詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則「磊は打倒されなければなりません」

2008-11-30 15:17:58 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「磊は打倒されなければなりません」(「現代詩図鑑」2008年秋号、2008年11月01日発行)

 松岡政則「磊は打倒されなければなりません」は不思議な詩である。不可解な詩である。書かれていることがよくわからない。
 書き出し。

センセイにはがっかりしました いいえそれ以下です センセイはがっかり以下でした あの時センセイがあわてられたミツイシを ぼくは知っているのですよ ミツイシは空音ではありません 男女の態でもありません あれは燃え盛る一軒の家 炎によってくる蛾の群舞 センセイはそのことに気づいておられたはずです

 登場人物は「センセイ」と「ぼく」。「ぼく」は「ミツイシ」について語っている。「ミツイシ」とは何か。詩のタイトルにある「磊」か。こころの大きな様子か。「磊」を「ミツイシ」と呼ぶのはなぜか。まったく不可解である。
 わからないけれど、わかることもある。「ぼく」が「センセイ」に落胆している子である。落胆を通り越して、怒りすら覚えている。そのことはよくわかる。読み進めば読み進むほど、「ぼく」が「センセイ」に対して怒りを抱いていることがわかる。信じていないことがわかる。

センセンはもう以前のセンセイではありませんでした。 その話しぶりもどこか不潔で 捩くれた悪意さえ感じました それには気づかぬフリで ぼくがへらへらと笑っていたからでしょうか オ前ガソウ言ッタト噂デ聞イタケド 本当ノトコロハドウナンダ あの時センセイは同じことを二度訊かれました それはセンセン自身がそう思っておられるということです その人をなめ切った驕慢な態度といい 濁った眼の奥のうすく笑っているといい 血くだが煮えくり返りました いいえ血のかたまりのような躰でした 

 「ぼく」の不信感、怒りだけがあざやかに浮かび上がってくる。そして、それがあざやかになればなるほど、何を言っているかがわからない。
 「センセイ」と「ぼく」。そのどちらが松岡の立場なのか--それもわからない。

 そして、不思議なことに、わかることと、わからないことがあるということが「世界」なのだというこが徐々に身体に迫ってくる。「ミツイシ」が、たとえば、標準語(?)、あるいは辞書にあることばに置き換えられたとしても、それで事実がわかるわけではないということが、身体感覚として伝わってくる。
 引用した途中に「血くだ」ということばがあった。「血管」のことだろう。「ぼく」は「血管」を「血くだ」と呼んでいる。その一方で「驕慢」ということばも知っている。「ぼく」のことばのなかには、「ミツイシ」もそうだが、何か、標準語、あるいは辞書のことばを超えるものが含まれている。そして、その標準語、辞書のことばを超えるものを、「センセイ」は的確につかみ取ることができない。同じように、読者の私も、それを的確にはつかみ取れない。ただ、それが何か、標準語や辞書のことばを超えるということだけをひしひしと感じる。
 その、標準語、辞書のことばを超えるものを、「ぼく」も実はよくわかっていないのかもしれない。そういうものをあらわすことばがあるとは思えないのだ。だから、知っていることば、間違っていることばで、それでもなお語ろうとするのだ。この熱いこころ、ことばにならないもの、ことばをこえるものをことばにしたいという思い--そこに、詩は、詩の出発点はあるはずだ。
 松岡が書こうとしているものは、そういう詩の形、詩の原始の形かもしれない。

 「ミツイシ」や「血くだ」という不可解なことばの一方、「ぼく」は間違いのない(?)ことばで、借り物ではないことばで、強烈なことを言う。先の引用の直後。

ぼくはぬるりとしたものがいつ口から漏れ出すかと 気が気ではなかったのでした

 借り物のことばをすてたとき、ことばは、こころにふれる。こころとは「肉体」のことである。ことばは「肉体」のなかにある。
 もし、「センセイ」が松岡なら、松岡はそのことを「ぼく」から学んだのだ。そして、「ぼく」が松岡なら、松岡はそのことを「センセイ」に伝えたいと真摯に願っている。そのことがあったときから、ずーっと、ただひたすら願っている。
 わけのわからないことばと、肉体。ことばは肉体を通ってくる。必ず、肉体を通る。だから、それは「頭」のことば、標準語、辞書のことばのように、透明で、無害で、流通しやすいものではない。真実を語ろうとすればするほど、ことばはわけのわからないものを含んでしまう。そして、そのわけのわからないもののなかにこそ、本当のことがある。ことばを超えるもの、流通していることば(標準語、辞書のことば、「頭」のことば)を破壊するものが、そこにある。矛盾した言い方だが、そういうものこそが、ことばになる瞬間を、詩になる瞬間を待っている。

 松岡のこの作品は、そういうことばへ、じわりと接近していく。それは、もしかするとたどりつけない場所かもしれない。けれど、たどりつけなくても、そこに近付かなければならないのである。--それが、たぶん詩人・松岡の決意というものだろう。




草の人
松岡 政則
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(22)中井久夫訳

2008-11-30 00:07:52 | リッツォス(中井久夫訳)
歩み去る   リッツォス(中井久夫訳)

彼は道の突き当たりで消えた。
月はすでに高かった。
樹々の間で鳥の声が布を裂いた。
ありふれた、単純なはなし。
誰一人気を留めぬ。
街灯二本の間の路上に
大きな血溜まり。



