詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(74)

2015-05-31 14:57:56 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(74)

121 御霊村小学校

いつぱい咲いたところから
花は散りはじめる

 この書き出しには、「道成寺」の「対構造」(矛盾の構造)に似たものがある。「咲く」と「散る」は反対の動きである。その「反対の動き」は「いつぱい」という「充実」のなかで結びついている。そのために「反対」がより劇的に見える。
 ここにすでにドラマがある。

小さな神がどこかでその日を記しているのだろう
きょうはある日からはるかに遠い日だ
散りしきる花吹雪のなかを
なぜかひとひらが遠いところへと舞い落ちる

 この詩には「一九四五・四・一日節子小学一年生」という「注」がうしろについている。「節子」というのは、だれか死んだ子どもの名前かもしれない。小学校に入学するのをまたずに死んだ。そしていま、花吹雪のひとひらとなって散っている。なぜか遠いところへと舞い落ちるひとひら。それが節子のように思える。
 この悲しみは、書き出しの「いつぱい咲いた」の「いつぱい」と強く結びついている。節子は「いつぱい」に咲ききった。存分に生きた。だから死んでしまったのだ。悲しみを、そう思うことで乗り越えようとしている。
 「小さな神」はいたずらな神ではなく、節子そのものだった。
 「ある日」とは「神」が節子のいのちを決めた日のことだ。「あの日」ではなく「ある日」なのは、特定できないからである。人知のおよばない日ことである。運命は人知のおよばないできごとなのだ。





嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(32)

2015-05-31 12:59:18 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(32)(思潮社、2015年04月30日発行)


「ぬらぬら」

「ぬらぬら」という店名だった
林の中の簡潔な木の小屋
店番をしているお河童頭の女の子

辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ
私はそう思っている 真剣に
「ぬらぬら」は書店ではないが
そんなことを私に思わせる空気が漂っている

大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜
雑貨屋さんと言えばいいのか
「ぬらぬら」の一隅のスタンドでレモネード飲んでいたら
隣で詩が立ち上がる気配がした

 「その男」の感想の最後で、私は「一元論」について書いた。それは「知ったかぶり」のことばである。ほんとうは何もわかっていない。聞きかじったことばをつないだだけである。「論理」はほんとうにわかっていないことでも、つなぎあわせてわかっているかのように動かしてしまうことができる。「借り物」のことばの方が無責任に「論理」を組み立てることができる。自分で考えるわけではないから、つまずかないのだ。(これは他人のことを批判しているのではなく、私自身の反省として書いている。)
 この詩を読んだ瞬間、私は反省した。「借り物」のことばでは読みきれないものがある。自分自身のことばでも読みきれないものがある。

 「ぬらぬら」

 どこかの山の中(詩では「林の中」と書いてあるが、都会ではなく、辺鄙な、ひとの世界から離れた場所のような感じがする)で出合った、何でも売っている小さな店のことを書いているように思える。私は田舎育ちなので、中学校の近くにあった文房具も雑誌も駄菓子も惣菜も売っている「よろず屋」を思い出した。その地区でたった一軒の店であった。
 「ぬらぬら」は詩のなかでは「店の名前」ということになっている。しかし、店の名前にしては奇妙である。変である。そんな名前をつける店などないだろう。そう思い、私は、ここでつまずく。「ぬらぬら」とどう向き合っていいかわからない。「借り物」の「一元論」を持ち出すこともできないし、ほかの聞きかじった「論」も持ち出すことができない。何も持ち出すものがない。そう気づいて、あ、「その男」で書いた私の感想は、結局誰かのことばを借用しただけのいい加減なものだったと気がつく。
 何も頼るものがない。
 ここから、何を読み取ることができる。

 不思議な店に入った。(一連目)そこで谷川は「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」と思った。そこで体験したことを書くには、そうしないと書けない。(二連目)そして実際に詩を書いた。(三連目)
 詩をそんなふうに動いていくことばとして読んだが、「ぬらぬら」がやっぱりわからない。いや、「ぬらぬら」ということばは知っている。「ぬるぬる」と似ている。すべるような、そのくせ粘着力があるような「液体」、その「感触」を指すのにつかう。「べたべた」というのは、少し似ているが、すべる感じが少し違う。
 この私の知っていること(肉体で覚えていること)が、谷川の書いている「ぬらぬら」が重ならない。どう向き合えばいいのか、さっぱりわからない。私の知っている「ぬらぬら」が、動いていかない。
 こういうとき、どうするか。
 私はわからないものを無視して、自分がわかると感じるものを中心にことばを追ってみる。「論理」や「構造」を探してみる。それをたよりにことばの大体の感じを探ってみる。自分の覚えていることばと重ならないか、思いめぐらしてみる。外国語で知らない単語にぶつかったときに、前後の感じから適当に意味を判断するのに似ている。
 『詩に就いて』書かれた詩なので、どこかに「詩」ということばがある。それが今回の谷川の詩集の特徴だ。この作品では、最終行に出てくる。

隣で詩が立ち上がる気配がした

 詩が人称化されている。詩や言葉を人称化することは、谷川には珍しいことではない。「放課後」では「詩」が「少年の姿をして言葉を待っていた」という一行がある。そして人称化された「詩」は「立ち上がる」という「動詞」といっしょに動いている。「立ち上がる」は、このとき「動詞」であり、同時に「比喩」である。
 この「立ち上がる」は二連目の「辞書のページの上で寝ている言葉たちを起こさなければ」の「起こす」という動詞と似ている。通い合うものがある。そして、それは「寝ている」とは反対の「動詞」でもある。
 「寝ている言葉」が「起きて」「立ち上がる」。そのとき「詩が立ち上がる」。目覚めて、立ち上がったことばが「詩」なのである。たとえ「辞書のページの上で寝ている言葉」でも現実に触れて動き出せば、その動きのなかに詩が生まれてくる。それは「ひそんでいた」詩が姿をあらわす、ということかもしれない。そう考えると、この作品にも、谷川が繰り返している「詩の定義」に重なるものがある。一連目をわきに置いておいて考えると、そう読むことができる。
 「対」になる「動詞」を手がかりに、「枠」をつくり、そのなかで「論理」を動かしてみることができる。
 その「論理」の「枠」のなかには何があるか。
 三連目に、不思議な四行がある。

大正時代にどこかの薬局が配った鉛筆
三日前に出たばかりの河馬のモノクロ写真集
小学生たちが作った蛇の針金細工
偽物と但し書きがついたバッハ自筆の楽譜

 「名詞」が並列されている。「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」。それをつなげる「論理」が私には見出せない。
 目につくのは「大正時代」「三日前」という「時間」の書き方である。「名詞(主語?)」が一行一行違うと同時に、「時制」が一行一行違うのである。「大正時代」「三日前」につづく行の「時代(時間)」はわかりにくいが、「小学生(の時間/時代)」「バッハの時代(時間)」と読むと、一行一行が時間をもっていることがわかる。
 この変わっていく「時間」こそが、それぞれの行の「主語」であり、「鉛筆」「写真集」「針金細工」「楽譜」は、「時間」の存在の仕方の「比喩」なのだ。その「比喩」を書くことで、「寝ていた言葉」ではなく「寝ていた時間」が動く。
 「寝ていた」を「ひそんでいた」と言い直し、私はふたたび、谷川が繰り返し書いている「詩の定義」にもどる。
 そして、いま浮かび上がった「時間」の動きと「ぬらぬら」をつないでみることはできないだろうか、とも思う。
 「ぬらぬら」というのは、各行の「時間」と「時間」との関係かもしれない。「大正時代」「三日前」「小学生の時間」「バッハの時代」と、ことばにすると、それは別々の「時間」だが、「区別」が「もの(鉛筆や写真集)」ほど明確ではない。意識のなかで「時間/時代」を方便として区切っているだけであった、「いま」この瞬間に「大正時代」を思い起こし、次に「三日前」を思うとき、その二つの「時間」の「あいだ」にある「時間の隔たり(?)」はっきりしない。「大正時代」が「三日前」よりも遠くにあるのか。「小学時代」は「大正時代」と「三日前」のあいだにあるのか。そこから「バッハの時代」まで、どんな隔たりがあるのか。「同時」に思い起こすことができてしまう。思い起こすとき、どの「時間」も瞬時にあらわれ、その「瞬時」と「瞬時」の「間」は存在しない。ビッグバンの瞬間のようだ。
 「方便」として「年(日にち)単位」で、そこに数字を割り振りすることはできるが、「数字」と「思い起こす」意識の動きは関係がない。「三日前」よりも「小学生時代」を近くに感じることがある。
 「時間」には「遠い/近い」はない。「歴史」の遠近法は「時間の遠近」を描くが、現実の人間にとっては、どの時間も「いま」とぴったりくっついている。離れているのに「思い出す」という意識の運動のなかで、しっかり接続している。
 この「接続/分離(切断)」の感覚を、肉体が日常的に味わっていることばで、どういう具合に言えるだろうか。
 そう思うとき、

