詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『こころ』(2)

2013-06-30 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『こころ』(2)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのう書いた感想は、「意味」が途中で消えて、「意味」が消えた瞬間に詩が生まれる--という「説明」に最適とは言えなかったかもしれない。どうも、うまく書けない。もう一度、書いてみることにする。
 「捨てたい」という詩。

私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 「捨てたい」が繰り返される。そしてそれはほんとうは捨てられない。ネックレスも本も携帯もお母さんも弟も家も、好きだから捨てられない。このときの「好き」は「感情」が移っているからと言いなおすことができるかもしれない。ネックレスや本や携帯は「感情」をもたない。けれど、そこには「私」の「感情」が乗り移っていて、それは「私」なのだ。お母さん、弟にも「私の感情」が乗り移っていて、「他人」だけれど、どこか「私」である部分もある。「一体」になっている部分がある。
 「肉体」が「分有/共有」されているのだ、と私は、こういうとき書くのだけれど……。
 もし、それを捨てることができたら、それは「私」が「私だけ」になること。「分有/共有」はない。
 そのあと、谷川のこの詩は、とてもおもしろい展開をする。

すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう

 「私だけ」になったら「寂しい」。これは「感情」として、わかるね。
 でも、そのあとの、

心と体は捨てられないから

 これが、ほんとうに不思議。というか……。
 「捨てられないから」の「から」。これは「理由」だね。ここには「論理」が入っている。ネックレスを捨てたい、本を捨てたい……と「捨てたい」を繰り返していたとき、そこには「論理」というものはない。ただ「気持ち(感情)」がある。
 感情は感情のままでも「説得力」があると思うけれど、谷川はこれを「論理」で「補強」する。「論理」構造を持ち込み、そこに「論理の成立」を見る。あ、変なことば。「論理を成立させる」。そうすると、そこに、とても強い「意味」が生まれる。
 「論理」によって、次の「怖い」という感情、「迷う」という精神状態が「意味」となって迫ってくる。「意味」がわかる。
 何もかも捨てても「私」の「心と体」は捨てられない。「私」は「心と体」がだれかによって支えられるということがなくなるということを知り、怖くもなれば迷いもする。そういうことが「論理的」に書かれている。
 そういう「論理」(意味)に、もう一度、その「論理」と対抗する「論理」がぶつけられる。だれかの力を借りるのではなく、だれかに支えられるのではなく、

でも私はひとりで決めたい

 そのとき、気づきました? また「でも」という「論理」のことばが入っている。「でも」と「逆接」を導くことばだね。(さっき見た「……から」は「順接」。)
 いままで書いてきたこととは逆のことをいうとき「でも」ということばをつかう。「これから逆のことをいいますよ」とことわって、その「論理」を完成させる。その「論理」も、また「意味」である。谷川はこういう「論理」をつかって、ことばを動かす。「意味」をことばの推進力にすることが多い。

 私は何もかも捨てたい。何もかも捨てると怖い。でも、何もかもひとりで決めたい。そのために捨てたい--そういう「論理」と「意味」がここには書かれている。そして、その「論理」と「意味」は、何かしら前に書いたことを否定しながら動いている。「……から」という「順接」でさえ、前に書いたことを乗り越えて行っている。
 大げさに言うと「意味」を否定しながらことばが動き、その否定と同時にあらわれるものに、あ、いいなあ、と思う。感動する。否定と同時にあらわれるものを「詩」だなあ、と思う。
 谷川の詩はそういう構造になっている。

 と、ここまでなら、たぶんそれは「詩」の「起承転結」という「構造」にいくらか似ているかもしれない。洗練されすぎていて「起承転結」という印象が起きないのだけれど、やはり「起承転結」という詩の定型を谷川は利用していることになる。
 さらに補足すると、その「起承転結」という「ことばの運動」は「論理」の運動でもある。最初のことば「起」をつぎのことばが継「承」する。受け継ぐ。このときは「順接」。そしてそれを次のことばが「転」換する。このときしばしば「逆接」というスタイルがとられる。「逆接」は「否定」を含んでいる。そのあとで、すべてをひっくるめて「結」論があるのだけれど、この「結論」のなかにはつまり矛盾、混沌が、「順接/逆接」が一体になっている。「順接/逆接」を一体にすることで、ことばのあり方を「意味」以前に戻すとも言える。「意味」を書きながら、同時に「意味」を解体し、「意味」以前にする。
 谷川は「起承転結」の運動を洗練した形で引き継ぎ、利用している。
 だけではなく、さらに発展させる。
 その「洗練」を具体的に見てみると……。

いちばん欲しいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 この最後の「一番星のような気持ちで」。この「意味」(論理)を私ははっきりとつかみ取ることができない。説明できない。「論理」がどんな具合に動いて「一番星」になるのか「わからない」。
 「わからない」が、しかし、「わかる」。
 「意味」(論理)は「わからない」。しかし、「一番星」が「一番星」そのものとして、「わかる」。直接、「一番星」を思い出してしまう。「一番星」を見たときの、あの瞬間を思い出してしまう。「一番星」が「もの」として直接、私にぶつかっている。
 「意味」ではなく「もの」がわかるのだ。「無意味」がわかるのだ。
 こういう瞬間に、あ、詩だ、と心底思うのだ。こころが震えるのだ。
 「気持ち」とか「論理」とかではなく、「もの」をとおして、私は谷川とつながった(交わった/交じりあってしまった)と感じる。谷川を忘れてしまう、といってもいい。
 「意味」が消え、書いた詩人が消える。その瞬間に、そこに詩がある。「無意味」という自然(宇宙)、「意味」を拒絶するというよりも、「意味」になる前の自然(宇宙)が突然浮かび上がる。その自然(宇宙)に読者は(私は)突然、ひとり、の状態でほうりだされる。
 そうすると、私自身も消えて、そこに「一番星」だけが、「ある」。





こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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キム・ギドク監督「嘆きのピエタ」(★★★★★)

2013-06-30 21:31:11 | 映画
監督 キム・ギドク 出演 チョ・ミンス、イ・ジョンジン



 チョ・ミンス(母親と名乗る女)がイ・ジョンジン(借金取り立て屋)に強姦されたあとのシーンが非常にすばらしい。女の姿と男の姿が交互にスクリーンに映し出されるのだが、そこには「意味」がない。
 ふつう、こういうシーンのとき、そこには「感情」という「意味」がある。強姦された方は当然だが、強姦した方も、ほんとうにセックスがしたくてしたわけではないので、悲しみ、怒り、失望、困惑というものが「肉体」からあふれ出てきて、それがスクリーンを埋めつくし、それが「意味」となって、次の映像へとつながっていく。「物語」を動かしていく。たとえば「悲しみ」なら、その「悲しみ」がふたりによって共有され、それ以後の関係を自然とつくっていく。母親の「悲しみ」に息子の「後悔」が寄り添い、ふたりの絆が深まるという具合に。
 ところが、この映画では、そこには「感情」がない。あるのかも知れないが、うまく整理されていない。ある位置にカメラが据えつけられていて、その枠の中で役者の肉体がある時間をもって映し出されれば、そこにおのずと「感情」があふれてくるのだが(たとえば、涙が目からあふれて流れる--という映像なら「悲しみ」を表現する)、画面が何度も切り替わる。女から、男へ、男から、女へ。何度も切り替わりながら、どんな「感情」も明確にしない。いったい、どんな「感情」を伝えようとしているのかわからない。「意味」がつたわってこない。
 で、この「意味」がつたわってこないところが、心臓が凍りつくくらいにすばらしい。体が動かない。目が離せない。
 「意味」がわからないとはどういうことか。「意味」がわからないとは、言いなおせば、それから以後に起きることの予測がつかないということである。
 予測を補足すると。たとえば、女が最初に男の部屋を訪ねてくるシーン。男はドアに手が挟まれるのを承知でドアを閉める。ふつうは「痛い」ので女は手を引く。そしてドアは閉まる。ところが女は手を引かない。痛いという表情も見せない。そうすると、あ、女は何があっても男の部屋に入り込むという強い意思をもっている、その結果、女の意思に押し切られるように女と男はいっしょに住むようになる--ということが予測できる。そして映画はその通りに進むのだが、「強姦」のあとは、どうなるのかさっぱりわからない。
 女は出て行くのか。いっしょに住みつづけるのか。そのときの二人の関係はどんな「意味」を持ちながら動くのか。母親と息子という関係はなくなり、女と男の関係になるのか、もしそういう関係がつづくなら、そのとき「感情」はどう動くのか。手がかりがまったくない。ここには、いわゆる「映画文法」がないのだ。文法を否定したまったく新しい映像が、映像としてだけ存在する。これは画期的なことである。
 この画期的を別の映画を引用することで補強するなら。たとえば「シックス・センス」。ブルース・ウィルスが事故に遭う。そのあと病院から退院するのだが、退院後のシーンがはじまる前に大学のキャンパスが一瞬映し出される。1秒くらいだが、その映像は、事故までの映像とまったく違っていて、見た瞬間、あ、ここからはいままでの「世界」とは違う「世界」がはじまるということがわかる。これは「映画文法」をきちんと守って映像を撮っているからである。
 「嘆きのピエタ」は、これともまったく違う。だいたい、強姦のあとのシーンが、ふつうの映画と比べて長すぎるし、シーンの切り替えが多くて、いったい何のために映しているのかさっぱりわからない。
 繰り返すけれど、この「わからない」がほんとうにすばらしい。だいたい監督にしろ、役者にしろ、「脚本」があって結末を知っているはずなのに、その途中に、物語がどう展開するか「わからない」というような「無意味」なシーンがあるということは、本来なら「駄作」の要因になる。むだなシーンが多くて退屈ということになるはずなのに、この映画では、そうではないのだ。
 監督も役者もカメラも、「物語」を知らないんじゃないか、脚本はまだ存在していないのじゃないか--と思わせる。この「物語」は決まっていないという強い印象が、そして、以後の「物語」をとても力強く動かしていく。どう変わるか、わからない。わからないから、目が離せない。夢中で、スクリーンのなかに入り込んで、みつめつづけるだけである。登場人物といっしょに生きるだけである。
 母が男をかばうのは、男がほんとうに息子だからなのか。あるいは、男に復讐をするためなのか。そして、復讐をするためとはいえ、いっしょに時間を過ごすことで、その男がどういう人間かわかったとき、それでも平然と復讐できるのか。もし、いっしょに暮らすことで男の悲しみがわかったとしたら、それでも復讐をするのか。復讐に男は気づくのか。気づいたとき、男はどうなるのか。また悪の道にもどるのか。それとも後悔し別の人間に生まれ変わるのか。まったく予測がつかない。はらはら、どきどきする。はらはらどきどきしながら、胸が痛くなる。
 この映画は、いわば予測を拒絶して、「いま/ここ」のままの時間を観客に突きつける。その、壮大な「伏線」が、強姦シーンのあとの、「無意味」に徹した複数の映像なのである。このシーンだけで、この映画は映画史に残る。このシーンを見逃したら、この映画を見たことにはならない。大傑作。2013年の見逃してはならない映画の1本。すぐに見にゆこう。
                      (2013年06月30日、KBCシネマ2)



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谷川俊太郎『こころ』

2013-06-29 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『こころ』(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのう、谷川俊太郎『ミライノコドモ』の感想で、谷川は「意味」から書きはじめるが、その「意味」は途中で消えて、その瞬間に詩が生まれる、と書いた。そのつづきを「『ここ』の作品で書いてみる。(『こころ』の作品は朝日新聞に連載されたもので、そのときからときどき感想を書いていたので、以前書いたことと重複するかもしれないが。)
 「水のたとえ」の全行。

あなたの心は沸騰しない
あなたの心は凍らない
あなたの心は人里離れた静かな池
どんな風にも波立たないから
ときどき怖くなる

あなたの池に飛び込みたいけど
潜ってみたいと思うけど
透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
わからないからためらってしまう

思い切って石を投げよう あなたの池に
波紋が足を濡(ぬ)らしたら
水しぶきが顔にかかったら
わたしはもっとあなたが好きになる

 「池」は「あなたの心」である。「池」は比喩である。そして、その「意味」は「沸騰しない」(怒らない)「凍らない」(冷たく拒絶することはない)「静か」「波立たない」(落ち着いている)。それがあまりに落ち着いているので、「怖くなる」。たぶん、「わたし」が知っている「心(私の心)」とは違うからである。
 2連目も「比喩」と「意味」が繰り返される。ただし、これはよく読むと不思議である。

透明なのか濁っているのか
深いのか浅いのか
わからない

 「沸騰しない」「凍らない」「波立たない」ということは1連目では「わかっている」。でも2連目では「透明なのか濁っているのか」さえ、わからない。こういうことは、私の経験からいうと、少し変である。「池」を実際に思い浮かべると、その「変」が見えている。私の知っている池、たとえばふるさとの山の中にある池は「透明」である。そして「深い」。けれど、犬といっしょに散歩する大濠公園の池は、かなり「濁っている」。そして「浅い」。それが、「わからない」ということはない。
 谷川のことばは、「あなたの心」を「池」という「比喩=意味」にしたあと、つづけてその「池」をみつめるのではなく、ちょっと「飛躍」する。「あなたの」をいったん取り外しているように見える。あるいは1連目で書いたことを忘れてしまう、と言えばいいのか。新しく「池」を見つめなおす。「池」の「属性(?)」を「透明/濁る」「深い/浅い」でとらえ直す。
 詩の用語(?)に起承転結というレトリックがあるが、2連目は「承」であると同時に「転」を含んでいる。なんだか見落としてしまいそうだが。
 3連目は、もっと「飛躍」する。2連目の「あなたの池に飛び込みたい」は「わたし」の直接的な行動である。3連目の「石を投げる」は「わたし」を安全な場所においている。直接触れるのは「石」であって「わたし」ではない。3連目の1行目は、起承転結の「転」そのものである。で、そこから、突然「結」になる。「池」が「水」にかわって、

波紋が足を濡らしたら
水しぶきが顔にかかったら

 これは「池」である必要がない。「川」であっても「海」であっても、石を投げて、その反響として波紋が足を濡らす、水しぶきが顔にかかるということはあり得るからね。
 この瞬間、実は「池」は消えていて「水」があらわれている。もちろん「池=水」なのだから、「池」が完全に消えたわけではないけれど、「池」よりも「水」が前面に出ている。2連目の「透明なのか濁っているのか/深いのか浅いのか」も「水」ではあるけれど、「池」の印象の方が強い。「池」だから「深いのか/浅いのか」が問われる。それは「水」の属性であるよりも「池」の属性である。「濡れる」「顔にかかる」は「池」の属性であるよりも「水」の属性である。「池」が濡らすのではないからね。
 「池=水がある場所」という「意味」が消えて、「水」だけがそこから抽出されている。こういうことを「意味」が消えるとはいわないけれど、「意味が消える」と「方便」で言ってみると、谷川の詩の特徴がわかりやすくなる。
 「あなたの心=池」「池=水」「水=濡れる=わたしとの直接的な触れ合い」と「意味」が変化し(変化とともに、前の意味が消え、新しい意味にとってかわり)、

わたしはもっとあなたが好きになる

 あ、この瞬間、私はちょっとことばを失う。「わかる」のだが、その「わかる」を私のことばで言いなおそうとするとかなりややこしいのである。
 谷川は、この最後の1行にたどりつくまで「あなた」を「あなた」ではなく、「あなたの心」と言っていた。だから、論理的(?)に言えば、厳密に「意味」を追いかけていけば、この最後の行は、

わたしはもっとあなた「の心」が好きになる

 でないといけない。
 でも、「あなたの心が好きになる」なんて、変なことばは、日常的にはつかわない。だから、谷川は、そんなふうに書かないのだけれど--でも、「あなたの心」を「池」と呼ぶのだって日常的にはしないからねえ。「池」というような「比喩」をつかった言い方は、まあ、日常の会話ではなく、詩だからね。--というのは、脱線で……。
 元にもどると。
 「あなたの心」と書きはじめて、「あなた」に突然、「飛躍」する。この「飛躍」が「飛躍」としてあまり強く感じられないのは、私たちが「あなた(人間)」を想像するとき、そこに「こころ」を同時に想像するからだろう。「あなた=こころ」というのは、日常的な「意識」だからだろう。
 「あなた(人間)=こころ」が日常的な意識だから、この最後の行で「心」が省略されても、そんなに違和感がない。そして、省略されたために、逆に「あなた」がより身近にぐいと迫ってくるのだが、この瞬間の「あなたの心」から「あなた」への変化のことを、私は「意味」が消える、というのである。
 「あなた」を「心」として見ている「意味」、「心」を「池」にたとえて見ているときの「意味」、「池」を「水」として見ているときの「意味」がふいに消え、「あなた」だけが直接的にあらわれる。
 それが「こころ」かどうかは、問題ではない。(いや、問題かもしれないけれど……)。ただ「あなた」が「わたし」に直接触れる。その「直接的な接触」--それが「好き」という思いを引き出す。「好き」は「心」の動きかもしれないけれど、でも、違うんだよね。だって、ほら、

波紋が「わたしの心」を濡らしたら
水しぶきが「わたしの心」にかかったら

 とは谷川は書いてはいない。
 「好き」が「心」と「心」の接触なら、そして谷川の書いていることを「論理的」に押し通すなら、「足」や「顔」のかわりには、谷川は「わたしの心」と書かないといけないからね。

 谷川の詩には、何かしら意識しにくい(無意識に近い)逸脱、飛躍があって、それが書きはじめたときの「意味」を消していく。そして、それが消えたとき、そこに詩があらわれる。そこに書かれていることばをそのまま受け止めるしかない何かがあらわれる。それを、私がいま書いたみたいにくだくだと言いなおすと、ややこしくなる。
 私はたぶん書かなくていいことを書いているのだが。




こころ
谷川俊太郎
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谷川俊太郎『ミライノコドモ』

2013-06-28 23:59:59 | 詩集
谷川俊太郎『ミライノコドモ』(岩波書店、2013年06月05日発行)

 谷川俊太郎『ミライノコドモ』を読みはじめてすぐに思った。谷川の詩は「意味」から書きはじめるのに「意味」が消える。その瞬間に詩が生まれる、詩がそこにある、と思った。
 「庭」という巻頭の作品。断章で構成されている。

庭の下に
不発弾が埋まっているのを
幼い女の子は知るよしもない
それが青空から落ちてきたのは遠い昔
落とした敵はもうこの世にはいない
関東ローム層に埋もれた爆弾は
木の実のようには芽ぶかない

 「意味」から書きはじめる--というのは、不発弾の埋まった庭とそれをしらない幼い女の子の組み合わせは、戦争と平和を考えさせるということである。戦争に対して谷川の直接的な言及はない。言及はないけれど、不発弾と幼い女の子というのは、戦争と平和、暴力と無垢のいのちというものを考えさせる。戦争は昔。いまは、平和。その組み合わせから、今が平和でいいなあ、と思う。私がいま書いた思いは図式化されすぎているかもしれないが、この「図式化」のなかに「意味」がある。「意味」とは既製の、確立された概念の動き(概念への整理化の動き)である。
 あるいは。
 「意味」とは一種の「理想」かもしれない。その「理想」へむけて、ことばを統一する力かもしれない。--こういう「統一」を誘うことばというのは、ちょっとうさんくさい。「意味」とはうさんくさいものである、と言い換えることもできる。
 不発弾は木の実のようには芽ぶかない、ということばの運動のなかにも、複数の「意味」がある。不発弾が芽ぶいて爆発したら大変だが、それは爆発はしない。だからこれからも「平和」である。あるいは、木の実のように芽ぶいてくるものが「いのち」である。「不発弾」は「死」である。「死」を埋めて、「いのち」が生きつづける。「幼い女の子」はそういう「いのち」の象徴である。
 --いま書いた私の「意味」は強引であるけれど、そして「意味」になりきれないけれど、言い換えると、きちんと説明しようとするとなんだか面倒だけれど、なんとなく、そういうようなことを「意味」として感じる。そういう方向へ「ことば」を統一しようとする力のようなものを感じる。
 繰り返しになるけれど、この「統一(意味)」を追求する力が強くなると、なんとなく、うさんくさくなる。「平和は大切である」「平和を生きる幼いいのちの美しさをこそ、育てなければならない。女の子のいのちをこそ、芽ぶかせ、花開かせ、実らせるために私たちは生きなければならない」という具合に展開してしまうと、うーん、倫理の教科書みたいで、それはそうなんだけれど、とちょっと身構えてしまう。身が引いてしまうけれど……。
 不思議なのは、そういう「意味」を静かに「暗示」はするけれど、谷川のことばは、そういうふうには動いていかない。動いていきそうになると、それにそっぽを向いて知らん顔をする。「意味」をぱっと振り払って消してしまう。
 この7行のなかでは、

木の実のようには芽ぶかない

 の「ない」が、たぶん、そういう力を荷なっている。不発弾が木の実のように芽ぶいて、育って、爆発したら大変だが、それはそういうことは起きない。だからいまは「平和」である、ということを言っているのかもしれないけれど、

