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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村文昭「an Evil」、平田俊子「庭」、八木幹夫「私の耳は」

2008-12-31 12:20:30 | 詩集
中村文昭「an Evil」、平田俊子「庭」、八木幹夫「私の耳は」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 中村文昭「an Evil」の初出紙誌は『オルフェの女』(2008年03月)。
 詩にはリズムが必要である。リズムがことばを非日常へと突き動かす。その書き出し。

ヒバリの声が鋭く空を切った夕
月はのぼり----ころころ
坂道を転がる目玉たち----

一つ踏んで
一つ青い花が咲きました

声を喪くした精霊の夢に憑く
酸えた香りの白い少女

ぶちっ
二つ三つと踏みつけて
二つ三つ青い蝶が咲きました

 「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」。この繰り返しが、ことばを異界へ、いま、ここを超越した世界へと遊ばせる。リズムに乗ることで、次のことばが厳密な文法、厳密な現実対応から離脱しても気にならないようにする。次にくることばに求められるのは「音楽」だけである。「音楽」として楽しければ、つまり音として明快であれば「意味」はどうでもいい。

二つ三つ青い蝶が咲きました

 「一つ青い花が咲きました」は普通の文法だが、「二つ三つ青い蝶が咲きました」は違う。「蝶が」「咲きました」という文法は日本語としておかしい。こういうおかしさを超越して、それでいいのだ、と肯定するのが詩である。詩のことばの特権である。「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」というリズムに乗れば、「一つ青い花が咲きました」の次は「二つ三つ青い蝶が咲きました」と「咲きました」に乗るしかない。乗ってそのまま、いま、ここを超越するしかない。超越することで見えるものに身を任せるしかない。
 詩の続き、不思議な世界に行きたい人は、どうぞ詩集をお読みください。

*

 平田俊子「庭」の初出紙誌は「読売新聞」2008年04月15日。
 平田の作品もリズムを活用して、いま、ここという現実を超越する。八木さん(八木幹夫さん?)がタケノコを送ってくれると言った。でも、届かない。そう書き始めて、そのあと。

タケノコではなく
カズノコを
送ると八木さんはいったのか
庭で採れるのはカズノコか でも
タケノコ同様
カズノコも
きょうもこないではないか

タケノコの絵を描いてみる
カズノコの絵を描いてみる
八木さんの絵もついでに描いて
ヤギノコと名前をつけてみる
タケノコではなく
ヤギノコを
送るとカズノコはいったのか
うちに届くのはヤギノコか
ヤギノコは私の好物だ
アノコやコノコと煮るとおいしい
アノコやコノコは私の庭で
白い手足で戯れている

 「タケノコ」「カズノコ」「ヤギノコ」「アノコ」「コノコ」。ことばの「音楽」に乗ってどこまでも自在に動く。いま、ここが、するりと非日常に動いてゆく。それは非日常だけれど、現実でもかまわない、という楽しさがある。もしかすると、このことばのリズム、音楽に乗って遊びに行ける世界こそほんとうの世界であって、「ヤギノコ」が見えない世界、存在しない世界の方が「文法」に縛られた偽物の世界かもしれない。
 
 この詩は、リズム、音楽と同時に、また、ことばの重要な「いのち」にも触れている。

ヤギノコと名前をつけてみる

 名前をつけること。これはことばの一番大切な仕事だ。名前によって「もの」は存在する。「もの」に名前があるのではなく、名前をつけることで「もの」が存在するのである。名前をつけない限り「もの」は存在しない。存在が認知されない。そういう世界を逆手にとって、名前をつけることで、「もの」を存在させてしまう。これは文学の特権である。光源氏もハムレットもドンキホーテも名前をつけられることで存在するなら、「ヤギノコ」だって同様に存在するのだ。そして、そういう存在を道案内にことばの世界へ入っていく。それが文学を旅することだ。ことばでしかできない旅は、そうやって始まる。

*

 平田の詩には付録(?)がついている。八木幹夫「私の耳は」である。「現代詩手帖」の編集では、平田の作品のすぐあとに八木の作品が掲載されている。八木幹夫「私の耳は」の初出紙誌は『夜が来るので』(2008年04月発行)

私の耳は音を聞きすぎる
闇を飛ぶ無数の蝙蝠の羽ばたき
地を走る無数の昆虫の足音
私の耳は利益につながる音を聞き分ける

 私が読むように読んではいけないのだろうけれど、ね、平田の「タケノコはどうしたの」という問い合わせに、「私の耳は利益につながる音を聞き分ける」と開きなおっている感じがしませんか? いいなあ、このやりとり。
 2連目は「私の耳には毛が生えている」で始まるのだけれど、なんだか「毛が生えている」ので「よく聞こえません」と平田に言い返しているような、楽しい感じがする。
 私のこの感想は、八木の詩を独立させて読むと完全な誤読なのだけれど・・・。
 でも、いいよね、八木さん。こういう間違った読み方。文学はことばを遊ぶための方法だもんね。


夜が来るので
八木 幹夫
砂子屋書房

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リッツォス「反復(1968)」より(2)中井久夫訳

2008-12-31 11:21:44 | リッツォス(中井久夫訳)
敗北の後    リッツォス(中井久夫訳)
アテネ人はアイゴスポタモイで撃破され、
決定的敗北が続いた。自由な議論が、
ペリクレス期の栄光が、
芸術の開花が、ギュムナジウムが、哲学者の饗宴が、
みんな失われた。今は陰鬱な時代だ。
市場には重苦しい沈黙。三十人僣主の驕り高ぶり。
すべてふとしたあやまちで起こったことだ(さらに切実にわれらのものなるものでさえ)
訴える機会はなかった。弁護も擁護も、
形だけの抗議されも。パピルスも本も焼かれた。
わが国の誉れは朽ちた。旧友でさえ、
よしんば証人に立つことを認められても、
恐怖して、似たかかわりあいになりたくないと断るはずだ。
むろん、それが正解だろう。だからここにいるのがまだましだ。
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
いつの日か、新たなキモーンがやってきて、
ひそかに、同じ鷲に導かれ、ここを掘って、われらの鉄の槍の先を掘り出すだろう。
錆びてぼろぼろで使いものにならないだろうが、
アテネに行って、勝利の行列か、葬列かのなかでこの槍を捧げ持って歩んでくれるかもしれない、音楽の演奏の中で、花綵(はなづな)に飾られて--。



