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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)

2011-05-31 23:59:59 | 詩の礫

2011年05月31日(火曜日)

和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(28)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「10」には「激しい精神」と同じように、不思議なことばが出てくる。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内。牛や犬やぶたが徘徊している、無人がそれらの家畜や番犬を追い回している。涙を流している、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、柵につながれたまま牛は、大きな体を休ませている、いや、飢え死にしている、無人も飢えている、果てし無い、注意が必要です。

緊急地震速報、もしくは、噂話、20キロ圏内、豚は食べるものがなくて、仕方なく、豚の死骸を食べている、無人も仲間を睨みつけている、理由は無い、注意が必要です。
                               (70-71ページ)

 「無人」がよくわからない。何の「比喩」だろうか。「比喩」だとしたら、このことばには「矛盾」がある。比喩とは「いま/ここ」にないものをことばで呼び出すことだ。「いま/ここ」にはないが、「いつか/どこか」に存在する。「比喩」を語るとき、「いま/ここ」と「いつか/どこか」が結びつく。そのとき「比喩」の絶対条件は「ある」ということだ。けれど、和合は「無・人」と書いている。「無」は「ある」の反対のことばである。「無」は「比喩」にはなりえない。その「比喩」になりえない「無」を抱え込んだ「無人」--これは、一体何?
 「ひとがいない」が「無人」か。だが「無人」なら、それが「追い回す」ということはできるのか。「無人」は「人では無い」という意味だろうか。「人ではない」ということだけははっきりしているが、まだ「何」かわからない。「見えない」「触れない」「聞こえない」「匂いもしない」--と書いてくると「無人」が和合の書いている「放射能」に似てくる。
 でも、「無人」が「放射能」だとしたち、それが「涙を流している」とは、どういうこと? 「飢えている」とはどういうこと? 「仲間を睨みつけている」とはどういうこと? よくわからない。
 たぶん、それは「人格」を持ってしまった「放射能」なのである。
 「余震・地震」が「激しい精神」であったように、「放射能」は「無人」なのである。「人ではない」が「人格」を持っている存在。
 「放射能」に「人格」を与える(比喩を媒介にして人格を与える)というのは、なんだか変な感じがするかもしれない。戦うべき相手に、わざわざ「人格」を与える必要があるのか--という疑問が生まれてくる。
 しかし、もし戦う相手が「人格」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 もし戦う相手が「精神」を持たないのだったら、私たちはどう戦えばいいのだろう。
 「矛盾」したことをしてしまうようだけれど、人は「余震・地震」と戦うとき、「余震・地震」を自分自身の「精神」に向き合っている「精神」のひとつであると仮定しないことには、ことばを武器に戦えないのではないのか。
 同じように「放射能」という非人間的なものと向き合い、ことばを武器に戦うとしたら、放射能を「人」ということばで「比喩」にしてしまわないと、戦えないのではないのか。
 「余震・地震」も「放射能」も「ことば」を持っている。その「ことば」を見極め、自分のことばと対峙させる。戦わせる。どちらのことばが勝つのか--勝つためには、ことばをどう鍛えるべきなのか……。

 私の書いていることは、「説明」になりえていないかもしれない。
 説明になりえていないことを承知でもう少し書く。

 「無人」とともに「噂話」が出てくる。「噂話」とは何だろう。根拠のないことば。それは誰が口にしたことばなのか。大震災の被災者か。あるいは、「人では無い何か=無人=放射能」か。和合は、被災者ではなく「無人」が語り、押し広げたのが「噂話」であると言いたいのかもしれない。
 「無人」がことばでも詩人(和合)に襲い掛かってくる。「噂話」ということばになって。
 だが、ほんとうに、その「話」には根拠がない? 「無人」のことばだから、根拠がない? そこには人間のことばは少しも含まれていない?
 そんなことはないだろう。
 実際は私は、ニュースで牛や豚や犬を見た。その悲惨な姿を見た。和合が聞いたのは「噂話」であると、否定できない。そこには「真実」もある。
 ああ、だからこそ、問題なのだ。
 「無人」(放射能)の脅威と、人間のことばは、「ことば」のなかで重なり合う部分があるのだ。どっちが、どっち? わからなくなる部分がある。こういう不明瞭な部分、あいまいな部分は、ふつうの詩では、まあ、どっちでもいい、詩なのだから、好きなふうに読んでおけばいい--実際、好きなふうに読んだ方が詩がいきいきするということがある。けれど、和合の書いている詩では、それはあいまいにはできない。どっちがどっちか、それを明確にして、「人間のことば」が「無人のことば」に打ち勝たなくてはならない。
 でも、これは、難しいなあ。

 これから書くことは適切な例にはなりえないかもしれない。いま書いたことの適切な補足にはなりえないかもしれない--けれど、こういうことがあるのだ。


子どものころの僕の顔を思い浮かべて…、祖母は亡くなる前に、「雪だるま」の貼り絵をしてくれた(と思っている)…、その絵を本棚の一番よいところに飾っていた…。

僕の部屋の瓦礫の中で一番先に探したのは、祖母の貼り絵…。

探す。無い。探す。無い。祖母の絵。無い。探す。見つからない。私が探しているのは、貼り絵だが、それだけでは無い。探す。私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している。探す。無い。余震。
                               (72-73ページ)

 「私が探しているのは貼り絵だが、祖母の姿を探している」。この文章は、論理的には変でしょ? 変だけれど、わかるでしょ? 論理的な文章より、強く感じるでしょ? これが、たぶん「無人」ということばのなかにもあるのだ。その変な矛盾した論理が。
 「無人」、人間ではないもの、そのむごたらしい放射能--それを、私たちはまず「ことば」にしないといけない。そして、自分たちで「ことば」にした「無人」と「無人のことば」を、さらに詩のことばで叩き潰していく。叩き潰すために、まず、「無人のことば」を正確に確立しなくてはいけない。
 貼り絵とおばあちゃんは「叩き潰す」という関係はない。だから、説明がよけいにややこしいのだが、貼り絵とおばあちゃんの関係(探すときに一つになる関係)とは正反対の関係が、「無人」という「比喩」のなかにあるのだ。

 今回書かれている「詩の礫」の最後。


目の前の目の前に 書き殴れ 一つの文字



あなたはここまで読んで、必敗者の私にこう教えてくれるのだ。

明けない夜は無い。
                                 (76ページ)

 「あなた」は「無人」の対極にある。「あなた」は「在(有)・人」なのだ。「僕(和合)」は「あなた」と「ことば」をとおして結合する。「詩」が結びつける。結びつく力で「無人」に勝つ。
 「放射能」の前ではだれもが「必敗者」である。防ぎようがない。大地震の前でも同じかもしれない。
 けれど、その起きたことを「ことば」で明確にし、同時にその「ことば」を乗り越えることばを書く。そういう力を獲得するまでことばを「書き殴る」。「詩」に高めていく--それしか「生きる」方法はない。
 和合のことばからは、そういう強い宣言が感じられる。





補記。

 「詩の礫」(「現代詩手帖」2011年05月号掲載分)を読み終え、振り返るとき、ふと気がついたことかある。

放射能が降っています。静かな夜です。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていた。それはひとの暮らしが破壊され、実際に「物音」がしないということをあらわしていると同時に、「ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。」「この震災は何を私たちに教えたいのか。」という「問い」に「答え」が帰って来ない、「答え」がどこからも聞こえないという状態をあらわしていたと思う。
 その「静かな夜」が最後の方では「静か」ではなくなっている。
 聞こえる「声」には、たとえば「噂話」がある。そのほかに「原子力」のささやきがある。地震の「悪魔」の声がする。

ここまで書いていると、原子力が私の家の扉のチャイムを押した。「どなたですか」。話があります。「私にはありません」。とにかく扉を開けて下さい。「開けるもんか」。
                                 (74ページ)

お坊ちゃン、福島のお坊ちゃン、何が、出来ますかイナ。
                                 (75ページ)

 「噂話」「原子力のささやき」「悪魔の高笑い」。これは、みんな「事実」ではない。「事実」ではないけれど、そこには「真実」がある。ひとが何かを思う--その思うことの真実がある。噂話に語れることごと、原子力や悪魔の声は、和合にとっては歓迎すべきものではない。あってはいけないことがらである。けれど、そういうものを和合は聞き取れるようになった。「静かな夜」ではなく、「声にあふれた夜」「騒々しい夜」を和合は生きている。そして、それらの「声」が聞こえるからこそ、和合は、その「声」を超えていく声を探すことができる。
 この運動は、和合が「詩の礫」を書くことによって始まった「事件」である。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 これは大震災に対する怒りのことばだが、「詩の礫」ということばにあてはめると「怒り」とは違うものがみえてくる。和合が書いたことば、その運動。その「意味」は書いた後に生じてくる。実際、私は、その意味を感じている。何も聞こえない「静かな夜」から、聞くべきものを聞いて、それを乗り越えていくことばを探すということばの変化--そのなかに人間の「希望」を感じている。
 「希望」と書くと、和合は「希望とは何事だ。私は、そして福島は、まだ絶望の中でもがいている」というかもしれない。それはそうなのだが、そんなふうに、もがき、生きることができるということは、やはり「静かな夜です」と黙りこくっているとはまったく違った状況だと思うのである。
 ことばは、状況をつくり、状況をかえていく。その力を感じた。






詩の礫
和合亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)

2011-05-30 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(27)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「11」の部分には日付がない。「詩の礫」というタイトル下には2011.3.16-4.9 という日付かあった。そして「10」には2011.4.1という日付があった。「11」は04月02日から04月09日にかけて書かれたものと推測できる。
 「11」には、もうひとつ、これまでと違ったことがある。「11--昂然」とサブタイトルがついている。和合の中で「詩の礫」に関する意識が変化したのかもしれない。「精神の発見」(精神が、冷たい汗をかいている、と書くことによって「精神」を「比喩」のようにうかひ上がらせること)が、和合のことばを突き動かしたのかもしれない。
 その「11」の冒頭。

余震。地の波。私たちをあらためて追い立てる、激しい精神。過酷にも地の震えは少しも手を休めない。逃げる私たちを執拗に追う、地の急襲。
                                 (70ページ)

 「激しい精神」とは何か。私は驚いてしまう。「10」のことろで「精神」ということばに出会った。それはあくまで「人間の精神」であった。しかし、ここではどうか。私たちを追い立てる、逃げる私たちを執拗に追うのは、「地」である。「地の波」である。自身であり、「余震」である。「激しい精神」は、文脈にしたがうかぎり「余震(地震)」でしかない。
 問題は(という言い方でいいかどうかわからない)、「余震」を「激しい精神」と呼ぶとき、その「激しい精神」が「比喩」であることだ。余震・地震という地殻の動きに「精神」はないから「比喩」としか言いようがないのだが、その「激しい精神」が「比喩」であるとき、「精神が、冷たい汗をかいている」というときの「比喩」としての「精神」と混じり合ってしまうことだ。融合してしまうことだ。
 もちろん文脈をていねいにたどれば「人間の精神」と「余震・地震の精神」はまぎれることはない。はっきり区別がつく。
 しかし、ほんとうにはっきり区別をしたいなら、そんなややこしいことばをつかわずに、もっと違ったことばを「余震・地震」の「比喩」にすればいいだろう。いままで「悪魔」ということばが何回かつかわれてきたが、その「悪魔」の方がはっきりするはずである。
 けれど、和合は「精神」を選ぶのだ。
 ここが詩のおもしろいところである。
 「人間の精神」と「余震・地震の精神」は敵対している。敵対関係にあるはずである。けれど、それはまた「共犯」というか、「競合」の関係にもあるのだ。「余震・地震の精神」が巨大であるとき、それに立ち向かう「人間の精神」も巨大になる。「人間の精神」が強靱なものになるには、それを強靱にする、強靱な「余震・地震の精神」が必要なのである。
 もちろん、巨大な余震・地震が起きてはいけないのだが、それは現実の世界のことであって、ことばの世界では違うのだ。互いに巨大、強靱であることによって、互いが成長していくのである。どちらがどちらを凌駕するか--それは、これからのことばの運動にかかるのである。
 そして。
 「精神が、冷たい汗をかいている」と和合が書いたとき、「汗」が「比喩」であると同時に、「精神」こそが「比喩」であると私は書いたが、似たようなことがこの部分についても言える。
 「激しい精神」。そのことばのなかの「比喩」は「精神」であるよりも「激しい」である。「激しさ」において、「余震・地震の精神」と「人間の(和合の)精神」は競い合うのだ。競い合うためには「精神」という共通分母が必要だったのだ。

 「精神」は「ことば」でもあるだろう。「ことば」を共通分母として、和合と地震の戦いはここから本格的に始まる。
 「大震災」をことばとして出現させながら、その出現した「大震災」に和合は詩人のことばをぶつけて、それを叩きのめすのである。そういう戦いをするのである。

