詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「現代詩手帖」アンケート

2012-11-30 23:52:43 | 詩集
「現代詩手帖」12月号に2012年の収穫というアンケートが掲載されている。
私も回答したのだが、掲載されていない。
なぜかな?

そのとき回答したものを「転載」しておく。

2012年の収穫  谷内修三

<1詩集>
1華原倫子『樹齢』(思潮社)ことばのリズムのなかに肉体を感じた。
2疋田龍乃介『歯車vs丙午』(思潮社)豆腐の出てくる3篇が非常におもしろかった。
3永井章子『表象』(編集工房ノア)正直が哲学になっている、といえばいいのか、哲学が正直になっているといえばいいのか……。
4高柳誠『大地の貌、陽の声/星辰の歌、血の闇』(書肆山田)実際に「声」を聞いてみたい。
5池井昌樹『明星』(思潮社)私は池井の詩が大好きだ。

<2詩集以外>
1和田まさ子「水すまし」(「地上十センチ」創刊号)肉体がしなやかだ。
2石毛拓郎「イワシの頭」(「パーマネントプレス」夏の号)強引だね。

3廿楽順治(詩)+宇田川新聞(版画)の「現代詩手帖」の連載 どこで生きてたんだろう、というような肉体。
4依田冬派「季節の名前を云おうとしてきみは愛と云ってしまった」(「現代詩手帖」6月号)ひさしぶりにかっこいいということばを思い出した。
5田中郁子「有刺鉄線と野茨」(「ぶーわー」28号)岡山の女性詩人の詩はどれもおもしろいが、たぶん田中のような詩人がその基礎をつくったのだろう。敬意をこめて、田中の詩を選んでみた。

<3その他>
映画「桐島、部活やめるってよ」(吉田大八監督)最後の吹奏楽が美しい。
芝居「下谷万年町物語」(シアターコクーン)宮沢りえの追っかけをやりたくなった。で、「THE BEE」も見てしまったが、北九州で見たので全体の芝居が小屋になじんでいなくて残念だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩尾忍「鋏と紐」3

2012-11-30 10:39:00 | 詩集
岩尾忍「鋏と紐」3(2012年11月15日発行)

 岩尾忍「鋏と紐」は個人誌。何編かの詩が掲載されているが、それぞれにタイトルがない。■がタイトルのように掲げられているのだが……。
 その6ページからはじまる作品。

一面の砂地の上に
点々と立ち並ぶ
これら
さまざまな梯子の

あの一本 この一本に
「そうではない」と刻み
赤い また青い線で
「わかりませんでした」と記し

頭や肩などをぶつけて
少しだけ汚して過ぎる--
それが
どこまで続くとしても

やがてはその時がくる
私には触れられない
一本の梯子が
私の占めていたこのあたりを襲う

 安部公房の「壁」を思い出した。「壁」の主人公は「壁」になって成長していくのだが、岩尾の描く「私」は「梯子」になって成長する(生きる)ということか。
 で、それは、いいのだけれど。
 いや、よくもないのかなあ。
 私はこの作品が好きだが、どうも最後が落ち着きすぎていて、「うまいなあ」と感想を書いたらもう書くことがなくなってしまったような気持ちになるのだ。
 で、これは、まずい。
 詩は、「うまいなあ」という感想でおわるものではないはずなのだから。

 どこが「うまい」のだろう。
 2連目の、「そうではない」と「わかりませんでした」、だね。ここでは「そうではない」ものが何かわからない。「わかりませんでした」というときの「対象」がわからない。隠されている。隠されたまま、それでも、ことばは動く。
 このとき、私たちは「対象」が何かはわからないけれど、別のことはわかる。何がわかるかというと「そうではない」と否定する「意識」がそこにあること。そして「わかりませんでした」と答える「意識」がそこにあるとこ。
 こういう「そこにある意識」というものを、ことばだけで動かしつづけるとベケットになるのだけれど。というのは、私の「脱線」。
 詩に戻る。「そこにある意識」というのは、ことばにすると、そこにあるように見えるけれど、実際はよくわからないね。「そこにない意識」とどう違うか。まあ、どう呼んでみたっておなじだね。つまり「そこにある意識」と言ったって、「そこにない意識」と言ったって、同じように「そうではない」「わかりませんでした」とことばを動かすことはできる。
 「ない」ものが「ある」と断定して、その「ない意識」が「そうではない」「わかりませんでした」と判断する(?)というのはなかなかおもしろいテーマなのだが、そこまで岩尾が考えているかどうか、ちょっとわからない。というのは、またしても私の「脱線」。
 ふたたび詩に戻る。とりあえず「そこにある意識」というものを仮定するのだけれど、それってどうしても「ことば」だけで、このままだと、どうも「頭」が落ち着かない。私の「頭」は、こういう抽象的なものを持続して動かすことができない。
 そこへ、3連目。

頭や肩などをぶつけて
少しだけ汚して過ぎる--

 いやあ、いいなあ。この2行は。「そこにある意識」でも「そこにない意識」でもいいのだが、そういう「ある」も「ない」も「ことばの運動」に過ぎない(過ぎない、といってはほんとうはいけないのだけれど、ここは、方便)。
 それに対して「頭」「肩」。これは「肉体」そのもの。頭も肩も、私はしっかりと知っている。で、それが何かに「ぶつかる」ということも知ってる。ぶつけたときの肉体の反応(痛い)もしっかりと覚えている。痛いだけではなく、「なぜここにこんなじゃまなものがあるんだ」とひとりで怒ったことなんかも覚えている。「意識」はどこにあるかわからないし、あるかないかもわからないけれど、肉体が「ここ」にあることはわかるし、その肉体はいろいろなものを味わってきたこともわかる。そして、その肉体の「わかる」が「ぶつけて」から「汚して」への、とんでもない「飛躍」を結びつけてしまう。
 何かにぶつかる。その衝撃によって「肉体」はよごれる。それが「痛い」という感覚の発生か。でも、そのとき、もしかすると「肉体」をぶつけられた「対象」もまた何らかの形で影響を受けている。つまり「よごれている」ということはないだろうか。
 対象と肉体の出合い。それは、互いによごれることである。
 そう知っているからこそ、そのよごれを回避するようにして「そうではない」「わかりませんでした」ということばが動くのだろう。
 こういうことを「頭や肩」という「肉体」をつかって、肉体をあらわすことばでしっかりとつなぎとめているところが、実に、うまい。こういう「肉体のことば」に人間は(私だけ?)は、とても安心するのである。
 「そこにある意識」「そこにない意識」という問題よりも、「ぶつける」から「よごす」までの飛躍と接続の方が、哲学の問題としては重くて複雑だと思うけれど、まあ、そういうめんどうくさいとこは省略して、ぱっと書いてしまっている。
 いやあ、ほんとうに、いいなあ。

 で、そうやって感心したあと、最後の詩の閉じ方が、あまりにも整然としている。

私の占めていたこのあたりを襲う

 この「このあたり」というのは、とてもあいまい。あいまいなのだけれど、「私」がいて「このあたり」ということばが動くとき、うーん、それがわからない人間というのはいない。「肉体」がある「このあたり」というものを、だれもが「場」として、特定できないにもかかわらず「肉体」を手がかりに、感じてしまう。それを逆手にとって岩尾は「このあたり」と言うのだが、その「このあたり」と「私」が結びつくとき、何かが、一瞬のうちに反転してしまうような気もする。つまり「このあたり」とは「私の外としての場」ではなく、「私の内部としての場=意識」というものをも呼び覚ます。
 で、その瞬間、世界が一気に結晶化する。
 うまい。うまいけれど、整然としすぎていて、そのあとのことを読んでしまったあとの私のことばは考えようとしない。考えなくてもすむように、世界が整然とととのえなおされたという印象が残る。 
 



箱―岩尾忍詩集
岩尾 忍
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・ロレンツ監督「人生の特等席」(★★★)

2012-11-29 10:10:59 | 映画
監督 ロバート・ロレンツ 出演 クリント・イーストウッド、エイミー・アダムス、ジャスティン・ティンバーレイク

 あ、伏線だなあ、とすぐわかるシーンがある。絵画の前半三分の一(四分の一?)くらいのところ。イーストウッドがドラフトの候補を見に行くシーン。その注目の選手が大風呂敷を広げている。そこにナッツ売り(だったっけ?)が登場する。みんなに取り囲まれている選手が「1個くれ」と要求する。バイトの学生が袋を投げる。「ストライク」。あ、この「無名の男」がこの映画のどんでん返しにピッチャーとして登場するなあ……。
 これは、まずいよなあ。こういう見え透いた「伏線」は、もうほとんどご都合主義。
 イーストウッドがスカウトした投手が酷使の結果肩を壊し、いまはスカウトをしている。でも、スカウトよりも野球放送の仕事に携わりたいなあと思っている。その男が子どもの野球の実況をするというようなていねいなキャラクターづくりをしているのだから、伏線ももっと気を配らないと。
 少なくとも野球場のナッツ売りのバイトではなく、せめて野球そのものにかかわっていないと……。
 さらに、伏線のつもりかもしれないけれど、うーん、ちょっとなあ、というのが、イーストウッドの「補聴器」。目が悪くなっただけではなく、目も悪い? ではなく、野球場の「音」をより正確に聞き分けるため--そして、この「音」を聞くということが、最後のどんでん返しにもつながるのだけれど。これが、ぜんぜんおもしろくないというか、映画の全体を壊している。
 イーストウッドの役どころはパソコンに代表される「機械」ではなく、人間が直接「肉体」で選手と野球に接することで才能を見つけ出すという「仕事」をしているということ。「補聴器」ではなく、裸の耳で音を聞かないと、「意味」がない。
 ほら、選手がカーブが打てない、カーブを打つときひじが流れる--というのを判断するのは娘のエイミー・アダムスの「肉眼」だよね。エイミー・アダムスにビデオを撮らせて、それをあとで分析するというようなことではなく、あくまで、その場での「肉眼の仕事」。そしてイーストウッドは「機械の分析」よりも、「肉体の観察」の方を重視している。「補聴器」では、まずいんじゃない?
 なぜ、「補聴器」を登場させたか。そういう「小道具」をつかったか。理由は簡単。「耳」で、「音」でイーストウッドは野球を分析していたということを「暗示」させるため。「補聴器」はイーストウッドが音を正確に聞き取るための小道具ではなくて、イーストウッドが「耳」(音)で野球を把握していたということを証明する「小道具」。
 うわーっ、いやらしい。
 だから、最後の方、エイミー・アダムスがモテルで帰り支度をしているときに、外から「バスッ」というような音が聞こえてきた瞬間、あちゃー、こんな具合にしてバイト学生が「主役」として登場するのか、と私は想像したのだが、そうしたら、そのとおりになった。
 「小道具」が「小道具」ではなく、「仕掛け」を種明かししてしまっている。「種明かし」の「小道具」になってしまっている。
 これでは、おもしろくない。
 ロバート・ロレンツはイーストウッドの元で働いてきたひとらしい。この映画は、まあ、いってみればイーストウッドがロバート・ロレンツの「デビュー」を手助けするために出演した映画なのかなあ。監督業は教えた。つくってみればいい。出演してやるよ。あとは、自分で歩いていきなさい、ということなのかなあ。イーストウッドらしいなあ、と思うけれど。
 で、こんなにけなしてしまうなら、★がもっと少なくていいのでは、と読んでいるひとは思うかもしれない。まあ、そうなんですけれどねえ。1シーン、気に入ったんです。イーストウッドがひとりでバスに乗って帰っていくシーン。バスのなかからイーストウッドが外を見つめる。そうすると、そこにイーストウッドの顔が半透明に映る。それをイーストウッドが見ている。ほんの一瞬なのだけれど、あ、これはいいなあ。実際にバスの座席からそういう顔がイーストウッドに見えるかどうか、よくわからない。夜ならありうるけれど、昼でもそういうことが起きるかどうかわからないのだけれど、まあ、これは映画。
 それに。
 そこに顔が映っていなくても、そしてイーストウッドが見ているものが、広大な風景だとしても、それはそれで「顔」なのだ。旅から旅へとバスで移動しながら新人を探し回る。そのときイーストウッドが見る「風景」、季節の移り変わり、そういうものすべてがイーストウッドの人生、つまり「顔」。
 一種の敗北のなかで、イーストウッドは、それを見ている。で、何が見えたんだろうねえ。この映画は、そのとき「答え」を出さない。ただ、そういうシーンがあるということだけを、そのままほうりだしている。泣きそうになるねえ、こういうシーンには。
 で、最後の最後、娘と恋人がハッピーエンディング。取り残されたイーストウッドが「バスで帰るか」と歩きだす。ああ、前のバスのシーンは、この「伏線」だったんだねえ。いいねえ、いいねえ、いいねえ。
                        (2012年11月28日、中州大洋1)