 リッツォスの詩にしてはかなりことばが多い。ことばの情報が多い。こういう作品は、私は、あまり好きではない。ことばがあふれかえって、ことば自身が持っている「孤独」が見えにくくなる。リッツォスのことばは皆孤独であり、それが美しいと感じる私には、この詩は長すぎる。
 唯一、気持ちよく読むことができるのは、
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
 この4行である。特に「海と石と野の草から成る世界の切れ端」が好きである。「国破れて山河あり」ではないが、人間と無関係にそこに存在している「自然」が「無関係」ゆえに清潔である。「切れ端」が少しめくれあがって、そこから世界が変わっていく--そういう夢想を、孤独な夢想を誘ってくれそうである。あるいは、切れ端がちぎれていって、ここではないどこか遠くへ連れていってくれるかもしれない--そういう夢想に誘ってくれる。そこにはやはり、海と石と野の草があるのだ。
 そんなこことを思った。


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リッツォス「反復(1968)」より(1)中井久夫訳

2008-12-30 15:42:09 | リッツォス(中井久夫訳)
終わらない    リッツォス(中井久夫訳)
山に雲がかかった。誰がいけないって? 何だって? つかれて、黙り、
男は足許を見つめ、きびすを返し、歩き、腰を屈める。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
口実。口実。詩は遅れる。空虚。
言葉の意味は言葉が隠すもので決まる。

 ことばはたしかに何かをあらわすために使うというよりも、何かを隠すためにつかうものかもしれない。
 詩において、何かを具体的に書きたいときでも、それはそのことばが他の何かをためにつかわれるということを「隠す」。つまり、限定する。ことばにはいろいろな意味があるのに、その意味のいくつかを隠すことで、ことばは突き進む。そして、隠しつづけて、いま、ここにないものにまでたどりつく。
 いま、ここに存在しないもののために、ことばは動く。詩は、動く。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
 この単純な事実を述べることばは、何を隠しているのか。何を隠していると、読者は感じるか。何を感じると想定して、リッツォスはことばを書いているのか。
 私が感じるのは、いつも孤独なこころだ。リッツォスの孤独だ。石に、鳥に、水瓶に、アザミにこころを寄せる。そして、こころは下に、上に、窓辺に、谷へとさまよう。そこで、こころは石、鳥、水瓶、アザミ以外の何にも出会わない。孤独である。
 手は、ポケットのなかで何をつかんでいるのだろう。何を探しているのだろう。ポケットのなかにある手そのものを探している。手は、なぜ、ここにあるんだろう、と手のこころを探している。
 そんな孤独を思う。
 この孤独に、おわりはない。


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倉橋健一「誕生」

2008-12-29 08:48:07 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「誕生」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 倉橋健一「誕生」の初出誌紙は「イリプスⅡnd」(創刊号、2008年04月)。
 書き出しがとても魅力的だ。

老いた駅夫がしわがれた声で駅名を連呼するが
木棚のところではじけとんで
こちらまでは届いて来ない
私はずっと前から
アブラゼミになったり
シオカラトンボになったり
ヒキガエルになったり
そのたんびに棲み分けながら

 夏の風景。光が見える。白い光だ。その白い光のように、人間の声がはじけとんでしまって、いま、ここに静寂がある。いや、沈黙がある。その沈黙は、人間の奥から、人間以前のものをすくい上げてくる。人間が沈黙するとき、いのちが声をあげるのだ。
 「アブラゼミ」「シオカラトンボ」「ヒキガエル」。そして、そういう「人間以前」をすくい上げながら、同時に「場」もすくい上げる。「そのたんびに棲み分けながら」と簡単に書いているのに、木が、風が、草むらが、泥が見える。匂う。それらか絡み合って、ひとつの風景になる。
 このいのちの増殖の引き金が「なる」(なったり)という動詞なのも、とてもいい。いのちの増殖は、いのちの運動(動詞)なのだ。
 あ、アブラゼミになってみたい、シオカラトンボになってみたい、ヒキガエルになってみたいと思う。そういういのちになると、何が見えてくるか。
 詩はつづいていく。

ただ周りは見渡すかぎり田畑で
山裾辺りにわずかに藁葺屋根の家があって

 高橋が書きたいことは、ほんとうは、私が引用している後の部分かもしれないが、私は、ここまでのリズムがとても好きなのだ。
 小さな生き物、そのいのちの視線が、しだいに人間の暮らしに近づいていく。「田畑」「藁葺屋根の家」。そういう風景の広がりが、いのちの営みの連続した広がりになって感じられる。
 こういう作品は、どうしても哲学的になっていく。
 その後半こそ、高橋の書きたいことなのだとは思うけれど、それは、ここでは省略。
 私は、井川博年の詩に触れたとき書いたように、たいへんな田舎で育ったので、哲学的なことばよりも、高橋がこの作品で書いているようないのちの運動の連続がそのまま人間の暮らしになっていくという「自然」がとても好きなのだ。なつかしく感じるのだ。
 高橋は夏の光を描写しているわけではないが、いのちを祝福する夏の光、天からまっすぐに降ってくる光が見えるようだ。あらゆる影を切り取って、いのちを光の中で、単独で存在させる夏。そのときの、孤独。至福。愉悦。どんないのちにでもなれる--そういう限りない可能性の時間。そういうものを感じさせることばのリズム。それに、私は烈しく揺さぶられた。