俺はな、俺をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰してやる、一行をぶっ潰してやる、文字をぶっ潰してやる、詩をぶっ潰す、言葉をぶっ潰す、心をぶっ潰す、ぶっ潰すぶっ潰す、怒りをぶっ潰す、お前という悪魔をぶっ潰す、俺をぶっ潰す、俺俺をぶっ潰すぶっ潰すぶっ潰す俺ぶっす潰つス。
                                 (75ページ)

 激昂し、ことばがことばでなくなってしまう。あらゆる「もの」の区別がなくなり、そこにただことばが残される。「意味」もなく、ただことばがある。そこまで和合は行きたいのだ。そういう一緒の「ゴール」のようなもの、行先のようなものを、和合は、いいま、つかんでいるのかもしれない。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(26)

2011-05-29 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(26)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのうの日記の追加になるのだが……。(私は目の具合が悪く、長時間パソコンに向かえない。どうしても、とぎれとぎれの感想になってしまうのだが。)

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
                                 (69ページ)

 この部分が美しいのは「意味」ということばが「無意味」だからである。
 「詩の礫」に最初につかわれていた「意味」と比較すると、そのことがよくわかる。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。
                                 (38ページ)

 2011.3.16 に、和合がそう書いたとき「意味」は問われていた。「意味はあるのか」は「どういう意味だ」という問いと同じである。「意味」が見出せない。「意味」があるなら「意味」を教えてもらいたい。
 これは和合が体験した大震災に対する怒りである。
 けれど、

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

 と和合が書くとき、和合は「意味」を問い詰めてはいない。「どういう意味があるのか」と質問してはいない。そして、その「意味」を読者に語ることもしていない。「本当の意味を知る」と和合の中で完結している。
 読者が(私が)、「その本当の意味って何?」と問いかけても和合は答えてくれないだろう。答えられないだろうと思う。答えられないこと--それが「本当の意味」だ。
 と書いてしまうと禅問答になってしまう。
 私が感じたのは……。私が和合のことばから読みとるのは……。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。

 この三つのことばの塊を読むと気づくことがある。「野の馬のいななき」と「母の子守歌」に対しては「本当の意味」ということばがつかわれているが、「雨の後の風」については「本当の意味」ということばはつかわれず、「本当のソプラノ」ということばがつかわれている。「意味」が「ソプラノ」に変わっている。「意味」と「ソプラノ」は置き換え可能なものなのだ。「ソプラノ」がほんとうの「意味」なのだ。
 「子守歌」のなかには「ソプラノ」が含まれているかもしれない。「ソプラノ」に通じるものがあるかもしれない。高く、透明な、声。「子守歌」は母から子への透明な声で(純粋な声で)歌われる「ラブソング」と考えると、和合が書こうとしいていることに近づけるかもしれない。
 「ソプラノ」を単純に女性の高い声と考えるのではなく、子守歌を歌う愛の声、そして歌われる歌はそのとき「子守歌」という範疇に留めるのではなく、「ラブソング」を「愛の歌」と考えると、和合の考える「意味」ということばの広がりがわかりやすいかもしれない。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 これは、大震災に「愛」はあるのか、という怒りが発した声である。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるか。

 これは、何かが起きるとき、そこに「愛」はあるのか。すべての出来事は「愛」をもっているのか。「愛」は何かが起きた後にうまれるものなのだろう。では、そのとき「事後」とは何? 「事後」そのものの「愛」って何? 「事後」の「愛」はほんとうの「愛」なのか。ほんとうの「愛」は「事象」を起こさないことにあるのではないのか--ということになるのかもしれない。
 しかし。
 和合の怒り、絶望、悲しさはわかるが(わかると簡単に言ってしまっていいものではないと思いながら書いているのだが)、「愛」とはたぶんそういうものなのだ。
 大震災と結びつけて考えると難しくなってしまうが、愛はいつでも、それこそ「遅れて」やってくる。「愛」に気がついたとき、「愛」はどこかへ行ってしまっている。それでも「愛」に意味はあるか。過ぎ去った「愛」も「愛」なのか。--その怒りはわかるが、過ぎ去ったものこそが「愛」なのだ。なくしてわかるものが「愛」であり、なくしたとわかるからこそ、ひとは、そのときから「愛」に目覚めるのである。愛することを学ぶのである、ということになるかもしれない。

 でも、まあ、こんな感傷的なことばを書いているときではないね。それに和合は「ラブソング」ではなく「ソプラノ」と書いているのだから……。

 きのう読んだことばが美しいのは、そこに詩があると感じるのは、「愛」のせいではない。「愛」もあるのだろうけれど、「愛」というようなことばにならないものこそ、美しい。その、「愛」ということばにならない何か--それをどこまで私のことばで語ることができるかわからないが……。
 「本当の意味」ということばが2回繰り返された後、「ソプラノ」のなかに消えていく。「雨の後の風の本当のソプラノ」の「ソプラノ」は「比喩」である。「本当の意味」は「比喩」のなかに消えていく。その「比喩」は、まあ、「ソプラノ」ということばを手がかりにすれば、透明で美しい声、ひとをある高みに誘ってくれる声というものをさすのかもしれない。
 あ、また、余分なことを書いてしまった。
 書き直そう。

 「本当の意味」は「ソプラノ」のなかに消えていく。そのとき、和合は「意味」を考えていない。「意味」をことばにしようとしていない。ここに、美しさの全てがある。
 「本当の意味」ということばを和合は2回繰り返しているが、「本当の意味」を、和合は考えたりはしていない。だから、美しい。
 では、このとき、和合に何が起きているか。和合は何を考えている。
 何も考えていないのだ。
 和合は「怒りの速度」と「なって」福島の暗い平野を走る。走りながら「野の馬のいななき」に「なる」。「母の子守歌」に「なる」。「風のソプラノ」に「なる」。
 怒りの速度に「なる」ということの「なる」という運動が、あらゆる「なる」を引きつけ、ひとつに結晶する。結晶して「本当の意味」と「ソプラノ」は区別がつかないものに「なる」。
 この美しい変化のなかに詩がある。
 怒りの速度となって、の「なる」から始まるあらゆる「なる」につながる詩--野の馬のいななきや、子守歌、ソプラノに「なる」ということばはつかわれていないが、怒りの速度となっての「なる」に全て含まれている。というのも、怒りの速度そのものが「比喩」だからである。
 この「なる」の視点から、また「詩の礫」の最初の書き込みにもどってみると、わかることがある。

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

 このときの和合の怒り、絶望、悲しみは「なる」可能性をとざされたこと、「なる」可能性を奪われたことにあるのだ。
 和合は何にもなれない。大震災の直後、ただ「いま/ここ」に自分の命を守っているだけの人間である。無力な人間である。なぜ、こんな無力を生きなければならないのか。ここから、どうやって何かに「なる」ことができるのか。どうすれば「なる」を手に入れることができるか--それを自問していたのである。
 震災直後、和合は「いま/ここ」に「ある」。「ある」けれど「なる」を奪われている。
 和合が人間に(詩人に)「なる」。そのためのことばを探して、和合は書いている。和合が詩人に「なる」とき、ことばは再び生きる(生きるように「なる」)。そして、ことばが生きはじめれば、人と人とのつながりも再び動きだす。動くように「なる」。
 そうした希望につながる「なる」を和合は瞬間的に掴んだのだ。そして、「本当の意味を知る」と書いたのだ。
 「本当の意味」とは「ある」ではなく、「なる」にある。



 付記。
 きょうの「日記」はずいぶん強引なところがあると思う。いつも私は強引に「誤読」するから、今回だけが強引ではないかもしれないが……。
 実は、私は和合の書いた「ソプラノ」を「ラブソング」と読んでいた。(きのう「引用」したとき、「ラブソング」と間違えて引用していた。きょう、あわてて書き直したくらいである。)
 「怒りの速度となって」以後のことばを読んでいたら、私はそう感じてしまったのだ。ほんとうは、正直にそのことから書きはじめるべきだったかもしれない。和合の「ソプラノ」には「ラブソング」と「誤読」させる力がある、と。
 そうすれば、もうすこしすっきりしたことが書けたかもしれない。






現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)

2011-05-28 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(25)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私がいま読んでいる「10」の部分は、何日に書かれたものか正確にはわからない。「09」には2011.3.27 という日付があった。「10」の日付は2011.4.1である。2011.3.27 から2011.4.1までに書かれたものかもしれない。
 その後半(きのう読んだ部分の残り)では、和合は気弱になったり、その気弱になった自分に対して怒ったりしている。揺れ動いている。

おまえの弱音を聞いていたら、きょうも嫌になったわい。特におまえは相当、弱っているな。悔しいか、苦しいか。フン、相変わらず、取るに足らない男だ。

教えてやろう。悔しいのなら。拳で拳を殴るんだ、拳で拳を殴る、拳で拳を殴る、殴る、殴る、いいか、悔しかったらな、こうするんだ、拳で拳を殴れ、拳で拳を殴れ。拳で拳を殴れ。おまえの魂はおまえが潰すがいい。おまえの魂はおまえに潰されるがいい。
(68ページ)

 このことばを受け止めるためには、私は、ことばを補わないといけない。「おまえ(和合)の魂はおまえ(和合)に潰されるがいい」は、「おまえ(和合)の魂は大震災というの悪魔に潰されてしまうのなら、おまえ(和合)地震の拳に潰されるがいい」である。そしてそれは、大震災の悪魔に負けるんじゃない、という和合自身の「鼓舞」なのである。逆説的な鼓舞なのである。
 悪魔のことばを逆手にとって、和合は言いなおしている。

悪魔め、悪魔。フン、おまえの弱音を聞いていたら、今日もいやになったわい。特におまえは相当、弱っているな。ゆっくりと地の底から、大きな魚がやってきて、体をひるがえして潜っていくかのような、余震。
                                 (68ページ)

 何百の、何千の、何億の馬と呼ばれていた余震が、いまは「大きな魚」になっている。余震は小さくなっている。それは和合のことばが震災に勝っているからである。
  --勝つ、といっても、それは簡単なことではない。
 怒りを、怒りのまま、怒りとしてもつことかできるようになったということかもしれない。
 いつ、どこで、ということを私は指摘できないけれど、「精神」としての「比喩」を書いたころから、和合は確実に「精神」というものを「肉体」のように育てているように思える。ことばによって。

暗い夜道を走って、海まで行こうと思った。私は精神に、冷たい汗をかいている。

ならば福島の暗い夜の平野を、怒りの速度となって、私は行け。
                                 (69ページ)

 この「怒りの速度」は「精神の、冷たい汗」の「精神」のように「比喩」である。書くことによって、「いま/ここ」に出現する「なにか」である。
 この「比喩」に別の「比喩」が呼応する。そして、そこに



 が、まぎれもなく屹立する。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行く。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は野の馬のいななきの本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は母の子守歌の本当の意味を知る。

福島の暗い平野を、怒りの速度となって、私は行き過ぎる。この時、私は雨の後の風の本当のソプラノを知る。
                                 (69ページ)

 「野の馬のいななきの本当の意味」「母の子守歌の本当の意味」「雨の後の風の本当のラブソング」は、すべて「怒りの速度」が呼び寄せたもの、「ことばのスピード」である。そこにあるのは「速度/スピード」としての「詩」である。「本当の意味」など、ない。「無意味」しかない。いや、「意味」はなるというかもしれないが、それは「ことば」としては語られていないから、ない、としかいいようがない。
 ない、のだけれど、感じることができる。
 もし、この一群のことばに、ほんとうに「意味」が与えられるとしたら、それは「事後」のことである。和合が書いている「詩の礫」が完結し、そこに書かれていることばを静かに読み返す時に、どこからともなくやってくるものだろう。
 それまでは、存在しない。
 それまでは、ことばを超越して、「いま/ここ」とは別の次元に存在している。
 こんなふうに「いま/ここ」を超越して、特権的に別の次元に存在し、そこから降ってくるもの--それが詩である。
 和合は、それを掴んでいる。

 こうしたことばに出会った後(たぶん、それは「怒りの速度」のなかだけで、そのときだけ出会えるものだと思う)、自分の拳を自分で殴っていた怒りと哀しみは、少し姿・形をかえる。ことばを増やす。美しくなる。
 この変化に、私は、なんとなくほっとする。

俺は少しも泣いてない。

じゃあ、誰が泣いている?

