「面」はどう違うのか。
 何もわからない。
 わからないということで、すべてのことばは●●とつながっている。
 「十三歳」も「少年」も「哀しみ」も「荒野」もわかる。わかったつもりでいる。「哀しみの荒野」ということばは「身ひとつ」とか「手ぶら」ということばと向き合って一つの精神的な情景を浮かびあがらせる。精神を感じさせる。
 だが、これだって、あやしいものだ。
 だから、私は、あらゆることを保留する。「答え」を出すことを拒絶する。
 「木橋は揺れるように そこに見えていた/かれは その橋を渡らないことには/何も始まらないことすら わからなかった」という「十三歳の少年」になりかわって発せられたことばを拒絶する。「木橋」「揺れ」「渡る」「始まる」「わからない」の意味を拒絶する。
 だが、ことばのリズムは私の肉体のなかに入ってくる。ことばを統一するリズムが、石毛の「ほんとう」として聴こえてくる。「狂気のせつなさ」ということばがあるが、どのことばも「せつない」響きを持っている。「せつない」の定義はむずかしいが、それ以外に、ことばはない、という追い詰められた感じがする。追い詰められ、追い詰められ、ことばがみつからないまま●●と書くしかなくなる。あらゆることばが●●と向き合っている。
 そこには、ほんとうはことばはないのだ。
 試してみるといい。●●をなかったこととして石毛のことばを読んでも、意味は変わらない。というか、「意味」が通じるだろう。意味が通じるとは、そこにある意味がそのまま流布する(共有される)ということである。省略しても意味が意味は変わらないからこそ、それが重要なのだ。省略してはいけないのだ。
 「流通している意味ではない何か」「意味を拒んでいる何か」つまり、「解読されたくない何か」がそこにあって、石毛は、その解読できない何かを通して永山則夫と対峙しているのである。そこにもしことばがみつかり、●●を●●ではないものにした瞬間に、その永山と石毛の関係は消えてしまう。●●を省略した瞬間、世間で言われている「意味」になってしまうことからも、そのことがわかる。
 繰り返される「腑に落ちない」ということば。それが指し示すものだけが石毛をささえている。

耳にひそむ誘惑に 嵌ったのか
やむをえず かれは極刑をえらんだのか
まだ 腑に落ちない●●事がある
東京拘置所に架かった木橋は 足をかけると
あの日 あの時のように揺れた

 ●●を通して石毛は永山になるのだ。それは省略できない「腑に落ちない」という「せつない」気持ちだ。



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「特ダネ」?(情報の読み方)

2020-12-31 10:13:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「特ダネ」?(情報の読み方)

 2020年12月31日の読売新聞(西部版・14版)24面に「桜を見る会」の続報。あるいは、「解説記事」というべきか。

「桜」追及 法の壁/報告書不記載 時効5年 保管義務3年

 安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」前夜祭を巡る政治資金規正法違反事件では、同法の不備も浮かび上がった。検察は、政治資金収支報告書に前夜祭の収支を記載しなかったとして、公訴時効にかからない5年分の立件を検討したが、略式起訴したのは4年分にとどまった。収支報告書の法定保存期間を超える分が廃棄されていたことが一因で、識者から保存期間の延長が必要との声もあがる。

 簡単に言い直すと、収支報告書に関する時効は5年。しかし、安倍の事務所は、収支報告書の保存義務期間が3年と定めているために、5年前の分は廃棄していたため、不記載の「証拠」がなく、4年分しか略式起訴できなかった(4年前の分は、11月に廃棄する予定だったが、まだ廃棄されずにあった)。これに類することは、すでに秘書の略式起訴、安倍不起訴の報道のときに書かれていた。今回は、それをていねいに書き直したもの。(詳細は、本記部分に書かれているのだが、省略。)
 これは、法律問題だね。
 ここに書かれていることに間違いはないだろう。しかし、問題は、なぜ、いまこの記事が書かれているかである。しかも、ネット(デジタル版)とは「独自(特ダネ)」のマーク付き。なぜ、いま? しかも、この記事のどこが「特ダネ」? 

 視点を替えて、読み直す必要がある。
 「桜を見る会」で問題なのは、何か。桜を見る会というとき、「法の壁」とは何か。
 桜を見る会の一番の問題点は、安倍の関与である。追及の「矛先」は「収支報告書」そのものではない。
 この問題を読売新聞は、今回の記事では取り上げていない。純粋に「収支報告書の保存期間(3年)」と不記載(不実記載)の公訴時効(5年)との間に隔たりがあり、そのために文書が廃棄されていた5年前の分は控訴の対象にならなかった、と書いている。秘書の「略式起訴」が相当だったかどうか、というところに、問題の視点がすりかえられている。
 つまり、この記事は、安倍追及の視点を逸らすために書かれていることになる。あべは、その「不記載」や「補填原資」にどうかかわったのか、そのことへの言及がひとこともない。

 国会でも問題になったが、「3年間の収支報告書」の訂正は、単に「支出」の訂正であり、その「支出」に出てくる「補填」の原資がわからない点である。「時効」の問題ではない。
 読売新聞が「法の壁」と呼んでいるのは、むしろ「政治資金規制法」の「限界」というものであり、安倍が「不起訴」になった根拠としての「法の壁」ではない。
 「法の壁」というような大げさなことばで読者の視点をひっぱっておいて、「安倍不起訴」とは無関係な「法律論」を書くのは、明らかな「目くらまし作戦」である。

 注目すべきは、見出しにとっていない次の部分である。

 収支報告書は所在地の選挙管理委員会や総務省に提出され、同省や選管は、原本や領収書などの関係書類を公表日から3年間保存することが同法で義務づけられている。山口県選管はこれに基づき15年分をすでに廃棄し、16年分は今年11月に廃棄することを決めていた。
 安倍氏側は23日付で、17~19年分の3年間の収支報告書を訂正し、前夜祭の収支を記載した。16年分は略式起訴の対象だったが、保存期間が3年であることなどから訂正しなかった。25日に開かれた衆院の議院運営委員会では野党から、こうした対応を疑問視する声もあがった。

 書き方が非常に微妙である。
 「16年分は今年11月に廃棄することを決めていた」は「11月〇日に廃棄していた」ではない。さらに「16年分は略式起訴の対象だったが、保存期間が3年であることなどから訂正しなかった」と言う。
 これは、つまり、16年分は、「廃棄は決めていたが、捜査を始めたときはまだ廃棄してないかった」であり、16年の収支報告書を訂正することはできるのに、それをしなかったである。訂正すべき箇所があるのに、保存期間を過ぎている(廃棄を決めていた)から訂正しない、というのはおかしいだろう。「無駄」に見えるかもしれないが、「無駄」を承知でしなければならないことは、世間にはいくらでもある。

 だから、もし、見出しとして指摘するならば、

安倍側、16年収支報告書訂正せず/保存期間3年理由に

 なのである。秘書の「罪」を少しでも軽くし、同時に、秘書の罪が軽いから、安倍の責任はさらに軽い、と言いたいのだろう。
 問題視しなければならないことは、たくさんある。しかし、読売新聞の「見出し」は、その問題点を単に「保存義務期間」だけにしぼっている。
 こんな視点でニュースを報道していいのか。こんな視点で捉えたニュースを「特ダネ」と言っていいのか。





 







#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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Estoy loco por espana(番外篇95)Adrián Carrillo Valero

2020-12-30 21:52:47 | estoy loco por espana


この不思議な立体感をどうことばにすればいいのだろうか。
書きたいことばがあるのに、そのことばが見つからない。
とても単純なことば、だれもが知っていることばがあるはずなのに、それが見つからない。
*
円は永遠、あるいは完璧の象徴。
いくつのも円が見える。
しかし、それは完結していない。完結することを拒みながら、円が理想の形だと知っている。

ぶつかりあい、円になり損ねる瞬間に、いままで知らなかった永遠を超える円が見えたからだ。

まだ存在したことのない円を夢見ている円が、ひしめいている。
誰もが知っている形の向うに、もう一つの円を見てしまった円たち。
もう円にはなれないと知りながら、なお円になろうとする無数の円。

¿Cómo puedo expresar con palabras este misterioso efecto tridimensional?
No encuentro una palabra que quiero escribir.
Debe haber una palabra muy simple que todos conozcan, pero no puedo encontrarla.
*
El círculo es un símbolo de eternidad o perfección.
Puedo ver muchos círculos.
Pero no están completos todos los círculos.
Aunque se niegan a completar, saben que el círculo es la forma ideal.