化身
倉橋 健一
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(8)中井久夫訳

2008-12-29 00:43:34 | リッツォス(中井久夫訳)
カルロヴァッシにおける死    リッツォス(中井久夫訳)

死んだ男とイコンは奥の部屋に安置された。女は男の上にかがみ込んだ。女も男も手を組み合わせていた。女には男の見分けが付かなかった。
彼女は腕をほどいた。もう一人の女が台所でサヤエンドウを湯がいていた。
鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。
のろのろと帽子を取った。最初の女は、できるだけ音を立てないように、
卵の殻をテーブルから集めてポケットに入れた。



 私は、こういう生活がきちんと書かれた作品が好きだ。生活をきちんとことばにして、そういうことばが詩になるのだと教えてくれる作品が好きだ。
 だれかが死ぬ。そういうときも、人の暮らしはつづいている。それは非情なことなのか、とけも情がこまやかなことなのか、よくわからない。よくわからないけれど、そういう時間がたしかに存在する。そして、それはことばになることを待っている。
 死とサヤエンドウを湯掻くという生活の出会い。そこに詩があるのだ。人間の淋しさがあるのだ。こういう出会いをみると、私は西脇順三郎を思い出す。淋しい。淋しい、ゆえに我あり、といった西脇を。その淋しさの美しさを。

鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。

 この文体も、私は非常に好きだ。森鴎外を思い出す。
 長男がドアを開けて部屋に入ってきた。そのために湯の音が聴こた、というのではない。湯の音に気がつく。気がついてみると、そこに長男が入ってきていた。そういう意識の動きを説明をくわえずに具体的に描く。説明を省略しているために、ことばが非常に速くなる。意識にではなく、肉体に直接何事かを知らせる。そういう強い文体に、とてもひかれる。(これは原詩の力というよりも、中井の訳の力かもしれない。中井の訳には漢文のスピードが非常に多く登場する。)
 説明がないからこそ、私たちは、「頭」を経由しないで、男の動き、その意味を肉体で知る。女の動きの意味を、「頭」を経由しないで、肉体で知る。そういうとき、肉体のなかに、死の記憶、誰かの死と立ち会ったときの記憶がくっきりと浮かび上がり、作品を、遠い世界のものではなく、自分の身近なものと感じる。
 肉体のことばで書かれた作品には、時空を超える力がある。
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大岡信「前もつて知ることはできぬ」

2008-12-28 23:41:25 | 詩集
大岡信「前もつて知ることはできぬ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 大岡信「前もつて知ることはできぬ」の初出誌紙は『鯨の会話体』(2008年04月)。
 大岡の詩を読むと、ことばの運動が詩なのだということがよくわかる。ことばが動くことでしか明らかにできないものをとらえるのが詩であるということが、とてもよくわかる。作品の書き出しの2連。

われわれは前もつて
持つことはできぬ、
愛するものの
完璧なイメージを。

こなごなに壊されてしまつてから
それはやうやく
真にわれわれのものになる
いとほしい思ひ出となって--

 取りかえしがつかない、あるいは不可能を知ったときに、その不可能性のなかでのみ、何事かが生成する。その動きが詩なのである。思い出は過ぎ去るものではなく、つねに生成してくる。過去から今へと生成してくる。そのとき、詩が生まれる。
 この詩で、私はひとつだけ気がかりなことがある。

こなごなに壊されてしまつてから

 この行の「壊されて」が、なぜか気になる。
 この詩には、「戦争はすべてを手遅れにする」という副題がついている。「戦争」が「愛するものの/完璧なイメージ」を壊してしまう。戦争によって、壊されてしまう。そういうことを描くことで、反戦を訴えている。それはたしかによくわかるのだが、「壊されて」が気になる。
 もしこれが「壊してしまってから」なら、私は、そんなに気にならなかったと思う。

 「壊されて」には、何か「被害者」のイメージが残る。戦争の前ではだれもが被害者、犠牲者だから、「壊されて」でかまわないのかもしれない。しかし、世界には、被害者、犠牲者だけが生きているのではなく、どこかに加害者もいる。私たちは加害者かもしれないという視点が、論理を明確に(ことばの運動を明確に)しようとするこころによって、すーっと、こぼれてしまっているような気がするのである。





鯨の会話体―詩集
大岡 信
花神社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(7)中井久夫訳

2008-12-28 00:24:05 | リッツォス(中井久夫訳)
一覧表    リッツォス(中井久夫訳)

夜には、別の壁が壁のまた後ろにあるのを本能が教えるだろうか。鹿も
泉の水を飲みにやってこようとせず、森に残る。
月が出ると、第一の壁が砕ける。次いで、第二、第三の壁も。
野兎が降りてくる。谷で草をはむ。
あらゆるものが、そのままのかたちとなり、やわらかで、輪郭がぼんやりして、銀色だ。
月光のもとの雄牛の角も、屋根の上のフクロウも、
河をあてどなく流れ下る、封印をしたままの梱包も--。



 リッツォスの作品としては、かなり珍しい部類の作品だと思う。人間が登場しない。主役は「夜」である。とても美しい。自分のいのちをまもって静かに生きる動物たちの姿が、とても静かだ。
 そして、最初に「人間が登場しない」と書いたけれど、その静かな姿のそばを、人間の形をしない人間が通っていく。河を流れる「梱包」。そこには「人間」の匂いがする。その匂いが夜のなかで異質に輝く。
 詩は異質なものの出会い--そういう定義に従えば、ここに詩がある。そして、この詩の特徴は孤独である。「梱包」さえも、他者から離れ、孤立している。封印をほどかれないまま流れてきた--これは、別の見方をすれば、封印をしたまま流されてきた(知られたくないものを封をしたまま誰かが流した)とも受け取れる。しかし、それをリッツォスは「封印をしたままの」と修飾する。定義する。そうすることで、そこに「梱包」の孤独が生まれる。
 この、微妙なことばのつかい方--その訳し方。孤独を愛する人間の精神が、月の光を浴びて、いま、静かな森で佇んでいる。