ない

 が不思議なのである。
 私がいま書いたみたいに「平和である」という具合に「肯定」でおわると、そこにひとつの「世界」(平和な世界)の姿が存在するのだけれど、「ない」でおわると、それまで存在したものも何か消えてしまうような感じがする。すべてが「なかった」ことのように感じられ、ことばが動かなくなる。「ない」だけを見せられたような気がする。そうすると、庭で遊んでいた女の子も、不発弾も、みんな、幻のように消えていく。
 そして、消えたのに、どこかで残っている。
 どこに?
 たぶん、そのことばを読んだ私の「肉体」のなかに。
 そこでは女の子と不発弾が、くっついている。「意味」になる前の状態で、ただ、そこにある。そこから「ストーリー(意味)」をつくることはできるけれど、「意味」を捨てて、ただ女の子と不発弾を見ている。
 その感じが、詩、なんだなあ、と思う。何かが生まれてくるという感じ、何かを生み出そうとする力がそこにあると感じることが、詩なのだと思う。

 どの部分を読んでも、それに似た印象が残る。

庭に小鳥が来ている
名前は知らない
図鑑で調べる気もない
いま落葉の上で一瞬じっとして
彼は(それとも彼女は)考えている
私が考えているのとは違うことを
その違いが残念だ

 この断章から、小鳥の考えていることと私(人間)の考えていることは違うという部分を取り出し、そこから「意味」を作り上げていくことができる。というか、なんとなく「意味」をつくりあげ、「これはこういう意味だ」と解説したいような欲望を誘われる。解説した瞬間、それが「わかった」という感じになるからだろうなあ。私たちは(私だけ?)は、何か「わかった」と思う瞬間が好きなのだ。自分がある方向に結晶したような、何かにむけて統一されたような感じ、その統一へむけて動いていけばいいのだという感じが安心感をあたえるのかもしれない。
 谷川は、読者に、そういう「気持ち」をおこさせながら、しかし、その「思い」をひっぱって、谷川のことばのなかに「統一」しようとはしない。「意味」を谷川自身では語らない。ほうりだしてしまう。

その違いが残念だ

 その「残念」ということばのなかにある「断念」。
 何か、思いを「残」しながらも、それを「断」ち切るのが「断念」というものかもしれないそういう思いが同時に自分のなかにも「残る」。ふたつの「残る」はけっして「統一」されない。
 「意味」にならない。
 そこに美しさがある。
 谷川は「意味」を感じさせながら、その「意味」を放棄する。そういうことができる。「意味」をその辺りに(?)漂わせておいて、漂わせながら、それには与しない。
 これは、まるで、自然である。
 「自然」には「意味」がある。つまり、ある種の「統一」を含んでいる。そこから私たちは自分に都合のいい「統一」を取り出して、整理して、「合理的(資本主義的?)」に利用している。わかったつもりになっている。でも、私たちがどんなふうに「わかろう」とも、私たちが「わかっている」ことを考慮して自然が動くわけではない。無関係に存在している。非情のまま存在している。
 その「無関係」「非情」に、谷川の「意味の放棄=詩の誕生(存在)」が、何かとても似ている。

春になるとタンポポが咲く
種子はどこから来たのか
黄色い花はすぐに白い綿毛に変わる
いつの間にか風に乗って
種子はどこかへ旅立つ
どこから来てどこへ行くのか
それを知らないのは私も同じだ

 「知らない」。知らなくてもいいのだ。「知る」ことを私たちは「わかる」ともいうけれど、「わからない」でもいいのだ。わからなくてもいいのだ。わからなくても、存在する。
 言い換えると「意味」にならなくても、「もの(自然)」は存在する。
 「意味」をことばの周囲に漂わせることはする。けれども、その「意味」には絶対にならない。「意味」を拒絶して、「無意味」に帰っていく。「自然」に帰っていく。「自然」と「一体」になるには、「無意味」しかないのである。
 と、書いてしまうと、それはそれで「意味」になってしまうという「間違い」(ストーリー)にしかたどりつけない。

子どもは庭の片隅に穴を掘った
何かを埋めるためではなく
何かを隠すためでもなく
汗をかきかき掘り続け
しばらく自分の穴を楽しんで
それからそれを埋め戻した
誰にも何にも言わずに

 この「子ども」を「谷川俊太郎」に、「穴を掘る」を「詩を書く」に置き換えると、それは谷川の自画像になるだろう。--というようなことも「意味(解説)」になってしまうが、「解説」にしてしまうと、何かが消えていくでしょ?
 遠い記憶。
 穴を掘ったときの、穴を掘ることができるという自分の肉体の力に酔ってしまったような感覚が消える。
 これは、消してはいけない。
 「意味」を消しても、自分の肉体のなかにある「自然」を消してはいけない。
 私たちは「谷川俊太郎」にならないければならないのである。
 「谷川俊太郎」になって、「いま/ここ」を「自然」のまま、呼吸する。「一体」になる。
 この「呼吸」を谷川は、「こだま」と呼んでいる。呼応。響きあい。

「もういいかい」のこだまと
「まあだだよ」のこだまが
思い出の中でもつれ合っている
庭はヒトの歴史に追われながらも
自分自身の歴史を生きている
みみずとともに
霧雨や夕立とともに

 ほら(何が、ほら、かといわれたら困るけれど)、「みみず」「霧雨」「夕立」という「意味」を消していくでしょ? そして「自然」だけが残るでしょ?
 土を掘り返せばみみずがいて、霧雨が降ることもあれば夕立が通り過ぎることもある庭に、ただ、「いる」という感じにつつまれるでしょ?
 「呼応」だとか「こだま」だとか、「歴史」だとか、そういう「意味」が「わかる」としても、その「わかる」にこだわらずに(「わかる」を押し進めないで)、「いま/ここ」に「いる」ということのなかへ帰っていく。そうすると「谷川俊太郎」になる、なれるのだ。

物語には終わりがあるが詩には終わりはない

 詩集の「帯」にもとられている「時」のなかの1行。
 「物語」を「意味」にかえてみれば、谷川の世界がよくわかる。「意味」にはおわりがある。「統一」されて完結する。「統一」が「おわり」である。詩は「統一」ではない。「完結」ではない。それはむしろ「解放」なのである。「意味」をときほぐし(分断し?)、「無意味」にかえしてしまう。「無意味」が自由に動けるようにする。

 「意味」を消してしまうと「詩」が生まれる。




ミライノコドモ
谷川 俊太郎
岩波書店
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和合亮一『廃炉詩篇』

2013-06-27 23:59:59 | 詩集
和合亮一『廃炉詩篇』(思潮社、2013年06月20日発行)

 和合亮一『廃炉詩篇』の感想を書くのはむずかしい。東日本大震災、それによって引き起こされた福島原発の大惨事--そのあとで、ことばは有効か、というようなことが繰り返し問い返されているが。
 「ことば」の定義が、まずむずかしい。
 簡単に言うと、「原発は安全である」という類のことばは、有効かどうか問いただす前に無効になってしまった。では、それが無効であると指摘することばは、どうなのか。私は、これも無効になっていると思う。「原発は安全である」ということばと、「原発は安全ではない」ということばは、同じ場所にあって向き合っている。一方が有効であって、他方が無効というような都合のいい論理は「方便」としてさえ成り立たないと思う。
 しかし、そのことばが無効であったとしても、「原発は安全ではない」としたらどうすればいいのか。どう表現すればいいのか。「原発は安全である」ということばと、どう向き合うべきなのか、正しく向き合うためには「原発は安全ではない」ということばの「場」をどうやってつくればいいのか。
 ことばではなく、「ことばが生まれてくる場」をつくりなおさなければならない。「ことば」ではなく、「ことば」を生み出す力を、これまでとは別の形で育てなければならない。
 --これは、いま書いたみたいに、「形」にして展開することは、意外と簡単である。「論理」というのは、ことばを積み重ねれば、それなりに見えてしまう。「論理」というのは、ことばが運動すれば自然に生まれてくるものだからである。そういうふうに「錯覚」できるものだからである。

 というようなことは、いくら書いてもしようがないなあ……。

 そういうことは考えずに、ただ和合の詩を読んでみようか。いちばん印象に残るのは、それが最初に書かれているからかもしれないが、「俺の死後はいつも無人」の「無人」ということばである。
 「無人」は東日本大震災、福島原発大惨事のあとの東北の街の状態である。その「無人」は、しかしふたつの意味がある。そこにだれもいないという意味で「無人」というとき、それは「ひと」ではなく「場」を差している。そして「ひと」はそれではいないのかというと、いる。「いる」けれど、そこには「入れない」。「入る」能力もある。つまり、歩いて、その「場」にゆく能力はだれもが持っている。けれども、「権力」がそれを拒絶している。自分で行動を決定できるひとは「いない」。「ひとではない(無)」と否定されて、その周囲に「いる」。
 和合が「無人の俺」と和合自身を「無人」と呼ぶときは、後者である。和合は「ひと」である。けれど、その「ひと」の基本的な権利と自由を拒絶されて「ひとではない」状態にいる。「無人」。しかし、この「無人」は、権力が「否定した場」との関係において「無人」なのであって、それ以外の「場」では「ひと」である。けれども、和合は、和合自身を、なによりも拒絶された「場」において存在させようとしているので、それ以外の「場」にいても「無人(無の人、ひとではない)」になってしまう。
 そして、その「無人」の立場から見ると、東京は奇妙である。
 そこには「ひと」はたくさんいる。そして、そのなかには被災地のこと、被災者のことを考えている「ひと」もいる。それでも和合は「無人」の街にしか見えない。和合の「無人」そのものと同じ「無人」を生きているひとがないからである。和合にとっては、ひとは「無人」になったとき、はじめて「ひとり、ふたり」と数えることができる存在になる。和合の「無人」は同類項(共通項)をもたない「孤立」した「無人」である。それは「固有」の「無人」なのである。和合は、東京で彼の「無人」が固有の属性であることを発見する。
 --この私の「定義」には、ずいぶんと矛盾がある。いちばん簡単で大きな矛盾は、「無人」が「固有」である、ということ。「無」がある「ある」ということ。それも譲れないものとして「ある」、絶対的なものとして「ある」ということ。

 この矛盾は、超えられない。
 そして、この矛盾ゆえに、あらゆることばは「無」である。「無意味」である。
 また、この矛盾ゆえに、そのことばは絶対的に有効である。「固有」であるということは、それ自体で「詩」だからである。
 --というのも、矛盾なのだが……。