ぬらぬら

 ということばが、重なってくる。
 「時間」をつかもうとすると、それは滑って手の中から逃げていく。「時間」の区別が「もの」のようにはっきりと手に残らない。「時間」を区別してつかんだという感じがしない。
 この「時間」の「手触り」を、私は「ぬらぬら」と感じたことはない。どう感じているか、そもそもそこに「手触り」を意識したことがない。けれども、谷川は、これを「ぬらぬら」と呼んでいるのではないか、と思う。

 この私の感想は強引である。なんの根拠もない。「ぬらぬら」をわきに置いておいて読むといいながら、ずっーと「ぬらぬら」を抱えてことばを読み、あ、ここなら「ぬらぬら」を結びつけることができるかもしれないと感じ、その感じを強引に拡大したのだ。
 こういう「論理」のでっちあげは、一回目は単なる「でっちあげ」に過ぎないが、二回、三回と繰り返すと「論理」に育ってしまうところがある。繰り返し言うことができるということは、そこには繰り返しに耐えうる「真実」があると、頭はかってに考え、自分自身の脳を騙しはじめるのである。私は「ぬらぬよ」について書いたことを、自分で半分以上信じはじめている。
 「他人の論理(既成のことば/哲学)」を借りてくると、その「既成の哲学」というものはすでに繰り返されているので、もっとすばやく「脳」を騙してしまう。
 「その男」について書いたときにつかった「一元論」は、そういう「他人の論理」である。私の考えのふりをしているが、それは他人の考えに乗り掛かり、私の脳を騙しながら書いていることでもあるのだ。ほんとうに私が考えた「一元論」なら、そこから「ぬらぬら」へまっすぐに入っていける。それができない。そして、こんなふうに「ねじくれた」感想を書いている。
 「論理」とは「嘘」であり、「嘘」をつくと、「嘘」がやめられなくなる。
 ここから私は「詩」へもどっていくことができるか。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(73)

2015-05-30 11:16:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(73)

120 道成寺

 「道成寺」から「紀伊牧歌」という章になる。

二つの谷に挟まれた峰は
はるか彼方のもつと高い峰からつづいている
それを見上げてひとは深い孤独におちる

 「谷」と「峰」、「見上げる」(高さ)と(下へ)「落ちる」、つまり「上」と「下」。「対」を組み合わせながらイメージが結晶していく。その結晶力の中心に「孤独」という精神(感情)が輝く。
 この「対」の組み合わせ、「矛盾」の効果は、「孤独」を「愛」ということばで言いなおすとき、さらに結晶度を増す。

愛しあえば愛しあうほど
なぜひとは手のつけられぬひろがりを感じるのだろう

 「手のつけられぬひろがり」を感じるのが「孤独」。そしてそれは「愛している」ときに感じる。これは「受動の愛」ではなく「能動の愛」だからだろう。どこまで愛しても、愛したりない。愛が二人のあいだを埋めつくしているという実感よりも、そこに埋めつくせないひろがりがあるという不安の方が強い。
 「谷」はそのとき「ひろがり」を通り越して、「深さ」にもなる。
 「矛盾」のぶつかりあい、そこから「具象」の「抽象化」がはじまり、その動きのなかに「精神」そのものの形が感じられる。

ときに二人は陽に輝いて石階を登つていく
石階にたかめられ ひきあげられ どこかへたどりつこうとする
だが夜になると その石階は死よりも遠くなり冷たくなる

 「死よりも遠くなり冷たくなる」は、そうやって結晶した「抽象」だが、「石階」というものが「谷」と「峰」をつなぐものとして「具体」的なので、「抽象」なのに「抽象」ではなく「具象」と錯覚してしまう。
 そういう不思議さがある。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(31)

2015-05-30 09:43:52 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(31)(思潮社、2015年04月30日発行)


その男

<これは俺が書いた言葉じゃない
誰かが書いた言葉でもない
人間が書いたんじゃない
これは「詩」が書いた言葉だ>
内心彼はそう思っている
謙遜と傲慢の区別もつかずに

カウンターの端に座っているその男は
紺のスーツに錆色のタイ
絵に描いたような会社員だ
<ビッグバンの瞬間に
もう詩は生まれていた
星よりも先に神よりも早く>

思いがけない言葉に恵まれる度に
そんな自己流の詩の定義を
何度反芻したことか
<言語以前に偏在している詩は
無私の言葉によってしか捉えられない>
男はバーボンをお代わりする

