詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

2022-08-30 19:58:14 | その他(音楽、小説etc)

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(文藝春秋、2022年09月号)

 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」は第167回芥川賞受賞作。
 読み始めてわりとすぐ近くに、次の文章が出てくる。(287ページ)

 藤さんがにやにやしながら声をかけてくる。二谷は曖昧に、と自分では思っている速度で頷き返すが、藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって、曖昧に濁した感じはつたわっていないらしく、「だよなー」とさらに強めの声を出され、二谷は今度こそまっすぐに強く頷かされた。

 あ、うまないなあ。いいなあ、と思わず声を上げる。二人の人間がいて、自分の意図がつたわらない。そして、押し切られる。その変化がおもしろい。特に「藤さんからするとそれは首を縦に振っている同意の仕草であって」という言い直し(?)というか、客観化が鋭い。
 これは楽しみだなあ。
 ところが、289ページの、藤が芦川の飲みかけのペットボトルからお茶を飲み、それを芦川につげる。芦川は、そのペットボトルに口をつけ、感想を言い合うという部分の「しつこさ」で私は、なんともいえない恐怖に襲われた。
 この作者は「しつこい」だけなんだ。
 そして、その「しつこさ」は、あることがらを一点から書くというのではなく、最初に引用した部分に特徴があらわれているが、第二の視点をからめて書くことにある。一人称で書かず、常に別の視点での表現をからめてくる。
 これは、おもしろいと言えばおもしろいといえばおもしろいのかもしれないが、私はぎょっとする。二つの視点が、なんというか「共犯」というよりも、「いじめ」のように相手の反応をみながら変わっていく。まあ、新しさがそこにあると言えるのかもしれないけれど、「いじめ」を主導するのでもなく、けれども加担する感覚といえばいいのか。ついていけない。
 自分がどう見られているかだけを気にして動いている。
 だから「おいしいごはん」が一回も出てこない。「料理」は、食べている人に対して「おいしいでしょう」と確認を求めてこない。確認を求めるのは人間である。「私のことをどう思っている?」ということを確かめるために「食べる」というのは、私の感覚から言えば気が狂っている。
 どの「食べる」シーンも、ただただ「わっ、まずそう」という感じしかない。なぜか。あらゆる食べ物が「人事(いじめ)」の調味料で、こってりしている。食べずに、いじめるなら、いじめることに徹底しろよ。これでは「食べる」のはだれかを「いじめる」ため、ということになってしまう。
 なにが「おいしいごはんが食べられますように」だ。

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小さな記事の大きな罠(読売新聞の情報操作の仕方)

2022-08-30 10:37:25 | 考える日記

 中国周辺海域で起きていることに関する小さな記事(2面、1段見出し)が2022年08月29日、30日の読売新聞(西部版)につづけて載っている。
 前半が08月30日の記事、後半(*以降)が31日の記事。
↓↓↓
【ワシントン=蒔田一彦】米海軍第7艦隊は、ミサイル巡洋艦2隻が台湾海峡を現地時間28日に通過したと発表した。ナンシー・ペロシ米下院議長が今月2、3日に台湾を訪問して以降、米艦艇の台湾海峡通過は初めてだ。報道担当者は声明で、「米軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」と強調した。
 ミサイル巡洋艦のアンティータム、チャンセラーズビルの2隻が通過した。報道担当者は「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」とし、「自由で開かれたインド太平洋への米国の関与を示すものだ」と説明した。

 防衛省は29日、中国海軍の情報収集艦1隻が28日に沖縄県の沖縄本島と宮古島の間を南下し、太平洋に入ったと発表した。領海侵犯はなかった。
↑↑↑
 何が問題か。
①米海軍第7艦隊は、ミサイル巡洋艦2隻が台湾海峡を現地時間28日に通過した
②中国海軍の情報収集艦1隻が28日に沖縄県の沖縄本島と宮古島の間を南下し、太平洋に入った
 ①と②は、同じ日に起きている。しかし、①のニュースはアメリカ発にもかかわらず29日の新聞、②は防衛省が発表しているのに一日遅れ。防衛省の発表が遅かった、というかもしれないが。
 でも、日本の領海近くを通ることが問題なら(危険なら)、その情報はいち早く発表、報道すべきだろう。なぜ、一日遅れ? ②に、国際法上の問題点がない(なんら違法性がない)から、そんなことをいちいち報道しなくてもいい、と判断しているからだろう。
 で、ここから次の問題が起きてくる。
 「米軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」というのが、アメリカの主張なら、中国だって「中国軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」と言うだろう。「主語」を変えれば、アメリカの主張と中国の主張はまったく同じ。
 なぜ、アメリカの主張にだけ「自由で開かれたインド太平洋への米国の関与を示すものだ」という「理由」がつけくわえられるのか。中国だって「自由で開かれたインド太平洋への中国の関与を示すものだ」と言えるだろう。同じ論理が展開できるはずである。