 こういう矛盾に私たちはどんなふうに向き合うことができる。わからない。「目茶苦茶赤いボールペン」という詩のなかに

正しいのか 正しくないのか 分からないんだ

 という1行があるが、「わからない」としか言いようがない。ただ、そのことばがあるところに、同席することができるだけである。「いっしょに/いる」。そうして、そのことば(矛盾)が何を生み出していくのか、その生成に「立ち会う」ことしかできない。
 何も生み出さないかもしれない。つまり「無(人)」のままかもしれない。あるいは、「いっしょに/いる」人たちをも「無」にしてしまう、否定するだけのことになるかもしれない。そうではなくて、その「矛盾」から「有」が生まれてくるかもしれない。それを期待するしかない。
 もちろん和合の「矛盾」(無人)を完全に引き受けて、「いっしょに/動く」ということができるかもしれない。和合はそれを求めているか。求めていないか。わからないが、この「いっしょに/動く」というのは、ことばでは簡単に言えるけれど(方便だからね)、実際にそうすることむずかしい。私には、どうすれば「いっしょに/動く」が可能なのかわからない。「いっしょに/いる」さえ、たまたま「同時代」を生きているので「いっしょに/いる」ということになっているだけで、これも、ことばのまやかし(方便)だからね。

 で、「いっしょに/いる」と私が主張することが可能であると仮定して、その「いっしょに/いる」という幻想から思いつくことを書くと……。印象を書くと……。
 和合は「無人」であることに気づいているけれど、その「無人のことば」を獲得しているようにはみえない。残念ながら。(もっともこれは和合が「無人」であるために引き起こされた必然であるという具合にことばを展開することもできるのだけれど、私は、そういう具合には考えない。)
 引用しやすいので引用するのだが、たとえば「深夜に大型バスがもはや/頭の中で激しく横転したままだ」の次のような部分。

紫陽花をほろぼしたまま
真夏には電信柱になる
なんという残酷な
初めての春の意味だろう
終わらない穀雨は
深夜の真昼間に
陽の当たらない小道を
火だるまとなって
思惟の正反対方向へと駆け抜けた

 この「語法」(レトリック)には、つまずくところがない。「固有」のものがない。ことばが和合の「無人」を否定している。「現代詩」という「歴史」(時間)が、このレトリックから見えてしまう。そして「レトリック」が「無人」を否定してしまう。
 「レトリック」をとおして、私は和合と「一体」になっていると感じてしまう。もちろん、私の「一体感」は「誤読」かもしれない。私が「現代詩のレトリック」と感じているだけであって、和合は「現代詩のレトリック」を含んでいないというかもしれないけれど。
 うーん、と思ってしまう。これでいいのかなあ。これで「無人」であると言えるのかなあ、と私は疑問である。
 同じ「レトリック」であっても、「終わらない遠近」の

自動販売機が
自動販売機の隣で
釣り銭切れになっている

 ここには「固有」のものを感じた。最初の「自動販売機」と次の「自動販売機」はことばは同じだが、別のものである。別のものを同じことばで言うしかない「矛盾」が、ことばに亀裂を引き起こす。「同じ」を否定する。その瞬間「同じ」が「無」になる。その「無」が和合の「無(人)」と強烈に結託して自己主張する。しているように感じる。

 ことばが多すぎて、ことばが走りすぎて「無人」を置き去りにして、ことばの中身が、他の部分では「無人」になっているのかもしれない。この3行では「無人」ではなく、「固有の個人」という矛盾が結晶している。
 この「矛盾」につきあっていきたい。









廃炉詩篇[single]
和合 亮一
思潮社
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鈴木正枝「いえの構造」

2013-06-26 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木正枝「いえの構造」(「スーハー!」10、2013年06月10日発行)

 鈴木正枝「いえの構造」は家と鍵とドア、そしてひとの関係を書いている。

出入り自由なドアがひとつ
ありさえすれば
ポケットに専用の鍵を持っているひとは
勝手に鍵穴を利用出来る
一人ずつ別々に

 ふと思ったことを、思ったままに書いてあるように見える。実際、そうやって書きはじめたのかもしれない。でも、「ありさえすれば」というのは、何か奇妙。書いてあることは「わかる」のだが、何かが違う。ふつうは、「出入り自由なドア」が「ありさえすれば」ではなく、「ドアの鍵」が「ありさえすれば」、そのドアを自由に開け閉めできる。そして家へ入ることができる。鈴木は、その「ドア」の「直前」でとどまっている。「鍵」でとどまっている。すぐに家のなかに入らない。「無意識」にしていることを、「無意識」の前(?)でとどまって、その「無意識」をみつめているのかもしれない。
 すっと進んでいくはずの「時間」をわざと滞らせている。時間を遅刻させている。そうすると、その遅れる「時間」のなかに、何か妙なものがさらに加わってくる。入り込んでくる。

出る時も入る時も
ドアは同じ開き方をする
とすれば
今この時入ったのだ と
判断させるのは何か
背中に見知らぬもうひとりがくっついて
いっしょにつつーっと入ってきた時か
それとも
持ち出したものを忘れたふりさえせずに
手ぶらで平気でドアを開ける時か

 私の「肉体意見」では出る時と入る時ではドアの開き方は違う。押すか引くかの明確な違いがある。でも鈴木は「ドアは同じ開き方をする」と書いている。この「同じ」は何? 「押す/引く」ではないね。つまり、「肉体」の「動作」(動詞)とは無関係なものである。
 「肉体」とは分離した「精神(意識)」というものかもしれない。

今この時入ったのだ と
判断させるのは何か

 という行のなかにある「判断」ということばを手がかりにすると、たしかに「意識」ということになるかもしれない。「意識」が「判断する」。「判断する」という動詞は「肉体」ではない。「肉体」のための動詞ではない。
 私は「肉体」から分離した「意識」というものを考えるのに非情に抵抗を感じるのだが、その抵抗を、

背中に見知らぬもうひとりがくっついて
いっしょにつつーっと入ってきた時か

 この2行が叩き壊す。ぐいとひっぱられる。
 あ、この「感じ」は「わかる」。これは「正しい」と私の「感覚の意見」は主張する。ここには何か「正しい」ことが書かれている。「正直」が書かれている、と「感覚の意見」はいうのである。
 その声に耳をすましてみる。

 「肉体」と「意識」が分離し、「意識」が何かを判断するとき、それと同時に「肉体」も分離していている。分離された「肉体」は「見知らぬもうひとり」である。その「分離した肉体」が「背中」という「肉体」に「くっついて」いる。
 これは、別な言い方をすると、「肉体」から「精神」が分離した時、その「精神」は「別の肉体」を獲得したということである。ただし、「別の肉体」といっても、それは「精神」のようには完全に分離はしない。完全に分離して「自由」に動き回るわけではない。「肉体」は「ひとつ」であるから、その「ひとつ」にくっつくことで「ひとつ」を維持しなければならない。
 うーん。そうか。ここに書かれている「精神」(判断)は「肉体化」している。「肉体」になっている、ということか。だから、引きつけられる。
 「精神(意識/頭)」には、純粋に(?--たぶん「二元論的に」ということになるのだろう)「肉体」と分離して運動する「精神(頭)」がある一方、その運動を「肉体」にかかわらせることで「純粋精神」を捨て去り「肉体化」する「精神(頭)」があるのだ。なんだかねばねば、くっつく感じだが私は、こういう遅れて動く「頭」、尾を引くような「頭」に引きつけられる。スピード(合理主義)を無視した「反頭」に引きつけられる。

帰ってきたからかぞくだ と錯覚し
一晩いっしょに寝て さらに錯覚し
朝になって呼ばれて
また出ていく
一人ずつばらばらに
呼び出すひとが
必ず外にはいるらしい とすれば
帰って行く というのはどちらだろう

ドアを開けるたび

 ここではまた「精神」が独立して動いているが、2連目では「判断」していたものが、ここでは「判断」を保留している。「どちらだろう」という疑問をぶつけることで、暫くのあいだ、「いま」という時間のなかで踏ん張っている。このとどまり方は、最初のドアと鍵との関係に似ている。「時間」の遅延/遅刻に、なんだか似ている。
 「時間」というものはだれにでも平等に、均等に運動しているもののように考えられているけれど、その「だれにでも均等」という「合理主義/資本主義」の麻薬を拒絶する「肉体」の覚醒が、鈴木のことばをどこかで支えているのを感じる。


キャベツのくに―鈴木正枝詩集
鈴木正枝
ふらんす堂
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きむらよしお『犬林』

2013-06-25 23:59:59 | 詩集
きむらよしお『犬林』(ドット・ウィザード、2012年08月01日)

 きむらよしお『犬林』はとても変である。行分け詩と散文詩(?)があるのだが、そして散文詩の方がより特徴的なのだが……。ことばというものは、必然的に「物語」を含む。一瞬のうちに、そこにあることばを全部つかみとれるわけではなく、どうしても順番に読んでいかなければならない。話していかなければならない。そうすると、そこに「時間」の経過というものが必然的に生まれてくる。「時間」があると、そこに「変化」もある。その「変化」の仕方が、いわば「物語」である。「物語」とは何かがだんだん変わっていくことである。変わっていくから、語るのだ。
 で、きむらの「物語」はというと、「主語」が一貫しない。かといって、まったく無関係というわけでもない。「連句」のように、つかず、はなれず、自在な「距離」を抱え込んで動いていく。
 散文詩は長いので、引用しやすい「素振りをする」を紹介する。

うさぎが鳴いている
鳴くはずはないと思って庭へ出る
鳴いてはいないが
空に向かい耳を震わせている
空気がびりびりとひび割れる
近くで家を解体している
空から白い布が降りてきた
赤ん坊のシャツだ
シャツを頭に被りバットで素振りをする
いいぞ
いいぞ
空気を切った瞬間
バットの後ろで空気のすきまが鳴く
鳴きながらバットにすがりついてくる
チャイムがなった
五階の仁科さんだろう
玄関に出ようとすると
また うさぎが鳴いたような気がした
びっしりと蒼い空にすきまが見える

 「うさぎが鳴いている」の主語は「うさぎ」。「鳴くはずはないと思って庭へ出る」の主語は省略されているが「私」だろう。「鳴いてはいないが/空に向かい耳を震わせている」の主語はやはり省略されているが「うさぎ」。「空気がびりびりとひび割れる」の主語は「空気」……。
 いや、こういう「主語」の特定には意味がない。それは主語が変化しているのではなく、「私」という主語があって、それが「体験していること」が書かれている。「空気がびりびりとひび割れる」というのは、いわゆる「描写」である。
 あ、そうなのかもしれない。たしかに、そんなふうに説明できるのだけれど。ちょっと違う。なんといえばいいのか、「私」を忘れてしまう。「私=きむら」がいることを忘れてしまう。
 特に。

シャツを頭に被りバットで素振りをする
いいぞ
いいぞ
空気を切った瞬間
バットの後ろで空気のすきまが鳴く

 私はバットを振っているきむらではなく、「空気のすきま」になってみたい感じがするのである。
 いや、違った。
 びゅんびゅんとバットを振って空気のすきまを鳴かせてみたい。おもしろいだろうなあ。かっこいいだろうなあ。
 でも、そうじゃない。それだけではつまらない。やっぱり空気のすきまになってみたい。鳴いてみたい。そして、

