詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「メルキアデス・デストラーダの3度の埋葬」

2006-06-30 23:58:44 | 詩集
監督 トミー・リー・ジョーンズ 出演 トミー・リー・ジョーンズ

 後半がすばらしい。映画が、がぜんおもしろくなる。目がスクリーンから離れなくなる。アメリカとメキシコの間に横たわる砂漠。そこには「国境」があるのだが、「国境」っていったい何だ、と言いたいくらいに広い。人為的な「線」など意味がない。どこへでも行けるようだが、どこへも行けない。そのとき、肉体が見えてくる。人間が肉体であるということが見えてくる。どこかへ行くということは、結局、人間の(自分の)肉体をどこかへ運ぶということである。これが実にむずかしいことだと知らされる。道は決定されていないから、どこを通っても自由なのに、けっして自由ではないのだ。肉体が行ける場所は決まっているのだ。
 おもしろいエピソードがある。
 盲目の老人がひとりで住んでいる。彼をしばるものは何もない。それなのにどこへも行かない。どこへも行きたくはない。肉体を運んでいく場所がない。残された場所があるなら「天国」だけである。ただ死にたい。しかし自殺もできない。神を信じるこころが、そうしたことを拒む。
 どこかへ行くということは、結局、精神をどこかへ運ぶことなのだ。肉体を運ぶふりをして精神(こころ)をどこかへ運ぶことなのだ。
 ここに、この映画のテーマが隠されている。
 トミー・リー・ジョーンズは「メルキアデス・デストラーダ」という友人の死体をふるさとへ運んでいる。埋葬するためである。死んでしまった肉体を運びながら、実は、精神をふるさとへ運んでいるのである。肉体を運ばないことには、精神を運べない。肉体と精神は、西洋の思想では二元論的に言われるけれど、けっして分離できないものである。
 これに、もうひとつの肉体が絡んでくる。精神が絡んでくる。トミー・リー・ジョーンズから逃げる男がいる。「メルキアデス・デストラーダ」を誤って殺してしまった男。彼は、トミー・リー・ジョーンズから逃げることで、誤って殺人を犯してしまたという事実からも逃げようとする。しかし、どこまで逃げても砂漠なので、結局逃げきれない。
 その男が、最後の最後で解放される。「メルキアデス・デストラーダ」をふるさとに埋葬する。そして、彼に謝罪する。「悪かった。殺すつもりはなかった。許してくれ」。こころは「国境」を越えるように、罪からのがれることはできない。こころを包んでいる肉体は彼がさまよった砂漠のように広大であり、どこまで行ってものがれるということはできない。自分が何をしたか、それを明確に自覚し、謝罪することでしか、こころは自由に離れない。(こんなことは、もちろん、映画の人物は自覚はしないのであるが……。)
 涙ながらに謝罪する男に対して、トミー・リー・ジョーンズは「馬をやる、若造」(I give you a house, son 」と言う。この「若造」(son )が実に美しい。自分が何をしているか知らない人間が「若造」なのであり、それに気がついた人間が「若造」である。そこには否定と評価が一緒に存在している。それが「寛容」と言うものだ。
 「若造」(son )ということばとともに、この「寛容」が、アメリカとメキシコの「国境」と重なって見えてくる。政策上の「国境」ではなく、トミー・リー・ジョーンズが生きてきた国境、トミー・リー・ジョーンズが映画のなかで具体化しようとした国境が見えてくる。何を受け入れ、何を受け入れないか、そのための「試練」とはどういうものか、というものが見えてくる。
 その視点から、前半を振り返ると、前半もまた不思議な輝きにあふれてくる。男がいて女がいる。愛に疲れ、セックスに疲れ、同時にセックスに飢えている。浮気がある。憎しみがあり、侮蔑がある。つまり、生きている悲しみがある。そうした荒れた生活は、それはそのまま「国境」なのである。アメリカとメキシコの間に横たわる広大な砂漠のようなものなのである。人間はそれを横切らなければならない。横切って、ふるさとへ帰らなければならない。自分自身で「ふるさと」を決めて、そこへ帰らなければならない。「行け、若造よ」と、この映画は、言うのである。
 私は映画ではせりふに感動するということはめったにない。しかし、この映画では、トミー・リー・ジョーンズが最後に言う「若造」(son )に感動した。若い国境警備官は「メルキアデス・デストラーダ」を埋葬することで、未熟な「若造」を埋葬するのである。寛容を知った若者に生まれ変わるのである。


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水根たみ『透明な影』

2006-06-30 19:08:10 | 詩集
 水根たみ『透明な影』(あざみ書房)。タイトルを含めて作品が構成されている。無季俳句を行分けしたような印象がある。

限りなく

   遠い
   砂のざわめき

   孤立より遠い むこう

 「限りなく」がタイトルである。3文字ほどタイトルより下がった位置に本文が書かれている。この作品がまず印象に残った。「孤立」にはさまざまな意味合いがある。「孤立」した島なら海の中にぽつんと浮かんでいる。物理的な描写である。一方、「孤立」した人というときは、まわりに人がいながら関係が築かれていなことを指す。心理的な描写である。
 いずれにしろ、「孤立」は「遠い」ことと関係がある。物理的に遠いか、心理的に遠いかの違いはあっても「遠い」ということに違いはない。
 そうした前提の上で「孤立よりも遠い」ということばがぽつりと存在する。この「遠い」は何か不安を誘う。
 このとき、「むこう」はこちらとつながっていないだろう。「むこう」が「孤立」を超えた不安を強調する。

中空に

   とまる鳥
   冷えた指で故郷を指す

 これは詩集中、いちばんの傑作である。さまざまなイメージを喚起する。
 「中空に/とまる鳥」とはどういう状態だろうか。風に逆らって飛んでいるのだろうか。向かい風と鳥の速度が拮抗してとまった状態に見えるのだろうか。
 ところで、鳥が飛ぶとき、飛ぶ方向と足の向く方向は逆である。飛びながら逆の方向を指さす足--ここに複雑な望郷がある。「石もて追わる」と言った石川啄木のような「望郷」、切ない「望郷」が浮かび上がる。
 飛ぶ鳥が足を体内にしまいこんで飛ぶのであれば、実際にはその足が、その指が「冷えた」という状態はありえないかもしれない。しかし、水根にはそれが「冷えた」ものとして感じられる。事実とは違ったことを感じてしまう水根がここにいて、その事実とは違っているということが、逆に水根の思いを深さ、強さを浮き彫りにする。
 鳥は本当に故郷を捨てて飛んで行きたいのか。捨てて飛んで行きたいのに、向かい風が強くて空中にとどまっているのか。故郷を捨てたくないという思いがあって風にあおられるふりをして空中にとまった状態でいるのか。故郷を捨てるだけなら、東西南北どちらでもいいだろう。なぜ、鳥は向かい風の中にいるのか……。
 「望郷」の不思議さが浮かび上がる、おもしろい作品だ。