許されざる者 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為平澪『割れたトマト』

2012-11-28 11:07:44 | 詩集
為平澪『割れたトマト』(土曜美術社出版販売、2012年11月20日発行)

 ことばは「意味」に整理されてしまうとつまらない。けれど、ことばは「意味」をどうしてももってしまう。どうすれば「意味」から逃走(?)できるか。
 為平澪『割れたトマト』は、そういうことを考える手がかりになるかもしれない。標題の作品。

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

母は心臓が悪い
母は老化がはやい
母は寝たきり

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

割れたトマトは
私の頭だったのか
母の心だったのか

先端から まっしぐらに
数々の ヒビが入り
ふたつとも
赤い涙を流していた

 4、5連目は「意味」しか書かれていない。トマトは頭だったり(比喩)、心だったり(比喩)して、それは割れて(事実)、涙を流している(比喩)。為平の憤りと悲しみがきちんと書かれている。
 で、その「意味」は説明の必要がないくらい簡単にわかる。わかったつもりになってしまう。で、それが、つまらない。だいたい、トマトが「ふたつ」というのがおもしろくない。

割れたトマトは
(そのひとつは)私の頭だったのか
(他のひとつは)母の心だったのか

 これでは、私の「頭」が苦しみ、母の「心」が悲しむ、ということが完全に「分離」してしまう。「ひとつ」のことではなく「ふたつ」のことになってしまう。1連目にあるトマトを母に投げつけた理由が、私の頭の苦しみをわかってくれない母への怒りであることが、「ふたつ」にきちんと整理されてしまう。
 でも、それって、ほんとうは整理されていないものじゃないかな?
 整理されていないからこそ、怒りが爆発する。つまり、母に対して怒っているのか、自分に対して怒っているのか、母が悲しんでいるのか、私が悲しんでいるのか、その区別ができない「ひとつ」が、まあ、こういうときの「肉体」のあり方だと思うけれど、それを為平は「ふたつ」に整理してしまって、その「整理」のなかで「意味」がきちんと動いていく。
 こうなると、詩は、「わかりやすい」けれど、つまらない。つまり「わかった」と簡単に言いきってしまって、それでおしまいになる。
 ほうとうに、わかったの? というか、それは「わかってしまって」いいことなのか。他人の気持ち(肉体)なのに、なぜ、そんな簡単に「わかる」のか。
 そんなところに、詩はあるのか。
 わたしは、ない、と思う。そこには頭で理解する「意味」はあるが、詩はない。なぜ、詩がない、と断定してしまうかというと、「他人」にであった気がしないからである。そして、あ、これこそ私が探していた私だ(私の気持ちだ)という感じにはなられないからである。まあ、こういうことは、感覚の意見だから、特に「理由」というほどのものではないのだが。

 で、それなら、なぜこの詩を取り上げて何かを書こうとしているかというと。
 というか、この詩のどこに詩を感じたのか、というと。
 言い替えると。
 では、この詩のどの部分が私には「わからない」かというと。

さんじゅうよんさいにもなって
母親にトマトをふたつ
おもいっきり なげつける

 この3行は1連目と3連目と、2回繰り返されている。なぜ、2回おなじことばをくりかえしたのか。「さんじゅうよんさい」とわざわざ2回も「ひらがな」で書いているのか。
 「意味」から考えるなら、3連目はなくてもかわらない。為平が母親にトマトを投げつけ、その割れたトマトを見て、頭か、心か、それが涙を流していると感じたという「ストーリー」はかわらない。「意味」とは「ストーリー」に組み込むことのできる「こころ(気持ち)」のことだ。
 で、なぜ、2回くりかえしたのか--それはわからないのだけれど、その「意味」はわからないのだけれど、くりかえしてしまう、その「くりかえし」のなかにある「肉体」の動きはわかる。一度では気がすまない。気がすまないというのは、「肉体」のなかにまだ「気」が残っているからだね。「気」を吐き出してしまいたい。だから、「気」を吐き出せるまで、ひとはくりかえす。為平は2回だったが、ひとによっては3回、4回かもしれない。
 ひとが怒ったり、悲しんだりしているのをみると、そういう「状態」に出合うでしょ?怒りも悲しみも「1度」で十分「意味」はわかる。怒っているのだ、悲しんでいるのだ、ということはわかる。でも「1度」だと、「程度」がわからない。
 くりかえしのなかには「程度」という、何か、変なものがある。そして、その「程度」こそ「怒り」や「悲しみ」の「思想」にあたる根幹なのだと私は思う。何度も何度も肉体を通り抜けてあふれる「感情」は、くりかえすことで「思想(肉体)」になる。これは奇妙な言い方になるが、頭で「理解する(わかる)」ことがらではなくて、実際に肉体を動かすしかない「こと」、動きのなかで「覚える」何かなのだ。
 このときの「覚える」は「記憶する」の「覚える」ではなく、「知る」である。そして、その「知る」は「思い出す」でもある。あ、こういうものが自分の肉体にもあるということを「思い出す」。「肉体」を「知る」。
 「怒り」「悲しさ」は「名詞」だけれど、あらゆることは「名詞」ではなく、「動詞」のなかで、「肉体」をとおして、「こと」として「覚える」必要があるのだ。
 これは、そして、このことこそ為平の「肉体」のなかで起きていたことでもある。為平はおなじことばをくりかえすことで、自分の肉体を動かしていた。そして、肉体の奥から自分がほんとうに思い出したいものを見つけ出そうとしている。それを「知り」、それをはっきりと「覚える(これは記憶する、という意味)」にくりかえすのである。「覚える」は「つかえる」ということでもある。怒って悲しんで、トマトを母親にぶつけるということは「覚える」必要がないようなことかもしれない。「覚え」なくても、「つかえる」ことだとひとはいうかもしれない。そうであるなら、実際にトマトをぶつけて、これはする必要のないことだったと「覚える」、「つかわない」ということを「つかう」ことができるようになる--そうするために、為平はくりかえすのである。
 
 くりかえしのなかに「思想」がある。「意味」をこえる「肉体」がある。詩には昔からリフレイン(くりかえし)があるが、それは「意味」ではなく、「意味」を「肉体」がこえるためにおこなう「儀式」のようなものである。くりかえさなければならない「肉体」のなかの、ことばにならない「程度」の発露がリフレインなのである。





割れたトマト (現代詩の新鋭)
為平 澪
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松井ひろか『若い戦果』

2012-11-27 10:48:21 | 詩集
松井ひろか『若い戦果』(土曜美術社出版販売、2012年11月10日発行)

 ことばは「意味」を整理するとつまらなくなる。松井ひろか『若い戦果』を読んで、すぐに思ったのはそのことである。「あなたと わたし」という作品の「先年の知己」という部分。

あなたと わたしが
はじめて会ったとき
おたがいが すでに
千年の知己のように
あたりまえの存在でいられたら--

 ここには「あなた」はいないし、「わたし」もいない。「千年の知己」ということばが「意味」としてだけ提出されている。「千年」って、どれくらいの長さ? 知ってる? 私は意地悪だから、こういうことばにであうとどうしてもそう質問したくなる。「千年」と「九九九年」の違い、わかる?
 もちろん「頭」ではわかる。つまり「頭で整理した意味」でなら「千年」と「九九九年」の違いはわかるし、「九九七年」の違いだってわかる。そして「千年」というのは具体的な長さではなく、とても長い間という「意味」、つまりひとによっては「千一年」であっても、「九八年」であってもかまわないこともわかる。
 でも、私は、こういう「わかり方」がどうも納得できない。それって、わかったことになるのかどうか、わからない。
 そういう「わかり方」よりも、おなじ「千年の知己」の別の部分の「わかない」ものの方が納得できる。

毎日 青いりんごがいくつも
いくつも わたしの家に降ってくる月も降ってくる
眉のような三日月のまんま
私はそれを拾い上げて
丸かじり 当然歯は欠ける はぐきは出血する