鳴きながらバットにすがりついてくる

 と冷たく言われても、鳴きながらバットにすがりついてみたい。
 ちょっと、思いもかけなかったこと(きむらのことばを読むまでは想像もしなかったこと)を、思ってしまう。
 この瞬間、あ、「主語」が変わった、と思う。「描写」なのかもしれないが、「描写」が「主役」になった、というべきなのか。
 そうだね。「主役」がかわるのだ。

 「物語」というのは基本的に「主役」はかわらないね。「主役」の体験したことが時系列にそって書かれているのが「物語」。でも、きむらは、それを途中で平気で変えてしまう。そして、その変わった瞬間が、とてもおもしろい。
 まったく新しい世界が突然、そこにあらわれる。そして、その世界にのみこまれてしまう。そこだけ別世界。この世に開いた「異界」の「入り口」。そういう「入り口」を見せるためにきむらは、ことばを動かしている。
 「夜明けの舌」は「きつね顔」の人の「きつね顔」を舐めるというところが出てくる。舐めると「きつね風味がした。」
 で、そのつづき。

 でもやたらと舐めるのはよくない。舌が膨れ上がってきた。舌が膨れると言葉が出られない。出られないと言葉が体中で詰まる。おしくらまんじゅうを始める。詰まれば生産を止めればいいが。そうはいかないのが言葉だ。二枚舌三枚舌があれば膨れた舌を丸め込める。丸め込んで要領よく功利効率的言語世界へ出られる。

 あらら、言語論?
 「きつね顔」とはまったく関係ないのだが、ことばが出ようとして出られない(ことばにしようとして、することができない)ときの感じにのみこまれるでしょ? それまで思ってもいなかったような展開でしょ(あ、これは、前半の引用がないから、わからないか……)。
 びっくりするなあ。
 びっくりして、好きになってしまうなあ。




じいちゃんのよる (こどものとも絵本)
きむらよしお
福音館書店
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岡島弘子『ほしくび』(2)

2013-06-24 23:59:59 | 詩集
岡島弘子『ほしくび』(2)(思潮社、2013年05月30日発行)

 岡島弘子『ほしくび』は、私の感覚とはなかなか波長があわない。最初の一篇を読んだ後、次に感想を書きたいと思う詩になかなか出会わない。
 しかし後半にある「地球の翅」「みっつめのまぶた」は好きだ。「みっつめのまぶた」は扇風機の羽で薬指の先を切ったときのことを書いている。

ひふはめくれ まぶたのかたちに えぐりとられてしまった
そのときからだ
爪のよこにみっつめの目がひらいたのは
あたらしい目は痛みとともに血を吹いて
閉じることをしない
消毒して きずぐすりをすりこんで
バンソウコウで まぶたのようにおおってみた

血がとまっても バンソウコウの下で
目はなおも閉じることをしない
生涯にいちどきりのものをみつけるために?
それを永遠にだきしめていたいために? みひらいたままなのか

 傷口を目という比喩でとらえたときから、比喩が傷を別なものとして生きはじめる。その新しいいのちに岡島はひっぱりまわされる。岡島が薬指の先で目になってしまう。「目はなおも閉じることをしない」と「目」を主語にして書いているが、これは岡島自身のことである。岡島は薬指の先で目になって、閉じることを拒んでいるのである。何かを見ないことには閉じられない。何かを見たいのだ。
 でも何を?
 答えはない。そのかわりに(?)、とても変なものを岡島は体験する。

消毒して きずぐすりをすりこんで バンソウコウでおおう
夏もおわるころ
あたらしいまぶたが はえはじめていることに気づく

 うーん。
 私は、この「あたらしいまぶた」にびっくりしてしまった。傷口を「目」ととらえるのは「傷口が開く」という動詞での結びつきがある。開くのは何かを受け入れるか、何かを出すためである。そこからいろいろな比喩を展開することができるかもしれない。実際、岡島はそうしようとして、それが思い通りにならないために、目を「みひらたいまま」にしているのである。
 ところが、そういう思いとは別に、肉体はかってに回復する。傷口はふさがる。それは閉じた「まぶた」のように見える。この「まぶた」は形をそのままなぞった「比喩」なのだが、

はえはじめている

 ええっ、まぶたって「はえる」もの?
 この突然の「動詞」に驚くのである。目を開く、目を閉じる、傷が開く、傷が閉じる、は同じ動詞によって「比喩」を「正しい」ものにする。まぶたも、開いて、閉じる。そのときまぶたは目と同じものである。実際はまぶたを開いたり閉じたりするのに、私たちは目を開く、目を閉じる、というのである。まぶたにふさわしい(?)動詞は「開く/閉じる」である。少なくとも「流通言語」では。
 しかし、岡島は「はえる」という。「はえる」は「生える」と書くことができるかもしれない。「生える」は「生まれる」でもある。「生まれる」なら……。
 人間の場合は、その前にセックスが必要である。セックスの後「産む(生まれる)」。他者の存在、他者との出会いが必要である。
 「生える」は、ちょっと違う。草花なら、そこに受粉、種、という過程を考えることができるし、その受粉をセックスということもできるけれど、ちょっと違う。他者との積極的な関わりがない。単独の力という感じがする。--あくまで人間や動物との比較のなかでいうのだけれど。
 で、「生える(はえる)」が他者との関わりがないもの、自発的(?)な運動だとすると……。
 「まぶた」は自分の力で(岡島の「肉体」の力で)、自然に生まれてきたのである。「目」が扇風機(の羽)という「他者」との衝突によって生まれたのに対して、「まぶた」は他者の力を借りずに、そこに出現した。生まれた。そしてそれは「肉体」にとっては必然である。傷が回復しないと大変である。
 その「生まれた(はえた)」のなかには、岡島自身の何かが強く関与している。
 だからこそ、

バンソウコウの下で
まだみつけられない まだみつけられない
と ばかりに目は痛む

 傷口ではなく、目は痛む。何かが見たいのに、岡島の「肉体」は自然回復して、まぶたを閉じてしまう。
 この目とまぶたの衝突。
 肉体同士の衝突。意識同士の衝突。それが、どこまでが意識、どこまでが肉体であるかわからない形で存在してしまう。
 何かが見たいというのは明確な意識であり、知らずに閉じてしまうのは無意識ということになるかもしれない。
 で、このあと私が考えることを岡島は書いているわけではないのだが……というか、まあ、いままで私が書いてきたことも「誤読」なのだが、その「誤読」を押し進めると。
 「意識」を否定して「無意識」が勝つとき、「肉体」は復元する。何かを見たいという傷口の目を意識を否定して、まぶたが無意識に、つまり肉体自身の供えている力で動きだし回復する。この回復は、先にも書いたが、人間の生存にとっては必然である。
 --というのは、しかし、あまりにも「合理的」な説明になってしまう。
 だから、岡島は、そういう「合理的な説明」にむけてことばを動かすのではなく、もう一度、そうかな、感覚全体を動かして確かめてみる。そこにもう一度、美しいことばが動く。

空きになって
爪のよこの目は あたらしいまぶたに完全におおわれた

おおわれたままの目の上で
まぶたはなおもうずく
生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ?

 「目」と「まぶた」が区別がなくなってしまう。「まだみつけられない」と痛んでいたのは目であった。けれど、「生涯にいちどきりのものを みつけられなかったくやしさ」に「うずいて」いるのは「まぶた」である。なぜ、「目」じゃない?
 「目を開く、目を閉じる/まぶたを開く、まぶたを閉じる」の「主語」は入れ替え可能であった。それは「意識」としてもそうだし、「肉体」の運動(動詞)としても同じことである。
 いま引用した部分では、その「肉体」の力が主導的に(主体的に?)動き、肉体として勝利した「まぶた」が主語になってしまって、「うずく」。
 「痛む」と「うずく」という微妙な変化がそこにはあるのだけれど。
 この微妙な変化を、私は「肉体がおぼえていること」ということばで書いている。肉体は「痛み」を「おぼえている」。その「おぼえている痛み」が「うずく」。肉体の奥から、言い換えると「まぶた」の下(奥)の「目」から「痛み」がよみがえってくる感じが「うずく」なのである。

 ここには、どれだけことばを費やしても説明しきれないような「矛盾=混沌」が隠れている。隠れたまま動いている。だから、詩なのだと思う。



ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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バルタザール・コルマウクル監督「ハード・ラッシュ」(★★★)

2013-06-24 10:52:04 | 映画
監督 バルタザール・コルマウクル
出演 マーク・ウォールバーグ、ケイト・ベッキンセール、ベン・フォスター

 バルタザール・コルマウクル監督「ハード・ラッシュ」はカメラが演技するわけでもなく、かといって役者だけに演技させるわけでもない映画である。こういう映画では何が主役かというと「脚本」である。ストーリーである。ストーリーがくっきりと見えるように、カメラも役者もわきまえている。だから、複雑な展開というか逆転、逆転、大逆転という具合に話が変わっていくのだが、実にスムーズである。脚本が非情によくできている。
 マーク・ウォールバーグはもともと不透明な役者である。レオナニド・ディカプリオやクラーク・ゲイブルのように「華」のある役者ではない。その「華」のなさ(?)を利用して、ストーリーを肉体に集中させる。(肉体の「華」がストーリーを突き破り、そのことによってストーリーがさらに展開する、というような役には向いていない。言い換えると、ギャツビーやレット・バトラーは演じられない。)何があってもパニックに陥らず、ぐいぐいとストーリーの展開だけを押し進める。まるで結末がわかっているみたい--というと変な言い方になるかもしれないが(役者は脚本を最後まで読んでいるからね)、結末は自分の力で切り開けるという不思議な安心感をあたえる肉体である。
 脚本は、とてもよくできている--と書いたのだが、よくできすぎているというか、それはないだろう(これって、ストーリーのためのストーリーじゃないか)といいたくなるのが絵画を強奪するシーン。たまたまその日、そのとき、絵の移送があるというのは映画なのだから許せる(ご都合主義は大好き!)なのだが、
 おいおい、車で強奪に来てるんだろう、わざわざ絵を額縁から外すなよ。梱包されたまま持って逃げて、安全な場所へ行ってから取り出せよ。
 ね、見ている先から、この絵が最後になって大金に変わるのだとわかってしまう。現代美術なんて、よごれた布と同じだから知らない人はみんな見すごす……ということを、「運び屋」がストーリーとして頭の中でつくり、それにあわせる形で他の人間を動かせるかねえ。
 私は、こういう「自分には知識があるが、他人には知識がないから、その裏をかいてこういうことができる」という展開は好きになれない。