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入沢康夫「ある「地獄巡り」の思ひ出」

2006-06-29 08:55:35 | 詩集
 入沢康夫「ある「地獄巡り」の思ひ出」(「現代詩手帖」7月号)。最後の3行が生々しい。

西にひらけた空に 大きな鯖の形の雲がよこたわつてゐて 
背は黒く そして腹側(はらがわ)はうすら紅く どうやら太陽は その
魚の鰓あたりに 隠されてゐるらしかつた

 「鰓」の一語が強烈である。生々しさは、ここからやってくる。このことばに先立ち、「背は黒く そして腹側はうすら紅く」と書かれているが、その「黒」も「うすら紅」い色も、鰓の紅黒い色から派生したものである。ことばの順序は逆だから、派生したものとはいいながらも、実は「背は黒く そして腹側はうすら紅く」と書くことで、鰓の紅黒い色、見えない内部の色が引き出されたともいえる。
 鰓、その紅黒い色は、普通は見えない。
 鯖を見るとき、背中は見える。腹も見える。それは外部だからである。鰓は、外部からも見ることはできるが、内部の紅黒い色は、鰓を引き剥がすようにしないと見えない。「背」「腹」と具体的にことばが動いたために、「鰓」にことばは行き着いてしまった。そして、「鰓」に行き着いてしまったことによって、その紅黒い色が突然、内側に隠されているにもかかわらず、外へ出てきてしまった。
 さうしたことばの動きの中に「詩」がある。
 「詩」のことばには、どちらが先で、どちらが後という関係はない。ことばは便宜上どちらかが先になるだけで、本当はそこにあることばは「一瞬」の内に噴出したものである。一瞬が「詩」である。
 「一瞬」の内に、内部と外部が融合し、見ているものが内部か外部かがわからなくなる。それをたとえば「地獄」と呼べば呼べるだろう。
 冒頭に書かれている温泉の「地獄」。それは地中(内部)が湯気と泥が融合して噴出してきたものである。途中で登場する娘が、伝承の物語りを語りながら涙を流す。それは、やはり娘の内部の激情が外部へ噴出してきたものである。そして、たぶんその激情は娘自身の感情ではない。(十六、七歳だつたらうか)と入沢は書いているが、そうした娘の体験が生み出した激情というよりは、伝承の物語りを語ること、そのことばを生きることで生まれたものだろう。
 自分のものではないものが、自分のものとなってあらわれる。--これは、そのまま

娘は私を いきなり抱え上げると きつくきつく抱き締め
頬を擦り付けて来た 私の頬も娘の涙で濡れた

ということと重なる。わけのわからないもの(娘の涙)が突然外部からやってくる。それは娘にとっての伝承の物語りと同じである。入沢のものではない涙が入沢の頬をぬらす。そのことが入沢の内部に働きかける。そうして、その働きかけが、夕焼けの「鯖雲」を変形させるのである。そのとき「鯖雲」が、空の「地獄」となる。

 地中と地表。現実の時間と伝承の時間。娘と5歳の少年。地上と空。(さらには、空と海=鯖)いわば対極にあるものが境目をなくして融合する。外部と内部が融合する。そこに「地獄」が立ち上がる。
 鰓は魚が呼吸するものである。鰓ということばを通して、入沢は(読者も)、「地獄」を呼吸する。つまり、自己の外にあるものを自己の内部に取り入れる。

 この詩はとても怖い詩である。怖いのに引きつけられてしまうところが、いっそう怖いのである。
 最後の「どうやら太陽は その/魚の鰓あたりに 隠されてゐるらしかつた」の「隠されて」が、怖さの原因かもしれない。私たちは何かを見ているつもりになる。見えたつもりになる。私が、ここでこうして書いていることも、私が「見えた」と感じたものにすぎない。本当は、何かが「隠されて」いるかもしれない。実際に、隠されているのだと思う。
 何かが隠されていると「感じる」。その「感じ」が本当は怖いのである。5歳の入沢は娘の涙に触れる。娘の涙で頬をぬらす。そのとき、5歳の入沢には、娘が何をこころに隠しているか(こころのなかで何が起きているか)を知らない。知らないけれど、感じる。そして、その「感じ」が、夕暮れの空を変形させる。雲を「鯖」に変形させる。そして、そこに紅黒い血(血であると同時に太陽でもある)を含んだ「鰓」を出現させる。
 生々しい恐怖だけが残る。
 鯖雲は鰓で呼吸しながら、死につつあるのだろうか。死に抵抗しつつ、生きているのだろうか。激しいあえぎが聞こえてくる、怖い怖い詩である。

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野村喜和夫「(青い芯--訴え)」

2006-06-28 23:00:44 | 詩集
 野村喜和夫の新しい連載詩が始まった。「(青い芯--訴え)」(「現代詩手帖」7月号)。冒頭「0 (木が雷を飲む恍惚)」に非常に惹かれた。私は、野村の熱心な読者ではない。どちらかといえば不熱心な読者である。だからこれから書くことは見当違いかもしれない。それを承知で書く。

夏の終わりの
朝の稲妻
のような始まりを狩りながら
もしも木が雷を
飲む恍惚
それをことばにできたらと思う

 原文は「木が雷を/飲む恍惚」という文字が他の文字よりも少し大きめになっている。それぞれの断章のタイトルが本文中で大きな文字になっている。何らかの意図があるのだろうけれど、私にはその意図がわからないので、そのことに対する考えは書かない。(以下の引用においても、文字のサイズは無視して引用する。)
 この断章に惹かれたのは「木が雷を/飲む恍惚」が、私には初めて見る野村だったからである。
 私が知っている野村は、たとえば「5 (あわい)」のような野村である。

夏が果てようとしている
路地裏に救急車が来て停まっている
このふたつの事柄のあわいに
私は胸
苦しくなるほどに
捉えられ
人を呼ぶ

 何らかの事象(あるいは存在)があって、それに対して野村の思いがある。事象(存在)と思いの関係が野村にとって「詩」であると思って私は読んできた。
 「0」も「木が雷を/飲む恍惚」と「言葉」にしたいという思いを述べたものとして読むことができる。多分、野村はそう思って書いたのだと思う。しかし、そこに、野村の意図とは別の不思議なものを見てしまう。初めて見る野村がそこにいる。