 内戦の1シーンだろうか。簡潔な描写の間にあって、「樹々の間で鳥の声が布を裂いた。」がさらに凝縮している。鳥の声そのものが布を裂くわけではない。その声が布を裂いたときのように聞こえるということだ。そして、この「布を裂く」という比喩が、そのまま惨劇を想像させる。ひとが殺される。おそらくナイフで。そのとき、肉が切られる前に衣服が切られる。布が裂ける。鳥の声の中に、殺人が準備されているのだ。そういう描写があるからこそ、「血」が自然に存在することができる。非情な風景として。
 月は最初から非情な存在である。街灯は人間が設置したものだが、それは非情を通り越している。人間が作り上げたものは、孤独をいっそう厳しくする。ひとは月とは孤独な対話をすることができるが、街灯とは孤独な対話ができない。その街灯が「二本」ならなおのこと、人間と街灯との間には対話は成り立たない。街灯は街灯と対話している。目撃したことを。二本の足元にひろがる、その血の色について。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェルナンド・メイレレス監督「ブラインドネス」(★★★-★)

2008-11-29 02:59:37 | 映画
監督フェルナンド・メイレレス 出演 ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、ガエル・ガルシア・ベルナル、伊勢谷友介

 突然、失明する。感染症の病気である。ただし、眼科医の妻だけは失明しない。--という粗筋(予告編の知識)で、映画を見はじめる。そして、見はじめてすぐにこの映画の鍵に気がついてしまった。メッセージに気がついてしまった。こういうのは、興ざめである。で、★3個-1個=★2個というのが私の採点。

 何に気がついたかというと。
 眼科医が不思議な失明患者を診察する。そして帰宅する。食事は上の空。妻だけがワインを飲む。この、ワインがこの映画の重要な鍵。妻が失明しなかったのは、このワインのおかげ。
 ワインにどんな意味があるか。どんな伏線が隠されているか。それは、最後にわかる。眼科医の夫婦を中心にした何人かが悲惨な隔離病棟から脱出し、無事に帰宅する。(この、帰宅にも意味がある。)そして、「よかった、よかった」と祝福のシャンパンを飲む。
 その翌日。最初に失明した、伊勢谷友介が、突然失明から回復する。視力を取り戻す。ワイン、あるいはシャンパンは、いわば「よかった、よかった」という一家団欒の祝福(若い)の象徴である。伊勢谷友介が視力を取り戻す前の夜、いっしょにシャンパンを飲んだあと、妻と会話する。そのなかで、妻は、「初詣、寒かったけれど楽しかったよ」という。二人が失明したとき、隔離病棟で伊勢谷友介は妻に対して初詣の話をしかけるが、「こんなときに、そんな話」と妻に拒絶される。そういう対立を超えて、和解したというのがシャンパンに象徴されている。
 類似したことが、実はワインのときに描かれている。ジュリアン・ムーアは料理をつくり、デザートを出す。マーク・ラファロはそれを十分には味わえない。診察した不思議な失明患者(伊勢谷友介)のことが気になっているからである。デザートも「ティラミス」を「タルト」と間違える。上の空なのである。その、崩れた団欒の中にあって、ジュリアン・ムーアは、それでも夫を受け入れ、ひとりワインを飲む。いわば家族の団欒、家族の和を守る。ワイン、シャンパンには、そういう「意味」が隠されている。
 隔離病棟でジュリアン・ムーアがひとり奮闘するのは、やはりそこにいる人々の「和」というものである。全員をつなぎとめ、いっしょに生きようとする力が彼女を支えている。その象徴的な事件が、夫と病棟で出会った女のセックスを目撃しても、それを許すところにあらわれている。他者を非難しない。身内を非難しない。ひとには、それぞれの行為の理由がある。ワインを飲まなかったのは、患者のことが気になっていたから。女とセックスをするのは孤独に苦しんでいたから。妻は、妻ではなく、病棟の「母」、あるいは看護婦としてふるまっている。自分だけの妻ではない、というさびしさに耐えられなかったから。そう、受け止め、夫を許す。夫の行為を受け入れる。ジュリアン・ムーアは「和」を大切にしている。「和」を「思想」の基本に置いているのだ。

 この映画は、いわば「和」が重要であるというメッセージをもった映画である。メッセージ映画である。メッセージ映画がいけいなというわけではないが、ちょっと楽しくない。メッセージなどなくていい。突然、人間が失明する。そのとき、どんな行動をとるか。どんなことが起きるか。それをただリアルに描くだけでいいのではないか、と私は思ってしまう。
 暴力が人間を支配し、マッチョ思想が世界を支配し、その世界の中にも人種差別があり、さらには途中失明ではなく最初から盲目だった男が盲目であることを利用するという姿まで描いている。そうしたリアルな人間模様だけなら、この映画は傑作になったと思う。そういうリアルな人間模様だけでは救いがないということなのかもしれない。しかし、もし、感染性の失明が社会に蔓延したとき、「和」こそが生きる道という「思想」がほんとうにこの映画のように人間を救い出すのか。そういう思想に人間は簡単にたどりつけるのか。それが、とても疑問なのである。
 なんだか安易なメッセージに思える。メッセージが安易に浮き彫りになる映画は、映画ではないように、私には思える。映画をメッセージで汚れれたくない、という夢を私はもっている。