 窃盗ものでは、最近では「天使の分け前」(ケン・ローチ監督)という傑作がある。そこに出てくる主人公は、まあ、「教養」とは無縁のチンピラである。でも、なぜか嗅覚が発達していて(肉体の特権)、ウィスキーのテイスティングが得意であると気がつく。そこから、その能力を利用して泥棒を思いつくのだが、そこには「知」のひけらかしがないね。「知」に頼らずに、いろいろ工夫する。自分のできることを組み合わせる。それがおもしろい。
 「ハード・ラッシュ」のように、船の設計図も読むことができる。合鍵をつくることもできる。贋札の判別方法も知っている。現代美術の教養もある、というのでは、ちょっとねえ。そういう「能力」があるなら「運び屋」じゃなくて、もっとほかの仕事があるだろうに、と言いたくなってしまう。

 でも、まあ、マーク・ウォールバーグのストーリーを展開する肉体派の演技(マッチョだけが肉体派ではない)を味わうにはいい映画だなあ。--この視点から感想を書くべきだったかな? 脚本の「欠点」をつついて、横道にそれてしまった。それ以外は欠点のない映画ということかもしれない。
      (2013年06月23日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン6)



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岡島弘子『ほしくび』

2013-06-23 23:59:59 | 詩集
岡島弘子『ほしくび』(思潮社、2013年05月30日発行)

 岡島弘子『ほしくび』を半分ほど読んで、私は、いったん詩集を閉じる。読みはじめてすぐ感じたことが、だんだん消えていくように思ったからである。何かを探して読み進むのだが、読めば読むほど私が探してみたいと思ったものが遠くなるような気がしたの手ある。最初に感じた印象のことを書いておこう。巻頭の詩「みあげると」。

さえずりは つぎつぎとまいあがり
雲を押しあげて みちて あふれかえって
たわんでも こらえて
まだひと声も地上にこぼれおちてこない
高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない
舞いあがった小鳥も
まだ一羽もおりてこない
さえずりが また
空のふところを押しあげる

 3行目の「たわんでも こらえて」がとてもいい。「たわむ」という「肉体」の動き、それを「こらえる」。この「こらえる」は「こころ」の動きに思える。「こころ」がこらえたって、「肉体」がついていかないと「こらえる」は実現できないのかもしれないけれど、何か、「肉体」とは別なものが紛れ込んでいる。
 こう書いてしまうと、「肉体/精神」という「二元論」に接近するのだけれど。
 でも、この紛れ込んでいるは、はっきりと「肉体/精神」という具合には分類できない。溶け合っている。きっと「二元論」というのは「肉体/精神」が「分離」していくときに、より鮮明に見えるものなのだろう。苦悩の瞬間なんかに……。
 そうすると「一元論」というのは逆に、幸福なときにあらわれる「世界」なのかな。そうかもしれないなあ。

 そのあとの展開もいいなあ。

まだひと声も地上にこぼれおちてこない

 これ、わかるよね。「声(さえずり)」が中空を飛び回っている。地上にはおちてこない。--でも、その「声」を「音」ではなく、その前の行の「たわんでも こらえて」という「肉体」の融合したものだとすると、あれっ、では岡島はどうやってその「声」に触れたんだろう。聞いたんだろう。岡島は地上にいて、「声(さえずり)」は中空にある。つまり離れている。接点は、どこ?
 こんなふうに愚かなことばをならべていくと--きっと、「声」というのは離れていても聞こえるものだよ、という批判が返ってくる(と想像できる)。
 そうなんだよなあ。
 「声(さえずり)」は離れていても聞こえる。離れているとは岡島から離れているということなのだが、それは聞こえる。言い換えると、「声(さえずり)」は「地上にこぼれおちてこな」くても聞こえる。それはわかりきっている。それなのに岡島は、わざわざ、「地上にこぼれおちてこない」と書くと同時に、「たわんでも こらえて」と、その「声」があたかも「肉体」であるかのように、そしてその「肉体」のなかには「こころ」のようなものがつらぬいているかのように書く。
 これは、どういうこと?
 これは、ですね。これは、岡島が「聞いている」のは「声(さえずり)」ではないということ。言い換えると、岡島は「声(さえずり)」を聞いているのではなく、「声(さえずり)」になっているのだ。「一体」になっているのだ。
 「たわんでも こらえて」「地上にこぼれ落ちてこない」のは「声」であるけれど、それが「落ちてこない」のは、岡島が「声」になって「たわんでも こらえて」いるからなのだ。小鳥の「声(さえずり)」そのものが「こらえて」いるのではない。
 この「一体感」は「空想」と呼ばれるものかもしれない。
 それは「空想」かもしれないけれど、「一体感」ゆえに、その「空想」をさらに押し広げる。

高みに とまり木があるのだろうか
天上の沖に小舟もあるのかもしれない

 そう書くとき、岡島の「肉体」は中空の「とまり木」になっている。「天上の沖の小舟」になっている。そして、小鳥を(小鳥の声を)とまらせている。のせている。単にとまらせ、のせているのではなく、小島はとまり木にとまった小鳥、小舟に乗ったさえずりでもある。
 区別がつかない。区別はない。

 区別がない。区別はつかない--のに、それを、ことばは区別があるかのように書いてしまう。これが、ことばの悩ましいところである。
 この問題を私は「方便」と考えるのである。
 ここにあるのは、ほんとうは「ひとつ」。それがあるときは「小鳥のさえずり」になり、あるときは「とまり木」になり、あるときは「天上の沖の小舟」になる。さらに、空を押し上げる小鳥になる。--空を見上げて小鳥のさえずりを聞いている小島は、そうやって「世界」そのものになる。






ほしくび
岡島 弘子
思潮社
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ビクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★★★★)

2013-06-23 19:50:03 | 映画
ビクター・フレミング監督「風と共に去りぬ」(★★★★)

監督 ビクター・フレミング 出演 ビビアン・リー、クラーク・ゲーブル、オリビア・デ・ハビランド、レスリー・ハワード

 「午前十時の映画祭」のデジタル版シリーズ。フィルム上映のときは映画館が狭かった(福岡東宝2)ので、デジタル版をまた見てみた。色が格段に美しくなっている。(どちらが正しい色なのかわからないけれど……。)色の美しさと、スクリーンの大きさのせいか、感動してしまった。
 感動してしまったと書いたが、いまさら感想も何もないのだけれど……、昔の映画は豪華だなあ、と思った。最近の映画では「華麗なるギャツビー」が「豪華」なのだが、質が違う。ダンスシーンを比べるとよくわかるのだが、いまの映画は衣装の豪華さにくわえて、「カメラの演出」というものが加わる。ふつうの視点では見ることのできないアングルからの撮影があり、それが肉眼を刺激する。しかし変な話だが、「風と共に去りぬ」の方がカメラの演出(カメラの演技)に依存しない分、すべてがより豪華に見える。そこにあるものを、ただみつめて、ほーっと息がもれる。美女がいて、男がむらがり、豪華な衣装が揺れる。肉体と衣装が「一体」になっている感じもいいなあ。これはビスコンティの「山猫」のダンスシーンも同じだね。人間と衣装が一体になりつくりあげる美しい充実がある。ゆったりとした時間、積み重なった時間がある。「歴史」がある。
 そしてこの豪華さは--豪華ということばばかりくりかえしてしまうが、そこには手のとどかないという印象がある。見ているだけ。見ることができるだけ、という印象。べつなことばで言いなおすと、その豪華さは、カメラの向こうに別世界なのである。別世界だから、カメラは人間の視点の位置に固定される。飛び回ったりしない。カメラのなかで動き回る美を、ただみつめている。観客を代弁して、控え目な位置にいるのだ。
 これとは対照的に「ギャツビー」のカメラは動き回る。動きながら、動くことでしかとらえることのできない「華麗」を強烈に頭にたたきつける。網膜に焼き付ける。その運動は激しすぎて、私の弱い目には、とても苦しい。美を見ているというよりも、美を見ることができる目となって動き、同時に、その目が美をつくりだしているという感じ。観客に対して、こんなアングルからみつめれば、あなたも新しい美をつくりだすことができるとそそのかす。そそのかされると、ゆったりした時間がなくなる。せわしなくなる。
 カメラが肉体に近づいているのは「ギャツビー」の方だと言えるのだが、それが、なんとも「あざとい」。美しい、というよりも、あざとい。逆に言うと、「ギャツビー」がのカメラがやっているように、美は自分からつくりだしていくものではなく、あくまで「私」とは違ったところにあって輝いているもの、いわば「私」を否定してしまう絶対的な力のことだからね。つくりださなければ存在しない美というのは、美ではないからね。
 スターの肉体と衣装が美しい--それをながめるというのが映画の「基本」だと思うのだが、「ギャツビー」は、それを「こんなふうにながめるともっと美しい」と主張しているので、どっちを見ていいのかわからない。カメラの演技に振り回される。
 私は「演技しない」カメラというのは退屈だとは思うけれど、「演技しすぎる」カメラも好きにはなれない。スターが魅力的ならカメラは脇役に徹して、カメラの枠をスターが突き破って動くのに任せればいいのだ。
 昔の映画は、こういうことをちゃんとわきまえていた。余分なことをせずに、ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルがスクリーンを突き破っていくのに任せていた。観客は、ストーリーも見るかもしれないが、それは付録。ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルが、クラーク・ゲーブルとビビアン・リーにではなく、暗闇に座ってながめている観客に語りかけてくる一瞬一瞬をただ味わっているのだ。観客はそのときビビアン・リーとクラーク・ゲーブルになっているのだ。その「幻」を存分に味わえるように、カメラは控え目にしている。
 いま、「風と共に去りぬ」のとおりにカメラに演技をさせると退屈になるかもしれないけれど、この控え目なカメラの演技というのは、復活してもいいかなあと思う。

 それにしても。
 CGではない画面の美しさは、たまらないなあ。たった数秒(1-2秒?)のために建物を建て、燃やしてしまうなんて。うまく撮影できなかったら、もう一度建て直して燃やしたのかな? 駅に集まっている負傷兵の群衆(?)も、いまならCGで処理してしまうのだろうけれど、人海戦術で乗り切るところが豪華だねえ。常にそこには「人間がいる」という感じが、豪華の基本なのだ。
 で、この「人間がいる」という感じが--なんといえばいいのだろう、「土地」を信じて「土地」を生きるビビアン・リーの生き方と重なるから、この映画は充実しているのだと思う。いま、CGをつかってリメイクしてみたら、そのことがより一層わかるかもしれない。CGをふんだんにつかったら「土地(大地)」のストーリーではなくきっと「宇宙」のストーリーになってしまう。--ここにCGが宇宙ものから発達した理由もあるかもしれない。
                        (2013年06月22日、天神東宝5)


