詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」

2022-05-31 16:53:29 | 詩(雑誌・同人誌)

谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)

 2022年05月29日、日本現代詩人会の「日本の詩祭」があった。H氏賞の授賞式などがメインなのだが、谷川俊太郎が先達詩人賞を受賞したので、受賞者を囲んで座談をしようということになった。谷川はズームでの参加だった。秋亜綺羅が「台本」というか、どんな具合に座談を進めていくかというアウトラインをつくったのだが、それにそって動いたのは最初だけ。座談は「なまもの」だから、やはりあっちへいったり、こっちへいったり。私がテキトウにその場での思いつきを言ってしまったからかもしれないが。
 そのとき話したこと、その後の補足を交えて、どんなことを話したかを書いておく。他の参加者の発言は一部をのぞいて省略する。ひとのことばなので、意図どおりに書けるとは思わないからだ。(「補足」というのは、翌30日に谷川に賞状と花束を届けにいって、そのとき少し話したからだ。このときは杉本真維子はいなくて、秋亜綺羅が発行している「ココア共和国」の編集人、佐々木貴子がいた。)

 「鉄腕アトムのラララ」というタイトルは、私が谷川の「鉄腕アトム」では「ラララ」の部分がいちばん好きだ、といったことがきっかけ。谷川は、「鉄腕アトム」は先に曲があり、あとで詩を書いた。ラララの部分はどうしてもことばが思いつかずに、ラララにした、と言った。(これは、この会場で言ったのではなく、私がそう聞いた、ということを説明した。)
 この「ことば」にならない「ラララ」から、詩の「空白」「行間」というテーマに移っていくというのが秋の「戦略(台本)」だった。
 私の考えでは、詩というのは、読者が詩を読むのだけれど、同時に詩が読者を読むということが起きる。ラララは、まさにそういう部分であり、そこにただ存在する音が、私に対して「ラララ」という音が好きでしょ?と語りかけてきて、私は、そうです、と答えている感じ。意味は考えない。ただ音がそこにあって、その音が気持ちがいい。音の快感。これは、「かっぱらっぱかっぱらった」も同じ。「意味」はあるかもしれないけれど、私が感じているのは「意味」ではなくて、ただそこに音がある。その音が楽しいという感じ。谷川の詩によって、私は私の肉体のなかに「音を楽しむ」という感覚があるということを教えられた、そういう性質を見抜かれたと言い直せばいいのか。これが「詩に読まれている感じ」。
 このあと、アトムつながりで「百三歳になったアトム」に移っていく。「魂」ということばとが出てくるので、「魂」とか「こころ」がテーマになるのだが、この魂、こころというのは、私にとってはどうにもわからないものである。谷川の詩には魂もこころも出てくるが出てくるが、私はその存在を考えない。ひとと対話するとき、便宜上、こころとか精神とかはつかうけれど、魂はつかわないし、谷川の書いている「こころ」は「ことば」と読み替えているかもしれない。
 たとえば。朝日新聞に連載した「こころ」の最初の詩「こころ1」。谷川の書いている「こころ」を「ことば」に変えると、詩は、こうかわる。

コトバ
ことば
言葉
kotoba ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのことばは
微妙にゆれる

ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…

言葉は化けもの?

 谷川はどう考えているかわからないが、私には「意味」はまったく同じになる。だから「こころ」とは「ことば」。
 「ことば」とは何かの定義はむずかしいが、ことばがないと考えられないというのが私の考え。(秋も、おなじようなことを言った。)
 秋は「百三歳になったアトム」のなかのピーターパンとアトムとの対話「きみおちんちんないんだって?/それって魂みたいなもの?」を手がかりに「魂(あるいはこころ)」と「肉体」の問題を谷川がどう考えているか引き出したかったみたいだが、私が「こころ」を引用したためにかなり論理の方向がずれてしまった。
 私としては「夕日ってきれいだなあとアトムは思う/だが気持ちはそれ以上どこへも行かない」がとても気になっている。気持ちはどこかへ行かないといけないのか。気持ちはどこへもいかない。気持ちはことばと同じように、いつでもやってくるもの。
 谷川が「それ以上」と書いているのも気になる。「それ以上」って何? 私の考えでは、「それ以上」とは「肉体の限界」というものではないか。気持ちがやってきて、どこへも行かないことで、肉体は肉体になる。(このことは、話せなかった。)
 
 受賞のことばのなかで、谷川は「永遠ではなく無時間の方に関心が移ってきている」というようなことを語った。
 私はこのことばに強く刺戟を受けた。谷川の書いている「宇宙」(感覚)というものは、私にはピンと来ないところがあるのだが、谷川が書こうとしていることが宇宙ではなく無時間だとしたら、とてもよくわかる、と感じたのだ。もちろん、この私の「わかる」というのはいつもの「誤読」なのだろうが。
 そこで私は、「永遠と無時間」に関連づけて、こんなことを語った。
 谷川は、いろいろな作品で赤ん坊になったり少女になったりする。他人になる。これは私には、他人になることで、そこに「無時間」を出現させているのではないのか、と問いかけてみた。そして、谷川のように、つぎつぎに他人のことばがはっきりと聞き取れ、それを再現できるというのは、ある意味で苦しくないだろうか。他人の声が自分の声のように聞こえてしまうは苦しくないだろうか。
 谷川は、あっさり「他人にはならない」と答えた。(翌日、同じようなことを、私は谷川に聞いた。「少女のことばを書くとき、谷川の肉体は少女の肉体になるのではないか。これも、あっさり、「そんなことはない。そうなったらいいけれど」というように答えた。)「無時間」の問題は、私の問いかけが抽象的すぎたためだと思うが、「他人になる/他人にならない」という問題にすりかわってしまった。
 そのとき、すぐには思いつかなかったのだが、私が感じている「人間の肉体」「ことばの肉体」とは、あるいは「無時間」とは次のようなことである。(これは、語ることができなかったことがら。)
 人が道端に倒れている。腹を抱えてうめいている。それを見たとき、私はその肉体が私の肉体ではないのに、「腹が痛いのだ」と感じてしまう。(誤読してしまう。)そういう感覚が私にはある。たぶん、多くの人にもあると思う。
 私は、これを「ことば」にも感じてしまう。あることばを読むと、そのことばの動きを私のことばの肉体か、自分のことばの肉体ではないのに、まるで自分のことばの肉体が動いているように感じてしまう。谷川の少女のことばを読むと、私は私がそういうことばを聞いたことを思い出す。それは私の耳が思い出すと同時に、私のことばの肉体が反応しているのだと思う。私のことばが「少女」になってしまうのだ。その瞬間。私は「少女」だったことはない。けれど、「少女」の「ことばの肉体」にはなれるのだ。それは「想像」というか、「誤読」だから。そのときの「出発点」が「音/声」なのだ。
 この例が、あまりも奇妙なら、こう言い換えてもいい。
 「かっぱらっぱかっぱらった」という音を聞くと、たとえば私は「泥んこ遊び」をしているこどもを思う。泥んこ遊びをしているこどもの「夢中」を思う。おとなは、きたない、汚れる(意味がないどころか、意味の否定)と言うけれど、泥んこになれるというのは楽しい。大人を困らせるというのもおもしろい。単純に、そこで肉体を動かして汚れることを楽しんでいることが楽しい。たとえはよくないが、これはきっと「ことばの肉体」の泥んこ遊びのようなものなのだ。そのときの「よろこび」が私の「ことばの肉体」を包んでしまう。
 私が「ことばの肉体」というときに感じているのは、そういうことである。他人のことば(の肉体)なのに、自分のことば(の肉体)と感じて反応してしまう。「かっぱらっぱかっぱらった」のように、特に音の楽しさをあらわした詩だけではなく、ほかのことばでも「音」があわないと、うまく「ことばの肉体」が動いていかない。

 そういうことがぜんぜん起きない、ということもある。こういう「ことばの肉体」を私は持っていない、と感じることがある。「ことばの肉体」を感じようがないときがある。それは、たとえば谷川のことばで言えば「魂」である。「こころ」は「ことば」と言い直せば、なんとくな重なる感じがするが、「魂」に対応することばを私は持っていないとしかいいようがない。たぶん、私は小さいときに、「魂」とか「こころ」とかいうことばを聞いた記憶がないのだ。父や母、兄弟が「魂」ということばをつかっていたという記憶が私にはまったくない。