 この詩では「放課後」の「(詩/言葉が)和音に乗って旋律がからだに入ってくる」という行が複数の形で言い換えられている。
 「放課後」が「少年期」の谷川、詩人として誕生した瞬間の谷川を書いているとしたら、この作品は「青年期」の谷川のことを書いているのだろう。「青年期」と言っても、それは「少年期(詩人誕生)」と「いま」とのあいだの長い期間のことだけれど。
 「彼」「その男」という「主語」となって登場しているのだけれど、谷川自身のことを書いていると感じさせる。三連目「思いがけない言葉に恵まれる度に」の「主語」が明示されていないために、よけいにそう感じる。「文法」的には「彼」「その男」がなのだが、省略されているために、ついつい「現代詩」を読むときの習慣で「私(作者)」を「主語」として補ってしまう。そこで、「彼」「その男」「谷川」の混同が起きる。「彼」で統一しないで、「その男」と言い換えていることが、混同をさらに誘っている。
 「少年」だった谷川は「言葉を待って」いた。「青年」の谷川は待っていただけではなく、「恵まれ」た。それはいつも「思いがけない言葉」だった。「待っていた言葉(予想していた言葉)」とは違っていたということだろう。だからこそ「だれかが書いた言葉でもない/人間が書いたんじゃない」という感じになる。「人間が書いたんじゃない」とは「思いがけない(想像を超えている)」ということと同じである。この「思いがけない」は二連目では「ビッグバンの瞬間に/もう詩は生まれていた/星よりも先に神よりも早く」と書かれている。
 < >でくくられたことばは、みな同じ意味、言い直しである。一連目で「詩」とカギ括弧でくくられている詩を、谷川は言い直している。「自己流の詩の定義」を少しずつ言い直している。
 言い直しであるから、言い直すほど、「深み」に入っていく。「ビッグバンの瞬間」は「言語以前」と言い直され、「言語以前に偏在している詩」とつづけられる。この表現は「未生の言葉」を思い出させる。
 そして、とてもおもしろいのは、その「未生の言葉」が「偏在している(詩)」と書かれていることである。「偏在している」とは「どこにでも存在している/広く存在している」ということだが、私にはこの「偏在している」が「ひそんでいる(隠れている)」と同じ意味でつかわれているように思える。辞書の意味とは逆に感じられる。このときの「ひそんでいる」は「詩よ」に書かれていた「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」というときの「ひそめている」と同じだ。また「隙間」の「隙間に詩は忍び込む」の「忍び込む」と同じだ。野生の詩は、まばらな木立の奥に「忍び込み」「偏在している」のである。「偏在している」と「ひそんでいる」と「忍び込む」の区別は、その主語の「述語」ではない。その主語が能動的にそうしているのではない。「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる」は、それを探している人間にとっての、対象の「状態」である。探し方次第で「偏在している」にも「ひそんでいる」にも「忍び込んでいる」にもなる。
 だからこそ、その「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる対象(詩)」は、「無私(の言葉)」によってしか「捉えられない」と言い直されるのである。探しているのだけれど、探すのをやめ「待っている」と、むこうから「あらわれてくる」「やってくる」。「探す」という動詞の主語「私」を「無」にしてしまう。そうすると、むこうからやってくる。しかも「偏在している」という形で。
  「無私」というのは私が私を捨てること。そして、そこにある「木立」「隙間」になってしまう。「木立」「隙間」になってみると、それは、もう何かを隠さない。何かといっしょにある。その瞬間、「木立」「隙間」も「木立」「隙間」ではなくなり「無」になる。「木立」「隙間」が隠しているものだけが、そこに存在する。それは「無」をとおして「私」と「対象」が重なる(一致する、一体になる)ことでもある。だから、「詩」が偏在するのではなく、「私」が偏在する、と言い換えることもできる。
 聞きかじったことばを流用して言えば、「私即是木立、木立即是ひそんでいる詩、詩即是私」ということ。「私即是詩、詩即是木立、木立即是私」ということ。そこでは、その必要に応じて「私」「木立」「ひそんでいる詩」が姿を現わすが、そのあらわし方は「方便」にすぎない。
 「一元論」の世界である。「一元論」であるから「ビッグバン」の前も後もなく、「言語以前」も「言語以後」もない。何かを言わなければならないとき、「方便」として「ビッグバンの瞬間」とか「言語以前」とか言うだけのことである。

 しかし、こういう書き方をしていると、どうも、私は谷川の詩を読んでいるのではなく、私の考えを補強するために谷川の詩を利用しているのではないのか、という疑問がわいてきてよくない。「一元論」にしろ「色即是空/空即是色」にしろ、それは私が聞きかじった「他人のことば(知識)」である。それを言い直す「肉体」と結びついたことばを私は持っていない。

 谷川に言わせれば、「最初にことばがあった」ではなく「最初に詩があった」。谷川はそう感じているのだろう。そう思うところで、私は私のことばをとめておかなければいけない。「考える」と、自分のことばを動かしているように見えても、実際は聞きかじったことばに動かされてしまう。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(72)

2015-05-29 09:41:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(72)

119 炎の垣

自分の内部から満ち溢れるものに
自ら溺れることがある
生のはるか遠い水平線に鐘の音をききながら
いくたびとなく岸に泳ぎつこうとする

 「炎の垣」というタイトルだが、始まりは「炎」ではなく「水」から始まっている。「満ちあふれるもの」は「水」とは限らないが、「水平線」ということばと結びつくとどうしても「水」を連想する。
 この「炎」と「水」の「対立するもの」の組み合わせのように、何か不思議なものがこの詩のなかに動いている。
 四行目の「岸」というのは、どこにあるのか。「遠い水平線」の向こう側か。「内部から満ちあふれるもの」といっしょに「自分」から溢れ出て、どこにあるかわからない「岸」を目指して泳ぐのか。あるいは溢れ出たあと、遠い水平線に背を向けて、自分のいた「岸」を目指してもどるのか。
 この四行だけでは、前者に見える。
 しかし、五行目、

青春はこのようにして疲れてて外心円を狭めるのだろう

 を読むと、水平線のむこうにある「岸」にあこがれたけれど、たどりつけず自分のいた岸にもどってきたように読める。自分から出て、どこまで遠くへゆける。試みながら挫折し、自分の行動範囲の限界を知る。この「敗北感」が「青春」か。
 この「敗北」のイメージを、嵯峨は「炎」で言いなおしている。「水」を「炎」で言いなおすのは、なんとも不思議な矛盾だが、それが不思議であるがゆえに、「真実」なのだと感じる。「水」では言い表すことのできないもの、「敗北」しながらも、それを輝かせるためには「炎」がいる。この、激しい思いこそが「青春」だ。

たつたひとりいるところですべてが消尽されるのだ
せいいつぱいの高さで火を燃やして
その炎の垣のなかで若者は路を見失なう

 「炎」に「おぼれる」。「溢れ出ていく」のではなく、「炎の高さ」を目指す。「水平」から「垂直(上昇)」へ、動きの向きが変化し、変化することだ詩の世界が立体的になっている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(30)

2015-05-29 09:08:55 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(30)(思潮社、2015年04月30日発行)


放課後

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している
少年には瞬間の奥行きが見えているのだが
そこに何がひそんでいるかは知らない

ここに生まれてきて十数年
まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ
少年は世界がここにあることが不思議で
平気で生きている人々になじめない

これからどうなるのだろうと考えると
すべてがまた激しく動き始める
和音に乗って旋律がからだに入ってくる
明日を畏れることから今日が始まる

 詩はつづけて読むものではない。しかし、読んでいると、いままでに読んだ詩を思い出してしまう。この「放課後」は、これまで「三つ目の章」で読んできた作品と趣が違う。詩を拒絶する「女(娘)」が出てこない。かわりに「少年」が出てくる。そしてその「少年」は

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている

 という不思議な言い方で表現されている。「詩」が「少年」、「詩」なのに「言葉を待っている」。しかし読むと、意識は「文法」通りには動いてくれない。少年が窓際にいる。少年は言葉を待っている。少年は言葉(思っていること/感じていること)が詩になるのを待っている。その姿が「詩」のように見える。そんなふうに「詩」と「少年」がいれかわる。どちらがどちらの「比喩」なのか、区別がつかない。 
 少年が感じている「詩」は「瞬間の奥行き」と言いなおされている。そしてそれはさらに「ひそんでいる」何か、と言いなおされている。「見えている」が「知らない」と矛盾した形で表現されている。この矛盾は「詩」と「少年」の、互いが互いの「比喩」である関係に似ている。「瞬間奥行き」をどう言いなおしていいのか「知らない」が、その「奥行き」のなかに何かがひそんでいるのが「見える」。
 この「奥」と「ひそんでいる」は「詩よ」に出てきたことばを思い出させる。

まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

 「野生の詩」とは、まだひとのあいだに流布していない詩であり、言い換えると「詩」になっていないことば、「未生の詩」とも言い換えられるだろう。
 この一連目を書いているのは谷川であり、谷川は「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」のを見ている、と読むのが一般的な読み方だと思う。書かれてはないが「主語」は「谷川」であり、それを補って読むのが自然だと思う。
 しかし、二連目以下はどうだろう。

