詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オヤールス・ヴァーツィエティス「きみは ぼくの腕の中で……」ほか

2006-02-28 23:20:44 | 詩集
 雪。私は雪が好きだ。だから雪を詠んだ詩も好きだ。
 オヤールス・ヴァーツィエティス「きみは ぼくの腕の中で……」(黒澤歩訳、「現代詩手帖」3月号)。

きみは ぼくの腕の中で……

きみは ぼくの腕の中で すやすやと眠る
もみの木の ふさふさとした枝に眠る雪のように
白い風は 森の隅に潜んでいる
きょうは きみを起こさぬように
なにも運ばず 白い曲がり道はしずか
歩く者もいない床板は 音もたてず
ミツバチのいない巣のように 演奏会場はひっそり
白髪の音楽家が ピアノの上で眠りこける
手もちぶさたに大将は タバコに火をつける
きょうは 部下もいないし 武器もなし
もみの木の ふさふさとした枝の中にいるように きみは
ぼくの腕の中で 雪のようにすやすやと眠る

 雪と聞いて思い出すのは冷たさ、寒さだけではない。私は温かさをいつも思い出す。この詩は雪のあたたかさを描いている。
 雪そのものがあたたかいわけではない。雪に触れると冷たい。そして、その冷たいと感じた瞬間に、私はふと肉体のあたたかさを思い出す。それは雪の冷たさを感じる私の手が、つめたさによって逆に熱くなるというような感覚ともつながるのだが、それだけではない。雪はひとをひっそりとさせる。ひっそりしたしたときに、たとえば同じ部屋(家)にいる人のぬくみが、そのひとから自然にふわーっと漂っているのを感じるような具合だ。そして、そのあたたかさは、いつでもやわらかい。ひとをやわらかくしてしまう。「もみの木の ふさふさとした枝に眠る雪のように」ということばも美しいが、「きょうは 部下もいないし 武器もなし」がひとのやわらかさに響く。「武器もなし」の「なし」という訳語が、また、すばらしい。「武器もない」では、あたたかさ、やわらかさがつた伝わらないと思う。「武器もなし」といいきったところに、詠嘆のような感情がふくまれており、その詠嘆が人間を誰かと結びついて存在するものでありながら、孤独で独立したものとして感じさせる。その孤独、独立が、むき出しの人間の、無防備な人間のあたたかさ、やわらかさを引き立てる。

 雪。それは雪国では絶対的な権力である。誰も雪に歯向かえない。雪に対しては、ただそれが通りすぎるのを待つだけである。その自然の権力、自然の暴力の前では、人間は無防備である。
 それゆえに、ひとは人間のあたたかさ、やわらかさに向かって、自然に手をのばするかもしれない。


 これは次の詩も素敵だ。

雪 きょうから……

雪 きょうから ふたりで冬をはじめよう
夕暮れが遅く来ることを祈ろう
清らかに素直になろう
ふたりの間にある宿命的な距離に対して

雪 ふたりの間のすべては 白い霧の中でからみあい
手をとりあってあるく人生は 白くなめらかになるだろう
雪はすべての溝を埋めて ふたりの行く手を
なだらかにする だけど躓くこともあるだろう

雪 大地はもう 白いスカートで覆われている
窓辺に佇むふたり
清らかに素直になろう

 「清らかに素直になろう」。それは、もっと無防備になって、人間のあたたかさ、やわらかさを出発点にしようという願いだろう。



 「雪 きょうから……」を私は最初誤読していた。というか、「雪 きょうから ふたりで冬をはじめよう」という行に触れた瞬間、私は「ふたり」を「雪」と「私」と思い込んでしまった。「清らかに素直になろう」は「私」が私自身に対して呼びかけていることばだと信じてしまった。
 ところが2連目、3連目と進むと、どうも様子が違う。「私」と「女」の「ふたり」らしい。
 なぜ「ふたり」を「雪」と「私」と勘違いしたのか。そして、それはほんとうに勘違いなのか。
 私は実はそれほど勘違いとは思っていない。「北への誘い」の1、2連目。

いったいどういうことだ?
北へ向かうことを望まないとは?
招きがあろうがなかろうが
子どもが
話すことを覚えたがらないとか
花が
咲くことを嫌がることがあるものか

そこには私のマンモスが
氷結し
そこには私の舵取り人が
かちんかちんに凍りついている
北へ行くのは旅でも
仕事でもない
北は羅針盤のような私の
存在の基盤なのだ

 「北」を詩人は「存在の基盤」「羅針盤」と呼んでいるが、「北」を証明する「雪」もまた「存在の基盤」であり「羅針盤」に違いないと思う。
 雪の前で純粋に一個の人間にもどる詩人。それがオヤールス・ヴァーツィエティスであると思って「詩選」の6編を読んだ。
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「SPACE」66号

2006-02-26 14:57:24 | 詩集
「SPACE」66号を読む。

 片岡千歳「川を呑む」は川の上流をながめる作品。「川を呑みこんだ体を裏返し」という一行が新鮮で、思わず読み返してしまう。

川ヤナギにもやっている舟の舳先に腹ばって
水面に顔を近づけ
川上を見つめる

春の山にワラビを採りにいって
谷川の清水を呑むときに
岸の石に腹ばったように

舳先に体を平らに延ばして
川上を見つめる
日がないちにち川面を見つめる
ちびた片方だけの藁草履が流れてくるような
 ことはあったけれど
桃太郎の大きな桃が流れて来るわけでもない
いや
水は断えることなく流れて来るからには
桃太郎の大きな桃も流れて来るかも知れない
飽かずに
川上の水面に吸い付けられていた日があった
遠い日