 なぜ、読売新聞はアメリカの主張だけを記事にするのか。中国の主張を記事にすれば、主張の違いがアメリカと中国の間にはないということがわかるからである。「法的根拠、主張」が同じであるということを読者に知られたくないのである。つまり、アメリカは正しいが、中国は悪い、ということを「印象づけたい」のである。
 こういうことは、30日の紙面にあるもうひとつの記事と比較すればわかる。
↓↓↓
 海上保安庁は29日、長崎県沖の日本の排他的経済水域(EEZ)内で海洋調査をしていた同庁の測量船が、韓国海洋警察庁から調査中止を要求されたと発表した。日本政府は、不当な要求だとして外交ルートを通じて韓国政府に抗議した。(略)(日本の測量船・平洋は)韓国海洋警察庁から「韓国の海域での調査は違法。直ちに退去せよ」と求められた。平洋は「日本のEEZにおける正当な調査」と回答。
↑↑↑
 韓国と日本の「主張」が併記されている。「日本の排他的経済水域」なのか「韓国の海域」なのか、私にはわからないが、まあ、接近しているのだろう。どちらが正しいか、私には判断できない。たぶん、読売新聞にも判断できない。だから両者の主張を「併記」している。
 ところが、「あいまいな海域」ではなく「国際海峡(で、よかったかな?)」を通行することに対して、一方は「主張」を正当化するように報道し、他方は危険な行動をしているように報道する。これは、どうしたって「不公平」というものだろう。
 アメリカ軍が「狭い」台湾海峡を通るのなら、中国が「広い」太平洋を航行したって問題はないだろう。なにもアメリカの西海岸にまで中国の艦艇が行ったというのではないのだ。
 中国は、アメリカ西岸近くまで艦艇を航行させたって「国際法」には違反しない。燃料のむだと、アメリカからの反発があるだけだろう。アメリカ西岸へ艦艇を集結させるかもしれない。
 そうであるなら、中国は、やはりアメリカ軍が中国大陸の近くまで航行してきていることを不快に思うだろう。それに反発するのは当然だろう。
 中国が嫌いは嫌いとして、それは読売新聞の「感情」。国際法上問題がないのなら、はっきりそう報道しないといけない。「領海侵犯はなかった」なら、それはニュースではないのだ。「宣伝」のための情報なのだ。一方にだけ「正当化」の理由を語らせ、他方には何も言わせないというのは、一方だけが「正当」であると宣伝するのと同じだ。
 小さな記事の積み重ねが、大きな「情報操作」になる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇183)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-29 08:59:58 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

Me ha recordado el primer verso del poema "Rain in Amerii" de Naka Taro.
"Chabai bikobo busubi kibibi", tocado por el piano de la lluvia.
La onomatopeya me recuerda a Tchaikovsky.
No sé si los españoles sentirían lo mismo al escuchar el sonido "Chabai bikobo busubi kibibi".
Sin embargo, me recuerda al poema de Taro Naka.
Esta pieza tiene ese tipo de alegría de la música alegre.
Los sonidos de la lluvia de Joaquín se extienden bajo tierra.
La forma en que se extiende es muy agradable.

那珂太郎の「アメリイの雨」の第一行。
雨のピアノが奏でるチャバイビコボブスブキビイビ。
オノマトペは、チャイコフスキーを感じさせる。
スペイン人が「チャバイビコボブスブキビイビ」という音を聞いて、同じように感じるかどうかわからない。
しかし、那珂太郎の詩を思い出してしまう。
そういう楽しい音楽の喜びがある。
Joaquinの雨音は地下にまで広がっていく。
その広がり方がとても楽しい。

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Estoy loco por espana(番外篇182)Obra, J Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-08-29 08:23:52 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

Al ver una obra modelada por Luis Caparrós Albarracín, me resulta extraño .
La obra de José se caracteriza por su realismo a tamaño natural.
Estos Luis también deben ser de tamaño natural.
Sin embargo, hay una diferencia entre tamaño natural y real.
En pocas palabras, Luis no tendría demencia.
Pero cuando miro la escultura, pienso: "Este hombre tiene demencia".
Esta obra de José es realista en lo "físico" pero no refleja el realismo en lo "mental".
Sin embargo, creo más bien que "realismo del espíritu = demencia".
¿Qué estoy viendo en este momento?
El trabajo de José plantea esta cuestión.
¿Qué es lo que ve nuestro ojo?
¿Por qué sentimos espíritu o emoción cuando miramos a un ser?
Esta pregunta es aún más espeluznante que la propia obra.
Esto se debe a que se refiere a la cuestión de las raíces de la existencia y el pensamiento humanos.
No tengo una respuesta a esto. Tendré que pensarlo.

Luis Caparrós Albarracínをモデルにした作品を見ると不思議な気持ちになる。
Joseの作品の特徴は「実物大」のリアリズムである。
Luisも「実物大」であるはずだ。
だが、実物大と「本物」は違う。
簡単に言い直すと、本物のLuisは認知症ではないだろう。
だが、彫刻を見ると、「この男は認知症だ」と思ってしまう。
Joseのこの作品は、「肉体」はリアリズムだが、「精神」のリアリズムを反映しているとはいえない。
しかし、「精神のリアリズム=認知症」の方を強く感じてしまう。
このとき、私は、何を見ているのだろうか。
Joseの作品は、この問題を投げかけてくる。
私たちの肉眼が見ているものは、何なのか。
なぜ、ある存在を見るとき、そこに精神、あるいは感情を感じるのか。
この疑問は、作品そのものの不気味さよりも、さらに不気味だ。
人間存在、思考の根源の問題にかかわってくるからだ。
私は、これに対する答えを持っていない。これから考えなければならない。

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Estoy loco por espana(番外篇181)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-28 17:08:10 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro 43x32x21 S. M. N  C. P


Dos personas bailando sobre el hielo.
Un hombre hace bailar a una mujer en el aire.
Movimiento libre y dinámico.
¿Cómo es posible?
Porque sus trayectorias de patinaje coinciden.
El semicírculo de abajo lo simboliza.
Cuando las trayectorias de los patinadores coinciden, sus corazones también lo hacen. El cuerpo físico también coincide.
Cuando esto ocurre, el movimiento es tan natural como la apertura de una flor.
De repente, se oye música.
¿Oyes a Mozart? ¿O a Tchaikovsky?

氷の上でダンスする二人。
男が女を空中に舞わせている。
自由でダイナミックな動き。
どうして、それが可能なのか。
二人のスケートの軌跡が一致しているからだ。
下の半円は、そのことを象徴している。
スケートの軌跡が一致するとき、こころも一致する。肉体も一致する。
そのとき、その動きはまるで花が開くときのように自然だ。
突然、音楽が聞こえてくる。
君には、モーツァルトが聞こえますか? それともチャイコフスキーが聞こえますか?