Un círculo se debe a que en el momento en que chocaron y no pudieron formar un círculo,
vio un círculo que excedía la eternidad, que nunca había conocido antes.

Hay muchos círculos que sueñan con círculos que nunca han existido.
Círculos que han visto otro círculo más allá de la forma que todos conocen.
Innumerables círculos que todavía intentan convertirse en círculos, sabiendo que ya no pueden ser círculos.

↑↑↑↑
Adrián Carrillo Valero が翻訳してくれたものを、少し手直しした。
正しいスペイン語からはほど遠いと思うが。

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高橋睦郎『深きより』(25)

2020-12-30 10:16:14 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(25)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十五 作者名乗りとて」は「近松門左衛門」。

二人の血の婚礼をことほぐ道行唄も わが発明ならず
外ならぬ 二人の最期がもたらしたもの わたくしは
それをしかと聞き取り 忠実に記し取つたに過ぎぬ

 この「謙虚さ」は近松にかぎらないかもしれない。シェークスピアも、自分の声ではなく、市井で聞いた人々の声を舞台に載せた、と言えるかもしれない。舞台を離れれば、たとえば谷川俊太郎は自分の声よりも、やはり市井で聞いた他人の声を「忠実に記し取つた」と言えるだろう。多くの「ことば」は「他人のことば」である。
 日本国憲法さえ、幣原喜重郎は「9条の原点」を「いったい、君はこうまで日本が追い詰められていたのを知っていたのか。なぜ戦争をしなければならなかったのか。おれは政府の発表したものを熱心に読んだが、なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっともわからない。戦争は勝った勝ったで敵をひどくたたきつけたとばかり思っていると、何だ、無条件降伏じゃないか。足も腰も立たぬほど負けたんじゃないか。おれたちは知らぬ間に戦争に引き込まれて、知らぬ間に降参する。自分は目隠しをされて場に追い込まれる牛のような目にあわされたのである。けしからぬのは、われわれをだまし討ちにした当局の連中だ」と言っている。(鶴見俊輔『敗北力』から)
 ことばに携わる人間は、常に「他人の声」を「自分の声」として聞く。
 高橋は、これをさらに拡大している。

詞のみならず 詞を立ちあがらせる 三絃の曲節も
詞節に合わせてうごく人形の振りもまた 二人の手柄

 「人形の振り」というとき、そこには人形を動かす人が、ことばを聞く人と同じように存在する。「二人の手柄」は、そこまで広がっている。
 しかし、そこにとどまらずに、高橋はさらにことばを動かす。

開闢以来 人びとが流しつづけて 水に様ふ捨て人形の
まぼろしの 慰みたはぶれごとと ご承知あれ

 「二人の手柄」を「人形の手柄」にまで還元する。「人形」がなかったら、二人の悲劇は『曽根崎心中』に結晶はしなかった。
 この「結論」までの道筋をたどるには、もっと多くのことばが必要だと思うが、それについては高橋は書いていない。高橋にとって、「人形」こそが「詩」なのだという思想が、肉体になってしまっているためだろう。「生身」が「現実」ではなく、「人形」が現実。それは肉体が現実ではなく、「ことば」が現実なのだ、と言い直せば高橋を語ることになるのかもしれない。
 高橋は「ことば」という現実を生きている。肉体にしている。





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徳永孝「狩る人漁る人」、青柳俊哉「三日月の形になって」、池田清子「配列」

2020-12-29 21:44:36 | 現代詩講座
徳永孝「狩る人漁る人」、青柳俊哉「三日月の形になって」、池田清子「配列」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年12月22日)

狩る人漁(すなど)る人   徳永孝

東の海では
漁師の女がつかまえられ逃げるタコに話しかける
老いた漁師は魚は天のくれらすもんでござすと語る

北の大地では
キツネがチャランゲでアイヌの若者の不当な仕打ちを訴える
アイヌの長老はそれを聞き
キツネの神様(カムイ)に許しを請い祈る

南のカリブ海では
老人がこれから釣り上げようとするカジキマグロを
人に対するようにhim と呼ぶ

狩る人漁る人と獲物との対話
自然のもたらすものを人々が要ると思うだけ受け取る
これ以上の栄華のどこにゆけばあろうか?

農耕が始まり
作物は人が育てるものとなった
工業化社会となり
食品は商人から買うものとなった

ヒトの呼吸する酸素を
生きる糧を生み出す自然は
ヒトの意識から薄れてゆくき
気づかぬうちに その力は失われていく

はるか遠く
暗い海の上に
影がはい上る

 「かつては自然と人間が対等の関係だったが、それがくずれていく。いまの世界から欠けていくもの描いている」「壮大な感じがする。自然と動物の営みが、東、北、南と展開する」という感想が聞かれた。
 「どこに、対等というものを感じたか」と私は問いかけてみる。
 「四連目、特に自然の自然のもたらすものを人々が要ると思うだけ受け取る、という行。必要なものだけを受け取る。そこに対等、調和がある。いまは、それがくずれている」 たしかにそうなのだと思うが、私はもう少し「意味」をではなく、「ことば」にこだわって読みたい。
 たとえば一連目の「タコに話しかける」、二連目の「キツネが訴える」には、人間とタコ、キツネがことばをかわしている様子が書かれている。ことばをかわすことができるのは、タコ、キツネ、人間が対等だからではないだろうか。三連目ではそれが魚に「人に対するようにhim と呼ぶ」という形で書かれている。「人に対するように」ということばには「同じように」が省略されている、と読むことができる。

人に対する(のと同じように)ようにhim と呼ぶ

 この「人間に対するのと同じように」は、一連目では「人間に対するのと同じように、タコに話しかける」という形で補うことができ、二連目では逆にキツネが「キツネに対するのと同じように、アイヌの長老に、アイヌの若者の不当な仕打ちを訴える」という形で書かれている。
 「話しかける」「訴える」「呼ぶ」に共通するのは、「ことば」である。
 「ことば」をつかって人間と自然が対等に会話する。四連目に「対話」ということばで、それは要約されている。
 そう読むと、この詩は「起承転結」をふまえて構成されていることがわかる。
 一、二、三連は「起」である。具体的に三つの「ことばのあり方」が語られる。それを四連目で「対話」という形に整えて、言い直す。「承」である。
 五、六連目は「承」で要約したことを、さらに別の角度から言い直す。「転」である。一、二、三連目で書かれていたことが、その瞬間のことだったのを、「歴史」という長い時間の中で見つめなおす。
 歴史の中で人間と自然の関係は、どう変わってきたか。人間自身はどう変わったか。それが自然に対してどういう変化を与えたか。
 「壮大な感じ」がするのは、この「転」が一瞬ではなく、歴史的視点をもって書かれているからだろう。
 最終連の三行(結)は、短くて、象徴的である。この短くて、象徴的であることも、この詩を強くしている。「意味」をはっきりとは特定しない。読者に考えさせる。詩は、読者に何かを教えるためにあるのではなく、何かを考えさせる、何かを感じさせるためにある。読者が考え、感じれば、それで詩の仕事(あるいは、ことばの仕事)は成功したのである。「答え」を教えるのではなく、何かを考え、何かを感じる、という「動詞(生き方)」という方向へ読者を誘えば、それでいいのだ。
 最後の行の「影」は特に象徴的である。「自然の逆襲」と読んだ受講生がいる。私は、この「影」を四連目に出てくる「栄華」と関係づけて読みたい。「栄華」は「光」であり、その対極にあるものが「影」だろう。だから「自然のもたらすものを人々が要ると思うだけ受け取る」という関係が崩壊したあとの「できごと(事件)」が「影」。それはたしかに「自然から逆襲」しもしれないが、私は「答え」は保留して、この「影」は詩のなかでは、どのことばと向き合っているのだろうか、と考えるのである。また、この「影」は六連目の「薄れてゆき」という動詞とも関連づけて読むことだできる。ただし、その「薄れる」は「影」が薄れるのではなく、「栄華(光)」が薄れ(弱くなり、失われ)、その結果として「影(闇)」が大きくなるという形で動いているといえる。そう考えると、「暗い海」の「暗い」ということばも納得できる。「意識から薄れていく(意識されない)」は「はるか遠く」とも重なる。
 この詩には、また、多くのことばの呼応があり、それが詩を引き締めている。たとえば五連目の「農耕/作物/人/育てる」と「工業/食品/商人/買う」の簡潔な対比なのである。