 「木が雷を/飲む恍惚」。
 野村は落雷を見たことがあるだろうか。それはたしかに雷が木を切り裂くのではない。雷が木を破壊するのではない。むしろ、木が変身するのである。そのとき、木は、一瞬大きくなる。今までの木ではなく、木を超えて、大きくなる。大きくなったために、内部から破裂する。それは「恍惚」である。他者を完全に受け入れ、受け入れることで、自己が自己の「枠」を突き破っていく、自己を否定して、新しい存在になる。
 残された木は、もはや自己ではない。死んだ自己である。落雷の後、私たちは死んだ木を見る。それしか見ることができない。しかし、そこに「死」があるということは、それを残して行った巨大な「生」がどこかにあるということだ。「恍惚」としかいえない無軌道な「生」があるということだ。
 「木が雷を/飲む」その瞬間、実は、木は雷を吐き出している。木は見えない雷となって、宇宙へ還っていく。その交歓の恍惚。
 野村がそうしたものに向き合っているとは、私は、今まで気がつかなかった。

 他の断章を読むと、「0」で書かれた野村がいつも存在するわけではない。「われわれというありかたが/雨なのだ」(「2 (雨)」)というような行を読むと、むしろ「0」に書かれた野村の姿がかわっているだけなのかもしれない。「0」も「それを言葉にできたらと思う」を中心にして読んだ方がいいのかもしれない。その方が野村の思考の動き、精神の動き、感性の動き、そしてことばの持続性を見るのに都合がいいかもしれない。今までどおりの野村を確認できるかもしれない。しかし、私は、「木が雷を/飲む恍惚」ということばを書いてしまった野村を見つづけたいと思うのだ。そこに新しい野村が一瞬見えたということを忘れずに、この連作を読んでみたいという気持ちになった。


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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(30)

2006-06-27 13:01:23 | 詩集
 「詩人の骨」(『星曼陀羅』)。偶然手にした尾形亀之助の『障子のある家』。その入手した経緯と、読んだ感想が語られている。

ただ驚いたことには、そして多分に異様なことには、自序の最後に注記のようにして「尚、表紙の緑色のつや紙は間もなく変形しやぶけたりして、この面はゆい一冊の本を古ぼけたことにするでせう」などとあるではないか。再販本でさえ、ほぼ四十年後の今まさにその通りの姿になっている。

 「異様なことに」とは何が「異様」なのだろうか。本が古ぼけることを作者が自覚していて、それを自覚のまま書いており、それがそのまま現実になっているということだろう。ことばが現実になる--そのことが「異様」だと渋沢は書いている。しかも、その本が実物(というか、最初のもの、オリジナルのもの)ではなく、再販本(コピー本、複製本)なのに、それがオリジナルなことばの予言どおりになっているということが「異様」なのである。ことばはオリジナルを越えて、そのことばが書かれた別の本にも現実となって具体化している。そのことが「異様」なのである。そして、そのことに渋沢は「驚い」ているのだ。
 この「異様な」ことがらは、詩の最後の行で美しく完結する。尾形のことばが引用され、そのことばどおりのことを渋沢は思う。尾形のことばが、尾形のことばとしてではなく、渋沢のことばになってしまう。

彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう『これは大昔にゐた詩人の骨だ』と。

 渋沢は、このとき渋沢が『障子のある家』を読んでいる間中、渋沢のことばがすべて尾形の「掌」の上で動いていたことを知る。尾形の「構造(骨)」の中を動いていたことを知る。
 動きながら「ただ……」と渋沢は骨に肉をつけていたのである。(「ただ」という書き出しで始まる感想は、先に引用した文のほかにもある。)その「ただ」は肉とはいいながらも「骨」を豊かにしているとはいえない。「骨」を隠し、「骨」を目にやさしいものに変えているとはいえない。いわば、渋沢の「骨」を照らす仕組みになっていると言った方がいいかもしれない。尾形の「骨」に誘われて、渋沢が「骨」になって、ことばをもらしていると言った方がいいかもしれない。
 このことが私には非常におもしろい。
 渋沢は「直列の詩学」にしな「放電の詩学」にしろ、自分のことばを動かそうとしていた。自分のことばで世界をつくりだそうとしていた。しかし、ここではそういう「意図」はない。単純に尾形のことばに誘われるままに渋沢のことばを動かしている。そうすることで、尾形のことばそのものに重なってしまう。その瞬間が、私には、とても美しく感じられる。
 あ、渋沢の理想、渋沢のことばが内に秘めている願い、見果てぬ夢は「詩人の骨」なのだと納得してしまう。


(余祿として)
 2006年06月26日の「日記」に松尾真由美「きわやかな供物……」の感想を書いた。松尾は広瀬のことばを引用しながら、松尾でも広瀬でもない「場」へことばを動かしていこうとしていた。松尾がめざしている「どこ」は、意外と、「外」ではなく、「骨」の内側にあるかもしれないと、渋沢の詩を読みながら、ふと思った。遠く遠くへと、重力を引き剥がすようにして遠くへ動きながら、その内部に、重力の「骨」を抱え込むことがあるかもしれないと思った。
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松尾真由美「きわやかな供物の火、血の湿度がなだれるとき」

2006-06-26 23:01:32 | 詩集
 松尾真由美「きわやかな供物の火、血の湿度がなだれるとき」(「ぷあぞん」21)は長い詩である。広瀬大志の作品を引用しながら、松尾のことばが動いていく。読んでいる最中に、引用し、語りたいことばがいくつも登場する。何度も傍線を引く。しかし実際に何か書いてみようと思い返すとき、傍線を引いたことばからは書きたいことが消えてしまっていた。記憶に残っていたのは傍線を引いたことばではなかった。何も印をつけなかったことばが記憶に残っていた。「ここ」「そこ」「どこ」。それはたとえば「この世界」「彼岸」というようなことばに書き換えられているときもあるが、「ここ」「そこ」「どこ」が、絶えず問われているという印象が強く残っている。
 そうしたことばのひとつ引用する。