 「りんごが降ってくる」ということ、まあ、家のなかにりんごの木がないかぎりありえない。「月が降ってくる」ということもありえない。「月の光が降ってくる」なら、ありうる。でも、松井は「月の光」ではなく「月」と書いているし、さらに「眉のような三日月のまんま」と言いなおしている。こういうことは、実際には、ありえない。
 つまり「ナンセンス」、「意味がない」。
 「頭」でどんなにがんばってみたって「意味」にはなりえない。
 「月の光」とは書いてないが、それは「月の光」のことである。「光」は省略されている。「月が美しい」というとき、それは「月の光が美しい」というのに等しいように、ひとはわかりきったことは省略する。
 という具合に、いったん「頭」で整理することもできる。でも、それが「月の光」ならば、それを「丸かじり」したとき、歯は欠ける? それは「当然」? 違うよね。空にある月そのものが降ってきて、その硬い固まりをかじったときなら歯は欠けるかもしれない。
 ね、「頭」で考えはじめると、どうしたっておかしなことになる。松井は「でららめ」を書いていることになる。
 しかし、「頭」で「意味を整理する」ということをやめたら?
 月は降ってくる。それをかじれば歯が欠ける。歯茎は出血する。そうだろうなあ--と感じるのは「頭」ではなく、何かをかじったことがある「肉体」である。そこにかかれていることから、「わかる」のは「肉体」は硬いものをかじったら歯が欠けるという「肉体」のあり方である。
 それがわかれば、「肉体」はそういうものと向き合うために、「硬いものを煮る」(煮ることによってやわらかくする)という「仕事」をすることも、とても自然に「わかる」。納得できる。

陽当たりの悪いわが家に
月の灯は滲み入り
ぶつ切りにしたりんごに砂糖をぶっかけてステンレスの鍋で煮る
たまに鍋底からごむべらで混ぜてやる
今日 百歳のバースデーを迎えた彼女へ
わたしはりんごをお裾分け

 鍋底からまぜるのに、なぜ「ごむべら」か。ステンレスのへらではまずいのか。こういうことは「頭」でももちろん説明できる。しかし、そんなことを私たちは「頭」では説明しない。「肉体」で納得する。
 「頭」などつかわずに、私たちは「肉体」で何事かを「のみこんでしまう」。「からだ」のなかに入れてしまって、「おぼえてしまう」。「わかる」はどこかへ消えてしまって、私たちは「肉体」を「つかう」。
 「肉体」を「つかう」、その「つかう肉体」(肉体のつかい方)がわかったとき、私たちは、そのひとといっしょに生きている。--少なくとも、私は、そう感じている。で、その「肉体のつかい方」が「ことば」となって動いているとき、私は、あ、これが詩だなあと感じる。

 こういう「肉体」へ、どうやってたどりつくか。どうやって、その「肉体」を自分のものにするか。いろいろ方法はあるのだろうけれど、松井は「旅」という方法をとっている。「いま/ここ」という自分の場所を離れ、「他人のいま/ここ」に出合う。そうすると、そこではいままでの「肉体」のままでは生きていけない。「他人の肉体」と共通のものを生み出さない限り、他人と接続でいない。「肉体」は「いま/ここ」ではどんなふうに動いているのか、その動きにはどんな「つかい方」があるのか。そういうことを「わかる」よりまえに、まねて、なれて、「おぼえこむ」。そのあとに「つかう」がやってくる。それが「肉体」をつきやぶって「ことば」になるとき、そこに詩が動く。
 そういう作品のひとつが「やみのなかを」である。これは、いい作品だ。

一月のモスクワ
誰も帰ってしまった
夜の イズマイロヴァの土産市場で
マイナス四度の寒さに からだの先端という先端がかじかんで
わたしは立ちすくんでいた

マトリョーシカ職人のマリーナさんに夕食を誘われて
彼女が商品を片付けるのをじっと待っている
手伝いましょうかと声をかけると
--余計なことはしなくていい
とぴしゃりと言われてしまう

わたしはこぶしを握り締めておもい浮かべた
暖められた部屋に用意された
 マッシュポテト ウクライナ風ボルシチ 白身魚の香草焼き 黒パン
皿に山盛りのチョコレート ぶどう すもも 洋梨
そしてもちろんウォッカで乾杯

マリーナさんは急ぐ気配なし
凍えてたちすくむわたしの前を
駆け抜けていく
やみのなかを
黒い猫一匹




若い戦果―詩集 (現代詩の新鋭)
松井 ひろか
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福田知子『ノスタルギィ』

2012-11-26 09:55:11 | 詩集
福田知子『ノスタルギィ』(思潮社、2012年11月15日発行)

 福田知子『ノスタルギィ』は、音がとても印象に残る。
 「緑の劇場」という作品の冒頭。

三つの緑に向かい合っている
緑と話す日々……

--泡雪に白く凍る緑
--光のレエスを纏う緑
--眩しい紅葉に翳る緑

 「緑」という「音」は「ひとつ」である。しかし、その「色」はどうか。「三つ」と福田は簡単に呼んでいるが、その「三つ」が私には簡単にはつかめない。「泡雪に白く凍る緑」ということばのなかには「緑」以外の色があり、それが緑を簡単には感じさせてくれない。どうしてもほかの色と交じりあう。しかも、その交じり合いは単純ではない。「白」も単純な「白」ではないからだ。「白く凍る緑」というとき、「凍る」のは「白」か「緑」か。区別ができない。
 そして、その「区別のできない緑」が「三つ」描かれるとき、それでもそれは「三つ」? 私はこういう単純な算数が苦手である。「区別がない」と「ひとつ」になってしまう。ほんとうは「三つ」なのかもしれないけれど、その「三つ」のなかには「ひとつ」があると感じてしまう。
 で、その色は?
 わからないね。そのかわり「みどり」という「音」が、「色」を超えて「色」を「ひとつ」にしているように感じるのだ。
 「音が印象に残る」というとき、実は「音」を聞きながら「音」以外のものを感じているということかもしれない。

 「緑の詐欺師」の音は、「音のなかには音以外のものがある」ということを強烈に訴えかけてくる。

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
幾星霜の雨林を泳げ
昼なお暗い宇宙の森の水槽アマゾン
海から河の上流へと逆流するポロロッカのように
濁流を渡って

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
泥まみれの河の精
三〇億年の酸素のかたみを
地球の創世記に返すまで

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
アマゾンの熱帯雨林にきれいな朝焼けがかかる
たたみかけるように強い陽ざしが照りつけ
スコールが水面を強打する
そのとき河の底は古代王国のように静かだ
何事もなっかたかのように彼らは
泳いでいく

 「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」とは何なのか。「ピラクル」が泳いでいるときの「音楽」、福田が受け止めたいのちの「鼓動」かもしれない。
 そして、その「音楽=鼓動」は「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」につづくことばで言いなおされている。言い直しというのは「違うことば」によっておこなわれるのだけれど、それが指し示しているのは同じもの。福田が受け止めたいのちの「鼓動」。それは繰り返され、重なることで「交響曲」になる。ひとつの音が「和音」を呼び、「和音」が「メロディー」を呼び、それが重なり合って「交響曲」になる。
 だから。
 その「交響曲」は「複数の音」でできあがるけれど、それは複数であることによって「ひとつの音」になる。
 この変化は、豪快で、強烈で、気持ちがいい。

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
ピラクルがアマゾン河からヌメリのある顔を出して
ふうっと酸素を吸い込んだとき
緑をまとったわたしは詐欺師だった
ピララーラが鯰の直感で大地震を予知したとき
わたしは給食を食べる小学生だった
ピライーバがはじめて釣り上げられたとき
わたしはイスパニアの石段で詩を朗読していた

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
アマゾンの河の精たちよ
おまえたちが須磨水族園のアマゾン館にやって来た未明
わたしは生まれたばかりで
星の顔をした母親が
天の川の産湯をつかわせていた

 「ピラクル」という魚から始まる「音楽」は、そうやって「わたしの誕生」から「宇宙」までをのみこみ「ひとつ」の「交響曲」にしてしまう。
 こういうことが可能なのは「音」が「意味」であると同時に、意味を超えるものだからである。

 でも、どうやって、意味を超えるのかなあ。

 この質問(疑問)は、まあ、めんどうくさいものを含んでいる。つまり、簡単には答えることのできない問題をいろいろ抱え込んでいる。
 けれど、私は簡単にいってしまう。
 「肉体」をつかって超えてしまうのである。ことばを「音」にする。つまり「声」にする。「声」にするとき、のどをつかう。口も、舌も、歯もつかう。鼻腔もつかうなあ。下腹だってつかう。耳もつかっている。ひっとすると目だってつかっているかもしれない。「息」を吸い込み、「息」を吐き出す。人間の呼吸にあわせて、ことばが呼吸し、それに合わせて世界が呼吸する。そして「リズム」が生まれる。
 福田のことばは、どうやら、そういうものを潜り抜けてきている。だからひとつの「音」、ひとつの「ことば」のなかに、何か複数のものがある。そしてそれは複数であることによって、より強い「ひとつ」に結晶する。そういう「運動」が生きている。

 「春の嵐によせて」の書き出しの2行にも非常に衝撃を受けた。

さみどりの 目覚めの際(きわ)のみどりよ
ゆきつ戻りつ みどりを祈(の)みつつ

 この詩にも「緑」が「みどり」という形で繰り返されているのだが、その「みどり」が「のみつつ」という「音」に変化する。「のみつつ」のなかにある「み」が「みどり」の「み」と呼応する。
 この2行を声にするとき(私は黙読しかしないので、実際に声は出さないのだが、声に出さない黙読のときでも喉や舌やなにかは動くのである)、もえいづる「みどり」そのもののなかに「いのり」があるという感じが「肉体」のなかに力強く育ってくる。なにからしら「野生の力」というのか「原始の力」のようなものと「肉体」が触れあうのを感じる。それは万葉集の歌の「音のゆらぎ」を肉体で感じるときによく似ている。
 「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」というのは「日本の音」ではないのだが、「原始の音」であることによって、国籍(国語)を超えて「肉体」に響いてくるのかもしれない。福田の肉体は、音をそういうところでつかんでいるのかもしれない。



ノスタルギィ
福田 知子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中上哲夫『ジャズ・エイジ』

2012-11-25 10:31:28 | 詩集
中上哲夫『ジャズ・エイジ』(花梨社、2012年09月30日発行)

 中上哲夫『ジャズ・エイジ』で私が一番気に入ったのは、<アイオワにて>という作品である。

北米中西部の大学町のキャンパスをさまよっていたとき
思ったのだった
世界は音に満ちている
芝生が踏みしだかれる音
くもが網をはる音
枝が折れる音
木の実が落ちて地面に当たる音
心臓の鼓動
風の足音
魚のはねる音
ため息
雲の流れる音
渡り鳥たちのはばたき
ジャズのない町で