 宇宙、あるいは「永遠」ではなく「無時間」。
 このとき、私か思い出したのは、「父の死」のなかの、男が突然やってきた部分。「夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。/先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。/諏訪から来たその男は「まだ電車あるかなあ、もうないかなあ、ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。」
 このときの男と谷川の関係。谷川は男のことを知っているかもしれない。しかし、このとき、私は谷川は、父と男の世界のつながりを知った、と思う。父にとって、その男までが、世界。宇宙(世界)はどこまでも広い、無限なのではなく、いつでも個人が向き合っている何か(対象)までが世界で宇宙なのだ。つまり、宇宙や世界がたとえ「無限/永遠」あるにしろ、それが存在する瞬間には、かならず「輪郭」をもってあらわれる。その「輪郭」が、この場合は、泣きながら帰っていった男なのである。世界の輪郭が瞬間的に見える一瞬。それは、私には、やはり「無時間」のようなものに感じられる。谷川の父、男、谷川が「一体」になって世界を存在させる。谷川の父も、男も、谷川もそれぞれの「時間」をもっているはずだが、その「違い」が消えて、その瞬間に新しい時間(時間の輪郭/世界の輪郭)が出現する。「無時間」は「生まれたばかりの新しい時間」なのだと思う。
 そして、変な言い方になるが。この「新しい時間(世界の輪郭)」は「父の死(父の不在)」によって、鮮烈になるのだ。父が生きている間は、その「輪郭」は父によって隠されていた。父が不在になることが、父の姿(肉体)が隠していたものが、ふいに目の前にあらわれてきたのだと思う。
 これに類似したこと(?)を、実は、私は体験している。父が死んだ後、姉が「死ぬ前に、家の前に立って碁石が峰をじっと見ていた」と言った。碁石が峰というのは、私の古里のいちばん高い山である。そのことばを聞いた後、私は碁石が峰を見た。それはいままで見たこともない碁石が峰だった。あ、これまで、この碁石が峰を父は隠していたのだ、感じたのだ。
 谷川が、泣きながら帰った男を見ながら、それが谷川の父が隠していた世界だったとは思わなかったかもしれない。しかし、何人もの弔問客のなかからわざわざ、その男のことを書いているのは、何かが見えたからだろう。宇宙の永遠ではなく、「世界の輪郭」が見えたからだろうと思う。
 この「生まれたばかりの新しい時間」を谷川のことばは、いつでもくっきりと描き出す。
 そして、このときも「音」がとても重要だ。「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」「まだ電車あるかなあ、もうないかなあ、ぼくもう帰る」。ここには一回限りの「音」がある。「意味」なら何度でも再現できる。しかし、そのときの「音」は消えてしまう。消えてしまうけれど、それはやはり「音」なのだ。
 (私の父のこと、碁石が峰のことは、谷川の家で話したこと。)

 ことばと音について。
 ことばと音が話題になったとき、私は、かつて見た詩のボクシングを思い出した。谷川とねじめ正一。最終ラウンドの即興詩。谷川に与えられたテーマは「ラジオ」。谷川は、ラジオは音と定義し、きょうここでみんなが聞いたのも音。音は消えてしまう。けれど聞いた記憶は残る。そのことを観戦者は、家に持って帰ってほしい、というようなことを詩にしたと思う。「記憶」の指し示すものは「意味」だったかもしれない。しかし「意味以上のもの」だったと私は感じている。音(声)が生まれてくるとき、声(ことば)の背後には何かが動いている。それもいっしょに持って帰ってほしい。
 そういうことを考えると、谷川の詩のおもしろさがもっとわかりやすくなる。バスのなか、あるいはマックの店内。そこで少女たちが話している。そのことばを聞く。そして「意味」を理解する。あとから私が思い出すのは「意味」である。しかし、谷川は「意味」だけではなく、音をそのまま覚えていて、それを再現できる。「音の記憶力」というか、「耳」が超人的にいいのだと思う。
 そいういう話を谷川の家でしたとき、谷川は、音楽が好きで小さいときから音楽を聴いてきたからかもしれないと言った。そして、「耳はまだ丈夫だ。補聴器もしていない(必要がない)」とも言った。谷川は、私の印象では、何よりも「耳の詩人」ということになる。

 (ほかにもいろいろなことを話し合ったのだが、私の感じたこと、思い出したことだけ書いてみた。)

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「かきまぜる」

2022-05-26 14:15:31 | 考える日記

 捨てようとしたノートから、紙がこぼれてきた。こんなことが書いてあった。
 ひとつの新しいことばが加わることで、それまでのことばの意味づけ(価値)が変わってくる。そういう運動をひきおこすのが詩のことばである。
 たとえば「かきまぜる」という動詞。
 エリオットの詩のなかにあっても、日常の会話のなかにあっても「意味」は同じだ。
 だが「荒れ地」のなかでは特別な意味を持つ。それは「生と死」を「かきまぜる」。反対のものをかきまぜる。「異質なもの」を超えて、反対のものをかきまぜる。
 だから驚く。詩を感じる。

 ことばには一定の結びつきがある。水と小麦粉をかきまぜる。水と油をかきまぜる。これは「異質なもの」をかきまぜる。かきまぜるには、「異質」であることを無視してしまう乱暴さ(暴力)がある。
 ここまでは、これまでの「ことば」が体験してきたことである。それは「ことばの肉体」になっている。「無意識の文体」と言っていいかもしれない。
 エリオットのことばは、この「文体」を破ったのだ。
 ことばがそれまで結びつけてこなかったものを結びつけ、新しい世界をつくったのだ。いや、つくったといってはいけないのかもしれない。つくろうとしている。その動き(進行形)のなかに、詩がある。

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山本博道『夜のバザール』

2022-05-26 11:27:31 | 詩集

山本博道『夜のバザール』(思潮社、2022年05月31日発行)

 山本博道『夜のバザール』を読みながら、私は困惑した。山本はいろいろな土地を訪ね歩いている。「カンボジア、タイ、ベトナム、ミャンマー、バングラデシュ……」と帯に書いてある。しかし、私には、その違いがわからない。山本の詩を読んでも、どこが違うのかわからない。違いではなく、共通するものを描こうととしているのかもしれないが、違いがわからなければ共通も浮かび上がらないように思う。違っている、けれど、なにか通じるものがあるというように「認識」は進んでいくと私は考えているが、どうも先に「共通」があり、それを「個別」のなかに展開しているような気がする。「共通」にあてはまる「個別」を選びながら、ことばが動いている感じがする。窮屈なのだ。
 そうした印象の中で、次の数行は、「個別」という感じがした。

戦争博物館には
ほかにも拷問の絵や捕虜たちの写真が
不発弾などといっしょに展示されていた
棚に並んだ青いガラスの一升瓶を見ていると
ぼくの家にもあった空き瓶が重なり
いつもおどおどしていた母と
軍隊帰りの酒乱の父が思いだされた                 (死の鉄道)

 ほんとうに「一升瓶」なのか、一升瓶に見える瓶なのか。どちらでもいいと思うが、そこから山本は「ぼくの家」に引き返し、「母」と「父」を呼び出してきている。さらに父の行動に「戦争」の影響を見ている。ここは、山本にしか書けない行である。
 このことばの展開の中で、山本は「重なる」という動詞をつかっている。一升瓶と一升瓶が重なり、そして、そのまわりにあるものが同時に重なる。重なりは広がっていく。この動きのなかに、山本という人間がいる。
 こういう「重なり」と「広がり」の組み合わせがあれば、この詩集はもっと豊かになるのになあ、と思ってしまうのだ。
 山本は「思いだす」という動詞もつかっている。「思い出す」は山本が過去へ行くことではない。過去をいまとして、ここに呼び出すことだ。過去は存在しない。いつでも、「思い出す」という「いま」の行為があるだけなのだ。
 どれだけ「過去」を「いま」、この瞬間に呼び出すことができる。呼び出された「過去」には「時間」はあって「時間」はない。ただ「いま」だけがある。「いま」から「未来」へ動いていくものだけがある。
 次の部分は、さらにいい。

よれよれの十タカ紙幣三枚と
突っ返されるのを半ば覚悟で
ババ抜きのババのような
破れた五タカ札をチップで出した
若い男はいいともいやだとも言わなかった            (パナムノゴル)

 「若い男はいいともいやだとも言わなかった」とは、それでよかったのかどうか、山本にはわからなかったということだろう。「いま」起きていることがわからない。ここに詩がある。ひっぱりだしてくる「過去」がない。「いま」を生きるしかない。そして、その瞬間に、「他人」がいる。
 山本は、ここでは「他人」と出会っている。
 さらに、こういう行もある。

アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤で
ジャングルは焼け野原になった
その後遺症がいまだにつづいているという
眼球が飛び出た嬰児を見つめている少女に
ぼくは彼女が背負っているベトナムを
説明できないまま強く感じた                    (夏の一日)

 「説明できないまま」が、いい。ここでは「過去」は明らかである。「アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤」が「過去」である。それは「いま」も影響として、「過去」から噴出してくる。「眼球が飛び出た嬰児」だけが「過去」ではない。それを「見つめている少女」こそが「過去」なのだ。嬰児は死んでいる。ところが、それを「見つめている少女/見つめた少女」は死んでいない。いや、その嬰児を生んだ少女(女)は、もうこの世にいないかもしれない。しかし、その「記憶」はことばにならないまま生き残っており、それがいま「少女」のなかで動いている。
 山本は、その「動いている何か」を感じている。感じるけれど説明できずにいる。ここに、不思議な正直がある。山本は少女ではない。でも、この瞬間少女になっている。