ここでは言葉に属していて、私はいる。私はいない。

 私の印象では、たぶん、この2つの文が、この詩のすべてである。
 松尾は広瀬の詩を読む。そうした現場が「ここ」である。広瀬の詩は「そこ」である。「どこ」は、その瞬間には存在しない場である。ことばは、「ここ」と「そこ」を交渉させながら、「どこ」かへ動いていく。その運動が「詩」として想定されている。
 「ここ」「そこ」「どこ」と「言葉」が、この詩のキーワード群である。
 広瀬の詩を読むとき、松尾は「言葉」である。「ここ」で「そこ」に書かれていることばを読み、「そこ」にはない「言葉」として存在する。「そこ」に存在する「言葉」によって刺激を受け、引き出された「言葉」として、私(松尾)は存在する。そうしたとき、松尾は「ここ」に「いる」と言えば言えるが、「ここ」に「いない」と言えば「いない」と言える。「そこ」に「言葉」が存在しないなら、「ここ」に「言葉」は引き出されて来ないからである。
 「私はいる」「私はいない」はもちろん矛盾である。矛盾であるからこそ、もう一つの場「どこ」が必要になる。「どこ」とは、「ここ」と「そこ」から生まれてくる「可能性としての場」、今は存在しない場である。今存在しないからこそ、そこへ行くことができる。なぜなら、「言葉」は「ここ」と「そこ」から脱するために動くからである。「ここ」と「そこ」の「言葉」が交渉するのは、「ここ」「そこ」では不可能な言語運動を目指すからである。

 肉体はどうなるのだろうか。私には「肉体」は、松尾にとっては肉体ではなく、「言葉」としてのみ存在しているように見える。松尾は「肉体」ではなく「身体」という表現をつかい、次のように書いている。

極限的な抵抗は、まず、身体を壊すことにある。喉元から性器にかけて、いっきに引き裂く所作はまた、世界を引き裂く所作に似るのだ。

 この文章を私は「言葉」としてしか理解できない。本当に肉体を想定して、ここに書かれていることを想像できない。まずだれの「身体」かを想定できない。松尾は松尾自身の身体を考えているのだろうか。広瀬の身体を考えているのだろう。「喉元」は松尾と広瀬では似ているだろうが、「性器」について言えばまったく異なっているだろう。同じように引き裂くことはできない。いったいだれの身体を想定して松尾はこのことばを書いたのか。引き裂く道具は何を想定したのか。「所作」と単純に書いているが、そのとき引き裂く人間の筋肉はどう動くと考えたのだろう。引き裂かれる方の身体が生きているなら、激しい抵抗があるだろう。その抵抗をどう想定し、どう対処しようと考えたのだろうか。
 たぶん考えていないと思う。考えれば、簡単には書けないことがらである。「殺人」にあたるからである。「言葉」だけが勝手に動いているのだ。「言葉」が「言葉」自身の力によって動いているのだ。
 そして、それがたぶん松尾の「詩」の理想なのだろう。
 「言葉」が出会い、その出会いのなかから今まで存在しなかった運動のありようを引き出し、「言葉」自身の力で「ここ」「そこ」を脱出し、(松尾の表現に従えば「世界を引き裂」き)、「どこ」かへ行ってしまう。今まで存在しなかった世界へ行ってしまう。つまり、新しい世界を描写してしまう。
 「言葉」は、そこに存在がなくても描写が可能である。ないものを描くことができる。存在しないものへ向けて精神を動かすことができる。松尾は他者のことばとの出会いを活用し、精神の新しい領域を開こうと試みているのだと思う。


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映画「フーリガン」

2006-06-26 01:21:18 | 映画
監督 レクシー・アレキサンダー 出演 イライジャ・ウッド、チャーリー・ハナム、クレア・フォーラニ

 アメリカの青年が見たフーリガンの実態……といえば、そうなのだろうけれど、いやあな感じが残る映画である。
 アメリカとイギリスの距離がフーリガンを客観的に描いているようでいて、客観的ではない。距離があれば客観的なのではない、とつくづく思う。距離があるために主観的にならざるを得ない部分がある、肉体として実感できないものを想像力で埋めてしまう。その想像力のなかに「主観」が濃密に漂う。それがいやあな感じの原因だと思う。
 殴った、殴られたという肉体の痛みだけで、他者と一体になれたと思うのは錯覚だろう。主人公は、友人の仕組んだ罠のために大学を退学になる。そういう恨みと罠を仕掛けた相手に対してきちんと対処しなかったという悔恨が、フーリガンの集団の恨み、悔恨とどこかで重なる、というのはさらに錯覚であり、気持ち悪さの原因である。
 距離が有効なのは、自己と他者とをつなぐものはない、重なり合うと思うのはすべて錯覚であるという自覚だろう。自覚した上で、それでは私が他者に対してどう向き合えるかと考え、実行する--そこからしか何も生まれない。それを完全に省略してしまっている。
 フーリガンなんてわからない。わからないけれど、その肉体の暴力に引きつけられてしまう、という単純なスタイルをとれなかったところに、この映画の最大の欠点がある。見果てぬ夢を、夢の純粋さ(けっして実現しない)を守るために、あえて見果てぬ夢のままにして抱き続ける。その矛盾を引き受けるための肉体、というものをもっと正面から描いてほしかった。フーリガンの、ただわめきちらすように歌う力任せの歌だけがフーリガンの真実を描いている。試合ごとに暴力を振るい、傷つき、そのあと大声で歌を歌う--その繰り返しの映画だったらどんなにおもしろかっただろう、と思った。
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キキダダマママキキ『死期盲』、その2

2006-06-25 23:40:40 | 詩集
 詩集には一気に一冊を読み終えてしまうものと、中断を挟みながら一篇一篇しか読み進むことができないものがある。キキダダマママキキ『死期盲』(思潮社)は続けて読むことが難しい詩集である。きのう触れた冒頭の作品がすばらしい。しかし、そのすばらしさが強烈すぎて、他の作品のことばと私のなかでは一体になってくれない。「( 、( 、」のことばの運動が、次の詩とどんな関係にあるのかつかめない。とはいっても、それ以外の作品がつまらないかというとそうではない。むしろ、作品それぞれが自己主張していて、そのために印象がまとまらないのかもしれない。私がキキダダマママキキのことばの速さについていけないだけなのだろう。
 詩集全体の感想を書こうと思って、きょうまた詩集を読み返してみたが、ふたたび全体の感想がまとまらない。とても気に入った一行について書くことにする。