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松本秀文『詩後(2014-2022)』

2022-08-28 10:29:42 | 詩集

松本秀文『詩後(2014-2022)』(思潮社、2022年07月31日)

 松本秀文『詩後(2014-2022)』を読みながら、どの詩を引用しようか、考えた。どれを引用しても同じことを書きそうだ。だから、いったん閉じて、テキトウに開く。
 「ゲンエイの人 あるいはセカイ」。あ、いやなものを引いてしまった、というババヌキの感じがするが、まあ、これがきょうの私の仕事(?)だ。

とめどなく描線がブレつづける街で
青空の向こうに
なぜ(ひかりの分布図
星のようなものがあるのかを
死んでいるうさぎと考える(うそ
詩の(半減期
孤独(?)はいつもセカイとつながっていて

 タイトルの「ゲンエイ」は「渡辺玄英」の「玄英」である。ほんとうに「ゲンエイ」と読むのかどうかわからないが、わからないからこそそれですませるのだろう。私もよく知らないので「ゲンエイ」と読んでいる。別に間違えたってかまわない。私はテキトウな人間である。
 で、間違えてもかまわないといいながら、私は「ゲンエイ」にこだわる。なぜか。そう読む方が、私にとってはわかりやすい。私のことばのリズムにあう。そして、そのリズム、音は「幻影」と結びつきながら、それを否定する。このときのチグハグさ、あるいはデタラメさ、あるいはテキトウさ加減が、渡辺玄英の詩に似ているなあ、と感じるからである。渡辺玄英は「チグハグ、デタラメ、テキトウ」を書いているわけではないと言うかもしれないが。
 で。
 この「ゲンエイの人 あるいはセカイ」は、そういう「ゲンエイ」の音を引き継いでいるところが、まあ、楽しい。
 松本の「音」は、すべてをテキトウにしてしまう。「音」さえ、リズムに乗って響いていけば、それが詩。「意味」は、読者がかってに考える。だれの作品を読んだとしても、そこから理解できるのは自分の知っている「意味」だけである。自分の知らない「意味」を他人のことばに接続することはできない。「断絶(不可解)」を含めて、それは「意味接続」のひとつであり、そこからことばが逃げ出すことは、できない、と私は思う。たとえ、そこから逃げ出すことを試みていることばであったとしても。
 ということは、「金閣詩」を読んで、思った。

今村昌平監督作品『楢山節考』で左とん平は犬とセックスをする
そして戦争
人間も死んで
犬も死んだ
「戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌しい体験であ
り、人生の意味から遮断された隔離病室のようなものであった」
あなたの胸の中に金閣がある

 「あなた」って、だれ? 左とん平? 今村昌平? それとも三島由紀夫? まさか、私がこの詩を読むことを想定して松本がこの詩を書いたとは思わないが、その「まさか」が「まさかのまさか」で、私のことだったとしてもかまわない。
 「あなた」と言われれば、「私」かもしれない、と私は思ってしまう。
 それから「金閣詩」からは「金閣寺」(三島由紀夫)よりも先に「金隠し」を連想するのだが、それがそのまま一行目の「セックス」につながっていく。それも「犬とセックス」というような、まあ、最低なのか、最高なのか、わけのわからないセックスである。どんなことであれ、それをしているひとにとってはそれしかないのだから、最高と感じて悪いわけがない。
 それにしても、

今村昌平監督作品『楢山節考』

 か。
 「意味」はわかる。何を指しているかは、わかる、という意味であるが。そして、同時に、なんとまあ、律儀なと私は感じる。
 律儀はテキトウとは反対の概念だと私は思うが、松本はテキトウを律儀につづけるひとであり、その音/リズムを支えるは、実はテキトウではなくて、律儀なのだ。これは、先に引用(?)した渡辺玄英にも通じる。
 詩を書く(ことばを書く)ときは、どんなテキトウな詩であっても(テキトウに見える詩であっても)、どこかで律儀でなくてはならない。
 「腐眠」は、こんな感じ。

眠り続けているだけなの
それは儀式なのだろうか
破れた体の底で呼吸して
ただ
生きている私を表現して
橋の上で疲れて死んだら
落下する夢の捕虜となる
使者

 十一文字三行のあと二字というスタイルで詩がつづいていく。タイトルを考えると二字のあと十一字三行、二字一行、十一字三行なのだろうが。つまり、ここでは音を「視覚」でも制御し、リズム化している。丁寧に、最後まで。律儀だね。
 この詩集全体では、いろいろな「文学作品」が引用されている。アレンジされている。テキトウにつかわれている。でも、きっと、それはテキトウではないな。きちんと原典に当たっているだろう。変更があるにしても、それは「記憶違い」というのではなく、意図的変更だろう。そういうことを律儀というのだが。
 で、その律儀さは松本にとって長所なのか、短所なのか。
 私は、もっと「破れた」方がいいと思う。「律儀」と感じるのは、それがもう「定型」になっている、ということでもあるのだから。まあ、どんなものでも「定型」になってしまうものだけれど。それでも「破れ」の解放感がほしいと思ってしまう。読者というのは(あるいは、私だけ?)わがままだからね。

 

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Estoy loco por espana(番外篇180)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-27 19:17:38 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Llorens Técnica .Hierro 76x24x17 N.C

 

Combinación de columnas cuadradas y cilindros finos (yo creo).
Pensé en una mamá bicicleta con dos niños encima, pero Joaquín no conocería a esas madres en Japón.
La dureza del grueso pilar cuadrado que sostiene el conjunto me lo recuerda.

Es muy divertido imaginar las cosas al margen de las intenciones del autor.