ここに生まれてきて十数年

 「十数年」は「少年」の年齢と重なる。「主語」が二連目で「少年」にかわってしまっている。一連目の「少年」は谷川の記憶にある自分自身の姿で、二連目では記憶の少年にもどってことばを動かしている、ということかもしれない。しかし、そうすると「まだ青空も白い雲も少女たちも新鮮だ」の「まだ」が不自然だ。「まだ」はあくまで「少年」ではない谷川が感じる「事実(現在との比較)」であって、「少年」にはそれが「まだ」とは言えない。谷川は十代の「少年」にもどりながら、同時に「現在の谷川(八十代)」でもある。一連目で「少年」と「詩」の区別がつかなかったように、二連目では「少年」と「現在の谷川」が入れ代わり可能の状態でまじっている。
 この二連目では「詩」は、どう書かれているだろうか。言いなおされているだろうか。「世界がここにあることが不思議」と書かれている。「不思議」とは、ことばではっきり説明できない、論理的な形で言えないということと重なる。少年には、それが不思議なのだが、人々はそうではないように少年には見える。そして「平気で生きている人々になじめない」と感じる。この「平気で生きているひと」の「平気」を言いなおすと、「ひそんでいるもに気づかない」ということになるかもしれない。人々は「世界」の「奥」に「ひそんでいる」何かが見えない。何かが「ひそんでいる」ことを知らない。たとえば「野生(の詩)」のような強い力をもったものが。だから「平気」。
 そう読んでくると、ここでやっと「詩に無関心なひと」が登場する。「小景」「二人」「同人」に登場した女のように詩に対して冷淡であったり拒絶するわけではないが、詩から離れている人々がいる。
 三連目。「これからどうなるのだろうと考える」は、「少年」が自分の人生の不安を考えていると読むこともできる。また谷川が、詩はこれからどうなるのだろうと考えていると読むことができる。さらに「少年」が詩はどうなるのだろう(瞬間の奥行きにひそんでいる何かはどうなるのだろう)と読むことができる。「少年」と「谷川」は融合して、ひとつになっているのだから。
 詩がどうなるか、その答えよりも、私はその問いの周辺で動いていることばが、とてもおもしろいと思った。
 「これからどうなるのだろうと考える」と谷川は「考える」ということばをつかっている。「胡瓜」のなかで「胡瓜をスライスしながら娘は考える」と書いたときの「考える」と同じことば。
 「考える」とは自分のことばを動かすということだった。
 三連目では「考えると/すべてがまた激しく動き始める」と書かれている。この「動き始める」は一連目の「生徒たちが静止している」と「対」になっている。だから「すべて」とは「意味」上は校庭にいる生徒になるのだが、その見えている「世界(のなかの存在)」であるだけではなく、それを把握することばそのものが動き始めるのである。
 「考える」という行為をとおして自分のことばを動かすと、自分以外のことば、世界の奥にひそんでいたことばが動き始める。このときの「世界/ことば」の変化の表現が、とても谷川らしい。

和音に乗って旋律がからだに入ってくる

 「和音」という音楽用語がつかわれている。「旋律」ということばもある。ことばが動くとき、そこに「音楽」がある。谷川のことばと他人のことばが響きあい、「和音」になり「旋律」になる。それが「からだの外」で起きる現象ではなく「からだ」のなかで起きる。「旋律がからだに入ってくる」。
 一連目の一行目で書かれていた「言葉を待っている」とは「言葉がからだに入ってくるのを待っている」だったのだ。そこから世界が始まる。世界が動く。
 「明日を畏れる」とは「未知を畏れる」(ひそんでいる何かを畏れる)であり、「未生のことば」を「畏れる」でもある。
 「他人の言葉」が「からだに入ってきて」、谷川自身のことばと結びつき、新しいことばとなって誕生する、谷川の「未生のことば」が他人のことばによって授精し、胎児になり、生まれてくる--それが詩であるということか。
 こんなふうに考えると、谷川は「定型のことば」を頻繁につかう理由もよくわかる。「定型表現」をとおして谷川は「他人のことば」と出会うのだ。「他人のことば(定型)」のなかに生き続けている力(ひそんでいる力)を借りて、詩を「妊娠」するのである。
 「畏れる」は「ありがたく思う」「大切にする」ということでもある。

 この作品は、十代の谷川が詩に出会ったときの「瞬間」を、正直に書いたものなのだ、きっと。「ことば」が「音楽」となって「からだに入ってきて」、ことばとなって出て行く。そのとき、そこに詩がある。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(29)

2015-05-28 09:21:42 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(29)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩人

中指がタッチパッドの上を滑って行って
文字を捕まえる 一つまた一つ
身の回りのはしたない彼の畑から
かぼそい茸にも似た詩が生えてきている

女の子が扉を開けると男の子が入ってくる
海は大きな舌で岸を舐め続けている
人々は金に取り憑かれて歩き回っている
彼は言葉ですべてを無関心に愛する

外階段をカンカンと上がって来る足音
隠された物語が素通りしてゆく
掌の地図を辿って行き着けるだろうか
正しさに裁かれることのない国に

あらゆる厳粛を拒む軽快が詩人の身上
丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて
向日葵が太陽に背いてうなだれる
女の子の部屋から男の子が出て来る

 不透明な詩である。言い換えると「論理的」ではない。「意味」が動いて行っていない。
 二連目の一行目と、四連目の最終行(詩の最終行)は「対」になっている。「女の子が扉を開けると男の子が入ってくる」「女の子の部屋から男の子が出て来る」。この変化のなかに何があるか。
 二連目。海の描写がある。ひとの描写がある。詩人の自己洞察がある。しかし、それがなぜひとつの連のなかにいっしょにあるのか、私にはわからない。
 三連目。一行目と二行目は、そこに書いてあることばを借りて言えば「物語」を感じさせる。しかし、そのことばは「物語」を通り越してしまう。「階段」は「掌の地図」ということばをとおって、「肉体」から「肉体の内部」へ動いてゆく。この展開が、この詩のなかではいちばん刺激的である。「肉体の内部」で「正しさ」とか「裁く」とか、精神的なことばが動く。具象から、抽象へ。この変化が「意味」につながる。
 四連目。しかし、谷川は、その「意味」を「あらゆる厳粛を拒む」という「意味」でこわしてしまう。「意味」を破壊して「軽快」になる。そして「積乱雲」「向日葵」という夏の描写に変わる。
 こうしたことが女の子の部屋へ男の子が入って行って、再び出て来るという「区切り」なのかで動く。
 この三連の世界が、一連目で書かれている「かぼそい茸にも似た詩」になるのか。

 わからない。わかるのは、私自身の「嗜好」である。私は「一連」と「他の三連」を「対」にして、一連目の「詩」ということばを残りの三連で言いなおしていると読みたい。さらに二連目の一行目と最終連の最終行を「対」にして、そのなかに世界を閉じ込めたい。「意味」を「対」の構造から探したい。--谷川が何を書いているかを読むというよりも、谷川のことばに触れながら、私は私のことばがどんなふうに動いているのかを点検し、私のことばは「論理」を捏造する癖があるということを知る。
 私はさらに「海は大きな舌で岸を舐め続けている」と「丘の上にまたむくむくと積乱雲が湧いて/向日葵が太陽に背いてうなだれる」を「対」にして、そこに「夏の思い出(夏の時間)」が書かれているという具合に「論理」を捏造する。あの夏、谷川は「男の子」だった。そして「女の子」の部屋へ入って行って、そこから出てきた。女の子の部屋には「外階段」がある。そこを上っていった。そこには「男の子」と「女の子」の「物語」があるのだが、谷川はそれを隠している。
 あるいは「物語」を「掌の地図を辿って行き着ける」ということのなかに結晶させている。「正しさに裁かれることのない」という表現で、その「物語」が「正しさ」とは違うものであるということを暗示している。
 この「暗示」のなかへさらに踏み込んでゆけば、「物語」は長篇小説になるかもしれない。つまり「意味」が深く、重くなる。「物語」のなかで展開する事件に自分自身の「肉体」を重ねながら、掌の地図を読むように、自分の「内部」へ「内部」へと入り込み、そこから「意識/精神」というものを捏造し、その捏造した「意味」に酔うということが起きるかもしれない。
 私は、そこに書かれていることばを無視して、そのことばを自分の都合にあわせて「意味」を捏造するという癖がある。

 詩を読むとは、他人のことばを読むを通り越して、自分自身とことばの関係を洗い直すことなのかもしれない。
 「意味」が不透明なときほど、こういうことが起きる。

 こんな詩の感想は書きたくないなあ。
 こんな詩を詩集に組み込むなんて、谷川は意地悪だなあ、と思う。
 これでは谷川の『詩に就いて』の「分析/論」ではなく、自分をさらけだすことになる。
 そう仕向けるのが、詩?