 いろんな音に気がついたその音を書き留めた--ただそういう作品だけれど、ここにジャズがあると私は感じだ。それが「ジャズのない町で」というところが、とてもおもしろい。最後の「ジャズのない町で」は一種の逆説だ。ジャズが好きなひとにとっては、どこにでもジャズはある。

くもが網をはる音

 というのを私は聴いたことがないが、それが「芝生が踏みしだかれる音」「枝が折れる音 」「木の実が落ちて地面に当たる音」ということば(音)のあいだにはさまるとき、芝生を渡り、木々のあいだを歩く情景が浮かぶ。「くもの網」は「視覚」に、そしてときには「触覚」にぶつかってくるものだろうけれど、人間の感覚というのは肉体の奥底で融合しているから、「視覚」や「触覚」が「聴覚」を揺り起こすこともあるに違いない。その、私の知らない音に耳を澄ます瞬間、知らない音に出会う瞬間、その驚きのなかにたしかに「ジャズ」があるんだなあと思う。
 おなじ感覚が<蛙たちとのセッション>にもある。

田んぼの近くに住んでいたことがあって

ラジオをかけると
蛙たちがいっせいに鳴き出すのだった
サックスがパパパーと鳴ると
蛙たちはケロケロケロと
トランペットがプププーと鳴ると
ケロケロケロと
ピアノがポロポロポロンと鳴ると
ケロケロケロと
ニューヨークでもパリでもロンドンでも
キトーキョーでもストックホルムでもないなあと
夜もふけるにつれて
官能的な気分になって
家をそっとぬけ出すと
女たちのいる酒場へと出かけて行ったものだった

 「官能的」とは何か。それはジャズ。異質なもの、それまで出合ったことのないものが出合い、そこで何かを発見する。
 ラジオのジャズと蛙がセッションをするとき、中上の「肉体」のなかの「自然」とラジオの中のジャズがセッションをする。蛙が官能的なのではなく、そこにジャズを感じる中上が官能的になるのだ。
 何かを揺らしたい気分になる。
 これは、いいなあ。

 私はニューヨークのビレッジバンガードでジャズを聴いたとき、びっくりしたことがある。途中で地下鉄のゴーっと走り去る音が響いてきたのだ。それまで私は雑音が入るところでジャズを聴いたことがなかった。もっぱら自分の部屋で聞いていた。だから、えっ、こんなところで「名演」は繰り広げられてきたのかとびっくりしたのだが、同時に、あ、これがジャズなんだとも思った。
 楽器が奏でる音だけではなく、世界には音が満ちている。その音に対して自分がどんなふうに「音」として反応できるか。自分の枠を揺さぶって、自分を解き放つことができるか。
 ジャズ奏者は「楽器」を演奏しているのではなく、自分を演奏しているのだ。

 中上は自分を「演奏」するということを知っている。そして、そういう「同類」とセッションをする喜びを知っている。そういうことをしていないひとからも「音」を引き出しセッションをしてしまう。
 そういう作品を一篇ひいておく。「14」という数字だけでくくられた詩。

仕事がなかったので
郊外電車にゆられて
釣具と
遠くの川へ出かけて行ったものだった
竿をつき出していると
トランジスターラジオをぶらさげた釣人が
となりにすわって
ジャズをガーガー鳴らすのだった
すると
にわかに魚の喰いが止まるのだった
日本の魚には歌謡曲かなと
たまに浮子が動いても
男は流れる雲をながめていて
竿を上げる気配もなく
息子の嫁の悪口を
えんえんと
嫁の顔を見たくないので
釣りに出かけてくるのだと
男のおしゃべりと
ガーガーというトランジスタラジオのジャズをきいている
釣果はどうでもよかった
暗い部屋から
光あふれる野へ
川風にふかれて
雲雀の声をあびて

 「息子の嫁の悪口」も「音」である。その「音」に反応する「官能」がある。その「音」にふれて動くものがある。ノイズによってめざめるいのち。ノイズとは「他者」の「いのち」そのものである。




エルヴィスが死んだ日の夜
中上 哲夫
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今西富幸「風景抄」ほか

2012-11-24 20:13:28 | 詩(雑誌・同人誌)
今西富幸「風景抄」ほか(「イリプスⅡnd」10、2012年11月20日発行)

 私はいま風邪をひいている。ということと、詩の感想は無関係かもしれないけれど、関係があるかもしれない。私は肉体の変化はかならずことばにあらわれるからである。で、今回の私の風邪はとてもかわっている。熱がない。それなのに猛烈に寒けがするのである。とくに背中が寒い。そして関節がじわりと痛い。私はだいたい熱に弱くて熱が出ると関節が激しく痛む。キーボードも打てないくらいに痛む。今回はそうではないのだが、指が重たい。
 で、こういう状態で詩を読むと、どんな具合にことばが動くのかなあ……。

 今西富幸「風景抄」の「夜空」。

夜の空がとてつもなく大きな顔に見えた時
僕はふっと思い出す
僕はふっとうらがえる
僕はふっと沸き上がる
僕はひとつのものを発見する

 このリズムが肉体になじむ。息の長い文体は苦しいが、短い呼吸は体調にあう。
 そして、この「思い出す」を「うらがえる」と言いなおすときの感じが、「肉体」の奥からことばを探すようで、不思議になっとくできる。「思い出す」というのは「にくたい」をひっくりかえすこと、そのとき「肉体」はうらがえる。確かにそう思う。そうすると何かが「沸き上がる」。その「沸き上がる」ものを「発見する」。「思い出す」というのは「発見」だね。「発見」できるのは、すでに「存在するもの」、ということは「思い出す」ことにほかならない。
 あ、いま、私が求めているのは、こういう「肉体」の静かな、しかし、何か新しい変化なんだなあと思う。

しばらくとぎれていた物音が突然戻ったのだ
僕はすこし目を閉じる
でも
かつての僕のどのあたりにも
そのようなものは存在しなかった
こんなにも側にいて
何も知らなかったとは

 ここに書かれていることは、じっくり考えると「非論理的」である。「思い出す」とは「すでに存在するもの(存在したもの)」を「発見する」ことである。1連目はそう読むことができる。
 だが2連目で今西は「そのようなものは存在しなかった」と「存在した」ということを否定している。
 でも、そうなのかな?
 「思い出す」と「発見する」を結びつけることも、実は、「ことばの経済学」からいうと矛盾している。「思い出す=発見する」は「流通言語」の定義にはなじまない。つまり「辞書」には採用されない定義である。
 だが「思い出す」は間違いなく「発見する」なのである。
 「かつての僕」にはそれは「存在しなかった」とは、「かつての僕には発見できなかった」ということである。そしてそれが「知らなかった」ということなのである。「いま/ここ」にあるものをだれもが正確に「知っている」わけではない。それはあとになって「発見する=思い出す」ということがある。
 そして、「思い出す」とは、あるいは「発見する」とは、必ずしも「目を開いて」何かをつかむことではない。「僕はすこし目を閉じる」。そうすると、そこに「しばらく途切れていた物音」がある。目が働くことをやめ、耳が働く。そのいれかわり--肉体の「うらがえり」の、その運動に誘われるように、「かつての僕」が見落としていたものが、聞くという肉体の力を借りて「沸き上がる」。

 ことばは「肉体」を通るとき、確かに何かをつかみ取る。
 だからこそ、「からだ」は大切なのだ。
 健康なとき、この詩はどんなふうに響いてくるか--それは、また別の問題かもしれないが、そんなことを考えた。



 倉橋健一「生きる」。この詩は病気のときに読むのはちょっとつらい。

老いさらばえ唐辛子になった赤ん坊
罅が入った浅いカリガラスの皿に
レタスに包まれよごれている
軋る音にも気づかない
落ちてきた雷鳴(かみなり)も天窓でにやりひと休み
山姥に似た目つきでしきりに覗き込んでいる
ああ何という長ったらしい退屈だ
としどけなく醒めている
日がしずみ(おきまりの)闇になる
寝息までが老いさらばえている
静寂もついには溜息と言葉を替える
完全不完全燃焼のまんまの雷鳴
に映される赤ん坊そのときばかりはほんとうに翁になる

 ひとは言ったことを何度も反復する。言いなおす。言い直しながら、最初のことばをとらえなおす--という構造は、今西の「夜空」とおなじである。「赤ん坊」と「山姥」のあいだをことばが往復しながら、何かを「発見する」。イメージを結晶化させる。
 「完全不完全燃焼」ということばが象徴的だが、「完全」な「不完全燃焼」というのは矛盾であり、同時に矛盾であることによって「絶対的なこと」になる。「絶対的なもの」ではなく、「こと」と私は考えている--と書いて。
 なぜ、倉橋の書いていることばが、いまの私の体調には苦しいかがよくわかる。
 「考える」。考えてしまう。そうだねえ。体調が悪いときは考えてはいけないのだ。
 だいたい、こういう「息の長い」文体は、風邪のように呼吸困難な人間が読むのにはふさわしくないなあ。私は黙読だけで音読はしないのだが、

ああ何という長ったらしい退屈だ
としどけなく醒めている

完全不完全燃焼のまんまの雷鳴
に映される赤ん坊そのときばかりはほんとうに翁になる

 こういう行のわたりは、とても苦しい。
 この「わたり」に倉橋のことばの「息の長さ」の特徴があると思うとなおさら苦しい。体調の悪いときには読む詩を選ばなければならない。
 とかなんとか言いながら、

ああ何という長ったらしい退屈だ

 この1行の「転調」は気に入っている。そこだけ「一息」つける。「肉体」で受け止めることができる。「長ったらし」くない「退屈」なんて、つまり「短い退屈」なんて、それこそ「詩のことば」にしかないのだろうけれど、そのことが逆に「長ったらしい退屈」こそが「新しい詩」なのだと、私のいまの肉体には響いてくる。

 病気のとき、詩はどんなふうに見えてくるか、というようなことを書き留めてみると、それはそれでおもしろいかなあ。



火の恍惚をめぐる馬―今西富幸詩集
クリエーター情報なし
矢立出版
詩が円熟するとき―詩的60年代環流
倉橋 健一
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」

2012-11-23 10:58:46 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」(「おもちゃ箱の午後」5、2012年11月20日発行)