 ここからである。
 いま、少女になっているように、山本は「酒乱の父」「おどおどしていた母」、あるいは「破れた五タカ札をチップを受け取る若い男」に、なれるか。なる覚悟があるか。その「覚悟」をもってことばが動くならば、この詩集は傑作になったと思う。
 「過去」を批判しなければならないという「良識」が先に立って、「覚悟」があとから少しだけついてきている、という印象が強く残る。「良識」がとらえた「歴史」ではなく、「覚悟」が駆け抜ける生々しい矛盾を、私は感じたい。
 父や母のなかにある「わからないもの」「説明できないもの」を山本が引き継ぎ、その「わからないもの」「説明できないもの」を、様々な土地、様々な人との出会いのなかに「重ね」、そこから「記録」ではないものの方へ踏み出していけるはずなのになあ、と思うのである。

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「戦争」と物価

2022-05-25 10:04:46 | 考える日記

 2022年05月24日の読売新聞(西部版・14版)の「いまを語る」は、東大教授・渡辺努のインタビュー。「物価上昇 乗り切る知恵/親、祖父母の経験 若者に伝えて」という見出しがついている。
 ロシアのウクライナ侵攻に関連して、物価上昇がつづいていることに対する対処方法を語ったものである。
 そのなかで、非常に気になる部分があった。
↓↓↓↓↓
 日本の物価が上がりにくい一因に、労働者の賃金が上がっていない点があります。米国は労働者の賃金も急上昇しているので、企業側も原材料費の急騰を受けて商品を大幅値上げしていますが、日本は十分に賃上げしていません。消費者が買い控える可能性があり、企業は原材料費の上昇分すべてを商品価格に転嫁できないのです。
↑↑↑↑↑
 これだけ読むと、日本の物価が上昇していないように見えるが、実際は上がっている。原材料費の上昇分「すべて」を商品価格に転嫁しているかどうかはしらないが、随分転嫁されている。なかには原材料費の上昇分を上回る金額が転嫁されているかもしれない。
 このあと、渡辺は、さらに、こういっている。
↓↓↓↓↓
 日本の物価上昇は緩やかで、今後も消費者物価指数は2%程度プラスアルファで推移するとみられています。今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えたので、中小企業への波及も期待されていますが、賃上げ以上の物価高が続けば、景気がふるわなくなるでしょう。
↑↑↑↑↑
 渡辺の「見通し」が当たるかどうかはこれからわかることだが、私が注目したのは「今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えた」という部分である。これはトヨタが早々と満額回答をしたときに書いたことだが、なぜ、「今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えた」かということだ。
 ロシアのウクライナ侵攻はすでにはじまっていた。世界の状況が不安定になることは誰にでも予測できた。こういうとき、ひとは、ふつうは何をするか。金を使わない。これから起きることに対して備えようとする。私が会社の経営者なら、「賃上げ」などしない。製品が売れるとはかぎらないし、源材料費の価格がどうなるかわからないからだ。コロナだって、まだ終息するかどうか、だれにもわからなかった。(今だって終息したとはいえない。)
 では、なぜ、賃上げをしたのか。
 理由は(そのときも書いたが)簡単である。物価が上がることが「大企業」にはわかりきっていたのだ。政府からの「レクチャー」もあったかもしれない。戦争の影響で物価はどんどん上がる。賃金を上げておかないと、「物価が上がっている。こんな賃金では暮らせないという声が労働組合から噴出する。そうなると社会が混乱する」と考えたのだろう。
 いま物価がどんどん上がっている。それなのに「賃金を上げろ」という要求がどこの労働組合からも出て来ていない。(私が知らないだけなのかもしれないが、新聞にはそういう報道がない。)「すでに春闘で賃金を上げている。いま、さらに賃上げをする余裕はない」という「説得」を資本家側が先取りしているのかもしれない。わたしは、きっと、そうだと思う。そういう論理を展開するために、大企業は春闘で賃上げを実施したのである。
 渡辺は暢気に賃上げが「中小企業への波及も期待されています」と話しているが、いったい「いつ」波及するのか。もう春闘は終わっているだろう。来年の春闘のことを言っているのか。それまで、大企業の従業員ではないひとは、どうやって暮らせというのだ。
↓↓↓↓↓
 「インフレが長く続くわけではないので、貯金を取り崩して対応した」「分散投資した」「あわてて株やモノを買って損した」といった経験が共有されれば、20、30代もうまくインフレを乗り切れるでしょう。戦争を体験した世代が戦争の語り部になったように、インフレを体験した世代はその体験を伝承すると、喜ばれると思います。
↑↑↑↑↑
 いろいろ提案しているが、「分散投資した」「あわてて株やモノを買って損した」というのは「金持ち」のしたことであって、きょう、あすの生活に苦しんでいるひとは、そんなことはできない。「貯金を取り崩して対応した」というのも余裕があるひと。取り崩したくても取り崩す貯金がないひとはどうすればいいのか。
 ただ、黙って、がまんしろ、ということだろう。
 「ほしがりません、勝つまでは」という古い古いスローガンが、どこからとも聞こえてくると感じるのは私だけだろうか。

 連合は労働者の意見を政府にぶつけるというよりも、いまは政府にすり寄っている。それは、私には「物価上昇することを自分にレクチャーしてくれてありがとう。おかげで、連合の母体である大企業は春闘で賃上げし、従業員はその後の物価高にも対応できている。これからも、どれだけ賃上げすれば物価高を乗り切れるか、価格転嫁はどこまでできるかを教えてちょうだい」と言っているように見える。
 参院選は、もうすぐだ。
 ほんとうに労働者のことを考えるなら、連合が主体になって消費税引き下げを提言したらどうなのか。消費税引き下げを野党の統一要求にし、連携するということを提案したらどうなのか。
 いまの連合は、そういうことは絶対にしない。大企業以外の労働者のことなど、気にしていない。資本家と、大企業の従業員さえ満足なら、他は気にしない。貧乏人のめんどうなんかみない。「自己責任だ」というだけだろう。
 それにしても。
 物価上昇にともなう消費税の増収はどれくらいになるのだろうか。岸田はバイデンに防衛費の増額を約束したが、財源は? きっと、物価高で増収になった消費税を防衛費にまわすのだろう。「防衛こそが最大の社会保障、軍備なくして社会保障はない」というに違いない。
 ロシアのウクライナ侵攻からはじまった「戦争」はいろいろなところに影響を及ぼしている。大勢のひとが苦しんでいる。一方で、それをきっかけに大儲けしているひとたちもいる。アメリカの軍需産業と、アメリカの石油(燃料)産業がその代表だろう。彼らは「物価高」のことなんかぜんぜん気にしないだろう。物価が上がればあがるだけ、利益があがるのだ。
 若者に伝えなければならないのは、「親、祖父母」の「我慢体験」ではない。政府(政治)に対して、どういう働きかけをしていくか。こういう状況を産み出している政治に対して何をすべきかという提言だろう。

 読売新聞に寄稿している学者のことばは、とてもうさんくさい。「物価上昇 乗り切る知恵」というインタビュー記事は、簡単に言い直せば、「知恵を出して物価上昇を乗り切るのが国民の仕事だ」と言っている。国(政府)のすべきことについては何も言っていない。これは、「政府が間違っているのではない。政府に間違いはない。困難な状況のときは、国民が力を合わせて政府に協力すべきだ」と言っているだけなのだ。政府の宣伝は言っていないが、不満を言わないことは、政府を肯定することなのだ。東大教授は、きっと大企業の従業員のように生活が保障されているから、「えっ、カップラーメンが値上がりしたの?」という会話などしないのだろう。

 

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バイデンの強欲主義的想像力

2022-05-24 10:11:24 | 考える日記

バイデンの強欲主義的想像力

 2022年05月24日の「日米首脳会談」を伝える読売新聞(西部版・14版)の一面の見出し。

①首相「防衛費 相当な増額」/対中国 同盟の抑止力強化
②バイデン氏「台湾有事に軍事介入」

 記事は①②の順序だが、これはウクライナ情勢を受けての「緊急首脳会談」だとすれば、どう見ても書き方が逆だろう。つまり、「真意」を隠した報道の仕方だろう。
 アメリカは、ウクライナへのロシア侵攻を誘発し、その後、ロシア封じ対策で世界をリードした。その結果、アメリカの軍需産業は利益を拡大し、アメリカの化石燃料産業もぼろもうけをしている。資源大国のアメリカは農産物(穀物)でも大幅な利益を上げるだろう。
 次は、すでに経済大国になっている中国をどう封じ込めるか。中国に、台湾を攻撃させ(中国軍を台湾に侵攻させ)、それを契機に中国を批判し、中国を孤立させるということだろう。
 だが、この思惑は、アメリカの思い通りにはいかないだろう。ロシア対ウクライナの関係と、中国対台湾の関係は、「同じ構造」ではない。アメリカは「同じ構造」にしたがっているが、まったく違う。
 アメリカが「台湾」を「独立国」としてあつかい始めたのはトランプのときからだと記憶しているが、それまでは「中国はひとつ」という中国側の認識を受け入れていた。(日本は、いまでも台湾を「国」とは呼んでいない。)この「方針転換」は、台湾と中国の関係を、ウクライナとロシアの関係と「同じ構造」にするための第一歩だが、絶対に同じ構造にならない。
 なぜなら、台湾と中国は、同じ中国語をつかっているからだ。同じ文化を生きている。もちろん大陸出身者と、ずーっと台湾で生活していた人との違いはある。しかし、ある地域では「北京語」を話し、ある地域では「台北語」を話し、「北京語」を話す住民は「台北語」を話す住民から迫害されているということもない。
 香港がそうであったように、「経済政策」が引き起こす「差異」はあっても、文化的アイデンティティ、人間の根源的アイデンティティーは共通しているから、そこには「人間の対立/尊厳の対立」というものは起こり得ない。
 これはベルリンの壁崩壊後のドイツを見れば、もっと簡単にわかるかもしれない。ドイツはあっと言う間に「東西の対立」を解消し、融和した。もちろん、まだ問題が残っているかもしれないが、なんといっても「東ドイツ」にいたメルケルが首相になったことでもわかる。「経済体制」というようなものは「人為的制度」であって、「人間の対立/アイデンティティーの対立」とは関係がないのだ。
 これは、さらに冷戦崩壊後の「東側の国々」の状況を見れば、さらによくわかる。多くの国が「アメリカ資本主義」を受け入れ「自由化」したが、その結果何が起きたかというと、「ひとつの国」に統一されるのではなく、いままで「ひとつ」だった国が、いくつにもわかれるということが起きた。「民族のアイデンティティー(それを支えることばのアイデンティティー)」にもとづいて、それぞれの「国」が次々に誕生した。文化的アイデンティティー(人間の尊厳)は資本主義の統一を内部から突き崩す。資本主義は個人の多様化を受け入れながら変化していかなければならない段階なのだが、いまのアメリカ資本主義にとって、これは最大の不安なのだろう。自分の利益が、ロシアに、あるいは中国に奪われてしまう。だから、奪われないようにするために、戦争を引き起し、ロシア、中国を批判する、その「批判力」を「資本主義維持(自分の金儲け維持)」のために利用したいのだろう。
 
 だんだん書いていることが拡大してしまうが。

 元に戻すと、中国と台湾で起きている問題(それがあると仮定して)は、ウクライナで起きた問題とは関係がない。台湾の人々は、ことば(文化)的迫害を中国からは受けていない。同じ「漢字文化」を生きている。「ことば」の迫害を受けたということは聞かない。「経済体制」の違いはあるかもしれないが、経済交流はある。
 こういう状況では、人間同士の戦い、憎み合いというものは基本的に起きない。納得するかどうかはわからないが、相手の言っていることが「理解」できる。互いに理解しあうことが簡単だからである。
 戦争が起きるとしたら、それは「人間のアイデンティティー」を越えた要素によって、人為的に引き起こされるしかない。
 アメリカは、それをしようとしている。
 ありもしない「対立」をむりやりつくりだし、戦争を起こそうとしている。台湾をアメリカ軍の支配下に起き、中国にアメリカ軍を攻撃させ、それを台湾への攻撃と見なし、中国に反撃する、という「作戦」を実行しようとしている。そして、これに日本を参戦させようとしている。
 なぜか。
 繰り返しになるが、「戦争」は拡大すればするほど、軍需産業がもうかるからだ。「戦場」がアメリカではないだけに、「戦争」の拡大はアメリカにとっては利益にこそなれ、損失にはならない。岸田は、アメリカの要求にあわせて「防衛費を増額する」と明言している。
 こんなことをすれば、いま朝鮮半島で起きている不幸が、より激烈な形で中国と台湾の間に定着することになる。アメリカの軍事支配(日本の加担)によって、中国と台湾が対立したまま、民族の融和が不可能になる。もし、民族融和(中国の統一)があるとすれば、それは「台湾」が「中国」を支配してしまう形しかない。アメリカ資本主義が「台湾」を足場にして、「中国」を乗っ取るという形しかない。
 そんなことをする「権利」がアメリカにあるのか。
 もし、アメリカが台湾を起点にして、中国を「アメリカ資本主義」の支配下におさめたとして、そのときチベットやウイグルで起きている問題は、どうなるか。

 バイデンも岸田も、人間(個人)のことなど、なにも考えていない。アメリカの軍需産業がどうすればもうかるか。アメリカの軍需産業がもうかることで、自分の懐にいくら金が転がり込んでくるかしか考えていない。アメリカ資本主義は、金持ちが金持ちになることだけのために維持されているシステムなのだ。それに支配されたくないという自覚をもった国(政府)がいくつもある。だからこそ、アメリカのロシア制裁に同調しないのだ。いくつもの政府は、アメリカ資本主義に、自分たちのアイデンティティーが壊されてしまうことを懸念している。多様化を許さないアメリカ資本主義に対して、疑念を持っている。

 資本主義の最大の「敵」は「多様性」である。資本主義は「合理主義」だが、「合理主義」とは簡単に言い直せば「多様性」を否定し「単純化(規格化)」するときに効力を発揮する。逆に言えば、「多様化」が無限に拡大すれば「資本主義を完成させるための戦争」というのは不可能になる。「私はその戦争に与しない」という人が増える。「戦い」というものがあるとしても、それは「個人対個人」に限定され、「国」が入り込む余地はない。

 それにしても。
 バイデンのことばの「軽さ」に驚いてしまう。 
↓↓↓↓↓
 米国のバイデン大統領は23日、日米首脳会談後の共同記者会見で、中国が台湾に侵攻した場合、米国として軍事介入する考えを明らかにした。
 会見で記者から「台湾を守るため軍事的に関与する意思があるか」と問われたのに対し、「イエス。それが我々の責任だ」と答えた。
↑↑↑↑↑ 
 記者の質問に、簡単に答えている。この質問をしたのが、たとえば、習近平だったとしたらどうなるのか。そのまま戦争に突入してしまうだろう。バイデンは質問の意味を理解していない。単に記者が質問しているから記者に対して答えただけなのだ。「世界」に向かって答えていない。習近平も聞くかもしれないと考える「能力(想像力)」がない。
↓↓↓↓↓
「武力で制圧できるという考え方は不適切で、地域全体を混乱させるものだ」とも強調した。
↑↑↑↑↑
 これは、では、仮に中国が台湾に武力侵攻したと仮定したとして、その中国をアメリカの武力で制圧するという考え方は適切なのか、という問題を含む。どうしたって、「反撃」は「攻撃の補給路」をたたなくてはいけない。中国への攻撃になってしまう。それは中国を武力で制圧するということだろう。
 「武力で守る」とは「武力で反撃する」であり、「武力で敵を制圧する」ということであり、それは「地域全体を混乱させる」。
 バイデンは、彼の頭の中にある「アメリカの世界戦略がうまくいかない(自分の金儲けがうつくいかない)」ことを「混乱」と言っているにすぎない。なぜ、アジアがアメリカの世界戦略にしたがわなければならないのか。

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Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」

2022-05-22 11:25:10 | 考える日記

Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」(出版社、発行日不詳)

 Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」には「スペイン語読書の教科書(libro de lectura para estudiante de espanol )」と書いてある。 
 この本を読みながら思ったことは、ひとつ。私たち(といっていいのか、私と言うべきなのかわからないが)日本人の「国家」に対する意識は、多くの国の国民が持っている「国家」の意識とはぜんぜん違うのではないか、ということである。
 ことばひとつをとってもみてもそうである。私はあるひとと話していて「おまえはカステジャーノ(いわゆるエスパニョール、スペイン語だろうか)を話すのかカタラン(カタルーニャ語)を話すのか」と聞かれて、「そんなことを聞かれても、区別がつかない」と困ってしまったことがある。日本人は、だれか外国人に向かってに「おまえは日本語を話すのか、それとも〇〇語(たとえばアイヌ語)を話すのか」と聞くことはない。「ことば(公用語)」はひとつと信じて疑わない。
 でも、スペインには17の自治州(?)がある。そして、それぞれの自治州が「公用語」を決めている。バスク語は明らかに違うが、ほかのことばは、私のような初心者には区別がつかない。マドリッドでは「ブエノス・ディアス」と言っていたが、バレンシアやその周辺では「ブエン・ディア」というあいさつをよく耳にした。そのことをマドリッドの友人に話したら「おれは絶対にブエン・ディアとは言わない」と言った。「ことば」が違うのだ。そして、それぞれが自分の育った場所でつかっている「ことば」に対して誇りを持っている。
 これは何もスペインにかぎらないだろう。たとえば、ショーン・コネリーは「スコットランド訛り」を絶対になおさなかったと言われる。(私は、聞いて、識別できるわけではない。)きっと彼にとっては、それは「訛り」ではなく「スコットランド語(国語)」だったのだ。フランスにしたって、「公用語」は「フランス語」だが、その他の「ことば」も様々な場所で話されている。そのことばは、その人たちにとって「母語」である。