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(71)

2015-05-28 06:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(71)

118 生の確証

 この作品にも「ぼく」と「きみ」が出てくる。この「ぼく」と「きみ」も同一人物だろう。

無の羽根が
内側からやわらかにぼくを撫でる

 書き出しに突然「無」が出てくる。しかも「羽根」という具体的な存在として書かれている。形而上学的な詩である。「内側」とは「肉体の内側」であり、それは「精神」と言い換えることもできる。「無」を意識する精神が「内側からぼくを撫でる」。しかし、このとき「撫でている」のは「肉体」ではないだろう。「無の羽根」が「無」そのものであるように、「内側」から撫でるのは「内側」そのものである。提示された存在と比喩が同一であるように、提示された「内側」は「内側」そのもの、つまり精神そのものである。
 これは「ぼく」と「きみ」との区別の仕方と同じである。それは同じものの「別称」である。区別するための「方便」である。

大きな時空がぼくの隣りで動いている
ふと一万米の海底へ遠く墜ちていく小石が見える

 「大きな時空」と「一万米の海底」も区別して書かれているが同じものを別の比喩で呼んでいるのである。
 非論理的な構文だともいえるが、非論理的だから詩なのである。
 「ぼく」を対象化して「きみ」と呼ぶことに多くの人は慣れている。「ほんとうの自分」という考え方が誰にもあるからだろう。その「ほんとうの自分」のかわりに、あるときは「大きな時空」ということばがつかわれ、あるときは「一万米の海底」という表現がつかわれ、さらには「墜ちていく小石」という比喩がつかわれる。「大(きな時空)」と「小(石)」ではイメージがかけ離れすぎるが、そういうかけ離れたものを瞬間的に「ひとつ」と感じ取るのが詩なのである。

それこそぼくが生きているひとつの確証だときみは云う
その時
きみの眼の中をなおもその小石は落下をつづけている

 「ぼく」と「きみ」、「ぼく」と「比喩」の関係は、「我思う、ゆえに我あり」のふたつの「我」の関係である。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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嵯峨信之を読む(70)

2015-05-27 21:10:55 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(70)

117 決別

 「ぼく」と「きみ」が出てくる。

きみは日にたつた一度だけきみではない時がある
その短いあいだにぼくはすばやくきみを脱け出してしまう

 「ぼく」と「きみ」は同一人物である。「ぼく」が「きみ」を脱け出すとは、「ぼく」が「故郷」を脱け出すという具合にも読むことができる。
 「きみ=故郷」は日に一度「きみ」ではなく「ぼく」になる。「故郷」を脱け出していくことを夢見る「ぼく」に。そのとき「きみ」はどうしているか。

狂つた麦の野でいつまでも睡りつづけるきみよ
衰えた太陽を悲しげに抱いているきみよ
ぼくは遠くからきみを振りかえつて
ふたたび背をむける

 「麦の野」で眠ってる。この「きみ」を「故郷」と言いなおすと、

狂つた麦の野でいつまでも睡りつづける故郷よ
衰えた太陽を悲しげに抱いている故郷よ
ぼくは遠くから故郷を振りかえつて
ふたたび背をむける

 故郷を捨てる嵯峨の姿がくっきりと見えてくる。「狂つた」とか「悲しげ」という否定的な修辞がついてまわっているのは、「故郷」を切り捨てるための「方便」、自分を納得させるための「方便」である。
 「故郷」と書かずに「きみ」と書いたのは「故郷」を人称化しているということだけではない。「ぼく」の「分身=きみ」は、「ぼく」が去ったあともずっと「故郷」にいるからである。
 この詩は実際に嵯峨が故郷を離れるときに書いたのではなく、故郷を離れててから書いたものだろう。それなのに、いま、まさに故郷を離れるときの切なさがあふれているのは、「ぼく」の分身の「きみ」がいまも故郷にいるからにほかならない。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(28)

2015-05-27 09:25:54 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(28)(思潮社、2015年04月30日発行)


胡瓜

希望から絶望までの荒れ野を
詩人たちは思い思いに旅していた
中には絶望駅から希望駅行きの急行に
身一つで飛び乗る奴もいて
駅に着いたらポケットから詩を取り出して
街頭で売ったりしている
それを買ったお人よしの娘は
初めて詩というものに触れたものだから
そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい

胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか
詩を売った奴はそんなこと我関せずで
紙と鉛筆の領地を我がもの顔で歩き回り
昨日と明日の谷間の今日
道路で騒いでいる子供らの心を
弾む言葉ででっちあげている

 「三つ目の章」の詩は手ごわい。ことばをつなぐ「論理」があるのか、ないのか、よくわからない。
 「詩」とは「無関係」な女が出てくるという点では、この作品は「小景」「二人」に似ている。しかし、違う。この作品の「娘」は「初めて詩というものに触れた」。
 「一つ目の章」では「詩に就いての総論」、「二つ目の章」では「詩とことばの関係」、「三つ目の章」では「詩を認めないひとと詩の関係」が書かれているのだろうか。

 書き出しの「希望/絶望」の「対」の描き方は、かけ離れたものをことばでつなぐことで、ことばが活性化するという「詩の定型」を踏まえている。「急行」というのは、もう遠距離を結ぶ電車/列車にはないかもしれない。でも「特急」では急ぎすぎていて「詩の定型」から外れてしまうかもしれない。だから、この「急行」ということばの選び方も「詩の定型」といえるかもしれない。
 おもしろいのは、詩に初めて触れた娘の反応。

そのつまらなさに耐えることを
偽善であるとはさらさら思わずに
惚けた母の夕食の支度に忙しい

 「偽善」とは何だろう。
 娘は詩をつまらない(わからない)と感じ、それ以上ことばにはつきあわなかった。夕食の支度に忙しかった。ことばよりも現実の方が大事だったということか。そうならば娘は「正直」なのである。「わからない(つまらない)」ものを「わかったふり」で受け入れなかったということ。
 ここで「偽善」ということばが出てくるのは、谷川が「詩がわかる」というひとを「偽善者」と見ているということだろうか。「わからない/つまらない」のが詩なのに、と思っているのかな?
 「偽善」の意味というよりも、「つかい方」が、よくわからない。

 つまらなさ(わからなさ)を、二連目で、娘は言いなおしている。

胡瓜をスライスしながら娘は考える
詩人たちは胡瓜という存在を
知識ではなく直観で捉えるというが
そんなことが可能なのだろうか
大切な<how to live >という命題と
それはどう関わることになるのだろうか

 娘は詩を「定義」して「大切な<how to live >という命題」に「関わる」ものと言っている。夕食をつくる娘にとって「胡瓜」はどうやって刻むかということが問題だ。どの大きさなら母親が食べやすいか。それは「知識」とも「直観」とも関係ないなあ。
 この作品では、谷川は「娘」になって、詩と向き合っている。
 どうやって生きるか、どうやっていのちをととのえるか、そういうことと無関係なことばの運動というものなどに「耐えて」つきあう必要はない。