主じゃない、福島の風と土が泣いている。

行き来る、行き来る風よ。そぼ降る、そぼ降る涙よ。広がる、広がる大地よ。俺は進む、海まで、進む。
                               (69-70ページ)

 ここにあることばの繰り返しは「拳で拳を殴る」のように、行き止まりにぶつからない。ことばを開きながら動いている。ことばを開いて行くところまで、和合のことばは甦ったのである、と思う。

ガソリンが切れるか、命が切れるか、心が切れるか、時が切れるか、道が切れるか、俺はまた、一個の憤怒と激情となって、海へと向かうのか。悔しい、悔しい、悔しい、海へ、悔しい、海へ、海へ。

太平洋へ。

激怒する、悲憤する、嗚咽する魂よ。海へ。

海原よ、汝は炎。潮凪よ、汝は炎。水平線、空と海を切り分けよ。黎明。一艘の帆船。
                                 (70ページ)

 ことばが、大震災で苦しんでいたことばが、ことばをおし開きながら動いているがわかる。

明けない夜は無い。
                                 (70ページ)

 それまで「祈り」だったことばが、いまは「実感」になっている。
 ことばは、語ること(書くこと)で、ほんものになるのだ。






地球頭脳詩篇
和合 亮一
思潮社


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)

2011-05-27 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(24)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう読んだ「09」(2011.3.27 )の最後の美しいことばがある。

幼い頃。僕は家の近くの野原で星座早見盤をまわしている。妹が追っかけてきた。懐中電灯を持ってきた。「早く、早く、お兄ちゃん」。待ってろよ。妹が照らす灯りを頼りに、星空と手の中の早見盤を合わせる。出来た。ぴったりだ。はしゃぐ、僕と妹。瞬く星。もう一度、星と空を探させて下さい。
                                 (64ページ)

 ここにある「幸福」は「ぴったりだ」ということばに結晶している。何かを探す。それが一致する。探しているものと、探されているもの--であると同時に、僕と妹の、気持ちが「ぴったり」なのだ。星と早見盤の「一致」を借りて、ほんとうは僕と妹が「ぴったり」に重なり、その重なりに「宇宙」が重なることで祝福する。
 ここには和合が、だれかと「ぴったり」と重なりたいという願いが込められている。
 それは何度も繰り返される次のことばでも同じだ。

明けない夜は無い。
                                 (64ページ)


 
 「10」は、「09」に書かれていた幸福とは逆のところからはじまる。

私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                 (64ページ)

 「汗」は「比喩」である--と、書いて、私はふと疑問にとらわれるのである。「汗」が比喩? 「比喩」とは、「いま/ここ」にないものを借りて、自分が向き合っているものを明瞭に浮かび上がらせる「ことばの技法」だが、汗が比喩?
 正確には「精神の汗」「魂の汗」が「比喩」ということかもしれないが。
 でも、違うのだ。
 「汗」が「比喩」なのではなく、「精神」「魂」こそが「比喩」なのだ。

 私の書いていることは、変に聞こえるかもしれない。私自身も、変なことを書いていると承知しているのだが、その変なことを追い詰めてみる。

 「比喩」とは「いま/ここ」にないものを借りて「いま/ここ」にあるものを印象づける方法である。たとえば「きみの微笑みはバラである」というとき、「いま/きみのほほえみ」自体は「バラ」ではない。あくまで「ほほ」にひろがる「やわらかなふくらみ」あるいは「輝き」である。その周囲の「目」や「唇」--ようするに顔全体かもしれないが、顔はバラではないということを前提として、バラという比喩が成り立っている。バラが顔の上にないということを前提としている。
 「私たちは精神に、冷たい汗をかいている。」はどうだろうか。「汗」は何をあらわしているのだろうか。「いま/ここ」にある何を「意味」して「汗」と言っているのだろうか。
 実は、私は、わからない。
 けれども、その「汗」そのものを強く感じる。「冷たい汗」を強く感じる。それは「肌」で感じる「冷たい何か」である。何かの拍子に、私自身がかいた「汗」の記憶がふいに甦ってくる。「汗」は実感である。「冷たさ」は実感である。
 そうすると(というのは、飛躍があるかもしれないが、私のことばはそんなふうにしか動かない)。
 そうすると「汗」が「比喩」なのではなく、もしかすると「精神」「魂」の方が「比喩」なのかもしれない。
 「精神/魂」が「比喩」というのは奇妙な言い方だが、「比喩」の最初の定義にもどって言いなおすと、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを明確にするのが「比喩」ならば、「精神/魂」が「いま/ここ」にないのだ。「精神/魂」を「いま」「ここ」に呼び出し、共有するために、和合は「汗」と「冷たい」をことばにしているのだ。
 「冷たい汗」とともにある「精神/魂」。それを共有したいのだ。
 次の部分を読むと、それを強く感じる。

私たちは、冷たい汗をかいている。仕方がないから夕暮れには、大衆サウナへと行った。そこでは精神に、冷たい汗をかく屈強な男たちが、相当の熱気の中で座っていた。

私たちは、汗をかいている。ある男が言う。「昨日は、飯館で何も知らない牛が、トラックに並べられて、場へいくのを見た。何台もトラックが牛を乗せて、走っていった。ナチスドイツがかつてもたらした光景のようだった」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。

私たちは、汗をかいている。別の男が言う。「農業を営んでいた男性が、畑の野菜を全て廃棄した夜に、悲しくも自らの命を絶った」。私たちは精神に、冷たい汗をかいている。 
                                (65ページ)

 サウナで流している汗。これはほんものである。「比喩」ではない。それは熱い汗である。その汗の実感--肌をたどって流れる実感は、私たちに何を教えてくれるだろうか。「肉体」の存在を教えてくれる。その汗と肉体の関係を実感しながら、和合は精神と汗とを感じている。「冷たい汗」というより「精神」を感じている。
 場へ向かう牛、野菜を全部は遺棄して自殺した男--それを思い描く精神は「汗」を流している。「汗」を実感することで「精神」を実感する。「精神」を共有する。和合は、そういうことを書きたいのではないのか。
 星座と星座早見盤が「ぴったり」重なるのを見て、「ぴったりだ」とはしゃいだとき、和合と妹の「こころ(精神/魂)」は「ぴったり」重なった。同じようよ、無残な牛、無残な農業の男性を思うとき、「精神」は「冷たい汗」を流しながら「ぴったり」重なる。「冷たい汗」ではなく、その「精神/魂」をこそ、和合は取り戻したい、共有したいと願っている。「冷たい汗」は、むしろ、共有したくないものである。「冷たい汗」をぬぐい去り、涙を拭くようにぬぐい去り、「精神/魂」をもう一度元気にしたいというのが和合の夢だろう。その夢のために、まず「精神/魂」というものがあることを、はっきりさせたいのだ。「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出したいのである。

私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。そして東日本の時計はものみな、1分だけ遅れたままだ。
                                
 この「1分」とは何だろう。私には、よくわからない。ただ「遅れたままだ」が、和合の実感であることは納得できる。
 和合は「遅れ」を次のように書いている。

私は地震の日の夕方、ある大きな建物へと出かけた。知人と合わなくてはいけなかったからだ。知人を待っている間に、警備室のテレビを、盗み見た。その時からだ。私の本当の震災が始まったのは。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千。繰り返される画面映像。牙を剥く、現在。

黒い波、全てを飲み込み、辺りを覆い尽くす、今という脅威。何百、何千の…。繰り返される画面映像。知人に方をたたかれた。すぐ尋ねた。「これ、何?」。私たちの震災の真顔だよ。
                                 (66ページ)

 大震災を和合は直接体験している。しかし、その「事象」がはっきりしてくるのはあとからなのだ。季村敏夫が『日々の、すみか』で書いたように「出来事は遅れてあらわれる」。「1分」は、その「遅れ」の象徴(比喩)である。
 この膨大な映像、あふれる「事象」と「精神/魂」はまだ向き合えない。「精神/魂」は「目」や「耳」に遅れてあらわれる。ことばで形をつくらないことにはあらわれることもできない。
 ああ、だから、せめて、まず「汗」を感じ、「冷たい汗」を感じることから「精神/魂」を「いま/ここ」に呼び出そうというのか。
 そのために、ことばは、どんなふうに動けばいいのだろうか。

バスに乗ろうとして、それを待っている、鳩の群れが遠くの空からやってくる、意味の深遠な雲から飛来する、未来の言葉なのか。
                                 (66ページ)

 和合は、あらゆるものに「ことば」を見出そうとしている。あらゆるものをことばにすることで、ことばが動きだすのを励ましている。ことばとともにあらわれる「精神/たましい」を励ますように。




現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)

2011-05-26 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(23)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 03月23日の「詩の礫」。余震が続いている。

たくさんの馬の背に 青空 たくさんの馬の背に
                                 (57ページ)

 和合は、余震(地震)と馬のイメージを持ちつづけている。大地の底の馬。その疾走。それが大地だけに終わらず、「青空」と対比されている。

余震。何億もの馬。空に駆けあがろうとしているのだろうか。息を殺して、現在を黙らせるしかない。
                                 (57ページ)

 この、地底の馬と青空の結びつきのあとに、突然「息を殺して、現在を黙らせるしかない」が突然やってくる。
 「しー。余震だ」(40ページ)ということばをふいに思い出す。
 息を殺して、余震を受け止める。そのとき、和合は何かを聞こうとしていた。聞こえない「声」を聞こうとしていた。私は、そんなふうにして和合のことばを読んできた。
 また、和合が地震に対して「けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ」と書いてきたこともはっきり覚えている。
 ふたつのことばを連続させて考えるなら、余震から何かを聞き取り(それは余震そのものではなく、和合の生きている様々な現実を含むだろうけれど)、余震を超えることばを書く、ことばによって大震災を乗り越えるという決意ということになるだろう。
 それはいまもかわらない。
 
余震。茶碗を洗っている。息を殺して、現在を洗いつくすしかない。

余震。原稿用紙に文字を埋める。また余震。埋め尽くすしかないのだ、震える現在を。
                                 (57ページ)

 「現在」を書くことが「余震」を乗り越えることなのだ。
 でも、「息を殺して」は何だろう。息をひそめる、息を止める--それは、「しーっ」につながるけれど(私のなかでは、つながるけれど)、よくわからない。
 わからないまま、読み進むと、次のことばに出会う。

余震。揺れている。私が揺れているのかもしれない。揺れている私が揺れている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている。揺れている私が揺れている私を揺すぶっている私を揺すぶっている私を揺すぶる。
                                 (57ページ)

 大地ではなく、「私が揺れているのかもしれない」。
 大地が揺れているのではなく、「私が揺れている」というのは間違いである。間違いであるけれど、ことばは、そう考えることができる。人間は、そう考えることができる。混乱・動揺。「かもしれない」がそれを増幅する。疑惑。
 これは、人間の精神の運動である。そして、これもまた「現在」のひとつのあり方である。人間のあり方であり、ことばのあり方である。
 和合はそういうことを意識しているのかどうかわからないが、私の「現在」をそんなふうに描いている。
 その、「動揺する私」という「現在」を、和合は「息を殺して」黙らせようとしているのか。--これは、何だか、ややこしい。「動揺する私」という「現在」はことばにするとき、「黙る」とは逆の運動になる。
 和合はきっと、和合自身にもわからないことばの領域を動いているのだ。
 ここには、ことばになりきれない何かがある。
 「私が揺れているのかもしれない」以後のことばは、「精神(こころ)」のことであると読むのは簡単だが、精神だけではないかもしれない。「肉体」も含んでいるかもしれない。実際に、和合は彼自身の肉体を揺さぶりながら、何かをつかもうとしている。
 その揺さぶりの中には、ここには引用しなかったが、余震のたびにパソコンをもって二階から一階へ降りるというような運動もある。和合の「揺れる」には、左右上下の「揺れ」だけではなく、もっと大きな「移動」が含まれている。「段震災」の「揺れ」のあとでは、「揺れない起点」の設定(仮説)のありようが違ってくる。--これは、しかし、やはり「説明」が難しい。ややこしい。私は、そんなふうに感じている、というしかないことがらである。

 和合は、和合自身にもわからないことばの領域を動いている。(誰にもわからない領域かもしれない--つまり、ほんとうの「詩」の生まれてくる領域かもしれない。そうに違いない、と私は信じている。)

 途中、買い出しに行き、トマトを買う。そして、「熟れたトマトを持ってみて、分かった。野菜が涙を流していること。」(58ページ)というような美しいことばをはさみながら(そういう「現在」をことばで埋めつくしながら)、和合のことばはまた別の次元へと達する。

余震。揺れていない。私が揺れていないのかもしれない。揺れていない私が揺れていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない。揺れていない私が揺れていない私を揺すぶっていない私を揺すぶっていない私を。
                                 (59ページ)

