詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・エアー監督「フューリー」(★★★★)

2014-11-30 23:03:14 | 北川透『現代詩論集成1』
監督 デビッド・エアー 出演 ブラッド・ピット、シャイア・ラブーフ、ローガン・ラーマン、マイケル・ペーニャ、ジョン・バーンサル

 この映画はとてもシンプルな映画である。ひとつのことしか言わない。「戦争は人を殺すこと(殺さないと殺される)」。どちらが悪いとか、どちらが正義であるとか、そういうことはいっさい言わない。
 で、情報を非常に限定している。何より、色がない。金髪のブラッド・ピットの髪が金色ではない。スクリーンに出てくるのは、泥の灰色、戦車の灰色、兵士の汚れた顔の灰色。灰色の濃淡があるだけ。カラー映画なので、その灰色の濃淡はモノクロ映画のように鮮明ではない。灰色に、肌の色、軍服の色、土や油や煙の色、鉄の色がまじって、単純に分類できない。識別しようとすると、とても面倒くさくなる。これはつまり、映画は、そんなことを識別させようとはしていないのだ。
 アメリカ兵とドイツ兵が出てくるが、その外形の違いすらどうでもいい。敵味方は「外形」で決まるのではない。アメリカ兵のコートを着たドイツ兵が出てくる。「外形」で敵味方を識別できないということをの象徴である。それを新入りのアメリカ兵が殺すところが前半のハイライトだが、ドイツ兵かどうかは、観客にはわからない。ブラッド・ピットが「ドイツ兵」と言っているから、それを信じてドイツ兵だと思っているだけにすぎない。そこにいるアメリカ兵にだって、ほんとうにわかっているのかどうか、判然としない。ドイツ兵であるかどうかよりも、ブラッド・ピットにとっては、殺すか殺されるかという「識別」の方が大事である。それだけを基準に動いている。殺さなければ殺される。だから、殺す。それ以外の「行動基準」はない。
 「殺す/殺される」だけが「行動基準」であり、敵味方の「識別基準」である。「動詞」が「基準」である。自分たちを殺そうとするものが敵であり、自分たちが殺す相手が敵である。(新入り兵は、この「殺す/殺される」という「行動基準」がわからない。新入り兵は「人を殺してはいけない(殺さない)」という「日常」の基準を引きずっている。)
 戦場では、軍服だの、目でわかる識別基準など、どうでもいい。だいたい実際の戦闘では煙幕がつかわれたり、砲弾の土煙があったりで、「色」などで識別している余裕はないだろう。「殺す/殺される」の「行動基準」は、身近にいるか、いないか。自分に銃を向けるか向けないかだけである。
 最後の戦闘シーンが象徴的である。ブラッド・ピットたちは一台の戦車に閉じこもって三百人のドイツ兵と戦う。そのときブラッド・ピットたち米兵は戦車のなかで、「殺されてはいけない(死んではいけない)」と思っている。戦車の外にいるのはドイツ兵で「殺す」相手である。戦車のなかでは、ブラッド・ピットたちは「肉体」を寄せ合っている。触れ合っている。それは殺してはいけない/殺されてはいけない/死んではいけない人間であり、外にいるドイツ兵は、ブラッド・ピットたちとは「戦車」をはさんで離れている。この「距離感」を手がかりにして、観客(私)は、映画のなかの「敵味方」(アメリカ兵がドイツ兵か)を識別する。役者の顔を識別して、これはブラッド・ピット側、これはドイツ軍と識別しているわけではない。「身内」(戦車の内側)は守る、「身の外」(戦車の外側)は殺す。そこでの「識別基準」は「内と外」、「内と外」をつくる「距離」である。
 「距離」が「識別基準」であるとき、そこに「色」はいらない。そんなものは識別しなくていい。だから、この映画は最初から「色」を排除しているのだ。「色」があれば、どうしても色を見てしまい、「距離」を見逃してしまう。「距離」に焦点をあてるために、「灰色」にいろいろな色をごちゃ混ぜにして、色を分かりにくくしているのだ。ブラッド・ピットたちを常に塊として動かし、その塊から離れたところにいる人間は次々に死んでいく(殺す/殺される)という単純な運動で映画のすべてを描ききる。
 途中に、新入りの兵士とドイツの娘との一瞬の恋愛(?)も描かれるが、その恋愛にしろ、ブラッド・ピットと新入り兵が娘の家から出て、つまり娘から離れた瞬間に、爆撃にあって娘は死ぬ(殺される)という具合だ。肉体を寄せあって(肉体の距離を密着させ、団結して)行動するときだけ、「生きる」望みがある。離れてしまえば、殺される。離れてしまえば、死ぬ。
 これはブラッド・ピットたちの任務(作戦)にも言える。アメリカ軍(連合軍)とのつながりを維持するために戦う。ドイツ軍の軍の連携を分断するために戦う。分断されたら負け、つながっていれば勝つ(生きる)チャンスがある。銃弾の在庫(補給)があれば勝てる。けれど、武器の補充が寸断されれば戦う方法がない。だから、負ける。殺される。戦争は、ただ敵を殺すという以外のことはしないから、その勝敗の決め手は、味方との連絡を維持できるか(味方と、肉体が接するように、緊密な距離を維持できるか)どうかにかかっている。繰り返しになるが、こういうとき、「識別基準」は「色」なんかではない。緊密な「手触り」である。
 ブラッド・ピットたちは、それぞれに個性的だが、その個性を飲み込んでしまうくらいの密使の距離を生きている。その距離感が彼らを生かしつづける力になっている。その密着感を明確にするためにも、「色の識別」などはない方がいい。
 で、このことは副ストーリーにそって映画を見つめなおすと、さらに鮮明になる。色の識別はないと最初に書いたが、実は、ひとつだけ識別がある。新入りの兵士。彼は、土と硝煙に汚れていない。「灰色」に汚れていない。白い。顔が、白い。戦争(人を殺す)を知らない。だから、最初は浮き立っているのだが、苦悩しながらドイツ兵を殺し(むりやり処刑を押しつけられ)、アメリカ兵がドイツ兵に殺されるのを見、実際に自分でも戦場で殺す。そういうことをしているうちに、顔が変わってくる。だんだん「灰色」に汚れてくる。仲間が、他の仲間を救うために手榴弾に覆いかぶさりひとりだけ死んでいくのを見て、自分だけが生きるのではなく、他人を生かすために戦っているということも知る。そのときの彼の顔は、戦車の、あるいは銃の強靱な「灰色」である。
 ゆるぎがないのは「色彩計画」だけではないかもしれない。私は戦車や銃器には何の関心もないので、その細部には無頓着だが、見る人が見れば、その細部へのこだわりにも映画造りの「意図」が見えるかもしれない。戦争とは人を殺すこと--ただ、それだけを伝えるために、いろいろなものを排除して、その排除のなかにリアリティー(極限)を浮かび上がらせている映画である。
                        (2014年11月30日、天神東宝5)

 


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(23)

2014-11-30 10:37:19 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(23)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「声」とは何か。--「音楽」について考えてきたあとでは、「声」はまず「音楽」として私の「肉体」に響いてくる。

声がひそむ
水平線に

声が届く
意味を越えて

声がつまずく
意味の小石に

声が沸く
意味がこぼれる

声が痩せる
文字にまで

 一連目、二連目は「声」を「音楽」に変えてもいいかも。いや、実際、私は「音楽」として読んでしまう。
 「声」は「肉体」から出てくる音。たいてい「ことば」といっしょに出てくる。ことばには意味がある(ことが多い)。水平線にひそんでいる「声」は「ことば」になりきれていない。「未生のことば」。それは音だろうなあ。やがてメロディーになり、リズムになる「音楽」の出発点。意味をもった「ことば」になるかもしれないけれど、意味にならなくてもいい。
 二連目の「意味を越えて」は、意味にならないまま、意味が抱え込んでしまう「枠(限界)」を越えてという感じかな。「未生のことば」が「未生」のままの「音」として、意味を追い越す、あるいは意味を突き破って動く。
 それは意味を「越えて」なのか、意味を「開いて」なのか。
 私は「開いて」という感じで受け止める。

 谷川が書いている「声」から少し離れてしまうのだが、私はときどき「日記」を書いていて不思議なことを体験する。私はもともと「結論」を想定せずにただ書いているのだが、書きたいことを書いてしまったあと、自分の「肉体」が中心からぱーっと開いて、そこからことばが無意識に動いてくるときがある。「肉体」がぱーっと開いて、ことばが誘い出されるときがある。
 高村光太郎は、ぼくの前に「道」はない、歩いたあとに「道」ができる、と言ったか、そういう「一本の道」という感じではなく、「一本」という「方向」と「前後」というものが消えて、突然、ただの「空間」に飛び出した感じ。
 書きながら、自分にはこういうことが書けるのか、と驚いたりする。ほんとうに自分のことばなのかな? いつか、どこかで読んだことばが「肉体」のなかから飛び出してきているだけなのかな? 誰かの文章を無意識に「剽窃」しているのかな?
 「無意識」というと変な感じだが、「無意識」だなあ。「意識」の枠にとらわれずにことばが動く。それまで書いてきた「意味」を無視して、ことばが勝手に動く。
 自分の考えてきた「意味」、動かしてきた「意味」を引き裂いて、自分の「肉体」の中心からことばが出てくる。それは、どこかから「声」が届く、というのに似ているかもしれない。

 それは、そのまま突っ走ることがある。
 でも、ときどき、一行も動かないところで、突然とまってしまうこともある。何かに「つまずく」。谷川が書いているように「意味」につまずくのかもしれない。「論理」につまずくのかもしれない。
 あれっ、これでは先に書いたことと矛盾してしまうなあ、と感じる。それが「つまずき」だな。
 あ、ここからは、「声」を「音楽」ではなく「ことば」と言いかえた方がいいのかもしれないなあ。「音楽」も「意味」を言い出すと、つまらなくなるから、「音楽」が「意味」につまずくでもいいのかもしれないけれど……。「未生の声(意味を持たない純粋な音)」が外に出てしまった瞬間から「ことば」になって「意味(論理)」をつけくわえられ、動きにくくなる。

 四連目の「声が沸く」とはどういうことだろう。「意味」につまずき、「意味」にじゃまされ、いらだって怒ること(怒りの感情が沸く)ことかな? そういうとき「ことばにならない感情」だけがあふれるスピードが速すぎて、「意味」はきちんとととのえられないまま、押し流される。「意味がこぼれる」とは、そういうことだろうか。感情の奔放な流れが、「意味」をしぶきのようにばらばらにしてしまう。
 こういうとき、そこに「感情」があるのはわかる。「意味」がわからないのに、「感情」はわかってしまう、という不思議なことがおきる。「意味」と「感情」をつかみとる「肉体」は別なものなのかもしれない。そして、変な言い方だが、「感情」をつかみとれたとき「意味」がわからなくても、納得してしまうということがある。(私の場合だけかもしれないが……。)
 「ことば(声)」は「意味(論理)」を気にしなければ、もっともっと豊かな「表現」を獲得できるのだろうなあ、と思う。
 でも「意味(論理)」を無視して「ことば(声)」が動きつづけるというのはむずかしい。どうしても「意味(論理)」に押し切られてしまう。社会が「意味(論理)」を優先しているからだろう。合理的に動くには「意味(論理)」が必要なのである。
 他人が主張する「意味」につまずいて、自分がもっている「意味にならない意味(未生の意味)」が感情に押し流されてばらばらにこぼれ散り、そのあと残っている「ことば」をととのえる。文字に書いて確かめる。もう、そこには「声」の豊かさ、はち切れるような充実はない。痩せた「肉体」のような「文字」と「意味」があるだけだ。
 あ、私は知らず知らずに、「声」を「ことば」に置き換えているなあ。「ことば」が「肉声」を失って(肉を取り除いた分だけ痩せて)、「文字」になると考えているなあ。

 で、「声」を「ことば」と考える--そういう方向に詩が動いているのは、谷川が「ことば」を「意味」だけでないと考えているということになるだろうと思う。(私は私の勘違いを、ひとのせいにする癖がある。こんなふうに思うのは、私に原因があるのではなく、そのことばを書いた人=谷川に責任がある、と問題をすりかえるのである。)
 谷川にとっては、ことばは「意味」よりも「声」に出したときに生まれる何かなのである。息を吸い込み、それを吐き出す。その吐き出す息を、喉や口や舌で変化させながら「音」にする。そのとき「肉体」全体が「音」にあわせて動く。反応する。言いにくい音、聞きたくない音を無意識に避けるかもしれない。自分の好きな音をゆっくりあじわいながら「肉体」がその瞬間を楽しむということがあるかもしれない。
 「声」には「肉体」がある。「肉声」とは「意味」に抽象化されてしまう前の、もっと個人的な「声」のことだが、具体的な「肉体」があって、そこからすべての「声」が動きはじめる。

 この詩の「声」は「ことば」と書き直した方が、論理的になるかもしれないが、谷川はそう書かないで「声」と書きつづける。

 ここでまた「声」を「音楽」にもどしてもいいかもしれない。音楽、耳で聞いた悦びを、文字(ことば)にすると、音楽のなかにあるいちばん豊かなものがなくなる。「文字」は音をもたない。音楽を文字で語りはじめると、音楽が「痩せる」。(すばらしい批評は「音楽」をもう一度記憶のなかで鳴り響かせるかもしれないけれど、それは「肉体」そのものを刺戟するわけではない。)
 谷川は「痩せた声(音楽)」は嫌いなのだ。「音楽」を痩せさせる「意味」が嫌いなのだ。「意味」ではないものに「音楽」を感じている。「音楽」を「意味ではない」と感じている。

 もうひとつ。
 谷川の詩でおもしろいのは、詩のなかで「主語」が微妙に、しかし、とてつもないスピードで動いてくということがある。
 この詩の場合、各連は「声が」ということばではじまり、主語は「声」のままだが、それは外見のことであって、実際に違う。「音(音楽)」になったり「ことば」になったりしている。
 (この変化を内部で支えているものを、谷川はタマシヒ、あるいはココロと考えているかもしれない。私は「肉体」と考えるけれど……。)
 そしてそれは「意味」とぶつかり、そのたびに変化する。ただし、その変化を「ここが変化しました」と谷川は書かない。説明を省いて、どんどん変わっていく。この変化のなかには、当然「時間」がある。「時間」があるのだけれど、それを省略して「一瞬」のように書いてしまう。「時間」と「一瞬」が結びついて、それが「永遠(真理/真実)」に結晶するような驚きがある。

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好みでなかった

2014-11-30 00:31:19 | 
好みでなかった

好みでなかった。
ぜんぜん洒落ていない
目の光が弱かった。
それが目立った。

手はコップを握り締めていた。
コップのなかにはひとつの考えも残っていなかった。
私と同じだ。
でもつきあってしまった。

腹が立った。
裏切ってやりたい。
だれを?
私の欲望を、

唇が乾いて割れていくのがわかった。
どこへ行く?
信じていない、
という顔をされた。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)

2014-11-29 10:15:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(22)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 ことばは不思議だ。意味がわからないまま、聞いたことばが(読んだことばが)気になって仕方がないときがある。意味がわからないから気になるのかもしれない。意味はわからないが、意味になろうとしている何かがあると感じるからかもしれない。
 きのう読んだ「さびしさよ」の最後の部分。

病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 どう読んでいいか、わからない。けれど「病み衰えた期待」ということばのなかにある矛盾、「ヘドロに溶ける未来」のなかにある矛盾--矛盾と感じてしまう何か。不自然なことばの結びつき。そのなかで「病み衰える」が「肉体」に直接響いてくる。「期待」は思い出せないが「病み衰える」という「動詞」が「肉体」に響いてきて、病気だったときのこと、苦しい肉体を思い出す。「ヘドロ」も汚い匂いとなって迫ってくる。「未来」はどんな匂いもないが「ヘドロ」は匂いとなって「肉体」に迫ってくる。
 その「肉体」の感じが「食べ滓をせせる」という「動詞」のなかで、さらに不気味に動く。食べ滓なんか食べるなよ、「せせる」なんて妙な「動詞」で食うなよ--と私の「肉体」は反応する。一種の拒絶反応だ。
 どんなことでも「動詞」を含んだことばにすると、それは「肉体」に響いてくる。「動詞」を含んだことばの運動は「肉体」をもつようになる。
 この、私がいま書いた「肉体」を「タマシヒ」と書き直すと、谷川の書いていることに近づくのかもしれない。どんなことでも、ことばにすると、それは「タマシヒ」をもつ。「病み衰えた期待/ヘドロに溶ける未来」「希望の食べ滓をせせって」ということばも、そのことばのなかに「タマシヒ」がある。この詩の最後が気になってしようがないのは、魂の存在を感じない私には、谷川の書いている「タマシヒ」が「肉体」と重なるように動くからなのかもしれない。魂を私は認めない。しかし、谷川のことばのなかには、私には認めることのできない(明確に認識できない)何かがある。
 --ここから、きのうの「日記」を書き直せば、また違ったことばが動くのだろうけれど、私は「書き直し」はしない。ことばが動いたままにしておく。きのうの「日記」を書かなければ、きょうの感想は生まれてこない。きのう書いて、一日過ぎて、別の詩の感想を書こうと思った瞬間に、ふと気になって書いた。「時間」のなかで、そういう変化が起きた。そのことを、ただ書いておく。



 「da capo」がきょう読む詩。音楽用語。広辞苑は「楽曲を初めから更に繰り返し奏せよの意」と定義している。きのう読んだ詩のなかの「音楽」が、ふと「肉体」のなかで動く。「もうどんな音楽も聞こえない」と「さびしさよ」のなかでは「音楽」が動いていた。「肉体(耳)」には聞こえないが「肉体の何か(記憶)」が音楽を聴いている--その記憶の音楽を沈黙が浮かび上がらせる。その音楽が「da capo」につながっている。
 その沈黙の音楽(沈黙の音楽、と書くと武満徹みたいだが)を、最初から繰り返そうとしているのか。

実が
土に落ち
腐り
種子は
土に守られ
芽生え
根を張り
枝を伸ばし
葉をひろげ
風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を実らせる

ヒトの耳には聞こえない
あえかな音楽が
きょうも奏でられている
この星の上の
いたる所で

 一連目は「ダカーポ」そのままに、自然の繰り返しが書かれている。二連目は、その繰り返しを認識するとき「音楽」が聞こえる、と言っているのだと思うが。
 私はひねくれているので、いろいろ考えてしまう。「耳には聞こえない」なら、それは「音楽」ではないのでは? 「あえかな」ということばを手がかりにすれば、聞こえるか聞こえないかわからないような「か弱い」音なのかもしれない。でも「あえかな」なら、聞こえるは、聞こえることになる。「聞こえない」とは断定できない。ここには何か奇妙な「矛盾」がある。「矛盾」をとおしてしか言えないことが書かれている。そして、それは「矛盾」なのだけれど、「ヒトの耳には聞こえない/あえかな音楽」ということばの運動(ことばの動き方)のなかに、「矛盾」でしか言えない「真実」のようなものを感じる。ことばにならないものを、ことばにしようとしてことばが動くときだけ、感じる何か。
 この詩集全体のことばの動きから言えば、「ヒトの耳には聞こえない」が、「タマシヒの耳」には聞こえる「音楽」のことを谷川は書いているだろう。谷川は「タマシヒの耳」とは言わずに、ただ「タマシヒ」と言うかもしれないが、私は「肉体」にこだわるので「タマシヒの耳」と、そこに「肉体」をくっつけて読み直すのである。ヒトの「肉体の」耳には聞こえない。けれどタマシヒの「耳(の肉体)」には聞こえる。
 「タマシヒ」と「肉体」が谷川の詩のなかで、重なり合う。

 この詩では、私はもうひとつ別なことばにも引きつけられた。一連目の「無言で花を咲かせ」の「無言で」。「無言」。
 植物はもともと「無言」である。人間のようにことばを話したりはしない。だから「無言で」は余分。いらない。あるいは、「間違い」。
 でも、それが「余分」であり「間違い」だから詩なのだ。余分(過剰)な間違いが詩なのだ。「ことば以前」(未生のことば)なのだ。--と書くと、矛盾してしまうが、こういう矛盾が「思想」である。別なことばで言いなおせば「肉体にしみついてしまっている行動様式/肉体になってしまった無意識」である。
 谷川は、どうしても「耳(音楽)」へと「肉体」が動いていく。いつも「音楽(音/ことば)」を聞いてしまう。
 この「無言」はこの詩のなかでは一回しかつかわれていないが、それはほんとうは何回も「無言のまま」つかわれている。省略された形でつかわれている。

実が
「無言で」土に落ち
「無言で」腐り
種子は
土に「無言で」守られ
「無言で」芽生え
「無言で」根を張り
「無言で」枝を伸ばし
「無言で」葉をひろげ
「無言で」風にあらがい
無言で花を咲かせ
実を「無言で」実らせる

 無数の「無言」を聞いてしまうので、こらえきれずに「無言で」ということばを書いてしまう。書かずには、そのことばの運動は終わらない。
 「無言」は「無言(葉)」、つまり「無音」。音以前の音。「未生の音」。
 「未生」なのかにある何か。
 それが「思想」の根源である。原点である。
 「未生」なのだから「ない」(分節されていない/未分節)。けれど、その「ない」は、こうやって「ある」というふうに書くことができる。「ない」が「ある」とき、そこに魂(存在しないもの)が存在する。
 またまた奇妙なことを書いてしまったが、こういうことと音楽(耳)を結びつけて谷川のことばは動いている。「実が/土に落ち……」という動きは図に書いてあらわすことができる(視覚化できる)が、その視覚化できるものの奥に谷川は聴覚を動かして何かをつかみとる。それが谷川の「癖(思想/肉体)」だと私は思う。



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模倣と剽窃

2014-11-29 01:02:44 | 
模倣と剽窃

自然が芸術を模倣するとき、
私は知らない家の庭にあふれる枯れた草花を見て
記憶のなかの本を剽窃する。

折れ曲がった茎に残った花びらの周辺が錆びている。
金属で造った花のように死を生き続ける私の花よ!

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)

2014-11-28 11:07:57 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(21)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「さびしさよ」は見開きのページに印刷されている。1ページにおさまらない行数ではないのだが、2ページに印刷されている。右のページは裏が少し透けて見える紙質。左は透けては見えない。そして、詩を読んでゆき、右ページから左ページにかわるところで、ふっと何かが変わる。それはほんとうにことばが変わったのか、それとも紙質の変化が影響して、何かが変わったと思ったのか--考えると、わからなくなる。印象(感想)は、ほんの少しの「外的」変化でかわってしまうものなのだ。

カーテンと絨毯(じゅうたん)は剥(は)ぎ取られ
椅子も戸棚も持ち去れている
金魚鉢さえ無くなって
がらんとした室内

さびしさよ
お前はどこまで行くつもりなのか
世界の果てなどありはしないのに
暖かいストーブに叛(そむ)いて
友人たちの思いやりから後ずさりして
もうどんな音楽も聞こえない夜に
さびしさよ
お前の地平があると言うのか

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点
病み衰えた期待
ヘドロに溶ける未来
さびしさよ
いま生きている証しはお前だけ
希望の食べ滓(かす)をせせって
この空間をお前のベールで隠しておくれ

 左右のページの分かれ目は、「もうどんな音楽も聞こえない夜に」の前にある。それまで私は「視覚」の詩を読んでいた。空っぽの室内を見ていた。そして、不思議なことにその「空っぽ」はカーテンや絨毯を想像し、そのあとそれを否定することで浮かび上がる「空っぽ」なのだが。
 「どこまで行く」「世界の果て」も地平線を見ながら歩いている感じがする。歩いているけれど、足が動いているだけではなく、「視覚」が動いている。いや、足は動かずに、遠い地平線を見ている(視覚)だけがあるのかもしれない。たどりつけない地平線を見ている目だけがある。
 そのあと、ストーブ、暖かい(温かい)、思いやりという具合に抽象的になって、「行く」も前へ進むではなく、「後ずさり」という具体的だけれど抽象的な(?)ことばを通って、「音楽」という「聴覚」が出てくる。
 この瞬間に、私は「はっ」と思う。
 「視覚」(見る)というのは具体的な何かを見る。カーテンや絨毯を見る。地平線を見る。「聴覚」というのも具体的なものを「聞く」はずなのだが、この詩には具体的な「音」がない。「音楽」がない。
 「もうどんな音楽も聞こえない」と谷川は書いている。
 でも、そう書いているにもかかわらず、私は「音楽」を聞いてしまう。
 「カーテンや絨毯も剥ぎ取られ」という書き出しにならって、そのときの「音楽」を書くと、「モーツァルトもマイルス・ディビスも剥ぎ取られ」という感じ。自分が好きな「音楽」がぱっと耳の肉に鳴り響き、それが消し去られ、そのあとに「沈黙の音楽」が鳴り響く感じ。
 「ない」が「ある」という感じ。
 こういう「抽象的(哲学的?/形而上学的?)」な「印象」というのは、何か「聴覚」の働きと関係があるのかもしれない。視覚は「消えないもの(存在)」を見る。そこに「ある」ものを見る。聴覚も、そこにある「音」を聞くのだが、音は目に見えるものとは違って、一瞬一瞬、あらわれては消えて行く。「ある」が「ない」になりつづけながら、その「ない」のなかに「消えたものがある」という形でつづいていく。
 「いま」そういうことが起きているのに、その「いま」は「一瞬」でありながら、「過去(聞こえた音、聞いた音)」と「未来(これから聞く音)」を無意識に動いている。「いま」なのに「いま」を突き破って動いている。
 「見る(視覚)」が空間的なのに、「聞く(聴覚)」は時間的である。
 そして、「音楽(聴覚)」が「時間的」であるからこそ、そこに「人生」が重なってくるようにも感じる。

 そうか。

 谷川が、なぜここで「音楽」ということばを書いたのかわからないが、私はなぜか「そうか」と思い、谷川の「肉体(思想)」に触れた気がしたのだ。
 「音楽」は谷川にとって「思想(肉体)」そのもの。だから、「さびしい」を何もない室内という「視覚」の描写で始めながらも、知らず知らずに「視覚」だけでは表現しきれない思いがあふれてきて、「音楽」と書いてしまうのだと思った。
 そして、その「音楽」に触れる前に、「地平線へ行く(進む)」と「暖かさ(ストーブ/思いやり)から後ずさる(後退する)」という矛盾した「動き」を衝突させ、その衝突する力で「異次元」へ飛ぶということをしている。
 「音楽」は、谷川にとっては「異次元」、「特別な次元」なのだ。
 「音楽」は谷川の「肉体」そのものになっているのだ。
 そういうことを、瞬間的に、私は感じ、「そうか……」と呟いてしまう。

 三連目、

世界が永遠のリフレインでまわっている
蛇口から落ちる水滴の句読点

 この二行は、「さびしさ」の瞬間、谷川が聞いている「音楽」の形。「リフレイン」でまわっている。果てしなく繰り返す。そして、そこには「句読点」がある。動きをととのえるリズムがある。はてしなく繰り返すのだけれど、それは切れ目のない連続ではなく、切れ目(句読点)の意識によって、ととのえられた世界。
 あ、美しいなあ。

 でも、そのあとの「病み衰えた期待」から最終行までは、私にはよくわからない。「この空間をお前のベールで隠しておくれ」の「空間」は、私が書いてきた「視覚は空間的である」ということと関係があるのかもしれないが、よくわからない。
 私のことばでたどりなおすことができない。
 何か、不気味なところがある。
 「希望の食べ滓をせせって」という「肉体」の動きが、「さびしさ」を不透明にする。それまでの「さびしさ」は何か透明で切ない感じがするが、(思春期の「さびしさ」を思ってしまうが)、「病み衰えた期待」からあとに出てくる「さびしさ」は、私の知らない何かである。
 谷川の「肉体」が前面に出ていて、その奥にある「さびしさ」がよくわからない。
 だから、というと、奇妙になるが。
 この詩は強い。きっと、いつかまた思い出す。思い出して、あ、あれはこういうことだったのかと、私の「肉体」が納得する。それまでは、「不気味」のまま、この本のなかにある。

おやすみ神たち
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高速バス乗り場

2014-11-28 01:20:39 | 
高速バス乗り場

高速バスを待っているあいだに私たちはだんだん似てくるのがわかった。
「いまカーブを曲がってきたのは空港へ行くバス、
十分待ったが、あと二十分待ってもこない。」
見知らぬそのひとに私は言いたくてしようがなかったが、
私の方をわざと見ないようにしている女もそう考えている。

右手、あの坂の方からバスはくるはずだが、
道路はどんどん出発点のほうへ向かって伸ばされいくので
バスはどうしても前へ進めない。
左手、銀行の角を曲がったところから始まる道路も
どんどん目的地へ伸びていくのでバスは永遠に目的地につけない。

聞いているかい? 聞かなくてもわかる
バス乗り場を地下のターミナルに変えてみれば状況が悪化しているのはわかる。
バスはヘッドライトをつけて何度もぐるぐるまわるだけだ。
止まろうとする瞬間に案内板の行き先が変わり、
またターミナルをまわり直さなければならない。

それは私が考えたことか、あるいは彼女が考えたことか。
高速バスを待っているあいだに私たちはだんだん似てくる。
頭の中で反芻しているのは私の声か、彼女の声か、あるいは別の誰かのあきらめ。
もう深夜の一時になった。ホテルへ帰る路線バスの最終便はない。
窓から見える月は欠けたところがない満月。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)

2014-11-27 10:26:18 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(20)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はテレビを見ないので又聞きなのだが、谷川俊太郎は阿川佐和子に「何かしてみたいことは?」と問われて「死んでみたい。まだしたことがないから」と答えたそうである。「死んでもいい」を読みながら、そのことを、ふと思い出した。

おれは死んでもいいと思う
まだ十六だから今すぐってわけじゃない
かと言って死ぬときをじぶんで選べないから
まあそのときが来たら
死ぬほかないんだから死んでもいい
生きているのがつまらないから
死んでもいいんじゃない
死ぬのが死ぬほどいやだってやつもいるけど
おれはそうじゃない
生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも
昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 明るくて気持ちがいい。二行目「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」が死を語りながら、死を遠ざけている。破滅的なにおいがしないのが、とてもいい。
 そのあと、「説明」がつづく。これが「論理的」。つまり、「意味」として「わかる」。谷川の詩の特徴は、この「論理性」にあると私はいつも感じている。
 「論理性」というのは「読者」を意識するということでもある。他人といちばん共有しやすいのは「論理」である。「論理が正しければ、その論理にしたがわなければならない」というふうに私たちは育てられるからかもしれない。「論理」はある意味では「他人」を束縛するものである。「他人」の行動を支配するためのものである。だから権力的でもあるのだけれど、谷川の「論理」はそこまでは動いていかないが、「意味」はよくわかる。
 「おれは死んでもいいと思う」と言ったあと、すぐに「まだ十六だから今すぐってわけじゃない」と否定するのも「論理」である。「わけ」は、ここでは「意味」という意味だろうなあ。「意味じゃない」と言うことで、「他人(読者)」が想像することをいったん否定し、その否定の先へ「論理」を動かしていく。言ったことの「意味」を補足すると言えばいいのか。
 ただし、「死んでもいいと思う」というような強烈な「意味」はなかなか説明しにくい。だから、ちょっとずつ「論理」がずれていく。
 「かと言って死ぬときをじぶんで選べないから/まあそのときが来たら/死ぬほかないんだから死んでもいい」というのは、「死んでもいい」と言っても「自殺する」ということとは違う。あくまで「そのときが来たら」。自然死というか、必然死のことを言っている。だから、「死んでもいい」というのは「死んでもいい」ではなく「死ぬのが怖くない」、「死を拒絶はしない」という「意味」になるかもしれない。
 詩のつづきを読むと、そのことがはっきりする。「生きる」が「死ぬ」と向き合う形で動きはじめる。そのハイライト部分、

生きているのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいが続くかも

 これは、詩の構造から言うと「起承転結」の「転」にあたる。「死んでもいい」の「ほんとうの意味(いちばん言いたかったこと)」は「生きているのがうれしい」である。「生きていること」を実感している。
 とてもうれしいことがあったとき、ひとはときどき「もう死んでもいい」と言うことがあるが、この感じに似ている。
 違うのは、この詩に書かれている「十六歳」はうれしくて大感激するようなことを体験してそう口走ったのではなく、「日常」のなかでそう言っているということ。そして、「死んでももしかするとうれしいが続くかも」と言うところが違う。大感激して「死んでもいい」と言うひとは、その「うれしい」がつづくとは思っていない。つづかないと思うからこそ、この「うれしい」の瞬間に、「死にたい」。
 さらりと書いてあるので、すぐ次のことばにつながって、書いてあったことを忘れてしまいそうになるが「続く」がこの詩の「思想(肉体)」である。いや、この本全体の「思想(肉体)」であると言えるかもしれない。(谷川なら「タマシヒ」である、と言うだろうけれど、私は魂の存在を信じないので、私が納得できる「肉体」ということばで書くのだが……。)
 「十六歳」が「続く」と言っているのは「うれしい」だが、この本のなかでは、すべてが「続く」という形でつながっている。最初のページから最後のページまで。そして、そこにはことばと写真と空白(あるいは色)がある。ときには裏側の写真、あるいは紙の向こうの写真が透けて見える形で「続く」。「続く」ことで「ひとつ」になっている。ことばと写真、空白(色)は別々な人間がつくったものであり、別々なはずの存在なのだが、どこかで「続く」。そして、それが「続く」ことが「うれしい」。こんなふうに「続く」のか、こんなふうな「つながり」があるのか、こんなふうに「続ける」「つなぐ」ことができるのか。その「興奮」が「うれしい」かもしれない。

 こういうことは書きすぎるとうるさくなる。(私はだいたい書きすぎるのだが。)
 で、谷川は「続く」ということばのなかに「肉体(思想/タマシヒ)」をしっかりと見せたあと、ちょっと「論理」をはぐらかす。脱臼させる。つまり、笑わせる。

昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ

 「十六歳」が語っていたのに、突然「じいさん」が死について語る。「死んでこまることはない」。うーん、だれが? たぶん「じいさん」が死んでも、「じいさん」が困ることはないということだろう。もう死とつながっている(続いている)から? よくわからないが「おれは死んでもいいと思う」と「死んでこまることはない」は呼応し合っている。「いい」は「こまらない」なのだ。納得した(腑に落ちた?)から「十六歳」は「じいさん」のことばをそのまま「結論」として、もってきている。
 自分で語らず、「他人」に語らせてしまう。あるいは「他人」の「声」をそのまま「自分の声」にしてしまう。「他人」を生きる。「十六歳」はこのとき「じいさん」を生きている。個別の「肉体」を超えて、「じいさん」の「思想」になる。--と書けば、私の書いている「肉体/思想」の「一元論」の押しつけになるだろうか。

 この詩でおもしろいのは、先に少し書いた「起承転結」の形式。起承転結を明確にするには、詩を「連」に区切って構成するといい。けれど、谷川はここでは「連」を避けている。さらに「じゃない」とか「かと言って」「きいたらさ」「だってよ」という口語をつかって、ことばをだらだらとつないでいる。「整理」を拒否して、思いついたままの「勢い」で書いている。「勢い」を残している。
 谷川の詩は「論理的」だが、その「論理」をことばの「勢い」で隠している。「勢い」で言っただけで、ほんとうは何も考えていない、という印象をつくり出している。
 これは詩の「超絶技巧」というものである。

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牛乳

2014-11-27 00:28:58 | 
牛乳

コップに牛乳を注ぎ暗い半分を飲んだ。
明るい半分は捨てた。

コップに牛乳を注ぎ明るい半分を捨てた。
暗い半分は飲んだ。

記憶の一部がまぎれこんだのか。
どちらが先だったのか本に書いてあったことがわからない。

シンクに残る水に薄められ
半透明の尾をひいて排水口へ動いていく牛乳。
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リチャード・リンクレイター監督「6才のボクが、大人になるまで。」(★★★★)

2014-11-26 21:57:09 | 映画
監督 リチャード・リンクレイター 出演 エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、パトリシア・アークエット、イーサン・ホーク

 家族の12年間を12年間かけて撮影している。脚本は、たぶん主人公の少年の変化にあわせて、その時その時でつくりあげていったのだろう。とても自然で、その自然であることに、この映画の力を感じた。ストーリーをつくらない。ただ、時間を描く。それも時間の経過とともに何かが変わる--その変わり方に焦点をあてるのではなく、そこに時間がある。日常がある、ということだけに焦点をあてている。
 だから見終わったとき、時間が、とてもあいまいになる。6歳のときに何があって、7歳のときに何があって……という「時系列」があいまいになる。母親が再婚して、離婚して、再婚してという「順序」は動かせないのだけれど、最初の再婚と次の再婚のあいだに「何年」があったのか、わからない。「いま」からふりかえると、それは同じように思い出される。--これは、現実に私たちが体験する「時間感覚」そのものである。10年前に体験したこともきのう体験したことも、それを思い出すとき、そこには「10年前」とか「きのう」という区別はない。時間の「隔たり」の差を無視して、となりあった形で思い出される。となりあったというよりも、同じ「時」のなかで思い出されると言った方がいい。「10年前」も「きのう」も「いま」という「一瞬」として思い出す。
 それを象徴的に表現しているのが、主人公が大学へ入るために家を出るとき母親の態度。母は再婚を繰り返しているが、気分は「シングルマザー」だ。ひとりで懸命に子どもを育ててきた。そして子どもが自分のもとから離れていくとき、その長い長い苦労が「一瞬」に凝縮してしまって、どうしていいかわからなくなる。あらゆる「体験」は「いま」のなかにある。12年という「時」が「いま」という一瞬になって噴出してきて、母親を揺さぶる。その動揺、その混乱にはこころを揺さぶられる。
 また最後の少年(青年?)が山頂で恋人に「なる」一瞬もおもしろい。二人は心情を具体的に語るわけではない。「好き」とか「愛している」とは言わない。何気ない会話のなかで、二人は二人の「過去(体験)」をなんとなく感じあう。母親が12年間を「一瞬」のうちに思い出し、混乱し、寂しさを感じたのに対し、二人は二人の「過去のすべての時間」が、「いま」という「時」のなかにゆっくりと滲み出てきているのを感じる。その「時」にゆっくりとなじみ、それを互いに受け入れ、気持ちが安らぐ。
 どんなに長い時間も、「いま」という一瞬のなかにあらわれる。どんな「過去」も「いま」なのだ。--そういう「哲学(時間論)」に迫る映画である。
 一回見た限りでは、どうしてもラストシーン(あるいはラストシーン近くの感動的なシーン)が「いま」になるから、それが印象を支配してしまうが、思い返すと、どの「いま」の映像も「過去」結びつきながら「いま」として、「そのとき」に動いていた。たとえば、母の二度目の再婚のあいての男が主人公に対して帰宅時間が遅いと怒る。ここはおれの家だ、おれのルールに従え、という感じ。その「おれがルール」という言い方は、その前の母の連れ合い、アルコール依存症の大学教授の男と同じである。その結果(か、どうかは明確には描かれていないが)、同じ「離婚」という結果(時間)へとつながっていく。「いま」のなかには、「過去」がしっかりとからみついている。「いま」は「過去」を含めて「いま」なのである。
 こういう「時間論」を描いた映画のなかで、イーサン・ホークのキャラクターの変化はとても興味深い。だらしなく、無責任だった父親が、だんだん落ち着いてくる。無邪気な「こども青年」から「父親」に着実に変化していく。映画はイーサン・ホークに焦点をあてて進むわけではないので、彼の「いま」にどんな「過去」が噴出しているのかわかりにくいが、同じことが起きているのだということは感じられる。こどもの成長(6歳の少年とその姉の成長)にあわせて、彼自身が「おとな」になっているのである。
 象徴的なのが、娘と恋人の話をするシーン(ファミリーレストラン?)。イーサン・ホークはボーイフレンドとセックスをしてもいいがコンドームをつかえ(避妊しろ)と注意する。こういうことは父親が娘にいうようなことではないだろうけれど、(たぶん娘に対しては同性の母親が注意することなのだと思うけれど)、イーサン・ホークはそれを語らずにはいられない。イーサン・ホークの「過去」が、そのとき噴出しているのである。イーサン・ホークとパトリシア・アークエットは避妊に考えが及ばなかった。その結果、姉と主人公の少年が生まれた。それはそれで「悪い」ことではないのだが、そのことがイーサン・ホークとパトリシア・アークエットをつまずかせた。そう語りながら、イーサン・ホークは少し「成長」する。
 この変化を具体化するイーサン・ホークの演技はすばらしい。母親の、ラストの悲しみの演技が「一瞬」を強調することで胸に迫ってくるのと対照的に、イーサン・ホークは長い時間のなかで「過去」を少しずつ思い出しながら成長していく。この映画の隠し味になっている。
                     (2014年11月26日、ソラリアシネマ9)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/


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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)

2014-11-26 10:52:59 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(19)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「仮に」は「露骨」な詩である。「露骨」と書いてしまうのは、そこに動いている「論理」が強すぎるからである。論だだけが動いているようにも見える。意味をつくり、意味で読者を感動させようとしているようにも見える。「意味」が「露骨」なのかもしれないなあ。

私は知っている
タマシヒを語る資格はないということを
そんなもの誰にもないということを

でも騙(かた)らずにはいられない
名辞(めいじ)以前を統(す)べる見えない力が
自分を生かしていると信じるから

仮にそれをタマシヒと呼んで
私は自分を解き放とうとしている
金銭がもたらす現世の諸々から

 「タマシヒ」の存在は信じないが、ものの名前以前(名づけること/分節以前)の世界を統一する力があって、その力が自分を生かしている。その力は「名辞以前のもの」なので「名前」はない。仮に谷川は「タマシヒ」と呼ぶ。それが谷川を「現世」から解き放つ。
 そういうことが書かれているのだが。
 私は、その「意味」を少しひねくれた角度から見てゆきたい。
 この「論理」のなかで私がおもしろいと感じるのは、「騙る」ということば。
 「かたる」は「語る」であり、「騙る」でもある。「語る」と書いたとき、そこにはほんとうも嘘もある。「騙る」は嘘しかない。「騙る」は「だます」でもある。「だます」は「騙す」と書く。
 でも、だれを。
 「他人」を「騙す」と同時に「自分」を「騙す」。タマシイはない、と「私(谷川と仮に仮定しておく)」は知っている。だからその知っている「私」をまず「騙す」。タマシヒはあると、言い聞かせる。それから「理由」を探す。タマシヒがあるという根拠を探す。
 しかし、ないものは探したって、ない。だから、違うことをする。「論理」でつくりだしてしまう。「ない」のだから、「ある」にするにはつくりだすしかない。その「ある」を生み出すのが「論理」である。ほんとうは、そのとき何かをつくりだされたのではなく、何かをことばのなかにつくりあげたようにみせかける「論理」があるだけなのだが……。
 谷川はこの「論理」なのかで、ふたつの「虚(存在しないもの)」を衝突させている。ひとつは「名辞以前」。「名前」とは「未分節」の世界(混沌)から「もの」を「分節」したもの。名前がなければ、そこには分節はない。「未分節」。この「未分節」は、「ある」とはいわずに「ない」として処理するのが論理の経済学である。
 もう一つの「ない(虚)」は「見ない力」。見えないのだから「ない」。「ない」と意味を「分節」してしまうとなにかがあるように見えるが、そこには「論理」があるだけで、何も「ない」。
 しかし、ことばは不思議なもので、そこに「ない」ものを「ない」ということばをつかって「思考」のなかに存在させてしまうこともできる。「思考」は「論理」になって共有され「ある」が確固としたものになる。
 「ない」が「ある」。「ない」を定着させる「論理がある」。
 そして、この「虚」と「虚」の衝突は、一転して「実」に転換する。ことばの経済学ではなく、ことばの化学反応、あるいはことばの「理論物理学」のようなものか。
 「ない」と「ない」が「論理(ことば)」のなかで、「ある」もののようにしてぶつかりあって、そのときに生じる力が「自分(私)」を生み出す。「肉体」を生み出すのではなく、別なことば(思考)を生み出す。「ない」が「ある」と考える力が、「自分」というものになる。「自分(思考)」になって生まれる。これは先に書いたように、単にそういう「論理」が生み出されているだけなのだが……。

 こういうことは「正確」に書こうとすると、ごちゃごちゃしてしまうので、書き飛ばしてしまうしかない。書き飛ばしながら、次の機会に、そのことばがととのえられるのを待つしかない。

 谷川はタマシヒを信じない。けれど、「ない」ものをも語る(騙る)ことができる。ことばは「ない」ものをも「ある」という形で表現できる。そういうことをしてしまうことばが「ある」。そして、それが「自分を生かしている」と信じる。
 「ない」ものを「ある」というだけでは矛盾してしまうので、その「ないもの」を仮に「タマシヒ」と呼ぶ。「ある」と騙してことばを動かすと、そこに「論理」が生まれてくる。人は「論理」を信じてしまう。
 馬鹿だから--とは谷川は書いていないが。馬鹿だから、という感想は私の勝手な脱線なのだが、人間はついつい「論理」にもたれかかってしまう。論理なんてでっちあげだから、そんなものは「ない」、私はそれを信じない、と言えばいいのに、人間はなかなかそういうことができない。--馬鹿だから。

 脱線した。
 谷川は、私とは違った具合に考える。違った人間なのだから、違った具合に考えるのが当然なのだが。
 どう考えるか。
 「ない」を「ある」と主張するとき、その「ある」に美しい名前をつける。「名辞」する。「分節」する。そうすることで、自分を美しい世界へ解き放つ。「名辞以前」を統治する力が自分(私/谷川)を生かしている/谷川は生かされているのだが、そこに自分自身の「名辞する」という動詞としての自分を動かす。見えない力に統治されるままでいるのではなくて、自分で自分を動かす。そのために「ことば」がある。
 「ことば」は谷川にとって、自分を生み出していく「方法」なのである。
 どんなふうに生み出すか。
 繰り返しになってしまうが「タマシヒ」という美しいことばをつかって、谷川自身を美しく生み出す。「魂」や「たましい」「タマシイ」ではなく、「タマシヒ」という独特の表現をつかっているのは、そのことばのなかに谷川が生み出したことばであることを刻印するためかもしれない。
 この「生み出し」を谷川は「解き放つ」と書く。
 それは、そこまでの論理を追った限りでは、名辞以前から始まる世界を統治する力からの解き放ちであるはずなのだが、谷川は、そのことを一瞬どこかへ押しやって、

金銭がもたらす現世の諸々から

 と書く。金銭で動いている現世から、金銭に支配されない美しい世界へ、ということだろう。
 この最終行は、それまでの「論理」からいうと「嘘」なのだが、この嘘のつき方が谷川は巧みだ。哲学的なややこしいことを書いていたのではなく、現世の、平凡なことを書いているだけなんですよ、とシラを切ってしまう。
 ここに何といえばいいのだろう、「露骨」な何かがあって、それが、それが魅力でもある。露骨なものだけがもちうる親近感(密着/接続感)がある。
 そうだよね、金銭で動いている現世はいやだよ、そういう世界じゃなく美しいタマシヒの世界で遊んでみたいよなあ。読者(私)は納得してしまう。

 ところで、この作品の右ページは真っ暗(真っ黒)。真っ暗と書いてしまうのは、その前のページ(裏のページ)が夜の猫の写真だからである。猫は葉っぱの影に目を隠している。その隠した目で、葉っぱの向こうの闇をみつめたら、こういう具合に真っ暗なのだろうか。
 そして、その真っ暗は、谷川のタマシヒが脱出してきた世界なのかな? タマシヒを真っ暗から取り出して、白い紙の上にすくい上げたのかな?
 この詩を書いたとき、谷川は、詩が印刷されている白いつるつるの美しいページを夢みていたのかな。それとも何も見えなくて、右ページのような、真っ暗ななかにいて、その暗闇のなかでことばを動かしていたのかな?
 そんなことも考えた。

おやすみ神たち
谷川 俊太郎,川島 小鳥
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坂道--小倉金栄堂の迷子

2014-11-26 01:25:38 | 
坂道--小倉金栄堂の迷子

本のなかの坂道をのぼると、
街灯のひかりが石畳の石の一個一個の丸みを磨いていた。
「しばらく前に雨が通っていったからだ」
前を歩いているひとのことばはそう翻訳されていたが、
「この坂を上までいっしょに歩いてみないか」という意味だとわかった。
並んで息をあわせると坂道は古めかしい漢字の名前に変わった。
そして坂の上の小さなホテルの前ではまた聞き慣れないカタカナの通りに。
受け付けの男が椅子を出して座っていた。たばこを吸うと、
その周辺に男の表情が広がるのが見えた。
「きょうはここまで。またいつか別の坂道で」
目を見ないまま、そんな意味のことばを聞かされて、
私は前に長くのびる影を追いかけるようにして来た道を下った。
背後、二階の部屋の明かりがつくのを見なかったが、
本のなかでは私は明かりがつくまで佇っているのだった。

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近藤久也『オープン・ザ・ドア』

2014-11-25 11:46:56 | 詩集
近藤久也『オープン・ザ・ドア』(思潮社、2014年09月10日発行)

 近藤久也『オープン・ザ・ドア』は文体がしっかりしている。「うなすな」は妻の父に会いに行ったときのことを書いている。

岳父とは
話した記憶がない
列車を乗り継ぎ
訪ねた日
近くでとれたという蜂の子のごはん
泉水の鯉の洗い
うまいだろうと言うので
黙々と食べ
つがれるままに
飲み続けた
ごはんのうえの
足長蜂の折れ曲がった足
障子の向こうの泉水に
流れ落ちる裏山の水

 書き出しがとても印象的だ。「岳父」。
 私は「岳父」というようなことばを自分ではつかったことがない。「義理の父親」、あるいは「妻の父親」という具合に言ってしまうが、私の言い方だとことばがもたもたする。人間が二人出てきてしまう。「妻」と妻の「父」。けれど、近藤の言い方では、「二人」にならずに、「妻」を経由せずに、突然「その人」が出てくる。
 わかりきったことは言わない。わかりきったことは省略する。省略して、もし意味が通じなくても、そんなことは気にしない。
 ことばに「むだ」がないのだ。
 「むだ」とは「論理」のことかもしれない。近藤は「論理」を省略して、事実だけを「もの」として書く。この姿勢(書き方)がゆるぎがないので「しっかりしている」という印象が生まれる。
 どこがおもしろいのか、と問われると説明に困るが、この説明に困るくらいむだがないことばの組み合わせがおもしろい、としか言いようがない。

妻づてに
戦中潜水艦の料理人で
カレーライスのあとに熱いお茶をだしたら
即座に上官になぐられたと
てきぱき、きっちりと
事を進めねば気の済まぬ性質(たち)
動くまえに言葉を並べると
うなすな言うなが口癖

 「うなすな言うな」は方言。その説明は書かれていない。「うなすな言うな」を標準語で言い直し、「説明(論理を分かりやすくする)」にしようとしていない。
 「論理(説明)」は書かれていないが、状況から「意味」はわかる。「意味」というのはだいたい、そういうものだろう。ことばで説明してわかるのではなく「状況」がわかって、その「状況」に「肉体」がなじんだときに、ことばをつかわずに納得する。それが「わかる」なのだから、説明する必要はない。
 そういうことがわかっているのから、近藤は「意味」を書かずに「状況」を書く。その姿勢が一貫している。
 「性質」を「せいしつ」と論理的(精神的/抽象的?)に読まずに「たち」と読んでいるものいい。「たち」の方が「なま身」の「肉体」が動く感じがする。「肉体」は眼で見える「状況」でもある。「せいしつ」は「肉体」の内部で動いている目に見えない精神的状況かも……。
 目に見える「状況」に限定してことばを動かす、むだなことは言わない--これは、なかなかむずかしいことである。
 このむだなことばをつかわないという姿勢は近藤だけではなく、近藤の周囲で実践されているらしい。「岳父」だけではないらしい。

大学生の娘は
誠実な人なんですとしたためると
返事を待たず
大阪で
くらしはじめた

 大学生だった娘(岳父の娘、つまり妻)は、父に近藤のことを「誠実な人なんです」と手紙を書くと、その返事も待たずに近藤といっしょに大阪で暮らしはじめた、結婚生活に入ったということなのだが、ことばが速くて、とても気持ちがいい。
 で、こういうてきぱきとしたことばに冒頭の「岳父」というちょっと古めかしいことばが実に似合っている。すべての「もの(こと)」と「ことば」が一つずつ直結していて、脇へあふれていくことがない。
 「現代詩」はことばを踏み台にして、ことばから逸脱していくことばの運動(変な言い方だが)をするものが多いのだが、近藤は、そういう風潮から離れた場所で、独自にことばを動かしている。
 潔癖で、いさぎよい。だから、気持ちがいい。

 むだがないと、味気ないか。いや、そんなことはない。「芽吹く」という詩。

口あけて
板にねてると或る日
妻はつぶやく
唇は閉じるためにあると
けれど
唇は開くためにあるのだと
わたしは断固
反対だ

若いころ彼女は
唇は開くためにあると
いったようにおもう
そのころは
なにかのために
あることに
わたしは断固
反対だったが

 何が書いてあるのかな? 布団ではなく板の間にうたた寝していると、「口をあけて寝ている姿がみっともない。口を閉じたらどう。口(唇)は閉じるためにある」と妻が非難したのかもしれない。
 でも、若いとき彼女は(!、「妻」ではなく、まだ「彼女」だった時代は)、「唇は開くためにある」と言った。それはキスして、ということだったのかもしれない。そのこと、近藤は「……のためにある」というような「論理」が嫌いだったようだ。単純に「キスして」と言えばいいのに、「論理」を持ち出してくることがいやだったのかもしれない。
 詩の文体、その「論理」を排除したことばの運動を読んでくると、そんなことも思ってしまうが……。
 でも、いまは「唇は開くためにある」と言ってキスをしたときことを思い出している。キスの味を思い出している。
 その三連目。

時は過ぎ
かたちは
記憶にすぎないが
手触りはのこる
未だやわらかい
彼女のうちがわと
わたしのうちがわにも
唇はおもうために在り
唇はおもうために無いのだと
ひわひわと
疑念が芽吹いてくる

 近藤が何を書こうとしたのか、私は、無視してしまう。無視して「彼女のうちがわと/わたしのうちがわ」ということばのなかにキスしている二人を思う。下が唇の内側(つまり、口のなかなんだけれど)をまさぐっている。やわらかい「肉体」の内部をまさぐっている。「やわらかい」と感じている--そのときのエロチックな感じ(疑念、だそうである)を思い出している。
 「肉体」が見える、というのはいいことだ。

オープン・ザ・ドア
近藤久也
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(18)

2014-11-25 10:06:07 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(18)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「吃音(きつおん)以前」は一瞬のドラマを見るよう。

「あ そう」と言って私は黙った
その沈黙が自分でも分からない
ツイッターにもブログにも
言葉は吹きこぼれているのに
午後の凪(なぎ)のような私の無言

あなたは待っていた
吃音以前の私をみつめて
だが言葉はもうブラックホールに落ちていた
仕方なく心の上澄みから拾って
「ごめんね」と私は言った

 どうして「あ そう」と言って、その後沈黙してしまったのか。「あ そう」と言わせたことば、状況はどういうことなのか、わからない。だから、わかる。その後の「沈黙」のどうしようもなさが。
 このとき、私は谷川が「見える」。しばらく黙っていて、「ごめんね」というまでの谷川が「見える」。でも、それは谷川のことが「わかる」というのではない。谷川のことが「わかる」のではなく、私の「経験」がわかる。「経験」が私の「肉体」のなかでめざめる。動く。
 こういうことは詩にかぎらず、あらゆる芸術に触れるときに起きることだと思う。
 人は自分の「肉体」がおぼえていることしか理解できないのだと思う。自分がおぼえていること、おぼえているけれど自分ではことばにしたことがない--そういうことを他人のことばで読んだとき、「あ、わかる」と思う。これが私の言いたかったこと、と思ったりする。

 この詩の不思議さは、終わりから二行目の「仕方なく」。うーん、正直だなあ、と思う。そこまで正直に言わなくてもいいのでは、と思い、またそこに正直があるからこそ、「わかる」という気持ちが強くなっているのも感じる。
 「仕方なく」と、そのあとにつづく「心の上澄みから拾って」がなかったら、「わかる」という感じは少し違ってくるかもしれない。
 言いたいわけではない。けれど言わなければ、この状態がつづいてしまう。それは、いやだなあ。この逡巡が「仕方なく」にこもっている。
 ここが、この詩のいちばん美しいところだ。

 この突然の「沈黙(無言)」を「吃音以前」と呼んでいることもおもしろい。吃音とは言いたいという欲望が強すぎて、それを制御できないために起きることだろうか。ことば(音)は肉体から出て行く。けれど、その音を押し出そうとする力が強すぎると、その力を抑えようとして肉体(発声器官)が乱れる。発声器官を動かす順序が違ってしまい、スムーズな音にならない、ということだろうか。
 そうすると、吃音を経験したことのない人間は、「言いたい」という欲望がほんとうはそれほど強くないということか。吃音をおこすひとより、ことばを音にしたいという欲望が弱いということか。
 「沈黙(無言)」は言いたいという気持ちがぱたっと途絶えてしまうことかもしれない。言いたいことはあった。けれど、言うという欲望を諦めたときに「沈黙(無言)」が始まるのかもしれない。
 「仕方なく」ということはば、その「諦め」をも拾いあげているように思える。

 この「吃音以前」の前のページ(右ページ)は空白。真白。そして、詩の裏側は暗い星空。星が動いていて、星ではなく暗い空から降る雪や雨のようにも見えないこともない。でも、やっぱり星だろう。
 仕方なく「ごめんね」と言うとき、タマシヒは、この暗い星空を見ているのだろうか。その隣(左ページ)には塀の上の白い猫。目が(顔が)葉っぱに隠れていて、見えない。「ごめんね」と言ったまま、「仕方なく」というこころを隠しているときのひとの姿(谷川の姿)のようにも見える。猫は見上げていないけれど、その背後にはブラックホールと星がある。
 --と、「意味」にしてはいけないのかもしれないが……。

おやすみ神たち
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手紙、

2014-11-25 01:00:16 | 
手紙、

秋が過ぎていく間、引き出しのなかで眠っていた手紙は
冬を思いながらどんな悲しみを遠ざけようとしているのか。

青いインクで書かれているあの場所では、
本を何冊かかかえてきた男が夜についての文章をあつめていた。

「暗さを映して光る川のそばをとおる時、あの故郷の川から
どうやってこの街までやってきたのか思い出せない。」

折りたたまれた紙の谷間で文字がかすれ
罫線は、もう歩くことのない道のようにどこまでも真っ直ぐだ。

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