木村恭子『六月のサーカス』(土曜美術出版販売、2009年09月30日発行)
木村恭子は、他人を多く詩に登場させる。その他人との距離感がいい。登場人物を立てるといえばいいすぎかもしれないけれど、登場人物をけっして傷つけない。それは芝居でいう「引きの演技」に似ている。相手が動くのを静かに受け止める。そして、その静かな受け止めがあるからこそ、相手がきらりと輝く。
自己主張しないことが、木村にとっての自己主張なのだ。
「ここよりほかでも」は編み物教室でのやりとりを書いている。いつもは誰も座らない隣の席に「年配の奥さん」が座り、「ああやうさんのお近く?」とたずねてくる。返事のしようがない。「はぁ」と応えると、奥さんはどんどん話をつづけるが、どうにもよくわからない。奥さんは「ああやうさん」の悪口(?)も言いはじめ、木村に感想を求める。木村はやはり「はぁ」とだけ応える。
そういうやりとりのあと。
「あちらの世界」とは、木村の属していない世界、編み物教室のみんながすんでいる世界のことである。木村の隣には、いつもは、誰も座らない。きょうだけ、奥さんが座り、奇妙な話をした。
その奇妙な話の登場人物「ああやうさん」。そのひとは、すこし悪く言われている。けれど、木村には、ほんとうに悪い人なのかどうかわからない。だから「はぁ」とだけ応えたのだが、そあのとで、悪く言われているひとを「神様」かもしれないと思ってみる。その受け止め方--そこに木村の「肉体」、木村の思想がある。
神というものを私は考えたことがなかったけれど、そうか、神様(ちゃんと、「様」がついているところが、木村の思想である)はこんなふうに存在するのか、こういうふうに存在しているならいいなあ、と思ってしまった。木村は、引きの演技で神様さえ、美しく引き立てることができるのである。
「さぶりしん」という詩はとても美しい。木村の両親のことを書いているのだが、登場人物が両親であることは最終連まで読まないとわからないし、両親であるとつげる語り口もとても静かでいい。両親への感謝と、両親が互いにどんなに愛し合っていたかがつたわってくる。そして、ああ、この両親の愛があったからこそ、木村は、こんなふうに「引きの演技」というか、「引きの応対」によって他人を輝かせることができる人間に育ったのだなあ、と納得させられる。
ここには、静かで、つましく、けれどもけっして壊れない確かな思想、愛というものがある。
全行引用しておく。すてきな詩をありがとう。
木村恭子は、他人を多く詩に登場させる。その他人との距離感がいい。登場人物を立てるといえばいいすぎかもしれないけれど、登場人物をけっして傷つけない。それは芝居でいう「引きの演技」に似ている。相手が動くのを静かに受け止める。そして、その静かな受け止めがあるからこそ、相手がきらりと輝く。
自己主張しないことが、木村にとっての自己主張なのだ。
「ここよりほかでも」は編み物教室でのやりとりを書いている。いつもは誰も座らない隣の席に「年配の奥さん」が座り、「ああやうさんのお近く?」とたずねてくる。返事のしようがない。「はぁ」と応えると、奥さんはどんどん話をつづけるが、どうにもよくわからない。奥さんは「ああやうさん」の悪口(?)も言いはじめ、木村に感想を求める。木村はやはり「はぁ」とだけ応える。
そういうやりとりのあと。
神様の苗字は あちらの世界では ああやうさんというのでしょう
「あちらの世界」とは、木村の属していない世界、編み物教室のみんながすんでいる世界のことである。木村の隣には、いつもは、誰も座らない。きょうだけ、奥さんが座り、奇妙な話をした。
その奇妙な話の登場人物「ああやうさん」。そのひとは、すこし悪く言われている。けれど、木村には、ほんとうに悪い人なのかどうかわからない。だから「はぁ」とだけ応えたのだが、そあのとで、悪く言われているひとを「神様」かもしれないと思ってみる。その受け止め方--そこに木村の「肉体」、木村の思想がある。
神というものを私は考えたことがなかったけれど、そうか、神様(ちゃんと、「様」がついているところが、木村の思想である)はこんなふうに存在するのか、こういうふうに存在しているならいいなあ、と思ってしまった。木村は、引きの演技で神様さえ、美しく引き立てることができるのである。
「さぶりしん」という詩はとても美しい。木村の両親のことを書いているのだが、登場人物が両親であることは最終連まで読まないとわからないし、両親であるとつげる語り口もとても静かでいい。両親への感謝と、両親が互いにどんなに愛し合っていたかがつたわってくる。そして、ああ、この両親の愛があったからこそ、木村は、こんなふうに「引きの演技」というか、「引きの応対」によって他人を輝かせることができる人間に育ったのだなあ、と納得させられる。
ここには、静かで、つましく、けれどもけっして壊れない確かな思想、愛というものがある。
全行引用しておく。すてきな詩をありがとう。
とよこさんが通信省で働いていた頃
さぶりしんが好きだわ
と 言いふらすことがあったらしい
結婚退職の挨拶に回ったら
さぶりしんに似ているのかね相手は
と 上司が聞いたそうだ
がりがりにやせていたまさおさんが似ていたところ?
さぁ 上背のありそうなところぐらいだったのかな
まさおさんの働いている工場は
給料の遅配が重なり
どうしようもないまさおさんは
履いていた靴を売りに出かけた
そんな汚い靴は売れもしないから
そこへ置いておけ と古物商に言われ
そこへ置いて帰ったらしい
それから苗屋に寄り 一番弱々しい茄子の苗を買った
三種の神器も何とか揃った頃には
冷蔵庫の牛乳は冷たいから 外に出しておいて
とよこさんにそう言われ
玄関先に牛乳瓶を出したという話もあるが
病気がちだったまさおさんは 末の娘を嫁がせた後
早々とこの世の玄関から出て行った
さぶりしんがどうであったかは知らないし
私に さぶりしんは似ていない
でも
戦争で右足の指をなくしたまさおさんが
靴先に ちぎった新聞紙を詰めてよく働き
とよこさんと二人で
必死に私達を育ててくれたことなど
私はよく知っているし
まさおさんは私にとてもよく似ていた
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