 57ページに書かれていたことばとはまったく逆になっている。書くことで、和合は和合が揺れていないことを確認したのだ。(そういう意味で、省略された「引用部分」というか、引用してこなかった部分の方が重要なのかもしれないが……。)書く、ことばを動かす--そのとき、和合はたしかにそこに存在する。そして、そのことばがたとえば「涙を流すトマト」と結びつき、あるいは防護服なしで献身的に働く南相馬市の職員と結びつき、無念の思いで牛乳を棄てる酪農家と結びつくとき--和合のことばはさらに揺らぎないものになる。「大震災」に対する怒りはさらに明確になる。--つまり、揺らがないことになる。 
 この強い確信。
 けれど、その確信の一方で、和合は不思議なことも感じるのだ。

詩よ。お前をつむごうとはすると余震の気配がする。お前は地を揺すぶる悪魔と、もしかすると約束を交わしているのか。激しく憤り、口から涎を垂れ流し、すこぶる恐ろしい形相で睨んでいるのだな、原稿用紙の上に首を出し、舌なめずりする悪魔め。
                                 (59ページ)

 和合が書いていることばが「余震」を呼んでいる。誘っている、と感じてしまう。ことばは、書くと現実になる--そのことばの力が、和合のことばにもあるかもしれない。そういうことを感じている。もし、そうなら和合のしていることは、してはいけないことである。それこそ「しーっ」「息を殺して」ただ黙っているしかない。
 書くことは、禍をまねく。ことばは、ことばが語る禍をひきよせる。
 和合のしていることは、「矛盾」そのものになる。「余震」に打ち勝とうとして、「余震」を呼び込むことになる。
 この「矛盾」を和合は、どう超えるか。

詩よ。筆で書き殴る度に余震の気配が濃くなる。決着をつけなくてはなるまい。これから先、俺の筆を少しでも邪魔しないようにな。いくら地を動かそうとも、俺の握力は詩を掴んで離さぬぞ。少し顔を出したら、のど元をかみ切ってやるぞ、悪魔め。
                                 (59ページ)

 禍を呼び込む悪魔としてのことば。それと戦いながら、それを上回ることばを書いていく。そう和合は誓うのだ。もう、和合は「揺らがない」。悪魔には魂を売ることはしない。負けはしない。

詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く詩を書く
                                 (60ページ)

 「詩を書く」その決意を書きつづけると、実際に詩がやってくる。「揺れる/揺れない」ということばの間を動き回っていたことが遠い昔のように感じられる。そういう美しいことばが、和合の一日の終わりにやってくる。

わたしは 何を待っているか四月の波打ち際で波の到来を想う
風の音をずっと聞いていると

わたしの情熱があんなふうに 湧きあがる 春の雲が立ちあがっているのが分かる水平線の上あたり風の音を味わう

風の音 少し弱めに風の音 少し強めに今日はあなたに わたしの心を伝えたいと想う風の音 かすかに

風の音 やさしく風の音 変わって風の音 もっと強くあなたをいつも想っていますよ

あなた 大切なあなた
                                 (60ページ)



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)

2011-05-25 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(22)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 ことばは「比喩」であり、「比喩」は自己投企である。(あ、なぜハイデガーの用語などつかってしまったのだろうと、いまは反省している。こういう用語をつかうと簡単になってしまう。考える部分が少なくなる。これでは、和合に申し訳ない。和合は自分自身のことばを書いているのに、それを借りてきた用語で「誤読」するとき、私は私自身と向き合う手間を省いていることになる。でも、書いてしまったなあ……。)
 
 しかし、ことはば「比喩」だけではない。というより、ことばは、そもそも何なのかわからない。「意味」がわからない。だれでも、最初はことばの「意味」がわからない。「意味」はたぶん、繰り返し繰り返しことばにであうことで「つくっていく何か」なのである。その「何か」が「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」にあってほしいものを指し示すとき(含むとき)、それは「比喩」になるのだが、「比喩」にはなれないことばもある。「意味」が確定されないまま揺れ動くことばがある。揺れ動きつづけ、想定されている(?)「意味」とは違うことばになってほしいことばもある。
 あ、いけない。また抽象的になりすぎた。
 私が考えているのは、(考えたいのは)、次のことば。

制御とは何か。余震。
                                 (55ページ)

 03月21日の冒頭に(最初に)書かれたことばである。
 「制御」とは、何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと--という「意味」を和合は知っていると思う。その知っていることばを取り上げ「制御とは何か」と書くとき、和合は「いま/これまで/ここ」で作り上げてきたはずの「意味」をあえて「わからないもの」にして、「いま/ここ」から作り上げたいと願っているように感じられる。
 「比喩」がある程度自分の「理想(目的/願い)」というものを含んでいるものだとすれば、ここに書かれている「制御」、「制御とは何か」ということばは、「比喩」ではないことばの運動ひとつの「具体的な何か」である。
 で、その「具体的な何か」とは何か。--わからない。わからないから、私は考えたい。

制御とは何か。余震。

 「制御」と「余震」が同時につかわれるとき、わかることがある。「制御」には「制御できる」と「制御できない」がある。さらには「制御する」「制御しない」がるあかもしれない。「制御したい」「制御しなければならない」もある。
 「制御」の「意味」は「何かを自分の思い(目的)に沿うように調整しながら動かすこと」という「名詞」の状態ではおさまりきれないのである。「できる/できない」「する/しない」「したい/しなければならない」のように、動詞として動かしてみなければ、ほんとうの意味は浮かび上がってこない。
 動詞派生のことばは動詞に還元し、動詞そのものとして「意味」を点検しなくてはならないのである。
 余震。大地の揺れ。これは人間の思い出はどうすることもできない。和合がどう思うおうが、ふいに起きる余震を止めることはできない。そうすると、「制御するとは何か。余震。」というときの「制御」は、余震は制御できないのに、それではなぜ「制御」などということばがあり、また、地震(余震)のたびに「制御」ということばが思い浮かぶのかという問題が起きてくる。
 余震が制御できないものならば、余震に対して制御ということばを思いつかなければいいのに、人間は思いついてしまう。
 それは、なぜ?
 制御できない。けれど、制御したいからだ。このときの「したい」は意思というよりも、祈りに近い。
 ことばは--ことばは祈りなのである。

 制御とは何か。

 和合がそう書くとき、和合は祈っているのである。「制御」に祈りを込めている。ことばに「祈り」をこめたからといって現実がかわるわけではないかもしれないが、ともかく祈るのである。

あなたは「制御」しているか、原子力を。余震。

人間は原子力の素顔を見たことがあるか。余震。

相馬の果てなき泥地よ。無人の小高の町よ。波を横腹に受けた新地の駅よ。国道に倒れた、横倒れの漁船よ。余震。

巨大な力を制御することの難しさが今、福島に二重に与えられてしまっている。自然と人工とが、制御出来ない脅威という点で重なっていく。余震。
                                 (55ページ)

 ここでは、「祈り」はまだ「祈り」になりきれていない。「制御」は「制御出来ない」ということば、動詞になって暴れている。ことばが暴れるままに動いていて、和合はそれに異義をいいたいのだが、どうしていいかまだわからない。「制御とは何か」しか言うことができない。
 けれど「制御とは何か」ということばから書きはじめて、そこまで書いたあとで、実は変化が起きる。
 ことばが暴れ回るのを受け止めたあと、和合の肉体のなかから、それまで押さえつけられていた何かが動きだすのである。

制御不能。言葉の脅威。余震。

言葉に脅されている。言葉に乞うている。余震。
                                 (55ページ)

 余震は「制御出来ない」。原子力も「制御出来ない」。いまは、「制御」は「できない」ということばとともに動いている。その動きは和合の「思い」とは違っている。和合は「制御できる(したい)」ということばへと、ことばそのものを動かしていきたい。

 そういうことは、できないことなのか。

「制御」であって欲しいのです。
                                  (55ページ)

 「制御」であってほしい--は、正確には「制御できる」であってほしい、ということだろう。和合は「制御」ということばに、制御は「できる」ということばと結びついて「意味」をつくってもらいたいと祈っているのである。
 それは「制御できる」こそを「意味」としてつくりあげたいということである。
 この「祈り」から、「制御」をみつめなおすと、「制御」には「いま/ここ」にあるのとは違う「意味」がはっきりは含まれる形で動きだす。
 とても美しいことばが、広がる。

言葉に乞う。どうか優しい言葉で、いてくださいよ。ね…。余震。

制御。あなたは、たえまなく押し寄せる、太平洋のさざなみを、優しく止めることができるか。余震。

制御。あなたは、こんなにも優しい人への想いを、静かにとどめることが出来るか。出来ないと思うよ。余震。
                                 (55ページ)

 「制御」とは「制御できる/できない」という「力」のことではないのだ。力を加えることで、対象を動かすのではなく、力を受け止め、優しくつつむことなのだ。
 そういうことこそ「制御」であるべきなのだ。
 「制御」ということばに、そうあってほしいと和合は祈っている。願っている。
 「制御できない」という表現は、「愛しい人への想いを制御できない」というような具合にだけ有効になるような、そういう動きをしてほしい--和合は、そう祈るのである。
 「余震を制御できない」「原子力を制御できない」--そういうふうにつかうのは間違っている。「愛しい人への想いを制御できない」という文脈、その意味でだけ、制御はつかわれるべきなのだ。

制御。あなたは、驚くほどにあなただ。あなたほど、あなたである人はいない。あなたであること。優しく留めることが出来るか。余震。そして僕は、そんなあなただから、愛しているのに。 

あなたは誰よりも早く、しなやかにあなたでありつづける。そんなあなたを愛しています。余震。あなた、大切なあなた。「大切な」の後には「あなた」しか、続かないのです。安否不明。16630人以上。
                                 (55ページ)
 
 「あなた」と呼ばれているのは、「優しく受け止める」という「意味」の「制御」ということばであり、また「優しく受け止める」いのちをいきる全ての人々でもある。それは全ての人々の「制御」が「優しく受け止め、動きを止める」という「意味」であってほしいという「祈り」でもあるということだ。
 「制御」とは、そういう「愛」であってほしいという和合の「祈り」がこのことばのなかに結晶している。
 そして、ここには、これまで引用してこなかった和合の家族の生き方、家族から言い聞かされたことばが反映している。

幼い時の夕暮れ…。ばあちゃん、ボク、仕返ししてくる。仕返し、したくる。止めな。やられたら、やり返すでは、ダメなんだよ。いやだ、仕返ししてくる。ダメだ。止めな。怒っているボクに、ばあちゃんが握ってくれた、ばあちゃん得意の、みそおにぎり。
                                 (53ページ)

 「制御」と「優しさ」。その結びつき。
 余震や原子力の暴走は「優しさ」では制御できない。そういうことは承知である。だが、「制御」を「制御できない」という文脈(意味)から解き放つ祈りのなかに、きっと何かがあるはずである。
 その可能性を、和合は、ことばにしている。






黄金少年 ゴールデン・ボーイ
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)

2011-05-24 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(21)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「比喩は死んだ」と和合は書いている。けれども、やはり「比喩」は動いている。というか、生きている。ことばは「比喩」になろうとする。「いま/ここ」にないものを書きたがる。「いま/ここ」にないものを書いたときこそ、「いま/ここ」が見えてくるのだ。「比喩」は「いま/ここ」を照らす光なのだ。といっても、それはほんとうは「照らす」ではなく、「いま/ここ」を導く「灯台」のようなものである。「比喩」へ向かって進むとき、その進むという運動なのかで、「いま/ここ」が動きはじめるのである。
 あ、抽象的に書きはじめてしまった。--これは、よくない兆候である。きょうは、和合のことばについていくのが少しつらい。和合のことばというにより、私の体調が悪いのである。

 「比喩が死んでしまった」と和合は書いていた。その「比喩」ということばが、再び出てくるところがある。

祖父よ。戦地のシベリアの大地はどんな味だったのか。こちらでも戦後が始まったぞ、祖父よ。真冬の比喩のシベリアよ。彼の地は今、どんな風が吹いているか。丘に一本の木が見える。
                                 (52ページ)

 真冬の「比喩」のシベリア。それが「比喩」であるのは、祖父のシベリアが「いま/ここ」ではないからだ。和合が、その「いま/ここ」ではない父祖のシベリアを「いま/ここ」で書くのはなぜか。これは私の想像だが、祖父は「真冬のシベリア」を生き抜いたからだ。そのことが、和合にとって「希望」なのである。過酷な時間を祖父は生き抜いた。同じように、大震災の過酷な時間を生き抜きたい。和合は、そう考えている。だから、過酷な時間を生き抜いた祖父の方へと自分自身を引っ張っていくのだ。「比喩」を前方に投げだして、それを頼りに、自分を駆り立てるのだ。(ハイデガーなら「比喩」のこのつかいかたを「投企」というかもしれないなあ。)
 この「比喩」のシベリアに、和合はさらに「比喩」を書き加える。「一本の凍った木」。過酷な孤独を生きる木。それは祖父の、投企としての「比喩」である。実際に、祖父がその木のことを語ったかどうかわからない。和合がつくりあげたもの--と私は思っているのだが。その方が投企としての「比喩」が強くなる。
 そして、このひとかたまりのことばのなかにはもうひとつ「比喩」がある。「比喩」と意識されない「比喩」がある。