三日月の形になって  青柳俊哉

三日月の形になって 
空にくつろいでいる少女 
ホワイトワイン・フランスティーに
ストロベリー・トーストを浸して

トランペットが晴れやかに吹かれて
地上の朝から 一斉にハトが飛び立つ
百合や水仙を手にして
神さまたちの風雅な合戦がはじまる

真っ白い紙に
なつかしい未来をうつす少女
この夢が
地上におりてきますように

 「ことばひとつひとつが美しく、全体のイメージも美しい」「絵にしたら、好きな絵になる」という受講生の感想。
 「ホワイトワイン・フランスティー」「ストロベリー・トースト」は音そのものとしても美しいと思う。美しすぎるかもしれない。それが「イメージ」という印象を与える。現実ではなく、イメージ。
 それは、しかし、青柳の狙いであり、思想(肉体)だろう。「現実」そのものを描くのではなく、「精神的内面」を描く。
 それはことばでしか成り立たない世界を「ある」ものとして「いま/ここ」に出現させることでもある。
 三連目の「なつかしい未来」。ふつうは「過去」がなつかしい。未来には記憶がないから「なつかしい」と呼ぶことはできないのだが、それでも「なつかしい未来」と聞いた瞬間に何事かを思い起こす。夢見続けてきた未来、自分にとってはとてもよく知っている未来。「未来」を「夢」と言い直しているが、長い間夢見続けていた夢が実現したときは、うれしいと同時に「なつかしい」と感じるかもしれない。
 この「地上」と、一連目の「空」が呼応して、ひとつの世界を作っている。
 ことば独自の世界、という点では「地上の朝から 一斉にハトが飛び立つ」も、そういう世界だということができる。「朝、地上から」ではなく「地上の朝から」と「朝」という時間を「場所」のように書いている。「時間」と「場所」が一体になった「時空間」をさっと思い起こさせることばである。スピード感のあることばだ。私は、こういうスピード感のあることばが好きである。
 感想を語り合うなかで話題になったのは、二連目の「風雅な合戦」である。武器ではなく、百合や水仙の花を手にしている戦いだから「風雅」になる。青柳は、平安時代だったか、カエルの合戦の絵がある。それがヒントになった、と「種明かし」をしてくれた。 



配列       池田清子

10100101
01011001
10101010
00010101

0はあなた わたしは1
0はわたし あなたが1

どこか一か所でも
配列が違っていたら

わたしたち
どう出会い
どう歩き
どんな暮らしをしていたかしらね

また別の行き違いがあったかな
案外 すさまじい戦いをしていたりして
もっとずっと長く一緒にいられたのかなあ

いやいや
3とか5とか入ってきて
もうぐちゃぐちゃだったりして

 「書き出しにびっくり」「意味はわからないが0と1の並べ方にドラマがあるのかも」「二進法なのでコンピューターのことを思い出した」
 私も二進法を考えた。一行ずつがある瞬間(時期)の「わたし」か「あなた」かをあらわしていると思った。二連目には0、1のいずれかがあなた、わたしと書いているけれど。
 あなたとわたしの出会いを思い、過去を振り返る。四連目の「どう歩き」がなんでもないような表現だけれど、過ぎ去った時間の長さを信じさせる。歩いてきた人生、ということばをふと思い出させる。
 五連目は、ちょっとおもしろい「読み違い」があった。受講生は、「また別の行き違いがあったかな/案外 すさまじい戦いをしていたりして」「もっとずっと長く一緒にいられたのかなあ」という具合に、「すさまじい戦い」と「長く一緒に」を切り離して読んだのに対して、わたしは「すさまじい戦い」をした方が「長く一緒に」いられたかも、と読んだのである。私の読み方は、いわば「雨降って地固まる」のたぐい。
 そのあとの最終連。これがとてもおもしろい。
 亡くなった夫のことを思い出しているのだが、「悲しみが、ふわっとしている」という受講生の感想がすばらしかったが、まさに「ふわっとしている」。3とか5とかが入ってきたら、もう二進法の世界ではなく、別世界なのだが、そういうことは想像されていない「安心感」がある。安心した上で、よかったなあという感じをかかえたままで、ことばが動いている。
 それを象徴している(?)のが「ぐちゃぐちゃ」である。
 これを自分のことばで言うと何になる? 私は、いつもこういう「答えられない質問」をして受講生を困らせる。「答え」がほしいのではなく、考えたいから。「ぐちゃぐちゃ」ということばは誰もがつかうが、その意味は? 言い換えることができるか。
 「混乱」「支離滅裂」というような「言い換え」があったが、それはこの最終行には似合わないね。「ふわっとした感じ」とは少し違ってくる。そうしてみると、この「ごちゃごちゃ」はとてもいい表現なんだ。
 似たことばに「めちゃくちゃ」がある。同じことばの繰り返しでは、意味は違うが「ねばねば」とか「ねちゃねちゃ」というのもある。「ぐちゃぐちゃ」よりも何か粘着力があって悲惨だ。
 「ぐちゃぐちゃ」もネガティブなことばなのだけれど、悲惨や後悔とは少し距離がある。そういうことを私たちは無意識に、肉体で判断し、この「ふわっとした感じ」を納得するのだと思う。








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セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)

2020-12-28 10:23:59 | 映画
セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)(2020年12月26日、KBCシネマ2)

監督 セルゲイ・ロズニツァ

 スターリンの国葬のドキュメンタリーだが、なんとも不気味である。スターリンが脳溢血(?)で倒れてから死ぬまでの経過を国営放送が克明に語る。医学用語をつかった病状報告が克明すぎるのである。こんなことを知らせてどうなるんだろう、と思う。そして、こんなことが放送されるのは、他につたえることがないからではないか、と思う。あるいは、放送したこと(内容)が問題になり、「粛清」されてはたまらない、だから「科学的(医学的)事実」だけをつたえようというのか。
 その一方、続々と国葬のために集まってくるひとたちの声はひとことも聞こえない。共産党の役職者や労組(?)の代表は追悼のことばを発表するが、国民はみな無言である。そして、その無言の顔がこれでもかこれでもかというくらいに映し出されるのだが、この膨大な顔を見ても、「声」が聞こえない。想像できない。悲しんでいるのか、ほっとしているのか、見当がつかない。涙を拭いている人もいるが、その涙の意味がわからない。ほんとうに追悼の気持ちがあって涙が流れたのか、涙を流しておいた方がいいと判断したのか。
 大勢の人が集まっているが、その人と人を結びつけるものがさっぱりわからない。
 これがテーマであり、これが監督の言いたいことかもしれない。スターリンが死んだとき、国葬がおこなわれたが、その国葬に対して国民が何を考えていたか、それはそのとき語ることができなかった。国民は「声」を奪われていた。ただ、無言で、つまり権力に対していっさいの批判をせずに生きることを強いられていた。それはスターリンが死んだからといって一気に解決することではない。
 自分を抑圧しているものに対してどう戦うか。それを知らないのだ。そして、その「知らない」というか、「ほかのことを考えさせない」ために、たとえば「放送(ジャーナリズム)」がある。「ことば」の統制がある。冒頭のスターリンの死を告げる放送が、とても特徴的なのだ。
 私は最初何を言っているのか、さっぱり理解できなかったが、この理解できないは「感情移入ができない」である。つまりスターリンの死を告げる放送は、「理解できない事実」というよりも「理解する必要のない事実」だけを語る。感情移入による「共感」、感情の「連帯」が生まれないことば語り続けることで、「感情」の共有、「感情」による「連帯」を遠ざけている。「悲しみ」さえ、共有させないのだ。「国葬」で「悲しみ」を共有している国民はいないのだ。これは考えようによっては(考えなくても)、ひじょうに残酷なことである。しかし、そういう残酷を産み出してしまう、ものを考えないためのことばの統制がソ連ではおこなわれていたのではないのか。
 流通することばは、自分自身の「暮らし」とは無関係である。しかし、それを聞かないといけない。そんなことは私には関係がないと言えない。そんなことは聞きたくはないとも言えない。
 それが、そのまま「国葬」のとき、「現実」としてあらわれてくる。スターリンが埋葬された廟へいつたどりつけるかわからない。それでもその前まで行って追悼しないと、きっと追悼しなかったことを問い詰められる。反論することばがない。「悲しみ」も共有できないが、「反論(怒り/その反動としての喜び)」も共有できない。だから、群集のなかにかくれて自分自身を守る。群集の中で「個人」を守る。生き抜く。言いたいことを言わない。言いたいことが言えないという苦しさが、言いたいことを言わないと決めた瞬間から、すこし苦しくなくなる。こうしいてれば生きていける。そのほんの少しの安心を求めて、さらに無言がつづいていく。
 ここから国民がことばを取り戻すために、どれくらいの時間がかかるのか。スターリン批判はたしかにあったが、それはどのような形で生まれてきたか。ほんとうに国民の声として「暮らし」のなかから生まれてきたのか、それとも共産党の内部で生まれてきただけなのか。どちらにしろ、「批判」がことばになり、それが「行動」になるまでには時間がかかる。
 これは……。
 スターリン独裁下だけの問題ではない。独裁があるところ、かならず起きることだ。一度独裁が確立されたら、そこから国民がことばを取り戻すためには長い時間がかかる。ことばを守ることが独裁を防ぐ方法であるということを、逆説的に語ることになるだろう。
 どこまでもつづく無言の顔。それを見る必要はある。この無言の顔に対して、私はいろいろ書いたが、そのことばが彼らの無言には届かないとも思う。あの膨大な無言の顔にきちんと向き合えることばがいったいどこにあるのか、想像もつかない。ただ、「無言」にはなりたくない、とだけ思う。