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井川博年「バスに乗って」

2008-12-27 14:24:18 | 詩(雑誌・同人誌)
井川博年「バスに乗って」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 井川博年「バスに乗って」の初出誌紙は「読売新聞」2008年04月01日。
 ことばはいつまで生きているのだろう、と思った。ことばに「死」はないかもしれないが、それでもふとそんなことを思った。あまりにも、ことばが古い。

バスに乗って田舎に帰った。
老いた両親の待っている
山の麓の小さな村へ
父と母の喜ぶ甘いものと
近所のひとに配る都会の土産を
新品の鞄につめて手にさげ
月賦で求めた背広を着て
新しい靴を履いて
石ころだらけの山道を一時間
満員のバスにゆられ

 「山の麓」「小さな村」「甘いもの」「都会」「新品」「月賦」「背広」。どのことばも知っている。知っているけれど、いま、私はそういうことばをつかわない。私はたぶん井川の書いている「山の麓の小さな村」よりはるかに山奥の、はるかに小さい集落の生まれだが(今ではバスは1日2便である。家の近くではどこでも留めて降りることができる)、それでも、いまは、そういうことばをつかわない。私の生まれ育った集落のひとももうそういうことばをつかわない。
 井川はなぜこんなことばをつかったのだろう。
 詩のつづき。

そうしてようやく
村の入口のバス停に着く
そこからは暗くなりはじめた村道を
両親の家まで駆けて行くのだ
はや明かりの灯いている
古いなつかしい家の方へ

 ことばはどんどん古くなる。「はや」。あ、こんなことばを井川は日常的につかっているのだろうか。
 これは、現実を描いているのだろうか。
 2連目。

バスに乗って田舎から帰った。
両手にいっぱいの手土産を持って
手を振りながらバス停に急ぐ
がらがらのバスに飛び乗ると
土産物を棚に上げたまま
旅行者のふりをして知らぬふり
窓ガラスに映る泣きべその
顔ばかり見ているのだ

 詩はまだまだつづくのだが、この連には1連目のような「古い」ことばはない。(あとでふれる「夜行列車」が唯一の例外だが。)そのかわり、びっくりするようなことが書かれている。

旅行者のふりをして

 これは、私の感覚では、とても理解できない。「石ころだらけの山道を一時間」かけてたどりつくような村に「旅行者」って、来るの? 少なくとも、私の田舎の集落にはやってこない。そして、そこでは(私の集落では、という意味である)、私が帰郷したなどといわなくても(近所のひとにお土産を配ってまわらなくても)、私の帰郷を知っている。隣近所(といっても 100メートルも離れているけれど)ばかりか、私の家からさらに何キロも離れたところに住むひとまで知っている。故郷を離れて何年にもなるので、私は故郷のことをほとんど知らないが、故郷の方では(故郷を離れなかったひとびとは)私のことを知っていて、「旅行者」なんかには絶対になれない。私の田舎では乗合バスに乗るのは、車を運転できないお年寄りだけである。車で移動するしか方法がない、というのが町から離れた「限界集落」の現実である。
 この詩は「現代」を描いていない。
 2連目の最後の方に「夜行列車を乗り継いで」という行が出てくる。こういうことも、現代では、実現不可能だろう。JRを私は最近利用していないので確かめたわけではないが、乗り継ぎができるほど「夜行列車」が走っているだろうか。(いま「夜行列車」ということばをつかって旅行の計画を立てる人は、まずいない。)
 この詩は、簡単に言えば、いまとは無関係である。井川の記憶を描いているのだろう。そのために、あえて古いことば、いまはめったにひとがつかわないことばを書き並べているのだろう。記憶を残すように、ことばを残したいのかもしれない、井川は。
 しかし、記憶であると仮定したとき、また、先に指摘した1行が気になる。

旅行者のふりをして

 何十年も前の古い時代の記憶だと仮定したとき、この1行はとても異様だ。何十年も前の田舎--人間関係が濃密な田舎では、「旅行者」はすぐにわかる。乗合バスに「旅行者」がいれば、それはすぐにわかる。絶対に、「ふり」などできない。ひとが「旅行者」のふりをできるのは、田舎ではなく、都会なのだ。そこでは、誰が誰であるかわからない。知らんぷりをできる。装うことができる。しかし、田舎では装うことはできない。だれもがみんな知り合いというのが田舎だからである。

 遠い昔をなつかしく思うことは誰にでも共通することかもしれない。古いことばをきちんと残したい。古いことばの持っている味を引き継ぎたいというのは、とても大切なことだとは思う。しかし、そういう思いを優先させて、「古い記憶」そのものを偽りのものにしてしまっては、古いことばをつかった意味がない。
 井川は、単に「古いことば」をつかって、人の郷愁「のようなもの」をあおっているだけなのである。私は、こういうセンチメンタルを利用した詩が、とても嫌いだ。

 「旅行者」にケチをつけたついでに、最後まで引用して、もうひとつ批判しておく。詩は、次のようにつづいている。

遠くキラキラ湖水が光り
室内灯をつけたバスははずみながら
眠った乗客を乗せ
橋の多い市街に近づいて行く
そこから駅に降り立って
夜行列車を乗り継いで
ひとのいっぱいいる都会に
また帰るのだ

 「がらがらのバス」「室内灯」から、このバスが夜(少なくとも日が落ちてから)走っていると想像できる。(夜に街の方へでかける人は少ないから「がらがら」なのだ。逆に、朝は町から田舎へ向かうバスは客が少ない。)室内が明るく、外が暗いからこそ、窓ガラスが鏡のようになり、そこに「泣きべそ」の顔も映るわけだ。そうだとするなら、

遠くキラキラ湖水が光り

 とは、どういう状況だろうか。なぜ夜の湖水が「キラキラ光」るのだろう。何の反射?星、ということはないだろう。街の明かりでもないだろう。考えられるのは月くらいしかないが、もしそうなら、きちんと月を見たと書かないと、不自然だろう。

 記憶というのは、誰の記憶も、しだいに薄れ、歪んでいくものだろうけれど、その歪みに気がつかないだけとは、とても思えない。
 ノスタルジックなことばを書きたい、そういうことばを書きつらねることで同じ年代の共感を得たいという思いが強すぎて、ことばをねじ曲げているのではないだろうか。
 つかわれたことばがかわいそうである。




井川博年詩集 (現代詩文庫)
井川 博年
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(6)中井久夫訳

2008-12-27 00:12:45 | リッツォス(中井久夫訳)
囚人    リッツォス(中井久夫訳)

彼は、窓を開ける度に、自分の姿をこっそり見た。
通りの向かいの家の窓越しに。
対面の部屋に縦長の大きな鏡があった。
その部屋に何かを盗みに入った気がした。
我慢ならぬ、新鮮な空気ももらえず、太陽も、少しも拝めぬとは。
ある日、彼は石をつかんで、狙って、投げた。音がして、
その家の人が窓に顔を出した。「やや」とその人は言った。
「鏡の中の自分を見ようとする度に、背越しにおまえさんが
うさんくさそうに私をみる、--我慢ならん」
相手は背を返して部屋に入った。自分の持ち物の空間に。その部屋の
鏡の中には、お向かいさんが、歯に短刀をくわえて持っていた。



 シンメトリーの世界。
 何よりもおもしろいのは、4行目である。向うの部屋の鏡に自分が映る。それを見て、まるで自分がその部屋に「盗みに」入ったように感じる。「盗みに」ということばが出てくるのは、「囚人」が「盗み」を働いてとらわれているからかもしれない。非常に、なまなましい感じがする。
 そして、その次の行。それが指し示す世界が、二重に見えることもおもしろい。
 「我慢ならぬ、新鮮な空気ももらえず、太陽も、少しも拝めぬとは。」とは、囚人のことばなのか。それとも、向うの部屋の鏡に映った「自分」の声なのか。私には、鏡の中の男の声に聴こえる。「監獄」のなかに閉じ込められている男ではなく、鏡の中でしか動けない男の声に。監獄のなかよりも、鏡の中の方が狭い。その狭さ、窮屈さに鏡の中の男は怒っている。--もちろんそれは、実際の囚人の心境の反映ではあるのだが。
 それから以後は、もっと複雑になる。向き合った鏡が、その中で像を増殖させていく感じである。鏡のなかに映った自分を見ようとすると、その鏡の中の男が、自分の背中越しに自分を見ている気がする。つまり、「盗人」が鏡の中の姿を見ようとすると、その「盗人」の将来の姿である「囚人」が自分を見ている--つまり、「盗人」をすれば「囚人」になることがわかって、その「盗み」を見ているのである。
 この増殖するイメージの構造に怒って、鏡の中の「盗人」は、囚人が自分の部屋の鏡を覗き込むときを狙って、囚人を背後から襲おうとする。鏡に、刃物を映してみせる。「通り」を挟んで離れていても、鏡の中では「ふたり」は重なり合う。その重なりあいを利用して行われる殺人。
 これは、とてもスリリングである。
 この詩は、これだけですでに短編小説であるけれど、この詩を土台にして(というより、そっくりそのままいただいて)、小説を書いてみたい、という欲望にとらわれた。ボルヘスの小説よりおもしろくなりそうな気がする。


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目黒裕佳子『二つの扉』(3)

2008-12-26 10:19:12 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(3)(思潮社、2008年11月30日発行)

 詩集のタイトルとなっている「二つの扉」は非常に「広い」詩である。宇宙を感じる。しかも、その宇宙というのは、「空」の彼方ではないのだ。「物理」ではないのだ。
 私は、萩原朔太郎の「竹」を思い出した。この作品は、21世紀の「竹」である。

夜空の黒に 根をはる
夜の真空に向かって
その奥に向かって はる
無数の星屑に向かって
あのひとつの星に向かって はる

細らぬ根のさきに 青白い光の尽きるとき
<わたし>は逆さになって 泣く
幾光年もの隔たりのなかで
<わたし>といふ広がりのなかで
そして川床に泡を 吐く

 宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>。遠い彼方へ根をはりながら、泣いている。その根の震え。それを一方で、目黒は「地上」で見ている。「肉眼」で、つまり「肉体」で見ている。宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>は、現実の現象としてはありえない。だから、それを見つめるのは「肉眼」「肉体」でなければならない。「肉体」を持たないものは、つまり「頭」では、それは見つめることはできない。
 宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>と「地上」の、いま、ここにある「肉体」としての<わたし>。それは向き合う鏡像のようなものである。その宇宙にある<わたし>と地上の<わたし>を、目黒は「向かひあふ/二つの扉」と書いているように、私には思える。
 詩の、つづき。