戦後

 「こちらでも戦後が始まったぞ」というとき、和合は「昭和20年」のことを書いているのではない。「いま/ここ」のことを書いている。大震災が起きた。そして、「戦後」が始まったのだ。「戦後」こそが、もうひとつの「戦争」でもある。
 「戦後」の「後」は、「事後」の「後」である。「後」になって、すべてはやってくる。「生きる」ということが選ばれ、「生きる」のである。

はるか 遠い 森の 奥の 一本の木 心の中の あなた はるかな あなた
                                 (52ページ)

 これは、「比喩」である。
 生きるとき、どうしても「比喩」が必要なのだ。「いま/ここ」にはない何かが必要なのだ。
 このいわば「美しい比喩」とはまた別のことばの動きもある。

緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。芯見地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。
                                 (52ページ)

 前半は「現実」である。そこには「比喩」はない。ただ「事実」がある。けれど、「震源地は冷蔵庫3段目」からは「事実」とは違ったことが書かれている。ことばでしかありえないことが書かれている。そこで書かれている「震源地」は「震源地」ではない。つまり「比喩」である。でも、この「比喩」はいったい「いま/ここ」をどこへ向かって投企するために書かれているのか。
 わからない。
 わからないから、そこに詩がある。
 きっと、和合も何が書きたいのかはっきりとは言えないだろう。「意味」がないからである。「意味」がないけれど、そう書きたい。「意味」がないから、そう書きたいのだ。一方に「震源地は宮城県沖」という「事実」と「意味」がある。その「事実」と「意味」から、和合地震を切り離し、「いま/ここ」から切り離し、どこかへ投企するためには、ことばの「自由」が必要なのだ。ことばの「無意味」が必要なのだ。そういう「無意味」を借りないことには自己投企することもできないほど、「大震災」の「余震」の「事実」と「意味」は重たいのだ。

 自分をある方向へ投げだす。投企する。そのために、ことばはある。
 その働きには「比喩」以外の動きもある。

長い余震の後で、私たちは、子どもたちの手を握るだろう。怖かったかい、可哀想に…。もう大丈夫だよ。さらなる余震の後で、また手を握ろう。もう大丈夫だよ…。だから、ね…。私たちの、大人の手を、離さないで。ぎゅって強く握ってごらん。また…。震えている、地も、きみも。
                                 (52ページ)

夜が寒くて、冷たくて、乞わないなら…、誰でもいいから手を握ろう、握り返してくれるよ。もう大丈夫だよ。だから私たちの手を、離さないで。ぎゅっ…て、強く握ってごらん。
                                 (54ページ)

 これは「呼び掛け」という形をとった投企である。他者に対して(子どもたちに対して)、こうしたらという投企のあり方を語ると同時に、そこへ向けて和合自身をも投げだしている。投企しているのである。

 ことばでできること、そのすべてを和合はしようとしている。なぜか。

緊急地震速報。馬が追う、言葉が追う、余震が追う。緊急地震速報。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。何に、何に追われている。緊急地震速報。命、命に追われている。…優しく、優しく…。呟く、祖母の声。命、命が追ってくる。
                                 (53ページ)

 「命」が「いま/ここ」にあるからだ。「命」を「いま/ここ」から、未来へとつないでいかなければならないからだ。ことばを語ること、ことばを語ることで、自分自身をことばが語りうるものの方へ、「比喩」となりうるものの方へ、和合は引っ張っていこうとしている。
 まず、ことばを先へ投げだす。ことばを投企する。そして、次に、そのことばへ向かって、「比喩(いま/ここにはなけれど、可能性としてありうるもの)」へ向かって、和合自身を投企するために。





にほんごの話
谷川俊太郎,和合亮一
青土社


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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)

2011-05-23 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(20)(「現代詩手帖」2011年05月号)

眠る子のほっぺたをこっそりなぞってみた

美しく堅牢な街の瓦礫の下敷きになってたくさんの頬が消えてしまった

こんなことってあるのか比喩が死んでしまった
                                 (50ページ)

 「06」の書き出し。 3月20日の「詩の礫」の書き出しである。
 「比喩が死ぬ」とはどういうことか。「比喩」が現実に追い越されてしまうということだ。「比喩」は「いま/ここ」にないもの(ことば)を借りて「いま/ここ」をより強く描き出す行為のことである。ことばの運動である。
 子どもが瓦礫の下敷きになり死んでいる--ということばは、たとえば小説には出てくる。詩にも書くかもしれない。そのとき「ことば」は現実ではない。「いま/ここ」ではなく、あくまで「物語」のなかの描写にすぎない。あるいは、あることがらを印象づけるために生み出された「比喩」にすぎない。
 そういう、いわば「文学」のなかで動いていたことばが、文学からとびだしてしまった。はみ出してしまった。いや、逆なのか。大震災の現実が「文学」のなかのことばを「破壊」してしまった。「文学」ではなくなってしまった。
 「こんなこってあるのか」という衝撃は、「文学(詩)」を書いている和合だからこそ、より強い。子どもが瓦礫の下で死んで行く。ひとりではなく、大勢が死んで行く。かわいらしい頬、やわらかい頬が奪われていく--ということがことばの運動ではなく「現実」になってしまう。そういうことがあっていいのか。

 ことばは、どこへ動いて行けばいいのか。

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。

しーっ、余震だ。何億もの馬が泣きながら、地の下を駆け抜けていく。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。
                               (50-51ページ)

 「比喩は死んだ」と和合は書いた。しかし、ここに書いている「馬」は「比喩」である。そうすると「比喩」は死んでいないことになる。矛盾している--のか。そうではない。「比喩が死んだ」と和合が書くとき、「それまでつかってきた比喩が死んだ」ということである。「既成の比喩」が無効になった。瓦礫の下で死んで行くこども--そのことばは現実の子どもの姿、そしてそれが多くの子どもであるという事実の前では、何かを語りながらも、ほんとうは語りきれていない。事実さえも語りきれていない--語りきれていないという気持ちを和合の中に残してしまう。
 ことば--いままでつかってきたことば、いままでつかってきた「比喩」は和合の「肉体」には適合しなくなったのである。
 そのことを和合は、次のように書いている。

偏頭痛。朦朧。昨晩から喉が痛む。おしゃべりなぼくは疲労が溜まれば、喉に来る。しかしこの部屋の現在。言葉は次から次から、僕を通り過ぎる。何を追うのか。何よりも、言葉に置き去りにされるのが、ひどく恐ろしい。
                                 (51ページ)

 それまでつかっていたことばが無効になった。和合の「肉体」ではなくなった。だから、それが「偏頭痛」という形で「肉体」に影響している。
 ここに書かれている「肉体」では、「喉が痛む」に、私はとても興味をひかれた。
 和合は部屋にひとりである。「おしゃべり」をしているわけではない。けれど、「喉が痛む」。この感覚は、私にはとてもよくわかる。特に、つぎの「言葉は次から次から、僕を通り過ぎる」を読むと、喉の痛みがよくわかる。通り過ぎることば--それが通り過ぎるというのは、ことばにはならなずに、ことば以前のままで行き過ぎるからである。「言葉に置き去りにされる」のが恐ろしいとは、ことばがことばにならずに、和合を置き去りにしてさらに先へ進んでしまうということだろう。このとき、「喉」は、そのことばにならないことばを発しているのだ。声帯は動いているのだ。
 私は活字を読むとき音読はしない。黙読しかしない。けれど、喉がつかれる。書くときも同じである。書くとき声を出すわけではない。けれどとても喉がつかれる。無意識のうちに喉をつかっている。舌や口蓋や唇や鼻腔もつかっている。
 たぶん和合もそういう人間なのだと思う。
 ことばがすらすらと動くとき、喉は、あまりつかれない。つっかえつっかえ、なんと言っていいかわからないことばをあれこれさがしているとき、ことばにならない「声」だけが「喉」に押し寄せてくる。このために、疲れる。
 「詩の礫」を書いている和合には、この現象は痛烈である。
 「比喩は死んでしまった」。既成のことばの運動は死んでしまった。頼りになることばはない。どのことばにすがって書けば、「いま/ここ」が書けるのか。まったくわからない。わからないけれど、書かなければならないという思いがある。その思いを空回りさせて、ことばが和合を置き去りにする。和合はことばを追い掛けられずに、ことばにならない「声」を、激しい息(呼吸)を喉にぶつける。声帯があれる。その痛みこそ「偏頭痛」の原因かもしれない。
 和合は繰り返している。

馬が追う、言葉が追う、余震が追う。馬が来る、言葉が来る、余震が来る。馬に取り残される、言葉に取り残される、余震に取り残される。僕は幼くなるしかない。うわあああん。おかあさーん、おかあさーん。
                                 (51ページ)

 馬、言葉、余震--それは追っているのか。来るのか。和合を取り残していくのか。その全部である。ひとつの運動があるのではなく、それは全ての運動である。あらゆる運動である。それを「ひとこと」では書き表せない。起きていることは「大震災」というひとつのことなのに、そのひとつのことのなかにいくつもの運動があり、どのことばをあてはめてみても、それはうまく合致しない。
 比喩は死んだ--既成のことばは死んだ。和合には、どういうことばをつかっていいかわからない。ただ「声」だけが、「息」だけが、肉体の奥からこみあげてきて「喉」を突き破る。「おかあさーん、おかあさーん」。それはことばであるが、なによりも「声」である。幼い子どもが「おかあさーん」と叫ぶのは「おかあさん」を呼んでいるのではない。「私はここにいる」と叫んでいるのだ。

 私は「いる」。和合は、「いる」。その明瞭なことが、しかし、ことばにはならない。「声」にもならない。喉の奥を揺さぶっている。だから喉が痛む。そして、偏頭痛に広がっていく。--この「声」(ことば)と「肉体」の関係に、私は「肉体」で反応してしまう。共感する。路傍で倒れてうずくまっているひとを見たとき、あ、このひとは苦しんでいる。あ、この人は腹が痛いのだ、とわかるように、和合の「喉の痛み」がとてもよくわかる。私の「肉体」の痛みではないのだけれど、私の肉体の痛みとして感じる。
 そして、この痛みから、先の引用に戻ると……。

ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いいななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。

 この「しーっ、余震だ」が、地の下の、不気味な動きに耳を澄まして身構えるだけではなく、自分のなかにある「ことば」を聞こうとしている「しーっ」に感じられる。
 「はっきりと覚悟する。私の中には震災がある」(48ページ)なら、「私の中に余震がある」とも言えるだろう。それは、「いま/ここ」で起きている「事象」に向き合う「ことば」がある。ことばにならない「声」がある、ということでもある。ことばにならない「声」だからこそ、和合は、「しーっ」と自分の「肉体」地震に対しても呼び掛けているのだ。耳をすませ、と言っているのだ。
 和合は、そして「馬」を聞いたのだ。それは「南相馬市」という地名に「馬」があるからかどうか、よくわからないが、それが和合にとっての新しい「比喩」のはじまり、新しいことばのはじまりであることだけは確かである。

 ことば。ことば。ことば。
 和合は、ことばを取り戻すことで、大震災に勝つことを誓っている。

余震。余震。余震。俺はもう終わりかもしれねえが、ここまで馬鹿にされてたまるか。最後の最後に「地震」を目茶苦茶にしてやっぞ。
                                 (51ページ)

 あ、ここに「馬」とは別の動物が出てきた。それはすでに和合の詩のなかで出てきたものであるが……。「鹿」。

これほど「福島」の地名が、脅威に響くとは。鹿の鳴き声。
                                 (42ページ)

 何度か出てきた「鹿」の鳴き声。大震災の街に鹿がいるとは私は思わなかった。それが何の「比喩」なのか、どこから来ているのかわからなかったが、もしかすると「馬鹿にするな」という怒りから来ているのかもしれない。「馬」は愛する「南相馬市」。「鹿」はふるさとをを破壊した地震に対する怒り(馬鹿野郎という叫び)と、肉体の奥でつながっているのかもしれない。
「鹿」は怒りのために悲しくて鳴いているだ。孤立した怒りの、絶対的な悲しみの象徴なのだ。



入道雲入道雲入道雲
和合 亮一
思潮社



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)

2011-05-22 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(19)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 私は眼の手術をして、以後、長い間パソコンに向かっていることがむずかしいので、とぎれとぎれにしか書くことができないのだが、きのう書いたこと--存在しなくても「書くことができる」何かがあるということ、和合のことばの運動は深いつながりがあると、私は感じている。
 きのう読んだ部分のつづき。

