詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カルロス・ベルムト監督「マジカル・ガール」(★★★)

2016-03-31 12:06:45 | 映画
監督 カルロス・ベルムト 出演 バルバラ・レニー、ルシア・ポシャン、ホセ・サクリスタン、ルイス・ベルメホ

 奇妙な映画である。
 少女が二人。ひとりは映画のなかでは少女時代は一瞬であり、おとなになっているのだが。そのふたりの少女にふりまわされるふたりの男。ふりまわされるといっても、男の方から勝手にふりまわされている。
 と、書くと、少し違うかも。
 娘が不治の病と知り、少女のために、少女の好きな日本のアニメのコスチュームを買おうとする失業教師が、もうひとりの主人公である女を脅迫する。女に誘われてセックスしたのだが、夫に知られたくなかったら金を出せ、という。アニメのコスチュームを買う金である。ここでは、男が女をふりまわしている。
 けれど、その女は女で、もうひとりの男(小学生時代の、数学の教師)をつかって、失業教師を殺そうとする。
 こんなストーリーは、しかし、書いてもしようがないかも。
 奇妙なのは、こんなに「複雑」な話なのに、映像がとてもスタイリッシュ。色彩も、とても抑えてある。私は目が悪いので、映画を見ながら、一段と目が悪くなったのかと不安になったが、「情報」を極力抑えた映像を狙っているようだ。
 印象的なのは、おとなの女が、鏡をつかって自分の顔に傷をつけるシーン。額を鏡に押し当てる。鏡が割れるまで押し当てる。その結果、血が流れる。とても痛いはずなのに、その痛みが隠されている。
 この「痛みを隠している」というのが、この映画のテーマといえばテーマ。
 不治の病の少女は自分で痛みを隠しているわけではないが、「痛み」は隠れている。その父親は、娘が死んでしまうという「痛み」を隠している。鏡で顔に傷をつける女は、どうも「被虐趣味」がある。それを隠している。数学の教師だった男は、少女への思いという「痛み」を抱えている。
 で、隠されているもの、隠しているものって、見たいよねえ。
 でも、この映画は、それを見せない。観客が見たいと思っているものを、ぜんぜん、見せない。
 スケベ丸出しで言うと、たとえば失業教師と鏡の女がセックスをする。それは見せない。男が、ベッドからでて、ベッドの下に落ちているパンツを履くだけ。
 女は金を稼ぐためにSM趣味の男の館へ出向く。どんなセックスが行われているのか、それを見せない。あとで女が裸になったとき、蚯蚓腫れのようなものが見えるだけである。それは、そのときできた傷なのか、ふるい傷なのかわからない。だから、ほんとうにSM行為があったかどうか、まあ、最初はわからない。さらに金を脅迫され、二度目に館へ行った帰りに、数学教師のアパートに倒れ込み、そのときの「肉体」の状態から、やっぱりSM趣味の、被虐者となることで金を稼いでいた、と想像できるだけである。
 この映画では、殺人も行われる。数学教師は失業教師を銃で殺すし、それを目撃したバルのマスターと客も殺す。さらにはアニメ好きの少女も殺してしまう。これが、また、いまの映画とはぜんぜん違って、血が飛び散らない。額に穴が空いても、そこから血がたらりと流れるだけ。最小限だ。ただ銃声だけで表現されるときもある。
 静かで、美しいのである。だれも取り乱さない。店内で銃が発射されたら、あるいは銃をつきつけられたら、だれでも驚いて逃げるが、殺されるひとはだれも逃げない。ただ、じっと相手を見つめる。真剣に、みつめる。恐怖が欠けているのか、恐怖をうわまわる何かが、それぞれのひとに内部にあるのか。
 会話も同じである。常に何かを隠しつづけている。アニメ好きの少女の「不治の病」も、私は「不治の病」と書いたがほんとうかどうかは、よくわからない。廊下で父親と医師が話しているシーンがあるだけ。そこでは、何が語られたか、観客は知らない。鏡の女がSM館へ行くのも、そこで何が行われているかは語られない。「とかげ」の部屋が出てくるが、「とかげ」が何を意味するか、語られることはない。「真実」は、それぞれの「肉体」のなかに隠され、語られることはない。
 そのSM館の主人が、少しだけ「意味」らしいことを言う。闘牛にかこつけて、スペイン人は理性と感情(激情)のせめぎ合いを闘牛に見る、というようなことを。他のヨーロッパ人は「理性」を優先する。アラブ人は「感情」を優先する。スペイン人は、その両方を闘わせる、というようなことを。
 まあ、それを、この映画で実践しているということなのかも。スタイリッシュな映像と会話。その奥にある激情。それが闘っている。
 闘った結果、どうなるか。鏡のシーンにもどる。顔に傷がつく。同時に鏡にも傷がつく。鏡が割れる。どちらかが無傷というわけではない。鏡は割れて、ジグソーパズルになる。このジグソーパズルは数学教師が楽しんでいるものである。ひとつひとつ理性で「予想図」の感性を目指すが、一個、ピースが足りない。
 その一個は、理性? それとも感情?
 答えは観客次第。監督は自分では答えを出さない。
 そういうところは、なんとも「おしゃれ」である。スペインから、こんな抑制のきいたスタイリッシュな映画が生まれてくるとはびっくりである。アルモドバル監督を思い出すからそう感じるのかもしれないが、エリセ監督だって、感情を隠さない。むしろ、感情が動いた瞬間をくっきりと描きだす。「蜜蜂のささやき」の懐中時計のオルゴールがなるシーン、はっと顔をあげるアナに父親が気づき、「おまえか……(あるいは、おまえが……)」という顔をするところなんかね。
 あ、脱線しすぎないように、ここで終わる。
                             (KBCシネマ2、2016年03月30日)









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藤田晴央「合唱」

2016-03-31 09:02:09 | 詩(雑誌・同人誌)
藤田晴央「合唱」(「交野が原」80、2016年04月01日発行)

 藤田晴央「合唱」は母親が編み物教室を開いていたときのことから書きはじめている。その後半。

取っ手のついたレールカーのようなものが
編機の上を行ったり来たり
ザーザーという音が鳴り響いていた
よしこ さちこ けいこ みちこ ふみこ
たくさんの編み針が毛糸を編んでゆく音であった
ザーザー
ザーザー
少年のわたしはそれを
夜の海の音のようだと思った

ところが 先日
母の教室で学んだ婦人がこう言った
あれは合唱のようでした と
たしかにそれは
あのころ
家族のために
編物を学んでいた若い女たちの
合唱だった
奥深くにひびく
たまらなく女臭い
合唱だった

 「合唱」についての説明は何もない。少年の藤田が「海の音」と聞いた音を、編み物をしていた女性は「合唱のようでした」と言っただけである。けれど、藤田はそのことばをそのまま納得している。そこに、

家族のために

 ということばをひとこと挟んで。
 女性たちはセーターを編む。それは自分が着るものではなく、家族の誰かが着るものである。母親、父親ということもあるかもしれないが、たぶん、兄や弟だろう。母親や父親は、自分でセーターを着るよりも子どもにセーターを着せたがる。若い女性は若い女性で、自分でもセーターを着たいけれど、それよりもまずセーターを編むことができない兄や弟のセーターから編みはじめる。家族のためにの「ために」とはそういう意味だ。
 藤田に姉がいたかどうか、私は知らない。けれど、そのころの「家族」というものはそういうものだったと知っている。だれもが自分のためにではなく、家族のために何かをした。
 最後から二行目の「たまらなく女臭い」が、とてもかなしい。女性は家族のために仕事をするというのは「男尊女卑」の考え方かもしれない。けれど「男尊女卑」などと言って権利を主張している余裕はない。そんなことをしているよりも「家族のために」働かなければならない。けれど、それは「たまらない」何かを含んでいる。無言の「たまらなさ」を含んでいる。そこには「よしこ さちこ けいこ みちこ ふみこ」と名前で呼びあう親密さ、一種の「暮らし方の共有」がある。名前だけではなく、互いの「家族(暮らし方)」も知っている。
 語り合ったわけではないが、そういう思いが無言のまま「ザーザー」という音のなかにひびいている。それは機械の音ではなく、彼女たちの声だった。それが「合唱」というのは、みんながそう思いながら編み物をしていたということ。やがて編み物教室をひらきたいと思っていたひともいるかもしれないが、それも「家族のため」に、金を稼ぐために教室をひらくのであって、「自分のため」というのは、脇に置かれている。
 そして、それは藤田の母についても言えるかもしれない。母親は編み物教室をしていた。それはやはり「家族のため」だったのだ。それが、藤田には突然わかったのである。
 藤田は、いま、家族のことを思っている。藤田は編み物をするわけではないだろうが、このときセーターを編みながら家族のことを思っただろう女性といっしょに合唱している。自然に、それが合唱になったために、どんな合唱かは言う必要がないのだ。

 誰かが「早春賦」を歌っているとする。つられて、ふっと「早春賦」を口ずさむ。「合唱」とまではいかないが、それに似たことが起きる。そういうことが起きるのは、その歌を知っているからだ。藤田が「合唱」ということばにひっぱられ、そのまま「合唱」してしまうのは、藤田は「家族のため」という思いを知っているからだ。
夕顔
藤田 晴央
思潮社

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感情/異聞

2016-03-30 21:02:35 | 
感情/異聞

 「迷う」ということばは、やっとその坂道にやってきた。作者が見つからないので、花屋の前で時間をつぶしていることばに道をたずねた。答えることばのとなりでは、別なことばが無関係な方向を向いていた。それは「迷う」ということばがおぼえている風景に似ていた。記憶を重ね合わせてみると、「顔色をうかがった」「女におぼれる」という複雑だけれどはっきりとわかる路地があらわれてくる。店の奥では耳に聞こえない囁きが口の形をしたまま小さく動いた。どれも経験した「感情」のように思え、「迷う」ということばは、そのことを悟られないようにゆっくりと、ていねいにお礼を言って、角を曲がった。
 やっと坂を上り詰めると、日が暮れていた。近くのビルの窓は離ればなれに孤立していたが、遠くの明かりが密集してしだいに濃くなるのがわかった。窓にガラスをはめるように、内と外を分け、わかる人にだけはわかるわかるような「動詞」として書き直してほしいという思いがあふれ、「迷う」ということばは悲しくなった。



*

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八木幹夫「葛の花」

2016-03-30 09:39:34 | 詩(雑誌・同人誌)
八木幹夫「葛の花」(「交野が原」80、2016年04月01日発行)

 八木幹夫「葛の花」の一、二連目。

夏の川岸に
全身 はだかで
立っていた

さっき
赤紫のくずの花を
むしり取った
つる草の匂いが
あたりにひろがり
藪蚊が数匹
周辺に飛び交っている
数千年前にも
ここにこうして立っていた

 二連目の「赤紫のくずの花を/むしり取った/つる草の匂いが/あたりにひろがり」がとても強い。
 こういうこと、したことあります?
 くずの花でなくてもいいのだけれど、野の草をむしり取る。なぜ、むしり取るのか。よくわからない。たぶん、自分の肉体のなかにある力が暴走するのである。むしり取ってみたいのである。むしり取る力があることを確かめたいというのではない。ただ、発散したい。
 そのあと。
 思いもかけず、ぱーっと匂いが広がる。いままでそこに存在しなかった匂いが広がる。あ、草の匂い。そのとき、あ、草も生きていたんだとわかる。
 その「わかる」と「ひろがる」が、何と言えばいいのか、「ひとつ」のこと。
 草の匂いが「ひろがった」のか、自分自身の何かが「ひろがった」のか。わからない。自分の知らなかったことが、ぱっーと「切り開かれ/ひろがり/わかる」。「視野が広がる」ことを「わかる」と言うときがあるが、その「ひろがる/わかる」の融合の一瞬。
 そういうことを思い出す。
 この感覚と、一連目の「はだか」が通い合う。
 「ひろがる/わかる」は「はだか」になることだ。
 私は知らず知らずに何かを着込んでいる。「はだか」ではない。それが八木のことばに出会って、あ、そうだった、そういうことがあった、と思い出す。肉体が、その感覚をおぼえている。そう感じたとき、私はたしかに「はだか」になっている。
 八木が夏の川岸でほんとうに「はだか」でいるのかどうか、わからない。きっと八木自身も、草の匂いがひろがった瞬間に、昔、夏の川岸で「はだか」で立っていたことを思い出したのだろう。
 この「はだか」の感覚、「昔」の感覚は、どこまで「昔」だろう。五十年前? いや、それを通り越して「数千年前」。きっと、人間は大昔から、わけもわからず草をむしり取り、そのとき草の匂いがぱーっとひろがって自分をつつむのを感じただろう。これは「時間」を超えた、「永遠」の感覚なのだ。
 そのなかで「立っている」。
 「立つ」しか、ないのである。
 「立つ」とどうなるか。視界が「ひろがる」。座っているときよりも、遠くが見える。「遠く」というのは人間を、そこへ誘う。「そこ」がどこであるかわからないけれど、「そこ」があるということが人間を誘う。
 三連目を省略して、四連目。

太陽が皮膚を灼き
一瞬 涼しい風が
首筋をよこぎる
先を行く
父さんに追い付くために
つる草の茂る
藪をかきわけ
母さんも
少し足早になる
遠く
火山に噴煙があがる

 「立つ」とひとは「歩く」。ただ、そういうことが書かれている。
 「太陽が皮膚を灼き/一瞬 涼しい風が」には「熱い(灼熱)」と「涼しい」という矛盾したことばがぶつかっているが、これは「熱い」からこそ「涼しい」が「わかる」ということ。その衝突によって世界が「ひろがる」ということ。
 ここにこうして「立っている」こともできる。けれど人間は「歩く」。「立つ」ことを放棄して「動く」。そのとき何かが「ひろがる」。何かが「わかる」。
 「先を行く」父さんは、先頭であって、先頭ではない。父さんの前には、さらに「先」がある。きっと誰かが「先」を歩いている。そしてそれは、たぶん高村光太郎が言うように「僕の後ろに道はできる」ではなく「僕の前に道はできる」なのである。「先」なんて見えない。見えるけれど、どこが「先」なんて、わからない。進む方向が「先」であるだけだ。それを「ひろげる」ようにして進む。「歩く」と決めたとき、その前に道はできるのだろう。
 「父さんに追い付く」というのは、離されないためではない。いっしょに「前/先」を見るためである。「先」をひろげるためである。「いっしょに」という気持ちが「足早」を誘うのだ。
 夏の、全身裸の子どもになって、八木はその感覚を思い出している。生きている。

 この詩には「注釈」があって、その「注釈」を読むと「数千年前」(さらには省略した三連目に書いてある「三百六十万年前」)の「意味」が明確になるのだが、私は「注釈」よりも、そこに書かれている「肉体」の感覚の方を信じるので、あえてその部分は省略した。書かれている「こと」を知りたいのではなく、そのことばを書いた「肉体/思想」を私は「わかりたい」。自分の「肉体」で体験したい。八木の「注釈」に書いてあることを私は体験できない。思い出せない。しかし、それ以外の部分なら自分の「肉体」ではっきりと思い出すことができる。そうなのだと納得できる。


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八木 幹夫
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*

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今井好子「雨が上がって」

2016-03-29 09:22:48 | 詩(雑誌・同人誌)
今井好子「雨が上がって」(「橄欖」101 、2016年03月20日発行)

 今井好子「雨が上がって」は「遠くへ行った人」を思い出す詩。その二、三連目。

窓の向こうでカマキリは
物干し竿の上でよおっ よおっ
鎌をふりおろしています
切られているものの姿はありません

遠くへ行った人は高枝鋏で
うちの庭の木を切ってくれました
聞いたことはありませんでしたが
一度位はカマキリに
出会っていたかもしれません
高いところの木を切りながら
空も切っている手応えを
感じたことはあったのでしょうか

 何とも不思議。どうしてこの二連が好きなのかなあ。私は何を書きたいと思っているのかなあ。
 カマキリと剪定職人(?)が重なっているのだけれど。「よおっ よおっ」が人間的で、それが剪定職人につながっていくのだけれど。でもカマキリのカマと剪定鋏の鋏では、ちょっと違うねえ……。だから、その、どっちがどっちの「比喩」かというところを心底おもしろいと感じたわけではないなあ。
 それよりも、

聞いたことはありませんでしたが

 この行だな。
 何とも、変。「カマキリを見ましたか?」なんて、剪定職人に「聞く」ということ、まあ、常識的には考えられない。だから、こんなことを「思う」ことが変なのだけれど、変なだけなら、詩にならない。「でたらめ」になる。
 なぜ、この行が気になったのか。いや、気に入ったのか。
 引用はしなかったが、一連目、一行目は

遠くへいった人の話が出ました

 噂話かな? 「話が出る」ということばのなかには「聞く」という動詞はないが、隠れている。「話が出る」ということは「話を聞く」ということ。耳を傾けるというよりも、偶然「聞く」。この偶然は、カマキリを物干し竿の上に偶然見るのに通じる。
 これが響いて来ているのだ。

聞いたことはありませんでしたが

 この「聞く」は「問う/質問する」ということ。「質問する」は、偶然というような要素が少ない。だから、「話が出た」というときの「話を聞く」とは少し違う。けれど「問う」ということは「答えを聞き出す」ということ。相手からことばを「聞く」ということが含まれているから、「問うたことはありませんでした」ではなく、「聞いたことはありませんでした」ということばになる。この微妙なゆらぎ、「聞く」ということばの選び方が、全体をしずかな感じで動かしている。
 でも、なぜ、聞かなかったのだろう。
 聞かなくても「わかる」からだ。ただし、この「わかる」は、剪定職人がカマキリを見たかどうかということではなく、剪定職人が枝を切っているということが「わかる」から、もう、それ以上「聞く必要はない」と感じて「聞かない」。一生懸命仕事をしている。そのとき「よおっ よおっ」と力を込める声を実際に剪定職人が出していたかどうか「わからない」が、声に出していなくても肉体のなかで声がでていることが「わかる」。熱心な動きから「わかる」。
 実際に、その「仕事」がわかるわけではないが、ひとのやっていることの「熱心さ」というものは「わかる」。それで十分である。どう剪定すれば木の形がととのうか、どの枝を切ればいいのかなんて、素人(今井)には「わからない」。だから剪定職人にまかせている。仕事そのものもまかせるとき、頼りになるのは「熱心さ」である。それが「わかる」から、それで十分。
 こういうことは、世の中には、たくさんある。
 剪定職人は剪定が仕事。それ以外は、まあ、そこに付随している何か。その付随しているすべての何かは、「わからない」ままでぜんぜんかまわない。これは逆に言えば、何か勘違いしていても、まったくかまわないということ。
 つまり。
 剪定している途中で、剪定職人が「カマキリを見る/カマキリを見た」ことがあってもいいし、なくてもいい。「一度位はカマキリに/出会っていたかもしれません」と想像してみたって、特に、何かさしさわりがあるわけではない。「高いところの木を切りながら/空も切っている手応えを/感じたことはあったのでしょうか」と思ってみて、それが正しいか間違っているか、問題になることは何もない。
 それは「無意味」だからである。剪定の仕事、あるいは「熱心」とは無関係だからである。
 ところが。
 この「無意味/無関係」こそが、詩なのだ。
 だいたいカマキリが木の枝を切るわけではないのだから、カマキリと剪定職人を重ねること自体が「無意味」である。
 でも、もしカマキリが「空」を切っていたのだとしたら? 物干し竿でカマを動かしているカマキリは何を切っている? 「切られているものの姿はありません」。「空」を切っているのだ。
 「空」という感じは「そら」とも「くう」とも読めるが、カマキリが切っているのは「くう」の方が意味合いとして強いかもしれない。
 でも剪定職人の方はどうだろう。「くう」ではなく「そら」と読みたい。
 で、「そら」と読むとき、ちょっと変なことが起きる。剪定職人と枝を切る。「そら」を切るわけではない。けれども「そらを切る」と「誤読」しても、そんなに違和感がない。(私の場合は。)なぜかというと、枝を切ってしまうと「そら」の見え方が違ってくる。だから剪定職人は枝をととのえていたのではなく「そら」の形をととのえていたとも感じることができるからである。(そうであるなら、またカマキリも「そら」を切っていたと読み直してもいいかもしれない。今井はカマキリは「そら」を切っていると感じたからこそ、剪定職人が「そら」を切っていたのだと思ったのかもしれない。))
 だれかが何かをする。何をしたかは、本人の「意図」とは関係なく、別の見方でとらえなおすこともできる。
 剪定職人は枝を切った。けれど、それを今井は「そらの形をととのえた/そらを切った」ととらえなおすことができる。
 このとらえなおし(再定義)は「無意味」である。そして「無意味」だから詩である。「無意味」が動いて、世界をいままでとは違った形で生み出している。そういう「運動」が、ここに、とても自然な形で動いている。
 「自然な」とは「無意識」の奥にあるものをそのまま揺さぶる形で、ということ。強引に何かを作り上げるという感じではないということ。

 三連目。

遠くへ行った人の暮らしぶりも
カマキリの鎌のひとふりも
高枝鋏で切り裂かれた空も
あちらもこちらもみてきた
雨上がりの滴が

物干し竿のへりから
落ちていきます

 「高枝鋏で切り裂かれた空も」の「空」は「そら」としか読めない。それは「青空」とも読めるだろう。雨上がりなのだから。
 そこにふいに書かれている一行、

あちらもこちらもみてきた

 ということばも、とてもおもしろい。「文法(?)」的には、「あちらもこちらもみてきた雨上がりの滴」(雨降りと晴れとの、あちら、こちら)とつづくのだろうけれど、剪定職人さんの「暮らし」とも受けとめることができる。「あちら(の家の暮らし)もこちらの(家の暮らし)もみてきた」というふうに。いろいろな家に出入りするのだから。そして、そうとらえたとき、その「あちらもこちらもみる」という「行為/動詞」は、どこかで今井の「いま」そのものと重ならないか。カマキリ(あちら)も剪定職人(ことら)も見てきたからこそ、いま、こうしてことばが動いている。
 今井は剪定職人さんの「暮らし」を直接見ているわけではない。家に来たとき、その制定作業を見ているだけだろう。けれど、どこからか「聞こえてくる」ものがある。「よおっ よおっ」という声にならない声、肉体の内側で響いている声が聞こえてくる。「生き方/思想」が聞こえてくる。その「暮らし/生き方」の延長にある「遠くへ行った」というのも、もしかしたら「聞こえてきた」噂かもしれない。何かはいつでも「聞こえてくる」ものなのだ。
 そういうものを「聞き」ながら、今井は、どうするのか。
 剪定職人さんが「空(そら)」をととのえたように、今井は今井の「暮らし」をととのえるのである。なんなとく、ふりかえるのである。身の回りをみつめなおすのである。そして、あ、カマキリがいる、というような、「無意味」を発見し、その「無意味」のなかでこころを揺さぶり、ときほぐす。
 何が起きるわけではない。ただ「無意味」なものが、ぱっと輝く。その輝きが美しい。


佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス

*

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八重洋一郎「襲来」

2016-03-28 09:29:22 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「襲来」(「イリプスⅡ」、2016年03月10日発行)

 アメリカとキューバが国交を回復した。アメリカの大統領がキューバを訪問した。そのことと直接書いているわけではないのだが、八重洋一郎「襲来」に「キューバ危機」ということばが出てくる。

たった五十年前
キューバ危機
もうみんな忘れてしまったかもしれないが
世界は二つに割れて震撼していた 在京貧窮学生 私の心も
罅割れて 一日一日 私は何かの寸前であった
「あの島はもう一欠片(ひとかけら)も残さず砕かれ焙られ蒸発しているのでは…」
「もう無くなっているのでは…」
小さなラジオに齧りつき 「基地満載のわが故郷」
周囲には杞憂をひやかす冷たい笑いが漂っていたが
かの時の島の米兵は今になって語りだす
「自分たちは毎日毎日 核弾頭付きミサイルの発射準備をしていた
発射するには数々の暗号があるが ある時それが皆一致し発射寸前 標的地が違うと気付いた司令部から緊急命令が届き 発射は取り止め 自分たちは世界の終わりだと思っていた」

 「あの島」はキューバと読むことができる。五十年前、たぶん私はキューバと思って読んだだろう。ソ連(当時)がキューバに核ミサイルを持ち込む。その艦船が大西洋を渡ってきている。それをケネディが阻む。遠いところで戦争が起きるんじゃないか、そんなことを「夢」のように感じていた。小学生だったと思う。(ケネディが生きていた時代だから、中学生にはなっていなかったと思うが、中学生でも、やはり「夢」のように感じただろうと思う。)
 核戦争になれば、キューバは島ごとなくなってしまう。
 それを心配している詩、と読むことができる。
 ところがこの詩に書かれている「あの島」は、もちろんキューバではない。八重の「故郷」である沖縄のことである。
 そういうことは、いまならわかるが、五十年前、私はきっとわかっていない。「基地満載のわが故郷」と「あの島」が言い換えられているけれど、それでも「あの島」をキューバと思っただろう。「基地満載のキューバ」、それは「わが故郷」と同じような存在である、つまり、「比喩」として「わが故郷」ということばを読んでしまったに違いない。
 沖縄の距離の近さが、小学生の想像力のなかでは邪魔になる。アメリカ-キューバ-ソ連という「地図」を思い描くとき、その地球儀のなかから沖縄は抜け落ちてしまう。沖縄に基地があり、そこもアメリカなのだということが抜け落ちてしまう。日本が核戦争に巻き込まれていく、その戦場になるということが、わからない。キューバに核爆弾が落とされたら、アメリカに核爆弾が落とされたら、ソ連に核爆弾が落とされたら、その放射能の影響が日本にも及んでくるくらいの感じでしか、想像できない。「遠いところ」をどうしても想像してしまう。
 (私には、どうも「比喩」と「現実」を比較した時、「比喩/遠いもの」の方をリアルに感じる癖があるのだが、それは小さい時からの癖である。)
 で、なぜ、こんな「誤読」を、あるいは「誤読の弁解」を書くかと言えば……。

 私にかぎらず、多くの日本人は「キューバ危機」(核戦争の危機)を「日本の問題/日本の実感」として感じなかったかもしれないと思うからである。核戦争が始まれば、沖縄の核も発射され、また沖縄が核攻撃の対象になると「実感」していなかったと思う。
 「周囲には杞憂をひやかす冷たい笑いが漂っていた」というのは、「キューバ危機」を「夢の核戦争/核戦争の夢(遠い場所での戦争)」と多くのひとが感じていたことをあらわしている。少なくとも「実感」の、「実」の距離感が八重とほかのひと(東京のひと)とのあいだでは違っていたということを語っていると思う。
 ところが八重は、「キューバ危機」を「キューバ危機」と感じていたのではなく「沖縄危機」と感じていたのだ。「核戦争」は「局地」にとどまらない。実際に戦争が始まれば、ソ連が攻撃するのはアメリカ本土だけではない。ソ連に攻撃を仕掛けてくる可能性のあるすべてのアメリカ軍の基地が対象となる。アメリカ本土が攻撃されている時、アメリカ本土から防衛(?)すると同時に、まだ攻撃を受けていない基地の戦力を利用するのは当然のことである。ソ連がアメリカ本土を攻撃しているあいだに、沖縄からソ連に反撃するということは当然のことである。そして、それが当然のことなら、ソ連は沖縄にも核爆弾を落とすはずである。「核戦争の夢/夢の核戦争」は「夢」ではないのだ。基地を実際に見て育ってきた八重には、それは「事実」である。まだ「戦争」は起きていないが、ソ連の艦隊がキューバに近づくたびに、それは「事実」になる。「実感」は「事実」を突き抜けて「悪夢」となって八重を襲っている。
 はっ、とした。
 私は米兵のことばがなかったら、八重が感じている「実感」を「実感」できなかった。いまでも八重の感じていることを「実感」できているかどうかはわからないけれど、米兵のことばを通ることで、少し何かがわかった。米兵とことばを共有している八重の、その「共有」の部分が浮かび上がり、私にも「客観的」に見えてきたのかもしれない。
 こういうことは、ほんとうは、沖縄に暮らさないとわからないことかもしれない。「実感」には、なかなかならない。想像力には限界がある。

 繰り返しておく。

小さなラジオに齧りつき 「基地満載のわが故郷」

 という行を読んだあとでも、あ、「あの島」は「沖縄」? でも、キューバとも読むことができるなあ、とまだ思ったりする。キューバと読むと、ことばの世界が広くなるなあ、と思ったりする。「想像力」で世界全体をつかんでいると錯覚する。「想像」が「実感」を隠してしまう。「想像」を「実感」がたたき壊して動いていかない。

 「あの島」が「沖縄」であると、私がはっきり実感するのは、「自分たちは毎日毎日 核弾頭付きミサイルの発射準備をしていた」という米兵のことばが引用されてからである。
 沖縄の一般市民ではなく、沖縄の基地にいた米兵が「核戦争の危機/自分たちのいる基地が攻撃される可能性もある/その前に攻撃しないといけない」と緊張していたと語ることばを知ってからである。「暗号」を操作するクラスの米兵は、みな、「世界の終わり」を「実感」している。その「実感」が沖縄を媒介にして、米兵と八重を「ひとり」にする。「不安」が「ふたり」を合体させ「ひとり」になる。その「ひとり」になって膨張する「不安」に出会い、初めて私は「不安」というものを実感する。「沖縄」が「世界」の中心になる。核戦争が起きたとき、そこは「他国の問題/国際問題」ではなく、「自国」の問題として迫ってくる。
 キューバ危機のときもそうだったが、いまでも私たちは、ほんとうに沖縄の「不安」を「実感」できているだろうか。
 たとえば……。
 先日読んだニュースに、中谷防衛相と稲嶺名護市長のやりとりがあった。
 中谷「一番大事なのは、普天間飛行場周辺の危険性を除去することだ」
 稲嶺「普天間の危険性は、辺野古にきても同じ危険なもの」
 「危険」の感じ方が違うのだ。中谷は「危険」など、実感していない。普天間から辺野古へ基地が移転しても、沖縄は「危険」の中心にある。
 米兵が感じている「危機感」も、もちろん中谷は持っていないだろう。
 では、中谷は(あるいは、中谷を任命した安倍は)、どう思っているか。

急激に狂った気圧 この国のまっ黒い寒気が轟々とたちのぼり
「楯となれ」「防壁となれ」
「生餌(えさ)となれ」「捨石となれ」
きんきん凍った金属音がぎっしりと固まって島々を襲う

 「沖縄は楯となれ」「防壁となれ」「生餌となれ」「捨石となれ」と思っているのだ。中谷/安倍は「思っていない」と「答弁」するかもしれないが、沖縄の市民には「沖縄は楯となれ」「防壁となれ」「生餌となれ」「捨石となれ」と言っているとしか聞こえない。普天間の危険を減らしても辺野古が危険になるなら、まったく同じ。何もしていないに等しい。何もしていないのに、辺野古に基地をつくることで何かをしているとごまかそうとしている。
 基地を普天間から辺野古に移せば問題が解決すると考えているひとは、どこかで中谷/安倍と同じように、「沖縄は楯となれ」「防壁となれ」「生餌となれ」「捨石となれ」と無意識の内に思っていることになる。中谷/安倍の主張を支えていることになる。
 この批判(八重は明言はしていないが)は、しっかりと聞かないといけない。受けとめないといけない。

 「実感」の共有はむずかしい。「実感」にたどりつくまでが、むずかしい。むずかしいからこそ、私は自分の「感じ」を何度も揺さぶってみる。「感じ」から「定型」が振り落とせるかどうかわからないが、「誤読」をぶつけながら、自分のことばをゆさぶってみる。
 私は、しょっちゅう間違う。何度も同じところで間違う。だから何度でも「間違えた」と書く。そうやって書いたこともまた間違いかもしれないが。でも、間違っていた、知らなかった、わからなかったと書くことでしか、いまやっと気づいたことを明らかにできない。


八重洋一郎詩集 (現代詩人文庫)
八重洋一郎
砂子屋書房

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アイラ・サックス監督「人生は小説よりも奇なり」(★★★)

2016-03-27 21:43:09 | 映画
監督 アイラ・サックス 出演 ジョン・リスゴー、アルフレッド・モリーナ、マリサ・トメイ

 これはとても風変わりな映画である。
 初老の男のカップルが同性婚が認められたために結婚する。周辺のひとはみな祝福してくれる。ところがカトリック系(?)の学校は宗教上許されないとして、若い方の男を首にする。収入が激減し、住んでいるアパートを売って、新しい住まいを探さないといけない。アパートがみつかるまで、家族や友人の家にころがりこむのだが、二人分の部屋がない。ひとりずつしか受け入れられない。三十九年いっしょに暮らしていたのに、「新婚」になったとたんに別居生活が始まる。
 予告編でわかっていたのは、そこまで。きっとコメディーだろうと勝手に予想していたのだが違った。
 「現実」が淡々と描写される。家族、友人といっても「他人」。そこに新しいひとが入ってくるとぎくしゃくする。居候になるふたり(ひとりずつ)にしても、いままでの暮らしのようにはいかない。「他人」とうまく時間がすごせない。ただそれだけが淡々と描かれる。感情の爆発とか、劇的な展開というものはない。
 ジョン・リスゴーが転がり込むマリサ・トメイの家は、マリサ・トメイが作家、夫が映画監督、息子がひとり。ジョン・リスゴーは息子の二段ベッドの下段を借りている。マリサ・トメイは作家だから当然執筆するのだが、ジョン・リスゴーが話しかけるので集中できない。ジョン・リスゴーが息子や夫なら、「話しかけないで、黙って」と言えるが、「他人」なので、きついことは言えない。欲求不満が高まる。ジョン・リスゴーは画家なので、彼に対して「絵を描いたらどうか」と提案するが、ジョン・リスゴーはジョン・リスゴーで「他人」がいると描けないと描けない、と言う。
 アルフレッド・モリーナが世話になるのはゲイの警官のカップルの部屋。そこでは毎晩、パーティが開かれる。アルフレッド・モリーナはパーティーが開かれる部屋のソファを借りている。そこが、ベッドだ。パーティーが終わるまで、彼は眠ることもできない。「他人」の部屋に居候しているので、自己主張ができない。
 「他人」を理解することと「他人」と暮らすことは別なのである。人間にはプライバシーがある。プライバシーと「同居」できるようになるまでには、とても時間がかかる。ひとりの人間が、いつでも自由に自分のなかにとじこもることが許されるようになるためには、何か、ことばで説明できな複雑な関係をくぐりぬけないといけないのだろう。「他人の自己主張」を「自己主張」のまま、いっしょに「共存」するまでには、「愛する」というだけではなく、「けんかをする/対立をする」ということもふくめて、ある種の「めんどう」をくぐりぬけなければならないのである。「無関心」、あるいは「知っていても知らない」という態度で「他人を許す」というところにたどり着くまでには、とても時間がかかるのだ。
 そして、そういうことに気付いたあと(観客に気付かせたあと)。この映画は、予想外の展開をする。
 アルフレッド・モリーナはパーティーで若い男と出会う。彼はメキシコに仕事をみつけ、ニューヨークを離れる予定である。その男から、アルフレッド・モリーナはアパートを借りることになる。しかし、ジョン・リスゴーといっしょに暮らすわけではない。ジョン・リスゴーと音楽会にいっしょに出かけ、感想を語り合う。音楽会の帰りには、なじみのバーで酒を飲む。そういうデートはするが、いっしょには暮らさない。
 はっきりと描かれるわけではないが、アルフレッド・モリーナはアパートを貸してくれた若い男といっしょに暮らしている。
 ジョン・リスゴーは、それを問い詰めはしない。ジョン・リスゴーも、昔は浮気(?)をしたことがある。ジョン・リスゴーは隠していたが、隠しても「知られてしまった」。「知った」けれどアルフレッド・モリーナは「知らない」顔をした。そうしたことがあったなあ、と二人はバーで話し、地下鉄の駅の入口で別れていく。
 別居生活をすることで、ふたりは、何と言えばいいのか、一種の「プライバシー」をあらためて発見する。「プライバシー」が個人を支えているということを、せつない形で学びなおす。パートナーを「他人」として発見しなおすと言えるかもしれない。あるいは三十九年間、いっしょに暮らしているときは「自分が隠していたもの」を自分自身で発見したとも言えるかもしれない。
 なんと言えばいいのか、とっても「めんどうくさい」映画なのである。そして、その「めんどうくささ」は、このあとさらに重たくなる。
 地下鉄の駅の入口で別れたあと、どうなったか。ジョン・リスゴーは病気で死んでしまう。その死後(その葬儀のあと)、ジョン・リスゴーが暮らしていた家の息子が、ジョン・リスゴーの描きかけの絵をアルフレッド・モリーナに届けに来る。その絵は、息子の家の屋上で描いたもので、そこには息子の友人が描かれている。息子は、友人とは交流がなくなっている。だから、その絵は、息子にとっては友人の貴重な「思い出」なのだが、それをアルフレッド・モリーナに渡してしまう。
 渡してしまって、アルフレッド・モリーナの部屋を出る。階段をおりる。下から上がってくる老女に道を譲って、その踊り場で、少年は泣き出してしまう。理由は説明されない。ジョン・リスゴーを思い出したからか、会えなくなった友人を思い出したからか。わからないが、わからないからこそ、このシーンが、なんともいえずに美しい。明かり取りの窓があり、そこから街の風景がぼんやり見える。彼が泣いていることは、だれも知らない。彼は泣いたことを、これから先、だれにも言わないだろう。彼は、それを隠しつづけるだろう。「プライバシー」が、そこにある。「個人的な過去」が、そこにある。
 ラストは、さらに奇妙で、涙をふいたあと、少年は少女と夕暮れの道をスケボーでデートしながら走りつづける。このシーンが、またまた無意味に美しい。夕陽がカメラのレンズに入り、少年も風景も光のなかに消える瞬間がある。少年は少女に、「自分の過去/プライバシー」を語ることがあるだろうか。語らなくても、それは「知られてしまう」だろうか。
 何も答えのないまま、この映画は終わるのだが。
 うーん、アメリカ映画で、こんなふうに「プライバシー」を描いたことがあっただろうか。思い出せない。いや、ほかの国の映画でも、こういう形の「プライバシー」の描き方はないなあ。
 長い長い小説を、むりやり短篇にしたような、不思議な凝縮感のある映画だった。ストーリーだけを追ってみていると、とても物足りない(カタストロフィーがない)のだけれど、ストーリーではなく、「プライバシー」と「人間」の関係を描いた映画と思って、とらえなおすと、うーん、と考え込んでしまうのである。
                      (2016年03月27日、KBCシネマ2)








「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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鍋山ふみえ「さらさら素麺を」

2016-03-27 08:27:08 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「さらさら素麺を」(現代詩講座@リードカフェ、2016年03月23日)

さらさら素麺を    鍋山ふみえ

さらさら

そうめんをすする

茹で

流氷のかけらに白い藻がまつわりつく

北海の

氷の下に 海藻 プランクトン クリオネ

波の上に カモメ

春めいて

外に外に あるいは 内に内に

結球したキャベツを手に取る

キャベツ畑でキャベツ祭が開かれている

にぎやかに葉のめくれている

右手に持ちきれない重量

うすみどりのキャベツを蒸す

もっと明るく もっとあまく

塩 胡椒 酢 オイル

喉を通り 腹にとどく 胎に影が落ちる 

胎児の頭くらい

真水に放たれる うつしみはむかし水呼吸をしていた

水面から顔をあげ息を継ぐ

潮 湖沼 巣 老いる

皿の肌が白くのぞくまで 盛られたキャベツを食べる

 受講者の感想。

<受講者1>朗読を聞いて、世界が展開していく様子がわかり、楽しかった。
      イメージに飛躍がある。
      「潮 湖沼 巣 老いる」は黙読したときはわからなかった。
      「うつしみはむかし水呼吸をしていた」は、わからないがおもしろい。
<受講者2>流れがきれい。
      そうめんからキャベツに変化するのは矛盾だけれどいいかな。
      「うつしみ」に生命のつながりを感じる。
      漢字とかなで、別なものをみせる手法がおもしろい。
<受講者3>展開がおもしろい。
      「春めいて」からの春のうごめきが
      「外に外に あるいは 内に内に」からキャベツにつながる。
      そこがおもしろい。
      「潮 湖沼 巣 老いる」にびっくりした。
      「うつしみ」はしぶい。命を感じさせる。
<受講者4>展開がおもしろい。
      「塩 胡椒 酢 オイル」という日常が
      「潮 湖沼 巣 老いる」にかわるところがおもしろい。
      最後の「皿」が書き出しの「さらさら」にもどり、循環する。
<受講者5>食卓、台所のことと遠くからやってくる春の気配が
      層になっている。
      世界が層になっている。
      「水面から顔をあげ息を継ぐ」が新鮮。

 感想がイメージの展開に集中したが、私もイメージの展開がおもしろいと思う。「塩 胡椒 酢 オイル」と「潮 湖沼 巣 老いる」が同じ音のなかで出会い、わかれていく感じは、目で読み、また耳で聞くという二つの体験がないと味わえない興奮である。
 この「イメージ」の展開はどこから来ているか。どこから動きはじめているか。
 「流氷のかけらに白い藻がまつわりつく」という一行が重要だと思う。ここには二つの種類の「比喩」がある。
 そうめんには「氷」がつきもの。そこから「氷→流氷→北海」とことばが動いてゆく。「換喩」と呼ばれる手法。(で、いいのかな?)そのきっかけが、ここにある。
 もうひとつの「比喩」は「白い藻」。これは「暗喩」。そうめんを「白い藻」と呼んでいる。
 ここから「比喩」の変化がはじまり、それが世界の変化になっていく。
 そうめん→白い藻→海藻。そのあとは、海のなかの「白い」生き物。プランクトン→クリオネ。連想がスムーズだ。
 その次の「(北海の)氷の下」「(北海の)波の上」という対比。「(白い)クリオネ」に対して「(白い)カモメ」がある。書かれていないけれど、余韻のようにして残っていることばが、向き合い、呼応し合う。
 次の「春めいて」の「春」は「下/上」という対比の運動が導き出したことばだろう。「北海」(北/氷/寒い)と「春(暖かい)」が対比されていることになる。
 この「対比」という運動は繰り返されると、「繰り返し」そものが「論理」になる。何もないはずの「対比」のだが、「対比する」ということが世界をつくりなおしはじめる。「対比」を書きつづけると、そこに「対比する」という別の次元の世界が生まれ出てくる。こういう運動は、少しオートマチックである。「意識/意味」を外れることがある。シュウルレアリスムの「自動筆記」に似たところがある。
 「下/上」は「北(海)/(南)春」に、そして「外/内」へという向き合う動きが自然に、追加される。キャベツは「玉」の状態で大きくなるわけではない。「外」から「内」へと「結球する」のである。
 「そうめん」から「氷/北の海の底」はわかりやすいが、「そうめん」から「キャベツ」への転換は「もの」のイメージを中心にして考えると、(名詞/存在のイメージを中心にした考えると)、ちょっとわかりにくいが、比喩の変化、イメージの変化のなかにある「動詞」の部分、「対比する」という動きを中心に見ていくと、少しわかりやすくなるかもしれない。
 鍋山がここで追いかけているのは「イメージ」の「意味」の言い換え(比喩)ではなく、あるものから別なものへと動いていくときの、基本的な「動き方」なのだ。「対比」という方法なのだ。
 そうめん(夏)から北海(冬)へ。その「反対」の向き/動き。そこに「下/上」「外/内」が加わり、「外/内」が「結球する」という動詞のなかで衝突して、キャベツという新しい「比喩」を「事実」にしてしまう。存在させてしまう。このキャベツの登場は唐突だが、鍋山の「対比」の運動を基本にしていけば、唐突なところは何一つない。キャベツはめくれながら結球する/結球しながらめくれる。
 それが、どうした? どうもしない。
 ただそれだけである。そうめんからキャベツが生まれてくるのは、「換喩」でも「直喩」でもない。「喩」を飛び越して無意味/ナンセンスである。しかし、この無意味/ナンセンスは「存在(名詞)」ではない。「運動」である。
 「運動」だからこそ、「胎(児)」や「うつしみ」という「対比」も、そこから生まれてくる。「対比」が増幅して「対比」を生み出す。再生産し、循環する。暴走する。
 そのいちばん輝かしい暴力/ことばの破壊が

塩 胡椒 酢 オイル
潮 湖沼 巣 老いる

 である。「意味」はない。「上/下」「内/外」「北(寒い)/春(暖かい)」というような「反対/対立」という構造がない。ただ「ことば」と「音」だけがある。「対比/対立」ではなく「対比/同じ音」という、それまでとは違った「同じ」ものによる攪乱がある。攪乱されたときに「もの」が触れあう、その聞こえない「音楽」がそこで鳴り響いている。「意味」を放棄して、一瞬の混乱に酔う。これもポップかもしれない。
詩集 アーケード
鍋山ふみえ
梓書院

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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犬の鎖はゆるくたわみ、/異聞

2016-03-26 23:59:59 | 
犬の鎖はゆるくたわみ、/異聞

犬の鎖はゆるくたわみ、春の光を反射していた。
泥は、とっくに乾いていた。
前脚の上に顎をのせて息を吐いている。
無害であることを恥じるようによわよわしく匂った。

遠いところからわけのわからないものをひきずってきたのだが、
ここで犬になってしまった。
棒で打たれて膝が折れ、震えているのを見たとき、
からだのなかで騒いでいたものがしいんとなった。



鎖は犬と杭の距離のあいだで、ぬるい重さを形にするかのように、たわんでいる。
互いの空洞に互いの腕をからめるという比喩がぶら下がって、
だらしないということばになろうかどうしようかと考えている。
(主語は、犬ではなく、鎖である。)



二つ目の文章で「主語」を犬から鎖にかえている理由について。
この文章を書いたとき、その男は(つまり私のことだが)、どこへ隠れようとしたのか。最初は、多くの人間のように犬に隠れようとした。犬を比喩として生きようとしたのだろう。しかし、それはあまりにも比喩の定型になりすぎると私は(つまり、その男のことだが)考え、鎖に隠れることはできないか考えてみたのだ。
(これは本心からではなく、その方が詩になると思ったからである。)

犬をつないだり、ひっぱったりする鎖は、実は犬につながれている。犬がつながれているのではなく、鎖の方がどこへも行けない、というのは、視点を入れ替えてみただけのことであって、比喩にもなっていない。
犬が動かないと、たわんだまま春の光を集めることしかできない。
錆びていないのは、みっともない話だが、それが鉄ではないからだ。





静物画/課題

石が縄に縛られたまま椅子の上にある。
縄は死んだ獣の尾となって、椅子から落ちている。
椅子は木のものから金属のものにかえられたあと、さらにガラス製にかえられた、
という仮説を挿入したまま
それを花の絵(鉛筆のみ使用)として描きだすという課題。

(灰色/四センチ×七センチ×九センチ)
(白/二・一メートル)
(三十五センチ四方、高さ四十五センチ)

肉が落ちてゆき、
骨が太くなる。

もしその下で
水栽培の球根の根がからみあい臭い息を吐いていたら。
泣いているのは、
まどろみだろうか。
目覚めだろうか。
あるいは、まだ夢のなかにあるのか。








*

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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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「リッツオス詩選集」も4200円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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網野杏子「ハーメルン」

2016-03-26 09:30:46 | 現代詩講座
網野杏子「ハーメルン」(現代詩講座@リードカフェ、2016年03月23日)

ハーメルン   網野 杏子  

なんで並んでるの
知らない
みんななんでここにいるの
だってハーメルンはとても
素敵
細マッチョでイケボ
白い皮の靴はピカピカ
なにより
詩が書けるの!
うっとりさせるような
私の創るうたも
すごくイイネ!って誉めてくれる
その時だけ
嫌なこと忘れられる

ミートソース作ったフライパン
ペーパータオルで拭ってから
スポンジで洗う
(NHKのお作法番組でやってた)
私のスポンジはきれいなまま
汚れた油にまみれない
(私が食べたから汚れたんだけど)
油でぐちゃぐちゃになったペーバータオル
我が家からさよならして
遠い遠いゴミ焼却場で
燃やされるのか(知らない)
埋められるのか(知らない)
愛宕神社の高台から見えた
ひとつひとつの灯りから
スポンジをきれいに保つため
油まみれのペーパータオル達が集められ
(ミートソースを食べたから)
だけど私のスポンジはきれい
ベランダから見えてたマンションの外灯
消えて 点いて 消えて 
近づき過ぎたら見えないけど
愛宕山の高台からも見えない
ちいさな
私の欲しかった
正解の行方は

ハーメルンが笛を吹く
こっち
こっちです
これが公式です
ランキング一位
教科書で
マニュアルに
グーグル!

カーニバルがはじまるよ
楽しもう
孤独なんて
電車の中でスマホを
みてるふりしても
人生は容易に終わらないから
あなたと触れ合う手と手のぬくもりが
気持ち悪いから
話さなくても
人がいるとこにいるとなんだか
許可されてる気がして
はぐれないようにしなきゃ
あれ
正解ってなんだっけ
そういえば昨日
ミートソースのスパゲティを食べた


どこにいくんだろ
外れた観覧車の輪が追ってくる
(気づいてないの?)
きっとハーメルンだって
目的地を知らない

 受講者の感想。

<受講者1>ハーメルンの笛吹き男という素材をうまくつかっている。
      女の人の料理をしながらの感覚が伝わってくる。
      自分をスポンジになぞらえている。
      自分がかわらない。そのかわらない自分がスポンジになって動いていく。
      かっこのなかが気になった。かっこにしないといけないのか。
      二連目の(ミートソースを食べたから)はない方がいい。
      読者に想像させる方がいい。
<受講者2>「許可」とか「正解」ということばが気になる。
      自分自身のことばではなく「共通語」をつかっている。
      ただ、いろいろな世界が登場し、ふくらんでいくのがいい。
<受講者3>「イケボ(イケメンボイス)」というような現代性のあることばが、
      古い素材とまじっているのがおもしろい。
      世界が転がっていく感じがする。
<受講者4>ことばがポップ。いきいきしている。
      ミートソースを作った肉体にしかわからないやっかいさが書かれている。
      紙をつかうか、洗剤をつかうか、どっちが社会的・倫理的なのか。
      日常にまみれて生きていると、ハーメルンについて行きたくなる。
<受講者1>私は、三連目が好き。
<受講者5>私にはわかりにくい。
      「近づき過ぎたら見えないけど/愛宕山の高台からも見えない」など、
      矛盾が書いてあるからかなあ。
      フォーカスをあてても見えにくいものを書いてあるのかなあ。
      リアルな、生理的な感じがする。
      「あなたと触れあう手のぬくもりが/気持ち悪いから」からつづく行も、
      非常に印象に残る。
<網  野>二十代の女性を思い浮かべて書いた。腹が立って書いた。
      ミートソースをつくった汚れたフライパンを洗うとき、
      紙で拭き取ってから洗うと洗剤が少なくてすむ。
      汚れを流さないし、環境にやさしい。
      けれど一方で、紙をつかえば紙が消費される。
      どれが正しいのか、納得できない。それを書いた。
<受講者5>ハーメルンの意味は?
<網  野>教訓を書きたくない。
      「正解を求める気持ち」「ひとつの方向性」に対する疑問を書いた。

 ハーメルンの笛吹き男についていくだけの子供たち。だれかの言うがままに動いていくことに対する疑問ということだろう。ミートソースの汚れは紙で拭き取ってから洗う、というのが「現代の作法」(環境への配慮)。スポンジも汚れが少ない。一石二鳥ということだろうか。しかし、そういう行動は、また紙の大量消費という問題を含む。どれが「正しい作法」のか、わからない。
 「正解」ということばはには「お作法」ということばが含んでいる「正しい作法」の「正しい」という「意味」が反映されている。「正しい作法」「正しい答え」が響きあっている。
 「正解」はまた「公式」とか「教科書」ということばで言い直されているが、「目的地」という「到達する/ある方向に動く」という「動詞」を含むことばでも言い直されている。三連目の「こっち」は「目的地(の方向)」を指し示すことばだとも言える。
 この離れたところにあることばが呼応している感じ、「意味/イメージ」をぶつけ合いながら、言いたいことを探していく感じがおもしろい。世界を攪拌しながら、同時にととのえる感じ。かきまぜることで、濁るのではなく、透明になる感じ。
 そんなふうにして、ことばを探していくと、ほかにもいろいろなつながりが見えてくる。
 書き出しの「並んでる」というのも「方向」を示す。その「方向」の先には「正解」が「ある」とだれもが信じている。「正解」は「イイネ!」ということになる。

 何か「正解」を求めて、簡単に動いてしまう「現実」がある。「正解」は「時代」によって変化していく。
 ものをつくって食べるという昔からかわらない「暮らし」がある。そこに人間は深くかかわっている。つくって「食べる」一方、その「後片付けをする。そこに、強引に「正解」ということばを持ち込み、攪拌すると、どうなるか。
 「食べる」という「正解」と片づけるという「正解とは関係ないもの」という関係がそこにあるのか、あるいは「片づける」という「正解」と「食べる」という「正解とは無関係なもの」がそこにあるのか。
 「食べる」快感を「流行語(?)」で書き、後片付けをする方の台所仕事から見つめなおすようにして、二つを衝突させている詩ということになるかもしれない 。「後片付け」から、世界をとらえなおしていると言えるかもしれない。
 
 で。
 受講者の感想のなかに、「ポップ」という表現があった。
 「ことばがいきいきしている。ポップだ」
 その、ポップって、何だろう。何とか定義できないだろうか。

<質  問>どこが、ポップ? ポップということばで感じることは?
<受講者3>いきいきしたことば。「細マッチョ」とか「イケボ」とか。
      一連目がポップ。カタカナのことばに、そういうものを感じる。
<受講者2>私も一連目がポップ。軽さがポップ。
<受講者4>二連目のおわり。
      「ちいさな/私の欲しかった/正解の行方は」は、せつない。
<受講者5>三連目が、ポップ。ことばが大きくて速い。歯切れがいい。軽快。
      ことばが日常と離れている感じ。
<受講者1>三連目が好き。音楽的。ことばが、はねる。
<受講者2>音楽はつながっていくのもだけれど、ことばはつながらない。
      ことばに横のつながりがない。
<網  野>私はポップについて思ったことがない。

 うーん。
 私がポップということば(感想)におどろいたのは、そのときポップということばをつかったひと(受講者4)が「肉体にしかわからないやっかいさ」ということと平行する感じで語ったからである。
 肉体とポップはどういう関係にあるか。
 その受講者は、「せつない」ということばとポップスをつないで語りなおしてくれているが、そういうこととも関係がある。(この「せつないポップ/ポップのせつなさ」という感想は、網野の作品を深くとらえ、はげしく揺さぶる力を持っている。大変刺戟的である。)
 ポップは確かに軽快なのだが、その軽快さというのは「肉体」を突き破っていく感じと、私なら言い直す。自分の「肉体」のなかにある、まだ「ことば」にならない欲望や本能のようなものが、ことば(形)にならないまま、不定形のまま、あふれていく。あふれて行って、それが自分の外から自分を導く、誘う感じ。
 知らないものに対する興奮。初めてみるものに対する興奮。それはある意味では、自分自身の否定。自分が知っているものを否定すること。だから、それは、別な角度からみれば「せつない」という気持ちも引き起こすことがある。(これは、受講者が言った「せつない」と重なるのかどうかわからないが、私は、そう感じた。)
 筆者の網野と、「せつない」という感想を言ったひとは、受講者のなかでは年齢が近いこともあって、響きあうものがあったのかもしれない。

 私は、網野とは年代も違うし、この詩に書かれている台所仕事とも深いかかわりはもたないのだが……。
 私の感覚では、

燃やされるのか(知らない)
埋められるのか(知らない)

 この部分がいちばんポップである。読んだ瞬間、いちばん興奮したのが、ここ。
 汚れを拭き取った紙は燃やされるのか、埋められるのか。燃やすにしろ、埋めるにしろ、そこには「ごみ」を「処理する」という「意味」がある。ひとつの「正解」がある。
 そういう「正解」を拒否している。
 どちらが「正しい」という答えを出さない。「答え」を出すということ、それ自体を否定している。放棄している。「答え」に「正しい」も「間違っている」もつけない。「知らない」と拒絶すること、切断することで「無意味」にしてしまう。
 この瞬間が、ポップだと私は思う。興奮する。
 「知らない」ということばは書き出しの二行目にも登場している。
 この詩では、この「知らない」がいちばん重要だと私は感じている。「知らない」に私は網野の「肉体/思想」を感じたのである。
 「知らない」とことばにすることで、そこにあるものを「拒絶」する。そして、同時に自分のなかにある、ことばにならないものを発見する。何を発見したか。それは「知らない」ということばでしか表現できない。「知らない」というしかない。
 「ことば」では「知らない」。けれど「肉体」では、知っている。こっちが、好き。こっちが、嫌い。「本能」が何かをつかんでいる。
 これが「ポップ」だと思う。
 この「知らない」は、ちょっと控えめに言うと

(私が食べたから汚れたんだけど)
(ミートソースを食べたから)

 というような、中途半端ないい方になる。「断言」しない。途中で省略してしまう。何が省略されているか「ことば」ではなく、私たちは「肉体」でわかってしまう。そういうものがあるのだ。
 そういうものをもっとていねいに追うと、この詩はいっそう強くなるかなあと感じだ。私は二連目が好きで、「細マッチョ」や「ランキング」などのことばが出てくる部分はポップというよりも風俗の上滑りと感じてしまう。
 でも、これは私が古い人間だからだね。

(次回は4月13日水曜日18時から)
あたしと一緒の墓に入ろう―網野杏子詩集 (鮮烈デビュー詩集シリーズ)
網野 杏子
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静物画/課題

2016-03-25 18:09:41 | 
静物画/課題

石が縄に縛られたまま椅子の上にある。
縄は死んだ獣の尾となって、椅子から落ちている。
椅子は木のものから金属のものにかえられたあと、さらにガラス製にかえられた、
という仮説を挿入したまま
それを花の絵(鉛筆のみ使用)として描きだすという課題。

(灰色/四センチ×七センチ×九センチ)
(白/二・一メートル)
(三十五センチ四方、高さ四十五センチ)

肉が落ちてゆき、
骨が太くなる。

もしその下で
水栽培の球根の根がからみあい臭い息を吐いていたら。
泣いているのは、
まどろみだろうか。
目覚めだろうか。
あるいは、まだ夢のなかにあるのか。



*

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渡辺松男「旅じたくのためのスクリブル」

2016-03-25 08:08:17 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺松男「旅じたくのためのスクリブル」(「ほんのひとさじ」2016年03月01日発行)

 渡辺松男「旅じたくのためのスクリブル」を読んで、あ、一元論の詩だ、俳句みたいだ、と思ったら、渡辺松男は俳句のひとだった。いや、歌集が多く、迢空賞を受賞しているから(略歴で知った)短歌のひとということになるのだろうけれど、詩を読むかぎりは俳句を読みたくなることばの運動である。
 「旅じたくのためのスクリブル」は三篇から構成されているが、そのうちの「手」。

ぼくの手がすーっと伸びてゆき、木となり、枝となり、こずえとなり、
ぱっと開いて、それから先、小鳥になってとびたった。
どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからないが小鳥は元気。
しばらくたつと雪がふってきた。
雪が消えると、ふたたび手が現れた。ぼくの手。

 「ぼくの手が」「木となり、枝となり、こずえとなり、」の「なる」という「動詞」がおもしろい。二行目では「小鳥になって」という形でつかわれている。
 「なる」というのは、何だろう。
 五行目に「ふたたび手が現れた」と「現れる」という「動詞」がつかわれている。これは、たぶん「なる」と言い換えることができる。「手」は「木/枝/こずえ/小鳥」に「った」。しかし、ふたたび「手」に「なった」(もどった)。
 これを「現れる」というのなら、一行目は、

ぼくの手がすーっと伸びてゆき、そこに木が「現れ」、枝が「現れ」、梢が「現れ」、

 と言い換えることができるだろう。単に「現れる」ではなく、それは言外に「戻る」を含む。もともと「手」は「木/枝/こずえ」であったのだ。
 二行目も、

ぱっと開いて、それから先、小鳥が「現れ」とびたった。

 と言い換えうる。
 手が木に「なる」よりも、手を伸ばした先に(先ということばは二行目につかわれている)、木が「現れる」の方が現実的に見える。現実として想像しやすいかもしれない。何かが「出現する」。これは、「常識」として「わかる」。
 でも、これは「わかりやすい」だけに、何か違っているなあ、とも感じる。

 「現れる」は、ほかに言い換えがきかないか。

ぱっと開いて、

 このことばが「現れる」に近いかも。「ぱっと現れる」(突然、現れる)。
 で、この「ぱっと開いて」の「開いて」。「開く」という「動詞」が「現れる」なのかもしれない。いままで何かが閉ざされていた。その閉ざした向こうに何かが隠されていた。それが「開かれ」、隠されていたものが「現れ」る。
 扉(カーテン)が「開かれ」、奥から美女が「現れた」。そんな感じで、何かが「現れる」。そういうことは、だれもが見聞きすることだ。
 「なる」とは、隠れていたものが「開かれ」、そこに「現れる」こと、と読み直すことができる。「ぼく」のなかに「あった」もの、「ある」もの、つまり「木/枝/こずえ/小鳥」が、「ぼく」という「枠」が「開かれ」、そこに「現れる」と読み直すことができる。
 でも、「隠れている」というのは、どういうことだろうか。美女は扉の向こう、カーテンの向こうに隠れているということができるが、「木/枝/こずえ/小鳥」は「ぼく」の「どこ」に隠れている? 手の中に? これは、まあ、「常識」として、ありえない。
 どこに隠れているか。その「どこ」を考えるとき、三行目の「どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからない」ということばが手がかりになる。
 「どこからぼくがぼくでなくなったのか、わからない」とは「区別」が「わからない」ということでもある。「どこに隠れていたか」は「わからない」としか言いようがないのである。強いて言えば「どこからぼくがぼくでなくなったのか」の「か」という疑問、問いかけるときの、その「問い」が区別を生み出そうとしているということになる。
 この「区別」を、いまはやりの「分節」ということばで言い直すと、「一元論」がぐっと近付く。
 「ぼく」には「手」がある。その「手」はいろいろな呼び方がある。「腕」であったり「掌」だったり「指」だったりする。状況に応じて、そう呼んでいる。そのとき、状況を「分節し」、その状況にあわせて「手」も「分節しなおしている」。そういうことにならないだろうか。
 「手」を「腕」という形でとらえなおす(分節する)、「掌」ということばで説明しなおす(分節する)。その「分節の仕方」の違いというのは、いちいち説明するのはめんどうくさいから、 私たちはそういうめんどうを無意識にまかせてしまう。意識化しない。けれど、「どこか」で、そういうことをやっている。
 この「どこか」を「閾」ということばであらわすと、現代思想の「一元論」がさらに近づくが、私は「聞きかじり派」なので、これは省略。
 省略するけれど、まあ、渡辺は、そういう「閾」を何度もとおって、木になったり、枝になったり、こずえになったり、小鳥になったりする。もちろんふたたび手になる。手に戻る。
 そのとき、そこに浮かび上がるのは、そういうことを可能にする「閾」がある、ということ。「手」は「閾」を超えて、あるいは「手」という「分節」を捨てて、「無」になり、そこから「閾」を超えて/「閾」を「開いて」、「木」に「なる」。「木」として「現れる」。そういう「一連の動き」が見える。

 さらにつけくわえると、「ぼくの手がすーっと伸びてゆき」の「伸びる」という「動詞」もおもしろい。手がすーっと伸びて、ふたたび手にすーっともどってくる。この広がりを含む往復運動は「遠心/求心」という俳句の「核心」につながる。「伸びる」(拡張する)だけではなく、もう一度「戻る」。そのときの「戻る」は「もと」に戻るというよりも、もっと「深いところ」に戻るのかもしれない。「核」に戻る。その一瞬の往復運動のなかに、世界が「ばっと開く」。
 ほら、俳句でしょ?
 詩を読むかぎり、俳句はきっとおもしろいだろうなあ、と感じさせてくれるのだが、渡辺が、歌人としての方が有名(すぐれている?)とするなら、渡辺のことばのなかに俳句とは違う「要素」が濃く存在しているということなのかな? それをこの詩に探してみると「ぼく」という「自意識」かもしれない。
 「ぼく」ということばを消し、三行目を、

どこから「手」が「手」でなくなったのか、わからないが小鳥は元気。 

 とすると、「肉体」がぐっとなまなましくなる。「ぼく」ということばにじゃまされずに、そのことばが私(読者)のものになる。渡辺のことばではなく、私(読者)自信のことばの体験になる。
 うーん、渡辺の俳句を読んでみたい。
雨る (現代歌人シリーズ11)
渡辺 松男
書肆侃侃房

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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大西美千代「四国にて」

2016-03-24 09:23:16 | 詩(雑誌・同人誌)
大西美千代「四国にて」(「橄欖」101 、2016年03月20日発行)

 詩を読む、あるいは文学を読むとは、筆者のことば(思想)を読むというよりは、自分自身の欲望や本能を読み直すということだと思う。
 だから、ときどき困る。特に「わからない」作品に出会ったときが困ってしまう。
 たとえば、大西美千代「四国にて」。

花の咲くころに
また来てください
ここは息もできないほどの桜の森で
わたくしは
何度でも生まれ変わって
あなたを待ちましょう
まだ固い木の芽のような枝の先に
粒粒の思いを固めて
ああしかしもう
わたくしはわたくしであることはやめましょう

 女が男を待っている。男は去って行った。けれど、女は待っていると言う。「わたくしはわたくしであることはやめましょう」というのは、男に会って、「わたくし」ではなくなってしまった。以前とは違う人間になった。もう、もとには戻らない、そう言っているように思える。それくらい、男を愛している。そういうことが書いてあるのだと思って、読む。そのとき、私は、きっと女にそんなふうに言わせてみたい、と思っている。いい気なもんだね。
 二連目。

鳥越トンネル
男が野鳥を追って空を飛ぶ
海に沈んでいる貝がひとつ
身じろぎをして
ほっと息を吐く
美しい空気の珠が海面にのぼっていく
ぬるい水が
春が近いことを知らせるから
そのまま空中に上っていく

 ああ、これは何かなあ。よくわからない。春が近づき、男は飛行機で、どこかへ行ってしまったのか。一連目とつづけて読むと、どこかへ行ってしまったけれど、桜の咲くころ、また来てね、と待っていることになる。
 でも、そのあとは?
 「貝」ということばは、そのまま女の比喩になる。もちろん性器の比喩である。だから、ここは女が男とのセックスを思い出していることになるのかな? エクスタシーのときの息がどこまでもどこまでも上っていく。まるで「息」そのものがエクスタシーの瞬間の「わたしく」の比喩であるかのように。
 「美しい空気の珠が海面にのぼっていく」は、それこそ「美しい」一行だ。
 いいなあ、これ、見たいなあ。
 そう思うとき、私は、女をそんなふうにエクスタシーに連れ去りたいと欲望していることになる。いや、女になってエクスタシーに味わいたいと思っている。
 まあ、ここまでは、妄想。妄想という、欲望、本能だね。
 問題は、このあと。三連目。

正しくないことは美しかった
糾弾されることは
何ほどのことでもなかった
ただ

 「正しくないこと」というのは、女と男の関係が、いわゆる「不倫」だったということか。そのときの「美しかった」は? 肉体。官能。「美しさ」は「倫理」を超えているんだね。「倫理」とは無縁の、別の「美しさ」。
 「糾弾」は「倫理的糾弾」だろう。「肉体の愉悦」が「糾弾されている」ことになる。けれど、そんな「糾弾」なんかでは、どんな傷もつかない。「糾弾」を逆に破壊してしまう「美しさ」がある。
 そういうものを感じていた、ということだろう。
 これは「自信」というものかもしれない。「肉体の自信/欲望の自信/本能の自信」。強靱な美しさが、そのまま「こころの美しさ」にもなる。
 ただ……。
 ただ、どうしたのだろう。

花は散る

わたくしをやめたわたくしに
あなたは気づいてくださるでしょうか

 官能の花は美しく咲いて、散る。散った、というべきか。それが「ただ」。つまり、「美しさ」には終りがある、ということ?
 まあ、そんなふうに読めば、そこにありふれた「不倫」のストーリーが浮かび上がるのだけれど。

わたくしをやめたわたくし

 一連目に出てきたことばが、ここでもう一度出てくる。
 このときの「意味」は?
 男と出会い、官能に目覚め、もう以前のわたしくではなくなった。「倫理」を生きる「わたくし」をやめて、欲望の美しさを生きるわたしくになった、ということだろうか。一連目と同じ「意味」だろうか。
 同じなら、なぜ「花は散る」ということばがあるのか。
 「散る」を、自分ではなくなる、「エクスタシー」の比喩ととらえれば、一連目と同じ「意味」になるかもしれない。
 むずかしいなあ。
 単に、昔の女ではなくなった。「あなた」と出会う前の「倫理的な女」であることを「やめた」と単純に読んでいいのか。
 逆に、「あなた」は去って行ったので、もう官能の愉悦を追う「わたくし」であることをやめたのか。「倫理的」に生きる昔へ戻るのか。
 それとも、もっともっと「官能の美しさ」のなかへ生まれ変わるのか。一連目に「何度でも生まれ変わって」とあったが、「官能」に導かれて、さらにさらに「美しくなる」と宣言しているのか。
 「あなた」とセックスしていたときよりも、私はもっともっと美しくなって生まれ変わる。そうなった私に、「あなたは気づいてくださるでしょうか」。

 さて、どう読む?
 私は、いちばん最後に書いたふうに読みたいのである。「ただ//花は散る」という「ためらい傷(?)」のようなことばは、ぱっと捨ててしまって、生まれ変わっている「わたくし」を生きていると読みたい。「ただ//花は散る」という傷は、「美しさ」を引き立てるための「血」だと思いたい。「血」は「美しさ」を引き立てるものである。

残りの半分について―大西美千代詩集
大西美千代
竹林館
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彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

2016-03-23 23:24:50 | 
彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
彼は、光が壁に反射しながら入ってくる路地を音をたてずに歩き、階段のところにいる猫の、やわらかい毛をなでる手を見た。
彼の手は、私の目が、手を見つめることを知っていた。
しかし、私の目のなかで、彼の手と猫の毛が入れ替わるのを知らなかった。
やわらかいのは手の方であり、猫の毛の方が手の感触を楽しんでいる。

私は、彼の言うことを聞かなかった。私とは、語られてしまった彼のことなのだが、と書き換えると、「物語」ということばが廊下を走っていく。ピアノの鍵盤のひとつをたたきつづけたときの音のように。空は夕暮れ独特の青い色をしていた。空のなかにある銀色がすべて消えてしまったときにできる青に。

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
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荒木時彦『要素』

2016-03-23 15:08:38 | 詩集
荒木時彦『要素』(私家版、2016年03月30日発行)

 荒木時彦『要素』は三部から構成されている。基本的に「反復」であり、新しいことは起きない。『ゴドーを待ちながら』と同じである。違う点は『要素』が男を待つのではなく、探しにゆくこと。追いかけること。しかし、出会わない。「ゴドーは来ない」のかわりに「私はたどり着けない」が繰り返される。
 何も起きない繰り返しのなかで、何が動くか。私は「時間が重くなる」と考えている。「時間」がブラックホールのように重くなり、輝きをすべて吸収してしまう。私はこれを「重力の時間」と呼んでいるが、「時間の重力」と読み替えることもできる。ベケットは、何もすることがない人間が「重力の時間」のなかで衝突し、最後の光を発する瞬間を繰り返し再現することによって、それ(重力の時間/時間の重力)が「事実」として存在することを実証して見せた。
 荒木はどうか。
 
私は一人の男を探していた。その男は、街の電柱に、自分で作ったステッカーを貼っていた。そのステッカーは、ダブルダガー(††)に装飾を施したデザインだった。それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。ある日、そのステッカーがすべてはがされ、その日から新たにステッカーが貼られることはなかった。男はこの街から出て行ったらしい。私は休暇を利用してその男の足跡をたどっている。
(略)
男は、移動先で、様々なものをスケッチをしているらしい。
(略)
ここで、二つの仮説を立ててみる 1(男は旅行をしている)2(男は新しいステッカーを作ろうとしている) 男を追っているという点を除けば、私もまた旅行をしているだけだ。

 これが次のように繰り返される。

私は一人の男を探していた。その男は、街のシャッターに、自分で作ったステッカーを貼っていた。そのステッカーは、二つのダガー(†)を斜めに並べたデザインだった。それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。ある日、そのステッカーがすべてはがされ、その日から新たにステッカーが貼られることはなかった。男はこの街から出て行ったらしい。私は休暇を利用してその男の足跡をたどっている。
(略)
男は、訪れた先で必ず写真を撮っていたようだ。
(略)
ここで、二つの仮説を立ててみる 1(男は旅行をしている)2(男は新しいステッカーを作ろうとしている) 男を追っているという点を除けば、私もまた旅行をしているだけだ。

 電柱がシャッターに、並んでいるダガーが斜めに配置されている、スケッチが写真に変わっているが、いなくなった謎の男を追いかけるという構造は変わっていない。運動の基本は逃げる(?)男を追いかけるということである。
 ベケット(『ゴドー』)と同じところはなにか。違うところは何か。
 同じところは、「確からしいものは一つもなかった」だろう。「ゴドーは来るのか、来ないのか」は、「男は何をしているのか、男に追いつけるのか(男を理解できるのか)」という形で反復されている。
 違う点は何か。「意味」「憶測」「仮説」である。記憶は定かではないのだが、ベケットは、『ゴドー』のなかで、そういうことばをつかっていない。言い換えると、『ゴドー』の登場人物は、ゴドーに対して「意味する」「憶測する」「仮説を立てる」という「意識」の運動をしない。特に「意味」を求めない。「意味」の欠如、あるいは「意味」の排除が『ゴドー』であり、「意味の欠如が「時間の重力/重力の時間」の特徴なのである。
 これに対して、荒木は、あくまで「意味」を求める。「何を意味するか」が最初に問われている。「意味」をもとめる仮定で「推測する」「仮設を立てる」という「動詞」が動いている。「意味する/意味を求める/意味をつくる」という動きがなければ「推測」も「仮設」もあらわれてこないだろう。
 「意味」というのは不思議なもので、いつでもつくり出せる。「意味」を「価値」ではなく「論理」と言い直すと、そのことがさらにはっきりする。
 荒木が書いているように、何もないときは「確からしいものは一つもなかった」と「ない」ということさえ、「論理/文章/ことばの運動」として提出することができる。「ない」を「ある」と断定して語ることができるのが「論理」である。

それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。

 これが「論理」の「基本」である。「ない」が「ある」ということに気づいたときから「論理」は「論理」を必要とする。「現実/事実」を離れ、「形而上学」になる。「意味」になる。
 荒木の詩集のタイトルは「要素」だが、「論理」の「要素」は「ない」の発見である。
 何もない。そのとき「論理」はどう動くか。いや、荒木はどう動くか。

二つの仮説を立ててみる

 「仮説」とは「まだ存在しない」。そこにはすでに「ない」が含まれている。「ない」のだけれど「ある」と考えるのが「仮説」である。「仮説」を立てるとは、その「仮説」によって「論理」を生み出すということである。「論理」を「論理」だけの力で自律運動させる。
 で。
 それだけなら、何のおもしろみもないことなのだが。
 荒木は、ちょっと、違う。

二つの仮説を立ててみる

 えっ、なぜ、二つなんだよ。私は、実は、そこで驚いた。前半では、「男はこの街から出て言ったらしい。」と「仮説」は「一つ」しか書かれていない。死んだかもしれないし、隠れているのかもしれない。「仮説」はいくつらでも立てることができる。推測は、いくらでもできる。しかし、荒木の描く「私」の「推測」は「一つ」である。
 「スケッチをしているらしい」「写真を撮っていたようだ」は「推測」であり、「推測」は「仮定/仮説」でもあるのだが、「仮説」ということばがつかわれる前は、それは「ひとつ」である。。
 荒木の描く「私」は、基本的に「一つ」の「推測」にもとづいて行動している。それなのに、なぜか、「推測」ということばではなく「仮説」ということばをつかった瞬間に、それは「一つ」であることを拒み、複数化している。ここに荒木の「思想/肉体」がある。荒木にしか書けない問題がある。「仮説」には「複数」ありうると、荒木は書かずにはいられないのだ。

 「推測」と「仮説」はどこが違うか。「推測」には「他人」が紛れ込んでいる。「私」が目撃したこと以外が含まれている。「スケッチをしているらしい」「写真を撮っていたようだ」は「私」の直接的な体験によって動いていることばではない。その「情報」を「私」は「男の情報」と「推測/判断」しているだけである。
 しかし「仮説」は「私」が個人(一人)で立てている。
 逆に言うと……。
 このときの「私」は「仮説する、ゆえに我あり」という二元論の入り口に立っているということだ。
 したがって、当然のことながら、冒頭の断章のあとに書かれるのは「ストーリー」のように見えるが、実は、「認識」にすぎない。「事実」ではなく、「事実」であると「仮説して/仮定して」、それを報告したものになる。
 ここから「意識の運動」の自律、肉体と精神(意識/ことば)の分離、さらに精神/意識/ことばの重視という「二元論」の問題へと考えを進めていってもいいのかもしれないが。
 そのことを書きはじめると、私はどうしても、こういう「頭の論理/二元論」を否定したい気持ちが強くなって、強引に、ことばをねじまげてしまいそうなので、そういうことは書かずに……。

 この「ここで、二つの仮説を立ててみる」という、突然の、「意識」への方向転換と「二つ」ということばから、またベケットとの対比にもどってみたい。
 ベケットの場合、複数が存在しても、それが同じ行動を繰り返すことで接近し、そこに「繰り返し」そのものが「重力の時間/時間の重力」を発生させ、それがブラックホーののようにすべてをのみこむという運動を展開するのだが、荒木は逆なのだ。
 「ブラックホール」ではなく「ビッグバン」なのだ。
 「一つ」が「複数」に増えていく。増殖していく。「論理/意味」はことばの積み重ねしだいで、どこまでも拡大していく。どこまでも、という「無制限」をいきるものだからこそ、「仮説」ということばの前には、

ここで、二つの仮説を立ててみる

 という具合に「ここで」という「限定」が必要だったのだ。「ここで」の「ここ」を離れた瞬間から、「仮説」に導かれて、ことばは次々に増殖していく。つまり、断章が増えていく。
 ここから、その増殖する断章へと読み進むのではなく、私は逆に、最初の部分を読み返してみる。

確からしいものは一つもなかった。

 ここに「一つ」ということばが出てきている。「一つもない」は、しかし、何もないではない。「無」ではない。不確かなものは「無数」に「ある」ということだ。
 「ない/無」へ向かって考えを動かしているようであって、実は、そうではなかったのだ。最初から「無数」へ向かって動いている。
 荒木の作品は「001」から「009」へと進んでいく。ベケットの作品が「001」から「000」へと、さらには「マイナス」へと進んでゆくのとはまったく逆なのだ。それは最初から、そうなっているのだ。
 だから、この詩集に何か「要素」があるとしたら、その「要素」を「動詞」で語るとしたら、それは「増殖する」ということかなあ、と思うのである。
 「反復/繰り返し」は、何かを「削ぎ落とす」ことではなく、荒木にとっては、それまでとは違ったものを「抱え込む/増やす」ことなのだ。
 したがって、荒木の「時間」というのは「重力の時間/時間の重力」というよりも、「浮力の時間/時間の浮力」なのである。
 もしそうなら、「反復/繰り返し」ではなく、もっと暴走する形の方がたくさん抱え込めそうな気もするが、手当たり次第ではなく、「確かさ」を求める気持ちの方が強いのかな。「確からしいもの/確からしさ」を求めることこそが、荒木を縛っている試行の基本、「要素」ということになるかもしれない。「浮力」ゆえに、それを「確かなもの」として定着させようと欲望するのかもしれない。


memories
荒木 時彦
書肆山田

*

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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