海は近い、けれど近い

 「乳の民」のなかのその一行を読んだとき、私は、キキダダマママキキのことばが心底好きになった。
 普通の散文では「海は近い、けれど海は遠い」か「海は遠い、けれど近い」か、どちらかになる。その場合、「けれど」とともに省略されていることば(意識)がある。たとえば「海は近い、しかし足をケガしてしまった私にはその近いはずの海は遠い」。あるいは「海は遠い、だからそこへ行くことはできないけれど、私はその海を忘れたことがない。こころはいつも海と一緒にある。だから私にとっては海は近い」。
 しかし、キキダダマママキキは「海は近い、けれど近い」と書く。そこには私の知らない何かがある。キキダダマママキキにしかわからない省略された「事実」がある。いや、キキダダマママキキにもわからない省略されたものがある。わからないのに書いてしまうのは、その「わからなさ」が「頭」の問題であるからだ。「肉体」ではわかってしまう。しかし、その「肉体」の内部の回廊をたどって「頭」のなかで整理されるまでの道筋がキキダダマママキキにもわからないということなのだと思う。肉体ではわかるが頭ではわからないもの、それを何とか明るみに出そう、ことばにしてしまおうとする意欲のようなものが、ここにある。それを感じる。私の頭ではなく、私の肉体が。「海は近い、けれど近い」とことばにするとき、喉が、声帯が、口蓋が、その音を受け止めてくれる肉体を探しているのを感じる。こういうものが感じられたとき、私は、その詩のとりこになってしまう。キキダダマママキキの探しているものを一緒に探している気持ちになる。
 今、引用した行は次のように展開する。

海は近い、けれど近い
(遠近感の加減速はいよいよ人生と等価になってきた
音のフィルム! 壺の中だ、だのに
匂いはなし)
鼻の中まで平坦な巡礼路
死神だけがやさしい
断言。なぜならば他のすべては、
ドーナツばかり配るのです(バームクーヘンもおいしいよ)
性欲でなく食欲。満足した胃袋には

 「だのに」のなかにも省略がある。「青のフィルム」が本当にフィルムであるなら、物理的・生理的には、それが壺の中だろうが外だろうが匂いなどしないだろう。しかし、キキダダマママキキの肉体ははそれが壺の中なら匂ってもいいと判断している。だからこそ「だのに」ということばを呼び寄せる。この省略が、キキダダマママキキの肉体を刺激する、覚醒させるのだろう。次の「鼻の中まで平坦な巡礼路」ということばに触れたとき、鼻だけではなく、肉体全体のなかにことばと感覚の回路が動き回るのを感じる。
 省略の一方、奇妙な迂回もある。「ドーナツばかり配るのです(バームクーヘンもおいしいよ)」。この行は意味上は不要だろう。この行がなく「なぜならば他のすべては/性欲でなく食欲。」という展開の方がことばの上での意味は明確になるだろう。しかし人間はことばの「意味」だけを生きているのではない。肉体がある。それは不可侵のものだ。その不可侵の肉体が、たとえばドーナツとバームクーヘンを記憶している。その違いを記憶している。違いとともにあるさまざまな感覚を記憶している。

 ことばにできるものとことばにできないもの。肉体が記憶しているものと、肉体のなかに回路を確立していないもの。それがせめぎ合い、キキダダマママキキを揺り動かしている。ことばを揺り動かしている。キキダダマママキキのことばがどこへ動いていくのかわからない。わからないけれど、「海は近い、けれど近い」というような、絶望的な省略のことばを明確に発することができる肉体なら、かならず「事実」を突き止めるだろうという感じがする。
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キキダダマママキキ『死期盲』

2006-06-24 22:04:28 | 詩集
 キキダダマママキキ『死期盲』(思潮社)。冒頭の「( 、( 、」が非常におもしろい。

午後五ー、午後五ー、
川 彼方
滲滲(散々)、色々 に(笑口)、
崩れる橋 ハ
連レ回(マワー)
、遠方ノ森林を(ウォー)
目、め、メ(垣間見、)
眼鏡、目ガネ笑っているように思えました。

 ことばが意味を拒絶し、音と肉体の出会いのような場へ私を連れて行く。
 「午後五ー、午後五ー、」は視覚的には「午後五時」という意味へ私を誘う。しかし、いったんことばを音にすると(実際に声に出すというのではないけれど、耳の中で声帯を震わせると)、「午後五時」へは絶対にたどりつかない。私は鼻濁音派の人間なので、「午後五時」の場合は、二番目の「ご」だけは鼻濁音になる。たぶん、キキダダマママキキは二番目の「ご」を鼻濁音では発音しないだろう。「ごごごー」と同じ音が続くだろう。その場合、「意味」は「午後」ということばがあるにもかかわらず、時間ではなく、風の音になる。私は古い人間なので「ゴゴゴー」とくれば「風が泣いている」とスパイダースの歌などを思い出してしまう。
 「風」の風景、「かぜ」という音は、「川」「彼方」の風景、音とも通い合う。
 キキダダマママキキがどのような思いでことばを書いたかは、こういう詩では、あまり重要ではない、と私は思っている。読者が、キキダダマママキキのことばを利用して、自由に想像を、肉体の記憶を引きずり出すかが重要だと思っている。(我田引水的な感想だと思うけれど。)
 風の吹きわたる川、その彼方、という広がり。「滲滲」と「散々」は「意味」的にはまったく違っていると私には感じられる。「滲む」は何かが固まったまま拡張していくことであるのに対し「散る」は塊がほどけて拡張していくことである。しかし、「散る」が、やはりここには書かれていない「風」と通い合って、不思議な思いを掻き立てられる。
 意識は「午後五」(時)を思い出し、夕暮れを思い出し、夕暮れの色を思い出す。空に「滲む」夕暮れの色。空の端から滲み出てくる色は空の端から千切れて散らばる色か。念押しをするかのように「色々」ということば。
 「に」は助詞の「に」か。しかし、それは「にっ」と笑う顔の描写のようにも思える。誘われるように「笑口」。その「笑」という文字。
 私の意識のなかで生じた「空の端」の「端」と通い合う「橋」が続いてあらわれる。音とことば、意味が、まるですべてのつながりをあざ笑うことで(互いに拒絶することで)、その奥にある「無意識」の肉体を引きずり出してくるように感じられる。
 「に」「ハ」「を」という助詞が、独立して、別のものにかわる不思議さは、「を(ウォー)」に強烈にあらわれる。「を」を私は「ウォ」とは発音しない。「お」と「を」の発音を区別しない。しかし、濁音の「ご」と鼻濁音の「ご」を区別する私のような人間がいる一方、「お」と「を」を区別して発音する人もいるだろう。
 こんなことを書けば、それこそ「目ガネ笑っているように見えました」としか言いようのないユーモアかもしれない。

 その他の詩については、私はキキダダマママキキの「音」がそんなに美しいとは感じなかったが、それは私の耳がキキダダマママキキの耳と違っているだけのことかもしれない。冒頭の作品を読むかぎりは、キキダダマママキキは独特の耳と、その耳という肉体が抱え込む独特の風景を持っているのかもしれない、と思った。