余震か。否。

余震か。否。しかし、常に、余震が私に宿るようになってしまった。揺れは恐ろしい。この恐怖が、常に私に何かを書かせる。詩の礫が夥しく湧いてくる。キーを叩き、メモをする。レコーダーに吹き込む。叫びながら部屋を歩き、床の紙片をこの男は、蹴散らしている。宇宙の中に一人。鹿の鳴き声。

はっきりと覚悟する。私の中には余震がある。
                                 (48ページ)

 いま、和合が書いている「余震」は現実の余震ではない。余震は、ない。ないけれど、そのないはずの余震を和合は書くことができる。
 では、そのないはずの余震を書くとき、和合は、嘘を書いているのか。
 そうではない。
 余震は、現実には存在はしない。けれど、「(和合)の中には余震がある。」それは「余震が私(和合)に宿るようになってしまった」からである。
 和合の「中」--この「中」は、きのう読んだことばに置き換えるなら、「内側」である。(私たちの暮らしの内側に、果肉がある。)その内側にあるものを、和合は「宿る」とも言い換えている。「肉体」そのものとして和合は感じ取っている。
 現実には(和合の「外側」には)余震はない。けれど、和合の「内側・中」にそれは「肉」として「宿っている」。
 和合の外側(現実)にはないけれど、和合は和合の「内側」にあるものを書いている。それは、余震について語ったことばであるが、また、「鹿の鳴き声」も、同じように和合の「内側」にあるものなのだ。 

 そして、その和合の「内側」にあるものこそ、もしかすると「絶対」かもしれない。

 「内側」にある余震、肉体に宿っている肉体としての余震というものを書いたあと、和合は、また不思議なことばを書いている。

宇宙の中に一人。

 これは、部屋の中で紙を蹴散らしている男が「宇宙の中に一人」しかない、ということをあらわしているわけではない。そういう男がほんとうに「一人」かどうかなど、誰にもわからない。けれど「宇宙に一人」と和合は書く。
 このとき和合が感じているのは「孤独」というものとは少し違うと思う。「一人」と書きながら、和合が感じているのは「一人」と「宇宙」が「一体」になっている感覚だ。「宇宙」と「和合」が区別がつかなくなっているという感覚だ。
 その「一体感」に「鹿の鳴き声」がさらに重なる。
 「宇宙」「鹿の鳴き声」が「和合(ひとりの肉体)」のなかで、緊密に結びつく。それを結びつける説得力のあることば(説明できることば)は、きっとどこにもないのだが、そのどこにもないことばだけがつかみとれる「真実」を和合はここでは書いているのだ。
存在しなくても「書く」ことができる。その、ことばの、不思議な力で、存在しないものを、存在させているのだ。

 このことばの不思議な力に突き動かされているからこそ、逆に、次のようにも書く。

余震か。否。私はある日、避難所の暗がりで、手帳に何かを書き殴っていた。私の文字は私の心など少しもとらえない。しかし書くしか無い。この徒労感は初めから勝負が決定している。書いているが、何も書けていないからだ。避難所の暗がりで、私は阿呆な修羅であった。
                                 (48ページ)

 「私の文字は私の心など少しもとらえない。」とは、和合がほんとうに書きたいのは和合の「肉体の内側にある余震」「肉体の内側に宿っている宇宙」「肉体の内側の鹿の鳴き声」だからである。それは、いま、こうやって、かりそめに「余震」「宇宙」「鹿の鳴き声」ということばにしているが、ほんとうは違うことば--もっと違うことばで書かなければならないものだと和合は感じているのだ。 

余震か。否。私はある日、避難所の正午。米と鶏肉とコンソメスープを貰った。むしゃぶり食べた。舌鼓を打ちながら、書き殴った。帳面を開く「このまま何かが大きく動き続けて、大きく変わらないとしたらどうなるか」。時の昂然だけが私には思い出せるが、言葉が何を捕らえようとしたのか、定かでは無い。
                                 (48ページ)

 「時の昂然」だけがある。ことばは動いているけれど、その動いたことばが何を捕らえるか--それは「定かでは無い」。ことばと、もの、ものの運動、あるいは精神の運動は、合致しているかどうか、わからないのだ。
 確かなことは、ことばが動いて、何かを書きたいと思っていること、それだけだ。何かを書きたいと思っている、というのは、ことばになろうとして、まだことばにはならないことばがあるということだ。
 「鹿の鳴き声」と、ことばにしてみた。それは確かにことばではある。けれどそれだけでは、和合の「肉体の内側に宿っている余震」とともにある和合の思っていること、感じていることと強固な結びつきはない。「鹿の鳴き声」は和合の「肉体の内側」では確かなものだが、ことばにしたとたん、つまり外に出た途端「絶対」ではなくなる。それ、何?と問われたら、それを説明することばが見つからない何かでしかない。

 和合は、「矛盾」そのものを書いている。ことばを書きながら、その書いたものを「言葉が何を捕らえようとしたのか、定かではない」と平気で書いている。この「平気」と「矛盾」のなかに、「思想」がある。ここからしか、「思想」は生まれてこない。





現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(18)

2011-05-21 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(18)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 「05」は3月20日の書き込みである。「言葉を。もっと、言葉を。」ときのう書いていた和合は、不思議なことばを書いている。

果実の果皮を奪えば、そこには果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。果皮と果肉には絶対的な関係など無い。なぞ無い。
                                 (47ページ)

 果肉と果皮ということばで和合が何を書こうとしているのか、これだけではわからない。果肉、果皮が何かの「比喩」であるだろうということはわかるが、何の比喩なのかわからない。「実体」がわからない。「対象」がわからない。けれど、「果肉」も「果皮」もわかる。そして、果皮を奪う(剥く)と、そこに果肉があるというのは、絶対的な関係ではない、と和合が考えていることがわかる。
 この「絶対的な関係」ということばが、また、わからない。

 わからないことば--というものは、たぶん書いている人間にもわからない。そういうことばは、何度も書き直されながら、わかることばへと変わっていく。和合は、その「わかることば」へ変わる前の、何かをまず書いている。何かをわかりたくて書いているのだ。
 何を和合は「わかりたい」のか。何を知りたいのか。何を納得したいのか。

私たちの暮らしの内側に、果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。「暮らし」とは簡単に廃墟に変わる。廃墟に変わる。鹿の鳴き声。
                                 (47ページ)

 「果肉」とは「果皮」の内側にあるものである。「暮らしの内側」には「暮らしの果肉」がある。「果肉」とは「内容(意味)」のことかもしれない。暮らしがあり、その外形的な暮らし--たとえば家族がいる。夫と妻の関係があり、父と子、母と子の関係がある。よりそって生きる関係がある。愛し合って生きる関係がある。一緒に食べて、笑って、喜んで、泣いて……という日々の時間があり、それを「暮らしの内側」「暮らしの果肉」と呼びたいのかもしれない。「果肉」とは「暮らしの内容」の比喩であるかもしれない。暮らしというものがあれば、その内側に暮らしの内容(意味)がある、ということを和合は「果皮」と「果肉」という比喩で語りたいのかもしれない。
 そのとき「果肉」は、なんとかわかるとして、「果皮」って何? 「暮らし」の「外側」って何? 
 実は、よくわからない。わからないが、私は、それは「暮らし」という「ことば」かなあ、と思う。
 「暮らし」ということばがあれば、その「内側」に「暮らしの内容(意味)」「暮らしの実体」がある--そういう関係は「絶対」ではない。
 ことばの「重点」は「果肉」「果皮」、あるいは「関係」ではなく、「絶対」にある。「絶対」というものが「ない」。そして、この「絶対」ということばの対極にあるのが「簡単」ということばだろう。「簡単に廃墟に変わる」の「簡単」。和合は、「暮らし」と「廃墟」を見比べて、「暮らし」(暮らしという「果皮」としてのことば)のなかにある「暮らしの内容(果肉)」は「絶対」ではなく、つまり「暮らし」ということばがあれば、そこに「暮らしという内容」があるという関係は「絶対」ではなく、「暮らしの内容」はある日突然「廃墟」へと「簡単」に変わってしまう。--その「絶対」と「簡単」の関係をこそみつめているのである。

 しかし--このことばの試行錯誤の運動を見ていると、わかるのは「絶対」というものに対する不信感だけである。「絶対というものはない」という確信だけである。
 しかし--「簡単」が「絶対」の対極にあると和合が考えているということはわかるが、「簡単」が、実は、わからない。
 「簡単」って何?
 和合にもわからないと思う。
 「暮らし」が「暮らしでなくなる」ということが「簡単」にあっていいはずがない。けれど「簡単」にそういうことが起きた。大震災によって「暮らし」が「暮らしの内容」が壊れてしまうということが「簡単」に起きてしまった。
 「簡単」って何?
 「絶対的なものが無い」ということは、強く実感できる。けれど、「簡単」は、実感しきれない。「簡単」って呼んでいいのか--それすら、実は、わからない。
 だから、和合は、このあとも「絶対」ということばは繰り返しつかうが「簡単」については触れない。
 「簡単」ということばで和合がみつめたもの、「簡単」ということばと一緒につかっている「廃墟」--その組み合わせのなかに、和合の「傷」の深さがある。
 「簡単」をどう告発していくか、「簡単」をどう克服していくか--きっと、そのことへむけて和合のことばの運動は展開するのだと思う。「簡単」と呼んではいけないものが、ほんとうはあるのだ。「絶対」はない。「絶対」よりも「簡単」の方が猛威をふるっている。パワーがある。この関係を、どうにかしたい--そのことを、しかし、和合はまだ「絶対は無い」という表現でしかつかみきれていない。ふいにあらわれた「簡単」を見逃して(?)、置き去りにしている。
 そのかわり。
 そのかわり、というのも変だけれど、ここに突然、変なことばがあらわれ、「絶対」と「簡単」の関係を「象徴」する。

鹿の鳴き声。

 これは、ほんとうに聞こえたのか。そうではないだろう。奈良か安芸の宮島なら聞こえないこともないかもしれないが、福島(原発の近く)で鹿が鳴いている? そうではないだろう。「絶対」と「簡単」の関係をつなぐことができない「空白」に、それはふいに出現してきた「まぼろし」である。和合だけがつかみとった「まぼろし」である。ことばにならない「ことば」。「比喩」以前のもの。「象徴」以前のものだ。
 このことばは、だから、わけがわからない。
 そして、わけがわからないからこそ、美しい。印象に残る。大震災は、「鹿の鳴き声」のようなものである。(なんだか、わからないね。)大震災のあとの廃墟は「鹿の鳴き声」のようなものである。(やっぱり、なんだかわからない。)大震災で「絶対」というものはないと知ったが、その「絶対のなさ」の確かさ(?)は「鹿の鳴き声」のようなものである。(これも、わからない。)「暮らし」あるいは「暮らしの内容」というものは巨大な自然の力によって「簡単」に破壊されてしまうが、そのときの「簡単」というのは「鹿の鳴き声」のようなものである。(ますます、わからない。)
 あ、でも……。
 いま、私が書いた「ますます,わからない」ということ--そのことが「鹿の鳴き声」に一番近いと思う。まったくわからないけれど、そのまったくわからないものが「存在」するということが、この世界のありようなのだ。
 福島の「廃墟」と呼んだ街に鹿が鳴いているかどうか私は知らないが、鳴いていたっていいのだ。その声が聞こえたっていいのだ。人間の「思い」とは無関係にそういうものがあっていい。「簡単」にあっていい。そして、その「簡単」にあることこそが、もしかしたら「絶対」かもしれない。

 「意味」にならないこと--それがあることを「鹿の鳴き声」は、私に教えてくれる。

絶対など無い。果実の皮を剥いても、いくら剥いても、何も無い、何も無いのだ。

何も無いのか、鹿の鳴き声。

 果皮と果肉のあいだ、その関係は絶対ではない。絶対ではないということは何もないというのに等しいかもしれないが、その一方で、果実とは無関係なところに「鹿の鳴き声」は存在する。それは存在するかどうかわからないが、「ことば」にして書くことができる。存在しなくても「書くことができる」何かがある。




RAINBOW
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)

2011-05-20 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(17)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのうの「日記」に書けなかったことがある。

2時46分に止まってしまった私の時計に、時間を与えようと思う。明けない夜は無い。
                                 (44ページ)

 「時間を与える」とは、どういうことか。和合は「3月18日」には具体的には書いていない。けれど、時間を動かしたいのだということはわかる。時間を動かして、夜を朝に運び出すのだ。
 「動かす」こと、「動く」こと。「動き」とともに「時間」がある。
 
 動く、動かす--動かすことができるものに何があるか。和合に何が動かせるか。ことばを動かすことができる。そして、実際、和合はことばを動かしている。そうすると、 3月19日に不思議なことが起きる。

一昨日から始まった私のこの言葉の行動を、「詩の礫」と名付けた途端に、家に水が出ました。私の精神と、私の家に、血が通ったようでありました。「詩の礫」と通水。駄目な私を少しだけ開いてくれた。目の前の世界のわだかまりを貫いてくれた。
                                 (45ページ)

 これは「偶然」のかもしれない。けれど、それが偶然であっても、私たちはそれを必然にできる。ことばを動かすと、世界が動く。つまり、時間が新しく時を刻みはじめるのだ。世界が新しい動きをはじめるためには、ことばが動かなければならないのだ。
 ことばが動けば、世界が動く。ことばが何かを必要とすれば、その何かは動いていやってくる。ことばは必要なものを呼び寄せるのである。ことばとは、もともとそういうものだろう。何かを呼ぶ、その呼ぶために声があり、ことばがある。

 和合は、水を手に入れたあと、その水がつかうにはなかなか不便な水だったために、タクシーに乗って風呂に行く。

タクシーを呼んだ。来てくれた。運転手さんに全部話す。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」

涙が止まらねえや、畜生。そこで立って待ってろ、涙。ぶん殴ってやる。逃げんじゃねえぞ、決着つけろ。涙。
                                 (46ページ)

 この部分に、とても感激した。特に「運転手さんに全部話す。」が正直で、気持ちがいい。和合は、ツイッターでことばを書きつづけた。それは誰かに「話す」ということの一部なのだが、人と会って話すということとは少し違う。いま、運転手さんに、和合は話しかけている。「全部」話している。話したいことがあるのだ。聞いてもらいたいことがあるのだ。聞いてもらうというのは、受け止めてもらうということである。
 受け止めてもらわなくても、ことばは動かすことができる。けれど、受け止めてもらった方が、もっと動きやすくなる。そして、ことばが受け止めてもらえたという実感の、その瞬間、ことばを追い越して涙が溢れてくる。涙は、ことばにならないことばである。こらえてもこらえても、泣くまいとしても溢れてくるものが涙である。
 これは、ことばを書く人間としては、悔しいねえ。
 ことばを涙が追い越していく、というのは悔しいねえ。そして、うれしいねえ。その涙に追いかければ、ことばはきっと動けるからだ。ことばが動いていく先があるということを教えてくれるのが涙でもあるのだ。
 和合は、ことばに追いつきたいのだ。「いやあ。人間は垢では死にませんよ。元気出して。」という運転手さんのことばを聞いた瞬間、何か言おうとして、それを言わない先に溢れてしまったことばにならないもの、涙--それに追いつきたいのだ。言わなければならないことがまだまだあるのだ。「全部話した」けれど、まだまだ溢れてくるのだ。話さなければならないことが。

花を咲かせるには、未来が必要だ。子どもたちは、私たちの夢。昨日の帰りのタクシーでは、遅い夕暮れの山を見た。守らなくてはいけないもの。語りましょう、交わし合おうよ。何を。言葉を。今が、最も言葉が必要なとき。一人になってはいけない。
                                 (47ページ)

 ことばは、ひとりで動かすものではない。交わすことで動かすものなのだ。和合はタクシーの運転手とことばを交わし、交わすことでことばの力を実感した。

あなたとにって、懐かしい街がありますか。わたしには懐かしい街があります。その街は、無くなってしまったのだけれど。言葉を。もっと、言葉を。
                                 (47ページ)

 懐かしい街はなくなってしまった。けれど、その街を語ることばがある。ことばのなかで、街がなつかしく甦ってくる。同じように、ことばを語るとき、そこでは何かが甦るのである。それはなつかしい思い出だけではない。まだ知らないもの--希望も、そのことばから甦るのである。希望とは、未来の「時間」に属するものである。止まってしまった時計に時間を与える、時間を動かすために、ことばが必要なのだ。

もうじき朝が来る。それはどんな表情をしている? 春。鳥のさえずり。清流のやわらかさ。光る山際。頬をなでる風の肌触り。揺れる花のつぼみ。はるかな草原を行く野馬。朝食の支度をする母の足音。雲の切れ間。あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。明けない夜は無い。
                                 (47ページ)

 「あなたにも、私にも。あなただけの、私だけの。同じ朝が来る。」この矛盾が美しい。あなただけの、私だけの「同じ朝」というものはない。あなただけの朝と、私だけの朝は同じではない。同じではないからこそ、あなただけの、私だけのという表現が成り立つのだけれど、その違いがあってもなお「同じ朝」と呼べる瞬間があるのだ。時間が動く。時が動くという、その「動き」が「同じ」なのだ。
 それは「明けない夜は無い」というときの「時間」の動きと「同じ」である。そして、それはことばとともに動くのだ。ことばとともに生き返るのだ。




パパの子育て奮闘記―大地のほっぺたに顔をくっつけて
和合 亮一
サンガ



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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)

2011-05-19 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(16)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 きのう、高村光太郎の詩を思い出し、和合のことばはツイッター初日の書き込みとは違ったぐあいに動いた。ことばが「美しく」なった。「なつかしく」なった。怒りや不安以外のことばが動きはじめた。いや、それまでも「やさしさ」とか「感謝」のことばはあったのだが、高村光太郎の詩を思い出す以前は、まずことばと「事象(もの)」を結びあわせることの方が優先されていた。高村光太郎の詩を思い出したあとは、ことばは「思い」を整える具合に動いている。思ったことをただ書くのではなく、こんなふうに思いたい--そういう方向に動いている。「思い」を育てている。ことばは、何かを育てるという仕事をするのだ。「肉体」のなかに隠れている何かが動きだすように励ます仕事をするのだ。(もちろん、それ以前のことばも怒りとか不安を明確にするという大事な仕事をしているのだけれど……。)そういう仕事をしたあとで、和合の意識は、より明確になる。

私は震災の福島を、言葉で埋め尽くしてやる。コンドハ負ケネエゾ。
                                 (43ページ)

 これは、

気に入らなかったのかい? けっ、俺あ、どこまでもてめえをめちゃくちゃにしてやるぞ。
                                 (39ページ)

だいぶ、長い横揺れだ。賭けるか、あんたが勝つか、俺が勝つか。けっ、今回はそろそろ駄目だが、次回はてめえをめちゃくちゃにしてやっぞ。
                                 (40ページ)

 を、言いなおしたもの。書き直したものである。 3月16日は「大震災(余震)」そのものを「めちゃくちゃにしてやる」、ことばで大震災に勝って見せると書いていた。このこと、和合はその「勝つ」ということを「めちゃくちゃにしてやる」という、ことばにはなりきれない「感情」そのものとして書いていた。
 いまは震災に勝つとはどういうことかを知っている。それは震災をことばで埋めつくすことだ。怒りや不安だけではなく、ある一瞬一瞬の「希望」も含めて、あらゆることをことばで埋めつくす。卒業式ができなかったこどもへの「思い」、こどもたちへの励まし、こどもたちへの願いを含めて、あらゆることをことばにする。そのとき、人間は「事象」に真の「意味」を与え、「事象」をしっかりと消化できたことになる--和合はそう考えているのだと思う。

あなたはどこに居ますか。私は暗い部屋に一人で言葉の前に座っています。あなたの言葉になりたい。
                                 (43ページ)

私は一人、暗い部屋の中で言葉の前に座っている。あなたはどこに居ますか。言葉の前に座っていますか。
                                 (44ページ)

 「あなた」もことばを出してください。「声」を出してください、と和合は呼び掛けている。ことばは、でも、簡単には出てこない。大震災のように、まったく知らないことが起きたときは、ことばが動かない。それは和合自身が体験したことだ。だから、もし、あなたのことばがまだ動かないなら、私のことばのそばに寄り添ってください。和合が高村光太郎の詩に寄り添うことでことばを思い出したように、そうすることであなたもことばを思い出すかもしれない。そのときの「あなたの言葉」を支える力になりたい--「あなたの言葉になりたい」には、そういう思いが込められていると思う。

言葉の後ろ背を見ていますか。言葉に追い掛けられていますか。言葉の横に恋人と一緒にいるみたいに寄り添っていますか。それとも言葉に頭の上から怒鳴られていますか。

僕はあなたです。あなたは僕です。

僕はあなたの心の中で言葉の前に座りたいのです。あなたに僕の心の中で言葉の前に座って欲しいのです。生きると覚悟した者、無念に死に行く者。たくさんの言葉が、心の中のがれきに紛れている。
                                 (44ページ)

 ことばは、震災のあとの街のがれきのように、こころのなかで砕けて散らばっている。下敷きになっている。そのひとつひとつを拾い集め、汚れを取り払って、元の姿に、元の姿以上に強いものにしたい。そういうことばとともに生きたい。そうすることが震災に勝つことだ、と和合ははっきり自覚している。
 高村光太郎の詩は、こういう「きっかけ」になっている。
 「文学は何の役に立つか」とはいつの時代でも問われることだが、文学はことばを甦らせるのに役立つ。それはなくてはならないものである。衝撃的なことが起きたとき、ひとはことばを失う。どう言っていいかわからない。そのどう言っていいかわからない無力感--それを奥深いところで支え、もういちどことばを甦らせる。その「きっかけ」として「文学」は必要なのだ。
 ことばは、自分一人でつくりあげるものではない。いつでも、他人と触れ合って、ことばが動く。そのことばの運動の「軌跡」(証拠)として「文学」がある。まず、ひとは、そういうものに頼る。すがる。助けを求める。--これは、とても自然なことである。
 阪神大震災を体験した季村敏夫の『日々の、すみか』では、そういうことばとして魯迅の何かが引用されていた。うろ覚えで申し訳ないが、「人が死んだあとでも魂はあるのか。家族は死んだあとでまた会えるのか」というようなことを誰かに聞かれ、答えにつまったというようなことが書かれている作品である。その「問い」のことばは、阪神大震災を体験したひとの、ことばにならないことばそのもののように思える。そのことばを思い出すことで、季村の詩は動いていくのだが、同じように、このことばとともに動きだす東日本大震災の被災者がいると思う。「文学」(私たちに先だって存在することば)は、私たちの、ことばにならないことば、「肉体」のなかでうごめいている「声」を形にしてくれる。誘い水になってくれる。
 ことばは、そうやって、何かに頼って動きながら、頼ること、頼りあうこと、寄り添うことで、ひとの整える。肉体を整える。暮らしを整える。つまり「思想」になる。

僕はあなたは、この世に、なぜ生きる。僕はあなたは、この世に、なぜ生まれた。僕はあなたは、この世に、何を信じる。

海のきらめきを、風の吐息を、草いきれと、星の輝きを、石ころの歴史を、土の親しさを、雲の切れ間を、そのような故郷を、故郷を信じる。
                               (44-45ページ)

 和合が「故郷」と呼んでいるもののなかに、私は「文学」をも含めたい。和合が「故郷」を描写したことば、それは「文学」(詩)そのものである。

 「文学」について書いたので、少し書き漏らしたことを補足しておく。「文学」は「海のきらめき、風の吐息……」というようなわかりやすく親しみやすいものだけでもない。時には異様なものも含んでいる。
 和合は、そういうもの、不思議な「イメージ」も書いている。「常套句」にはなりえない不思議なことばも書いている。17日のツイッターに戻るのだが、「しー、余震だ。」と書いたあとに、和合独自のことばが動いている。

横に揺れる幅が相変わらずに大きい。何かに乗っているような心地になる。馬の背中が大地だとすれば、私たちは騎手。悲しい騎手。
                                 (40ページ)
 
 自身を馬の背中と感じている。ここには「南相馬市」という地名に「馬」があることが関係しているかもしれない。「馬」の産地であるということが関係しているかもしれない。地名のなかにひそんでいることばがイメージを飛躍させるのである。
 この馬は、形をかえてあらわれる。

福島競馬場は、激しい馬の競り合いと、それに賭ける人々で余念が無い場所である。しかし噂では、この競技場の地下に非常時の巨大な貯水庫があるのだ、とか。私たちは馬の先行争いに一喜一憂する。きみはひづめの祝福を喜べ。眠れないなら想像せよ。地の底深くに、水は、昏昏と眠っている。
                                 (43ページ)

 地震-地下の揺れ、馬-競馬場の地下、水不足-巨大な貯水庫。ことばがことばを呼びあって、イメージをつくる。(イメージではなく、ほんとうに巨大な貯水庫があるのかもしれないが--それは、いまは確認されていないから、イメージである。)
 こういうことばの運動は、いま起きていること、わけのわからないことに、強い印象を与える。わからないことがらを、ある「結晶状態」にする。

馬のいななきは何も変わるまい。夜ノ森の桜は何も変わるまい。海鳴りはがれきを悲しくぬらしながらも、時を削らない。
                                 (44ページ)

 イメージは、自然(天体)と同じように、非情なものである。非情な、というのは、人間の立場に立って、人が困っているなら助けようというようなことをしない、という意味である。完全に独立して、自由である。そこに自然や天体やイメージの美しさがある。(こういうことばは、それそこ震災の被災者には「非情」に響いてしまうかもしれないけれど……。)
 そして、それが非情で美しいからこそ、ひとを、そのことばを美しく鍛え上げもする。ひとのことばをやさしさへと導く。何か、そういう力がある。
 「馬のいななき」を書いたあと、和合は、次のように書いている。

お願いです。南相馬市を救ってください。浜通りの美しさを戻してください。空気の清々しさを。私たちの心の中には、大海原の涙しかない。
                                 (44ページ)



現代詩手帖 2011年 05月号 [雑誌]
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(15)

2011-05-18 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(15)(「現代詩手帖」2011年05月号)

 和合が一日で書いた「詩の礫」を読むのにちょうど2週間かかった。もっとていねいに読まなければ和合の声を聞いたことにはならないのかもしれないという思いと、こんなふうに遅れながら読み進むと和合の声からどんどん遅れてしまうという思いが交錯する。どんなふうに読み進めばいいのかわからない。わからないけれど、少しスピードをあげて読んでみる。途中をとばしながら感想を書きつづけてみる。
 きょう読むのは「2011.3.17 」の日付かある「02」の部分。

ひどい揺れの中で、眠っていたわけではないが、また目覚めた。眠ることなぞ、ほとんど無い。いつも目覚めさせられてばかり。揺り動かされてばかり、しーっ。余震だ。
                                 (40ページ)

 「しーっ。余震だ。」あるいは「しーっ、余震だ。」という表現は、このあと何度も出てくる。

まず地鳴りがする。そして揺れる。一瞬、何かがはしゃぐのだ。ほら、この静けさは騒がしい。しーっ、余震だ。
                                 (42ページ)

ガソリンもなく、放射能が降ってくるので、今日は家に隠れていた。誰とも語らず、何も考えない。しだいに息を殺しているこの部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。しーっ、余震だ。
                                 (42ページ)

 和合は、何かを聞き取ろうとしている。何かが聞こえる。けれど、そのほんとうの「ことば」が聞こえないとき、私たちは「しーっ、静かに」という。それは「ほら、いま聞こえることば(音)をしっかり聞いて、重要なことなんだから」という意味である。「余震」に何か「意味」があるかどうか、わからない。けれど、何かを和合は感じている。
 これは一日目の、

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何か。そこに意味はあるのか。

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じればいいのか。

放射能が降っています。静かな静かな夜です。
                                 (38ページ)

 と呼応しているように思える。「震災は何を私たちに教えたいのか」と問うとき、その「声(答え)」を聞きたいと和合は願っている。けれど、聞こえない。それが「静か」である。「静かな静かな」である。「震災の声」が聞こえない。
 「震災」というものが「声」をもたないとすれば。
 それは、和合には「意味」が見つからないということでもある。「震災」は起きた。その「事後」に「意味」は生まれてくる。そうだとして、その「意味」がまだ和合には見つからない。和合は、その答えを「震災」というよりも、その「事後」に聞こうとしている。「事後」というのは、その「震災」を受け止めた和合の「肉体」のことかもしれない。震災があり、肉体があり、何かを感じる。恐怖や不安や怒り。そういうものが「肉体」のなかに蓄積し、「意味」になろうとしている。しかし、まだ「意味」になりきれていない。「声」にならない「声」がどこかにある。和合はそれを聞き取ろうとしている。
 余震のたびに、「肉体」が反応する。それは、また「肉体」のなかで、ことばが生まれようとする瞬間かもしれない。だから、和合は言うのだ。

しーっ、余震だ。

 そして、この「しーっ、余震だ。」は、とても不思議なことに、矛盾を含んだことばといっしょに書かれている。
 「この静けさは騒がしい。」静けさは静けさであり、そこに音がないはずなのだが和合は「騒がしい」と感じる。それは、和合の「肉体」の外にある「騒がしさ」ではない。和合の「肉体」の内部の「騒がしさ」なのだ。何かを感じる。そして、それがことばにならない。声にならない。けれど、うごめく--それを感じて「騒がしい」と和合は呼んでいるのだ。和合の肉体は、肉体から「声」そのものを聞きたくて、「しーっ、静かに」と言っているのだ。
 「誰とも語らず、何も考えない。」誰とも語らずというのは「真実」かもしれない。けれど「何も考えない」は変である。「何も考えない」と書いているかぎり「何も考えない」と考えている。思っている。ことばを、そうやって動かしている。矛盾している。だから、ここに「思想」がある。それまでのことばでは言えない何かがある。
 「この部屋そのものが自分で、私はここには居ないことに気づいた。」私はいるけれど、「いない」と感じてしまう。この矛盾のなかにも「思想」がある。いままでのことばでは言えない「こと」がある。ことばにならない「こと」がある。
 「私が居ない」のはなぜか。

死者・行方不明者は13400人。ここには居ない。

 「私(和合)」は、この部屋には居ない「死者・行方不明者、13400人」とともにいるからだ。
 そして、「しーっ、余震だ。」(しーっ、静かに、耳をすませて)というとき、それはここにいない死者・行方不明者、13400人の「肉体」の声を聞くことでもあるのだ。和合は自分自身の肉体の内部でうごめいている「声」(ことばにならないことば)を聞くように、死者・行方不明者のことばを聞こうとしているのだ。

 ことばを聞く--耳をすます。そのとき、

女川。美しい港町だった。さんまが美味しかった。高村光太郎の碑があった。海で魚を捕ることは、人が原始に帰る興奮を味わうことだ、そんなことが美しく簡潔に書かれていた。
                                 (41ページ)

 正確に、ではないが、和合は高村光太郎のことばを思い出している。
 この部分を読んだとき、私は季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出した。阪神大震災を体験した季村のその詩集のなかに、よく似たことが書かれていた。ことはば、自分のことばが動きだす前に、誰かのことばを借りて(すでにあることばを借りて)動きだすのである。他人のことば、既成のことばをそのままに--必ずしも、既成のことばそのままにというのではないけれど、自分が知っている「確かなことば」に励まされるようにして、誘い出されるようにして、ことばは動きだすのだ。
 何かわからなくなったとき、本を読む--というのは、そういう「ことばの誘い水」の力を借りることだ。
 高村光太郎のことば、その詩を思い出したあと、和合のことばは明らかに違ってくる。怒りや絶望や不安はまだ和合の肉体のなかにあるだろうけれど、それとは違ったことばが動きだすのだ。おばあちゃんにかけたやさしいことばとはまた違った美しいことばが動きだすのだ。だれもが、詩、と思うようなことばが動きはじめる。
 予定されていた小学校の卒業式がなくなったと書いたあと、和合はことばをつづける。

きみのまなざしは新しくなった春には花と鳥を映して夏には海と雲を求めて やさしくなったきみのまなざしは深くなった秋には銀杏の樹を見上げて冬には冷たい風の歌を耳にしていろんなことを知った
                                 (41ページ)

きみたちは学んだ ある朝に 命について ある夏に 時間について ある本で 世界について あの丘で ともについて かけがえのない 「愛」について このことの勉強には 卒業はないのだけれど
                                 (41ページ)

父もまた あどけない 幼いきみの笑い顔から いつか 卒業しなくてはいけないね 母もまた あどけない 幼いきみの泣き顔から いつか 卒業しなくてはいけないね
                                 (42ページ)

きみのまなざしは一日を知ったきみのまなざしは宇宙を知ったきみはまた追い掛けるだろうきみはまた追い越すのだろう今日という一日を卒業するために明日という季節を卒業するために
                                 (43ページ)

 ここにあることばは大震災に傷ついていない。いや、傷ついていないというと、それは間違いなるのだが、傷つきながら、その傷をはね返して生きている。生き返っている。
 「しーっ、余震だ。」と書いたとき、和合は高村光太郎の「声」を聞くことを念頭においていたとは言えないと思う。何かわからないけれど、何かを聞こうとしていた。そして、偶然のように、「女川」を思い出し、高村光太郎の詩を思い出したのだと思うけれど、そこから、ことばがいのちを回復した。
 「しーっ」という「肉体」そのものへ呼び掛けることば。
 そして、肉体のなにか残っていた高村光太郎のことば。
 そのことばに励まされるようにして、和合の、怒りでも、不安でも、恐怖でもないことばが生き返ってきた。「きみ」に語りはじめた。





地球頭脳詩篇
和合 亮一
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和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)

2011-05-17 23:59:59 | 詩の礫
和合亮一「詩の礫2011.3.1-4.9 」(14)(「現代詩手帖」2011年05月号)

0時。ヒサイ6ニチメ。サッキノウソ。コンドハ6ニチメ。コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。
                                 (40ページ)

 「サッキノウソ」というのは、「本日で被災六日目になります」(38ページ)「シンサイ6ニチメ。ウマイコーヒーガ、ノミタイ」(39ページ)が間違いだったということだろう。0時という区切りの時間に出会い、和合が自分の「意識」を再点検して、数え方が間違っていたということに気がついたのである。
 和合の「詩の礫」はツイッターに書き込まれたものである。ツイッターの書き込みが「修正(訂正)」が可能なものであるかどうか私は知らないが、書き間違えたところまで戻って書き直すのではなく、間違いは間違いのまま残しておいて、修正しながら書きつないでゆく、ということばの運動を和合が選んでいることになる。
 ここに和合の、この詩の特徴があらわれている。
 気がつけば直す。何か、ある結論をめざしてことばを「論理的」に積み重ねて行くのではなく、そのときそのときの「真実」を書くことで、前に進み、同時に過去を修正する。前に進むこと(書きつづけること)は、それまでに書いたこと(過去)を常に修正することなのである。別なことばで言えば、過去を「耕す」ことである。
 大震災について書きつづけること、6日目、7日目……と書きつづけることは、同時に大震災の発生日、その瞬間に戻ることでもあるのだ。何が起きたのか。それを見つめなおしつづけることなのだ。

コレカラ、イツカカン。ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。

 これは、「詩の礫」を書きはじめ、これから5日間かけて作品を完成させ、自分の経験したことについて「決着」をつけたい、という意味ではない。
 「コレカラ」はむしろ「コレマデノ」である。これまでの5日間、大震災以後、何も書かなかった5日間へ向けて、ことばを動かしていく。実際には、7日目、8日目とツイッターで書き進むのだが、それは過去の、「ことば」が生まれてこなかった5日間の、生まれるはずだったことばを探し求めることなのだ。

ものみな全ての事象における意味などは、それらの事後に生ずるものなのでしょう。ならば「事後」そのものの意味とは、何なのか。そこに意味はあるのか。
                                 (38ページ)

 と、和合は書いていたが、「事後」から「事(こと)」の生まれる瞬間へ向かってしかことばは動かせないのである。そして、「事後」から「事」へ向けて書くこと、それは「意味」をつくることなのだ。「意味」は「生じてくる」のではなく、ことばで「生み出す」ものなのだ。「生み出す」のもであるからこそ、「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ。」と言えるのだ。「ワタシ」が、深く関与することができるのだ。

台所。メチャクチャになった皿を片付けていた。一つずつそれを箱に入れながら、情けなくなった。自分も、台所も、世界も。
                                 (40ページ)

 生きることは、いま、そこにあらわれてきた「過去」と向き合うことである。「未来」へ進むことは、常に「過去」と向き合い、「過去」を修正することである。「サッキノウソ。コンドハ6ニチメ」と「ことば」を修正したように、いま、和合は「台所」にあらわれた「過去(大震災・事象)」と向き合い、それを「修正(修復)」している。そして、「情けなくなった」。この「情けなくなった」は何だろう。自分にできることの少なさ、非力さの実感だろうか。自分の肉体を動かしながら「事象」をどれだけ「修復」できるか。「過去」を整えながら、「未来」へ進んでいくことができるか。
 自分の肉体がある「台所」を思う。それから、その外に広がって行く「世界」を思う。どこまで、肉体が関与できるか。そう思うとき、たしかに「非力」を実感するしかないのだと思う。
 しかし、和合は、肉体を動かすと同時に、ことばを動かす。

明けない夜は無い。
                                 (40ページ)

 夜は必ず朝になる--という天体の運動のことを和合は書いているだけではないのだ。天体の運動がそうであるように、必ず、この「非力」から立ち直り、ことばを修復できる--和合は、そのことを祈っているのだ。
 「ワタシハ、ケッチャクヲツケタイ」は、ことばを再生させる、ことばに「朝」を取り戻すということである。それまで和合は書きつづけると宣言しているのである。





黄金少年 ゴールデン・ボーイ
和合 亮一
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