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「詭弁」にさえなっていない「駄弁」。

2020-12-28 08:05:03 | 自民党憲法改正草案を読む
jiji.comが「自民党の二階幹事長、大人数会食批判に反論」という見出しで記事を配信している。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700276&g=pol&fbclid=IwAR0aG--d9GL4noT9Yt9BpINYj1rmZbGapkfJ13kYagWzlvh_GAGjeZ1607U

「会食を目的にやっていない。意見交換を考えてやっている。全く無駄なことをしているわけではない」

↑↑↑↑

意見交換が主目的なら、会議室を借りてやればいい。
食事の提供が必要なら、個別に「テイクアウト形式」で料理を配り、各自が個別に食べるということもできる。
多くの人が批判しているのは「無駄なことをしている」ではなく、政府が「多人数での会食自粛」を打ち出しておいて、みずからそれを破っていること。指針と行動との矛盾を批判している。
さらに、意見交換を「考えて」やっている、とはどういうことなのか。「考えて」いれば、意見交換をしなくてもいいのか。いったい、どんな「意見交換」をしたのか。「〇〇〇について意見交換した。〇〇〇という意見が出た」という具体的なことを言わない限り(言えない限り)、「意見交換」したとは言えない。
二階の表現を借りれば、国民がこういうこともできる。
「意見交換を考えて100人が集まり、飲食もした。飲食が目的ではなく、意見交換が目的だったから、みんなが大声で話し合った。要約ができないくらい多様な意見が飛び交い、予定の1時間では足りずに徹夜で激論を展開した。活気に満ちた意見交換会だった。1年を振り返り、新しい年を迎えるたその貴重な意見交歓会だった。」
そういう「論理」で、いいのか。
「論理」さえ、整合性がとれていればいいのか。
「論理」はことばだげで成り立っているのではなく、「事実」と「ことば」の関係を証明しないといけない。
二階はいったい「意見交換会」で出席者から、具体的にどういう「貴重な意見」を聞いたのか、それを政策にどう反映していくのか。それをきちんと説明しない限りは、「無駄な会食会」を通り越し、「危険な会食会」になる。
政府が多人数での会食を自粛するように求めたのは、それが「無駄」ではなく「危険」だからだ。
「危険」を上回る「貴重な意見」が交換されなかったなら、それはそれこそ完全に「無駄」になる。「危険+無駄」が二階のやった会食会である。
ジャーナリズムは単にだれそれがどういうことをした、どう言ったかを伝えるだけではなく、その行動、言論の「意味」を正確に分析し、言語化する責任をになうべきである。

*

こういうニュースもある。産経新聞である。
「安倍首相、二階幹事長や王貞治氏らと会食」
https://www.sankei.com/.../news/200722/plt2007220039-n1.html

安倍晋三首相は22日夜、東京・銀座のステーキ店で、自民党の二階俊博幹事長やプロ野球ソフトバンクホークス球団会長の王貞治氏らと会食した。少年野球の振興事業などを通じて王氏と親交の深い二階氏が呼び掛けた。王氏は東京五輪・パラリンピック組織委員会の理事を務めており、来年夏に延期となった東京五輪などについて意見交換したとみられる。

↑↑↑↑

これは、二階の言う「意見交換」説を補強するためのものだろうが、安倍まで出席したのか、というのが私の驚き。
さらに。
すでに書いたが、gotoとオリンピックは密接に連携している。
gotoで旅館・ホテルを維持しないと、オリンピックを開いても観光客の宿泊先がないということがおきかねない。それを心配して、旅館・ホテルの維持に懸命なのである。
しかも、その維持のための予算をなるべく抑え込むための方法が、国民の旅行なのだ。旅行する国民は恩恵を受けるが、同時に旅館・ホテルを直接支援しないですむ国も恩恵(?)を受ける。
旅館・ホテルだけに「休業補助金」を出すと、他の中小企業から不公平だという声がおきるだろうからね。
しかし、gotoそのものだって、不公平なのだ。
利用することができる国民も富裕層にかぎられている。
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「立て替え」ということばの重大さ(情報の読み方)

2020-12-27 14:44:30 | 自民党憲法改正草案を読む
 安倍が、桜を見る会の「補填問題」で「安倍の私的預金」を管理している(?)東京の事務所が、会費だけでは不十分な分を「立て替えた」と語った。
 私は、この「立て替えた」ということばにびっくりした。
 「立て替えた」は、きっと安倍の弁護士(?)だとか、安倍のとりまきの、「会見想定問答集」にはなかったことばだと思う。つまり、安倍が「独自に考えた」ことば、安倍の知っていることば。「無意識」が出たといえばいいのか。隠しておかなければならないのに、「尻尾」が出てしまった。

 ふつうは、どう言うか。私が安倍なら、絶対に「立て替え」ということばはつかわない。「立て替え」には「立て替えられる人」「立て替える人」のふたりが必要であり、そこには「関係」が発生してしまうからである。
 こういうときは、私なら、東京の事務所が「支払った」とだけ言う。金の動きを「事務所」と「ホテル」に限定して言う。
 安倍は必死になって、「実務は東京の事務所」「金の支払いは下関の事務所」であり、「連携」がとれていなかったと言っている。しかし、「実務は東京の事務所」「金の支払いは下関の事務所」という形で前夜祭が開かれていたのなら、それは業務を「分担」していたということである。「分担」というのは「連携」が前提である。「連携」なしの「分担」などはありえない。費用がいくらかかるか想定せずに会を催していては、予算が破綻するだろう。会計を担当する事務所の方も予算を伝えて、「この範囲で」と実務を依頼するのが一般的なことだろう。「総経費がいくらになるかは、あとで清算するから、実務は予算を心配せずにやってくれ」と言われないかぎり、「会の規模」を拡大などできない。
 そういう「前提(事前の連携)」があったからこそ、東京の事務所は「立て替え」たのだ。「立て替え」でなければ、安倍の「私的預金」から支払ったことになり、安倍がポケットマネーで有権者を買収したことになる。
 安倍もそう認識しているからこそ、ポケットマネーで支払ったわけではない。あくまで「立て替えた」と言ったのだ。
 これは、安倍が「ぼくちゃん知らない、ぼくちゃんの責任じゃない」という「方便」であり、「ぼくちゃん」の責任を他人に押しつけることなのだが、ここから新たな問題が生まれる。もし、下関の事務所が「補填」をしたのなら、その原資は支援者からの寄付金ということになるだろう。事務所ぐるみで、支援者から政治活動のために寄付してもらった金を買収につかったことにある。安倍にとって政治活動は「買収」ということになる。事務所ぐるみで「買収」をしていたことになる。