 「おもちゃ箱の午後」を読みはじめてすぐに、同人誌はむずかしいなあ、と思った。「人数」がむずかしい。誰といっしょにやるかがむずかしい。似たもの同士はつまらないけれど、違いすぎるとまた遠心力が強すぎて……。
 「おもちゃ箱の午後」のような状況のなかでは、金子鉄夫「マディビート論、ナガシマ へ」がとても読みやすい。どうせ、みんなばらばら。そこで生き残るには軽さとスピード。混沌はどうしても停滞する。まあ、そこでさらに停滞し、重力そのもののことばになればそれはそれでいいのだろうけれど。重力そのものになれないときは、ただ突っ走る。そうすると、動いているということが、何かしら輝かしいものに見えてくるのである。

ノラ猫のエリコ(ツレがつけた名前さ、

 これは秋亜綺羅がフェイスブックで引用していた部分だが、ここはほんとうにおもしろい。音がおもしろい。「ら行」「な行」が交錯するのだが、「エリコ」ではなくてほかの名前だったら、「ツレ」ではなく「恋人」とか「女」だったら、このことばの美しさは完全に消えてしまう。
 こういう音に対する感覚というのはきっと生まれついてのものだと思う。あれこれことばを動かしても、自然な音の響きにはならない。そして、その音というのは、黙読しかしない私が言うと奇妙なことになってしまうが、ことばを「声」としてつかんでいる人間にしか書けないものだと思う。ことばを「声」からとらえる人間にしか書けないものだと思う。
 「声」というのは「肉体」である。「文字」と比較するとわかりやすいと思う。「文字」は肉体と離れて存在するが、「声」は肉体とは離れて存在することはできない。
 もっとも、いまは録音器機が発達しているから、必ずしもそうとはいえないのだけれど。そして、きっと、(と私は思うのだが)、録音器機が発達してしまった時代のひとのことば(音に対する感覚)と、それ以前の人間のことばは違うんだろうなあ。
 変ないい方になるが、そういう意味では、金子のことばは「古い」のである。秋亜綺羅と私は、まあ、同年代である。テープレコーダー(古い!)をもっていることは「自慢」できることのひとつであった世代である。そういう人間にとってことば、声とは「肉体」そのものである。だから、「肉体」を感じさせる「音」に出会うと、それに反応してしまう。いまのひとは、「音」と「肉体」の関係が、もしかすると、私たちの世代の「文字」と「ことば」のようなのかもしれないとも思うので、私の書いていることは的外れということになるかもしれないが……。
 まあ、いいか。

 金子の詩にもどる。

わけわからないけどさ、どういうわけだかさ、
さっきからピンクっテラテラって、カワイイねってキミの
パックリひらいたひらいた網膜の穴に、たとえばサンシャイン60を出しては入れて入れては出して・・・

 これは詩の書き出しである。ここには「くりかえし」が多用されている。ことばの「経済学」からいうと「わけわからないけどさ、どういうわけだかさ、」は「わけわからないけどさ、」だけか、あるいは「どういうわけだかさ、」だけでもおなじ「意味」である。指し示すことがらはおなじである。けれど、これが「文字」ではなく「口語」の場合はどうか。もちろん「意味」そのものはかわらないのだが、くりかえしによって何かがかわる。
 くりかえしによって、聴いているひとが「意味」を反復するのである。一回ではつかみとれないものが2回くりかえされると、そこに引き込まれていく。それは「意味」というよりも、「肉体」そのものにひきこまれていく。
 反復のなかで「肉体」が共有されるのである。「意味」ではなく、そういうことばを話す人間といっしょに「いる」感じがしてくる。「わけわからないけどさ、」だけでは、ことばが指し示しているものが「肉体」のなかを素通りしてしまう。
 で、そんなことを思うと「音楽」というのはよくできているね。学校で習う簡単な音楽の形式のことだけれど、最初の旋律は少し形を替えて反復される。それから別な動きをして、最後にまた最初と同じようなメロディーが出てくる。そうするとその旋律が自然と「肉体」のなかに入ってくる。「肉体」のなかに残る。変奏しながらくりかえすというのは、「肉体」の外にあるものを「肉体」のなかに取り込む方法なのだ。そしてそれは音楽が生まれたときから自然に人間がつかみとってきたものなのだろう。
 だれかがおもしろい音を口ずさむ。すこしずれてだれかが反復する。いや、そうじゃないよ、こうだよ、というようなことをくりかえしていて、音を変化させることのおもしろさを発見したのかもしれない。そういうことは、「音楽」だけではなく、「ことば」のなかでもきっと起きているのである。
 くりかえされる「音」は「ことばの経済学」からいうとむだだが、「肉体の経済学(?)」にはきっと必要なものなのだ。
 あ、どうも、脱線するなあ。すっきりとは書けないなあ。
 金子の詩にもどる。
 2行目、

さっきからピンクっテラテラって、カワイイねってキミの

 ここには「って」というくりかえしがある。そして、その最初の音は正確には「……って」ではなく「……っテ」と「テラテラ」という「ことば」を先取りする形(?)で始まっている。
 この「正確ではない」ところが、つまり、「論理的構造(?)」ではないことろが、「口語」のおもしろさだね。その場のなりゆきしだいなのだ。「肉体」の動き、のどの動き、舌の動きが最初にあって、そのあとを「ことば」が追いかけてくる。「肉体」をとおってことばが生まれてくる。
 私は、こういうことばを信頼してしまう。「してしまう」というと、変だけれど、まあ、こういうことばの動きは信じて大丈夫と、私は思う。(←「感覚の意見」です。)
 「頭」で考えたことば、頭で集めてきたことばというのは、いつか「肉体」を裏切るような不安があるが、「肉体」をとおってきたことばは、それが私を裏切ったとしても大丈夫だ。それによって傷つく部分は少ない。なんといっても、まず、金子の「肉体」で「毒味」されたことばだからである。
 「頭」だけをとおってきたことば、どこかから「移植されたことば」は、こんな具合には信じることができない。そのことばは「経済学」的には非常に効率的だけれど、その効率のよさが「肉体」を傷つける--というのは、ことばではなく、現代の「ものの生産過程」でよくおきることだよね。
 あ、また、脱線した。
 
 で、こういう「肉体」をとおって動きつづけることばが、いろんな「むだ」を経ながら(いろんな「むだ」を経たからこそ)、 

ノラ猫のエリコ(ツレがつけた名前さ、

 というような、美しい「音」に結晶するのだと思った。
 そしてまた、金子のことばは、何がなんだかわからない「同人誌」のなかで、「肉体」を根拠にしているぶんだけ、強烈に印象に残る。


ちちこわし
金子 鉄夫
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井ひさ子「おとうと」ほか

2012-11-22 11:11:18 | 詩(雑誌・同人誌)
中井ひさ子「おとうと」ほか(「ぶらんこのり」14、2012年11月22日発行)

 中井ひさ子「おとうと」は不思議なことを書いている。

眠ろうとすると
ゆめが先にあらわれ
動き出すけはいです
からだがゆるんだのに
つけこまれたのでしょう

 夢というのは眠りのなかでのできごとだから、「ゆめが先にあらわれ」というのは論理的におかしい。おかしいのだけれど、ぐい、とひきこまれる。
 こういうときだね、ことばというものは「現実・事実」とは無関係である、と感じるのは。そして、「ことば」が語ることが嘘であっても、その嘘を信じたいと思うのは。つまり、「誤読」するのは。
 中井が実際に何を書きたいのか。そういうことは、もうどうでもよくなる。中井には申し訳ないが、私はこの詩を読みながら中井が何を感じたかなど無視して読んでしまう。「からだがゆるんだ」のはその日の仕事で疲れたのか、あるいは遊びで疲れたのか、病気だ芯がたわんだのか、それともセックスの余韻が残っていて何かもどかしいからなのか、いろいろ考えることができるが、その理由を「これだ」と断定したとき、それが中井のほんとうの理由と重ならなくても気にしない。
 私が思うのは……。
 そうか、「からだがゆるんだ」ら、夢につけこまれるのか。「精神がゆるんだ」らつけこまれるのかなと思っていたけれど。つまり、夢というのは「精神」で見ると思っていたけれど、そうではないだな。
 いや、そうではないぞ。夢はやっぱり精神とか頭(脳)とかこころとか、そういう何か目に見えないもので「見る」のだろうけれど、それは「からだ」と切っても切り離せない。区別がつかない。だから、「からだがゆるんだ」ら、その区別のつかない精神・頭(脳)・こころもゆるんでしまっていて、外からはつかみようもないなんだかよくわからない精神・頭(脳)・こころもゆるんでしまうということだろう。
 そうすると。
 「精神(とりえあず、このことばで代用しておく)」と「からだ」というのは、区別があるようであって、区別がないものなんだなあということに気づく。
 そうして、「からだ」と「精神」に区別がないのだとしたら、「夢」と「眠り」は? やっぱり区別がないのではないだろうか。どこからが夢でどこからが眠りかわからない、というのが「ほんとう」かもしれない。どこからが「からだ」でどこからが「精神」かわからないまま、私たちは「からだと精神(肉体と精神)」という二元論で世界をとらえ、おなじ流儀で「眠りと夢」という二元論を信じてしまうのだけれど、これは間違いなのかもしれない。
 それは「区別がない」。つまり「一体」である。だから、どちらが先に動いてもかまわない。おなじ「ひとつ」のものを、そのときの便宜にしたがって、「からだ」とか「精神」とかにつかいわけている。「夢」だとか「眠り」だとかにつかいわけている。そうする方が「流通」しやすい。つまり、「ことばの経済学」に則っている。
 でもね、詩は「ことばの経済学」ではないからね。
 というか、「ことばの経済学(流通言語)」を否定して、たったひとつの「ことばの運動」、流通しえないものだからね。でも、これって、矛盾なんだよね。もし「流通」しなかったら、つまりだれか別のひとに「共有」されないとしたら、それは詩、つまり文学にはなりえないからね。
 だから、というのは強引なんだけれど。
 私はこの「共有」を「誤読」という形で引き受ける。「共有する」のではなく、あくまで自分自身の「誤読」として引き受け、他人には「流通」させない。私と作者との個人的な関係のなかに、私の読んだことを封印しておく。