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野木京子『明るい日』(3)

2013-06-22 23:59:59 | 詩集
野木京子『明るい日』(3)(思潮社、2013年06月20日発行)

 野木京子の詩には、私以外の登場人物(ときには動物)が出てくる。「小さな窓」では、「人」と呼ばれているだけだが……。

土の色、病んだ葉の欠片、が、唇から、胸へ、胴へ、わたしのなかを、
水銀の玉のように重く沈むのを、黙ったまま見ていたのです
そう語る人の声はかすれてぬるりと
朝方の夢の下での生きもののように
動いて響いた
薄闇の前方に目をやると
昏く広い段を声とその人とが一緒に
揺れながら降りてゆく

 その「人」はふつうの人とはかなり違う。声をもっている。もちろん人はだれも声をもっている。ことばを話すのだが、--その人は野木のなかで「人」と「声」に分裂する。7-8行目の「声とその人とが一緒に/揺れながら降りてゆく」が象徴的である。わざわざ「一緒に」と書かなければならないのは、それが別個の存在だからである。
 これはこの詩だけではなく、きのう読んだ詩でも同じだろう。
 「声」を「こころ(精神)」と考えると、人は「肉体」と「精神」から成り立っているという「二元論」が詩を読むのに都合がよさそうなのだが……。
 私の印象では、見かけは「二元論」なのだが、どうもそうではないところがあって、そこが魅力的である。
 という説明では、あまりにも抽象的すぎるが。

沈黙が叫ぶその背をみつめた
時間が壊れてぎいぎいと鳴る世界の
層の隙間へ音が硬い水のように流れ込み
震えるフィルムが広がる
その人の耳の奥にとどまっていた音は
どこへ立ち去るのか
その人のなかで飛んでいた粒子は
どこで渦を巻くのか
山や樹木や風などの音をつれてゆくその人の
耳を追っていきたかった

 「沈黙が叫ぶ」「時間が壊れる」「層の隙間」というような表現は、それこそ「精神」と「肉体」の「二元論」を利用しながら、そこに「精神」のありようを結びつけて「比喩」として解釈すれば、なんとなくわかったようなことをテキトウにくりひろげることができるかもしれない。
 でも、私はそういう行ではなく、

その人の耳の奥にとどまっていた音は
どこへ立ち去るのか

山や樹木や風などの音をつれてゆくその人の
耳を追っていきたかった

 この部分に出てくる「耳」への「こだわり」にとてもひかれるのである。「音」というのは人間の場合、「声」がいちばんてっとりばやく理解しやすいものかもしれない。「声」は、そのとき「音」というよりも「ことば」になり、「ことば」は「精神」になるのだけれど、そういうふうに「二元論」で「精神」の方に傾斜していくものではなく、野木は「耳を追っていきたかった」と書いている。それはその前の「耳の奥にとどまっていた音」とも関係づけて読むと、「耳」を追ってゆきたいのは、その「音」を「耳」そのものとして野木がつきとめたいからだ。
 「音(ことば)」が「意味」であるなら、「耳」を追いかけていく必要はない。「二元論」なら、肉体がなくなっても「精神(ことば)」は存在し、それを追いかけることができる。(ふつう、古典を読むのは、そこに過去の人の「精神」がまだ生きているからだ、と考えるからである。肉体は死んでも精神は生きる、だからその精神を追いかける。)ところが、野木が追いかけるのはあくまでも「耳(肉体)」である。
 ことば(音)はどうでもいいのだ。--どうでもいい、と言いすぎかもしれないが、ことばよりも耳(肉体)の方を重視している。
 なぜだろう。
 耳が存在しないことには、「音」は存在しないのであり、もしそうであるなら、同じように聞こえる「音」であっても、人それぞれの「耳」が受け止めるのもは違う可能性がある。「耳」は他の肉体の器官に影響される。純粋に「音」の「意味」だけを分離して受け止めるわけではない。
 何を、どんなふうににして「耳」を通過させるのか。
 「音」を通過させるとき「耳」はそのすべてを「頭」へ運ぶのか。そうではなくて、何かを識別して「頭」へ運ばずに、「耳の奥」にとどめているかもしれない。でも、その「耳の奥」って何? わからない。わからないけれど、それはきっと「ひみつ」の場所である。その「ひみつ」の場所に「音」を隠したまま、人は行ってしまう。死んでしまう、と読んでみようか。
 そう読むと、「声とその人とが一緒に」の「一緒に」も「声」も違って見えてこないだろうか。「意味」として「頭」にまで運んだことばではなく、「意味」にしてしまわないで、「音」そのままに「耳」にとじこめておいたもの、その「声」を隠したまま、その人は行ってしまうことにならないだろうか。「一緒に」は隠したまま、「ひみつ」にしたままということなのだ。
 「ひみつ」はどこへも立ち去らない。「ひみつ」は「からだ」といっしょにある。だから、その「耳」を追っていきたい。「ひみつ」を追ってゆきたい。「ひみつ」とは「ことば」にならず、「音」のまま「からだ」にとどまっている「無意味」である。

 野木がいま展開している「物語」ふうなことばの運動で、その「ひみつ」をすくいだせるのかどうか、私はかなり疑問に思っているが、その「ひみつ」に触れている野木のことばは信じてみたい。




詩集 明るい日
野木 京子
思潮社
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野木京子『明るい日』(2)

2013-06-21 23:59:59 | 詩集
野木京子『明るい日』(2)(思潮社、2013年06月20日発行)

 先日、ある詩人から「最近の感想は肉体のことばかり書いていて、ワンパターンだという声を聞く」と伝聞の批評を聞かされた。その人が思っていることを伝聞の形にしたのか、それともほんとうに伝聞なのかわからないが。
 でも、伝聞であったとしても、それを伝えるということはその意見をどこかでそのとおりと思っているからなのだろう。--こういうことを、私は「分有/共有」ということばであらわし、同時に「精神」ではなく「肉体」の問題として書いているのだが。私にとっては、「肉体」というものは世界に「ひとつ」しかなく、「精神」がその「ひとつ」を便宜上、いくつもの存在に識別し、合理的に(?)動いているように感じられるからである。
 で、そういうふうに考えは--たとえば「細枝の生きもの」にも私は見いだすのである。そして、そういう作品を好きになるのである。

水のなかのあぶく、ぷくぷく
ひと粒、…粒、ひと…
声と音がちいさく身をちぢめて詰まっている
--そのような粒を拾いあげるためにひとは心を持っているのだろう
と 細枝のからだの生きものが言った
やわらかな水には声と音が溶け込んでいるから
私はやわらかな水を探しに行かなければならない
と ひとが言った
そのひとはいなくなったあと
自分の声と音をそのようなひと粒のなかに入れてしまったのだろう
だから
粒を探しているひとが粒のなかにいて
その粒を探しているべつのひともまたべつの粒のなかにいて
その連関が世界のひみつの鍵だったのではないかと
やわらかな水のなかの細枝の生きものが言う

 タイトルの「細枝の生きもの」が何をあらわすのかわからない。しかし、それは5行目で「細いからだの生きもの」と「からだ」を補って言いなおされている。その瞬間、それは「ひと」につながるものに見えている。それも太く頑丈な幹ではなく、細い枝のようなもの。それは「弱い」ということかもしれない。傷つきやすいということかもしれない。その「弱い」何かが、「ひと」に思いを寄せて、ひとは「声と音が詰まっている粒」を拾いあげるために「心」を持っているという。
 それを引き継いで、ひとが「やわらかな」水には声と音が溶け込んでいるから、やわらかな水を探しに行くのだと言う。
 さらにそれが発展し(展開し?)、そのひとはいなくなっても、その声と音は水の一滴のなにかはいっている。
 入れてしまう。溶け込んでいる。詰まっている。
 ことばは少しずつ違うのだけれど、水の「ひと粒」のなかに、声と音についての「考え」と「細枝のからだの生きもの」「ひと」が、それこそとけあうような形でいっしょになっている。「細いからだ」「やわらか」というものを「分有/共有」している。「……といった」という伝聞を繰り返す形で引き継いでいる。その引き継ぎの過程で共通するものが「分有/共有」される。

 ここで私がとてもおもしろいと思うのは、「細枝のいきもの」に「からだ」があり、「ひと」には「心」があるということ。さらに、そのことが、ひとが「いなくなったあと」ということばが交錯することである。「いなくなる」とは「からだ」がなくなるということだろう。でも「心」はあって(思いはあって)、それはたぶん「自分の声」と呼ばれるものであって、それは「ひと粒」のなかに「入れてしまう/入ってしまう/溶け込んでしまう/詰まっている」。
 そのとき「ひと粒」とは「からだ(私の言い方では、肉体)」なのである。「からだ」は「水」の形に変形し(?)、その「からだ」が「やわらか」に象徴されるような「心」を引き継いでいる、と考えると、--二元論を利用して言いなおすと、「ひとつのこころ」が、形をかえた「からだ」に引き継がれ、存在しつづける。「心」こそが「二元論」の神髄であり、「もの」は「心」を受け入れながら変化しつづける、ということになるかもしれない。「心(精神)」は「ひとつ」。「もの」は複数。「神」は「ひとつ」。「もの」は複数……。
 あ、わかりやすいね。
 でもねえ。
 私は、その「わかりやすさ」に何かうさんくさいものを感じているのである。
 私はそれよりも、「そのひとはいなくなったあと/自分の声と音をそのようなひと粒のなかに入れてしまったのだろう」の「入れてしまう」という動詞に、何かひかれる。「肉体」が動いて、「声と音」を水のなかに「入れてしまう」。「声」はのどから出てくる。それは「肉体の一部」。それを水に引き継がせている。水のなかには「声/のど/肉体」が引き継がれている。それも「精神」の運動として引き継がれているというよりも、「入れてしまう」という一種の強引な肉体の(からだ)の運動そのものが、そこに介在している。この「からだ」をともなった動きなら、私はうさんくさくは感じないのである。
 「入れてしまう」からセックスを想像し、生殖に結びつけると、それはあまりにもマッチョな思想ということになるかもしれないけれど、私はここに書かれていることのなかには、「肉体」の基本的な運動(本能)があると思う。本能が「分有/共有」されていると感じるのである。
 肉体が交わり、そこから新しい「いのち」が生まれてくる。それは「ひと」を例にとるなら、まったく新しい個別の「いのち」の誕生ということになるかもしれないが、そこには「肉体」が引き継がれている。もちろん、この「肉体」を抽象化・概念化し、精神とか遺伝子といってもいいのかもしれないけれど。
 そういう抽象化・概念化したものは--私の感覚の意見では、「分有/共有」されない。抽象化・概念化したものは、何か強引に「逸脱」するものを排除しながら合理的な運動を押しつけてくる感じがして、違うと思ってしまうのである。
 「分有/共有」というのは、野木が書いていることばを借りて言えば「ひみつ」として「からだ」が隠し持っている力なのである。遺伝子をいくら追い詰めても何かわからないものが常に残る--その不明なもの「ひみつ」こそが「分有/共有」されるものだと私は思っている。
 ひとが道端に倒れて呻いている。それを見て、あ、このひとは腹が痛いのだと感じる。自分の痛みでもないのに、感じてしまう。痛みを「肉体」で「分有/共有」してしまう。なぜ、そんなことができるのか。それは「ひみつ」である。「ひみつ」はいう必要がない。ただ、「ひみつ」があるということを納得すればいい。私たちが「分有/共有」しなければならないのは、その「ひみつ」である。
 私はこの「ひみつ」があるということ、それをひとが納得する(納得している)ということを、ちょっと別のことばで言いなおしたいと思っている「ひみつ」の鍵が「肉体」にあると思っている。。その「言い直し」を手助けしてくれる詩(ことば、文学)をいつも探している。