フェルナンド・メイレレスの映画を見るなら、次の作品をどうぞ。

ナイロビの蜂 [DVD]

日活

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(21)中井久夫訳

2008-11-29 02:06:33 | リッツォス(中井久夫訳)
屈伏   リッツォス(中井久夫訳)

彼女は窓を開けた。風がどっと彼女の髪を打った。
髪は、二羽の大きな鳥のように肩に止まった。
彼女は窓を閉めた。
二羽の鳥は卓子の上に落ちて彼女を見上げた。
彼女は二羽の間に頭を埋めて静かに泣いた。



 長い髪。センターで分けている。その女が、窓を開けて、また閉めて、テーブルにうっぷして泣く。その様子を、なぜ泣くのか、そういう説明もなく、ただ描写している。
 「鳥」の比喩が悲しい。
 彼女は、彼女のこころは鳥になって、遠くへ飛んで行きたい。恋人に会いに行きたい。恋人を追いかけて行きたい。それができずに、ただ泣くだけである。
 繰り返される「二羽」の「二」が、この悲しみ、この孤独を強調する。髪でさえ「二羽」というペアなのだ。彼女だけが、「二」(恋人と彼女)から切り離されて「一」なのである。

 繰り返されることばには、繰り返される理由がある。意味がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」

2008-11-28 09:30:30 | 詩(雑誌・同人誌)
阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」(「ひょうたん」2008年08月25日発行)

 阿蘇豊のことばはていねいに動く。「白い一本と紙のマッチ」の前半。

ぼくの前にはティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン
「DUG」と印刷された紙マッチと「Dawadoff」と読めるタバコの白い箱

ぼくの前にあるものは
決してそれだけではないのだが
見られることによって初めて生まれる
在るという動詞

いま、白い箱を開けて白い一本を取り出せば
「ティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン」のすべてが失われて
白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ
つかの間、在るだろう

 ことばをていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。思考をていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。この、存在論を、あるいは存在論とことばをめぐる静かな追求にも矛盾が生まれる。

白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ

 「記述」は「記述」についての論考の前に、すでに「記述」されてしまう。「記述が生まれ」と記述について書く1行前に、すでに記述が存在してしまう。
 この矛盾が美しい。
 矛盾とわかっていて、それでも矛盾として書くしかない--そのときの精神のふるえが美しい。ことばが、ことばであることに耐えている。ことばでしかないことに、耐えている。
 矛盾につきあたって、それからどんなふうにことばは動いてゆけるのか。それはじつのことろ、よくわからない。この詩では、最後はかなり腰砕けみたいになってしまうが、それは、阿蘇がぶつかった矛盾がそれだけ大きかったということの証拠かもしれない。
 引用したあとにつづく2連はない方が美しいと思う。書くならもっと矛盾をしっかりと見据えてほしいとも思う。

 書くこと、書かれてしまうこと、その記述をめぐる矛盾から、ことばはなにを新たにつかみとり、矛盾を超えるのか。それも、じつはよくわからない。わからないけれど、この静かな、ひとりでなにかと正直に対面していることばは美しい。

 阿蘇豊という詩人は、私の記憶のなかには、とても古くから在る。
 「イエローブック」という同人誌に参加していたとき、資金難(?)から同人を増やすことになった。公募した。そのとき公募してきたひとりである。どんな詩だっかた具体的には覚えていないが、阿蘇の作品に対して、私だけが高い評価をした。ほかの同人は別のひとを選んだ。そして、別のひとが同人になった。
 私が阿蘇に感じたのは、この詩にもあるような、矛盾をていねいに書き留める力である。静かな持続力である。あ、まだ詩を書いていたのだ、と知って、とてもうれしい気持ちになった。
 これからも美しいことばを書きつづけていてほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大倉元『石を蹴る

2008-11-28 09:06:07 | 詩集
大倉元『石を蹴る』(澪標、2008年06月29日発行)

 ふるさと祖谷について書かれている。ふるさとは誰にとってもなつかしい存在である。距離の取り方がむずかしい。「牛の覚悟」は視点を「牛」に置いた。そのため、距離が乾いて、べたべたした感じがない。

ラジオから君が代が流れ
天皇陛下の玉音放送がはじまった
オヤジさんはひれ伏して
泣き続けた

夕方
オヤジさんは牛の俺の所へ来て
俺の背中を撫でて
「日本は戦争に負けよった 息子の戦死は
報われなんだ」と ポツリと言った
牛の俺も悲しくなった
(略)

進駐軍は肉が好きだとの噂が
村中で持ち切りになった
割をくったのは俺たち牛だ
「進駐軍に喰われる前に喰おうぞ」
村人は狂った野獣のように口々に叫び
俺たち牛を山の中で次々に殺した

俺たち牛を家族のように
可愛がり育ててくれた村人が
「うまいのう うまいのう」と俺たちを喰った
肉など喰ったことのなかった村人が
俺たちをむしゃぶり喰う

 この、対象との距離は乱れることがない。距離とは、別のことばで言えば「物差し」になる。「物差し」とはなにかを測るときの基準である。なにかを測るとは、批評することである。なにかを測るとは、また、なにかから測られることでもある。批評されることでもある。
 この相互批評の中に、詩への第一歩がある。