やがて
川を呑みこんだ体を裏返し
背をのばし
立ち上がり
川下を眺める

 川を見つめる描写が肉体の記憶に裏付けられているので、「川を呑みこんだ体を裏返し」が身に迫る。とりわけ「川を呑みこんだ体」が私の肉体を揺さぶる。ああ、舟に腹這いになり、川上を眺めてみたい。流れて来る水をすべてのみこんでしまいたい、という気持ちになる。
 「桃太郎の大きな桃」によって、片岡が川とともにのみこんだものが、単に現実だけではなく、現実をささえている「夢」を含んでいたことがわかる。片岡は、そうやって人生のすべてをのみこんだ。
 人生をのみこんだ体を裏返し、とは、人生を自分のなかにはっきりと取り込んだあと、それまでの視線とは違った視線で世界を眺める、という意味になる。

やがて
川を呑みこんだ体を裏返し
背をのばし
立ち上がり
川下を眺める
私は川のほとりのこの村に
停まるべきか
行くべきか
深呼吸をひとつして
流れに問いかける

川は一切にかかわり合うことなく
ザワザワザワザワ
ザワザワザワザワ
私の体の中を流れていった

 川はもちろん何も応えない。それがいい、と思う。川はいつでも流れている。それがいい、と思う。



 南原充士「問いかけ」に、とても美しい3行がある。

びっしょりと寝汗のしみたシーツの耳に
ふと訪れる聴いたことのない旋律
(だれだろう あなたは?)

 シーツ(存在)と「私」の一体感、融合。シーツの耳はもちろん人間の耳ではないが、シーツの耳ということばによって肉体の耳が呼び覚まされる。寝汗のしみたシーツにぐったりと横たわり、肉体は、純粋な耳、耳そのものになってしまう。
 存在と肉体が融合し、聴覚(耳)という感性が独立して、世界を統一する。そこへ流れて来る旋律。その旋律が聴いたことがないのは、それが「私」の外部からやってくるものではなく、「私」自身の内部から生まれる旋律だからである。「私」の肉体が奏で始める、それまでにない音楽だからである。

びっしょりと寝汗のしみたシーツの耳に
ふと訪れる聴いたことのない旋律
(だれだろう あなたは?)

もうろうとした意識の向こうに
まぶしく輝きはじめるイルミネーション
(だれだろう わたしは?)

 (だれだろう あなたは?)という問いが(だれだろう わたしは?)にかわってしまう理由は、そこにある。たとえ「あなた」を希求しても、それは「わたし」が希求することによって姿をあらわした「あなた」である。
 自分の肉体から出発し、ことばを制御しながら思考する意志を感じた。



 大家正志「翻訳」は「ぼくはただ/肉体という物質性を失っている」という行を含む詩である。存在の物質性、それに対して「ぼく」はどう立ち会っていいのか思案している。その思案に乱れはない。しかし、これは当たり前である。肉体をうしなった思案というのは乱れようがない。乱れとは、物質と「ぼくの肉体」とが同一ではありえないのに、あるとき同一になったり(たとえば「川を呑みこんだ体)、逆に同一ではありえないのに同一性を感じてしまったり(たとえば「シーツの耳」)してしまい、それに対して、どうすればいいんだろう、どう向き合えばいいんだろうというわけのわからなさとなって、具体的にあらわれたものである。
 大家の作品のことばに乱れはない。無駄もない。しかし、それがかなり物足りない。

 私は詩人のことばにつまずき、詩人と一緒になって何かを考えたい。自分がいままで見逃してきたものについて、詩人のことばの力を借りながら考えたい。


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藤維夫「病後の手記」

2006-02-25 23:53:54 | 詩集
藤維夫「病後の手記」(藤維夫個人詩誌「SEED」9号)。以下は全文。

わたしは根源の泉を訪ね
すてきなほど水がいっぱいだった頃に去る
後悔するばかりでひと足おくれの花を見た
車の窓からの景色は雪がすくなく
反対の窓側は日本海だろう

わたしとどんどん年をとって
林のしげみの中で虫の羽を探している
ひたすらお辞儀しながらの格好だ
とうとう何もかも見失って
妄想に迷ったままだ

病後の手記を書いて
あたらしいシャツを干している
きみとわたしの礼服までも干している
日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら
目がさめたのだ

 2行目の「すてきなほど水がいっぱいだった頃に去る」の「だった」に私はひかれる。つまずくというのではなく、ぐいと魅了される。たぶん、すぐそのあとの「去る」ということばのために。
 日本語は、過去のことも現在形で語る。今、起きているかのように語ることができる。1、2行目は「わたしは根源の泉を訪ね(た)、そして(泉が)すてきなほど水がいっぱいだった頃に(泉を)去った」という意味だろう。3行目は単純に「花を見た」と過去形である。1、2行目も過去を語っているに違いない。ただ、過去を現在の体験のように語るときは、普通は「水がいっぱいだった」とは書かないだろう。その部分も現在形である。しかし、藤は「だった」と過去形で語る。
 時制の乱れがある。

 この時制の乱れは、藤の表記の間違いではなく、藤が意識的に選びとったものである。時制の、間違いとはいえないまでも、何かしら奇妙な捩れは、藤が書いていることが現実そのものではないということを間接的に語っている。現実そのものではないということの「証拠」として、意識的に時制を乱したのである。

 根源の泉を去って以来、「わたし」はどんどん年をとって云々と、作品世界は歴史の時間のように、藤自身の時間軸にそって展開する。「お辞儀しながら」世間をわたり、自分自身の何もかもを失い、病気にもなって(病気からも回復し……)と、いわば普通の市民の半生らしいものが簡潔に、象徴的に語られる。
 そうして、唐突に「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら/目がさめたのだ」と、それまで現在形で語られた世界が「夢」だったことを告げる。
 このときも、藤のことばの時制は、とても印象的だ。
 「目がさめた」と過去形で語られる瞬間、それが時制的には一番新しい(現在)なのに、その現在が過去形で、それまでの過去の世界が現在形なのである。
 この奇妙な、何か神経の奥をくすぐるような時制の乱れも、藤が意識的に仕組んだ構造である。