 あ、ずいぶん脱線してしまった。「おとうと」に戻る。
 中井が書いているのは「からだ」と「精神」が「ひとつ」である。だから「眠り」と「夢」も「ひとつ」であるという「一元論」で成り立っていることばの世界なのだが、これって、最初に書いたように「不思議」。でも、その「不思議」がなんともいえず、自然に納得してしまう。「あ、わかる」と思う。こういうことって体験したことがあるぞ、と思う。
 中井は「一元論」を主張しているわけではないのだが(一元論を証明するために詩を書いているわけではないのだが)、一元論でないと、中井の書いていることがすっきりしない。

気になってねむれません

耳をかたむけ
からだのなかをのぞきこみました

 ほら、ここの部分。
 さっき「からだ」と「精神」が「ひとつ」であるという具合に見てきたのだけれど、ここでは「耳」がとってもおもしろい具合に動いている。「耳をかたむける」というのは「聞く」という動作をあらわす(「流通言語」では)。でも、中井は「のぞきこみました」と「耳」で「見ている」。「耳」が「目」の役割をしている。こういうときの「耳」の動きを、私は「肉眼」にならって「肉耳」と呼んでいる。「肉」は「肉体」の「肉」。それは切り離すともう「肉体」ではなくなってしまう。しっかりと「肉体」にからみつき、どこからが「耳」でどこからが「からだ」かわからないもの。そして、それは「耳」でありながらどこかで「目」ともしっかりつながっているから、「耳を傾ける」ことは「しっかりと何かを見る」ことでもあるのだ。
 この「からだ(肉体)」の不思議を中井は正確に書いている。
 こういう「理不尽(?)」な世界では、何が起きてもかまわない。眠りよりも夢が先に動くくらいは、いわばあたりまえである。
 だから、「からだのなかをのぞき」こんだら、

いなくなった
おとうとがいました

 「いなくなった」は「行方不明になった」ではなく「亡くなった」ということだろうけれど、それを「亡くなった」ではなく「いなくなった」と書くと、ほら、また、「一元論」になる。まあ、私のいう「一元論」は哲学的には問題があって、いいかげんなものなんだけれどね。
 つまり、人間は死んでしまっても「いる」。思い出すとき(プラトンなら「想起するとき」というけれども)、そこに「いる」。そして、私たちはいつでも、そこに「いる」存在と「交流する」ことができる。
 どうやって?
 ことばで。
 ことばで、としか、いいようがないのだが、そういうことができる。
 で、中井は、そういうことを詩のつづきで語っている。実際に中井が、「いま/ここ」にいる弟とどんなやりとりをしたかを書いている。それは「ゆめ」ではなく、「ゆめ」よりも確かな、「分節化」されない世界である。「一元論」というのは「分節化」されるまえの世界をとおってことばが動くという、その動き、運動そのものだ。ことばはどうしてもあることがらを「断定」する。しかし、それを「断定」だからといって「断定」してはいけないのだ。「断定」しながら、同時に「一元論」の根底(混沌・矛盾・無)からあらわれた「方便」として受け止める、つまり「誤読」として受け止めるしかないものなのだ。
 中井の書いていることも世界の「誤読」なら、私が受け止めるのも「誤読」である。その「誤読」なのかでひとは触れあうのだろう。
 また脱線した。
 詩の後半を引用しておく。

料理好きのおとうとの手が
キャベツをむく度に
もどりたい もどれない
声が聞こえてきます

サラダを作るの
それともロールキャベツ
声をかけても
キャベツの葉が増えていくだけです

しかたがないから目を瞑りました

ゆめはみませんでした

キャベツの煮る匂いがします
煮終わったら帰ってきてきなさい

 「耳」をかたむけて「のぞきこ」んだ世界。そこで中井は「声を聞く(耳)」、「声をかける(口、のど)」、そして「キャベツの煮る匂い」を感じる(鼻)。どこからどこまでが「夢」、どこからどこまでが「現実」なのか。中井は「ゆめはみませんでした」と「夢」を否定している。
 そこにはただ「からだ」と「精神」、そして肉体の感覚器官(耳、目、口、鼻)が「一体」となって動いている。



 坂多瑩子「草むら」は、「おとうと」ではなく「妹」がきたときのことを書いている。

妹がきたお腹がすいたというからコロッケ買いにいったら今日にかぎって売り切れ パン屋まで急いでいくとそこは草むらでパン屋もないし隣りの「ニシハラテーラー」もないし そういえばニシハラさんはものすごく若い後妻さんをもらって私はずっとその人をニシハラさんの娘と間違えたままPTA役員をいっしょにやっていて 「リブラン」というパン屋さんがそのころオープンして「いちぞう」にかわり「よこはまぱんの家」にかわりそれからずんとレーズンパンのおいしい「よこはまぱんの家」はよく流行り

 という具合に、こちらは「記憶」と別の「記憶」が「区別」がなくなる。いや、ことばにできるのだから、それぞれの「記憶」ははっきりと独立しているのだが、その通路が「テキトウ」なのである。論理的ではない。つまり「ことばの経済学」に反している。おいおい、いったい何をしに行ったんだ。腹をすかせた妹は坂多の「記憶」を聞かされたって(記憶の迷子にひきずりまわされたって)、満腹にはならないぞ。
 そんなことはわかっている。わかっているから、このことばの運動がおもしろい。
 人間というのは何でも「誤読」する。この詩ではニシハラさんの後妻に対する坂多の「誤読」が書かれているが、そういう「誤読」以上に、パン屋を探しながらそういうことを思い出すということ自体が「現実に対する誤読」である。しなければいけないのは、後妻を娘と勘違いしていたという反省(?)なんかではないのだからね。
 しなければならないことではなく、しなくてもいいことをしてしまう。その「誤読」。それが楽しいのはなぜだろう。
 それを読むのが楽しいのはなぜだろう。
 たぶん、そこに詩の「いのち」に触れる何かがあるのだが、まあ、そんなものは、どこかでふいに「定義」として噴出してくるまで待つしかない。ただ、だらだらと感想を書いておくしかないなあ。「結論」を出そうとしても、それはきっと「嘘」になる。だから私の感想はいつも垂れ流し……。



詩集 思い出してはいけない
中井 ひさ子
土曜美術社出版販売




お母さんご飯が―詩集
坂多瑩子
花神社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「2012・海程新人賞候補作品」ほか

2012-11-21 10:41:40 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「2012・海程新人賞候補作品」ほか(「白黒目」38、2012年11月発行)

われ病むや亀も病むなり夏ひとつ

 「われ病むや」の「や」が強くひびいてくる。「切れ字」というものについて私は考えたことがないので見当違いのことを書くことになるかもしれないが、この「や」のあとの「空白」というのか、何もない感じに、「亀も病むなり」が呼応する。文法的には「われ」に対して亀「も」なのだけれど、「われ」と「亀」という「主語」が対比されているというより、「病む」という「こと(動詞の世界)」が呼応している感じがする。「われ」と「亀」は切断されるというのか、切断・断絶を意識するその意識のなかで「病むこと」という「動詞」が接近する。そのついたり、はなれたりする感じが「や」によって、清潔になる。べたべたしない。同情しない。「や」がないと、きっとべたべたした「抒情」になるのだと思う。
 この「や」による明確な切断が、「夏ひとつ」の「ひとつ」を手触りのあるものにかえる。ほんとうは「夏」はいくつもある。「われ」の夏もあれば、「亀」の夏もあるし、その他の「夏」もある。でも、それを「ひとつ」に凝縮し、同時に複数に広げてしまう運動の「原点」のようなものが、「われ病むや」の「や」のなかにある。

猪九頭突進して天の泉を呑む

 なぜ九頭? わからないけれど、わからないからいいのだと思う。そのわからないものを受け入れたときだけ「天の泉」が見えてくる。そういうスピードのあることばだ。

月を見た無職となった父と見た

 この放心がいいなあ。「われ病むや」の「や」のなかにあるのも「放心」かもしれない。放心とは自分が自分から切断されることだろうか。自分から切断されることではじめてひとは「他者」とわだかまりなく「ひとつ」になれるのかもしれない。「月を見た」と豊原は書いているが、月を見るとき、月はまた豊原と父を見ている。そこに「呼応」がある。
 それでどうしたといわれると困るけれど、「呼応がある」の「ある」を感じることが俳句なのかもしれない。



父が働きに行くという
褪色して 二年後
働きたいと言う
さびしさの祭りが
僕の心の
あちこちで
起こっている
胸の中の寂しいくしゃみ
遠くで父が待っている
こちらへ来るのだよ
                             (「親父とイエス」)
                                       
 「さびしさの祭り」か。「祭りのさびしさ」というものは「抒情」だけれど、「さびしさの祭り」はそれを超越するね。こういうことばが豊原の詩のなかにはある。それは、五七五になっていないけれど、俳句だね。俳句はきっと詩を超越した詩なのだろう。
 「胸の中の寂しいくしゃみ」も美しい。「こちらへ来るのだよ」は父のことばなのだろうけれど、豊原のことばとも受け取ることができる。どっちでもいいのだ。それは「呼応」しているのだから。どっちと断定してしまって、それでわかったつもりになるのではなく、そこに「呼応がある」ということの「ある」を感じればいいのだと思う。
 きのう読んだ時里二郎のことばは、ことばの「分節以前」を目指していたが、その「分節以前」を豊原は「呼応がある」の「ある」という形でぐいとつかみとる。

この布団に坐って
今年も
六十九の父と御飯を食べる
今日も部屋は黄色い
ヒマワリに顔を見られて
ずっと 座って
窓を見ていた
                              (「船音だけが」)
                              
 「ヒマワリに顔を見られて」がいい。ここにも「呼応」がある。

ぼっ、ぼっ、ぼうおん
ぼっ、ぼっ、ぼっ、ぼうおん
ぼっつ、ぼっつ、ぼっつ、
海の波の色
                             (「船から脱出!」)
                             
 ことオノマトペは「船音だけが」の、船の横腹に波があたるときの「音」なのだろう。「波の音」だけれど、「船音」。それは船と波と音が「ひとつ」だからだね。出会うことで「ひとつ」になる。
 俳句とは一期一会の出会いによる「ひとつ」の瞬間なのだ。
 だから、「波の音」であるはずのものが「海の波の色」。「音」は「色」と呼応する。そこに呼応がある。そしてその「ある」のなかには、そこには書かれていない潮風や明るい太陽の光、あるいは暗い悲しみも「ある」。そこに「ない」ものは「ない」。すべてが「未分節」のままに「ある」。
 「未分節」だから、私たちはその「ある」をとおって、どこへでも行ける。つまり何にでも「なる」ことができる。「なる」を生み出す「ある」を豊原はとてもやわらかくつかみ取る。定着させる。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎「《祖父伝》」