 大倉のことばは、まだ、ことば自身を批評の対象とはしていない。だから、「現代詩」という感じがしない。けれども、その一歩は、たしかにこの作品の中にある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(20)中井久夫訳

2008-11-28 02:05:18 | リッツォス(中井久夫訳)
罪   リッツォス(中井久夫訳)

彼は帽子を取って出て行った。
彼女はランプの傍のテーブルを動かなかった。
彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに手をかざした。「きれいよ」と言ってみた。
それから誰かに言い訳をするように
パンを台所に持って行き、
明かりを消した。
外には行き交う荷車と月。



 男と女がいさかいをする。男が出て行く。女が残される。その女が、自分を「きれいよ」慰める。男が言ってくれなかったことばを、自分で言う。
 この詩の最後がきれいだ。「荷車」は彼女の悲しみを知らない。「月」は彼女の悲しみを知っているかもしれない。けれども、彼女に対して声をかけることは絶対にない。「荷車」の御者が彼女になにかの拍子に声をかけることはあるかもしれないが、「月」は絶対にそういうことはしない。「荷車」(そして、御者)は無情である。男と同じである。「月」は非情である。その非情は無情さえも洗い流していく。その結果、なんの混じり気もない透明な孤独が残される。
 罪とは、そういう透明な孤独の別称かもしれない--そういう思いさえわいてくる詩である。

 この訳詩には(訳には)、以前触れた詩のように書き込みがある。中井はワープロで訳詩を残しているが、ときどき、そこに手書きの修正がある。この詩にも、その修正、推敲がある。
 3行目は、ワープロのもとの形では、

彼の足音が遠くなった。彼女は明かりに自分の手を見た。「きれいよ」と言ってみた。

 「自分の手を見た」が「手をかざした」にかわっている。「かざした」ということばのなかには「見る」は含まれていない。けれど、手をかざす(特に、ランプの明かりに手をかざす)ときは、その手を見ることになる。「見る」を別の動詞に置き換えている。ここが中井の訳のすばらしいところだ。
 動詞はいろいろな「動き」をもっている。手をかざす--それはたんに手を上げることではない。上げた手を「見る」という動きを含む。「見る」ということばを直接書かないとき、「見る」という動きが「頭」ではなく、「肉体」にかえっていく。ことばにならない領域、より人間の深い場所へとかえっていく。そこから、人間をとらえ直す。
 この人間の、深い部分でとらえることばが、月の非情と響きあう。月の明るい非情さは、「見る」という動詞よりも、「かざす」という動きをよりすばやく洗って、孤独を浮き彫りにする。
 このことばの選択が、とてもいい。

 4行目も、ワープロ原稿では「それから言い訳するように」と「誰かに」が含まれていなかった。「誰かに」はあとから挿入されたものである。この「誰かに」もとても詩に落ち着きを与えている。「誰かに」があるから、「荷車」(御者)がすーっと近付いてくる。誰でもいい。その不特定を浮き彫りにするのが「誰かに」なのである。そして、自分とは無縁である、無関係であることが浮き彫りにする孤独が、さらに「月」と響きあうのだ。
 中井の訳はほんとうに素敵だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南原充士『花開くGENE』

2008-11-27 11:12:46 | 詩集
南原充士『花開くGENE』(洪水企画、2008年11月01日発行)

 南原の詩には余分なことばがある。「気分」を押しつけてくるものがある。その「気分」が私は嫌いだ。詩は「気分」ではない、と私は考えている。「気分」を壊していくものが詩であると思う。別なことばで言い換えると、「気分」をつくっていくのが詩である。いままでの「気分」をたたきこわし、それまで存在しなかった新しい「気分」をつくっていくのが詩ではないのだろうか。

 「わたしはわたしに向かってなにかを言った」という作品がある。タイトルが象徴するように、そこにはいわゆる「詩的」なもの、ロマンチックな「気分」というものがない。そこには、ことばで何かをつくっていこうという批評性がある。そういうものに私は詩を感じる。「いま」「ここ」がかわっていく。ことばが、新しくなっていく--という予感に誘われ、私は、その作品を読みはじめる。
 全行。

わたしはわたしに向かってなにかを言った
思いつくことならなんでもよかった
ひとりぼっちのわたしをだれも慰めることはできなかった
あまりに長くわたしは泣き続けていた

ひとりで夜遅くまで起きていたことにわたしは気づいた
わたしは眠れなかった なにも考えてはいなかったのに
なにか熱っぽいのもが暗い灯りの中のわたしを悩ませた
わたしはなににも集中できなかった

わたしは低い音で聞きなれた音楽を聴いた
それはわたしを楽にさせ癒してくれた
それからわたしはベッドに行き すこし香水をつけて横になった

次の朝早く わたしは目が覚めた
雨がやわらかに降っていた それはわたしにはラッキーだと思えた
それまでには 昨晩なにをわたしがわたしに言ったのか忘れていた

 「なに」はついに明かされない。それでいいと思う。2連目までは、私はこの作品は傑作になるかもしれないと思って読んだ。3連目でつまずいた。4連目でいやになった。
 「気分」のことばが急に出てきて、「気分」を主張するからである。
 「すこし香水をつけて」と「それはわたしにはラッキーだと思えた」ということばがなければ、私はこの作品に対して違ったことを書いたかもしれない。興奮したかもしれない。けれど、その2か所のことばで、とてもいやな気持ちになった。南原が昨晩何を考えたのか、何を言ったのか。それを余韻のなかで信じる気持ちにならなくなった。「香水」と「ラッキー」が、余韻をかき消して、安物の、ただ刺激臭だけが明確な香水のように、脳味噌をくらくらさせる。私は鼻が悪い。揮発性の強い匂いは気分が悪くなる。
 3連目は音楽を「低い音」(あ、とても美しいことばだ、うれしくなることばだ)で聞く、それだけで十分ではないだろうか。4連目も「やわらかに」降る雨の「やわらかに」だけで十分だろう。それで十分「気分」が遠くから漂ってくる。それ以上書くと、「気分」の押し売りである。
 