 --こんな文章で、はたして「細枝のいきもの」の感想になったのかどうかわからないが、私がこの詩はいいなあと思うのは、そういうことを勝手に考えることができるからである。勝手に考えながら、「からだ」「やわらかな」「ひみつ」というものの「連関」を「分有/共有」できたと「誤読」するのである。ここに「生きる」ための手がかりがあると感じる。
 「ひみつ」を追っていくことばの運動のなかに、大切なものを感じる。何かきっかけがあれば、その「ひみつ」は結晶し、そのなかを通る光は一瞬のうちに宇宙全体をてらすだろうなあ、という予感が、この詩集のなかにある。




詩集 明るい日
野木 京子
思潮社
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野木京子『明るい日』

2013-06-20 23:59:59 | 詩集
野木京子『明るい日』(思潮社、2013年06月20日発行)

 野木京子『明るい日』を私はまだ読みかけなのだが、その読みかけの感想を書いておく。読み通した後、変わるかもしれないが。
 「空白公園」というわざとらしいタイトル詩がある。その公園のベンチには老人が座っている。パーク・エンプティ--というのは野木が考えた名前であって、老人がそう名のったわけではない。

(なくならなくてもよいはずだったものたちが
(いまでもひぃひぃ聲をあげる
ミスタ・エンプティは日がな一日座っていた
彼は動くことが嫌い
動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく
「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?
それが水の音をたてている」
ミスタ・エンプティは声に出して言っただろうか

 エンプティという名前も、その老人が「「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?/それが水の音をたてている」と言うというのも、野木の「想像」である。「想像」のなかで、野木は老人がかなしみと水の音について語ると考えている。
 このとき、その

「誰のなかにだって、かなみしがあるだろう?
それが水の音をたてている」

 は、誰のことばになるのだろうか。はっきりとはわからない。「頭」のなかでは、それは老人のことばだが、その老人がどういうことを考えているかわかるほど、野木は老人とは親しくはない。老人の名前さえ知らないのだから。(名前を知らなくても親しいという関係もあるかもしれないけれど。)
 老人が考えたことではなく、野木が考えたことを、老人に託している。この「託す」を私は「分有/共有」ということばでとらえている。単に相手にあたえる(押しつける?)ではなく、あたえながらそのあたえたということを自分で抱え込んでいる。ふたりで考えを共有してもいるのだ。
 この部分は、そんなふうに言い切ってもかまわないと思う。
 では、それに先立つ部分は?

動くとぴちゃぴちゃ音がする
水面が恐ろしい
水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく

 これは、だれの考え? かっこにはいっていないから老人の思いではなく、野木の思い? そうかもしれない。けれど、そのことばの直前には「彼は動くことが嫌い」という1行がある。
 この1行はとても「めんどうくさい」。
 野木は老人の名前も知らない。たぶん、口をきいたこともない、という「設定」になっている。それなのに老人は何が嫌いかを知っている。--こういうことは、ふつうは、ありえない。
 こんな、ありえないことを、そのまま書くのはどういうわけだろう。
 という疑問は逆に考えればいい。
 老人は野木とは別人ではないのだ。野木でもあるのだ。
 道に倒れてだれかが腹を抱えて呻いている。それう見て、あ、この人は腹が痛いのだと感じる。自分の痛みでもいないのに感じてしまう。
 それと同じことが起きているのである。公園に老人が座っている。何をするでもなく、「空白」の意識のまま座っている。その「空白」を野木は感じたのだ。自分の「空白」でもいなのに。
 そして、それは野木が「おぼえている」感じなのだ。野木も、かつて(いまも、かもしれない)空白を感じている。だから、公園の名前まで「空白」になるし、老人の名前も「エンプティ(空白)」になる。
 出会った瞬間から野木の「分有/共有」ははじまっている。
 だから、便宜上は(ことばの合理主義、資本主義的流通=意味は)、それが「老人」の感じたことなのに、ほんとうは野木が感じたことなのだ。野木が感じたことを老人に感じさせ、野木は老人になって、老人として、ことばを引き継ぎ、声にする。
 そこには野木/老人の区別は便宜上はあるけれど、ほんとうは区別はないのである。

 こういうことを、私は「肉体」の「共有/分有」という具合に呼んでいるのだが、この区別のなさは、野木/老人だけにとどまらない。「共有/分有」可能な「肉体」は、詩人と読者のあいだでもあっと言う間に成立してしまう。
 言いなおすと。

水の表はただの薄いフィルムなのに
無限大に近い闇がその下に広がって 遠くまで流れていく

 老人であり野木である「ひとつの肉体」の感じること、感覚は、そのまま私(谷内)を引き込む。そこに私は私の「肉体」を見る。あ、水の表面はフィルムで、その底には闇が広がっている--というのは「わかる」。それを見たことはないのに、いま野木(老人)のことばに触れた瞬間に、あ、そういうことだったのかと、あれやこれやの水の風景を思い出してしまうのである。そして、あ、この行はいいなあ。すばらしいなあ、と感動する。
 感動を見つめなおすと、そういうことが起きている。

 で。
 不思議。
 なぜ、野木は老人を登場させたのだろう。なぜ「空白公園」とか「ミスタ・エンプティ」というようなわざとらしいことばをつかっているのだろう。なぜ、野木自身がかんじたこととして直接的に語らないのだろう。
 何か、野木には、自分ひとりで引き受けるにはむずかしい問題があるのだ。それはこの詩からだけではわからないが、自分ひとりで引き受けることが困難だから、それを「老人」に仮託する、託するという形で「分有/共有」を客観化しようとしている。
 これはもしかすると、野木の「弱さ」かもしれない。それが、ふっと、気になる感じで響いてくる。




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北川朱実「安乗岬」

2013-06-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「安乗岬」(「CROSS ROAD」創刊号、2013年05月06日発行)

 北川朱実「安乗岬」には不思議な音楽がある。

荒い波をかぶってきました
とばかりに

火の上で
身動きひとつしない岩牡蠣

--ダイオウイカは苦いよ 吐き出すよ
目から塩をこぼして笑う漁師

空は 人別れた日のように青い

鳶が
ゆるんだテープみたいな声であやしつづける
あの青の深みで

 波、岩牡蠣、ダイオウイカ、漁師、空、鳶--海辺の暮らしである。そこには簡単に言うと人が魚介をとって暮らすという日々があるのだが、そういう見方は「人間」がかってにつくりあげたものであって、人間の思惑とは関係なしに海も牡蠣も鳶も生きている。波から見ると、この暮らしはどんなものかわからない。牡蠣から見た暮らしもわからないし、イカから見た暮らし、鳶から見た暮らしもわからない、
 と、いいたいのだけれど、そうとばかりはいえない。
 日の上で焼かれる牡蠣はともかく、ほら、イカは食べようとすると(食べられようとすると)、激しい抵抗で「苦み」を発する。あ、食べられることを拒絶している。食べることに対して抗議をしている。あの牡蠣の、身動きしない焼かれ方もそれはそれで人間に対する抗議かもしれない、という気持ちになってくる。
 さらに、漁師のとったものを食べる北川に「ダイオウイカは苦いよ 吐き出すよ」と笑う漁師。それは、漁をしない人間にこれが食べられるかい、という挑発のようにもみえる。
 もしかすると、すべての存在は挑発しているのかもしれない。これが私の生き方。まねできるかい? これが私の生き方。対抗手段をもっているかい?
 そんなふうに牡蠣もイカも漁師も言わないし、波も空も鳶も言いはしないのだが、北川を無視するような、非情な何かがある。このときの非情というのは「自然」だね。自然は人間の思いなんか気にしない。その非情に、いま、北川は「洗われている」。何かを洗い落とされている。
 情をつぎつぎに洗い落とされると、最後に何が残るか。

夜明け前
このじぐざぐの半島を泳ぎ出た恐竜の

最後の一頭が溺れた理由は
まだ話せない

どかんと夕陽が落ちて
もも色に染まった<詩の領土>が
見えなくなって

 「いま/ここ」にいない恐竜まで出てくる。太陽という絶対的な自然、宇宙も出てくる。「詩の領土」も出てくる。--これはなんだろうなあ。波や岩牡蠣やイカや漁師に似ていないこともないが(どこかで知っていることではあるが)、何かが違う。
 永遠というか、「いま/ここ」という「日常」を超越したものだね。「時間」と呼んでもいいかもしれない。
 あ、そうか、非情は--情を洗い落とすと、「時間」という人間を離れたものかむき出しになるのか……。
 と、思っていると。

人は時間だが
だがひたすら時間だが

跳ね上がっては行方をくらます
あのシイラをやり直す

 「人は時間」であると、北川は断言する。情を洗い流されて残ったものが「時間」なら、それを「人」と呼ぶしかない。
 なるほど。
 そうであるなら、牡蠣もイカも漁師も、波も海も空も、青も、みんな「時間」。「時間」にまでたどりついたものが、「いま/ここ」で出会い、それぞれの知っている「時間」を響かせあう。「シイラ」というのは、生きている化石と呼ばれるシイラカンイスかもしれない。それが象徴するのはやはり「時間」である。自分が生きたものでもない「時間」さえも、私たちはどこかで「おぼえている」。その「おぼえている」全体的な何か(情という具合に呼ばれるセンチメンタルなのもではない何か)をぶつけ合うようにして、「いま/ここ」にあるものと向き合う。ぶつかりあう。
 その「音」が、響いている。
 情を洗い流された「もの」そのものの、「時間」がぶつかる音が、「音楽」になっている。



人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
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