 

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国家公務員は憲法を読まないのか

2022-08-27 08:45:30 | 考える日記

ツイッターで、驚くべき発言を読んだ。

https://twitter.com/emil418/status/1562022901272150016?s=20&t=bfRp4xAljrgyFmmbSo3wZQ&fbclid=IwAR37g-1cje5KFDHlKQ5n6gfBYuA4SgghpgIG92Cwi7ODy0PCl1kwVbDXkDI 

 内閣法制局の職員が、「全国民が反対しても、閣議決定すれば国葬ができるのか」と問われて「できる」と答えている。
 このひとは、憲法を読んだことがあるのか。
 国家公務員になるとき、憲法を読まなくてもいいのか。国家公務員は、憲法に違反していいのか。

 日本は議会制民主主義の国である。
 行政(内閣)は、議会の信任(国民の信任)がなければ、その権力を行使することができない。
 法的な根拠がない限り、何もできない。
 「戦争法」を初めとするさまざまな法律でさえ、ちゃんと国会で議論し、それを成立させている。私は、安倍が強引に成立させた法律に賛成ではないが、それでも、それらは国会審議を経ている。
 ところが安倍の国葬は国会審議を経ていない。

 閣議決定をするかしないか、というよりも、閣議決定と国会審議(国会決議)の、どちらを優先するかが問題である。
 国にとってのいちばん大事な「予算」は、どうやって成立するか。
 最終的に、国会で可決されているではないか。

 ツイッターで紹介されている「議論」は、その後、どう展開したのかわからないが、質問しただれか(議員の名前を私は知らない)は、その後、どうしたのか。
 内閣法制局職員の言っていることが、国会軽視にあたり、憲法違反であると指摘したのか。法制局が憲法違反を推進していいのか。

 答えた職員は、権力(安倍-岸田、まだ安倍は生きているみたいだ)に嫌われて、昇進できなくなることが、そんなに怖いのか。ただ出世して、金をもうけるために国家公務員になったのか。何年も生きてきて、それだけしか学んでいないのか。
 個人的攻撃は意味を持たないかもしれないが、あまりにもひどい職員である。
 きっと学校の成績は優秀だったのだろう。国家公務員の試験の成績も優秀だったのだろう。「試験」は出題者の意向にあわせた解答をしないかぎり「正解」にはならない。ただひたすら、自分より上の存在(権力)の意向を的確につかみとり、それに自分の考えをあわせることに専念してきた人間なのだろう。
 そういうひとは、権力者がいなくなったら、どう生きるつもり?
 だれも、指示する人がいなくなったら、どうするつもり?
 安倍は死んだ、岸田もたぶん、この回答者よりも先に死ぬだろう。そのとき、だれの指示を待つのか。退職したあとは、だれの指示に従っていきるつもりなのか。

 

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青柳俊哉「雨と窓」、木谷明「せみせみんばい」、徳永孝「シャンプー」、杉恵美子「十薬」、永田アオ「世界」、池田清子「世間話」

2022-08-26 23:13:19 | 現代詩講座

青柳俊哉「雨と窓」、木谷明「せみせみんばい」、徳永孝「シャンプー」、杉恵美子「十薬」、永田アオ「世界」、池田清子「世間話」(朝日カルチャーセンター、2022年08月01日)

 受講生の作品。

雨と窓  青柳俊哉

思いが言葉にならないとき
すべてのわたしが霧の中を渡ってくる
雨が言葉を集め 雨の中に雪の窓をつくる

ひとつの雨粒が 窓を離れ  
他の雨粒たちの それぞれの降下をみつめる 
少しの共感と少しの慈しみ この世界の呼吸を引き受けて
すべての雨粒の中のわたしを 窓の高さをみつめる
戦場へ青年をしいるように
窓が雨粒を運ぶ

窓がさらに高く上っていく
雨が消え 蛍火が点る 
その光の中を 永劫の雪がつきぬけていく

 前回の講座で読んだ受講生の詩のことばが利用されている。そっくりそのままではなく、変更も加えられている。
 詩は、自分の気持ちを書くもの、という意識が強いかもしれないが、ことばを書くことで気持ちをつくっていくという方法もある。気持ちは、世界ということでもある。だから、ことばで世界をつくる、それが詩。
 書きながら、ことばから、どれだけ自由になれるか、ということが、こういう作品では重要になる。
 「私は、こんな意味で、このことばをつかったのではない」という批判(反論? 抗議?)がくるようになるとおもしろい。そういう批判が来た時の方が、ことばの自由度が高いといえるからだ。

せみせみんばい  木谷明

せみせみせみせみせみせみせみせみせみ

せみせみせみせみせみせみせみせみせみ

せみせみせみせみせみせみくまあぶら

みんみんみんみんみんみんみんみんぜみぜみ

ちいさい

おととしあったねちいさかったね

だざいふで

きょねんはわすれたことしはあった

いえにきたんだおんなのこはなかなくてなくのは

おとこのことんで

いってよかったばいばい

ばいばい

 書き出しの「せみ」の連続が、あたらしい蝉の鳴き声のように響く。「くまあぶら」と蝉を省略したあと「みんみんぜみぜみ」と「ぜみ」を重複させる。聞こえない音、聞こえすぎる音が交錯するところが非常におもしろい。「意味」ではなく「音」そのものが詩になっている。
 後半の「行わたり」の展開が、音楽で言う「転調」の効果を上げている。その転調のリズムをいかしたまま「よかったばい」「ばい」と「ばい」が「せみ」のように重なりながら広がっていく。
 博多弁を生かした展開であり、最後の繰り返しの中に、書き出しの「せみ」の音の重複がよみがある。ことしは蝉に出会えてよかった、という喜びがあふれている。

シャンプー  徳永孝

近ごろ居酒屋に行くと聞かれる
おフロ入った?
今までで一番長いんじゃない

頭洗わないと臭うよ
みんなにきらわれてないか心配
おフロ入らなくていいから
シャワーあびて頭洗いなさい
体は流すだけでいいから

うーん 頭洗おうかな?
じゃあ よう子さんと約束ね

翌日 頭を洗った

次に行った時 そう話すと
ほめてくれた
えらいねえ よくやった
ミッションクリアーだね

ちょっと得意な気分
また頭洗おうかな

 居酒屋での人間関係を感じさせる詩。「人と話している感じがつたわってくる」「軽快」という声が受講生から聞かれた。
 一連目の「今までで一番長いんじゃない」の「長い」は何が長いのか。受講生は、どう受け止めたか。聞いてみた。ひとりが「髪が長い」と読んだが、他は「洗っていない期間が長い」と言う。
 「頭を洗う」という表現と関係するが、私は女性は「頭を洗う」よりも「髪を洗う」と表現することが多いのではないかと思っていた。その影響で「髪が長い」と答える人が多いかと思ったが、そうではなかった。私は少し驚いた。
 私の感覚では「髪が長い」以外は、ちょっと思いつかなかった。
 頭を何日も洗っていないということを他人が知っている、そういうことを含めて親密な人間関係というのかもしれないが、そうか……、と思った。