向かひあふ
二つの扉が 蝶つがひを緩めるとき
世界の草むらは薫る ゆっくりと
石はみづからを開き
びわの実は殴り合ふ

 宇宙の<わたし>は、いわば空想の<わたし>、架空の<わたし>である。その架空と、地上の本物の<わたし>。それが向き合い、架空・本物という関係を緩める。架空・本物という識別をしない。そのとき、世界が激変する。ふたつの関係を「混沌」としたものにしてしまうそのとき、その「混沌」こそが「宇宙」そのものになる。「宇宙」は空の彼方にあるのではなく、空の彼方と地上、架空と本物を結ぶ、その「間」のなかに出現する。
 「混沌」とは関係を放棄した世界である。関係を自在につくっていく「場」、生成の「場」になる。
 それは「無」に似ている。「無」としての「場」。だからこそ、そこでは固いはずの石も「みづからを開」ということが起きるのだ。なんでも可能なのだ。
 詩は、さらにつづく。

そのとき
この位置に なだれこむ見ず知らずのもの
細い根は
<わたし>の奥に至りつき 破き そっと
外側にでてゆく

開け放された
二つの扉のあひだには
誰ひとりゐなくなる
ただ時折 低い声で 詩が
ささやきあっている

 「無」の「場」。そこには「時」だけがある。(時間ではない。)そこでは生成だけがおこなわれるのである。生成にあわせ「時」は動き、その結果として「時間」が生まれるかもしれないが、それはあくまで結果であって、存在するのは「時」である。あらゆる変化をうけいれる「時」、そして、運動とともに広がる「場」。充実する「場」。
 その「時」を目黒は「詩」と呼んでいる。
 生成は、常に、何かを破壊してこそ生成である。もちろん、そこでは<わたし>も破壊される。(破られる。)そうすることで、<わたし>は<わたし>の外へ出ていく。<わたし>を超越する。そのときも、存在するのは、そういう生成の運動と、それを保証する「時」だけである。

 この、奥深い哲学を目黒はどこからつかんできたのか。どうして、この形で書き表せるとわかったのか。
 --私には、何もわからないけれど、ぶるぶると震えてしまう。
 なまなましく、そして、どこまでもどこまでも広い「宇宙」。肉体の中の「宇宙」。いや、肉体になった「宇宙」。

 これは、すごい。すごいとしか、いいようのない作品である。





二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(5)中井久夫訳

2008-12-26 00:32:47 | リッツォス(中井久夫訳)
顔か表看板か    リッツォス(中井久夫訳)

彼は言った、--この石の彫像は私が彫ったものだが、
ハンマーを使わず、素手のこの指で、この眼で、
素裸のわが身体で、私の口唇で彫ったので、
今では誰が私で誰が彫像か、分からなくなりました。

       彼は彫刻の陰に隠れた。
彼は醜い、醜い男だった。彼は彫刻を抱擁し、抱き上げ、腰の周りに手を廻して
一緒に散歩した。
       それから彼はこう言った。おそらくは
この像のほうが私でしょう。(実に素晴らしい像だった)。いや、この像は
独りで歩くのですとまで言った。だが誰が信じるか、彼を?



 どんな作品であれ、つくられたものは作者を代弁する。そこには作者が含まれている。いや、含むのではなく、作者そのものである。鑑賞者にとってだけではなく、作者にもそういえる場合がある。作品がすべてである。作品以外に「私」といないのだ、と。リッツォスは、彫刻家に託して、そういう「人間」(芸術家)を描いている--という「意味」を主体にして読んでしまうと、この作品は、ただそれだけでおわってしまう。
 それでもいいのだろうけれど、何か、そういう「意味」で作品を読んでしまうと、「おもしろい」という部分がなくなってしまう。と、私には思える。 

 私がおもしろいと思うのは、たとえば3行目の「私の口唇で彫ったので、」という「口唇」ということばである。くちびるで石を彫るということは、現実にはできない。そのできないことをリッツォスは書いている。同じようなことばが2行目にある。「この眼で」彫った。「眼」でももちろん石を彫るということはできない。しかし「眼」で彫るといった場合、口唇で彫るというときほど違和感はない。たぶん、眼が見たまま、眼の見たものを彫ったという意味で、「眼で彫る」という言い方は可能だからである。その「文法」を流用すれば「口唇で彫る」とは「口唇で味わったもの」を彫るということかもしれない。「口唇」が味わいたいものを彫るということかもしれない。
 ナルシシズム。--私は、ナルシシズムを感じる。それも、非常に肉感的なナルシシズムである。ナルシスのように「眼」だけで「美」を感じるのではない。肉体全体で味わうナルシシズムを感じる。官能的なナルシシズムだ。
 そして、それ、石像ではなく、ナルシシズムは、たしかに「独りで歩く」かもしれないとも思う。
 --と書いてしまうと、また別の「意味」があらわれてしまうので、どうもいやな気持ちになる。
 私は、この詩では3行目の「口唇で彫った」ということばはとても好きだ。そのことばにうっとりしてしまった、とだけ書けばよかったのかもしれない。

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スコット・デリクソン監督「地球の止まる日」(★)

2008-12-25 23:14:19 | 映画
監督 スコット・デリクソン 出演 キアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー

 始まった瞬間に、あ、この映画はだめ、とわかる。ヒマラヤで男がテントのなかにいる。夜。外は吹雪。明るいものが飛んできて、落ちる。それを男が探しに行く。なぜ、そんな危険なことをする? 冬山登山は安全を第一にこころがける。好奇心だけで、吹雪のなかを山を登ったりはしない。リアリティーというものがまったくない。安っぽい嘘。しかも、ストーリーのための嘘である。
 ストーリーも味気なければ、映像もとても味気ない。情報量が少ないのである。だいたいキアヌ・リーブスもジェニファー・コネリーの表情に乏しい。表情の情報量が少ない。喜怒哀楽も興奮も落胆も、のっぺりした顔からは伝わってこない。キアヌ・リーブスはそののっぺり顔を買われて、「宇宙人」(人間の表情を適用して相手の考えていることを窺い知ることができない存在)に抜擢されたのだろうけれど、相手がジェニファー・コネリーでは、まるで仮面劇である。
 人間の表情の単調さを補う「もの」の洪水がないとスクリーンが持たない。スクリーンに空白が目立ちすぎる。「ワールド・オブ・ライズ」と対照的だ。「ワールド・オブ・ライズ」では、「もの」「ひと」がスクリーンからあふれていた。「もの」「ひと」があふれかえることで、ストーリーの隙間を完全に埋めていた。さらに、これにレオナルド・ディカプリオとラッセル・クロウの顔、肉体、動きが加わるのだから、自然に映像は充実してくる。ストーリーではなく、ストーリーをはみだす肉体が映像を活気づかせる。アニメの「ウォーリー」でさえ、もっと情報が多い。ウォーリーが自分の家を電球で装飾していたり、ごみを分類したり、さらには収納の棚を工夫したり、細部が充実していた。。
 それに比べて、この映画は何?
 「宇宙人」を分析する科学者の数が少なすぎる。ジェニファー・コネリーだけで、いったい何がわかる? 何人か科学者が登場するけれど、名前(専攻)を語るだけ。キアヌ・リーブスの「分析」に何か役立つことをしたのだろうか。あるいは謎の物体を分析するのに何かしたのだろうか。そのことと、先行する科学と、どういう関係かあるのだろうか。何も分からない。肝心のジェニファー・コネリーにしても、科学の知識を活かしてキアヌ・リーブスを分析したり、接近したりするのではない。女として、母として、接近するだけである。最先端の科学者である必要はまったくない。注射が打てて、子どもに対する愛情を持っている女性という条件だけで充分である。医師、看護士という役どころの方がリアリティーが出たかもしれない。
 とってつけたように、ジェニファー・コネリーが尊敬する学者とキアヌ・リーブスの数学談義(?)があるのだが、観客には何のことか分からない。あの数式、いったい何を証明したもの? 説明するとおかしくなるので、何も説明していない。単なる飾りにおわっている。観客をごまかしているだけである。
 軍隊も同じ。攻撃が単調で、紙芝居である。とても国家を守るため、人類を守るための戦いには見えない。「地獄の黙示録」でコッポラが、サーフィンをするために、椰子の並木(?)を焼き払った武器のつかい方の方がはるかに素晴らしい。
 唯一面白いのは、なんでも破壊する超小型イナゴ(?)ロボットだが、登場が遅すぎるし、その破壊力は予告編で見てしまっているので、まったく新鮮味がない。予告編では、トラックが分子に分解して壊れていくのか、スタジアムも粉々の分子にまで壊れていくのかと思ってみていたが、イナゴロボットに食いつくされていくだけなのか、といささか興ざめしてしまったと言った方が正直な感想になる。
 オバマ次期米大統領を意識してなのか、「われわれは変われる」というだけ。母の子に対する献身的(?)な愛が、その証拠、というのはあまりにも紋切り型。こんな映画によく出るなあ、とあきれかえってしまった。



ビューティフル・マインド [DVD]

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河津聖恵「ふたたび花園」

2008-12-25 08:52:00 | 詩集
河津聖恵「ふたたび花園」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 河津聖恵「ふたたび花園」の初出誌は『神には外せないイヤホンを』(2008年03月)。 「ガーデンミュージアム比叡」を3年ぶりに尋ねたときのことを書いている。その後半。

「カフェ・ド・パリ」でこんどは奥の席ではなく
窓際をこともなげに選び
同じアイスコーヒーを頼む
客たちの静かなざわめきを撫で
アルペジョーネ・ソナタが流れ
アダージョに少しずつ未来が微分されていく
テーブルにひろげた頁に潮のようにゆっくりみちてくるひかり
文字たちに意味はこくこくとやってくる
ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように   2007・7・30

 「こんどは」「同じ」は3年前との比較である。違うものがあり、同じものがある。そして「違い」が3年という時間を浮かび上がらせる。3年という「過去」。それがあるから、音楽が「微分」するのは「未来」になる。
 そして、「積分」ではなく、「微分」であるところが、この作品のポイントなのだ。「未来はそのなかに含まれる「過去」を思い出すのだ。「未来」はいま、ここにはなく、想像するしかないものなのに、想像した瞬間から、「過去」を呼び込んでしまう。
 こういう「過去」のことを、河津は、「意味」ということばで言い換えている。
 河津は、それをあたかも「ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように」、しっかりすくい取ろうとしている。
 河津は、この詩の中で、「時間論」をこころみている。時間と人間存在について考えている。とても哲学的な作品だ。
 末尾に「2007・7・30」と記されている。これはこの詩を書いた日時であろう。哲学的なしてあるからこそ、その思考が動いた瞬間をしっかりと記録し、点検しようとするのかもしれない。

 この詩には、詩の本文に匹敵するような「後書き」というか「注釈」がついている。

過去、思い出はセイレーンの呼び声のようだ。私たちをときに苦しめる。しかしそれは、私たちにこころを封じる蜜蝋があるからで、むしろそれを解き、時の真意を知ろうと努めることが必要なのだと思う。私たちを悲しませるヒグラシにも、識られざる神の音域がある。

 「時の真意」。これは、とても微妙なことばである。「時」は生き物ではない。そういうものに「真意」とういものが、存在するか。
 「時」は存在するが、それは人間が「時」を考えるときにはじめて姿をあらわすものにすぎない。一種の「仮説」である。「時」という概念を導入することで、いろいろな現象を説明し、理解することが簡単になる。それはいわば人間が考え出したものである。人間が考え出したものであるから、そこに「真意」というものをとりこもうとすれば、とりこむこともできる。
 ここから、いわば「時間哲学」が始まる。