 夢は目覚めている時間からみれば「過去」であるが、けっして過去とは意識されない時間である。現在であると錯覚したまま、私たちは夢を見る。また、夢とは現実そのものではないけれど、そうしたことも夢見ているときは意識されない。現実であると思い込んで夢を見ている。
 そうした意識の運動を、藤の時制は意識しながら書いている。そうした時制の混乱のようなものを明確にするために、藤は、意識的に時制を使い分けている。

 そして、この時制の意識的な使い分けの、もっとも美しい実践は、終わりから2行目の「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら」手ある。作品世界の意味的時間からいえば、「きみとわたしの礼服まで干していた/あの日差しの永いあったかだった日を想い出そうとしながら」であるはずだが、藤の自在な時制ワールドを藤のことばとともに歩んできた私には、その行は過去形にはならない。むしろ、未来形になる。「未来のある日、きみとわたしの礼服までも干している/日差しの永いあったかな日の夢を見ようとして、その夢を見る前に」目がさめたのだ、としたのだと読んでしまう。
 夢の中で、その夢より過去を「想い出そう」とすることは、過去の想起というよりは、夢の中で単純にもう一つの夢を見ることだ。そして、夢の中で夢を見るということは、実は、今実際に夢見ている世界(たとえば礼服を干している時間)を現実だと意識することである。今、私は日差しの暖かな日を思い描こうとしているが、それを思い描けるのは、それが現実ではなく想像の世界だからである----こういう強靱な認識は、どうしても夢を破るしかない。こんなことを考えれば、どんな夢だってさめてしまう。目がさめてしまう。

 藤の、この短い作品は、精密な、夢と現実、夢と人間の精神の動きのリポートそのものでもある。夢の精神分析論文を詩で書いたもののようにも感じられる。

 そう思って、再び、「病後の手記」を読み返す。すると、「日差しの永いあったかな日を想い出そうとしながら」が、かけがえのない夢の時間に思えてくる。「日差しの長いあったかな日」のなかで穏やかに生きたいという強い願いが立ち上がってくるのを感じる。



 「SEED」9号には、5篇の詩が載っている。どれも簡潔で、余分なことばが一個としてない。その1篇に「観念的なあまりに観念的な」というタイトルの詩があるが、藤の詩は、観念を具体的な生活の場のことばで丁寧に丁寧に描いたものである。読みとばすと観念的に感じられるだろうが、ことばのひとつひとつがどんなふうに選ばれているかを意識して読めば、藤は具体的なものしか描いていないことがわかる。

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今井義行『オーロラ抄』

2006-02-24 15:20:40 | 詩集
 今井義行『オーロラ抄』(思潮社)を読む。

 誰の詩を読んでいてもわからない部分に突き当たる。そして、そこから私は、この詩人は何を考えているのだろうと想像し始める。
 今井の詩集で、「えっ」思わず声を上げてしまった行がある。この詩人はいったい何を考えているのだろうか。さっぱりわからないのである。それも、わからなさが頭に重くのしかかってくる(たとえばマルクスを読んでいるときのような)ではなく、「えっ」としか言いようのない驚きと一緒に襲ってくるわからなさである。

愛という文字を考えた人は立派 あんなに観念的なものをこんなに多い画数で具体的な形にしてしまって
                (「のびてゆく粒子のまちにて」)

 「愛」は今井にとって観念的なものなのか、と驚く。私には、愛とは、むしろ観念など入り込む余地のないもののように感じられる。あれがほしい、奪いたい、触りたい、なめたい、食べたい……ようするに自分の体の内部に取り込んでしまいたい、取り込むことによって対象と自分の区別をなくしたいというどうしようもない欲望が愛であって、それが観念的であったことなど一度もない。
 だが、それ以上に驚くのは、愛という文字を取り上げ、それを「具体的な形」と呼んでいる点だ。「愛」は観念的であるが、文字は「具体的な形」である、ととらえる今井の視点に驚く。私にとっては、文字は「具体的な形」ではなく、観念的な形である。たとえば「川」という文字は水の流れをあらわしているというけれど、そうした象徴というか、現実から何かを抽出した形というのは、私にとっては抽象であり、具体的なものではない。観念的なものだ。

 観念と具体的なものとに対する考え方が私と今井とではまったく違う。そのことを踏まえた上で詩を読まないといけないのだな、と気付かされる。


時々 ネットカフェで婦人雑誌を読みながらうたたねし それから
液晶の画面で占いや天気予報 よその日常 あちらこちらで
気をうしなうほどの規模で ことばが楽々と何周もしているのだ

 こうした描写は私には観念的に見えるけれど、今井には具体的なのだろう。
 今井にとって、ことば、文字が具体的な存在なのだろう。そして、今井は、ことば、文字が具体的であるがゆえに、ことば、文字にこだわっているのだろう。
 具体的なものはいつでもそれ自体から他のものへはみ出していく力を秘めている。他の具体的なものと簡単に結びついて新しい世界をつくりだす力を持っている。それは無限定であるがゆえに今井には観念的(観念の世界)のように思えるのかもしれない。
 今井は、そうした力に向き合い、困惑し、それをなんとか、手に納まる(?)形、今井の表現を借りていえば「具体的な形」にしたいと思いめぐらしているのかもしれない。(無限定な世界を、限定的、抽象的な大きさにかえること、たとえば「あい」を「愛」という文字にかえること、という操作の方が私には観念的、抽象的に思えるのだが……。)

 そんなふうに考えながら「枯露柿を知る」を読み返すと、とても不思議な気持ちになる。

デパートのうつくしい宝飾店のロゴを見つめながらあるいています
それは 壁に貼られた 銀いろのねじれた印たちです
初冬の ぼくをやわらげる散歩のなかにそれは光り
宝飾品とは「愛」という名のアメフラシのようなものだろうか