十薬  杉恵美子

どくだみの花が咲きそろった日
娘は二人目の娘を産んだ
産まれたばかりの赤ん坊の顔が
スマホに送られてきた
丸い丸い赤ん坊の顔は
哲学的な眼を開き
抱かれた人の顔をじっと見ていた
この眼の中に
どれだけ素敵な時を
プレゼントできるだろう
白い十字の花の写真を
私は娘に送った

 「プレゼントできるだろう」という行に対して、「少し硬い。プレゼントできるだろうか、かと思った」のようにすれば、やわらかくできるのでは、という声があった。
 そうかもしれないが「哲学的な眼」「素敵な時間」というような凝縮した音の響き、さらにどくだみの花の強さを考えると、いまのままの行の方が強さが響きあう。これは書き出しの「どくだみの花が咲きそろった日」という行の最後に、助詞の「に」が省略されているのと同じ。なくても意味は同じ。ただし、あるとないとでは、音の響きが違う。
 木谷のような詩の場合、音の響き、その効果には気がつきやすいが、杉の詩の場合にも、音が重要な働きをしている。どの行も、すっきりとした響きで構成されている。

世界  永田アオ

キッチンの横の棚の上で
真っ白なコーンスネークが
鳥かごの中
まぶたのないルビー色の目を覚ます
夕方
私は手の中にまとめたパセリを森にして
神のように
水に沈めていた
小さな蛇のために
灯りはまだつけない
パセリと一緒に沈めた私の思いは
パセリからプクプクと泡になって浮かんできて
音もなく消えていく
コーンスネークと私とパセリの世界は
なにかの終焉のように静かだった

 私はこの詩を完全に誤読していた。「コーンスネーク」を蛇とは思わなかった。「スネーク」よりも「コーン」の方にひきずられて、野菜の一種だろうかと思って読んだ。
 ところが、本物の蛇。
 驚いたことに(?)受講生全員が「蛇」と読んでいた。そして、「コーンスネークと私とパセリの世界」に対して「三つのとりあわせがすてき、静かな感じがする」という感想が聞かれた。「終焉に向かって動いていく、ことばが動いていくのがいい」という声も。
 私は「私は手の中にまとめたパセリを森にして/神のように/水に沈めていた」という三行から「神話」を連想し、「コーン」の一種が、水にしずめられ、そこから蛇に変身していくのだと読んだのだった。蛇の誕生と言ってもいい。蛇に変身する、蛇が誕生することで、それまでの「世界」が終わり、新しい世界がはじまる、と。

世間話  池田清子

よく笑うようになったね
と言われた
いつ死んでもいいと言っていたらしい
覚えていない

いつ死んでもいいけれど
明日はちょっとね
の積み重ね

家族の話、身体、病気の話、お墓の話
昔流行っていたテレビ(ハリマオ・ハリマオ)、
遠山の金さん、ソフトバンク、オシム、
そんな ただの 世間話

いつのまにか
穏やかになり 平静になれた

今、カラカラと笑っている

 「世間話ができる相手がいることの幸せ、楽しさ」「感謝の気持ちを感じる」という受講生の声。「ハリマオ」を知らない人もいて、少し「世間話」のような合評になった。「平静になれた」「笑っている」と最後が解放的になるのがいい、という声も。
 一連目の「覚えていない」がとても効果的だと思う。
 このことばが、それ以後のことばの動きを決定づけ、最後に、それこそ解放される。世間話というのは、「覚えていなくていい」。でも、笑いながら思い出してしまうもの。


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三木清「人生論ノート」の読み方。(習慣について、から)

2022-08-25 20:58:33 | 考える日記
修養(する)ということば、定義できます?
三木清の「人生論ノート」の「習慣について」のなかに修養ということばが出てくる。(全集、228ページ)
もちろん18歳のイタリア人は、その意味を知らない。
どうするか。
修養、ということばが出てきた文章を丁寧に読んでいく。
そのことばは一緒につかわれたことばは何か。
一緒につかわれていることばは、また別のことばといっしょにつかわれている。
これを、因数分解をするみたいに、組み合わせたり、ときほぐしたり。
そうこうするうちに、ちゃんと「道徳」と結びつけることができる。
大感激してしまった。
授業のあと、別の先生に、18歳の青年が、どうやって「修養」を理解したか、話さずにはいられなかった。
正直な話、辞書をつかわず、書かれていることばだけを手がかりに、意味を把握するというのは、日本人にもむずかしい。
でも、それをやってしまう。
*
きょうやったのは、まず前回の復習。
「習慣について」の最初の段落を読み返す。
形、が何回も出てくる。
あらゆる生命あるものは形をもっている
生命とは形である
習慣はそれによって行為に形ができてくる
習慣は単に空間的な形ではない
空間的な形は死んだもの
習慣はこれに反して生きた形
弁証法的な形である
生命的な形ができてくる
形をつくるという生命に内的な本質的な作用に属している
ここから、
生命=形(生きた形)
行為=形(弁証法的形)
ならば、
生命=行為(習慣)=弁証法=「形をつくる」
言い直せば、
習慣(人間の行為)は、人間(命)の形をつくること
それは空間的であるだけではなく、時間的なこと。生きること。
これを、まずしっかり理解する。記憶する。
 
つぎに、三木清が「形をつくる」というような表現を、どういうときにつかっているかを探す。
第一段落には書いていないが、「生きる=形をつくる」は、結局「道徳」をつくる(徳を身につけること)というのがわかる。
 
「修養」が登場する部分には「つくる」に関係することばとして、「技術」が出てくる。
修養というものはかような技術である
「技術」をつかった文章に
意識的に技術的にするところに道徳がある
すべての道徳には技術的なものがある
ここで道徳と技術(つくる)が結びつく。
意識的に技術を身につけるように、道徳を意識の技術として身につける。
この技術をみにつける過程が「修養」。
このための「訓練(練習)」のようなものが「修養」。
 
これが「修養」の定義(三木清の定義)。

こういう論理を18歳のイタリア人が展開する。
びっくりするでしょ?
私は、そのときどき、少しずつヒントを出すが、考えるのはあくまて18歳の青年。
 
 
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何のための世論調査?(読売新聞の記事の書き方/読み方)

2022-08-25 17:12:38 | 考える日記

 2022年08月25日の読売新聞(西部版・14版)一面に、「読売・早大協同世論調査」の記事。「「岸田首相は改憲派」50%/原発再稼働 賛成58%」という見出し。統一教会問題で世の中が騒いでいるときに、この世論調査は何? なぜ、内閣支持率がない? 「詳報」を読むと、支持するは61%ある。それを見出しに取らないのは、なぜ?
 からくりがある。
↓↓↓
 読売新聞社と早稲田大学先端社会科学研究所は全国の有権者3000人を対象に世論調査(郵送方式。回答率69%)を共同実施し、岸田首相のイメージを多面的に探った。有権者の50%が首相を「改憲派」とみており、「護憲派」との回答は39%だった。(略)規制基準を満たした原子力発電所の運転再開については、「賛成」58%が「反対」39%を上回り、同じ質問を始めた2017年以降、計5回の調査で初めて賛否が逆転した。
↑↑↑
 いつ調査したのか、書いていない。「詳報」が14・15面に掲載されているが、その前文は
↓↓↓
 読売新聞社と早大先端社会科学研究所が共同実施した全国世論調査(郵送方式)では、岸田内閣への支持は、実績よりも、「ハト派」と「タカ派」の顔をうまく使い分ける岸田首相のイメージが先行したものであることが読み取れた。ロシアのウクライナ侵略などによる安全保障環境の変化も内閣支持率にプラスに働いていた。
↑↑↑
 ここにも、書いてない。「新聞」は、「いつ」が重要だ。隅から隅まで読んで、「調査方法」というのを見つけた。
↓↓↓
 全国の有権者から無作為に3000人(250地点、層化2段無作為地抽出法)を選び、郵送法で実施した。7月11日に調査票を対象者に郵送し、8月17日までに返送されたのは2138。
↑↑↑
 つまり、これは岸田内閣の改造(8月10日)前に郵送された質問への「回答/分析」なのである。何のために? たぶん、岸田が9月に行うといわれていた内閣改造をにらんで、岸田をアピールするための世論調査だったのだ。しかし、調査票を送ったあと、そしてその回答締め切り前に内閣改造があり、統一教会問題が拡大し、何がテーマなのか、わけのわからない世論調査になってしまったのだ。
 内閣改造後の世論調査はどうだったか。8月11日の記事には、こうある。(ウェブサイトhttps://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20220811-OYT1T50203/ )
↓↓↓
内閣支持下落51%、旧統一教会対応「不十分」55%…読売緊急世論調査(見出し)
 読売新聞社は第2次岸田改造内閣が発足した10日から11日にかけて緊急全国世論調査を実施した。岸田内閣の支持率は、改造直前の前回調査(今月5~7日実施)から6ポイント下落の51%となり過去最低となった。不支持率は34%(前回32%)と過去最高だった。
 岸田首相が新閣僚らに対し、「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)との関係を自ら点検し、見直すよう求めたことについて、十分な対応だと「思わない」は55%と半数を超えた。
↑↑↑
 今回、支持率を「61%」と書いてしまうと、調査結果としては「正しい」が、いまの実態とあわないかもしれないから、書かなかったのだ。
 ということは。
 私は、今回の世論調査について、先に「何がテーマなのか、わけのわからない世論調査」と書いたが、時系列を整理し直すと、「わけがわかる」調査の結果報告である。
 つまり
①8月10日に岸田内閣改造が行われた。その直後の世論調査では内閣支持率が6%下がった。
②統一教会問題も、どんどん拡大している。いま再び世論調査をすれば、内閣支持率はもっと下がるかもしれない。(これは、私の予測である。)先日の毎日新聞の世論調査では支持率が36%と急落した(8月20、21日調査)。
③改造前に調査票を送った世論調査を利用できないか。なんとか岸田をアピールすることはできないか。
 その「狙い」のもとに「岸田のイメージづくり」(イメージ再確認)が行われているのだ。
 前文に、「岸田内閣への支持は、実績よりも、「ハト派」と「タカ派」の顔をうまく使い分ける岸田首相のイメージが先行したものであることが読み取れた。」と書いてあった。この文章を、まっとうに読めば、イメージが先行しているだけで、実績はひどいものである、ということになるが、読売新聞は、けっして、そうは書かない。14面の見出しは、こう書いてある。