 こういう読み方でいいのか……。

 どう読んでいいのか、私にはよくわからないが、この詩のなかで私が関心をもったのは、「偽善であるとはさらさら思わずに」と「胡瓜をスライスしながら娘は考える」の「思う」と「考える」の違いである。
 「思う」と「考える」は似たことばだが、微妙に違う。娘は「思う」から「考える」へとことばの動かし方を変えている。
 最初(一連目)では「詩(書かれていることば)はつまらない」と「思った」。二連目では、「詩(書かれていることば)」が人生の命題とどう関わるのか、それを自分の問題として動かしている。
 「詩(書かれたことば)」は他人のもの(詩人のもの)だが、それを読んだ瞬間から他人のもの(詩人のもの)ではなくなる。自分の「ことば」として向き合わなければならない。そのことばをどう動かしていくか。自分のことばを実際に動かすことが「考える」。ことばと「考え」を一致させるために、両方をととのえるのが「考える」。「思う」は「間が刈る」ほどには、ことばを動かさない。一致かなくてもいい状態、ことばになりきれないものを含んでいる状態が「思う」ということだろうか。

 ここには明確な形で肯定も否定も書かれていないが、私には、谷川が娘の態度を肯定しいるように感じられる。
 少なくとも娘は「言葉」で何かを「でっちあげ」ようとはしていない。存在しないものを作り上げるのではなく、存在していることをことばでとらえなおそうとしている。存在とことばをかかわらせようとしている。「考える」ということをしている。
 胡瓜をスライスすることは、ことばとしてととのえられていないありふれた行為だが、そのことばになっていない(ことばにする必要がない)ことのなかに、ほんとうはことばが動いている。「思う」ともまた違うことばの動きがある。ことばは「肉体」そのものとなって、そこにある。胡瓜をスライスするときの、ととのえられた「肉体」の動きは、「肉体の考え」である。「肉体」が「考えている」。「動き」をととのえて、いまの動かし方になっている。そのとき、包丁もまな板も、そして娘の手も、きっと詩なのだ。胡瓜をスライスする「肉体の詩」なのだ。「胡瓜という存在を/知識ではなく直観で捉える」というかわりに、「肉体」のなかに鍛えてきた「動き」そのものを動かしている。そこには「偽善」はない。「いつわり」がない。「正直」がある。正直な「考え方(考える力)」、習い、学びとった「力」がある。

 この胡瓜をスライスする娘の「肉体の詩」に比べると、「同人」に出てきた「詩を言葉から解放したい」「あれが詩よ 書かなくていいのよ」は、「詩の真実」を語っているようで、「偽り」かもしれない。詩人は「偽り」をいう人間のことかもしれない。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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木村草弥『無冠の馬』

2015-05-26 10:41:07 | 詩集
木村草弥『無冠の馬』(角川学芸出版、2015年04月25日)

 木村草弥『無冠の馬』は歌集。いくつかの連作から構成されている。巻頭の作品は「ゴッホの耳」。その最初の作品、全体の巻頭の歌。

白鳥の帰る頃かもこぶし咲き白き刹那を野づらに笑ふ

 「白鳥」は「はくちょう」か「しらとり」か。「しらとり」の方が「白き」と響きあうが「刹那」という強いことばと向き合うには「はくちょう」の方がいいかもしれない。
 歌の「意味」を私はいちいち考えないが、この歌の最後の「野づらに笑ふ」の「主語」について書きたい。「笑ふ」のはだれ?
 私は「こぶし」と読んだ。
 野の遠くにこぶしが咲いている。そのぼんやりと白い色が、野の風景を明るくする。「山笑う」という季語に通じる「笑ふ」。自然全体の印象の変化と読んだ。
 そして、その変化に刺戟されて、「白鳥の帰る頃かも」と想像している。白鳥は見えないのだけれど、遠くで咲いているこぶしの花の連なりが白鳥の飛んで行く姿に見えないこともない。
 現実と幻想が交錯する美しい歌だと思う。
 「刹那」というのは、この歌にとってどういう位置を占めているのかわからないが、私が高校生の頃、こういう漢語の多い短歌を読んだ記憶がある。そういう意味では、少しなつかしいものが木村の歌にはある。

一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる

 「青い夜」ということば、「夜が来てゐる」という描写の仕方も、その当時読んだ「短歌の抒情」のひとつの形のように感じられる。
 それが良い、悪い、ということではなくて、私はそういうことばのつかい方に自然になつかしさを覚えるというだけのことである。

 三首目が、とても印象的だ。

三椏の花はつかなる黄に会ふは紙漉きの村に春くればゆゑ

 音の響きがうつくしい。どこかごつごつした部分がのこっていて、それがことば(声)を発する欲望を刺戟してくる。
 「はつかなる」の「つ」の音は私の発音では「母音」をふくまない。音が短縮してしまう。「黄に会ふ」の「黄」の音は私は苦手で、口語では私は「黄色」ということばしかつかわない。文字に書くときもたいてい「黄色」と書いてしまう。「黄」では、私には音が短すぎる。明確にするには強く発音しないといけない。--この「つ」の「弱音」と「黄」の「強音」の交錯が、とても刺激的だ。
 「紙漉き」の「す」も私は「母音」が弱くなる。省略してしまうかもしれない。「春くれば」の「く」も同じ。ところが「くれば」の「ば」は逆に「母音」が強くなる。濁音特有の「母音の豊かさ」がここにあって、それが「ゆゑ」という半母音+母音のつらなりへ広がっていくのも、妙に「肉体」を刺戟してきて、うれしくなる。
 この音の交錯と、意味の「倒置法」の感じもとてもいい。
 まっすぐにことばが進むのではなく、前後がひっくりかえりながら動いていく感じが、意識のばらつきというか、新しい風景を見て、どれから描写すればいいのか迷っている感じ、迷いながら感動をつたえたくて急かされている感じをそのまま再現している。
 春を見つけた、その浮き立つような感覚の動きが、そのまま音になっていると思う。
 「は」の音が繰り返し、それも「終わりの方(三椏の花/会ふは)」と「先頭の方(はつかなる/春)」という具合に乱れるというのか、リズムの取り方が二種類あるというのか、……これも刺激的だ。

松の芯が匂ふおよそ花らしくない匂ひ--さうだ樹脂(やに)の匂ひだ

 この歌は、いま若者が書いているような、ことばのラフな動きと似通ったところがあるが、あえて「匂ふ/匂ひ」を繰り返しているところに、感覚の「剛直さ」があらわれていて、私は好きだ。

 私は音の輪郭が強い歌が好きなのだ。
 万葉の音に比べると、その大声に拮抗する声の強さを持っている歌人は少ない。木村の声が万葉のように強靱であるとは言えないけれど、声の強さが聞こえてくる歌はいいなあ、と思う。
 これは「感覚の意見」であり、それ以上説明できないけれど。

 「無冠の馬」の次の二首も好き。

草原を馬上にかける少年よアルタンホヤグ・イチノロブよ

十戦十勝かつ英国首位種牡馬-セントサイモンは《無冠馬》だった

 言い換えのきかない「固有名詞」の強さが魅力だ。「無冠馬」は「首位種牡馬」という大声を出さないと言えない音の連なりが肉体をはつらつとさせる。「無冠馬」という母音の欠落した音と濁音が交錯しながら「だった」とさらに濁音+母音のない音へと動いていくところが、やっぱり大声を必要とするので楽しい。


歌集 無冠の馬
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川学芸出版

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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谷川俊太郎『詩に就いて』(27)

2015-05-26 09:12:31 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(27)(思潮社、2015年04月30日発行)


同人

詩をことばから解放したい
と彼女は言う
漂白されたような顔で
じゃ踊れば?と私は言う
肉体は恥ずかしいと彼女
都合よく大空を雁が渡って行く
あれが詩よ 書かなくていいのよ
書くと失われるものがあるのは確かだが
草の上にシートを敷いて二人は寝転がっている
他の同人たちは下の川に釣りに行っている

