千人のオフィーリア(181-)
181 金子忠政
空だ、が、
奥までコトバが入らない
床上35.6㎝の椅子に座る
猫背の土竜が
両腕で音符を宙に放り投げてはつかみ取り
からだをピアノにしていく
彼のように一角を削り取って三角にしようと、
携帯からぶつぶつとぎれとぎれに朗読してみた
〈 面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。
衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、
オフィーリアの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、
朦朧と胸の底に残って、
棕梠箒で煙を払うようにさっぱりしなかった。
空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。
「ふゆづけばわかめが上に張る霜の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」
淵川へ身を投げた乙女の墓を心のうちに是非見て行こうと決心した。〉
182 山下晴代
ハムレット おフィ。俺と此ッ切(これっきり)別れるんだ。
オフィーリア えゝ。
ハムレット 思い切つて別れてくれ。
オフィーリア ハムさん。切れるの別れるのッて、そんな事は、藝者の時に云ふものよ。……私にゃ死ねと云つて下さい。おフィにはテムズ川へ飛び込め、とおつしやいましな。
空蝉の島田姿の川をゆく倫敦塔の女より悲し
183 瀬谷 蛉
岸に起つ
母娘も哀し
櫻川
ネオンに匂う
けそう抱きつ
蛉
184 市堀玉宗
朝寝より目覚めてみれば後悔の先立ちてゆくわがハムレット
185 谷内修三
川が鏡なのか
街が鏡なのか
夕暮れのなか
ことばが迷う
さようならか
またあしたか
別れるまぎわ
ことばは黙る
何もいらない
すこし離れる
きみと私の間
音のない音楽
186 山下晴代
世の名残いなはじまりと死ににゆく仇しが原のベアトリーチェよ
187 橋本正秀
鏡文字を書くベアトリーチェ
「春の夜には猫の声が実によく似合う」
「なんだこんななんだこんな」
「にゃんだこんにゃにゃんだこんにゃ」
沈みきった街を
三日月にぶら下がり
蹴上がりした男が
ナイトスコープに充血した眼を押し当てて
ベアトリーチェを探し回る。
遠くのクラウンピエロの仕草のような
無言のジェスターにジョーカー。
今や、
幻の椅子にゆったりと座り
幻のスクリーンで曽根崎心中を
幻のサラウンドスピーカーの奏でる
太夫(たゆう)と太棹の幻の義太夫に
耳を傾ける。
街では、以前の私に懸想する
血走った目の私が
ひと日をひと夜に
宵っ張りの影を
丈六の大仏さながら
引き摺って歩く
幻の足跡から跫音からは
オフィーリアの再生賛歌が
風に乗って静かに幻のごとく
広がっていく気配が……。
「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」(曽根崎心中)
188 市堀玉宗
人の世に人は疲れて鳥雲に
189 小田千代子
うずくまる虫にも届くせせらぎの春の調べのなんと懐かし
190 小田千代子
箸あらう女にあたる幻月の蒼き光は胸しぼるだけ
191 山下晴代
おもしろやことしのはるもオフィーリア
192 橋本正秀
愛の光が足りないので、
梅が香漂う窓辺で、
うずくまるように、
うたた寝をしているオフィーリア。
愛に飢えた彼女を
春が奏でる調べが包み込んでいく。
下手くそなウグイスのさえずりも、
突如わき起こる
猫の真剣な嘘泣きの鳴き声も、
木の葉が軋みあう悲鳴も、
土を梳ることがないあのせせらぎも、
平準化された平穏な調べとなって、
折からの風に乗って流れてゆく。
春の日の一刻。
オフィーリアを慈愛に満ちた幻の光で照射する、
騙り部たち。
馬手には月と二つの幻月が
うす青い光を、
弓手には日と二つの幻日が
赤黒い光を、
鈍い空に宙吊りにしている。
妖しき面白い、
春の朝の一刻。
193 市堀玉宗
私は私の孤独が恨めしい
世界と一つであった筈なのに
何かを捨てろと神様が云った
だから時々
嘘を吐くことを覚えた
正直であることに少し疲れ
月の港に錨を下ろすのもいい
人生は余りにも遠い謎に満ちた港のようだから
愛はいつも魂の雫のように私を濡らした
真実の生き方があると思う
でも、そうじゃない
生きることが真実だった
夜が明けて
あたりまえのように朝がやってくる
遠くから
わがオフィーリア
私は今日も生きていこうと思う
永遠の旅人のように
194 金子忠政
行為の後、くるおしく、
裸のままベランダに立つ
君の火照る頬
憑かれようとしても
できなかった真昼の蒼空、
降りそそいでいたのは何か?
見つめようとしたら
素知らぬ顔して天の川を見ている
取り戻せない空を取り戻そうとするような
まなざしで
淡く瞬いている川があり
影のように夜はさびしく
とてもあたたかい
ああ、眠れないよろこび!
一つ星が消えても
遠くにひとみはひらかれるから
ひとりではない
一心不乱に見ている
もう銀河のはずれにいてひとりではない
それなのに、
君の冷たい手をにぎってしまう
背中をあらわにしたまま
泣き震え、
いつ終わるとも知れない
どこまで広がるとも知れない
ことに怯え、
開封しないまま手紙を燃やすように
君を燃やした
その炎のゆらぎを見つめ
その炎を映すひとみを見つめ合い
衛星にすら囲い込まれ
二人の虚から真を編み上げるため
抱き寄せて燃やした
君と僕の両腕を紬車にする
信じられないくらい明るく
果てのない道行きのために
途上から、そのまたさらなる途上の、
固有の死に向かおうとして
絶え間なく行為した
オフィーリアが顕れる
「誓いを立てたでしょう」と、
かすかに咳が響いて
胸が痛い
死者がうつろう
岸辺にいっせいに声を立ち上がらせ
明るいまま解放できるのか?
向かい立ち、渇けば、渇く問い
それをそのまま湿度にする、
血に閉じてはならない
195 小田千代子
雪の午后うつらうつらと夢みるさきに愛しき君のかひなの温さ
196 山下晴代
愛しききみのかいなの温かさを
思い出そうと、ぼくは羅生門にて
死人の髪を抜いている。これが
高く売れるんです。アマゾンで
ミルクのように甘やかなきみの肌
思い出せない。かつては後背位で
交わったあの密林の花々にむせる日々
見つけたのに、永遠をすぐそこに
太陽とともにあるのは、誰の墓?
エドガー・ポー? ヴェルレーヌ? マラルメ?
きみの名前を忘れ、きみの匂いを忘れ、
でも、キスのしかただけは忘れない
かつては夏の一日にたとえられた
わが美しき肉体は蛆の餌
197 橋本正秀
誓いは誓い。
蟄居している春は、
墾(はる)そのものとしてそこにいる。
蹲る伊賀ものの温もりを保ち
たぎらせた血に、
むきだしの春が皮膚をぬめらせて、
風に蠢く肉じりがひりひりとした音をひきつらせている。
かつての蒼い光りは、
青い春に姿を代えて、
かつての誓いを反芻するだろうか?
もやっとした春の息吹きの前では、
信号機の青い光が点滅をしはじめる。
「いま…。いま…。」
耳許で、空間が、息をひそませる。
198 市堀玉宗
原罪を思ひ出せずにあたたかし
199 山下晴代
見渡せば幕もぶたいもなかりけり甲午弥生千のまぼろし
200 市堀玉宗
謎多き女匂へり雛祭り
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