 「立て替え」ということばをつかわなくても、やっていることは同じだが、「立て替え」ということばをつかうとき、そこには「立て替える人」「立て替えられる人」の密接な関係が存在する、ということに安倍は気づいていない。
 おそらく人に高額の金を立て替えてもらったり、立て替えたりするとき、ふつうの人がどういうことをするか(借用書を書いたり、領収書を書いたり)を知らないのだ。一緒にランチに出て、財布を忘れたのに気づき、500円を立て替えてもらうのとはわけが違うのだ。
 「立て替え」ということばに反応せず、では「立て替えの返却の原資は何?」と質問仕返すことのできない議員やジャーナリストは、安倍と同じように国民の金銭感覚とは違う世界を生きているとしか言えない。この「私的預金」と「立て替え」の問題を追及しているのは、私が見た範囲で言えば共産党の田村だけである。
 政治家もジャーナリストも「ことば」が仕事である。ことばにもっと敏感に反応する必要がある。



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高橋睦郎『深きより』(24)

2020-12-27 11:16:25 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(24)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十四 旅に死んでなほ」は「芭蕉」。

宿の外は時雨 降ると思へば止み 止むと見れば又降り

 この絶え間なく変化する動きは、逆に、芭蕉の多くの「静謐な世界」を鮮烈にする。激しい動きが見えていたから、一瞬の絶対を芭蕉は見ることができたのだと感じさせてくれる。

雨脚しぶく夜闇のむかうは枯野 其処駈け廻るは
夢に変じた魂魄 わたしはいつより魂魄と化したのか

 私は驚いてしまった。枯野を駆けめぐっているのが「魂魄」と考えたことはなかった。芭蕉が「肉体」のまま駆けめぐる姿を想像していた。(ここには「わたくし」ではなく「わたし」と書かれているが、誤植だろうか。あえて、ここだけ「わたし」にしたのか、気になる。)
 高橋はこのあと、芭蕉を夢の中で長崎へ向かわせている。

石の道 石の大厦 石の城市 石の広場に炎のはしら
同じき景色は百 千 万と増えやまない 石の枯野

 「石の枯野」は芭蕉ではなく、高橋が夢見ている枯野だろう。高橋は長崎を越え、中国を越え、ヨーロッパを駆けめぐっているのかもしれない。
 前後するが、最初に引用した行の直前の一行のなかに「越え」ということばがある。

それでも芯は覚めてゐるのか 寝を囲む人びとを越え

 この「越える」という動詞が「肉体」を越えて「枯野」を越えて長崎まで旅するとき、その芭蕉と一体になっている高橋ならば、きっと長崎を越え、石のヨーロッパへ向かっているだろう。







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金田久璋『理非知ラズ』

2020-12-27 10:36:18 | 詩集


金田久璋『理非知ラズ』(思潮社、2020年11月23日発行)

 金田久璋『理非知ラズ』は詩集のタイトルになっている作品、それに関係する作品がおもしろいのだが、違う作品を取り上げて感想を書いてみる。
 「騙し絵」。サブタイトルがついている。このサブタイトルは「説明」になっているので、少し興ざめである。ない方が真剣に読むことができる。だから、ここではあえてサブタイトルは省略しておく。

一頭の雌鹿をめぐって
枝角をはげしく打ちつける
何度も 火花を放つほど ゆるやかな草のなだり
逆光にうかびあがる その雄姿のなんと崇高なことか

一名エルク 本来は
北米インデアンのショーニー族の言葉で
ワーピティ 白い尻と呼ばれた牡のアメリカアカシカが
ビャクシンやセコイアの密林に
襲いかかる捕食者からいっとき身を隠す

六本に分岐した 相似形の
雄々しい枝角が つつましく
木々の枝を真似ている

騙すつもりが みずから騙されるように
時には冬毛の鬣を幹に擦りつけ
交差する下枝に絡まり そのまま雁字搦めに
息絶えたアカシカの骨格が 標本を真似て
しらじらと樹間に晒されている
時間が降り積もり やがて化石になる ひとしずくの涙は琥珀に

 この「時間が降り積もり やがて化石になる ひとしずくの涙は琥珀に」が非常に美しい。この詩集の中で、私は、この行がいちばん気に入った。
 鹿に対する「同情」をつきやぶって、ことばが「絶対」に触れている。
 多くの詩の場合、「同情」がそのまま「抒情」になるのだが、「情」を拒絶する「非情さ」が、この一行にある。
 自然というか、宇宙というか。そういうものは人間の「情」とは無関係に、絶対的に存在する。そして、それが人間の「情」を拒絶するからこそ、そこに「美」が完璧なものとして存在する。
 こういう「美」を非人間的という理由で嫌うひともいるが、私は、とても好きだ。
 詩は、こうつづいていく。

万華鏡の星月夜が 落葉し
凍てついた枝組みの間に瞬く 星座のトランプルイユ
憐れむ神のまなざしの向うに
垣間見る 耀変天目の響きあう永遠

群れなすコヨーテの遠吠えが草原になびき
暮れ方の叢雲を呼びさます
巌を割る遠雷の轟き
稲光りが空に根をはりめぐらす

 最後の「稲光り」が下の「枝角」に見える。鹿は死んで、その「枝角」を宇宙に「根」としてはりめぐらせるのである。
 「ひとしずくの涙」と「宇宙に広がる稲光りの根」が鹿の死、残された「枝角」によって結びつく。この特権的なことばの動きは、現在の詩の状況の中では、非常にめずらしく、また貴重なものだと思う。

 という理由の他に、この詩をとりあげた理由がある。

一頭の雌鹿をめぐって
枝角をはげしく打ちつける

 この二行は、セックスと結びついている。そして、そのセックスは「エロチシズム」を超える。
 「理非知ラズ」という章にあつめられた作品はセックスを描いている。
 「理非知ラズ」は、こうはじまる。

添え乳しながら
長らく禁欲を強いられてきたつれあいと
乳繰り合いまぐわう 甘噛みの息づく薔薇色の
胸の小籠に 摘まれた桑の実のときめきに

 これは、まあ、「エロチシズム」を誘うかもしれない。しかし、「乳繰り合う」は、どうか。

という言葉だけで
なぜか勃起した思春期以来
もやもやは収まることなく

 あるいは、「涜神」は、どうか。

夢精を知り染めて 日頃
悪童呼ばわりされる少年たちが
不揃いの七人の背丈の向こうへと
みずから超えんとして 勇み挑む
ことの顛末の

放物線のさきになにが待ち構えているのか
野末の小屋の土間に古新聞を敷きのべ
一列に並んで 一斉に青い血潮の
滾ったいちもつをしごく

 こういうことばは、エロチシズムというよりも、「エロチシズム」が何かわからない「初めての性欲」のような潔癖さがある。そして、その潔癖さに同調するように、ことばそのものが非常に潔癖である。
 野生の純粋さがある。これは、鹿の性欲、雌を求めて死闘を繰り広げる雄鹿の「肉体」をつらぬき、突き破っていく力である。野生の力だ。
 考えてみれば「エロチシズム」というのは「野生」のものではなく、「文化の力」だね。
 金田のことばには、「文化の力」ではなく「野生の力」を感じさせる潔さ、全体的な非情さがある。








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草野早苗『ぱららん』

2020-12-26 13:01:01 | 詩集
草野早苗『ぱららん』(金雀社、2020年11月30日発行)