 
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(29)

2006-06-23 13:14:26 | 詩集
 「春日のどけき」(『星曼陀羅』)には同じことば(類似のことば)が何度か繰り返される。そのひとつが、

それはわたしであっても構わぬのだが、

である。次のように書かれている。

 鬱々と心楽しまぬ一人の男が、それはわたしであっても構わぬのだが、人けもない春の日差しのなかの草むらに坐って、分厚く雑木に囲まれた池の面に見入っている。

 一向に心慰まぬ一人の男が、それはわたしであっても構わぬのだが、向う岸の暗がりに咲く赤い椿の花に魅入られたまま、一方で思い出している。

 「一人の男」をまず描き、「それは」と受けてことばをつなぐ。これは「直列の詩学」に見られた手法である。ただし、「弾道学」の一行目は「叫ぶことは易しい(けれどもその)叫びに」であったが、ここでは逆のスタイルになる「それは……あっても構わぬのだが」と。まず「それは」と受けて、それを明確に引き継ぎつつ、実は引き継ぎをゆるやかに放棄する。このとき「主語」は宙ぶらりんになる。不安定になる。
 その不安定な主語を利用して、渋沢は「物語り」を引き込む。
 散文では一般的に「主語」が明確であり、主語が動いていくにしたがって「物語り」が展開する。ストーリーができる。それに対し、渋沢の散文詩では主語は不安定であり、その不安定な主語をささえるようにして、「物語り」が展開する。その「物語り」の特徴は渋沢が独自に考え出したものというよりも、すでに「今昔物語」などで語られたものである。つまり、どこかで聞いた物語りである。
 渋沢がここで試みているのは、自分の感性・思想の展開というよりも、日本語が積み重ねてきたことば、その感性・思想とのゆるやかな交渉である。「ゆるやかな」というのは、それを積極的に引き受けるわけでもないし、絶対的に拒絶しようとしているわけでもないからだ。それこそ、そうしたことばのすべてが

それはわたし(のもの)であっても構わぬのだが、

という気分のようだ。
 とはいもののの、問題の一文の「構わぬのだが」の「が」に視点を置いて眺めまわすと、また違った風景が立ち上がる。そこに一定の保留があることがわかる。(保留があるからこそ「ゆるやかな交渉」でもあるのだが。)
 渋沢は日本語の何を引き受け、何を拒もうとしているのか、何を強靱なものに育てようとしているのか。
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映画「初恋」

2006-06-22 23:05:06 | 映画
監督 塙幸成 出演 宮崎あおい

 少女のハードボイルド映画(?)かな、とかなり期待して見に行った。
 どこで撮影したのか知らないが60年代のアパートの感じ(畳の黄色く汚れた色、アルミサッシではない窓、ふすまの模様)やジャズ喫茶の根暗な雰囲気が丁寧に描かれていて、お、これは60年代ドキュメンタリーと期待もかわったのだけれど……。
 うーん、中途半端だねえ。
 60年代の風景をそのまま現代の時間にまでひっぱってくる(60年代を感じさせない、いい意味で現代を感じさせる)宮崎あおいの演技はおもしろく、宮崎あおいに引きつけられてしまうのだが、引きつけられた後が、食い足りない。物足りない。3億円強奪計画まではおもしろいのだが、肝心の事件の描写になると、宮崎あおいから突然、現代のにおいが消えてしまう。60年代の風景に、ではなく、60年代の普通の少女の肉体に戻ってしまう。宮崎あおいという固有名詞がなくなる。
 バイクがぬかるみにタイヤを取られて困るシーン、トラックから落ちてきたシートがバイクにからまり困るシーンで、宮崎あおいの演技は突然変化する。肉体的に「弱い」部分がわがままとして噴出させてしまう。原作が悪いのか、監督が悪いのか、はたまたは宮崎あおいがそういう演技を拒否できないところが悪いのか、それともその三つが重なり合って悪いのかわからないが、こんな馬鹿みたいな肉体の使い方をするから、偶然、現金輸送車に出会った瞬間の描写がおろそかになる。肉体の躍動、鼓動の高鳴りが描かれず、「うそっ」だったか「まじっ」だったか忘れてしまったが、ふいに現代の貧弱なことばが噴出する。そんなことばに頼らず、視線の動き、ハンドルを握る手の動き、脚の動きなどで、具体的に、肉体を動かして見せなければ、この映画のハイライトはない。
 3億円強奪事件のハイライトの部分で、宮崎あおいの肉体は動いていない。その結果、観客に、犯人にしかわからない躍動が伝わって来ない。
 最後の、登場人物の「その後」の紹介など、虚構のあくどさが出てしまって、どうしようもない。そんなところで「現実」を装っても、映画にどんな深みも加わらない。

 たぶんこの映画の最大の失敗は「こころの傷に時効はない」というようなテーマをことばで語ることからはじめたことだろう。ランボー詩集だとかサルトルの「嘔吐」(だと思う)を持ち出し、60年代の言語のありよう、安保闘争後のこころの空虚な感じ、実感のなさをどう肉体で受け止めるかといった問題を持ち出すのも、なんだか安手の「思想」(出来合いの思想という意味)で映画を飾りたてているようで、とてもむなしい。

 この映画に比較すると、宮崎あおいが出た「ユリイカ」の方がはるかにハードボイルドであり、「こころの傷に時効はない」ということを、ことばではなく、肉体で伝えていた。他人にはどうすることもできない肉体(個人)が、そこに存在し、苦悩しているということを明確に肉体として表現していた。こころは、その肉体の中でしか回復しない、ということを切実に伝えていた。
 「ユリイカ」は名作だった、ということを証明するためにつくられた映画なのかもしれない。この「初恋」という映画は。

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豊原清明「暗闇の今日と明日」ほか

2006-06-22 21:54:57 | 詩集
 豊原清明「暗闇の今日と明日」(「SPACE」68)。腰痛の自画像なのだが、腰痛の人には申し訳ないが、楽しい。腰痛になるのもいいかも、という変な欲望(?)のようなものが沸き上がる。特に最後の部分に。

うつむいて歯を
くいしばっている僕は
異国の
街角の深夜を演じているようだ。
うなる星にまたたいて
ゆめの中であぐらをかいている僕は
アイスキャンディ一本も
かじる対象ではない。
おかげでかさぶたがふんわりと
僕の房を包み込んでくれる。
ゆめの中の国境越えて
白い木蓮のある
廃校のグラウンド。
胸のあたりの自明な部分。
ずっと生温かいかなしみと
似た頭を床に
こすりつけて、笑う。