天から見れば私たちは点景人物
誰が描いた絵なんだろう この世界は
型通りの発想も時には詩を補強する
結局言葉なのね 何をするにも
唇は語るためだけにあるんじゃない
まだお握り残ってるわよ
食べるためだけにある訳でもない
愛でもっともすばらしいものは口づけ……
とトーマス・マンは書いている
おおい!と誰かが下から呼んでる

 「小景」「二人」「同人」と三篇、女と男(私/詩人/谷川?)の「やりとり」が書かれている。「小景」「二人」の女は詩は書いていないようにみえる。「同人」の女は詩を書いている、ように見える。谷川が若い時代、「櫂」で他の仲間といっしょに詩を書いていた時代に体験したことを思い出して書いているのかもしれない。
 詩を書きながら、女は「詩を言葉から解放したい」という夢を持っている。「書かなくていい」ものが詩であると、言いたい。これに対して、谷川は「書くと失われるものがあるのは確かだが」という形で、女のことばを半分受け入れながら、違うことを考えている。谷川の考えは明確には書かれていないが、「……は確かだが」というのは、その意見に対して「態度保留」という感じの部分がある。
 谷川は、谷川が詩だと思っているものと、他人が詩と思っているものの違いから、詩を定義しようとしているのだろう。
 女は「詩は言葉ではない(書かなくていい)」と考えている。「私」は、明確には書いていないのだが「詩は言葉である」と考えている。ただし「未生の言葉」(まだはっきりとした形になっていない言葉)と考えている。
 少し強引な「論理」になるかもしれないが、そのことを私は、二連目の

型通りの発想も時には詩を補強する

 という一行に読み取る。
 「型通りの発想」とは「定型」のことである。「既成の言葉」「表現として確立された言葉」。ふつうは、そういうことばを「詩ではない」と否定するのが、谷川は否定しない。それは「詩=未生の言葉」を「補強する」。
 どんなことばも、それひとつだけでは自立しない。動かない。ほかのことばに支えられながら、動きはじめ、他の力を借りて「生まれてくる」。既成のことばから動き方を学びながら、その既成を超えるものを手探りで探し出す。
 それは見つけられないかもしれない。
 けれど、「未生の言葉」を見つけようとする「動き(欲望/本能)」が詩である。
 
 「型通り(定型)」は「都合がいい」。一連目に「都合よく大空を雁が渡って行く」という行があるが、ことばではなく「大空を渡る雁」という「存在」が詩であるというのも、一種の「詩の感覚」の「定義」にあっている。「定型」のひとつである。「都合」にあわせられるのが「定型」というものなのか、「定型」だから「都合」がいいのか、わからないが、それは、ほとんど同じものである。既成の「美」が、「いま/不安定」なことばにならないものを、ことばへ向けて動かしてくれる。
 二連目では、「定型」はもっと明確に「既成のことば」そのままに引用されている。トーマス・マンの「愛でもっともすばらしいものは口づけ……」。その「定型」を通って、谷川は「未生の言葉」を動かそうとしている。トーマス・マンのことばに接続する形で、それを乗り越える(切断していく)ことを夢見ている。そこに、詩がある、と思っている。
 最後は、しかし、その「未生の言葉」を誕生させるのではなく、別なことばで、それまでの「世界」を叩き壊し、解放する。

おおい!と誰かが下から呼んでる

 呼んだ誰かは「同人」仲間なのだが、彼は、谷川と女が詩とことばについて「やりとり」していたことを知らない。そういう「やりとり」を叩き壊して、無関係に、呼んでいる。
 この「無関係」は「無意味」ということでもある。
 「無意味」にこそ詩がある、という谷川の哲学がここにあらわれている。
 「無意味」という点、自分たちとは無関係な「存在」という「意味」では、それは「大空を渡っていく雁」と同じものである。
 これを「都合よく」と読んでしまうと、この形式が谷川の詩の「定型」になってしまうが……。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(69)

2015-05-25 10:13:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(69)

116 ぼくと樹木と

けれども休息する前に一枚の木の葉が落ちるのに眼をとめよう
この掌のようにひろい葉は
夜明けまで白い星々をささげていた

 「けれども」は詩人がこの行を書く以前から何かを考えつづけていたことを示している。意識は持続している。その意識の持続のなかで、「夜明けまで白い星々をささげていた」という不思議なことばが動く。「ささげる」? 「捧げる」という漢字を思いつくが、木の葉が星々を捧げるとは、どういうことだろう。
 「けれども」の前の部分、どんなふうに嵯峨の意識が動いていたのかわからないと、「意味」がはっきりしない。
 けれども、

そのあいだにも夜は少しずつ傾斜した
想像もできない大きなものがたえず追い越すので
木から葉が落ちるのだろう

 こう、ことばがつづくと、「想像もできない大きなもの」の神秘が私をつつんでくる。「想像もできない大きなもの」のことを嵯峨は考えていた。そして、その「大きなもの」に対して、木は(木の葉は)星をささげていた、と直観する。
 「想像もできない大きなもの」だから「けれども」という形でしか書くことができない。明確に書けない。ただ、「持続」する精神(思考/思想)がそこにあるということしか指し示せない。
 何か大きなものに、星を捧げる。そのとき、捧げているのは、ほんとう星ではない。自分のいのちそのものを捧げている。自分のいのちを「大きなもの」に向けて統一しようとしている。そうやって、木の葉は一生を終える。落ちていく。
 これはまた、死んでいった友の姿を描いたものだろう。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(26)

2015-05-25 09:27:35 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(26)(思潮社、2015年04月30日発行)


二人

世界を詩でしか考えない人は苦手
なんだか楽しそうに女は言う
手には濃いめのハイボール
背後の本棚には詩集が目白押し

株価だけで考える人生も悪くないかも
詩を書いている男が言いかけて
こんなやりとりは三文小説みたいだ
と心の中で思っている

この二人は若いころ夫婦だった
女にとっては詩はもう思い出でしかない
男にとってそれは余生そのもの
猫が迷わずに女の膝に乗る

詩集は捨てないの?女が訊く
捨てるくらいなら焚書にすると男
似ても焼いても食えないものが残る
それが詩だと言いたいのね

 詩を大事にする男と、詩に関心がなくなった女。
 三連目で、私はつまずいた。
 「この二人は若いころ夫婦だった/女にとっては詩はもう思い出でしかない」は「若いころ(過去)」と「思い出(過去)」が重なるので、「詩は過去の思い出」と「意味(論理)」が自然に動くのだが、そのあと

男にとってそれは余生そのもの

 この行の「それ」につまずいた。「それ」はよく読めば「詩」を指していることがわかるのだが、「若いころ(過去)」ということばが邪魔をして「余生」と結びつかない。「若いころ」が「余生」というのは非論理的である。
 これはもちろん私の読み方が間違っていて、谷川は、ここでは「それ(詩)」を「若いころ」とは結びつけていない。過去とは切り離して「詩」というものを単独で考えている。「いま」ここにある「詩」。「いま=詩」と考えて、その「いま」を「余生」と呼んでいる。あるいは「未来=詩」という考えも成り立つけれど、いずれにしろ「過去(若いころ)」とは関係なのない「詩」なのである。
 これは何でもないこと、「文法」にしたがって読めば自然にわかることなのかもしれないが、私はびっくりしてしまった。
 谷川は詩と過去を結びつけて考えたことがないのだ、きっと。谷川にとって「過去の詩」というものはないのだ。
 四連目で女が「詩集は捨てないの?」と訊く。これは、「過去(古い詩集)は捨てないの?」という意味でもある。一連目に出てくる本棚の詩集も、きっと「古い詩集(過去の詩集)」である。きのう出版された詩集であっても、それはすでに「過去」に属する詩集である。
 もし詩が(詩集がではない)「過去」のものならば、それは捨てても問題はないだろう。けれど、詩が「生きている」ものなら、「いま」も生きているものなら、それは捨てることはできない。「焚書」とは「火葬」である。そこまでしないと、詩は生き続ける。捨てても、生き続ける。
 この詩への信頼に、私は、たじろいでしまった。