2012-11-20 10:25:32 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「《祖父伝》」(「ロッジエ」12、2012年10月10日発行)

 時里二郎「《祖父伝》」の「伝」の字を時里は正字(旧字?)で書いているのだが、私のワープロでは表示できないので簡略文字で引用する。
 きのう、私は時里は何に遅刻したのか、というようなことを書いた。そして「ことば」に遅刻したのだ、と書いた。きょうはそのつづきを書こうとしているのだが、きのう書いたことを私はもう忘れてしまっているので、きのう書いたことと矛盾したことを書くかもしれない。矛盾していても、それは私が考えたことなのできっとどこかでつながっているだろうと思う。

 さて、書き出し。

 わたしはことばを商う者である。それも生きたことばではなく、死んだことば。厳密にいえば、文字として書き留められたことばにかぎる。死んで骸となった文字の連なりを標本として商うのである。

 ここで「死んだことば」と定義されているのは漠然としているが、逆の方から見ていくとすっきりする。「冊子や巻物といった整ったかたちの文書は扱わない」--つまり、本になっているものは「生きている」、他人に読まれるための身構えをしているものを「わたし」は商売の対象としていない。さらに言い換えると、「死んだことば」とは「全体をに復元されることは不可能な切れ端」(「を」か「に」か、どちらかは不要だろう。推敲の過程で「誤記」しているのだと思う)のことである。
 これをさらに言い換えると、「全体」から分離してしまった「断片」、「ストーリー」に組み込まれない「ことば」ということになるが、うーん、これって、「詩」の定義とかさならない? ストーリーから独立して、ただそこに「いま/ここ」としてあることば。自律していることば。--「死んだことば」が自律しているかどうか、ちょっとむずかしいが、ストーリーの否定、あるいはストーリーの破壊というふうに定義を少しずつ替えていくとさらに「詩」に近づいていくような感じがする。
 ということは、さておいて。
 あ、魅力的な商売だなあ、言い換えると「魅力的」としかいいようのない「無意味」な商売だなあ、と感じる。そして、ここにまた「無意味(ナンセンス、意味の否定)」という「詩」の定義がしのびこんでくるなあ。
 ということもさておいて。

 どうしてわたしがそんな仕事に手を染めたかを語るためには、まず祖父のことから始めなければならない。

 私はここでびっくりしてまった。
 私の勘違いなのだが、冒頭の「わたし」を私は「祖父」のそのものが「わたし」という形で語りはじめていると思っていたのだ。「祖父」の前に、魅力的な「わたし」がでてきてしまっては「主役」と勘違いしてもしようがないだろう。「脇役」なら、もっと静かに目立たない形で出てこないと……。
 などと書いていると、ほんとうに書きたい「感想」になかなかたどりつけないのだが。でも、この「わたし」の登場は、時里が頻繁に活用する「反復」のひとつ、「円還(螺旋)運動」のひとつである。「わたし」は「祖父」がいたからこそ「わたし」がいる。「わたし」と「祖父」とは「接続」している。別個の「切断」された人間であるけれど、どこかでつながっている。そして、そのつながり、あるいは重なりをていねいにたどるとき、そこにほんとうに時里が書きたいものがあらわれてくる。「円還(螺旋)運動」をしないことには、時里のことばは「ほんとうの詩」にたどりつかないのである。「ほんとうのことば」にたどりつけないのである。つまり、「円還(螺旋)運動」をすることが「遅刻」を解消する唯一の方法なのである。
 前置きが長くなったけれど、次の部分に「遅刻」以前の「ことば」、「ことば」がどんな具合に「動詞(こと)」として動いていたかが、魅力的に書かれている。

 祖父にはバランス感覚がなっかった。健康そうに見えて、まっすぐに歩けなかった。どちらかの耳とどちらかの目が普通ではなかったのである。見える・見えないとか、聞こえる・聞こえないという識別ではなく、ごく普通の視覚・聴覚が異様に研ぎ澄まされることに果てがなく、ついには眼で触ったり、耳で見たりすることが出きる。さらにその感覚器官に手が加わると、もはや《世界》の細部が、《世界》の閾(いき)を踏み外して、時間軸も空間軸も、祖父の指のなかで自在に操作できたのだ。

 「まっすぐに歩けなかった」は時里の「円還(螺旋)運動」につうじる。直線的には進まない運動である。
 で、そのあとに書かれている「見える・見えない」「聞こえる・聞こえない」の識別を超えて、

眼で触ったり、耳で見たりする

 これが「遅刻以前のことば」である。感覚が融合する。感覚が感覚器官の「閾を踏み外して」、他の感覚の仕事をしてしまう。越境してしまう。--逆に言うと(時里の書いていることをつかみとるには、たぶん「逆に言うとどうなるか」を考えるといいと思う)、「ことば」が「ことば」として成立する以前は、つまり「ことば」が「文法」に合致した形で世界を「分節」しながら運動する以前は、感覚(感覚器官)も「分節」していなかった。
 眼は「見る」ための器官ではなく、「触る」こともできた。「耳」は「聞く」だけではなく「見る」こともできた。「見える・見えない」「聞こえる・聞こえない」の識別を超える(閾を踏み外す)ということは、眼は「見る」以外の仕事もする、「耳」は「聞く」以外の仕事ともするということである。
 「識別」を超えるということと、「閾」を踏み外すは、時里の意識のなかでは同じことなのだが、識別を閾と置き換えるのはともかく、「超える」と「踏み外す」の差異はなかなかおもしろいと思う。「踏み外す」は「逸脱」でもある。
 きっと「ことばの分節」が確立される前には、さまざまな「逸脱」があった。野放図な感覚の運動があった。それでは「論理的(詩の対極だね)」には世界を構築できないので、ことばと感覚はきちんと分節・対応させる必要があったのだ。
 それはそれでいいのだけれど。
 ことばがきちんと「分節」され、感覚もきちんと仕事を「分節」されてしまうと、何か、味気ない。そこから「詩」が消えてしまう。「分節」を破壊してしまう何かが欠落してしまう。
 というふうに考えると。
 時里は、いま/ここで私たちがつかっていることば以前のことば、明確な「分節」が確立されていなかったことばを求めていることがわかる。時里は、いま/ここにある「分節が確立されたことば」以前の、まだ「分節がおこなわれていないことば」に「遅刻」してまった、と嘆いていることになる。「分節される前のことば」を探していることになる。人間が動き、事件が起きる、その「こと」をそのまま「動詞」として引き継ぐことができることばを掘り起こそうとしていることがわかる。
 で。
 その「分節が確立される前のことば」、これが「死んだことば」にもなる。どのようにも「分節」されていないことばとは、どのようにもストーリーに組み込まれていないことばということでもある。ふつう、ことばはストーリーが論理的というか美しく機能するように「分節」された状態で組み立てられる。「分節」が乱れると、非論理的というか、よくわからない「文章」になってしまう。
 「死んだことば」はストーリーから分離・逸脱する(識別を超える、閾を踏み外す)ことによって、ほんとうはストーリーとは別の「いのち」があることを証明しているのである。そのことばが「死んで」いるとしても、その「死」は最初から「死」であったのではなく、そのことばが生まれた瞬間は生きていたはずである。「いのち」があったはずである。その「いのち」に立ち会うことに時里は「遅刻した」。
 だから「遅刻」を取り戻すために、「死んだことば」のなかへ入ってゆき、そこで「いのち」が動いている瞬間をもう一度つかみなおそうとしている。
 ことばの「分節」以前へさかのぼることで、ことばの未来を切り開こうとしている。ことばが生きるのは「分節」以前の運動を、運動そのものとして生み出すことによってでしかなし遂げることができないのだ。



ジパング
時里 二郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時里二郎「《半島へ》のための抽斗」

2012-11-19 11:01:38 | 詩集
時里二郎「《半島へ》のための抽斗」(「ロッジエ」12、2012年10月10日発行)

 時里二郎「《半島へ》のための抽斗」は時里にしては珍しい行分けの作品である。

遅刻は
深海に棲む
ことばの
ほねの


かたちを喪った
耳の記憶をつついて
剥がれていく
半島の


胸のあたりまで
陽を浴びて
廊下に立たされている
ぼくが
見える

ぼくは何に遅れたのだろう

 1連目は何が書いてあるかわからない。では2連目、3連目について書かれていることがわかるのかといえば、やっぱりわからないのだが、それでも「かたちを喪った/耳の記憶をつついて」はとても印象に残る。そして、時里の書いている「ことば」を勝手に読み替えて(誤読して)、私はそこにない「耳の形」をつっついて、「耳の形」を記憶のなかから浮かび上がらせる何かを思う。そのとき、「耳の形」に「半島」の形が重なるようにあらわれてくるのを感じる。
 そういう「勝手な」イメージを私は思い描くことができるが、1連目では「誤読」ができない。「誤読」ができなければ、そのままほうっておけばいいのだけれど、「遅刻は」という書き出しから「深海に棲む」への飛躍が魅力的で、だからこそ「わからない」という感想がふっと出てしまうのである。
 何なのだろうなあ。
 そう思っていると、

ぼくは何に遅れたのだろう

 ふいに1行があらわれる。3連目の、学校(子ども時代の風景)を思わせる描写から、あのとき「ぼくは何に遅刻したために廊下に立たされたのだろうか」という具合に世界を広げることができるけれど、学校で「遅刻する」といえば授業の開始時間以外にないのだが、それを時里は「何に遅れたのだろうか」と自問している。
 で、その瞬間、その自問は「授業の開始時間」に遅刻したのではない、ということが「反語」のようにして、どこかで用意されている。それはさらに言えば「時間」ではないのだ。「時間」に遅刻したのではないのだ、ということである。

 時間に遅れることを「遅刻」というのだが、それが「時間」ではないとしたら?