 ことばがいつも、やわらかく、どこかへはみだして行く。21日に書いた鈴木ユリイカのことばは、否定をバネにことばを実在に変えたが、豊原のことばは逆に肯定を、肯定とも意識せずに、ことばからあふれさせる。あふれたこぼれたものは、まだ形にならない。永遠に形にならないかもしれない。ただ、やわらかく、何かがこぼれたよ、と教えてくれるだけかもしれない。そこが、とてもおもしろい。

ゆめの中の国境越えて
白い木蓮のある
廃校のグラウンド。

はリズムこそ違うが、俳句のようにも感じられる。(豊原は俳句も書いている。)「胸のあたりの自明な部分。」という一行は、その「俳句的世界」で豊原が書こうとしたものを「解説」(?)、あるいは「補足」した行だろうか。「胸のあたり」ということば、肉体の提示によって、今ここにないものが、肉体と同時に存在する。「白い木蓮のある/廃校のグラウンド」は豊原の「胸」のなかに「自明な」ものとして存在すると同時に、そのとき豊原の肉体は廃校となったグラウンドにあり、白い木蓮と一緒に存在する。肉体の内と外が交錯し、融合し、一体となって、宇宙(世界)を形作る。
 しかし、こうした私の感想は、あまり豊原の詩を楽しむのに役に立たないかもしれない。「おお、この行がいいなあ」とだけ、ことばにして、後は「頭を床に/こすりつけて、笑う」というのが一番楽しい豊原の作品の読み方だろう。
 書きながら、反省してしまった。



 同じ詩誌の指田一「分数」もおもしろかった。

うちの子が分数÷分数はひっくり返して掛けるっていうんです 本当ですか そんなことをして答えがでてくるんですか
おかあさんは緊張して白状しました

 「緊張」と「白状」に「詩」がある。こんな場面で「緊張」「白状」がつかわれるのは初めてだろう。初めてのとき、ことばは輝く。だれもささえてくれないので、ひとりで立っているしかない。そのとき、ことばが強くなる。
 豊原の、ことばからあふれたことばの数々も、そんなふうにして輝き、立っている。立っているだけではなく、あぐらをかいたり、頭をこすりつけたり、自在に動いている。この自在な動きが、豊原のことばを楽しくさせている。
 と書いたからといって、指田のことばとどちらが楽しいかという比較ではない。どちらも楽しい。


 
 渡辺正也「声」(「仙人掌」11)。

花桃が散って
少しして
海棠が散って
伽羅木の芽を刈るまでのあいだに
それ以上
模倣してはいけない

 「模倣してはいけない」を私は、ことばで、花桃を海棠を伽羅木を描写してはならないという意味で受け止めた。ことばで何かを模倣するとき、ことばは「詩」ではなくなる。模倣をやめて、初めてのことばとして存在と一緒になる、一体になる。たとえば指田の「緊張」や「白状」のように。そのとき、ことばが「詩」になる。
 渡辺の作品は、ことばが安易に「詩のことば」になってしまってはいけない、「詩」そのものにならなければならないと叱っているようだ。
 ちょっと叱られた気分になる。(もちろん、いい意味で。)

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鈴木ユリイカ「壁の中の青い犬」ほか

2006-06-21 23:39:45 | 詩集
 鈴木ユリイカ「壁の中の青い犬」(「something 」3)。鈴木のことばは「詩」でしかありえない。というか、「詩」とは結局ことばなのだ、という単純なことを、鈴木の詩を読むとあらためて思う。

ずいぶん長いあいだ 青い犬を
見たものはなかった しかしいまは
壁の中にその犬はいた
だが まだ見えなかった
その青い犬は空中に浮き上がっているように見え
七つの頭を次々にあげ まるで
鳥が飛ぶように 炎の中をすすみ
自分自身から次々に生まれているのだった

 「青い犬」が何であるか、鈴木は説明しない。たぶん、できないのだ。最初に「青い犬」ということばが存在し、そのことばを動かしていくとき、「青い犬」はことばから実在に変化する。現実に存在するものをあらわすためにことばがあるのではなく、ことばがまず最初にあり、そのことばが動いていくとき存在が存在として立ち上がる。

壁の中にその犬はいた
だが まだ見えなかった
その青い犬は空中に浮き上がっているように見え

という3行は、犬が見えるのか、見えないのか、どっちなのだ、と追求したくなるようなことばの動きだが、これは矛盾ではない。「壁の中にその犬はいた/だが まだ見えなかった」と書くことで初めて見えない姿で犬が存在し、いったん存在してしまうと、それは「壁の中」を一気に突き破って「空中に浮き上がっているように見え」るのである。存在しなかった犬、ことばでしかなかった犬が「見えなかった」と否定されることで、逆に存在を確固たるものにする。そして、いったん存在が確立されると、自在に動き始める。
 「七つの頭」は普通の犬を否定する。否定することで、固有の犬になる。これは「まだ見えなかった」と否定することで存在を確立する想像力の動きと同じ物だ。鈴木のことばは「否定」を媒介にして動き、動くことで存在そのものに変わる。こうした動きそのもののなかに、鈴木の「詩」がある。
 犬なのに「鳥が飛ぶように」と修飾される。犬であることが否定されることで、より強靱な犬になる。「炎の中をすす」むことは普通はできない。つまりそこではやはり犬であることが否定されることにより、より固有の、強烈な、神話的な犬という存在になる。
 こうした運動のなかでの存在の確立、ある存在になることを「自分自身から次々に生まれているのだった」と鈴木は表現する。
 想像力が躍動する、命にあふれた作品だと思う。
 ただし、私には「機関銃の音 砲弾の音 閃光」以下の数行はつまらなかった。「体言止め」の数行は、鈴木の想像力が急速になっていることを物語っているが、速度が速すぎて、ことばに「うねり」が欠けている。それまでの「否定」をバネに、存在をより強固な物、手応えのある固有の物にするという鈴木の「詩学」がそこでは破綻している。その数行の描写(ことばの動き)は鈴木自身が目撃・体験したものではなく、「戦争体験」から取材したものだからだろう。他人のことばを自分自身のことばにするということは、鈴木のように卓越した言語感覚の詩人にとっても難しいことなのだ、と感じた。



 同じ詩誌の田島安江「海のにおい」。第1連のおわりの3行がおもしろい。

海の底を歩いてきたはずなのに
その人は
海の底を歩いてきたことに気がつかない

 人はもちろん「海の底」を歩けない。したがって、これは比喩である。比喩は比喩を語っている人には(田島には)、その存在のありようがくっきり見える。しかし、比喩で語られた本人には比喩など見えない。比喩で語られることは、田島にとっては比喩でしか語れない物だが、当の本人にとっては、語るようなことがらではないからだ。それは肉体に染み付いてしまった習慣だからである。肉体の自然だからである。肉体の無意識だからである。
 肉体の自然、肉体の無意識は「思想」である。そうしたものがあって初めて人間は「他者」になる。「他者」として存在する。
 さりげなく書かれているように見えるが、この詩には絶対的な「他者」との出会いが描かれている。出会いながらけっしてひとつになれないという思い、その思いがいっそうひとつになりたいという欲望を育てる--そういう出会いがしずかなことばの奥に感じられる詩だ。


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韓成礼「罪の氾濫する井戸」ほか

2006-06-20 10:19:16 | 詩集
 韓成礼「罪の氾濫する井戸」(「something 」3)。水には2種類の水がある。ひとつは、こんこんとわいてくる水。垂直の水。重力に逆らい噴き上がる水。もう一つは水平に流れていく水。重力に従い低い方へ流れていく。たとえば河。井戸は噴き上がる水ではないが、深く掘られた穴のなかで次第次第に積みあがってくる水だ。--とここまで書いて、積みあがってくる水の中に「罪」が潜んでいることに気がついた。井戸の水は、積み上げられ、やがて掬い取られ、流されることを願っているだろうか。韓の詩を読むと、そんな思いがわいてくる。

血を集めるために女たちは身が疼く
土は全身で地下水を回し
道を作りながら集まってきた血の熱気で
常に子宮は熱い
ひと月に一度水を入れ替えようと
女たちは井戸端に集まり

 土と肉体、水と血、井戸と子宮が交錯する。肉体が大地と共鳴する。融合する。韓は、自然と、いや宇宙と共鳴する力が強い詩人だ。宇宙を肉体の内部にとりこみ、ことばを動かす。そうすることで肉体を宇宙へ解き放つ。肉体を解き放つとき、肉体が隠していたもの、たとえば罪も解き放つ。

その井戸端に
前世の罪を犯した命たちが
するする集まって来て
糸蛇に青大将に花蛇に
ぶら下がったり逆立ちしている
前世の熱気を冷やした井戸端
水気のある身だからどうしようもなかった
恍惚な罪に引きずられて帰り

 「どうしようもなかった」。ここに韓のこころの深さ、広さがある。水はせき止められれば積みあがる。上へ上へとのぼる。解き放たれれば、下へ下へと流れる。それは水にはどうしようもないことである。宇宙の法則である。同じように、人間の血にも人間の力ではどうすることもできないものがある。肉体は水のように、何ものかにせき止められて「「罪」を積み上げ、一気に壁を越えてあふれ、流れていく。
 肉体で、その「罪」を引き受けることができない人間は、たとえば「うわさ」ということばで肉体以前のものを解放する。「気持ち」を解き放つ。気持ちもまた「井戸」のように「罪」を積み上げ、壁を乗り越えてあふれていく。いや、井戸のまわりでなら、「罪」が積みあがり、あふれてくる前に、桶を深く深くへ潜らせ、それをくみ上げて、わざとこぼすということもある。
 韓のこの詩には、宇宙と肉体と、その内部にある感情が一体となった力がある。

 韓は「水」に対する共鳴力が強い詩人のようである。「川辺にて」もとてもいい詩だと思う。「流れる川の水は絶えずして……」というような、精神ではなく、生な肉体がいつも水の中にある。

老けた二十歳がそのまま
若くなることも老けることもできずに
時折道に迷い
息を切らして流れて来た私の川水は
水流の中に込められた時間を
身を捩じってむかむかと吐き出し
反芻しながら流れていく

 「水流の中に込められた時間」とは韓自身だけの時間ではない。「前世」、すべての女たちの時間であり、宇宙の時間である。
 「むかむかと吐き出し/反芻」するという、一種の矛盾は、肉体と精神の「どうしようもない」関係そのものである。精神だけでは人間は生きられない。肉体がある。そのふたつは、かならずしも同じ行動を欲しない。矛盾したことがらを欲する。たぶん、矛盾の中にこそ、次へ進むための力があるからだ。せき止められた水が積みあがり、あふれ、流れていくように、矛盾は何かをせき止め、爆発させるための、宇宙が用意した方法なのである。
 「どうしようもない」。とは、いいながら、その「どうしようもない」ことができるというのが人間の力である。「どうしようもない」ことをしなくては人間になれないのである。
 強い包容力、寛容さ。それをささえる肉体感覚を感じた。もっともっと読んでみたい詩人である。

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李珍明「ガラス窓-出会い」ほか

2006-06-19 23:07:41 | 詩集
 李珍明「ガラス窓-出会い」(「something 」3)。山の近く、自然のなかで見かけたガラス窓を描いている。ガラス窓の擬人化が美しい。

木むらのてっぺんをやさしく剥いて
赤くて丸い太陽を載せなければならないし
まもなく鳥たちをひゅーっと飛ばさなければならない
鳥の鳴き声を空中にぶつけなければならず
あそこの山の尾根の線を取り外すように描いておかなければならない

 繰り返される「……しなければならない」がいい。自覚が世界を新しく目覚めさせる。自覚が新しい世界をつくりだす。
 ガラス窓--それは世界を単に映すのではない。世界を映すということは世界を作るということだ。「ガラス窓」とは「詩」そのものの比喩である。
 詩のことばは世界を映すだけではない。「詩」が世界をつくりだす、世界をつくりかえるのである。



 「夢の中で知人が死ぬということ」に、世界をつくりかえることばがある。

私たちは、あの人と私は、各自
どこかで豊かに暮らすとか早く死ぬとか
ひととき知り合いだった事があったという事実は
もっと知らない同士になるためにそうだった事
死も夢の中で誰かの伝言を通じてはじめて聞く

 「もっと知らない同士になるために」に驚く。たしかに人と人が知り合いになるのは、その人と知り合うということのほかに、知らない同士になるために知り合うという矛盾したいい方でしか言えない出会いもある。「知らない」と言えるのは、それぞれにもっと重要な知り合いができたから、それぞれの世界がそれぞれに充実したからであろう。人はそれぞれの世界を充実させるために生きている。
 そして「知らない同士」と言えるのは、また、知り合いであり得た可能性を知っているからでもある。
 世界は本当はもっと複雑である。それぞれがぞれぞれの世界を生きていて、それが矛盾ではない。そこに幸せと悲しみが同時にある。
 世界と自分との関係を丁寧に見つめ、それを具体的なことばで書く詩人だと思った。

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