 「余生」というのは「意味」としては、「残りの人生。老後の生涯」(広辞苑)になるが、谷川は、そういう「意味」ではつかっていない。あくまで「いま」という感じでつかっているように思える。
 「若いころ(過去)」ということばを考えると、「余生」は「いま」よりも「これからの時間(未来)」と考える方が「論理的」だし、「辞書の意味」にも合致するけれど、「詩=未来」ならば、それはこれから生まれてくるのだから「過去」は捨ててもかまわないだろう。「いま」だから、「生きているこの世」だからこそ、それが捨てられないのだ。
 もちろん、詩には過去はない。どんな詩も未来のものであるという「論理」も可能なのだけれど、「未来」と考えると「余生」の「余」の「意味」となじまない。これは私の「感覚の意見」なので、かなり「強引」な「論理」になるが、「余」は「余分/余剰」。「未来」が「余分/余剰」というのは、「他人の人生」を含めて考えるとき、何か「暴言」という感じがするのである。
 私は「余生」を「余分/余剰の生(いま)」と考えたい。ハムレットの「to be or not to be」は「生きるべきか、死ぬべきか」と訳されることがある。「be」は「いのち/いま」と結びついている。その「生」としての「動詞」の「いま」。「いま」にはいろいろいなものが動いている。制御できないもの、自分の邪魔をするものも含まれている。「余剰/余分」がからみあっている。
 その「余剰/余分」と重なるものを、谷川は「詩」と呼んでいるように、私には思える。
 自分のいのちを超えてあふれだす「余剰/余分」の「いま」。それが、詩。
 この作品に即して言えば、女と男(谷川)が会話している。その二人の「やりとり」には「意味」がある。同時に、「やりとり」の「意味」以外にも存在するものがある。ことば/声にならなかった「思い」が、ことばにならないまま、「未生のことば」として行間に生きている。その「余分なもの/余剰のもの」、それが詩であると感じる。
 谷川は「いま」を「余剰/余分」を含んだものにするために、つまり「いま」の枠を突き破り、いのちをあふれさせる(解放する)ために、詩を書いていると言える。
 これが谷川の「生き方」なのだ。
 「余剰/余分」だからこそ、「似ても焼いても食えないもの」とも呼ばれるのである。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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ローワン・ジョフィ監督「リピーテッド」(★★+★)

2015-05-24 20:51:48 | 映画
ローワン・ジョフィ監督「リピーテッド」(★★+★)

監督 ローワン・ジョフィ 出演 ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロング

 イギリス映画だなあ。イギリスならではだなあ、とうなった。
 ストーリーは記憶障害(朝起きると、前日の記憶が消えてしまう)のニコール・キッドマンが過去を取り戻す過程を描いている。レイプされたときに頭に衝撃を受け、そのために記憶障害になっている。過去を取り戻すとは、言い換えるとレイプした男を突き止めるということ。
 まあ、想像どおり、うさんくさい美男子(夫を演じている)コリン・ファースが、定石どおりに「犯人」なのだけれど。
 感心したのが(イギリス映画だなあ、と思ったのが)コンパクトカメラのつかい方。今のコンパクトカメラには動画機能もついている。それをつかってニコール・キッドマンがカメラ日記をつけ、「記憶がわり」に利用する。
 コンパクトカメラを利用するのは、ストーリー上は、カメラを隠しておくということと関係があるのだが、映画としては、この工夫がとってもおもしろい。
 ニコール・キッドマンはカメラに向かって一日のことを語りかける。つまり「ことば」を記録する。カメラをつかっているが、機能はテープレコーダーである。映像は、トイレに張ってあった写真が消えているという部分で活用されているけれど、それ以外は「ことばの記録」でしかない。この「ことば」主体というところが、映画を逆手にとって、さすがシェークスピアの国、「ことば国」を感じさせる。(アメリカ映画ではこうはならない。どうしても映像で記録しようとする。ことばの力を無視してしまう。)
 「ことば」を記録しながら、それを再生するときはカメラのアップのニコール・キッドマンが度アップになる。超度アップ。カメラの粒子が見えるくらい。それに目が奪われて「ことば」の印象が薄くなる。ニコール・キッドマンの顔しか映っていないのに、顔なんて「記憶」でもなんでもないのに、顔に刻まれた不安や感情の乱れが「事実」を超えて「記憶の真実」になる。それを「ことば」が定着させる。
 いやあ、すごい。
 「ことばの力」をそうやって観客の「肉体」にしみ込ませた上で、映画なのに「ことば」で重要な部分を展開する。
 ニコール・キッドマンには子どもがいる。「ことば」で死んだと知らされる。しかし、コリン・ファースのふとしたことば尻から、ニコール・キッドマンは子どもが生きていることを知る。(これがきっかけで、ニコール・キッドマンはコリン・ファースの言っていることが嘘だと完全に気づく。)女友達がコリン・ファースが偽の夫であることを告げる(気づかせる)のも、映像ではなく、「ことば」。「髪の色は? 右頬に傷がある?」という「質問」。
 さらに、子どものことを完全に思い出すきっかけが「くまのプーさん」(だと思う)の「ことば」のやりとり。そこにはニコール・キッドマンと幼い子どもの「映像」はなく、ただ「ことば」だけが再現され、それが記憶を取り戻す力になっている。
 まるで「舞台劇」そのままの「ことば」の力をつかった映画なのだが、これを「舞台劇」ではなく「映画」にしているのが、最初に書いたコンパクトカメラの活用。掌におさまる小さな映像をスクリーン一杯に広げて、その無意味なアップで「ことば」を隠してしまうというとんでもないトリック。
 まいったね。「脱帽」というのは、こういうときにつかうことばだね。ストーリーのトリック自体は、うさんくさい美男子を起用したときから見え透いている。それを、どうやって映画にしていくか--そのトリックに脱帽。

 この映画に対する私の不満は……。
 映画を見ながら、「ガス灯」を思い出していた。女が「記憶」に苦しむ。男に追い詰められる。こういうとき、女は美女でないといけない。ニコール・キッドマンは「美女ではない」とは言わないが、イングリット・バーグマンに比べると「強すぎる」。弱い美女が追い詰められて苦しむときの顔の魅力に欠ける。あ、もっといじめて、苦しめたい。あの苦しむ顔がたまらない、という欲望を引き起こさない。イングリット・バーグマンはすばらしかった。シャルル・ボワイエ(美男子!)に追い詰められて苦しむのを見ていると、かわいそうと感じると同時に、もっともっといじめてみたいという欲望を引き起こす。矛盾した感情のなかで、私は映画を忘れ、イングリット・バーグマンに夢中になる。そのとき私はイングリット・バーグマンを追い込むシャルル・ボワイエにもなっている。「一人二役」で映画の「なか」にいる。スクリーンを忘れてしまう。
 ニコール・キッドマンは「アザーズ」で幽霊をやったくらいだから、もともとが「怖い」顔なのだ。「我が強い(執念深い?)」顔なのだ。これでは、同情はできないし、もっといじめたいという気持ちにもなれない。復讐されると怖いから。矛盾した気持ちになってこそ、「映画」が「映画」であることを忘れ、夢中になれる。
 個人的な好みかもしれないが、個人的な好みというのは大切なのだ。この映画、イングリット・バーグマンでリメイクできないかなあ。ヒッチコックがリメイクしてくれたら最高だろうなあ。
                 (2015年05月23日、t-joy 博多・スクリーン10)




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