内閣支持 イメージ先行/岸田像「クリーン」「敵少ない」

 これを読めば、ふつうは、岸田はクリーンだ、敵が少ない、そのことが内閣支持を支えている、と読める。
 ここで「クリーン」とういうことばが選ばれたのは、まあ、実際にイメージとして「クリーン」を選んだのが38%だったからなのだが、それがほんとうに岸田の「イメージ」なのか、記事を読むと、ぜんぜんわからない。安倍や菅を「クリーン」と感じる人より、岸田が「クリーン」と感じる人が多いというだけである。
 いま、統一教会との関係が週刊誌をにぎわしている。なんとしても、岸田は「クリーン」をアピールしたいのだ。
 一面に、「クリーン」ということばをとるのは、さすがにまずいと思ったのだろうが、なんとしても「クリーン」を打ち出したくて、わざわざ特別面で見出しにとっているのだ。
 いま調査すれば、まったく違う数字になることはわかっている(つまり、調査内容は向こうということ、はわかっている)。
↓↓↓
 岸田内閣の支持率は、8月の内閣改造後に実施した電話方式の調査で51%となり、7月の参院選の直後の65%から大幅に下落した。今回の調査は、急落する前の回答が大半を占めるため、支持率は61%だった。岸田首相を「クリーン」と考える人に限ると内閣支持率は77%に上り、首相の「清潔なイメージ」は支持を下支えする要素の一つといえる。
↑↑↑↑↑↑
 記事には、今回の61%なの、「急落する前の回答が大半を占める」ためと書いてある。そうであるなら、「クリーン」というイメージも、支持率が急落する前のイメージにすぎない。けれど、その急落する前のイメージであることを無視して、「クリーン」を最前面に打ち出している。
 なんとも、ずるいというか、ここまでして岸田にすりよらなければならない理由が、私にはわからない。
 「支持率は61%」という調査内容が「無効」なら、その後の回答も無効である。状況の変化を知らない段階で、答えた世論調査にすぎない。こんな調査結果の公表の仕方では、調査に回答した人の意識も反映したことにならないし、こんな公表の仕方で読者から金を取るのはサギだろう。「間違い」(事実と違うこと)は、どこにも書いていない。しかし、そこに書かれていることが、「いま」を反映しているかというと、そうではない。そこにいちばん大きな問題がある。それを知っているからこそ、読売新聞は「いつ」を誰にもかわらないところに隠すように書いている。

 

 

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咲原実玲『さくら準備中』

2022-08-24 17:15:45 | 詩集

咲原実玲『さくら準備中』(kotori、2022年06月30日発行)

 咲原実玲『さくら準備中』の巻頭の「春の午後」はとても丁寧な詩である。全行を引用する。

一枚の古い写真がある
幼稚園の制服を着たわたしが
ついさっきまで
風船を抱えていた手を胸のあたりにおいて
空を見上げている
うっすら笑っているけれど
少しさみしそう

この写真を見ると
今でもその時の気持ちを思い出せる
両手で抱えていた風船をそっと離した
それは すばらしいことに思えた
風船はどこかに行く
わたしより先に行く
「どこか」が憧れになった瞬間

憧れは いつだってわたしと空との間にある
見失うかもしれない
現実に叶ったら 憧れではなくなる
どのみち それは失われるのだ
なぜ憧れを抱く というのだろう
私から離れた存在だから気がつくのに

 一連目の「風船を抱えていた手を胸のあたりにおいて」の一行、特に「手を胸のあたりにおいて」がいい。それは直前の「抱えていた」を静かに思い出させる。これが二連目で「両手で抱えていた風船をそっと離した」と言い直されている。
 二連目は、全体として、一連目をもう一度言い直してる。「起承転結」という言い方を借りるならば、一連目が「起」、二連目が「承」。
 三連構成なので「起承転結」をあてはめるのは強引な感じがするかもしれないが、「転」は一連目と二連目の最後の二行(あるいは、三行)に組み込まれる形で準備されている。
 「憧れ」ということばが、「起承転結」の「転」である。
 そして、「結」の三連目で、この「憧れ」が説明される。すこし理屈っぽいかもしれない。つまり、詩としての飛躍が少ないかもしれない。だが、これでいいと思う。詩へ向かって動き出している感じに無理がない。
 何よりもいいのは、この三連目で、一連、二連目では「抱えていた」(抱える)という動詞が「抱く」という動詞になって、強く響くところである。人によって印象が違うかもしれないが、私は「抱える」よりも「抱く」の方が力がいると思う。力がこもっている感じがする。
 「抱える」という動詞が「憧れ」ということばを通り抜けることで「抱く」という動詞に変わる。その変化は、小さいようで、大きい。「風船」と「憧れ」以上の違いを持っている。その「違い」を見つめて、ことばが静かに動いている。確かな形で動いている。

 

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Estoy loco por espana(番外篇179)Obra, Antonio Pons

2022-08-21 17:32:17 | estoy loco por espana

Obra, Antonino Pons

Antonio Ponsのこの作品は、小舟に乗った仙人を思わせる。スペインに仙人がいるかどうかしらないが。つまり、どこか東洋的である。
夜、仙人は、小舟を浮かべ、どこかへ行こうとしている。
夜、と私が想像するのは、彼の顔が三日月の形をしているからである。
どこかへ行こうとしている、と思うのは、彼が立っているからである。座って、瞑想しているのではない。
それにしても、なんとリズミカルなのだろう。
形の変化と、色の変化が、静かで、美しい。
背後の茶色い夜。その空間の高さ。左手は、その背景からはみ出している。小さな舟も、背景からはみ出している。
こうした変化が、どこかへ行こうとしている、その動きを強調しているのだが、彼は決して急いでいない。
時間の中で、彼はダンスをしている。どこかへ行くということを楽しんでいる。目的地は問題ではない。移動するその時間を楽しんでいる感じが、とても楽しい。

Al ver esta obra de Antonio Pons, imagino a un ermita en una pequeño barco. Y es algo oriental.
Por la noche, el ermita flota en el barco y se dirige a algún lugar.
De noche, imagino, porque su cara tiene forma de luna creciente.
Creo que va a alguna parte porque está de pie. No está sentado, meditando.
Y sin embargo, qué ritmo tiene.
Los cambios de forma y color son tranquilos y hermosos.
La noche marrón detrás de él. La altura del espacio. La mano izquierda sobresale de su fondo. El barco también sobresale del fondo.
Estos cambios enfatizan el movimiento, intentando ir a algún sitio, pero nunca tiene prisa.
Está bailando en el tiempo. Le gusta la idea de ir a algún sitio. El destino no es importante. La sensación de disfrutar del tiempo que se mueve es muy agradable.