 そして、「ことば」が違えば、当然のことだけれど、そこから「アイデンティティ」の問題が派生し、そのために「独立運動」という問題が起きる。バルセロナがあるカタルーニャやサンセバスチャンがあるバスクが独立を要求するのは当然だろう。バスクは、スペインとフランスに跨がっているから、彼らが「スペイン人」と名乗るときは、私たちが「日本人」と名乗るときとは、きっと違った「意味合い」があるはずだ。(スコットランドにも独立の動きがある。)
 スペイン人やイギリス人にとっては、「国家」は最初から存在する「ひとつの組織」ではなく、何らかの「条約(合意)」にもとづく「集合体」なのだろう。それはアメリカ合衆国についても言える。「アメリカ」という国とは別に、それぞれの「衆(州?)」が独立して存在する。アメリカでは堕胎が衆によっては禁じられているし、衆によって堕胎ができる「期間」も違っている。それぞれの衆が「法律」を持っている。こういうことは、日本以外では「常識」かもしれない。
 で、ここから思うのだ。
 いま、ロシアのウクライナ侵攻が問題になっている。このとき、日本のジャーナリズムは、ウクライナは日本のように「ひとつの国」と見ているが、ほんとうにそうなのだろうか。私はウクライナのことを知らないから、何とも言えないが、かなり疑問に思うのである。プーチンの主張が正しいというわけではないが、プーチンはロシア国境に近いウクライナ東部(ドンバス)でロシア系の住民(ロシア語を話す人)が虐殺されている、それを守るために侵攻したと言った。ウクライナには「アゾフ大隊」という組織があるから、何らかの対立があったことは確かだろうと思う。ウクライナは、日本人が考えるような「単一民族」の「国」ではないのだろう。世界には「単一民族」で構成された「国」は少ないだろう。(日本も、単一民族の国ではない。)
 ついでに書けば。ウクライナの隣国のモルドバ。その国の「母語」はモルドバ語。ルーマニア語に似ているといわれているけれど、実際、モルドバの公用語はルーマニア語のようだけれど……。でも、ある地域では、モルドバ語が「公用語」として認められているとも。
 こういうことを無視して「敵国」という概念を持ち出し、「防衛」のために軍事力を増強する必要があるというような議論(改憲の動き)は、何か、根本的に間違っていると私は感じる。「国」というのは、何らかの「合意」にもとづいてつくりだされた「ひとつの組織」であり、そこでは「その組織を運営する人」の利益が優先されるのであって、それぞれの生活の場で生きている人の事情は無視される。(だから、独立しよう、という動きも生まれる。)
 「国」を持ち出してきて、「戦争」を語ることの危険性を、私は強く感じる。「戦争」を引き起こすのは、「国」であって、住民ではない。「国」という概念から離れて「戦争」を考えないといけない、と思う。
 
 そして。

 ここからとんでもなく「飛躍」して考えるのだが。
 「国」というものが、実際に、その土地,その土地で生きている人間とは関係なく、別の概念として作り上げられたもの(人工的なもの)であるなら、いまヨーロッパで起きているNATOの拡大は、NATOという「国」をつくろうとする試みなのではないのか。NATOを「軍事同盟」ではなく「ひとつの国」にするための「概念」がNATOなのではないのか。もちろん、これは「アメリカ」の「拡大」である。「アメリカ合衆国」ではなく「NATO合衆国」というアメリカの世界戦略なのではないのか。
 その「NATO合衆国」というのは、いったい、何のための組織なのか。「軍事産業」が利益を上げるための組織ではないのか。「国の安全」という名目を掲げ、軍事資本主義を押し進めるための組織ではないのか。少なくとも「NATO」はそれぞれの地域で生きている文化を守るための組織ではない。少数のひとの言語、文化を守るためには「軍事」とはべつの支援が必要なのだ。

 ここから、逆戻りする。
 この本では、タイトルが示しているようにスペインの「多文化性」が語られる。「ことば(公用語)」がいくつもあるように(たしか、四つ)、スペインではいくつもの文化が共存している。宗教的に言っても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が共存しているし、その文化が生きている。いまは、世界の様々な地域から「移民」が増えている。スペイン全人口の10%を超える人が「移民」である。スペインにかぎらず、フランスでも「移民」が多い。世界は、「国」の内部で「多国籍化/多文化化」が進んでいる。世界の進むべき方向は「国」を「単一文化」に閉じこめるのではなく「多文化化」へと開いていかないといけない。「単一文化」が「軍事で国を守る」という概念であっては困る。
 プーチンが間違っているのは、ここなのだ。
 ウクライナの東部で、ロシア系の住民(ロシア語を話す住民)が迫害を受けている。「アゾフ大隊」がナチスのように振る舞っている。その暴力からロシア系住民(ロシア語を話す住民)を守るために武力侵攻するという方法が間違っている。それは単にウクライナ東部を「ロシア」にしてしうまうこと、ロシア以外の文化(ロシア語以外のことば)を追放することである。それは「ことばの単一化」(ことばの押しつけ)である。実際、ロシアが支配するようになった地域では教育はロシア語でおこなう方針という。これでは意味がない。「ことば(文化)」の共存、多言語化をプーチンは提唱できなかった。
 「文化戦略」ができなかった、ということである。

 この問題は、いつでも、どこでも起きる。実際に起きている。中国で起きている「人権侵害」も、簡単にいってしまえば、その土地で話すことば、その土地で育まれてきた文化を否定しているところに問題がある。アイデンティティの否定である。
 これは、これからの日本で起きることでもある。日本は、もう外国人を受け入れないことには存在し得ない。中国へ出稼ぎに行く、というのも生き残りの方法だけれど、それは若い人ができることであって、これから死んでいく人間にはできない。様々な文化(ことば)をもった人がやってくる。そういうひと、文化とどう共存していくか。このことを考えるとき、スペインやフランスの「多文化化」の動き(肯定の動き)は明確な指針になる。「国」は「多文化化」へ向けて開かれていかなければならない。

 

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Vicente Barbera Albalat「MPERMANENCIA」(facebook)

2022-05-21 09:20:11 | 詩(雑誌・同人誌)

フェイスブックのVicente Barbera Albalatのページで「MPERMANENCIA」を読んだ。

「MPERMANENCIA」

Todo y nada al mismo tiempo.

Quisiera contestar a tus preguntas
y poder para siempre convencerte 
de que resulta inútil pretender
vivir en este mundo sin morir.

Se muere cada día poco a poco,
si bailas, si paseas, si estás triste.
Se muere sin quererlo, en cada instante,
pero también se vive si disfrutas

de un tierno amanecer cada mañana.
La inextricable impermanencia de
las cosas y la vida son momentos.

Recrea los segundos del  presente.
Considera el amor y el desengaño
como el todo y la nada al mismo tiempo.

(De "Cuaderno de soledades", Olélibros, 2021)

「色即是空」ということばを思い出した。
「Todo y nada」は直訳すれば「すべてと無」ということになるのだろうけれど。
私はそれを「存在(現実)と無」と「意訳/誤訳」したい。
「存在と無は同時である」。
この場合、重要なのは「同時(時間)」である。
そして私はさらに「時間の中では、存在も無も同じものである」と考える。
言い直せば、世界に存在するのは「時間」だけである。
充実した時間と、空虚な時間がある。
充実した時間の中では、「色即是空」。
このことばは、「無常」の代名詞のようにしてつかわれるが、私はむしろ「非情」の絶対性を語ることばと理解している。

もちろん、私の理解は「誤読」である。

そう承知した上で、私は、書くのである。
Vicente Barbera Albalatのこの詩は、私たちがなじんでいる「色即是空」に通じる精神をもっている、と。

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笠井杢「四丁目公園」

2022-05-21 08:38:08 | 詩(雑誌・同人誌)

笠井杢「四丁目公園」(「アンエディテッド」4、2022年05月31日発行)

 笠井杢「四丁目公園」。

飛行機雲には
空を切り裂いていくのと空を閉じていくのがあって
このジャンボジェットも
遠い空にどちらかを残して
いまは街に腹を晒している

寝っころがれないベンチの
仕切りの向こうに缶コーヒーを置いて
離れてパンをかじる人の安全性を確認しながら
わたしも誰かに見られている

 この「わたしも誰かに見られている」。これは、ちょっといやだなあ。こんな詩を読みたくないなあ、と思う。誰もあなたを見ていない。見たとしても、単に「見た」だけであって、それが意味になること、つまり見た人を変えてしまうことなどない。だれも人のことなど気にしない。それぞれが自分の意味を生きているだけ。
 と言いたくなるのだが。
 この詩の場合は、そうでもない。ふーん、と思ってしまう。
 なぜか。
 一連目のジャンボジェット機の描写が効果的なのだ。

いまは街に腹を晒している

 機体の「腹」が見える。「腹」というのは「無防備」な部分である。ふつうは、さらけださない。さらすことはない。その無防備な「腹」を見たということが、「わたし」に響いてきている。
 それは、こんなふうに考えるとわかりやすい。
 「わたしも誰かに見られている」といっても、それは「腹を晒す/曝す」ような見られ方ではない。「わたしは、だれかに腹を曝したわけではない」。(「腹の内は隠したままだ。」)
 だからこそ、うさんくさいとも言えるのだが、この微妙な揺れ動きが、一瞬のこころの動きをあらわしていて、「嘘/意味」にまでなっていない。そこが、おもしろい。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(18)

2022-05-20 08:35:06 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(18)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 18篇目「夢か、」。
 この詩は不思議な「構成」。「夢か、」という行を冒頭にして、五連でできている。一、二、四、五連目には「父」ということばがある。ただし、四連目の「父」は林芙美子の父であって、石毛の父ではない。だから、ほかの連の父だって、石毛の父ではないのかもしれないが。
 一方、三連目には、そこに書かれている人物が詩人・黒田三郎であると後注で明記されている。「口惜しさのあまり、火の玉を、威勢よく吐き出していた」ような黒田は、石毛にとって父のような存在だったのか、と私はなんとなく思うのである。意識せずにはいられなかった、ということだけは確かである。
 では、父とは、どういう存在なのか。

下総台地のふもとを、汽車が走っている。
それに乗って、水郷佐原を廻れば、
----黙っていてもヨ、千葉サ、着ぐど。
どこか、あどけない眼で
----横浜サ、行ぐならば、乗り換えろ!
父の慣れた東京指南など、わたしは素通りした。

尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が
----汽車に乗っていきゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ。
娘は、心配顔で訊く
----東京から先の方は行けんか?
父は、東京行きを制するように
----夷(エビス)の住んどるけに、女子供はいけぬ。

 父とは、子の知らないどこかを知っていて、そこへ行く方法を知っている。つまり「道先案内人」である。それだけではなく、そのとき「方向」を示すのだ。行ってはいけないということも言うのである。それを子供が守るのかどうかは別問題だが。
 石毛は、黒田の詩から、そういう「方向性」を学んだのかもしれない。教えられたと感じているのかもしれない。つまり、ひそかに、黒田を「ことばの父」と思っているのかもしれない。
 で。
 この父なのだが。父のことばなのだが。
 最終連では、ちょっと違う感じで動いている。

わたしは、アキアカネの群れを、指さしたが、
----秩父と下総は、地下で繋がってから
    銚子の犬吠埼に、秩父の地層が露出しているんだとよ。
    ここは、秩父おろしも吹くんだっぺ。
父は、「どうだ!」とばかりに
自転車の荷台に
わたしを、きつく縛りつけた。

 ひとは汽車に乗って、たとえば東京へ行く。それが人間の旅。ところが、最終連の父は、そんな「移動」に意味があるとは思っていない。土地、地層は繋がっている。それは「地下」にあるだけではなく、ときには表に「地層」を露出させ、そのつながりを知らせる。「土地/地層」にはそういう力がある。
 これは、たとえば「東京」を目指さなくても生きて行ける、東京で生きているのと同じことができる、という意味になるかもしれない。
 石毛は、そういう「ことばの地層の運動」のようなものを黒田から引き継ごうとしているのか。人間の口惜しさを火の玉にして吐き出すことばの運動を引き継ごうとしているのか。
 私の感想は、あれこれ交錯するのだが、二、四連めの「移動」が「汽車」だったのに、最終連では「自転車」であることもおもしろいと思う。最終連の父は、汽車に乗ってどこかへ行こうとは思っていない。行くのは自転車で行ける範囲で十分だ。そんなことをしなくたって、「地層」はつづいているのだ。ここにいて、「地層」に働きかけ、それをあちこちに露出させればいい、と言っているようである。
 「どうだ!」というのは、おれはこうやって生きる、おまえにこういう生き方ができるか、と問いかけているようでもある。これは、たいへん強い父である。子供の「反感/反抗」を誘って、子供を試している。
 ここから、一連目に戻る。

夢か、
古くさい自転車の荷台から、降ろされ
笑って、見物していた。
横浜「野毛山動物園」の、晩春のゴリラ--。
父のすがたは、畜舎に影を消していて
餌のお礼に
ゴリラは、おのが糞を投げてよこした。
かれの、みごとな制球を
わたしは、にやりと笑えなかった。

 父は、求められれば(求めに応じることができれば)、子供をどこへでもつれていく。好きなことをさせる。ゴリラに餌をやりたい。やればいいさ。その結果、何が起きるか。それは餌をやりたいと言った子供が自分の「肉体」で覚えればいいことである。
 父とは、いつでも「にやりと笑う」存在かもしれない。
 そして、子供とはいつでも「父の指南」を無視する存在だろう。
 そして、そこには、やはり「地層」のようなものが、どこかでつながっているのかもしれない。
 そして、互いに「どうだ!」と言い合うのが、父と子かもしれない。

 さて。
 石毛は、黒田に対して、どんなふうに「どうだ!」と言い返しているのか。黒田の詩をあまり読んだことがない私にはわからないが、どこかで「どうだ!」と言い返したくて石毛は詩を書いているんだろうなあ、と思い、私はなんとなくうれしい。
 何と言えばいいのか。
 石毛は、「父としての詩」を書いている。こんな詩を書く人は、いまは、いない。

 

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Antonio Baños Roca「LA MUSA Y EL POETA」

2022-05-20 08:18:42 | 詩(雑誌・同人誌)

Antonio Baños Roca「LA MUSA Y EL POETA」
 
...LA MUSA Y EL POETA...
En el silencio de la noche, cuando incluso la brisa duerme, 
llegan letras como sombras, que se agolpan en la mente del poeta;
para dar vida al poema que se resiste.

A su alrededor, 
revolotean mariposas 
de múltiples colores 
que le susurran palabras, llenando la soledad del momento, 
causada por la ausencia de su musa, 
que, como un surtidor de palabras, 
llena los sentimientos del poeta.

Miel, perfume y fuego, acarician el momento mágico cuando la inspiración llega, 
y el poeta cogiendo papel 
y lápiz, 
escribe a su musa:

Vivo en tí cuando mi alma llora,
existo en tí cuando los recuerdos hablan,
pienso en tí todos los días de mí existencia;
muero en tí cuando no estás conmigo.

            Antonio Baños Roca

 フェイスブックで見かけたAntonio Baños Rocaの詩。

書き出しの3行は、もしかすると「前書き」なのかもしれない。
「llegan letras(文字がやってくる)」ということばが印象的。
詩は、イメージがやってくる、というよりも、突然、ことば(文字)がやってきてはじまる。
ことば(文字)が自然に動いて行って、詩が完成する。
私は、そう感じている。

「文字」と「ことば」は、ほぼ同義である。
アントニオは、こんなふうに書いている。

que, como un surtidor de palabras, 
llena los sentimientos del poeta.
(それは、ことばの泉のよう 
詩人の気持ちを満たしてくれる。)

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(17)

2022-05-19 08:44:53 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(17)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 17篇目「白秋を笑った」。後注に田村奈津子の名前が出てくる。二〇一八年一〇月一一日、十七回忌。知らなかった。
 田村奈津子の名前は、石毛から聞いた。石毛、田村、私の三人で同人誌をやったのだったか、田村に断られて石毛と二人で同人誌を出したのだったか、うろ覚えだが、石毛が田村を誘い込もうとしたことは覚えている。たしかそのとき田村の詩集を読んだような気がするが、これも定かではない。
 こういうことは詩を読むときに、どう影響するのか。
 私は、突然、ぼんやりしてしまった。
 きのう読んだ「六根、リヤカーを引け!」には知らないひとが出てくる。登場人物のことを何も知らないので、私は「ギリシャ悲劇」の一シーンを見るように、勝手に想像し、興奮した。
 そのときの興奮が、この詩では起きない。そのときの興奮が、やってこない。きょう興奮しすぎたせいなのかもしれないが、「ぼんやりした記憶」がぼんやりしたまま私を包む。
 田村奈津子って、私にとって、何だった?
 石毛にとっては?

もしや?
ここ 催涙の懐古寺に
きみは いないのではあるまいか
いない!
眠っていない きみは
ちるがいとしく 白秋を笑った。

 追善に来た。墓碑に田村奈津子の名前を確かめた。確かめたけれど、そんなことで人間が存在(出現)するわけではない。
 石毛は、田村が白秋を批判した(たぶん)、笑った、ということは覚えている。笑ったといっても、実際に、石出の目の前で笑ったのではなく、詩に書いた笑ったのかもしれない。それを思い出している。
 「ちるがいとしく」というのは、白秋の短歌の中に出てくる。副題に引用している。「草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしくて寝て削るなり」。腹這いになって、赤い色鉛筆を削っている。見ているのは赤い色だが、補色の草わかばのみどりを連想する。そこから逆に赤い粉を愛でる、というちょっと現実と幻想が交錯するような短歌だ。それを田村は、どう批判したのか。笑ったのか。
 石毛の詩から、その具体的な内容(ことばの細部)まではわからない。石毛が田村を思い出している、それも白秋と関係づけて思い出している、ということだけがわかる。
 その批判を聞いて、石毛がどう感じたかもわからない。
 でも、これでいいんだろうなあ。
 白秋批判に触れたとき、石毛は、それに納得したのか、反発を感じたのか。そんなことは、石毛と田村の出会いには関係がない。出会った。そして、何かを感じた。だからいつ死んだのかまで覚えていて、追悼のために寺まで訪れている。
 この詩には、「六根、リヤカーを引け!」とはまったく逆の、とても静かな何かがある。この静かさのなかで、私はただ「あ、田村奈津子という詩人がいた」と思い出す。誰だったのだろう。どんな詩人だったのだろう。私にはわからないけれど、確かにその名前を私は思い出すことができる、と思い出す。
 私と違って、石毛は……。
 そう、石毛は、はっきり意識している。田村は墓の中に眠っていない。田村は田村の書いたことばのなかにいる。ことばのなかで生きている、と。いま、田村は、石毛と一緒に生きている、と。

 

 

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)

2022-05-18 08:06:23 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 16篇目「六根、リヤカーを引け!」を読みながら、詩とは不思議なものだと思う。詩だけではなく、文学が不思議だし、ことばが不思議なのだ。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる
どこか あどけなく右手の中指で
解放の二文字を 宙に 書き綴る
肺病に囚われた 気丈の男が
リヤカーの荷台で おれの六根を急かす
松の 竹の 梅の小径を 蹴散らして
リヤカーを はやく引け!
東村山「国立療養所多磨全生園」へ

 前書きというか「副題」というか。それとつきあわせて読むと、どうも肺病の男が、友人の危篤の知らせを聞いて、どうしても会いたくなり、リヤカーに乗って駆けつけようとしている。
 で、不思議、というのは。
 こういう詩を(ことばを)読んだとき、私は何を思わなければいけないのか、ということと関係している。
 「どうか間に合ってくれますように」と思わないといけないのかもしれない。それが「人情」というものかもしれない。
 ところがね。
 もちろん「間に合わなければいい」とは思わないが、「間に合う」「間に合わない」ということとは無関係に、この急いでいる様子に興奮してしまうのである。リヤカーを引かせ、その荷台から「もっとはやく」と叫んでいる男の様子に夢中になってしまう。引きつけられてしまう。「もっとはやく」という叫びを、もっと鮮明に聞きたいと思ってしまう。
 リヤカーを引かせている男だって死ぬかもしれない。彼の方が危篤の男よりも先に死ぬかもしれない。そうであったとしても、その男の苦しい熱望を見たいと思ってしまう。

 私は非情?

 そうかもしれない。けれども、この興奮を抑えることができない。
 そして、この興奮が、なんというか、書かれている「事実」よってのみ引き起こされるかといえば、そうではないのだ。いま起きていることを語る「ことば」、その「音」「リズム」によってもかきたてられる。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる

 一行目は、誰のことばか。「いいのかね」という、突き放したような口語の口調。「むちゃ引き」というのも、激しく口語だ。二行目は、一行目のことばを言ったひとのことばかもしれない。今度は「からだにさわります」とていねいに諫めている。そのとき「六根」ということばを挟んでいる。「六根」は「かけ声」だけれど、本来の意味は「五感+精神」だと思う.だから石毛は「六根」を「からだ」と言い直し、ことばをつづけている。私は「六根」ということばを日常はつかわないから、ここで、突然、「異次元」へ引きずり出される感じがして、それが私をさらに興奮させる。
 三行目は、リヤカーを引かせている男の思いだろうけれど、今度は「友がいる」と、ふうつ体の表現。
 「文体」が三行のなかで、激しく交代している。そして、そこに先に書いた「六根」という、ふつうはつかわないことばも動いている。何か、この三行だけでドラマチックなのである。ドラマというのは、ハッピーエンドでなくても、感動する。ドラマであることによって感動する。そういう世界へ石毛は私をひっぱっていく。

清瀬、松竹梅を冠した 町のことほぎに
隠された陸の孤島から そこの塞ぎを 突破して
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
白木蓮も 欅も 白樺さえも
無差別に 木を一括りにして
---それは、樹木というものだ!
粗っぽく片づけてしまうように

 私の引用は、詩を正確につたえることには役立たないかもしれない。どの行がどの行と関係しているか、それを気にせずに、ここがカッコイイと思ったところを、その部分だけ取り出しているからだ。
 ここでは「ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。」という音が強い。昔は砂利道。リヤカーを引けば石がぶつかりあい音を出す。それはリヤカーにも反映する。だからこそ、「からだにさわります」という最初に引用した二行目のことばもあるわけだが。
 さらに、ここには「やくさむ」という、これまた、もう日常では聞かないことばが突然あらわれる。リヤカーに乗っている男も病人なら、それを引いている男(だと思う)もまた病人であるのか。そうであるなら「からだにさわります」はリヤカーを引いている男が私にはむりです、といっていることになる。それを承知で、しかし、乗っている男は「はやく」と叫んでいることになる。
 これではもう三人とも死んでしまう。
 しかし、三人が三人とも一緒に死んだら、それはまたドラマチックでカッコイイと思うだろう。私は、そういうことを望んでいる。その私の「望み」のなかでは、リヤカーに乗っている男、引いている男、それから危篤の男は、三人でありながら「ひとり」であり、その「ひとり」が石毛を乗っ取り、石毛を動かしている。逆に、石毛が三人を乗っ取り三人を突き動かしているとも言える。このドラマは、ハッピーエンドでは終わらない。ハッピーエンドで終わってほしくない。いや、ことばのなかで、劇的な不幸、絶望がが起きることを私は望んでいる。ギリシャ悲劇を見るように。
 ことばには、そういう理不尽な興奮を引き起こす魔力がある。そういう魔力を持ったものが、文学であり、詩なのだと思う。

富蔵よ!
おまえに 遭わねばならない
会って 言わねばならない
富蔵よ!
肺病タカリの息に のけぞるおまえの霊気は
秩父颪の砂塵に たえているか
狭山丘陵の白神 八国山にやくさむ たそがれ
ヤクザなリヤカー ニヒルな陶酔 すがる泪をうちすえて
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
餓鬼のをぐりは 土車に引かれ 担がれ
---えいさら、えい!
道中 掛ける声が やけに昂り
全生園の欅並木 いっきに駆け抜けて
---もっと、速く。もっともっと速く、引いてくれまいか。
   もっと、もっと速く、引いてくれまいか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇166)Obra, Joaquín Llorens

2022-05-17 18:14:21 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
T. Hierro macizo
64x52x25
Seleccionada, Concurso de escultura, Álora(Malaga)

La columna redonda es interesantisima.
El cuadrado y el círculo, la presencia heterogénea refuerza el conjunto.
Al encontrarse con disimilitudes, cada uno se confirma a sí mismo.
Toda la existencia puede ser una repetición de este proceso.

丸い柱が興味深い。
異質の存在が、全体を強くする。
異質なものと出会い、それぞれが自己を確かめる。
あらゆる存在は、その繰り返しなのかもしれない。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)