 河津は、その「哲学」に「悲しみ」を結びつける。「過去」「思い出」を結びつける。それは「未来」を「過去」「思い出」で先取りする抒情精神を浮かび上がらせる。抒情はときとしてセンチメンタルに流されるけれど、河津の場合、その流れを「哲学」で制御している。




神は外せないイヤホンを
河津 聖恵
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(4)中井久夫訳

2008-12-25 00:23:53 | リッツォス(中井久夫訳)
夜の儀式   リッツォス(中井久夫訳)

男どもはおんどりを、野鳩を、山羊を殺した。
肩に、首に、顔に血を分厚く塗った。一人など、
壁の方を向いてセックスに血を擦りつけた。
白いヴェールの女が三人、隅に立っていたが、
これを見て、小声で悲鳴を上げた。自分がされるように。男らは、
聞こえないふりをして、チョークで床に落書きをした、
長く延びた蛇を、古代の矢を。外では
太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。



 実際に目撃した「儀式」というより写真か何かで見た「儀式」に触発されて、ことばが動いたのだろう。血と化粧。他人の(動物の)力を自分のなかに取り込むための方法だろう。
 3行目「壁の方を向いて」という具体的な動きが、この詩をリアルなものにしている。
 この詩で私が不思議に感じたのは、最終行である。「太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。」この行の「その」にとても不思議なものを感じた。「意味」がわからないわけではない。「その」は「太鼓」を指している。「太鼓の轟きの音」が近所の村に届いた。何も不思議はないかもしれない。
 原詩がどうなっているかわからないのだが、この「その」の一瞬、間を置いた感じが、リッツォスの短い文体(中井の訳の、短い文体)と、どうもそぐわない。この行だけが、なぜか、とても長く感じられる。あるいは、不思議な「間」を持っている、といえばいいだろうか。多くのリッツォスの詩(中井の訳)はことばとことばがショートするくらいに接近している。「間」というものがない。ことろが、ここには「間」がある。そして、この「間」が、そのまま、夜の暗い闇のひろがりを感じさせる。村から村までの「距離」の空間を感じさせる。「呪術(?)」が超えていかなければならない「闇」を感じさせる。あるいは「呪術」を育てている「闇」を感じさせる。
 こういう「間」というか、広い空間を感じさせることばは、リッツォスの詩には非常に少ないのではないだろうか、と思う。(私は、思い出すことができない。)


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目黒裕佳子『二つの扉』(2)

2008-12-24 09:13:15 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(2)(思潮社、2008年11月30日発行)

 目黒裕佳子のことばは私の知らない世界から響いてくる。そして、知らないはずなのに、とてもなつかしい。「鬼の子守唄」という作品。

子守唄が呪ひのごとく聴こえた夜
わたしはすっかり目をさまし
まるで世界中でもっとも覚醒した子供のやうに
鬼退治にでかけた

 火が
燃えてゐた
重たい雪のどっしり降る夜ふけ
燃えてゐたのは
雪だった

雪のまはりを
数百匹の鬼たちがうろついて
あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 昔物語のような夢。夢のような物語。--これが、なつかしく感じるのは、そのことばが肉体を通っているからである。「声」になっているからである。「頭」で動いてしまう「文字」ではなく、喉という「肉体」を通って動く声になっているからである。
 旧かなづかいで書かれているけれど、ことばのリズムは口語である。口語のなかの、口語でありながらやはり日本語は日本語の肉体のままにきちんと活用するということを踏まえて動いていくリズム。それが、不思議に、ぴったり息があっている。(これは、ほんとうは不思議なことではなく、自然なことであり、新式?のかなづかいが日本語の肉体を壊したということなのかもしれないけれど。)
 とても読みやすいだけではなく、思わず、そのことばを繰り返して読んでしまう。

あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 こういう行に会うと、私は、もう夢中になってしまう。何度も何度も、その行を繰り返して読んでしまう。私は音読はしないけれど、目で読むだけなのだけれど、喉が無意識に動いている。舌が無意識に動いている。耳が、肉体の中でなっている音を聞いている。

 作品の後半。

 鬼が
鬼のなかを出入りし
わたしのなかを出入りし
その激しさに
目を眩ませたまま

 鬼が
わたしを抱きとめた

 その鬼が
寡黙に降りつづける
夜が
いとほしかった

 うらごゑの鬼たち
 眼をあけた子どもたち
 夜たち

 書かれている内容は(意味は?)、子どもの昔話の領域を超えるのだけれど(きのう取り上げた「キリン」と「鬼」は似ているかもしれない)、子どもと大人(?)をつらぬいて存在する「肉体」の何かとつながっている。子どもと大人の肉体はまったく別だけれど、それは切れ目なくつながって「ひとり」になる。その「ひとり」になる感じが、ことばのなかに残っている--と、私には感じられる。
 この子どもと大人をつらぬいて「ひとり」であることの不思議さ、ことばでは追いきれない何かが、目黒のことばからはあふれている。正しい(?)ことばではいえないことがある。間違った(?)ことばが偶然つかんでくるものもある。たとえば「キリン」ということばが、なぜか動物の「キリン」を超えるものをつかんでくることがある。「鬼」もおなじである。そして、その間違いと正しいのあいだにあるひとつづきのものというのは、どこかで子どもと大人のあいだにあるひとつづきのものと似ていると私は思う。そのおなじものを目黒のことばは、とても自然につかまえてきている。それがあまりに自然なために、どこから分析すれば(?)、解説すれば(?)、目黒のことをきちんと伝えられるのか、私には、まだ見当がつかない。
 だから、ただ繰り返していうしかない。おもしろい。不思議だ、と。
 「鬼たち」「子どもたち」「夜たち」。
 あ、「夜たち」。
 なんという楽しい日本語。とても自然に出てくる文法やぶりのことば。文法やぶりなのに、きちんとことばが描き出すものがわかる不思議さ。
 いいなあ。




二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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