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Estoy loco por espana(番外篇178)Obra, Joaquín Llorens

2022-08-21 17:30:04 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

二つの曲面が出会う。
それはたとえば男と女。出会ったときに、二人の間で動きが生まれる。ことばが交わされ、肉体が動く。それは、新しい音楽だ。
その瞬間、いままで、そこには存在しなかったものが生まれる。
細い針金が、それう象徴している。
それは、まだ二つの曲面のように頑丈ではない。
しかし、二人を超えてより高いところまで成長していく力を持っている。
その音楽に誘われて、二人はさらに高みを目指して動き始める。
この作品を見ていると、何かしら、新しい「家族」の誕生を見ているような気持ちになる。

Dos superficies curvas se encuentran.
Son, por ejemplo, un hombre y una mujer. Cuando se encuentran, se crea un movimiento entre ellos. Se intercambian palabras, los cuerpos se mueven. Es música nueva.
En ese momento, nace algo que nunca antes había existido.
El fino cable simboliza esto.
Todavía no es tan sólido como dos superficies curvas.
Pero tiene el poder de crecer más allá de los dos hasta alcanzar mayores alturas.
Invitados por su música, los dos comienzan a moverse hacia alturas aún mayores.
Al ver esta pieza, en cierto modo, me siento como si estuviera viendo el nacimiento de una nueva "familia".

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藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』

2022-08-21 11:46:56 | 詩集

藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社、2022年07月31日発行)

 藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読んで「残す」という動詞が印象に残った。私が気づいたのは「汚職」という詩を読んだときだ。読み直して、点検したわけではないので、不確かだが、それは他の詩にも出てくるかもしれない。ほかのことばで「同じ意味」をもっていることばが動いているかもしれない。詩集を貫く「ことば」として響いてくる。
 「汚職」では、「のこす」という表記で、こうつかわれている。

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰って来ません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

 一連目にすでに「言いのこす」という形でつかわれているのだが、私は、それには気がつかなかった。(だからこそ、他の詩でも「残す」、あるいは、その意味のことばがつかわれているかもしれないと想像する。「書き置いて」の「置く」も「のこす」に通じるから。だが、確認はしない。そういうことをしていると、印象が違ってきてしまうから。)
 私が三連目で「のこす」という動詞に気づいたのは、それが「仕事」といっしょにつかわれ、さらに「非難をしにくい」と「非難」ということばといっしょにつかわれているからだ。
 「のこす」は「のこる」である。そして、「のこったもの」は「受け継がれる(残されたものが、受け継ぐ)」。もし非難の対象になれば、受け継がれることはないかもしれない。
 もちろん、非難しながら、受け継ぐということもある。
 だから、私が感じたのは、「のこす」のなかにある、何かしらの「接続/継承/つながり」を含んだ動きである。それは「のこす」がなければ、存在しない。「のこす」という「意思」を感じないときもあるかもしれないが、きっとこの世界にあるものは、だれかが「のこした」ものなのである。そうであるなら、それは、ときとして単に「受け継ぐ」のではなく、「見つけ出し、受け継ぐ、生きなおす」ということになるかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

 「のこす」のは「さいごの証し」。それがないなら、人は完全に「見捨てられる。」消えるのか。ということを考えると、かなりめんどうになる。
 私は「のこす」が「まとめる」と言い直されていることに、なんとなく、こころを動かされた。「のこす」ためには、なんらかの作業が必要なのだ。あるものは、単純に「のこる」わけではない。「のこす」と「のこる」は違うのだ。

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたのこころに従いました。

 いいなあ。「のこす」を引き継ぐことを「こころに従う」と言い直している。「従う」がいい。「継承」は「受け継ぐ」のではなく、「従う」のだ。
 では、そのときの「こころ」とは?
 「文法の夢」という詩を、私は思い出す。最後の方に、こんな二行がある。

それでも係り結びは、結ぶことよりも大切な、
思いを託して文末を解き放つのです。

 「思い」が「こころ」だろう。「終わり」はない、ただ「係り結び」という「構造」がある。託された「思い」がある。書いた人(語った人)は「結末」を書かない、言わない。読んだ人、聞いた人が、その「解き放たれたまま」(見完結のままの)ことば受け止め、その運動に「従う」のである。
 「係り結び」は「結末」は書かれていないが、たいてい、「予測」されている。その「予測」に従うのである。
 えっ、でも、それで、どうなる?
 「予測」が正しいかどうかは、だれが判断する?
 そんなものは、だれも判断しない。
「物語りするバクーニン」の末尾に、こう書いてある。

そのあとはどうなるかだって?
古典なんか、なかったのです。
現代語だけがあったのです。

 「現代」だけがある、ということだ。「受け止め、従う」という運動があるだけ。そして、その「受け止め方、従い方」は、それぞれ自由だから、可能性としてどこまでも広がっていく。そういう運動があるだけだ。
 だから「汚い」を受け止め、従ったとしても、それは「美しい」にかわってしまうかもしれない。もっと汚くなるかどうかは、従ってみないと、わからない。
 で、思うのだ。
 「物語」ということばにふれて、私は唐突に思うのだ。
 「のこす」のは「物語(構造)」だろうか、「うた(歌/詩/音楽)」だろうか。「のこる」のは「物語」だろうか、「うた」だろうか。
 物語は詩の容器、散文は詩の容器だと思う。
 詩は物語の構造を破壊し、破片として、残る。それを集め、まとめるとき、また新しい物語が生まれる。あるいは、生まれてしまい、それに抵抗するようにして、内部から詩が爆発し、物語を壊してしまう。
 「係り結び」は完結しない。永遠に運動し続ける。でも、それは「物語」? それとも「詩」? どっちでもない。「係り結び」という運動なのだ。あえていえば「文法」。「法」とは共有された「生き方」だ。「のこす」のは「係り結び」という生き方、「のこる」のも「係り結び」という生き方。「法」を生きる。それが、読んで、書く、という行為ということになるのだと思う。

 

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