 時里は明確に書いてはいないのだが、そしてだからこそ、私は自由に(勝手に、かもしれない)が「誤読」する。
 時里が遅れたのは「時間」ではなく、「事件」に遅れたのだ。「こと」に遅れたのだ。時里がたどりついたとき「こと」はおわっていた。でも、「こと」って何?
 わからない。
 わからないから「何に」ということばで自問する。
 時さとのことばは「何」を探しているのである。つまり、書きたいことがあって書いているのではなくて、書きたいことを探して書いているのである。それも、自分が間に合わなかった「時間」の中で起きた「事件」(こと)を探している。
 時里の知らない「事件(こと)」を探さずにいられないのは、「いま/ここ」が、時里の知らない「事件(こと)」の影響を受けているからである。はっきりとは見ることができないけれど、「いま/ここ」にいるその瞬間、あ、「いま/ここ」には「いま/ここ」よりまえに起きたことが反映していると感じるからである。
 言い換えると、

母ハ人形デス
祖父ガソレヲ作リマシタ
母ハボク(ワタシ)ヲウミ
祖父ガソレヲ育テクレマシタ

 「いま/ここ」には「過去」が反映している。そして「過去」とは「時間」ではなく「事件(こと)」なのである。それは「名詞」ではなく「動詞(運動)」によってしか語ることのできないものである。
 「時間」は「名詞」、「事件(こと)」は「動詞」というと、まあ、ちょっと「文法」を逸脱してしまうけれど、「事件(こと)」は「動詞」ぬきでは語れない。説明できない。誰が、何を、どうしたか。その「どうしたか」のなかに必ず「動詞」がある。そして、その「動詞」を動かしている(?)のは、人間の思いである。
 そうであるなら、時里が探している「何」は「人間の思い」ということになる。
 そして、時里が「遅刻」したのは、その「誰かの思い」に対して「遅刻」したということになる。

 こう考えると、たとえばこれまで時里が書いてきた父親の短歌をめぐるノート(私は、これは「創作」であると思っているのだが……)についての「考察」がぐいと近づいてくる。
 時里は「いま/ここ」には存在しないけれど「いま/ここ」の奥底で動いている「父の思い」を探している。それが時里に、どのような形で接続するのか、どんなふうに切断したままなのか--そういうことを探しているということが感じられる。
 「思い」(こころのなかで起きている「こと」)は「ことば」でしかとらえることができない(とはかぎらないかもしれないけれど、時里はたぶんそう考えている)。だから、「思い」を探すことは「ことば」を探すことでもある。

 で。

 時里は「何」に遅刻したのか。
 思い切って「飛躍」してしまうと、「ことば」に遅刻したのだ。先に書いていることと「矛盾」しているかもしれないが、「ことば」はすでに書かれてしまっている。「事件(こと)」は起きてしまっている。「思い」はすでに過ぎ去って、それを「語ることば」も、もう語り尽くされている。
 あらゆる「ことば」は、時里以前に存在してしまってる。時里がつかうことができるのは、そういう存在してしまっている「ことば」にすぎない。
 「遅刻」以外の形で「ことば」に近づくことはできない。「ことば」といっしょに「始める」ということはできない。
 不可能と知っていて、それでも時里は「遅刻」以前を目指している。「語られてしまったことば」。しかし、それは「すべてを語っている」といえるか。もしかしたら、語りこぼしている「ことば」があるかもしれない。それは「事件(こと)」といっしょに存在するのか、あるいはその「事件(こと)」よりもっと「過去」の「事件(こと)」の「ことば」によってしか語られないものなのか。
 逆に、そうではなくて「未来」の「事件(こと)」のなかに「過去」の「事件(こと)」を語る「ことば」があるかもしれない。
 言い換えると、「過去」にとっての「未来」とは「いま/ここ」なのだから、「いま/ここ」を探ることで、もしかすると「過去の事件(こと)」を語る「ことば」に出会えるかもしれない。
 あ、何を書いているか、わからないね。
 ごちゃごちゃしてきたね。
 まあ、そんな「ごちごちゃ」、ことばの「螺旋運動」(円還運動)ができるという「こと」のなかに、時里の探している「何か」があるということなのだと思う。言い換えると、時里は、そういう「円還運動」を「ことば」をとおしてすることが好きなのだ。



ジパング
時里 二郎
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』

2012-11-18 14:18:16 | 詩集
八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(シマシマ書房、2012年10月01日発行)

 八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』はタイトル通り辻征夫の思い出を書いている。詩の批評がところどころに出てくる。
 「ある日」という詩の批評の最後の部分で、八木は辻の「核心」に触れている。

 こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けないということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中で獲得紫檀ではないかと思うんです。

 キーワードは「転調」である。辻の詩は転調する。そのあとに八木が書いてることを先取りする形で言えば、モノローグからダイアローグに転調する。もちろん、このモノローグからダイアローグというのは正確なモノローグとダイアローグではない。ほんとうに他者が出てくるのわけではなく、自己のなかに、もうひとりの自己があらわれ、対話する。それは、結局モノローグの変形なのだけれど、その「変化」が「転調」。
 音楽でも「転調」する。簡単な例でいうと岩崎宏美の「思秋期」は2回転調する。同じはずのメロディーがそのとき「色」がかわる。そして、その変化のなかに、なんというのだろう、「対話」のようなものがある。いままで聴いてきた(歌ってきた)メロディーと転調したメロディーが対話する。そして、記憶と重なって、そこに「和音」が生まれる。記憶の中で「ひとりコーラス」、あるいは「ひとりデュエット」が始まるという感じがする。「思秋期」の場合、とくに最後が最初のメロディーと比較するのと3度の和音(ピーナツの歌によくある?和音)になって、あ、美しいなあと思う。岩崎宏美の声が、その和音のなかで透明に透き通る。--あの、最後の音が、ほんとうにきれいだ。
 あ、脱線してしまった。

 で、八木が高く評価する「転調」。それ自体はたしかに「技術」なのだと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)はほんとうにすばらしいと思う。
 「ある日」を引用しておこう。

ある日
会社をさぼった
あんまり気分が
よかったので

公園で
半日すごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよぼくは
なんて

おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは
芸術家かもしれないのだおっさんは

ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい

 公園の中で半日すごしていた「ぼく」が、おっさん→俳優と変化して行く。そしてまた「ぼく」にもどってくる。この「転調」。あれこれ「理屈」をいわずに、らくらくと「転調」していく。
 でもねえ。
 私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる。「ぼくにも かなしいものが すこしあって」といいながら、その「すこしかなしいもの」については結局何も言っていない。「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる。
 で、私は、そういうことを書いて、辻とけんか(?)してしまったが、(もともと会ったこともないのだけれど、まあ、完全に仲違いのような状態になってしまったが)、八木が最後の方に書いている「歯ぎしり」のエピソード、「業の深いものを抱え込んでいた」とか、「男性原理」という指摘を読むと、私の当時の批判(評価したつもりで書いたのだけれど)は、きっと的を射ていたのだと思う。
 「業の深いもの」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う。「転調」に頼らずに、ほんとうに他者をまきこんで、壮大な「交響曲」になりえたのではないのか。私は辻の散文を読んだことがないのでわからないが、詩ではなく小説も書けたのではないのか、と思う。
 辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。その呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人なのだと思った。


八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロバート・B ・ウィード監督「映画と恋とウディ・アレン」(★★)

2012-11-18 11:22:54 | 映画
監督 ロバート・B ・ウィード 出演 ウディ・アレン、ダイアン・キートン、ペネロペ・クルス、スカーレット・ヨハンソン

 ドキュメンタリーである。で、あのシーンは出てくるかな、と期待して見に行った。出てきました。「アニー・ホール」のエビのシーン。
 ウディ・アレンはエビがこわい。それをからかうように、ダイアン・キートンがエビを持ってウディ・アレンを追いかける。映画では、途中で笑いだしてしまう。それが演技ではなくて、ほんとうにおかしくて笑ってしまう、という感じ。いわばNGのシーン。それをそのままつかっている--と私は思っている。
 で、この映画にもそれがそのままそっくり出てくる。ただし、もう40年ほど前の映画なので、私もはっきりとは思い出せないのだが、やっぱり、このNGシーンをそのままつかっていると思う。映画としては「反則」なのかもしれないけれど、ダイアン・キートンの笑いがほんとうにすばらしい。このシーンを見ると、なぜ二人は別れてしまったんだろうと不思議な気持ちになる。こんなに楽しく、なんでもないことで笑い転げることができたのに……。
 映画では、このあと別な女と同じようにエビのシーンがあるんだけれど、そのときは女の方が「あんた、何やってるの」と冷めた感じでウディ・アレンを見ている。その冷淡な顔と、ダイアン・キートンの笑顔の違いが、とてもおもしろい。
 「アニー・ホール」にはもうひとつ好きなシーンがある。二人がそれぞれセラピーを受ける。で、セックスの回数について語る。ウディ・アレンが「少ないんだ、週に3回」。ダイアン・キートンは「多いの。週に3回」。ね、おかしいでしょ? で、このシーンは画面が分割しているのだけれど、なんとセットをくっつけて一回で撮っているという。えっ、と驚いてしまった。たしかにそうすると経済的だね。
 ダイアン・キートンにかぎらず、ウディ・アレンの映画に出てくる女性はとてもいい。演技がとても「自然」だ。「ブロードウェイと銃弾」のダイアン・ウィーストのオーバーな演技さえ、とても自然だ。演じさせるというよりも、その人がもっているものがあふれてくるように、それを受け止めるようにしているのだと思う。「アニー・ホール」のエビのシーンのダイアン・キートンの笑いのように。そして、それがふつうの映画では「NG」であっても、その自然とあふれてくるものが魅力的ならそれでいいと考えているのだと思う。
 これはウディ・アレン自身が語っているが、男がつくるコメディー(ジョーク)とはまったく違うものである。ジョークというのは、何かしら自分を押し付けるものである。思わずあふれてくる感情ではなく、知的な力で、知そのものを叩き壊す。それがジョークだね。
 ウディ・アレンは女性たちと出会うことで、この知の力による破壊という笑いから、そこに人間がいるということの親しみへと世界が変化していく。ダイアン・キートンの力は偉大だなあ、と思う。だからこそ、なぜ、別れちゃったのかねえ。
 まあ、他人のことだから、いいんだけれど。
 別れ話といえば、ミア・ファローは「作品」としては出てきたけれど、証言者としては出てこなかったね。当然か……。

 それとは別に。
 私は「スターダスト・メモリー」が大好きなのだけれど、これってヒットしなかったんだよね。「マンハッタン」も大好き。これは、ごくふつうにヒットしたのかな? 「マンハッタン」はウディ・アレンは失敗作と思っていたらしいけれど。
 そういう監督の「想像」と観客の反応の違いについて、ウディ・アレン自身がとまどっているところが描かれているのはおもしろかったなあ。
 あ、大ヒットした「ミッドナイト・イン・パリ」は私はそんなに好きじゃないんだけれど。「世界中がアイ・ラブ・ユー」の方が好きだなあ。もっとも比較するようなものではないけれど。




アニー・ホール [DVD]
クリエーター情報なし
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする