中井ひさ子「おとうと」ほか(「ぶらんこのり」14、2012年11月22日発行)
中井ひさ子「おとうと」は不思議なことを書いている。
眠ろうとすると
ゆめが先にあらわれ
動き出すけはいです
からだがゆるんだのに
つけこまれたのでしょう
夢というのは眠りのなかでのできごとだから、「ゆめが先にあらわれ」というのは論理的におかしい。おかしいのだけれど、ぐい、とひきこまれる。
こういうときだね、ことばというものは「現実・事実」とは無関係である、と感じるのは。そして、「ことば」が語ることが嘘であっても、その嘘を信じたいと思うのは。つまり、「誤読」するのは。
中井が実際に何を書きたいのか。そういうことは、もうどうでもよくなる。中井には申し訳ないが、私はこの詩を読みながら中井が何を感じたかなど無視して読んでしまう。「からだがゆるんだ」のはその日の仕事で疲れたのか、あるいは遊びで疲れたのか、病気だ芯がたわんだのか、それともセックスの余韻が残っていて何かもどかしいからなのか、いろいろ考えることができるが、その理由を「これだ」と断定したとき、それが中井のほんとうの理由と重ならなくても気にしない。
私が思うのは……。
そうか、「からだがゆるんだ」ら、夢につけこまれるのか。「精神がゆるんだ」らつけこまれるのかなと思っていたけれど。つまり、夢というのは「精神」で見ると思っていたけれど、そうではないだな。
いや、そうではないぞ。夢はやっぱり精神とか頭(脳)とかこころとか、そういう何か目に見えないもので「見る」のだろうけれど、それは「からだ」と切っても切り離せない。区別がつかない。だから、「からだがゆるんだ」ら、その区別のつかない精神・頭(脳)・こころもゆるんでしまっていて、外からはつかみようもないなんだかよくわからない精神・頭(脳)・こころもゆるんでしまうということだろう。
そうすると。
「精神(とりえあず、このことばで代用しておく)」と「からだ」というのは、区別があるようであって、区別がないものなんだなあということに気づく。
そうして、「からだ」と「精神」に区別がないのだとしたら、「夢」と「眠り」は? やっぱり区別がないのではないだろうか。どこからが夢でどこからが眠りかわからない、というのが「ほんとう」かもしれない。どこからが「からだ」でどこからが「精神」かわからないまま、私たちは「からだと精神(肉体と精神)」という二元論で世界をとらえ、おなじ流儀で「眠りと夢」という二元論を信じてしまうのだけれど、これは間違いなのかもしれない。
それは「区別がない」。つまり「一体」である。だから、どちらが先に動いてもかまわない。おなじ「ひとつ」のものを、そのときの便宜にしたがって、「からだ」とか「精神」とかにつかいわけている。「夢」だとか「眠り」だとかにつかいわけている。そうする方が「流通」しやすい。つまり、「ことばの経済学」に則っている。
でもね、詩は「ことばの経済学」ではないからね。
というか、「ことばの経済学(流通言語)」を否定して、たったひとつの「ことばの運動」、流通しえないものだからね。でも、これって、矛盾なんだよね。もし「流通」しなかったら、つまりだれか別のひとに「共有」されないとしたら、それは詩、つまり文学にはなりえないからね。
だから、というのは強引なんだけれど。
私はこの「共有」を「誤読」という形で引き受ける。「共有する」のではなく、あくまで自分自身の「誤読」として引き受け、他人には「流通」させない。私と作者との個人的な関係のなかに、私の読んだことを封印しておく。
あ、ずいぶん脱線してしまった。「おとうと」に戻る。
中井が書いているのは「からだ」と「精神」が「ひとつ」である。だから「眠り」と「夢」も「ひとつ」であるという「一元論」で成り立っていることばの世界なのだが、これって、最初に書いたように「不思議」。でも、その「不思議」がなんともいえず、自然に納得してしまう。「あ、わかる」と思う。こういうことって体験したことがあるぞ、と思う。
中井は「一元論」を主張しているわけではないのだが(一元論を証明するために詩を書いているわけではないのだが)、一元論でないと、中井の書いていることがすっきりしない。
気になってねむれません
耳をかたむけ
からだのなかをのぞきこみました
ほら、ここの部分。
さっき「からだ」と「精神」が「ひとつ」であるという具合に見てきたのだけれど、ここでは「耳」がとってもおもしろい具合に動いている。「耳をかたむける」というのは「聞く」という動作をあらわす(「流通言語」では)。でも、中井は「のぞきこみました」と「耳」で「見ている」。「耳」が「目」の役割をしている。こういうときの「耳」の動きを、私は「肉眼」にならって「肉耳」と呼んでいる。「肉」は「肉体」の「肉」。それは切り離すともう「肉体」ではなくなってしまう。しっかりと「肉体」にからみつき、どこからが「耳」でどこからが「からだ」かわからないもの。そして、それは「耳」でありながらどこかで「目」ともしっかりつながっているから、「耳を傾ける」ことは「しっかりと何かを見る」ことでもあるのだ。
この「からだ(肉体)」の不思議を中井は正確に書いている。
こういう「理不尽(?)」な世界では、何が起きてもかまわない。眠りよりも夢が先に動くくらいは、いわばあたりまえである。
だから、「からだのなかをのぞき」こんだら、
いなくなった
おとうとがいました
「いなくなった」は「行方不明になった」ではなく「亡くなった」ということだろうけれど、それを「亡くなった」ではなく「いなくなった」と書くと、ほら、また、「一元論」になる。まあ、私のいう「一元論」は哲学的には問題があって、いいかげんなものなんだけれどね。
つまり、人間は死んでしまっても「いる」。思い出すとき(プラトンなら「想起するとき」というけれども)、そこに「いる」。そして、私たちはいつでも、そこに「いる」存在と「交流する」ことができる。
どうやって?
ことばで。
ことばで、としか、いいようがないのだが、そういうことができる。
で、中井は、そういうことを詩のつづきで語っている。実際に中井が、「いま/ここ」にいる弟とどんなやりとりをしたかを書いている。それは「ゆめ」ではなく、「ゆめ」よりも確かな、「分節化」されない世界である。「一元論」というのは「分節化」されるまえの世界をとおってことばが動くという、その動き、運動そのものだ。ことばはどうしてもあることがらを「断定」する。しかし、それを「断定」だからといって「断定」してはいけないのだ。「断定」しながら、同時に「一元論」の根底(混沌・矛盾・無)からあらわれた「方便」として受け止める、つまり「誤読」として受け止めるしかないものなのだ。
中井の書いていることも世界の「誤読」なら、私が受け止めるのも「誤読」である。その「誤読」なのかでひとは触れあうのだろう。
また脱線した。
詩の後半を引用しておく。
料理好きのおとうとの手が
キャベツをむく度に
もどりたい もどれない
声が聞こえてきます
サラダを作るの
それともロールキャベツ
声をかけても
キャベツの葉が増えていくだけです
しかたがないから目を瞑りました
ゆめはみませんでした
キャベツの煮る匂いがします
煮終わったら帰ってきてきなさい
「耳」をかたむけて「のぞきこ」んだ世界。そこで中井は「声を聞く(耳)」、「声をかける(口、のど)」、そして「キャベツの煮る匂い」を感じる(鼻)。どこからどこまでが「夢」、どこからどこまでが「現実」なのか。中井は「ゆめはみませんでした」と「夢」を否定している。
そこにはただ「からだ」と「精神」、そして肉体の感覚器官(耳、目、口、鼻)が「一体」となって動いている。
*
坂多瑩子「草むら」は、「おとうと」ではなく「妹」がきたときのことを書いている。
妹がきたお腹がすいたというからコロッケ買いにいったら今日にかぎって売り切れ パン屋まで急いでいくとそこは草むらでパン屋もないし隣りの「ニシハラテーラー」もないし そういえばニシハラさんはものすごく若い後妻さんをもらって私はずっとその人をニシハラさんの娘と間違えたままPTA役員をいっしょにやっていて 「リブラン」というパン屋さんがそのころオープンして「いちぞう」にかわり「よこはまぱんの家」にかわりそれからずんとレーズンパンのおいしい「よこはまぱんの家」はよく流行り
という具合に、こちらは「記憶」と別の「記憶」が「区別」がなくなる。いや、ことばにできるのだから、それぞれの「記憶」ははっきりと独立しているのだが、その通路が「テキトウ」なのである。論理的ではない。つまり「ことばの経済学」に反している。おいおい、いったい何をしに行ったんだ。腹をすかせた妹は坂多の「記憶」を聞かされたって(記憶の迷子にひきずりまわされたって)、満腹にはならないぞ。
そんなことはわかっている。わかっているから、このことばの運動がおもしろい。
人間というのは何でも「誤読」する。この詩ではニシハラさんの後妻に対する坂多の「誤読」が書かれているが、そういう「誤読」以上に、パン屋を探しながらそういうことを思い出すということ自体が「現実に対する誤読」である。しなければいけないのは、後妻を娘と勘違いしていたという反省(?)なんかではないのだからね。
しなければならないことではなく、しなくてもいいことをしてしまう。その「誤読」。それが楽しいのはなぜだろう。
それを読むのが楽しいのはなぜだろう。
たぶん、そこに詩の「いのち」に触れる何かがあるのだが、まあ、そんなものは、どこかでふいに「定義」として噴出してくるまで待つしかない。ただ、だらだらと感想を書いておくしかないなあ。「結論」を出そうとしても、それはきっと「嘘」になる。だから私の感想はいつも垂れ流し……。