 この世界は、今井には観念的なのだろうか。具体的なのだろうか。
 私には、「ぼく」が世界のなかにとけこんでしまって、ゆるりと、世界と丸ごと一緒に動いているような生々しいものに感じられる。そして、そのゆるりとしたつながりにつなぎ目に「愛」ということばがからみついてくる。
 「愛」が観念的(今井によれば)であるがゆえに、今井は、それをなんとか具体に変えようとするのだが、もとより具体的なものを観念と考えているために、その過程が奇妙に生々しい。

春でしたよ---- そんな空などで ひとは出会ってしまうのでした
ひとは おおむね 蝶つがいの姿になりたがるわけでした
そして たしかに 短い時間をはばたくのだが 振り返ると道が
できていない 白い砂煙が舞っていない いまだけしかない

 ひとが蝶つがいの姿になりたがる、というのは具体的なようで観念的だ。そして、その観念が「短い時間をはばたく」という行に進んだ瞬間、奇妙なことに、先のことばのなかから蝶そのものが空を舞い、どこかへ飛んで行ってしまうという具体的な世界が出現する。
 「ぼく」と女の交流は、そうした奇妙な具体と抽象(観念)の世界で生々しくつづけられる。
 そして、

<私の故郷では干柿のことを枯露柿と呼ぶのです あの頃は
ころころしているからころがき…と思っていました でも漢字では
枯露柿 文字の向こうに 宝石と宝石の組み合わせよはるかなり
ほがらかに音を響かせながら 私の故郷の遠くまでが見られました>

 「宝石と宝石の組み合わせよはるかなり」というのは何か誤植でもあるのか、わかりにくいが、作品の終わりにきて、唐突に最初の「宝飾店」のイメージが立ち上がってくる。
 何よりも驚くのは、「ぼく」と「おんな」の交流において、具体的な枯露柿よりも「枯露柿」という文字(漢字)が具体的なものとして存在し、しかもそれを二人が共有する点である。まるで宝飾店で買う「婚約指輪」(結婚指輪)のように、二人の愛の象徴として「枯露柿」という漢字(文字)が存在する点である。

 これはとても奇妙である。奇妙であるけれど、その奇妙さの、ぬるりとした感覚がとてもおもしろい。
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作田教子「フィルム」

2006-02-23 22:30:34 | 詩集
 作田教子「フィルム」(「あんど」6号)がすばらしい。フィルムが映し出す何か----それはたぶん、作田が看病している母の意識が映し出す何かであろう----を描いている。何かわからないものを媒介に、母と重なり合おうとする。母と一緒のものを見ようとする。同じものを見て、同じ時間を過ごそうとする。そのやさしさがしずかに広がっている。

突然 怒りだしたかと思うと
彼女は泣いている 肩がふるえて
フィルムは ジジ ジジッと
途切れそうになりながら
声は 無い そして回る
モノクロの時間を過去から巻き直し
手足の動きがぎこちない
(あ のかたちの唇
(さ よ な らの身体の動き

 私たちは、ことばがなくても他人に共感してしまう。同じ感情を持ってしまう。「さよなら」と聞こえなくても「さよなら」と言おうとしていることがわかる。そして、それが声にならないのに声にしようとしていることを知る。無理しなくていいのに、わかっているのに。そう言いたい。しかし、ひとは声にならないとわかっていても「さよなら」と言いたい。

 肉体で受け止めるしかないことばは、いつも重い。
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葉紀甫の詩について

2006-02-23 22:17:11 | 詩集
 「あんど」6号は葉紀甫の特集。7人の評論が掲載されているが入沢康夫の書いた文章以外は私にはよくわからなかった。
 私は漢文にうといので、はっきりとはいえないが、葉のことばの動きの基本は漢文体の散文である。その文体のスピードは森鴎外に近い。

武者たちが陰惨に帰つてくる。切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。
                              (「わが砦」)

 武者たちの陰惨な帰還を描写するにあたって、葉は武者の様子、破れた装束だの折れた刀だのを用いない。「陰惨」の一語で片づけ、武者以外のもので「陰惨」を別の角度から定義し直す。描写し直す。「切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。」と。武者たちは切り取った敵の首の口を閉ざすことさえしない。敵の尊厳に配慮しない。それほどまでに武者たちの精神は「陰惨」だということだ。武者を描写せず、他のものを描写することで武者の精神の「陰惨」さを明るみに出す。それだけで武者たちの装束の乱れ、折れた刀、疲労のように顔を覆う乱れた髭まで見えてくる。そういうものは読者の想像力にまかせて省略する。
 こうした文体のスピード、展開のありようは、漢詩の行の展開のスピードである。森鴎外の『寒山拾得』の「水が来た」という一文を、三島由紀夫は『文章読本』で漢文体のお手本として取り上げていたが、同じリズム、同じ省略の機微が葉の文体にはある。

砦の闇に 馬が頭を廻らす。
ただそれだけの事なのに 旅廻りの巫女はそれを見のがさない。
                              (「わが砦」)

 この2行の呼吸も漢文体のものだろう。

 漢文体に詳しいひとの評論を読みたいと思った。



 森川雅美が「追放された詩人の肖像」というタイトルで、葉と吉岡実を比較している。私にはこの比較は唐突に思える。どこにも類似性がない。通い合うものがない。「言葉のイメージの強さ」(森川)ということなら、それはどの詩人にもあてはまる。
 吉岡実の文体は「新古今」の文体である。言語を積み上げていくときの、積み上げ方を競う文体である。どのように華麗に、どのように繊細に、そしてときにどのように強靱に複雑に世界を組み立てるか。その技法と建築工学を競う文体である。吉岡の詩が孤独だとすれば、それが常に技巧に対して向き合っていることによる孤独である。
 一方、葉の文体は漢文体である。ことばとどう向き合うかではなく、まず存在とどう向き合うかを問題にする。葉の文体の奥から立ち上がってくる孤独は、対象(存在)と一対一で向き合わなければならない孤独である。存在は常に「私」と「世界」の関係を断ち切るようにあらわれる。存在によって世界はいつでも分断されるのだ。存在は非情だ。
 言語構築の技法は詩人たちによって共有される。しかし、存在の非情さはあらゆる共有を分断する。存在の非情さは、世界のなかで孤立する人間の孤独を共有するよう要求する。


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葉紀甫「わが砦」

2006-02-22 19:11:07 | 詩集
 「あんど」6号が葉紀甫の特集をしている。葉紀甫については『詩を読む詩をつかむ』(思潮社)に書いた。自在な精神の運動による緊張と緩和に彼の作品の特徴があると思う。

わが砦

平板な 金色(こんじき)の大太陽に背いて 武者たちが陰惨に帰つてくる。切り取られた首たちの口は頑固にしまらない。
凶暴な女たちは 殿の供で留守。
砦の闇にもくれんが匂う。隆々とした木組の士部屋は急な勾配の屋根を持ち 絞めつけた新縄が丸見えで美しい。あああ 新縄。土器(かわらけ)。
凶暴な女たちは 殿の供で留守。

 この作品には、2種類の「詩」がある。ひとつは「もくれん」に代表される「詩」。世界の非情さとしての「詩」。
 世界は私たちの(この作品では、敵を倒し、帰って来た武士たちの)思いとは関係なしに存在している。陰惨に帰って来ようが、意気揚々と帰って来ようが、「砦の奥にもくれんが匂う。」という事実にかわりはない。
 世界とは非情なものである----たぶん、これが葉の言語運動の基本的な出発点であると思う。
 世界、世界を構成するものは、人間の思いとは無関係に存在し、自己主張する。そして、その自己主張に耳を傾ける人間は陰惨な武者のなかにもいる。すべての人間が同じことを考えるわけではない。「凶暴な女たちは 殿の供で留守。」という一行が端的にそれを語っている。ひとはそれぞれ自分のしたいことをする。そして、世界はそのすべてを受け入れる。そのとき、どうしても相いれないものが噴出する。戦いから帰って来たときに武者が見る「もくれん」と、殿の供で留守にしているおんなたちが思い出す「もくれん」が同じではない。ふたりにとって「もくれん」は同じではないが、世界にとっては同じ「もくれん」である。
 「もくれん」が非情にも、武者と女たちを分断する。分断して、ただ非情なものとして世界に屹立する。このとき「詩」が立ち現れる。
 これは『詩を読む詩をつかむ』で主に書いたことである。

 もうひとつの「詩」。
 自在な精神による緊張と緩和。その印象はかわらない。それは、どこから生まれたのか。強靱な散文精神である。あるいは超スピードの散文精神である。
 散文は、ある出発点からことばを積み上げていく。
 葉のことばの運動では、その積み上げが乱れる。もっと正確にいえば、先に存在し、踏まえるべきことばの運動(散文)を、次のことばの運動(散文)が追い抜き、追い抜きざまに、先行することばを叩ききる。同時に、反撃にあい、返り血を浴び、追い抜いたはずのことば(散文)も叩ききられる。その結果、「断片」が噴出する。
 たとえば「新縄」。たとえば「土器」。「絞めつけた新縄が丸見えで美しい。」のあとに、もっと別な「新縄」の描写がありえたはずである。しかし、それは書かれない。「あああ 新縄。」そして、その断絶を抱えたまま「土器」ということばがつづく。「土器」はどこに存在するのか。どのような形をしているのか。そうしたことは一言も説明されない。散文であることを放棄している。放棄させられている。ここに、「詩」がある。

 「新縄」「土器」を「もくれん」と同じように世界の非情さの印と受け取ることはもちろんできるし、実際に世界の非情さをあらわしてるのだが、そのあらわれ方が違う。「新縄」は「あああ」と感嘆され、「土器」には、その簡単も省略されている。



 葉紀甫は入沢康夫と同時に語られることが多い。
 私の印象では、葉と入沢の散文には大きな違いがあると思う。
 その違いは、先に書いたことと重複するが、葉の散文が、常に先行する散文を追い抜いてゆき、そしてその追い抜きざまに世界の非情な断片を輝かせるのに対して、入沢の散文はそうではない。あくまで先行する散文を踏まえ、ふまえることによって少しずつ世界とずれてゆく。その「ずれ」のなかに「詩」を輝かせる。それは綿密な精神の持続である。緊張の持続である。
 葉はそうした持続よりも、分断と解放を好む。
 
 入沢の美が持続なの美なら、葉の美は分断の美、非情の美である。


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ブレイクを読む(3)

2006-02-20 11:04:11 | 詩集
 「死の床。」正反対のものが出会う不思議さ。その瞬間の世界の活気。たとえば

このような夕べに、冷たい土がいのちを含んで息づき、

 死者を墓に葬る。そのとき冷たい土は息づく。その非情さに「詩」がある。

私は後(うし)ろを見る、後戻りの術(すべ)はない、死が私の後(あと)について来る、私は死の領土を歩いている、

 「死」は前方にあるのではない。後方からやってくる。これは前方には「死」ではなく「神」がいる、という意味である。したがって、ここでの「死」とは「地獄・煉獄」ということになる。

私が顔を塵(ちり)の中に伏せれば、墓が私を求めて口を開く、もし私が頭を上げれば、罪が外套のように私を包む!

 これらの行に共通するのはスピードである。ことばは最短距離を進む。そのとき「詩」が生き生きと駆けだす。


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橋本真理『羞明』

2006-02-20 10:39:33 | 詩集
 橋本真理『羞明(フォトフォビア)』(思潮社)を読む。抽象と具象のからみあいに困惑してしまう。タイトルにもなっている「羞明」。明るい恥ずかしさ、明るさの恥ずかしさ。どちらだろうか。意味がわからない。文字ひとつひとつの意味はわかるが、ふたつつながると意味がわからない。恥ずかしさも明るさも知っているはずなのに、二つかむすびつくとわからなくなる。わからないまま、何かを感じてしまう。これは橋本の詩にもいえることだ。

あかるさをおそれる
すでに抜き去られた孤独の血によって
立て替えられている朝の
なんというまばゆさ

 知らないことばはない。しかし、なんのことを書いているのかさっぱりわからない。「朝の/なんというまばゆさ」について書いているのだろうか。
 意味はわからないが、こころがひかれる。
 「羞明」については最初に書いたが、「すでに抜き去られた孤独の血」というのも同じである。
 似た行が途中にも出てくる。

母たちは連続模様を編みつづける
世界の凹面に裏糸を渡し
倦むことなく
複数になるために身を裂いた私たちの
なんという意志のまばゆさ
すでに抜き去られた孤独の血によって
手をとりあったまま 家々は昏睡し
夢の孤絶を死の共同と見まがうまで
息をふきかけてはしるす指文字

 そして、こんどは、私の場合、まったくことばにひきつけられない。書き出しと同じ「まばゆさ」「すでに抜き去られた孤独の血」ということばに出会いながら、最初に感じたものとまったく違ったものを感じてしまう。
 「まばゆさ」や「透明」(羞明の「明」は透明の「明」かもしれない)といったものが消えてしまっていると感じてしまう。奇妙に濁って見える。不透明に感じてしまう。何かが隠されていると感じてしまう。
 たぶん「母たち」ということばが、不透明さを感じる理由かもしれない。「母たち」は「わたしたち」と橋本によって書き換えられている。「母」は「子供」を引き寄せる。「子供」がいて「母」である。その関係を、橋本は「複数になるために身を裂いた」ととらえているのだろうか。
 女が男とセックスをする。それは「孤独の血」を捨てることである。セックスのときひとはひとりではない。そして、女は母と子供という複数になる。複数になった後、母と子供は別人であり、手を取り合うことはできても「夢」は「孤絶」(孤独)である、というのだろうか。
 ----どうも、頭で考えたことがらにすぎない。私が読み取ってしまうのは、私の頭が考えたことがらだが、それはどうにも不自然な感じである。
 女が子供を産み、母になるのは「複数」になるため、複数を実感するためだろうか。
 それはそれでもいいと思うけれど、どうも、その実感が橋本のことばから伝わって来ない。

 いったい、橋本が感じた恥ずかしさの明るさ、明るさの恥ずかしさ、あるいは透明な恥ずかしさとは何なのだろうか。昨晩セックスをしました、ということ? そんなことは恥ずかしいことでもなんでもないと思う。

 「結露の家」にも魅力的な行の展開がある。

立てかけたまな板の
きずだらけの急斜面に
布巾のように家系図を吊るすと
その乾きの遅い裏側では
かくれんぼのこどもが数年ごとに入れ替わり
部屋から部屋へ走り回って
どの引き出しからも
内緒の下着をつまみ出す

 しかし、こうした展開も、それにつづくことばによって一気に濁ってしまう。不透明になってしまう。頭の中の世界に変わってしまう。

拭いてもすぐ曇る鏡の上で
軽すぎる余生の笹舟が浮かび
短い航路からはみ出す夢は
結露の家の
雫になってしたたり落ちる

 「夢」。この単純なことばは「羞明」にも登場したが、何も語っていない。抽象にすぎない。具体性を欠いているために、不透明になって、世界を濁らせている。

 「抽象」は誰に対しても開かれた世界のようであって、そうではない。それはそのことばを書いた人の「頭」のなかにしかない。頭蓋骨で隠されている。具象は、その人だけの世界のようであって、そうではない。具象につながる肉体が「共感」としていつもそばにある。
 橋本のことばは肝心なところで肉体を欠いている。「頭」に逃げ込んでいる。逃げ込むことで肉体の何かを隠している、という印象を残す。



 橋本の詩集は10月の下旬に出たものである。いただいてから何か月もたつが、どうにも咀嚼しきれない。

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田中庸介「冷房病のひとに」

2006-02-19 11:51:42 | 詩集
 田中庸介「冷房病のひとに」(「妃」13)を読む。

冷房病のひとに

日本はアジアの東のはずれだから
大変よいスープ麺を食べることができる
その紹介から始めよう

暑い外部の道路から小さな戸口を入れば
湯気のあがるL字のカウンターがあり
そこでひげのおじさんたちが働いています。

まず豆をベースにした塩味のたれを
背徳的なごった煮の汁で割ります

一方の鍋では水がぐらぐらと沸騰していて
麺のかたまりを小さなかごに投入してはゆでて行く

ゆであがった麺を丼にいれラフにほぐし、
つゆ、赤い肉、黄色い卵、黒い海藻、緑の小さな野菜とともに食べれば
体はその内部から十分にあたたまり、
決して夏負けしないのであります。

 食べるということは文化である。まずいものを食べて平気、というのは文化を知らないということだろう。
 田中は食べ物をおいしく描くことができる。これは文化である。
 最終連の2行目にはうっとりしてしまう。赤、黄、黒、緑、そして描かれていない「白」。いや、透明というべきかな? 麺はゆでると透明になる、あるいは透き通ったときがゆであがったとき。
 あまりの手際のよさに見落としてしまいがちだが、食事(料理)は、素材も大事だが、手際によって味が決まる。
 田中のことばはこびの手際はスピーディーで無駄がない。
 2連目の3行は、目の動きをそのまま端的に伝える。「L字のカウンター」「ひげのおじさん」という誰の目にもなじみのものをてきぱきと描いた後は、目で見えないものをちょっと混ぜて見せる3連目は田中特有の隠し味である。。視界を揺さぶっておいて、すぐにまた視界(視線)に戻る4連目。こうした素早い操作があるからこそ、最終連の色彩の祭りが生きてくる。
 あ、うどんを食べたい、と思ってしまう。

 同じ号の「蒲焼あります」も楽しい。
 2連目。

うなぎって気持ちをぼーっとさせる力がありますね。
重力っていうかまあ何というか、
うな重とうな丼の違いは何、たぶん、まあ、
容器が、

 このばかばかしいとしかいいようのない「定義」のなかに隠された「重力」という隠し味は、それこそ「重い」。「冷房病のひとに」の「背徳的なごった煮の汁」もそうだが、こうした「隠し味」を田中は決して説明しない。いわば秘伝の味である。なぜ説明しないかといえば、そういうものは説明を聞いて知るものではなく、横で見ていて「盗み取る」しかないものだからである。
 私は田中の熱心な読者ではなかったので、「隠し味」(秘伝の味)を盗み取るまでにいたっていない。
 ただ推測はしてみる。田中は「ひげのおじさん」というような平凡なことば、誰もが無意識に使っていることばで対象をきちんと把握する力をもっている。誰もがもっている無意識を「共感」の形で伝える力を持っている。その「共感する力」が説得力に変化している。
 「蒲焼あります」の次の行の展開の美しさ。思わず鰻屋を探しに行きたくなるではないか。

太陽は山椒のごとく
全身から香ばしい汗が流れていく
うなぎ屋の土間
暗い
ワイドショー
漫画本
スポーツ紙を
ぱたぱたと熾される
赤い光

 そして、そのうなぎ屋は誰でもが入れる気安いうなぎ屋である。

 気安さの共感。気取らない共感。その美しさ。
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武田肇『カッサシオン』

2006-02-18 23:56:38 | 詩集
 武田肇『カッサシオン』(銅林社)を読む。

少年の(あし)のそとも しばらく(あし)
だ ためいきの(あし)がぬらす 公園の出
しっぱなしの噴水のさみしさ きっと(あし)
は少年のそとに出たいのだ 斜方形の図柄と
いう少年の断片をつらねてまでも(ひざ)の
なみがしらをたてる 投球のフォームは い
つか死のフォームだ 公園の垂直な午後の噴
き上げは さみしさを出しつづける少年の(あ
し)だ 水分が出て行く呼気であり まれに
網膜にも行く 眼球を動かし瞳孔を小さくす
る 少年の(あし)は体中を走る 昼を多量
に含んで硬い 尿道のように 少年の(あし)
は少年のうしろの物を見る知覚神経 (あし)
に(あし)が現れて (あし)全体に(あし)
のイメージを送る 明るい膝頭と暗い膝頭は
孤立している男に行く枝であり 吊りスカー
トの少女に行く枝でもある

 「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」。この唐突な存在の出現が「詩」である。
 武田の「詩」の特徴は、その唐突な存在の出現が唐突なまま屹立しないことである。噴水のさびしさはさびしさに耐えかねて、他のものへと侵入していく。水は「なみがしら」に。水は「呼気に」。そして「網膜」へ侵入すれば、作品には書かれていないが涙に侵入する。そこまで侵入してしまえば、感情だけではなく、肉体の内部の問題、本能にも侵入していく。「尿道」に侵入してしまえば、もうほとんど「性」に侵入したのと同じである。この場合、「性」は肉体の問題か、脳の問題か。どちらでもある。
 こうしたことが起きるのは、絶対的他者が欠如しているからである。武田にとって他者(自己以外の存在)とは、自己とは無関係に存在している非情な存在ではない。いつでも武田の意識に染まり、武田の意識として存在するものにすぎない。

 「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」に、私は西脇順三郎を思い出してしまうが、それはことばの類似性にすぎない。西脇にとって、「かけす」も野に存在する無数の草も絶対的な他者である。自己の肉体とはけっして混じり合わない純粋音楽である。西脇のことばを攪乱する「音」(音楽)である。 
 武田の場合は、そうではない。
 あらゆる存在は、武田にとって自己である。「公園の出しっぱなしの噴水のさみしさ」は、その水の輝きが、行方が、武田そのもの以外の何者でも有り得ないという「さみしさ」である。非情ではなく、同情のさみしさである。センチメンタルのさみしさと言い換えてもいいかもしれない。

 「絶対的他者の欠如」は、あるいは「私は必ず複数である」ということと同義であると言い換えうるかもしれない。
 投球フォームの少年と噴水の水。そのさみしさに一体化した武田は、「孤独にしている男」にも「吊りスカートの少女」にもたどりつく。武田は「男」にも「少女」にもなる。どれかひとつになるのではない。常に複数になる。たとえ「男」になったとしても、その意識の奥には必ず「少女」がいる。「少女」になったとしても必ず「男」がいる。それはつまり、少年が「男」になろうが「少女」になろうが、実は少年のままであるということでもある。
 武田は「少年」であり「男」であり「少女」である。

 引用部分に先立つ3行。

わたしのまなざしが
未成熟な(あし)を包むその緊密な体型を
世界中に分岐する

 武田は、ことばを通じて武田自身を世界中に「分岐」するのである。その「経路」(このことばは最初に引用した行の直後に出てくる)が武田である。経路であるがゆえに、それはどこまでも拡大する。

 拡大しながら「笑窪」のように誕生と消滅を繰り返す。(「笑窪は誕生と消滅を繰返す」40ページ)。その瞬間瞬間も「詩」には違いないが、その誕生と消滅に気を取られているとき、つまり一瞬、その存在を忘れてしまっているときも、なお拡大しようとうごめいている「分岐する経路」そのものが武田である。武田の「詩」である。
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ブレイクを読む(2)

2006-02-18 23:42:06 | 詩集
 論理の強靱性も「詩」になる。

老年は静観的なものです、巡りゆく年々は
心の宝庫に果実をもたらします、
一方空(うつ)ろな若年は熱望しそれ自身の内部を
捜し回ります、そして不平を見出すのです、
それから考えることに飽きて、短気に飛び出し、
時の果実を摑まえる、経験を攻撃する、
広大な大自然の森をうろつき回る、そこでは何の限界も
設けられず、おそらくもっもと速いのが場所を取り、最も強いのが
獲物を見つけるでしょう、がやがて到頭疲れて、変わりゆく一様性、
昔からの多様性に満腹しうんざりして、
我々は坐りこんでしまいます、そして嫌悪と反感とをもって
我々のかつての喜びをうち眺めるというわけです

 老年と若年を「果実」を中心にして対比する論理力。ここにはイギリス人の得意な自己を相対化する視力が生きている。
 「一様性」と「多様性」の対比も強烈である。

 「詩」はいつでも対立したもの(老人と若年、一様性と多様性)の出会い、衝突のなかから生まれる。

 (引用は、梅津済美訳「ブレイク全著作」名古屋大学出版界より)

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ブレイクを読む(メモ1)

2006-02-17 15:39:11 | 詩集
 『ブレイク全著作集』(梅津済美訳、名古屋大学出版会)を読む。ことばが互いにことばを映しあい、その意味を荒々しくする。

 翼ある鷲が彼の高い巣のまわり
アルプスの丘々の塔状の垣をさげすむ、
             (「スペンサーの模倣」)

 「さげすむ」ということばが、前の行の「高い」によって浮き彫りになる。「翼ある」によって意味が荒々しくなる。
 「さげすむ」とは自由な精神が、自由ではない精神を高みから批判する行為である。「アルプスの丘」「塔(状)」さえも自由な鷲、孤高を生きる鷲にとっては「蔑み」に値する。

*

 梅津の訳で一か所つまずいた。「アルプスの丘々」。「The Complete Poetry & Prose of William Blake」(anchor books)によれば引用部分は

 As the wing'd csgle scorns the tow'ry fence
Of Alpine hills round his high aery,

 確かに「hills」であり、英語では複数が当然なのだろうけれど、私の日本語の感覚にはあわない。「山々」「家々」「花々」は納得できるが「丘々」はなじめない。
 原文に忠実であることと日本語に忠実(?)であることとは別の問題である。梅津はあえて原文に忠実に翻訳するという姿勢をつらぬいている。

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平田守純詩集『フルーツバスケット』

2006-02-16 22:30:28 | 詩集
 平田守純詩集『フルーツバスケット』(ふたば工房)を読む。筆者は2003年4月23日没。遺稿集。

トマト

早朝
急速に明るくなった玄関に
トマトが置いてあった
拳ほどの
光沢の見事な
充分に熟した
トマト一個

任意の朝
うっちゃって
街路に出ると
いたるところの辻々に
同様のトマトが置いてあった
多くは辻の中央に
とくに
少し離れた角の近くに
多くは一個
稀に二、三個

 信頼に足るものとはなんだろうか。
 平田は一個のトマトを信頼している。ある日、トマトが信頼に足るものだと確信する。このトマトは比喩ではない。本当のトマトである。充分に熟したトマト。光沢が見事なトマト。それはある日の朝を輝かせる。
 何も考える必要などない。
 トマトは何も考えずに、ただ熟す。そして、その見事さの背後には太陽の光があり、豊かな大地があり、育てるものの充分な愛情がある。そうしたものを満喫してトマトは熟す。自己完結することで一個の屹立した存在になる。

 「急速に明るくなった玄関」。それは、太陽の光で急速に明るくなったのではない。熟したトマトの発見、トマトが信頼に足るものだと発見した平田によって明るくなったのだ。
 「詩」はこの「急速に明るくなった」にある。こころと世界が一体になった瞬間、肉体と世界がトマトの発見を通して一体になった瞬間にある。

 誰もが同じようにトマトを発見すれば世界はかわる。それがどんな「任意の朝」であろうと、トマトをみつめ、その美しさで世界が「急速に明るくなる」と感じた瞬間に世界は変わるはずだ。

 この作品には、ただ純粋に自己完結していくもの、自己完結したものへの深い信頼がある。
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岩井八重美『水のあるところ』

2006-02-15 13:00:18 | 詩集
 岩井八重美『水のあるところ』(編集工房ノア)を読む。どの作品もことばに無理がない。生活をくぐりぬけてきた落ち着き、抑制がある。

なぞる

磨きあげたばかりの
鍋の縁をゆっくりとなぞる

こうして立ち尽くしていたあの頃
行き先のない思いは
慣れた台所で煮詰めるしかなかった
濃密な匂いと熱気の芯にあった
私が私でしかないという憤り

あの思いはどこへ行ったのだろう
縁を指でなぞる癖だけを残して

 鍋の「縁を指でなぞる癖」。癖の中に、その人がいる。癖とは、けっして説明できないもの、肉体に染みついて、その人をつくりあげている何かである。
 阪神大震災の後、岩井は台所に立ち尽くす。台所が彼女のいつもの場所、彼女の領分だからである。そこで何をするか。「鍋の縁をゆっくりとなぞる」。何のために。自分がいるということを確かめるためである。自分がいると確かめるということは、いなくなった誰かがいると知ることでもある。そのとき、岩井は思わず鍋の縁をなぞる。その指先が感じるのはなんだろうか。
 最初の行「磨きあげたばかりの」と、2行目の「ゆっくり」がせつない。深い愛情がにじんでいる。大切な何かが、「磨きあげた」と「ゆっくり」にこもっている。指が触れるのは大切なものの記憶である。岩井は、その大切なものに、頭ではなく肉体で触れる。肉体で「なぞる」。

 常に肉体にしたがうことばに飛躍はない。しかし、肉体にしたがうが故のまっすぐさがある。丁寧さがある。
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