 この作品の前のページ。「春の雨」も最後の行がなければ、と私は思う。最後の行がなければ、「男」は読者のなかで「永遠の散歩者」になるけれど、南原がそのことばを書いてしまうと、永遠が消えてしまう。
 書かないことによって書くことばというものがある。読者のなかで生まれてくることば--それが詩である。作者と読者の共同作業によることばの生成。それを「待つ」ということが大切なのだと思う。



笑顔の法則
南原 充士
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベン・スティラー監督・脚本「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(★★★★)

2008-11-27 01:30:07 | 映画
監督・脚本 ベン・スティラー 出演 ベン・スティラー、ロバート・ダウニーJr.、ジャック・ブラック、ニック・ノルティ、トム・クルーズ、マシュー・マコノフィー

 落ち目の役者が戦争映画で出演するが、予算がなくなったので、本物の戦場へほうりこまれる--というとんでもない話。予告編も、ドタバタを絵に描いたようなもの。あまり期待もせずに見に行ったのだが、これがおもしろかった。
 ベン・スティラーはシルベスター・スタローン、ロバート・ダウニーJr.はマーロン・ブランド、ジャック・ブラックはエディー・マーフィーのパロディー。この3人がやっていることは、ドタバタはドタバタなのだが、途中で、映画批評をやる。演技論をやる。それが妙にシリアスなのだ。そして、それがシリアスであればあるほど、役者ばか(いい意味ですよ)がくっきりと浮かび上がってくるのがなんとも楽しい。ダスティン・ホフマンは「レインマン」で自閉症を演じ、トム・ハンクスは「フォレスト・ガンプ」で白痴を演じ、それぞれアカデミー賞をとったが、ショーン・ペンは「アイ・アム・サム」で白痴を迫真の演技で演じたのに賞をとれなかったのはなぜか? なんてことを、いかにも、それっぽく解説する。アカデミー賞の裏話である。笑ってしまう。
 途中で、主役級の役者は誰も脚本を読んでいなくて、脇役だけが真剣に脚本を読み、内容を把握している--などということや、役作りのために中国語さえマスターしてしまう、というような変なエピソードも出てくる。さらには、へたくそな演技なのに観客に受けてしまったために、その演技をつづけることが天命と勘違いしてしまうこととか、役にのめりこんで自分にもどれなくなるばかばかしさとか。笑いがとまらない。
 この映画は、実は、ドタバタ戦争映画を借りた、映画論、演技論の映画なのである。「僕らのミライに逆回転」は映画オタクの、映画オタクによる、映画オタクのための映画だったが、これも同じ。ちょっといやらしいのは、そのオタクの前に批評ということばがつくことだろう。映画批評オタクの、映画批評オタクによる、映画批評オタクのための映画なのである。映画の批評が楽しくないひとは、きっと楽しくない。でも、映画の批評で盛り上がるひとなら、絶対笑える。
 さらに、この映画にはおまけがついている。ニック・ノルティ、トム・クルーズ、マシュー・マコノフィーという、それぞれ主役をやっていい役者が脇で出ている。トム・クルーズは禿の鬘をかぶって、ずんぐりむっくりの中年男をやっている。中年男の、のりのりの、中年男でしかないダンスまで披露している。(扮装のために一瞬誰かな、と考え込むが、あの、独特の声でトム・クルーズとわかる。私は、顔よりも、声で役者を覚えるタイプなのか、扮装には意外とだまされない。)
 そしてさらに、おまけというより、前菜(?)に、これまたおもしろい仕掛けがある。映画はいきなり予告編のラッシュではじまるのだが、それが実におかしい。ロバート・ダウニーJr.の、いかにもゲイという感じなど、笑ってしまう。
 最後までしっかり見てね、というより、最初からしっかり見てね、という映画である。



ミート・ザ・ペアレンツ

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(19)中井久夫訳

2008-11-27 00:02:50 | リッツォス(中井久夫訳)
演技   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見物の椅子の一ヤード上に赤い布を引いた。
彼等の苦悩を彼等のすぐ眼の前で演じて見せた。
ガラスの仕切りの向うにいる彼は裸のように見えた。
ヌードの女性を連れているみたいだった。
ナイフが五本置いてあった。ギラリと光るのが見えた。
テラコッタの像が浴槽の隅で壊れていた。
海の輝きのなかで彼は大きな漁網を引き揚げた。
毛むくじゃらの醜い怪物が入っていた。
彼はローソクを掲げて階段を上がった。
叫びながらトンネルを下った。
皿を一つ踏み潰した。
他の者たちは、なだめて、ほめて、さよならをした。
彼はかけらを集めて、一晩中、継ぎ合わせようとした。
ちょうど真中のかけらが一つだけなかった。
これでは夕食を食べる器が全然ない。第一、空腹ではないんだが。