 草野早苗『ぱららん』には不思議な音がある。

春夕焼けキリンが角で交信す

スペインの牛黒さ増す秋の雨

ただならぬ卵殻のひび新米来

青セロファンが重なる大気冬木立

 ここには一つの共通の音がある。情緒的な意味ではなくて、即物的な意味での「共通音」がある。「ン」である。「新米」は漢字で書いてあるのでわかりにくいが「ん」がある。「交信す」にも「ん」が隠れている。
 で、この「ン/ん」なのだが、日本語の「ん」の音は実は一つではない。
 舌が口蓋にきちんと接触する閉鎖的な「ん/N」と、舌が口蓋にきちんとつかない「ん/n」、さらにフランス語に通じるように鼻音がある。(N/nという書き分けは正しいかどうか知らないが、便宜的に、書き分けてみた。)
 そして、このNとnなのだが、私は実はNの音が苦手である。ついついnになってしまう。Nを発音するときは、非常に意識しないとできない。「新年」のように次にな行の音が来るときはNの方が楽というか、必然的に感じるが、このNにしても私の場合はnで発音することが多い。(鼻音は省略)。
 どこが違うかというと。
 感覚的なものを含むので、説明がむずかしいが、Nは前後の音をぶつんぶつんと切る感じ、nは音が消えて前後の音を繋いでいる感じ。
 なぜ、こんなことにこだわって書いているかというと。
 俳句は5・7・5の音から成り立っているがNはそのうちの明確な一音。でもnは数えなくてもいい音。前の音に含まれてしまう「呼吸」のようなもの、という感覚が素人の私にはある。俳句を専門に書いているひとは、一定の決まりを持っているかもしれないし、「歳時記」のように決まりそのものがあるかもしれない。
 そして。
 草野はきっと「ん」をしっかりと「一音」として指を折って数えるひとだろうなあ、と思ったのだ。私が曖昧にしているn音もN音として数えている。そういう感じがある。
 そのため音が「ごつごつ」している感じが生まれる。
 俳句とか和歌とか、日本伝統の文学は、万葉をのぞけば、あるいは古今以後は「ごつごつ」が少なく「さらさら/すべすべ」という感じだが、草野の音には「角」がある。ぶつかりながらすり減るのではなく、ぶつかりながら「音」の奥を貫いているものが流動する感じ。表面的ではなく、内部の大きな流動が、表面のぶつかりあいを押し退けて進む感じがある。私の感じる「万葉調」がある。
 「万葉の俳句」というと、変だけれど、そう呼びたいものを感じる。
 草野が俳句を声に出して読むかどうか知らないし、草野の日頃の口調を知っているわけではないのだが、きっと「ん」をNとしっかり発音するひとなのだろう。

 たまたま開いた42、43ページの見開きには、

冬賞与二箇月分で犬を飼ふ

息詰めて開く骨盤オリオン座

ジャンパーに包みて猫の爪を切る

 とやっぱり「ん」の音を含む句がならび、私はそこに「音」を感じてしまう。「ジャンパーに」を5音と数えるには「ジャ」「ン」「パ」「ー」「に」となるのだろう。私の感覚では「ジャン」「パ」「ー」「に」になる。音引き(伸ばされた音)を一音と感じるのはnと違って肉体に力が入るからだろうなあ。
 「ん」を含む句は、ほかにも

初夏の横須賀線が弾み来る

林檎一個カードで買ひぬ乗り継ぎ地

 どれも、なんとなく「好き」と思ってしまうのは、やっぱり「ん」の音が妙に響いてくるからである。こういう句も。

満月に飛ぶほど父に叩かれて

ベランダにいづこから来て石榴ある

ビニールのペンギンを置く冷蔵庫

 で、句集のタイトルになっている、

ぱららんとトランペット鳴り梅雨明くる

 この句にも「ん」があるでしょ? トランペットに「ン」があるのだから「ぱっぱらら」でもいいはずだし、私の感覚ではトランペットの音は最後は閉じずに開放的だから「ん」はなじまないのだが、草野は「ん」と閉じる。その結果、その前の「ぱらら」が強調されるのかもしれないけれど、草野は「ん」の音が書きたくて「ぱららんと」したんだろうなあ。句集のタイトルにするとき「と」があると「ん」が目立たなくなるから「ぱららん」にしたんだろうなあ、と私は思うのだった。









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「連携」の意味は?(情報の読み方)

2020-12-26 08:59:22 | 自民党憲法改正草案を読む
「連携」の意味は?(情報の読み方)

 2020年12月26日の読売新聞(西部版・14版)。9面に安倍の国会質疑の詳報が載っている。詳報といっても1ページだから限りがある。
 そのなかで疑問に思ったこと。
 安倍は、こう言っている。(番号は、私がつけた。)

①前夜祭を開催する責任は東京の事務所が負い、主催は(地元の)安倍晋三後援会だった。東京と地元の事務所が連携していれば、こうしたことは起こらなかったと思う。
②前夜祭の運営やホテルとの交渉、支払いなどを行ったのは、東京の(事務所の)責任者だ。私が「5000円で賄っているか」と聞いたのも、東京の責任者だ。地元の公設第1秘書は「安倍晋三後援会」の代表者であり、主催者としての責任があった。実際の運用は東京で行ったため、支払いについて十分、地元の公設第1秘書に伝わっていなかった。

 ①で「連携」ということばがつかわれている。「連携していれば、こういうことは起こらなかった」と。
 しかし、今回の「補填」は「連携」していたからこそ起きたのではないか。
 また「連携していない」ということが本当ならば、安倍の買収(贈賄)は、いっそう明確になる。「補填」の原資は、安倍の「私的貯金」と主張している。「私的な金」をそのまま会費の不足分としてつかったのだ。「私的な金」だから、「政治資金収支報告書」に記載しなくていいと判断した。言い換えれば「私的な金」で票を買い集めた(有権者を買収した)から、「政治資金収支報告書」に記載してはならないと判断したということだろう。
 その認識が東京の事務所と地元の事務所で共有された結果、政治資金収支報告書にはそれが記載されなかった。こういうことを「連携」といわずに、どういうことを「連携」というのだろうか。
 さらに、「詳報」には書かれていないからわからないのだが、これまでの報道では、桜を見る会の収支についてどう記載すればいいのか、地元の秘書は総務省に問い合わせたということが何回か報道されている。「記載すべきだった」という認識も持っていた、とも報道されている。
 「連携していなかった」という「証拠」として安倍は②で、こう詳しく言い直している。
 「前夜祭の運営やホテルとの交渉、支払いなどを行ったのは、東京の(事務所の)責任者」であり、「地元の公設第1秘書は「安倍晋三後援会」の代表者であり、主催者としての責任があった」。これは「実務」は「主催(名義/名目)」の担当者は別々だった。「分担していた」ということを言いたいのだと思うが、「分担する」とは「連携する」と同義である。「連携」しないことには「分担」は不可能である。
 「論理」が完全に破綻している。(この点を、質問者が指摘しているかどうか、私は知らない。)
 「分担」しているのだから、②の「実際の運用は東京で行ったため、支払いについて十分、地元の公設第1秘書に伝わっていなかった」はまったく奇妙な話であり、本来なら「実際の運用は東京で行ったため、支払いについて、地元の公設第1秘書は十分に詳細を把握し、それを報告書に記載すべきだったのに、怠った」ということだろう。「分担の結果を共有することを怠っていた」ということになる。
 そして、この「怠った」は偶然ではなく、「意図的」である。一度ではなく、複数年にわたって連続している。わざとしないかぎりは、こういうことはおきない。そして、「怠った(忘れた)」と気づいたなら、それをすぐに訂正するはずなのに、それをしなかった。これも、「意図的に連携」しないかぎりはできないことだろう。「記載することを意図的におこなった」だけであり、「補填した事実」は共有し続けたのである。
 だいたい、これまでは「私的預金」から立て替えたと言っているが、立て替えたのなら、立て替えた分が地元の事務所から東京の事務所に支払われていたはずである。それも一回ではなく、連続して複数回である。こういうことは「連携」していないとできない。
 もっと別なことばで言えば、そのときの借用書/領収書(収支報告)が東京や地元の事務所に残っているのか。もしそういうものが存在しないとしたら、それこそ「連携」しているからである。「連携」が強固でないところで700万円だったか800万円だったかの金が行き来するはずがない。もし、「連携」のないところでそういう金が動くのだとしたら、もうそれは「資金を管理している」とは言えないだろう。東京の事務所も、地元の事務所も金の動きに無頓着である。そして、安倍も、「私的預金」がどのうよにつかわれているかまったく気にしていないことになる。
 そんなことをそのまま信じられるのは、「自分の金」が他人によっていくらつかわれようが気にしないよほどの金持ちだろう。あるいは、「自分の金」という感覚がないからだろう。たぶん、安倍は後者なのだ。「金は国民から吸い上げて(納税のことを、安倍は国会で「吸い上げる」と言っていた)、自分のためにばらまけばいい」と思っているのだろう。事務所で管理しているのは「税金」ではないが支援者などから集めた献金だろう。そして、それはもしかしたら「安倍の私的預金」に流用されているかもしれないということも考えてみるべきである。「私的預金」と「後援会の管理する政治資金」がごちゃまぜになっているという「実情」が今回暗示されたのではないのか。「私的預金」から「立て替えた」。けれど、その「立て替え」を証明する「明細」も、「立て替え」を返却したという「文書」ものないのではないのか。
 「私的預金」で「立て替えた」という安倍の主張は、単にホテル代金の補填を超える問題を含んでいる。それこそ「政治資金」と「政治家の個人資金」の問題にも関係してくる。支援者の献金は、もしかすると、別の有権者の「買収資金」としてつかわれたかもしれないのである。言い換えれば、「支援者」が有権者を間接的に買収していたということかもしれないのである。

 読売新聞の「詳報」では、「原資」について、共産党の田村だけが、きちんと問題点を指摘している。

③収支報告書の訂正を見ると、支出部分は増えているが、不足分がどこから払われたか、記載がない。原資が分かる資料を提示していただきたい。

 安倍は「東京の事務所(安倍の私的預金を管理している)」と「地元の事務所(政治資金規制報告書を提出している)」は「連携」してない、と言っている。「事実報告(補填の報告)」、つまり「ことば/認識(文書)」を共有するという「連携」はしていないが、金のやりとりはするという「連携」があれば、それは「連携」である。
 「連携していな」というかぎりは、不足分をどこから収入として得たのか、「原資」がどこからなのかを明確にしなければいけない。「原資は安倍の預金」だけれど、「連携はしていない」というようなことは、何を言っているのか、わからない。その場その場で、ことばをごまかしているだけである。



 







#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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ホテルの企業秘密ではなく、安倍の秘密。

2020-12-25 18:45:58 | 自民党憲法改正草案を読む
ヤフーポストが、安倍の国会での「弁明」を速報している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d93cbe5eed5064c4acd39fba5ec4154b346a3dbb?fbclid=IwAR3Ygs5Hry1AGAUkcPY8sofKmq2iBM7yimZbVAHQ7FYk2t8SWS8jDBajUGQ

そこに辻本とのやりとりが書かれている。私が注目したのは、安倍のつぎの発言。

安倍「営業上の機密ということについてですね、明細書を出さないという(ホテル側の)立場が変わっていないと私は承知しております」
↑↑↑↑
安倍が「承知している」かどうかではなく、明細書を出してもらうために安倍がどういう努力をしたのかが問題。
「私は、いま、こういう状況にある。経緯を説明するために、どうしても明細書が必要なので、明細書の提出してほしい」ということを文書で正式に申し入れ、それに対してホテル側が文書で「営業上の秘密なので提出できない」と文書で回答する。
そういう「記録」が必要。
いま問われているのは、安倍政権下でおきたさまざまな「文書廃棄」が原因。
桜を見る会の名簿も廃棄されている。
文書の廃棄によって、すべてのことが「検証不可能」になっている。
これを改めるためにも、ホテルが「営業上の秘密なので出せない」と回答した文書が必要。
「承知しております」という言い方なら、「補填」も「事務所はいっさい関係ないと承知していた(認識していた)」だろう。
「知らない」と主張するだけでは不十分。「知る」ために何をしたのか、それが問題。
それに。
もっと根本的な問題もある。
最初「企業秘密」といったとき、半額の会費(個人負担)5000円で前夜祭を開催できる理由が「企業秘密」だったはず。なぜ安倍の会だけ安価でできるか。それはたしかに「秘密」にしてもいいことかもしれない。
しかし、実は5000円ではできなかった。つまり、安倍の会は、他の人の会と変わりはなかった。「秘密」にするべきことはない。
ひとり1万円、800人なら800万円。そういう「人数×会費=総経費」という明細は、共通なのだから「秘密」になるはずがない。
いまからでも、ホテルから明細を取り寄せ、きちんと公開し、安倍はこういう嘘をついていたということを「記録」として残す必要がある。
これはさらに言い直すと。
「秘密」はホテル側にはなかった。ホテルは他の会と同じように安倍側に費用を請求し、請求通りに支払ってもらった。
「秘密」は安倍の側にあった。
つまり会費5000円では開催できなかった。差額は安倍が補填した。これは「秘密」。
なぜか。ばれると、有権者への寄付(贈賄、買収)になるからだ。
犯罪だから「秘密」にする必要があった。
それなのに、安倍は、あたかもホテル側が「秘密」を持っているという言い方をした。
こういうことは、きちんと「記録」しないといけない。

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いのうえあき『紡錘形の虫』

2020-12-25 10:15:40 | 詩集


いのうえあき『紡錘形の虫』(書肆山田、2020年12月10日発行)

 いのうえあき『紡錘形の虫』の巻頭の詩「祭りのように」が魅力的だ。

ハサミで
切った。

そら

ずれた

 短い。何があったのか。ここに書かれていることだけがあった。つまり、書かれなければ何もなかったことが、書かれることによって「ある」(あった)に変わった。
 ハサミで何を切ったのか。書いていない。だから、私は、二連目出てくる「そら」を切ったのだと思った。紙を切ると、紙がずれる。そんなふうに空がずれる。それは、ことばをとおしてだけ存在する世界だ。
 一連目には句点「。」がある。二連目には「。」がない。まだ、どこかへことばはつづいていこうとしている。どこへ? それは読者のことばの問題。いのうえは、読者が詩を読むことを誘っているのだ。
 いのうえが、ことばのハサミで何かを切る。そのとき何かが「ずれる」。そこから詩が始まる。
 「ハサミ」ではなく「ことば」をそのまま書いた詩もある。「ことば」。

箱庭のような空間に
ことばを置く

そら うみ まち
雨を降らせて
雪を降らせて

ことばは転がりだすと
痛くて つまずく
傾斜ばかりのまちを
転がりつづけ
ことばの顔が かわる

記憶のうみの
とおいところで
初めて歩きはじめる
生きものの声

 「ことば」から「声」が生まれる。「声」になることは、きっと詩になること。
 知っていることばを、知っている確かさで動かしている。ここに、まるで赤ん坊のような正直を私は感じる。
 短いから、嘘が入り込む余地がない。
 その「声」は、逆に「沈黙」へと結晶していき、詩として輝く。それは、まったく新しい世界そのものの誕生である。
 「沈黙のせかい」。

夏の河原で
石は
石のまま
集まっている

夕闇に立ち
水底を見つめて
鷺は
首をかしげたままだ

土手の片すみに
くちなしの花
贈られた白さを
こぼしている

呼び声は
しずけさを湛えて
彼方から
渡ってくる

 「石は/石のまま」であるように、すべてはそれが、あるが「まま」なのだ。かわりがない。存在(もの)はことばによってかわりはしない。ことばがどんなふうに働きかけようが、あるがまま。
 だとしたら?
 ハサミで切ったとき、「ずれた」のは何?

 詩が「ずれた」のだ。詩が、普遍なものから井上個人のものへと「ずれた」。そして、そのことでさらに詩になった。新しい普遍に触れたのだ。
 こういう言い方は矛盾しているが、詩は、別のことばで語りなおせば矛盾したものになるしかない。それは「共通語」ではなく、あくまでも「個人語」だからである。
 だからこそ、「誤訳」し、「誤読」し、そのなかへ入って、楽しむのだ。


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私的支出のための預金?(情報の読み方)

2020-12-25 09:29:11 | 自民党憲法改正草案を読む
私的支出のための預金?(情報の読み方)

 2020年12月25日の読売新聞(西部版・14版)。「桜」前夜祭、安倍不起訴の記事が展開されている。
 いくつかの見出し、記事ががあるが、注目したのは

補填「私の預金」

①安倍前首相は24日の記者会見で、安倍前首相側が主催した「桜を見る会」前夜祭の費用の一部として後援会から補填資金は、私的な支出のために事務所に預けていた「手持ち資金」で賄ったと説明した。
②安倍氏は「日々、食費や交通費などの費用は事務所に請求書が来るので、事務所で支払う。預金からおろしたものを事務所に預けており、そこから立て替えたということだ」と語った。

 である(番号は私がつけた)。
 ①の「手持ち資金」を②で「(私の)預金」と言い直している。ふつうは、なんにつかっているのか。①で「私的な支出」といい、②で「食費や交通費」と言い直している。なぜ、事務所が「私的な支出」を管理しているかといえば、②で「事務所に請求書が来る」と説明している。
 これだけを読めば、「整合性」がとれている。だから、記者会見でも、これをさらに追及していくということはなかった。
 私が疑問に思うのは、②の「事務所に請求書が来る」、その「請求書」のうち、どれが①の「私的な支出」に当たるのか、だれが判断したのか。何を根拠に「私的な支出」と判断したのか、その基準が示されなかったこと。(問われなかったこと)。「請求書」の明細(食事代など)をきちんと仕分けしていたのか。
 さらに②で「預金からおろしたもの」とあるが、この「おろした」の主語は誰なのか。安倍なのか、昭恵なのか、それとも「事務所」の責任者なのか。また、①「私的な支出」というかぎりは、毎月の「使用額」はだいたい決まっていると思う。請求書がくるたびに、その合計金額を計算して預金を引き下ろし、支払うということはないように思う。それは毎月いくらぐらいだったのか。
 もし、毎月「一定額」を引き下ろしていたのなら、そこから補填額(4年間で708万円、と記事中にある)を、どうやって工面したのだろうか。月々「予備費」として金庫で貯めつづけたのか。補填が必要なときだけいつもよりも多くの金額を引き下ろしたのなら、その月だけなぜ突出して金額が多いのか、なぜ安倍は気がつかないのだろうか。
 預金というからには、「通帳」に「記録」が残っているはずである。それを提出し、「補填」がどのような形で実行されたのか、「説明」する意志はあるのか。
 これを、記者にはぜひ追及してほしかったし、また、きょう(25日)に開かれる国会でも追及してもらいたい。(この文章を読んでいる国会議員はいないだろうけれど、私は、提案しておきたい。)
 ②には「立て替え」ということばが出てくる。この「立て替え」は「安倍晋三後援会」が支払うべきものを、東京の「事務所」が「立て替えた」ということである。東京の事務所がしたことが「補填」ではなく、「立て替え」というのなら、「安倍晋三後援会」から東京の「事務所」に「立替金」の「支払い」がないといけない。その「記録(領収書/請求書)」はあるのか。
 おなじ「安倍関連事務所」だから、「領収書/請求書」というものがないというのであれば、「東京の事務所」が「立て替えた」という「論理」は成り立たない(証明できない)し、それは結局「安倍の私的預金から支払った」ということも証明できない。「補填の原資」の説明にはならないだろう。「立て替え」ではなく、東京の事務所が支払った(補填した)のであり、それは安倍の「私費」から支払ったのだ。「立て替え」なら、安倍の「私的預金口座」に払い込みがなければいけない。
 さらに、「補填」が「安倍の私的預金」からおこなわれたというのであれば、「補填」の恩恵を受けた桜を見る前夜祭の参加者に、安倍から「一定の金額」が寄付された、贈与されたということになる。これは「政治資金規正法」というよりも「公職選挙法」の問題になるのではないか。安倍は「原資は私的預金」と明言している。事務所が集めた金から支出しても、公選法違反になると思うが、「原資は私的預金」と言った意味は大きいと思う。「立て替え」ではなく、「収賄」(贈与)だろう。
 たとえば忘年会で、追加の酒、料理を注文して、会費をオーバーした。そのとき追加分をその会の「幹事(会計責任者)」ではなく、「部長」が「立て替えた」。その後、その「立て替え」を参加者が支払ったということがなければ、その「立て替え」は部長の「おごり(贈与)」である。
 そういうことを、安倍は記者会見で認めたことにならないか。
 政治資金規正法のことはよくわからないが、金の流れの「実感」として、私は、そう感じる。
 読売新聞は、このことを「1段見出し」で小さく紹介しているが、もっと追及すべき問題が隠れていると思う。

 もうひとつ、ぜひ書いておきたいことがある。読売新聞には書かれていないが、「いつ知ったか」の問題である。
 安倍は記者会見で、秘書が聴取を受けているという「報道」のあと、初めて知った。秘書から報告を受けたと言っている。
 これを聞いた瞬間、「既視感」に襲われた。秘書に責任を押しつけることは予想できたが(多くのひとが予想していたが)、どんなふうに「押しつけるか」ということまで私は予想していなかったので、「報道の後」というようなことばを聞いた瞬間に、別のことを思い出したのだ。
 加計学園問題である。加計学園が「獣医学部」の設置を希望していることをいつ知ったか。それを問われた安倍は、獣医学部設置の問題が文科省(だったっけ?)で審議されて、そのとき初めて加計学園が新設枠に応募していることを知った、と答えている。
 このとき国会では、「ええーっ」という驚きの声が響きわたった。
 誰ものが知るようになってから、つまり「公表」されてから初めて知った。
 この「論理展開」が加計学園とそっくりである。もっと前から知ることができたのではないか、加計から働きかけがあったのではないか。これに対して安倍は、そういうことはない。そういう「記録はない/事実を証明するものはない」と言い張った。
 「記録がない(公表されていない)」ということを、安倍は「知らなかった」の根拠にしている。
 そして、このことは逆に言えば、「記録」さえなければ、すべてを「知らなかった」で処理できると考えているということである。
 これが、あらゆる安倍疑惑の問題につながっていく。「記録(文書)」の廃棄。証拠隠滅である。これまで安倍がやってきたことを、前はそれでうまく言い逃れられたから、また繰り返しているといことなのだ。
 どこまでもどこまでも「既視感」だらけなのは、このためだ。

 で。
 だからこそ、「補填原資は私的預金」と答えたことが重要になる。「預金」はいつも「預け入れ」と「支払い」の記帳(記録)によって管理される。その記録(記帳)の公開をどこまで国会は追及できるか。「私的預金」だからプライバシーを盾に公開を拒否するだろう。しかし、そこから「立て替えた」と安倍は明言しているのである。明言しているならプライバシーも何もないだろう。
 ぜひ、追及してほしい。

 もうひとつ、「見出し」になっていないが、非常におもしろい「記事」が社会姪に書かれていた。問題の秘書の「人間像」に迫る社会面の記事である。末尾に、こう書いてある。
 
 前夜祭費用の補填問題が報じられた11月下旬。配川容疑者は周囲に「連夜、桜を見る会で頭が痛い」と漏らしたという。読売新聞は複数回、配川容疑者に取材したが、質問には答えなかった。

 では。
 11月23日の「特ダネ」から始まった一連の記事の中で、「安倍にうそをついてもらった」というような配川容疑者の「声」は、いったいどこから入手できたのか。聴取しているのは特捜本部である。一連のリーク元が特捜本部であるという「種明かし」を読売新聞は、最後で、ぽろりと「正直」にさらけだしている。
 リーク元が特捜本部であるかぎり、その捜査の「行方」もリークされただろう。「結果」が未定(見込み)のまま捜査情報をリークするはずがない。ということは、すべてが「情報操作」であるといことだ。繰り返し繰り返し、問題は「政治資金規正法違反」であり、それは秘書の問題という記事を書くことで、安倍批判を弱めていく。安倍が不起訴になるのは当然だという論理を納得させるために記事が書かれ、そのシメとして安倍の「会見」が設定された。たぶん、最初から、そういうシナリオだったのだ。秘書の犯罪を糾弾するのではなく、秘書が犯した犯罪を、秘書に代わって謝罪する。会見では、「3度頭下げ」たと読売新聞は見出しにとっている。読みようによっては、秘書の犯罪のために、安倍がこんな目にあうなんてかわいそう、と思うひとも出てくるだろう。
 私は、安倍が頭を下げようが(それが何回であろうが)、そんなことは気にもならない。安倍が辞任するか、どうかが安倍自身の行動として問題だ。どうせ、「頭を下げる」という演技をしただけなのだ。







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