2022-05-17 08:51:15 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 15篇目「コーヒールンバ異聞」。この作品については、わりと最近(たぶん、今年だと思う)、感想を書いた。感想を書いたということは覚えているが、ほかは何も覚えていないので勘違いかもしれない。こんなことは詩にとってはどうでもいいことか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。ほら、この詩の「題材」が「コーヒールンバ」なのだから。
 で、私が、いま書いた「ほら」の意味がどれだけ他人に伝わるか。たぶん石毛には伝わるだろうと思う。私の感想は、もともと「返信」のようなものだから、作者以外に伝わらなくても気にしないし、作者がその感想を気に食わなくても気にしない。だいたい、「気に食わない」という反応以上に、感想が届いたという明確な証拠(?)はないのだから、作者が気に入らないというのなら、それは私の感想に対するいちばん正確な反応だろうと思う。私は私の感想を書くのであって、作者の気持ちを代弁するわけではないから、どうしたって作者の思いと違うものがある。
 あ、どんどんずれていくが。
 「ほら」というのは、なんというか、「ほら、これ知っているだろう?」「ほら、さっき言っただろう」というような、何か「既知」のものを提示し、それについて語るときにつかう。「その」とか「あれ」とかに近い。何も知らないものを話題にするとき、「ほら」とはいわない。
 で、その「ほら」が、この詩で指し示しているのは「コーヒールンバ」である。「ほら、あのコーヒールンバだよ」。もっと補足するなら「ほら、西田佐知子が歌っていたコーヒールンバだよ」ということになる。この「ほら」は、私にはよくわかる。この歌がはやっていたころ(昔は流行期間が長かった)、私もそれを聞いたことがあるからだ。西田佐知子のビブラートの少ない声、起伏の少ないのっぺりした声と、リズムの対比が何とも印象的だった。のっぺりした声が、曲のもっているリズムを逆に浮かび上がらせる「補色」というのか「通奏低音」というのか、そんな感じがした。
 また、脱線した。
 そして、その「ほら」なのだが(行きつ戻りつするが)、それは一種の「ずれ」の指摘というか、「意識の喚起」を促す。「ある事実」がある。その「事実」と、それとは別の人間の「錯誤」を指摘する。「事実」と「意識」があっていないとき、「ほら」をつかう。「ほら、さっき注意したじゃないか」は、「注意したのに、それを守らないから、いまこんなことになっているんだろう」ということである。
 「錯誤」「齟齬」の指摘。
 ここから、石毛の「コーヒールンバ」がはじまる。
 コーヒーの自動販売機が「コーヒールンバ」を流していても、ふつうは、そんなにおかしくない。「コーヒーはここにあるよ、コーヒーをのむと恋ができるよ」。でもね、その自動販売機が、東日本大震災後の福島にあったとしたら、近くに東京電力の原子力発電所があったとしたら、まわりが瓦礫だったとしたらどうだろう。
 「あ、コーヒールンバか、なつかしいなあ」と思うだろうか。
 強引に考えていけば「西田佐知子、どうしてるだろう。西田佐知子といえば、60年安保。アカシアの雨に打たれて死んだのは誰だっただろう。あのひとの恋人はコーヒーをのんだだろうか。あれから日本はアメリカべったり。その果に原発(原子爆弾の原料製造所)がある。それが大震災で日本だけではなく、世界中を危機に直面させた」と言えないこともないけれど、まあ、そこまでは考えないだろうなあ。
 で。
 ともかく、「ずれ」、「違和感」に直面したとき、「ほら」ということばが一緒にうごくのだが、石毛は、ここでは「ほら、あの西田佐知子の歌ったコーヒールンバを、瓦礫の中の自動販売機が流している。これって変だろう? 何かおかしいだろう?」と言っている。
 何がおかしいか。
 それは、まあ、読者である私が考えればいい。私以外の読者も考えればいい。

うたって ごらん
自販機 変奏コーヒールンバ
歌詞のない歌が
瓦礫の山に こだまする
ニヒルな愛のうた
遠く崩れ落ちた 原発建屋がみえる
子どものあそぶ 声もない
理不尽な寂寥 コーヒールンバ
だれも通わぬ 瓦礫砂漠
異彩を放つ コーヒールンバ

瓦礫の片隅で
自販機は ただひとり
歌を うたっている
そこだけが やけに明るい
コーヒールンバ!

 しかも、この「コーヒールンバ」には、実は西田佐知子の歌声はない。だから「むかしアラブの偉いお坊さんが」と歌えるのは(思い出せるのは)、ほら、石毛や私の世代だけかもしれないのだ。
 石毛は、どこにも「ほら」ということばを書いていないのだが、私は「ほら」という声を聞くのである。「ほら」と言われたとき、たいてい指摘されたひとは「だって……」と言い訳をする。
 ここから、「ほら、こんなひとも通らないところにコーヒーの自動販売機がある。おかしいと思わないのか」と指摘されたとき、「だって……」のあと、たとえば東京電力は、あるいはこの自動販売機を設置したひとは、なんと「言い訳」するだろうか。
 そんなことも、私は考えたりするのだ。
 「感想」だから。

 

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江上紀代『空を纏う』

2022-05-16 08:31:42 | 詩集

江上紀代『空を纏う』(鉱脈社、2022年04月15日発行)

 江上紀代『空を纏う』は初々しい詩集である。詩を書く、ことばを書く喜びにあふれている。
 「みどり児」の全行。

蕗の薹が さっき生まれた

難民キャンプの闇を発ち
コンクリートの分厚い壁を破り
鉄条網の棘をすりぬけ……

地べたを貫いてここに生まれてきたとき
キュンと泣いた事を 誰も知らない

音をたてずに滑らかに廻る秒針は
誕生の時刻など カウントしない

産毛の乾かない嬰児のため
誰も 子守唄をうたわない

午後の陽ざしは やがて
北向きのこの一角を見つけるだろう

まだ風は つめたい

 「嬰児」には「みどりご」というルビがふってある。この少し気取ったことば(日常的には、あまりつかわない文学的?なことば)と「キュンと泣いた」の「キュン」の対比がおもしろい。「キュン」だけでも、あ、いいなあ、これが書きたかったんだなあとわかるが、それを「みどりご」によって引き立てている。「えいじ」では「キュン」の魅力が9割方損なわれてしまう。音が「漢字漢字」している。「みどりご」の、「和語」のやわらかさと「キュン」が似合っている。「みどりご」とは、もう言わなくなっているので、あえて「嬰児」という漢字で説明しているのだろう。(「蕗の薹」にも「ふきのとう」のルビがある。)
 「キュンと泣いた事を 誰も知らない」の「誰も知らない」もいいなあ。江上以外の「誰も知らない」。書かれていない「江上以外」に意味がある。詩とは、他の誰も知らないけれど、作者が知っていることを書いたものだ。つまり、作者が発見した「事実」を書くのが詩なのだ。
 「事実」を書けば「真実」になる。
 ここには、その実戦がある。
 「難民キャンプ」などのことばからは、江上が、単に春の風景を描いているだけではなく、世界で起きていることにも視線を注いでいることがわかる。しかし、そのことは声高には語らない。つまり、「主張」まではしない。見守って、こころを痛めている。そういう「慎み」のようなものも感じさせる。
 「分を守る」ということばに私は与するものではないが、何か、江上にはこの「分を守る」という「正直」があり、それがいっそう「キュンと泣いた」を引き立てている。思わず、あ、生まれたてのフトノトウを見に行きたいと思うのだ。それはフキノトウを見ると同時に、フキノトウを通して江上に会いに行くということでもある。
 「帰郷」も、「声」をもたないものの「声」を聞く詩である。

その駱駝は少し
後の左足を痛めている
群れを離れ
空を仰いではいるが
眼は閉じたままだ
松の林の匂いと
おだやかな丸い雲と 柵と
飼育員さんから
過不足なく与えられる食物と水と

母さん、僕は足が痛いんだ
彼は うちに帰りたかった

ゴビの砂嵐の音も忘れかけている
柵を越え 松林を抜けはしたが
磁石を持たぬ彼は途方に暮れた

どうして僕はここにいる
どうして僕は帰れない

そうして今
彼は闇を待っている

今日も眼を閉じたまま
空を仰ぎ 夜を待つ
闇に眼を開けば
故郷が見える気がする
その時
ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 二連目の二行がとてもいい。「母さん、僕は足がいたいんだ」と駱駝が突然、言う。それにつづくことばは「僕は うちに帰りたい」ではない。「彼は」うちに帰りたかった。ラクダの声を江上が代わりに言っている。それは江上がラクダになっているということである。もちろん「僕は うちに帰りたい」でも江上はラクダになっているが、それでは「代弁」しすぎる。ラクダの声を「聞いた」というときの、「聞いた」の印象が薄くなる。「正直」を通り越して、「主張」になる。
 感情が整えられ、主張になるまでには、きっと様々なことをくぐり抜けなければならない。印象、想像を確かめながら、ひとつひとつ、ことばにしていく。その過程で、少しずつラクダになっていく。一気にラクダになってしまうのではなく、少しずつ寄り添っていく。その寄り添いに、私は引きつけられる。江上がラクダになるのではなく、私がラクダになる感じがする。
 最後の、

ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 この大胆な飛躍は、少しずつの寄り添いがあったからこその飛躍である。
 最初に「初々しい詩集」と書いたが、この最後の飛躍は、やはり詩を書き始めて間もない人間だけが必然的に抱え込んでしまう大胆さである。
 とても美しい。
 ちょっと逆戻りするが、書き出しの「その駱駝」の「その」もとてもいい。江上の意識にラクダは定着している。きょう初めて見たのではない。何度も何度も見ている。見守り続け、寄り添い続けている。それが最終連の「今日も」ということばに反映されている。きのうも、きょうも、あすも、なのだ。
 そして、それはラクダを「彼」と人間を指し示すことばで言い換えているところにも反映している。見守り、寄り添い続けているから、ラクダは動物ではなく、江上にとってはひとりの「人間」なのだ。
 ここにも、とても自然な美しさがある。作為ではなく、正直の美しさがある。

 詩集はⅠとⅡの二部に別れている。Ⅰに感じられる静かなこころの痛みはⅡではいっそう深くなる。江上はⅡを書きたいのかもしれない。書かずにはいられないのだと思う。そう理解した上で、しかし、私はⅠの作品群の方が好きだと書きたい。
 ほんとうに初々しく、あ、こんな気持ちでもう一度詩を書きたい、書いてみたいと思うのである。

 

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