ことばはなぜ動いていくのか。と、書くと、いやことばは動いていくものではなく人間が動かすものだ--と言われそうだが、私にはやはりことばは勝手に動いていくものである、と思われる。
「庭に菫が咲くのも」の書き出し。
幻像の貧困はガラスの絞首台にある。
ミモザの花が花屋に出た
恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた
1行目に、どんな「意味」があるか、私にはわからない。「内容」がわからない。私は、ただ、その「もの」の組み合わせに驚く。「ことば」の組み合わせに驚く。驚きで「頭」がいっぱいになってしまって、「意味・内容」がわからない。「意味・内容」がわからないから、逆に「頭」が覚醒する。えっ、何? わからないものをわかろうとして、「頭」にスイッチが入る、という感じ。
でも、まあ、わからないままですねえ。それでも、2行目「ミモザの花が花屋に出た」は、1行目がわからないのとは逆に「内容」がわかるので、ほっとする。黄色い色が目の前に広がってくる。こういうことばの展開にふれると、あ、たしかに西脇は絵画の人なのだということが、ちらっ、と「頭」をかすめる。だが、その色彩はすぐに消えてしまう。つづく行には、私は、どんな色をも見ない。次に視覚を刺戟するのは「雑草」ではなく、「円」である。「円」は、とてもくっきり見える。見えるけれど「意味」はわからない。
わからない、わからないといくら書いても、詩の感想にならないかもしれないが……。わからないまま、私が驚くのは、1行目から2行目のへの飛躍。そして、3行目と4行目の関係である。特に3行目と4行目のつながりと切断、その関係である。
恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
これは、意味的(?)には「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」ということだろうか? そして、それは2行目ともつながっているのだろうか?
つまり……。
ミモザの花を花屋で見たときの感情と、路ばたの雑草を見たときの感情が違うように、そういう自然(自然と切り離された花の美)を見たときの恋愛(あるいは孤独)の感情はまったく違う--と西脇は書いているのか。
そうなのかもしれないけれど。きっとそうなのだろうけれど。
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
この行は、私には、独立して見える。実際に1行として「独立」した形で書かれている。さっき私は、これらの行の「意味・内容」をつかむため(?)に、「雑草を見た時」という具合に改行操作を変更してみたけれど、ほんとうは、私の「肉体」はそんなふうには反応していない。「頭」はむりやり「学校教科書」のように改行をととのえて(?)みたけれど、まったく違うことばを読み、違うことばを聞いている。
「時の孤独」。whenの孤独ではなく、timeの孤独。
あ、うまく書けない。
「孤独」が「主語」ではなく、「時(時間)」が「主語」であると感じてしまう。いろいろな「時」が存在する。ミモザの花を見た「時」。恋愛の「時」。路ばたの雑草を見た「時」。それらの「時」はそれぞれ「孤独」である。そして、それらの「孤独」が違うのではなく、そもそも「時」が違うのだ。
「学校文法」にしたがって読んだときとは、「主語」が逆転してしまう。
「時」を「主語」にして読んでしまう読み方は、間違っているかもしれないけれど、私の「肉体」は、「時」を「主語」にしたてあげたいのだ。そうでないと、納得しないのだ。
なぜなんだろう。なぜ、そんなふうに強引に(?)「誤読」したがるのだろう。
リズム、音楽のせいだ、と私は感じている。
ここには、「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」と書いたときとは違う「リズム」がある。音の響きがある。そして、それは「学校教科書」の「意味・内容」を脱臼させる「リズム」であり、響きである。
だとしたら、その脱臼した「リズム」、響きそのものが指し示す「主語」をそのまま主語として受け入れた方がいいと私は思うのである。
ここは絶対に「時」が「主語」。
「意味・内容」を破壊して、ふいにあらわれる「主語」。その「主語」のあらわれかたの「リズム」が、そして全体を動かしていく。「意味・内容」ではなく、「音楽」がことばを動かしていく。
私には、西脇のことばの運動は、そんなふうに見える。
円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた
この3行は、「学校教科書」の改行(文節)では「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」になるかもしれない。
しかし、西脇は、そうは書かない。
わざと改行をずらす。そうすることで、ことばを活性化させる。「自由」にさせる。
さっきまで「時」が「主役」であったが、ここでは「円が円」「人間が人間」というような繰り返しと、その繰り返しの「リズム」に乗った「ある」「ある」「ある」--「ある」ということば、それが「主語」になる。
「ある」。存在のことば。--だからこそ、「サルトル」という哲学者も登場してくる。(サルトルの響きの中にも「ある」が隠れている。)
「意味・内容」ではなく、音が、リズムが、音楽が、西脇のことばを動かしている--私は、どうしても、そう感じてしまう。
そして。
数行前、私は「しかし、西脇は、そうは書かない。」と書いたが、「書く」ということが、たぶん、西脇の「音楽」にとって重要な役割を果たしている。
「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」、あるいは「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」という改行(文節)は、「話しことば」(声)の「意識」を「文字化」したものである。話す--声にだし、何かをいう、そのときの「リズム」を正確に(?)転写したものである。話すことを文字に書き写せば、たぶん、「学校教科書」の「意味・内容」(文節)になる。
西脇は、このことばの運動(ことばの法則)を「書く」ことで解体している。改行(文節)をわざとずらして「書く」。そうすると、「意味・内容」が脱臼させられ、「音」が復活する。「音」そのものがもっている「いのち」というか、勝手な動きが復活する。
「書く」という行為は「音」を除外しているように見える。「音」がなくても「書く」ことはできる。けれど、書かれた「文字」のなかには「音」は存在する。「書く」ことによって、「書く」ときの「文字」の操作によって、聞こえなかった「音」そのものが逆に響きはじめるときがある。
西脇の独特の改行システム。それは「意味・内容」を脱臼させるだけではなく、ほんとうは、ことばの「音楽」を復活させるための方法かもしれない。
声に出す、声に出して読む--ではなく、黙読する。文字を読む。そのとき「肉体」のなかで鳴り響く音楽。
逆説的な音楽--かもしれない。「文字」のなかにある「音楽」というのは、奇妙かもしれないけれど、それはたしかにあるのだ。
この詩の最後は、とても美しい。
「なにしろホラチュウスを読んで一番自分を
喜ばすことは、結婚しないでよかつたことです。……
ウッファファファ・ウファッファファ
ウーファッファッファッファー」
私はカタカナ難読症なのだけれど、最後の2行は、はっきりと「聞き取る」ことができる。読むかわりに。
Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)西脇 順三郎日本図書センターこのアイテムの詳細を見る |