 ある劇の1シーンを思い浮かべる。「彼」のひとり芝居である。「彼」はひとりで、たとえば漁師の様子を演じる。あるいは、何者かから逃げる男を演じる。それは、ギリシアの現実を知っているひとには、そのまま自分の姿に見えるかもしれない。
 私はリッツォスの生きた時代のギリシアを知っているわけではない。だから、ぼんやりと想像するだけなのだが……。

 最後の3行が複雑である。
 これは演技が終わったあとの男の孤独な姿を描写しているのか。それとも、その孤独な姿までもが演技なのか。両方にとれる。
 たぶん、両方を生きなければ、当時のギリシアを生き抜くことはできなかったのかもしれない。
 ここでも、リッツォスは何も説明しない。説明せずに、孤立した人間を、孤立したままに描いている。ことばは、その孤立した男といっしょに孤立する。
 このさびしさが、なぜか、私は好きである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(18)中井久夫訳

2008-11-26 00:02:02 | リッツォス(中井久夫訳)
おおよそ   リッツォス(中井久夫訳)

彼は手に取る。ちぐはぐなものだ。石が一個。
壊れた屋根瓦。マッチのもえかす二本。
前の壁から抜いた錆びた釘。
窓から舞い込んだ木の葉。
水をやった植木鉢からの滴。
昨日、きみの髪に風が付けた藁しべ。
これらを持って裏庭に行き、
おおよそ家らしきものを建てる。
詩はこの「おおよそ」にある、分かるか?



 名詞の羅列。それをつかって「おおよそ家らしきものを建てる」。この「家」とは「彼」のことである。「彼」はそういもので「私」という存在をつくっている。
 名詞。数え上げられた存在。それは細部であると同時にすべてである。その存在を中心にして、遠心と求心が繰り返される。遠心と求心の反復であるから、そこには「一定の形」はない。往復運動があるだけである。そして、その往復運動というのは「距離」をもたない。「距離」はあるのだけれど、それは測定できない。そして、その測定できない「距離」が「おおよそ」である。

 私たちが(読者が)見るのは(読みとるのは)、いつでも精神の(あるいは感情の)運動である。それは「形」ではない。「おおよそ」の軌跡である。
 たしかに、詩は、そこにあるのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スティーブン・ウォーカー監督「ヤング@ ハート」(★★★)

2008-11-25 23:06:52 | 映画
監督 スティーブン・ウォーカー 出演 アイリーン・ホール、フレッド・ニドル、ボブ・シルマン

 平均年齢80歳のコーラス隊のドキュメンタリーである。彼らはロックを、ラップを歌う。もちろん、楽々と歌うわけではない。歌そのものはフレッド・ニドルが歌う「フィックス・トゥ・ユー」以外はふつうのお年寄りの歌う歌の域を超えているとはいえない。NHKの「のど自慢」でいえば鐘ふたつという感じの歌かもしれない。それでも思わず聞きほれてしまう。歌に聞きほれるというよりも、歌うことにかける情熱に、歌ったことのない歌を歌うという意気込みに聞きほれてしまう。--と書いて、すぐに気がつくのだが、歌は別にうまい歌を聴くことだけが歌の楽しみではない。うまい、へた、を超えて、歌っているひとの気持ちの楽しさ、華やぎががあればそれでいいのだ。歌うことで生きていることを実感し、楽しんでいる。それでいいのだ。歌を聴かせるのではなく、歌うことの楽しさを伝えたい--そういう映画である。

 映画独自の映像の魅力があるわけではない。強いて言えば92歳のアイリーン・ホールの顎の白い無精髭が映画ならではの映像である。女性である。女性だけれど、顎鬚が生えている。それも白髪である。もし美人に映したいのだったら、顎鬚を剃ったかもしれない。しかし彼女は剃ってはいない。いつものままである。生きているというとは特別なことをするのではなく、いつもの日常のままでいることである。
 その延長に歌がある。特別なことではない。いつもと同じことをする。そのひとつが歌である。たしかに彼らはコンサートのために新しい歌を覚え、練習する。しかし、それは特別なことではない。人間はいくつになっても新しい何かに出合い、そのあたらしいものと自分をなじみのあるものにするために努力する。工夫する。新しい歌も、それだけのことなのである。
 あらゆることが、いつもの暮らしと同じである。延長線上にある。
 仲間の死も同じである。死は歌と同じように暮らしの一部である。仲間の死は悲しい。悲しいけれど、それは受け入れなくてはならないものである。自分自身の死も受け入れなくてはならないものである。その、受け入れのとき、自分をかえるのではない。受け入れることで、自分がかわってしまうのではない。そうではなくて、ただあるがままに、すべてといっしょにいるのだ。
 ここにあるのは、他人をかえるという思想ではない。また、自分をかえるという思想でもない。ただ、ここにある。ここに生きている。そして、ここに生きているということを、なじませるのである。それはコーラスそのものである。ただ自分の声を出す。和音のためには自己抑制(自分の声を制御する)ということが必要かもしれないが、80歳ともなれば、自分を制御しなくても、他人となじむことができるのである。つくりあげるというよりは、新しい曲に耳を傾け、体をなじませる。ひとりひとりが曲になじんだとき、自然に、そこにコーラスが誕生する。

 生きるというのは楽しい。知らないことを知るということ、知らないものを自分の体になじませるというのは楽しい。自分の世界がすこしだけ広がる。80歳をすぎれはば、自分の世界をひろげなくてもいいという考え方もあるかもしれないが、いくつになっても自分を世界を広げるというのは楽しい。
 ふいに、ロックを歌ってみたい。大声で、何かを歌ってみたいという気持ちにさせられる映画である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(17)中井久夫訳

2008-11-25 00:05:36 | リッツォス(中井久夫訳)
見知らぬ小物   リッツォス(中井久夫訳)

彼は見回す。ここはどこだろう? 夕陽が遠い。
荘厳な夕陽。庭の柵が見える。
ドアの把手。窓。糸杉。
でも彼は? 静かな湖に空が映っている。
空の雲に。桃色の湖。金色の縁。
あそこに靴と衣服を置いて来た。さて、
こんな裸で、道の真ん中に突っ立っておれるか?
こんな裸で、知らない家に入って行けるか?



 「彼」は湖を泳いでやってきた。「知らない家」はずっーと彼の意識のなかにあった家である。「知らない」のは、実は、その「家」の誰かだけに夢中ということだ。その夢中の相手以外は「知らない」。泳いでやってきたものの、こんな姿で会えるのか。ふいに、現実にかえってしまった彼。
 1行目の「夕陽が遠い。」の「遠い」がとてもいい。夕陽と彼との距離は一度として変わったことはない。その永遠に変わらないはずの距離が「遠い」。それは、あらゆるものが「遠い」ことの象徴である。
 湖を泳いでやってきた。その家の前までやってきた。距離は縮まった。それなのに、「遠い」。湖の向こうで見ていたときより、いま、目の前にある家の方が「遠い」。

空の雲に。桃色の湖。金色の縁。

 この1行の「空の雲に。」の「に。」が美しい。
 原文がどうなっているかわからないが、「雲」「湖」「縁」という単語の並列。「と」の省略が一般的だが、中井は「に」ということばを選んでいる。このしずかな音が、あらゆる存在から孤立している「彼」のこころの不安定さと響きあう。句点「。」もとてもいい感じだ。「空の雲に、桃色の湖と、金色の縁。」という訳でも、詩の「意味」はかわらない。けれども、そのことばのリズムがつたえる感覚が違う。つながろうとして、つながれない、そういう孤独は、「空の雲に。桃色の湖。金色の縁。」という形でないと伝わらない。

 ところで、タイトルの「見知らぬ小物」とはなんだろう。
 「見知らぬ」とあるけれど、この詩の「遠い」が現実の距離ではなく、意識の距離であったように、これは実際には「見知らぬ」のもではない。実はよく知っているものである。そのよく知っているものの欲望に突き動かされて、湖を泳いでやってきた。そして、いよいよ、というときになって、それは怖じ気づいている。慣れ親しんだ「大きなもの」ではなく、「見知らぬ小物」になっている、ということだ。
 彼は肉体からさえも孤立しているのだ。そして、その孤立のまわりで、風景はこんなにも美しい。

 この不思議。世界に生きていることの、不思議な美しさ。さびしさ。あ、美しいということは、さびしいということなのだ。
 リッツォスとは関係ないのだが、私はふいに、西脇順三郎の「淋しい。ゆえにわれあり」ということばを思い出してしまうのだ。永遠の美しさに触れる瞬間、人間は絶対的なさびしさにとらわれる。詩は、そういう人孤独の対話なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高貝弘也『子葉声韻』

2008-11-24 09:22:39 | 詩集
高貝弘也『子葉声韻』(思潮社、2008年10月31日発行)

 断章から構成された詩集である。この詩集が好き--というのは、ちょっと自分はこういう感性のあり方が好き、それは私の感性に似ているから、ということにつながるようで、なんとなく気恥ずかしい。そして、その感性というのは、実は、感性というよりも、そういうことばを読んできたから、ということにつながる。つまり、「お里」につながる。だから、なんとなく気恥ずかしい。
 こんなふうに思うのは、私だけだろうか。

紙背で、石榴(ざくろ)、落ちて。
あなたの声(こわ)ぶり。こわ振りよ。

霊(たま)合いの。たましひ、多麻之比よ。
生まれなおし、産みなおし。
くるりとむいて

 ここには「意味」はない。ことばが「意味」になることを拒否して、ただ「音」「文字」として、「音」「文字」といっしょにある感性そして存在する。
 たぶん、ことばが好きではないひとにはわからないことかもしれないが、これはことばが好きといえる詩人の特権的な何かである。ことばは、いくつかのことばとつながって「意味」をつくる。これは普通のことである。日常はそういう「意味」をたよりに動いている。ところが、そういう「意味」ではなく、ただ、いまそこにあることばが好きという、一種の「恋」のようなものである。
 「恋」に「意味」はない。なぜ、あいてが好きなのかも実のところよくわからない。何かがひとを引きつける。そのひきつける理由など一生かかってもわからない。
 
 高貝は「紙背」ということばが好きである。その響き。その文字が好きである。そして、それに似合うことばを、記憶から(文学から)すくいあげる。うまく響きあわなければ何度でも別の記憶(文学)からすくいあげる。その何度も何度もの手つきのなかに、たとえば「新古今」の感性とか、その他の感性とかが触れる。その快感を高貝は大切にしている。
 「意味」ではなく、ことばとことばのゆらぎ。ゆらぎの遠近法のなかにふっと浮かび上がってくる、遠い世界。なつかしい世界。日本語が生まれてくる瞬間の世界。そういうものが見える。

霊合いの。たましひ、多麻之比よ。

 魂のことを書いているのではない。書くふり(?)をあて、ことばのゆらぎを書いている。ことばのゆらぎに触れている。「多麻之比」というのは、万葉仮名かどうかはわからないが、そういう一つ一つの漢字が「たましい」を別なものに見せる。それぞれの音と文字のあいだに「たましい」ということば、「魂」という文字にはなりきれなかった何かがゆらいで見える。
 もちろん、それは錯覚である。
 でも、錯覚であって、何が悪い?

 そうなのだ。すべて錯覚であって、何がいけないのだろう。「見た」と思ったものが「錯覚」であって、どうして悪いのだろう。その「錯覚」がたとえばとてつもなく美しいものだったら、それはそれで十分ではないだろうか。この世界には存在しないような、とてもかなしいもの、とてもさびしいものであったとしたら、それはそれで十分ではないだろうか。
 高貝は、ことばのなかにある、そういう「錯覚」の系譜を探しているのかもしれない。たったひとりだけの、つまり高貝だけの、感性の系譜を探しているのだろう。

おとり鮎(あゆ)投げ、振りかえり。
畦のうえの、幻

辺(ほとり)の 廃舟は口べたのふりをしている。重い、子どもを乗せる

 「おとり」と「辺(ほとり)」。ふたつのことばが出会うとき、そこに不思議な遠近法ができる。その遠近法のなかで世界が屈折する。その屈折を「幻」と呼ぶのは簡単だが、そんなふうに「幻」をわざとことばにするのは、一種の「ふり」である。「幻」のふりをして、ことばの遠近法をわかろうとしないひとを安心させる方便である。
 「おとり」「振りかえり」「辺(ほとり)」「ふり」のなかでゆらぐ「り」の音。その距離を正確にたどることは誰にもできない。それは楽譜のなかにあらわれた、特別な音のようでもある。その音はあらゆる曲の楽譜のなかにある。そして、それは、では、どの曲から引用した音なのか。そんなことは誰にもわからない。いろいろな音楽の記憶が、ある日、突然、独自の遠近法とともにあらわれて、そこに不思議な旋律をつくるだけである。その旋律が聴こえるか、聴こえないか、それは読者の感性次第である。

 だから、ちょっと気恥ずかしい。高貝の詩が好きである、というのは。それは高貝の感性が好きというより、自分の感性の「お里」に近付くことだからである。
 私はいつでもそういうものを振り捨てたいと願っている。自分の「お里」に対して、批評的でありたいと思っている。でも、同時に、あ、こんなふうに、自分の感性を前面に出してしまうと気持ちいいだろうなあ、とも思う。


子葉声韻
高貝 弘也
思潮社

このアイテムの詳細を見る

高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言B(1966)」より(16)中井久夫訳

2008-11-24 00:32:55 | リッツォス(中井久夫訳)
労働者の美   リッツォス(中井久夫訳)

彼はいらいらと行ったり来たりした。埃の道を。汗みずくで、
壊れたトラックとその荷を守って。裸足で、
ズボンを捲くり上げて。古代の漕ぎ手に似てる。
足は幅広いなめし皮。剥き出した腕は彫刻した筋肉。
微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。
正午になって浜から帰る女の子たちは歩幅をゆるめて
サンダルの紐を直すか、ベルトを締め直す。すると彼は
トラックの西瓜の上に登って、櫛を取り出し、
髪を櫛けずる。



 ここに描かれている労働者は若い。書き出しの「いらいら」は若さ特有の「いらいら」である。自分には能力がある。それなのに、なぜこんなことをしていなければならないのか。そういう「いらいら」である。欲求不満である。
 彼はなによりも、まず美しい。肉体にかねそなわった彼の特権である。

微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。

 まるで、風さえも、彼の肉体を見たがっているかのようである。「シャツに皺」が逆に彼の肉体をくっきりと見せる。「シャツ」は肉体を隠すためにあるのではなく、強調するためにある。隠すことによって、見えないものを「想像力」のなかで探り当てさせるのである。ひとは肉眼で見たものよりも想像力で見たものの方を信じる。
 女の子たちと出会い、自分をととのえるために髪を梳る。それは単に身だしなみをととのえるというのではない。自分を美しく見せるというのではない。自分はさらに美しくなれる、と誇示するのである。
 この、剥き出しの、本能のような、若さの美しさ。

 彼はこのとき「いらいら」していない。それが若さの特権である。「いらいら」を忘れてしまって、自分が見られていること、見られることの喜びを味わっている。そんなふうに、見られることの喜びを露骨に味わうことができる、というのは、若さの特権以外のなにものでもない。
 リッツォスはそれを「櫛を取り出し、/髪を櫛けずる」という短い描写のなかに凝縮させている。中井の訳は、それをいちばん短い形で日本語にしている。こういう美は、たしかに、凝縮がいのちである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする