詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ47)

2007-06-30 16:58:44 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 入沢のこの詩集にはよく整理されたいない部分というか、「なま」の部分がある。「キーワード」がある。

前表の確認 といふかむしろ 追認

 この1行の、「といふかむしろ」が入沢の「キーワード」である。このことばがなければ、この詩集は成り立たない。入沢はこの作品を書くことができない。
 ほんとうに「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということであれば、推敲過程で「前表の追認」と書き直せばすむ。しかし、書き直してしまうと入沢の書きたいこと、書こうとしていることと違ってしまう。どうしても「前表の確認 といふかむしろ 追認」と書かなければならない。「といふかむしろ」という意識があることを、ことばとして表わしておかなければ何かを書いたことにはならないのである。
 そして、この「といふかむしろ」ということばが存在することによって、「確認」と「追認」が同じものになる。違っているけれど「同じもの」になる。

梯子だ 一段と下の(「上の」といってもそれは同じこと)

 そう書かれたときの「同じこと」に重なり合うものがある。梯子にとって「下」と「上」はまったく違う。「確認」と「追認」もまったく違う。ほんとうは違うけれど、入沢にとっては「同じ」なのである。今(ここ)から動くこと、今(ここ)ではない「場」へ動くこと--その「動き」が「同じ」という意識をひっぱりだす。方向が違っても「動き」そのものの「今(ここ)」からの「距離」が「同じ」ならば、すべて「同じ」なのだ。
 梯子にとって「一段」下と「二段」下は違っても、一段「下」と一段「上」は「移動する距離」において「同じ」である。「確認」も「追認」も、ことばと対象の「距離」は「同じ」である。(ほかの誰かにとっては違うかもしれないが、入沢にとっては「同じ」である、という意味である。)

 この「といふよりむしろ」のなかに「誤読」がある。「誤読」の精神がある。「確認」であることを「追認」と「誤読」することで、より強く納得できるなにごとかがある。「追認」と「誤読」することで、救い出したいものがある、ということでもある。



 この詩集には、もう一つとんでもないことばがある。

                      かつて
自ら気負うて「地獄くだり」を僣称したあの見せかけの
旅とは異なつて こたびは地獄そのものを見た 少なく
とも(作者は)その縁辺をかすめた
 (谷内注・原文は「見せかけの」と「作者」に傍点がある。)

 ふいに登場する「作者」。この詩集ではそれまで「俺」が登場していた。

かつての俺は「妻子ある独身者」だつたが
今ではただのありふれた独身者に過ぎない

 その主語をつかって、(俺は)と書くこともできるはずである。しかし、入沢はそうしていない。「俺」と「作者」を唐突に切り離している。
 「地獄くだり」をこころみたのは「俺」であって、「作者」ではないのだ。つまり、仮構されたひとりの人間が「地獄くだり」をしはじめた。それは「地獄くだり」そのものが現実のものではなく仮構されたものであるということでもある。
 しかし、いったんことばが動きだすと、仮構は仮構のままでは存在しなくなる。仮構のことばにむかって現実がなだれ込み、現実として出現してしまう。これは「作者」が望むことではあるけれど、そう望むのは、それが現実になることはないという一種の「約束事」があるからのことである。ことばは、文学は、現実ではない。たとえば初期の作品の「ランイゲルハンス氏の島」。それはいくらことばを積み重ねても現実の世界にランゲルハンス島を出現はさせない。出現するのは「意識」のなかにおいてのみである。
 ところが「地獄」が、そのことば自体、いっしゅの「思想」であるためだろうか、意識のなかにのみ存在するはずなのに、出現してしまった。もちろん、それは意識のなかに、ではあるけれど、意識とともにある現実とぴったり重なり合ってしまった。「Copy of 《地獄》」から「Copy of 」が取れてしまった。
 入沢は、そういう状況から「俺」と「作者」を引き離すために、強引に「作者は」という一語を挿入している。「作者」を導入することで、それ以前のことばを「仮構」そのものに引き戻そうとしている。

 ここには、とんでもない「矛盾」がある。
 「地獄くだり」を「リアル」に再現し、そのことばすべてを「現実」と感じてもらいたいというのが、ふつうの作者の基本的な願いである。自分のことばを信じてもらえることが作者冥利というものである。ところが入沢はそれを「リアル」にしたくないのである。なぜか。「現実」がことばを追い越してしまったからである。ことばがことばでなくなったからである。
 「読者に」とってではなく、「作者に」とって。

 「誤読」とは「読者」の特権である。「作者」が「誤読」に飲み込まれてしまっては、「誤読」が消滅してしまう。「といふよりもむしろ」が消滅してしまう。「作者」はあくまで「といふよりもむしろ」ということばとともに、どこまでも「読者」をひっぱって行かなければならない存在なのに、ことばに飲み込まれてしまったのである。
 これまで守り通した入沢の手法がくずれたという意味では失敗作(あるいは未完成の作品)ということができるかもしれないが、それゆえに、そこに噴出してくる入沢がくっきり見えておもしろいといえば大変おもしろい作品だ。
 といふかむしろ……。
 位置づけがむずかしい作品だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メル・ギブソン監督「アポカリプト」

2007-06-30 06:53:05 | 映画
監督 メル・ギブソン 出演 ルディ・ヤングブラッド、ダリア・ヘルナンデス

 奇妙な映画である。そして映画でしかない映画である。
 日食を恐れる一族にとらえられ、そこから脱出する。ただし、猟(人間狩り)の標的となって、森林を走って逃げる。それだけの映画である。(もちろん、その前段階として、捕虜になるシーンがあるが、「脱出」のスタートまではちょっと退屈である。)
 主人公は素手である。武器はもたない。唯一の武器があるとすれば、それは主人公が逃げ回る森林が彼の猟場であったということ。つまり、土地鑑があるということ。最後の方に、この土地鑑(自分の猟場)を生かしたエピソード(シーン)があるが、それは付け足しのたぐいであり、もしかすると「うるさい」部分かもしれない。土地に根差したものだけが勝利する--というような「哲学」はこの映画には似合わないのである。(かえるの毒を利用して吹き矢で戦うなどというエピソードも、主人公の造形としては有効ではあるけれど、やはりうるさい。)
 見どころは、ひたすら森林を走る疾走感。こんなに走り回れるわけはないのだが、そんなくだらない批判を吹っ飛ばして、ただただ走る。走る男、逃げ回る男をカメラは逃げる男といっしょのスピードで追いかける。逃げる男より速くも遅くもない。この一体感がすばらしい。そのスピードのなかで、男の裸が森林になり、森林が男の鎧になる。森林を着て男が走るのである。走る、走る、走る。走るにつれて、男は森林そのものになる。汗を吹き飛ばし、同時に、男は恐怖心を捨て去る。男は森林と完全に一体になる。
 何もこわくない。森林はいのちが生まれ、いのちがかえっていく場所である。森林こそが男のすべてであり、男は走ることによって森林そのものになったのだから。

 (前半は眠っていても大丈夫。後半は目をらんらんにして、男といっしょになって森林を駆け回ってください。ジャガーになってください。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ46)

2007-06-29 23:17:28 | 詩集

 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 この詩集は二部構成になっている。そしてその「Ⅱ」は「「前表」の追認--「わが地獄くだり」その5」というタイトルをもって始まる。

 この旅の出発に当たつて 深まるためらひの揚句に記
した 《前表の確認 といふかむしろ 追認》 その一
行のにがさを ここ何十日 何百日のあひだに 何度味
ひ直したことか

 ここで書かれている「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということばが最初に登場するのは、この連作の2篇目である。「到来」。その書き出しは

 来た!

 と始まる。何が来たのか、明確には示されていない。ほんとうはまだ来ていないのかもしれない。来ていないものを「来た!」とことばにしたために、それはやってきてしまったのである。
 ことばには、そういう不思議な力がある。特に詩人のことばには。そして、ことばのあとで、詩人は事実を確認する。そしてそのとき確認は、ことばでいってしまったことを追認することでもある。いや、確認を通り越して「追認」以外の何ものでもない。
 あらゆる事実は「ことば」を「追認」する形で動く。
 現代の物理学では論理物理学が先行し、そのあとを実証物理学が追いかける。論理を実証によって追認する。そういうことが「詩」でも起きるのである。
 だからこそ、あらゆる「誤読」が生まれる。作者は「事実」にもとづいて書いたかもしれない。しかし読者は「事実」を無視して、そのことばが描き出しうる可能性の世界、自分たちの夢を託した世界を読み取る。そして、そのうちにその世界がやってくる。追認という形で事実がやってくる。

 このやってき方には、ほんとうの「追認」という来方がある。だが、もっとも多いのは同時進行だろう。

 歌と現実の同時進行

 その1行が「「前表」の追認」という作品のなかにある。中断を挟んで再開した詩のなかにある。

 「事実」は先行する「ことば」のなかにあるのではない。また、あとからやってきた「事件」のなかにあるのでもない。「同時進行」のなかにある。「同時進行」であるかぎり、それはどちらか一方に重心をおくということはない。同時に、両方に、重心をおく。いや、おくのではなく、おかされる。どちらか一方に重心をおくという選択ができない。

 ここに苦悩と、喜びが同時にある。



 このことを入沢は克明に描いている。告白している。

「情感を手放し 衝迫から解き放たれ」ることを願つた
途端に 俺は 手痛いしつぺ返しを喰らつた ヒュドラ
ーはヘーラクレースでなくては退治できないのだ 感官
をひとた閉ざし 吸ひ込まれて行つた先は 恐れつつも
願つてゐた「地獄」ではなく--といふか むしろ無意
識裡に願つたままの「Copy of 《地獄》」に他ならなかつ


 入沢は「地獄」そのものではなく、ことばで地獄のコピーをつくろうとした。ところがいったんことばになってしまうと、それはコピーであることをやめて「事実」になった。そのことを入沢は「追認」したのである。
 ここに書かれているのは、ことばの力に対する入沢の実感である。

 私たちはことばを「誤読」する。そして現実もまたことばを「誤読」してしまう。
 「誤読」に見入られ、「誤読」に凌駕されてしまう詩人がここにいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾真由美「汐の彩色、しめやかな雨にながれる鍵と戸と窓」

2007-06-29 21:59:53 | 詩集
 松尾真由美「汐の彩色、しめやかな雨にながれる鍵と戸と窓」(「ぷあぞん」22、2007年05月31日発行)
 ある作品をつくりあげるのに絶対に不可欠なことばがある。そのことばを私は「キーワード」と呼んでいる。「キーワード」を探し、そのことばを中心にして作品を読み通すというのが私の読書の方法である。「キーワード」はたいていの場合、とても簡単なことばが多い。作者はそのことばを無意識でつかっている。作者になじみがありすぎて、つかっているという感覚がないのかもしれない。無意識にまで溶け込んでしまった「思想」がそこには隠れている。
 松尾の長いタイトルもったこの作品の「キーワード」は「同時に」であり、それは一回だけ、次のようにつかわれている。
 7ページ、下段、1行目。

外側と内側の倒壊は同時にはじまり、

 「同時に」を省略しては文意が通じない。世界が成り立たない。
 松尾にしてみれば、ほんとうはつかわずにすませたいのだが、どうしても省くと世界が成り立たないので、しかたなくつかっている。--「キーワード」とはそういうものである。たいていは省略されている。省略できなくて、しかたなくつかったことばこそ「キーワード」である。
 この「同時に」は「思想」である。「同時に」こそが、松尾がこの作品で試みていることである。
 この作品は、河津聖恵の「シークレット・ガーデン--今しずくをみつめている人のために」(『アリア、この夜の裸体のために』収録)を取り込む形で構成されている。一方に河津のことばがあり、「同時に」、もう一方に松尾の作品がある。そのふたつは分離することができない。「同時に」とはそういう意味である。
 松尾の書いている部分(散文形式)は、意味がわかりやすかったり、わかりにくかったりする。わかりやすい場合でも、わかりにくい場合でも、任意の文を取り出して、「同時に」を挿入してみると、松尾の世界がとてもよくわかる。
 たとえば……。

 さあさあと雨音は流れていって、夏の葉という葉にすがって落ちる雨滴をたどり、音の息が車輪となり、「同時に」、あなたも私も流れだす。

 「同時に」は私が挿入したものである。原文にはない。
 雨音が流れる。音の息が流れる。これは自然(風景)の描写である。雨音は流れると言えば流れるだろう。音の息(があるかどうかは難しいところだが)が流れるといえば流れるだろう。しかし、「あなた」や「私」は簡単には流れない。洪水でもない限り雨といっしょに流れるということはない。しかし、そこに「同時に」ということばを差し挟むと、ちょっと事情が変わってくる。「あなた」「私」はもちろん流れはしないけれど、雨音をたどる「あなたの意識」「私の意識」は「同時に」流れるということがある。「意識」は「流れる」ものでもあるからだ。
 「同時に」というのは単に「時間」の問題ではない。「時間」というより、意識の問題なのである。
 最初の引用にもどる。

 浮揚するまなざしから家屋がくずれ天地がおとずれ、家の絆でまもられた血の色はうすまって、私の血もうすまって、外側と内側の倒壊は同時にはじまり、

 これは「外側の意識」は「内側の意識」という意味である。「同時に」は常に「意識」といっしょにある。

 この「同時に」を河津はどんなことばで表現しているか。「あいだに」(あいだ)ということばをつかっている。

わたしたち“よこたわる人”と“よこたわる人”のあいだに

あるいは

ひとりひとり眠るわたしたちは出会えないかもしれない
「あいだ」は鮮やかに生きつづけているから

 「あいだ」は複数の存在があってはじめて生まれるものである。「同時に」もまた複数の存在があってはじめて成り立つものである。「あいだ」によって複数の存在として存在させられながら、しかし「同時に」何かをする--そういう世界を松尾は描いている。「同時に」と意識するとき、見えてくる繊細なもの、繊細な意識のゆらぎを松尾は描いている。そういう揺れ動きを、ひとつ、ふたつではなく、様々に、複数に、「同時に」、描き続けることで、松尾は河津が描いた「あいだ」に踏み込んでゆくのである。「あいだ」を味わい尽くそうとするのである。

 もし、松尾の書いている「散文詩」の部分で、何かよくわからない部分に出会ったら、だまされたと思って「同時に」を挿入して読み直してみてください。そうすると、全体がくっきり見えてくるはずです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神山睦美『夏目漱石は思想家である』

2007-06-28 23:04:29 | その他(音楽、小説etc)
 神山睦美『夏目漱石は思想家である』(思潮社、2007年05月01日発行)
 本のタイトルを読んで疑問に思ったことがある。漱石は思想家でなければならないのだろうか。小説家(作家)であるだけでは不十分なのだろうか。私は漱石は小説か(作家)であるだけで十分に感じる。特別に「思想家」でなければならない理由を感じない。
 神山の構想は、漱石をドストエフスキー、カフカ、フロイト、マルクスなどと向き合わせ、彼らに引けをとらない「思想家」であると位置づけることにある。そのために、漱石の立っているフィールドを世界へと拡大する。その拡大されたフィールドを見つめていると、神山が「思想」と考えているフィールドはよくわかるのだが、それはあくまで神山のフィールドであって漱石のフィールドとは私には感じられなかった。神山は漱石について語っているというより、神山自身について語っている。そんな感じがした。「神山睦美は思想家である」と語っている。それがこの作品である。
 この作品の大きな特徴は、たとえば次のような文章である。

 『変身』とほぼ同じ時期に書かれたこの『流刑地にて』が、『道草』とまったく別種の作品であることはいうをまたない。だが、共通する要素のまったくみとめられないこの作品に、「帽子を被らない男」がもたらす理由のない不安を読み取ることは、不可能ではないのだ。

 「……を読み取ることは、不可能ではない」。これは、神山が、そう読み取りたいと言っているだけのことである。
 あるいは次の文章。

 往来に立って、健三を凝視する「帽子を被らない男」のもたらす脅威は、咽頭の権化ともいうぶきフョードル・カラマーゾフや復讐の虜(とりこ)であるハムレットの亡霊王があたえる畏怖には決してかなわない。にもかかわらず、これをくすんだ現実のうちに描き出すことによって、漱石は、一九一五年における日本社会を、荒涼とした砂地の斜面が四方にひろがる流刑地のようにみなしていたということを、否定することはできないのである。

 「……を否定することはできない」。というよりも、神山はそれを否定したくない。そう把握したいだけなのである。
 漱石をどう読むか、というより、漱石をどう読みたいか。そう読むことによって、漱石の「思想」を明らかにするのではなく、神山自身の「思想」を明らかにしたいのだと思う。
 そうしたことを象徴するのは次のような部分である。

 漱石が、この下り(谷内注・「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の部分。「下り」は「件」だろう)にさしかかったとき何を思っていたかを考えてみるならば、どうであろうか。『カラマーゾフの兄弟』についても「大審問官」についても、それに目を留め、読み通した証拠はまったくないにもかかわらず、そのことを想定してみるのは、なにごとかなのである。

 漱石が、神山の指摘する作品を読んでいたという「証拠はない」。しかし、神山は、漱石がそれを読んでいたと仮定し、そのとき漱石は何を思ったかを考えてみる。そして、そこから浮かび上がるあものについて「なにごとかなのである」と結論を下す。
 これでは、とうてい漱石の「思想」を語ったことにはならないだろう。あくまで神山の「思想」を、漱石を利用して語っているにすぎないだろう。漱石が何を思ったかを「神山が」考えてみて、そこから出てくる結論は、「神山が」考えたことであって、けっして漱石が考えたことではない。神山は、いたるところで漱石と神山自身を混同している。漱石と神山を区別せずに、一方的に「漱石が」どう考えたかを想像している。その想像は「漱石が」想像したことではなく、「神山が」想像したことにすぎないことを忘れている。
 こうした混同は、神山が漱石に心酔していることを明らかにするかもしれないが、その混同を、混同のままにしておいて、それが「漱石の思想」であると言われても、ちょっと困る。
 漱石の思想について語るなら「証拠」が必要である。漱石の文章のなかにカラマーゾフの文章につかわれていることばがある、とか、漱石の日記にカラマーゾフについて言及した部分がある、そこにはこれこれのことが書いてあるという「証拠」が必要である。
 「思想」はことばである。「思想」について語るなら、ことばの「証拠」が必要である。
 神山のこの本を読んでわかることは、神山は漱石を読んだ。また、ドストエフスキーを読んだ。カフカを読んだ。マルクスを読んだ。プルーストを読んだ。……というような、神山の「読書遍歴」だけである。神山が、神山自身の「読書遍歴」のなかに、漱石をどう位置づけているかということだけである。漱石をそういうふうに位置づけようとする神山の「思想」がわかるのであり、漱石自身の「思想」は神山の本からは、私は取り出すことができない。



 神山は「表現の水位」ということばをつかっている。たとえば、

漱石は、明治四十年代における表現の水位を最上のかたちでたどりながら、存在の不条理と、いわれのない罪責感に根拠を与える試みを進めていたのだ。

 漱石の「表現の水位」。それをていねいに分析することこそ、漱石の「思想」を明らかにする方法なのではないのだろうか。三木清は、なんという本のなかであったか思いだせないけれど、たしか「国語とはその国民の到達した思想の頂点である」というようなことを言っている。漱石のことばそのもののなかにこそ「思想」がある。それは、他の作家や思想家と、こんなふうに似ている、というのではなく、ここが違うという形でこそ明らかになるのものだと私は思う。そういう分析を読みたかった。
 どんな「表現の水位」の文体で小説を書いたか--その表現そのもののなかにこそ、漱石の「思想」があるのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野村喜和夫『稲妻狩』

2007-06-27 14:45:46 | 詩集
 野村喜和夫『稲妻狩』(思潮社、2007年06月10日発行)。
 (06月24日に書いたことと関連する。24日の日記も読んでください。)
 絵を見るとき、色や形、この線だけを見る。描かれている対象からは「意味」をくみ取らない。ただその色が好き、この形が好き、この線が好き……。
 詩の場合も、私は、ほとんどの場合、そんなふうにして読んでいる。つまり、このことばが好き、この言い回し、このリズムが好き、と。
 ことばの場合、絵よりも強く「意味」が浮かび上がってくる。そして、どうしても意味にひっぱられて(内容にひっぱられて)あれこれ感想を書いてしまうけれど、それはたぶん、私のなかで「意味論的」に解決していない問題が残っているからであり、その問題が解決してしまえば書かなくていいことなのだと思う。詩にとって書かなくていいことをついつい書いてしまっているのだと思う。
 今回の野村の詩集(今回にかぎらないけれど)、これはどこから読んでもいい。辞書のようなものだ。そして辞書が「あいうえお」順にことばをならべているように、野村はこの詩集ではタイトルを「あいうえお」順にならべている。
 50音順に、と書かず、「あいうえお」順にと書くのは、その方が私の好みにあっているからだ。--と余分なことを書くのは、実は、この詩集について書くことはほとんど余分なことだからである。そして、それがこの詩集を楽しむ最良の方法だと思うからだ。

 野村は、この詩集では「ことば」をことばとして書いている。そのことばが、はっと目の前に出現する瞬間--その瞬間を再現しようとしている。
 「0(木が雷を飲む恍惚)」がそのことを端的に表明している。(作品は、原文では文字のサイズを変更している部分があるが、以下の引用では無視して引用する。基本的にタイトル部分が本文のなかで大きな文字で書かれている。実際は詩集で確認してください。)

夏の終わりの
朝の稲妻
のような始まりを狩りながら
もしも木が雷を
飲む恍惚
それをことばにできたらと思う

 意識的にゆるくした文体。そのなかで「木が雷を/飲む恍惚」という文字を際立たせる。ちょっと手で触ってみたくなる感じで紙の上にその文字が存在する。これはなかなかセクシーなことである。「意味」を書きたいのだったら「もしも」はいらないし、「それを」というのは間延び以外の何ものでもないのだが、そのゆったりとした「地」があって、その「場」に大きな文字が直立してくるのはいい感じだ。草原の一本の木、その木の上に落ちてくる稲妻、それをそっくり飲み込んでしまう木、その興奮というと、ちょっと「詩」そのものに近づきすぎて感想にならないかもしれないが。まあ、セクシーである。
 
 いくつも書いてもしようがないが……。おもしろかったのは、たとえば「6(あれこれ)」

男の苦悩の大半は
脳髄からみえないペニスが突き出て
あれこれ指示することによる
眼前の
桜よ散れ
骨灰のように
いやギャグのように

 7行すべてがおもしろいというのではない。7行のなかで、大文字で書かれた「あれこれ」だけがおもしろい。「あれこれ」だけが好き。あ、こんなふうに「あれこれ」をつかってみたい、と思う。そして、こんなふうに「あれこれ」をつかっても、だれも(たぶん)きっと、その「あれこれ」が野村の作品からの「盗作」だとは気がつかないだろうなあ、と思う。そういう「盗作」をあれこれと(この「あれこれ」は野村の「あれこれ」とは違うな)してみたいなあと刺激される。
 詩は、「盗作」してみたいと思わせてこそ、「詩」なのだ。読んでしまえばこっちのもの、それをどんなふうにつかおうと作者の知ったことじゃない。詩は、それを必要とするひとのためのもの、なんて、たしか「イル・ポスティーノ」という映画のなかにあったせりふだなあ。
 もうひとつ、不思議な手触りのある「11(入れ替わりに)」。

そしていつか
別れの日が来るだろう
私は戸口で
とどまる者と抱擁を交わし
それから外の光のなかへ溶けてゆくだろう
入れ替わりに
闇の塊のような子供が
入ってくる

 最初の4行の退屈さ。5行目でちょっと気取って、6行目で、突然「入れ替わりに」という思いもかけないことばの美しさ。そして、それをすぐに消してゆく7、8行目。いいなあ。「入れ替わりに」という動きだけが、しかも「に」がついたままの状態でぴかぴか光っている。

 つまらなかった作品をひとつ。「19(おまんこ)」。

おまんこ
という言葉ほど美しい日本語もそうざらにはない
響きが柔らかく
ひらがなの魅力にも満ちて
こんなすてきな言葉をどうして伏せ字にしたりするのか
私は不当な差別のようにみえる
いやもしかしたら
伏せ字にするほんとうの理由は
ほかのことばにまじってその美が損なわれてしまうのを
恐れてのことかもしれない
世間は私よりも
はるかに巧緻で思慮深いことが多いものだ

 「あのね、野村さん、おまんこということばが書きたかったら谷川俊太郎さんにどう書けばいいですか? と尋ねてからにしてください」と言うしかない。谷川俊太郎なら同じことをもっと楽しく美しくセクシーに書けるだろうなあ。
 「おまんこ」は野村にとっては、まだまだ「意味」なんだなあ、と思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ45)

2007-06-27 11:23:51 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 「梯子」。この詩集の隠れたテーマは「梯子」である。

              働き蟻のごとき小活字に
よつて ほぼ完全に埋め尽くされた 一八〇ページたら
ずの雑誌 これをもつて俺の梯子とすることも けだし
可能なのである やつてみよう

「お食事にどうぞ」「ガリアの塩をどうぞ」
空飛ぶ蛙に曳かれた乗物のなかで開かれる異端審問
「お食事にどうぞ」
しつこいぞ おまえ
けれども
赤狩りは割にあはない

 「梯子」とはことばである。入沢自身のことばではなく、誰かが書いたことば。そのことばを書いた人の意図を分離し(ことばを、ことば自身として解放させ)、つなぎあわせてゆく。ことばを「誤読」し、動かしていく。そうすることで、今、ここにいる入沢を別の次元(梯子で結ぶ「上」か「下」か)へと連れ出す。今、こことは違う次元へ行くということが重要なのだ。そのために、ことばが必要なのだ。
 ことばは「物語」と言い換えられるときもある。

 そしてまた ここには 今ひとつの 耐えて忍ぶべき
梯子の物語……

 虚空に かつて(遠い昔)愛した 頸の長い娘の幻が
浮かび あるかなしかの薄荷の香りが あたりいちめん
に漂ひ 彼女の やさしく澄んだ音声が とぎれとぎれ
に聞えてくる 彼女のお気に入りの あの古ぼけた寓意
の織物 昏睡と彷徨の説話の かぎりない断片

--なぜ泣くのと尋ねる 人はだれもおらず……

--喉が銀色に輝く鷹を探し当てようとして……

 「物語」「寓意の織物」「説話」。それらは全て「誤読」を待っている。「誤読」されることで引き継がれ、生き延びる。
 繰り返しというか、ひとつのことば、ひとつのまとまった断片が少しずつ姿を変えて(いまの時代ならバージョンを新しくしてといいった方がわかりやすいだろうか)、次々に登場するのは入沢の作品の特徴だが、ここでも同じことが起きている。
 「梯子の物語」。

 そしてここには さらにひとつの やはり等しく耐え
て忍ぶべき梯子の物語……

 中空に一点の汚点が現れ みるみるうちにそれが広が
つて すべては闇に包まれる
 その闇の中から 今度は 声変りしてまもない十四 
五の少年の声が聞える これもまた 昏睡と彷徨の説話
の断片か?

「風は今夜も僕を追ひ越して
くるりと振りかへると
その細い躯をくの字に曲げて
けたたましく笑ふのだ
  (谷内注・原文は「汚点」に「しみ」のルビ、「躯」は旧字体、「からだ」のルビ)

 「梯子の物語」とは、「梯子」自身の登場する「物語」、「梯子」が内包する「物語」という意味ではない。「梯子」となるべき「物語」という意味である。そして、この「の」のなかに省略された形で存在する「なるべき」が重要なのである。
 ことばは、そこにあるだけでもことばである。しかし、ことばはそこにあるだけではなく、そこにあることをやめて別の形で(といっても形を変えず、ことば自身はそっくりそのままで)存在することができる。「誤読」を受け入れ、それまでと違った意味を担うことができる。
 そして、

 さうだ あれだ ギャングウェイ・ラッダー(まさし
くこれは梯子そのもの)の日暮だ 横浜大桟橋のどしや
ぶりの雨だ 沖に船がかりしてゐた軍用輸送船団だ と
思ふ間もあらばこそ 場面が変る

 「場面が変る」。そのための「梯子」。「梯子」は場面を変えるための手段である。「場面」が「かわる」ことを、かえることを入沢は望んでいる。そういう力をことばに求めている。ことばは、何かを伝えるためのものではない。むしろ、祈り、何かを引き寄せるためのものなのだ。

 この詩集は「わが地獄くだり」というサブタイトルを持っている。この詩集は入沢の体験した「地獄」を伝えるというよりは、「地獄」を引き寄せる詩集なのである。体験とは入沢にとって、ことばをつかってある事実を引き寄せることなのである。

 来た! それは思ひもまうけぬ 西南の方角からやつ
て来た

 と入沢は「到来」で書いていたが、それは「やつて来た!」のではない。呼びよせたのだ。ことばが「事実」を引き寄せる。これは詩人にとって至福である。ことばが、夢想が現実になるからだ。一方、苦悩でもある。夢想は楽しい夢想ばかりではない。人間は苦しく悲しいことも夢想してしまう。そういうものも、ことばは引き寄せてしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 ジャック・ルーマン「黒檀」

2007-06-26 12:32:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 ジャック・ルーマン「黒檀」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年06月号)

 「沈黙」ということばが何度か出てくる。

サイレンが鳴り、鋳物工場の
圧搾機の弁が開くと憎悪の酒が流れ出す
肩の大波、叫び超えの飛沫が
あるいは路地裏に溢れ
あるいはあばら家--蜂起の醸造器--で
沈黙のうちに醗酵する

 この「沈黙」は矛盾である。「沈黙」のなかに叫びがある体。叫びが真実のもの、簡単に他人に聞かせられないものであるから「沈黙」している。その真実を語り、聞かせるときは、その真実はかならず現実をひっくりかえし、勝利しなければならないことが義務づけられたものだからである。長い長い敗北が、「沈黙」にそういう義務を課している。
 「沈黙」をジャック・ルーマンは言い換えている。

さあおまえの声に肉と血のこだまが応じるだろう

 こうした1行を読むと、文学の「決まり事」には歴史的背景はない、国の違いはない、民族の違いはないということがわかる。(だからこそ、翻訳可能なのだろう。)大事なことばはかならず違った形で繰り返される。違った形になって反芻されることで、強烈になってゆく。
 「沈黙」を経たのち発せられる声--その声に血と肉のこだまが応じる。「こだま」は「沈黙」と裏返しの声である。たとえば「マンダング アラダ バンバラ イボ」と繰り返される女性の歌声。そこには声に出しても拒絶されない(人格を否定されない)悲しみが生きている。生き残っている。そして、その悲しみを生きてきた肉体が。「こだま」が応じるのではなく、「こだま」のようにして、そういうものが「声」に反映してしまうのだ。「こだま」のなかで醗酵したもの--それが「声」になる。

貝殻の中に胸苦しい海の音がこだまするように
しかしぼくはまた沈黙も知っている
二万五千の黒人の死体の沈黙
二万五千の黒檀の枕木の沈黙

 歌う女性は「貝殻」になり、貝殻のなかにある「沈黙」が実は二万五千人の死、肉体の沈黙にかわる。
 ことばが言い換えられるたびに強烈になる。

アフリカ ぼくは覚えているぞ アフリカ
おまえはぼくの中にある

 ことばがうねり、ことばが真実を引き出す。「沈黙」の全てを引き出す。
 途中を大幅に省略しているので、私の紹介ではジャック・ルーマンの詩のすばらしさ(恒川の訳のすばらしさ)が伝わらないと思うが、女性が歌う歌の構造と二重写しのようにアフリカ人の自覚、沈黙している血の自覚が輝き出し、怒りとなり、悲しみとなる。そして、それが同時に「誇り」にもなる。
 この「誇り」は「沈黙」と同様に、矛盾である。アフリカの大地から強制的に連れ出され、奴隷として生きた人々、その血の歴史はそれ自体では「誇り」ではない。むしろ「誇り」とは反対のものであろう。しかし「沈黙」のなかで血を途絶えさせずに生き抜いてきたこと、そのいのちのつながりは「誇り」である。誇っていいことである。
 ことばの中から、自覚することの強さ、自覚としての人格が立ち上がる。
 刺激的だ。
 詩は立ち上がる人格である--と書いてしまうと、なんだかわかりきった定義のようでもあるけれど(また、現代詩はそういう「意味」を追及するものではないという意見も聞こえてきそうだけれど)、こうした作品を読むと、ことばそのものの出発点に触れるようで体が震える。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ45)

2007-06-26 09:42:25 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 「Ⅰ」「Ⅱ」に分かれている。「Ⅰ」を「Ⅱ」で読み直す、あるいは書き直す。そのときのふたつのことばの「差」(ずれ、というのではない)本当の書きたいことがしのびこんでくる。「差」を行き来するために、どちらにも属さないことばが必要である。それを探している詩集だとも言える。
 このふたつの世界を行き来するための「道」を入沢は、この詩集では「梯子」ということばで表現している。
 その「梯子」そものものよりも、「梯子」にともなう動きが興味深い。

  梯子だ 一段下の(「上の」といつてもそれは同
じこと)

 「Ⅰ」と「Ⅱ」のあいだにあるのは「上・下」の違いではない。上下の違いがあったとしてもそれを上下で呼ぶことは無意味である。これは「上・下」だけではなく「前・後」についても言えることである。

 この作品はまず「Ⅰ」が書かれ、中断ののちに「Ⅱ」が書かれている。引用した「梯子」の文は「Ⅰ」に書かれている。「Ⅰ」に書かれているが、入沢はすでに「Ⅱ」を予感している。無意識のなかで「Ⅱ」は平行して書かれている。
 どんな文学作品でもそうだが、筆者のなかには書きはじめと同時にその終わりが予感として存在する。全体が見えなくても、予感としての全体がある。ことばとして存在していない「結末」がひそかに書き出しに影響している。
 この平行して書かれていることば、無意識のことばのゆえに、入沢は作品を中断しなければならなくなったとも言える。

 この詩集は「到来まで」という作品で始まる。そのなかに《来るべき者》という表現が出てくる。その姿は正確にはだれも知らない。

《来るべき者》 この「べき」こそが問題の要 人々の
話は 細部において全てことなつてゐる

 「細部」が違う。それはだれもその存在を正確には知らないのに、ただその存在がたしかに存在することは知っていることを意味する。何かが違えば、それぞれの存在は別物である可能性があるのに、ここではそういうことは問題になっていない。細部は違っていて当然なのである。細部の違いを超越して「同じ」ひとつの何かがあるのだ。それは、ちょうど「予感」に似ている。何かを書きはじめるときの、結末の「予感」に似ている。書きはじめ、書き進めるたびに細部は違ってくる。違ってくるにもかかわらず、たしかにそこに近づいて行っているという感じが強くなる。
 「到来」で、入沢はその「予感」がはやくもやってきた、と書いている。

 来た! それは思ひもまうけぬ 西南の方角からやつ
て来た

 本当なら「結末」に来るべきものが、書き出してすぐ、2篇目で登場する。これは「予感」が入沢を超越したためである。その「予感」はもしかすると入沢が回避したかった予感かもしれない。ところが、ことばは、それを書いた瞬間から独自の展開をしてしまう。作者の思いとは別に独自に動き回り、全てを先取りしてしまうのである。
 この詩集には、「予感」に先取りされてしまった何か、ことばよりも先行してしまう「事実」のようなものにとまどう入沢がいる。とても風変わりな詩集である。

             しかし俺の身体は今しがた
どこかに どこだつたかは定かでないにせよ 置き去り
にしたはず それなら これは何 この背中 この肩甲
骨は?

 「俺の身体」。このことばに私はつまずいた。「身体」ということばはだれでもがつかう。入沢もつかっているかもしれない。しかし、私の印象には残っていない。身体の部分、目とか耳とか手とか脚とか。そういうものが出てきたとしても、身体全体とは別個のもの、ある特定の働きを明確にするものとして登場しているだけのような印象が残っている。
 この詩集では、入沢の精神といっしょに「身体」も動いている。あるいは、精神の動きを乱す存在として「身体」がその流れに突き刺さっているという感じがする。そして、その突き刺さった「身体」をどう超えていくかが、どこかで問われている。

  (私が書いているこの文章は、メモのメモのようなもので、まだ具体的には何も書いていない状態かもしれない。)

 「身体」によって本来の流れではなくなってしまったことば--それを超えるために「梯子」が求められているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 柴田千晶「横須賀」

2007-06-25 13:26:00 | その他(音楽、小説etc)
 柴田千晶「横須賀」(「hotel 」17、2007年05月20日発行)
 たぶん「俳句」なのだと思う。

朧夜の遠隔操作人堕ちぬ

 冒頭の、この作品が一番おもしろい。と、感じたのは、最初に読んだためなのか、それともほんとうに一番おもしろいのか。実は、よくわからない。
 朧夜。遠くマンションか何か。ひとが動いている。それを見ている。ひそかに、こころの奥に「あの人が落ちれば」と動く意識がある--と読んではいけないだろうか。「詩」ならば、私は確実にそう読む。そして、「遠隔操作」ということばに震える。
 「俳句」の場合、どう読むのだろうか。

機関車の突き刺さりたる春障子

 「機関車」というものを柴田はどこで見るのだろうか。「障子」はどこで見るのだろうか。私は、もう10年以上も、機関車も障子も見ていない。俳句が現実を描かなければならない理由はないのだが、どこから「機関車」や「障子」が出てくるのか私にはわからなかった。
 「新感覚派」のようなことばの出会い。そこに柴田は短い詩=俳句を感じているのだろうか。
 俳句と短い詩は別のものだと私は思うのだけれど。

魚眼レンズに血族結集花筵

 「に」が俳句ではないという感じがする。この粘着質(ここに柴田の「詩」があるのだけれど--「朧夜の」の「の」、「機関車の」の「の」も同じ)が俳句の世界とはちょっと違う。俳句は粘着質で、己から出発して世界を構築していくというものではないと思う。己と世界が一瞬の内に交流し、融合し、一体になるものだと思う。そういう一瞬の運動、一点でしか表現できない運動と「に」が矛盾する。接続を印象づける「に」ではなく、ここではむしろ切断、「切れ」がほしいと思う。
 「結集」も苦しい。「血族」がすでにかたいことばなのだから、ここは緩急をつけて、世界の幅を大きく取るべきだろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コリーヌ・セロー監督「サン・ジャックへの道」

2007-06-25 02:54:07 | 映画
監督 コリーヌ・セロー 出演 ミュリエル・ロバン、アルチュス・バンゲルン

 1500キロを歩く巡礼の旅。その過程で仲の悪い兄弟が仲違いをやめ、いっしょに歩いた仲間たちの団結も強くなる、という単純な話である。
 とてもおもしろそうな予告編だったが、予告編に欠けていたものが本編でも欠けていた。
 風景である。
 自然の野山の、人間を拒絶するような美しさ。あるいは様々な教会の人間を超越する建物の美しさ。そういうものが「断片」でしか出てこない。「断片」であっても、そこを歩いている人間を圧倒する存在感で登場するならおもしろいだろうが、単なる背景になりさがっている。
 自然や偉大な建築物には生身の人間には太刀打ちできない何かがある。そういうものの影響が「巡礼」には反映するはずである。15キロ歩くのではない。1500キロも歩くのである。肉体だけで自然に向き合うのである。そのときの自然との対話というものが肉体に反映されて当然なのに、この映画ではそういうものは描かれない。
 街中では自然におこなわれていることがいかに滑稽なことであるかを自然のなかで展開してみせるだけである。1本の木の下で全員が携帯電話をつかって話しはじめるシーンはその象徴的なものである。自然は、この映画では人間を戯画化するためにのみつかわれている。これではつまらない。
 ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「フィッツカラルド」は巨大な船で山越えをするというとんでもない映画であったが、そこでは自然が、緑が氾濫し、その氾濫が反乱そのもののように人間を圧倒する。そういう壮絶さがあった。自然と人間は相いれない。自然に敗北しながら人間は人間であることを確かめる。
 そういうシーン。敗北をとおしての人間同士のいたわりあいがない。せいぜいが、重い荷物をこっそり捨てるくらいである。まるでマンガである。
 こうした安直さは、たとえばキリスト教のイスラム教徒への許容力のなさに対して、主人公のひとりが差別だと怒るシーンに反映されている。教会は宗教の違いを受け入れない。けれどもいっしょに歩いた仲間たちは宗教の違いを超えて団結する……。こういうシーンが力を持つとしたら、歩いてくる過程で、仲間たちが宗教についてあれこれ対話するということが必要なのに、そういうものがない。何の議論も無しに、突然、そういう絵空事を主張しても、それはキリスト教を批判するための批判にすぎない。
 この映画の唯一の救いは難読症の少年である。バカと思われている。自分でもバカであると感じているらしい。この少年が唯一人間らしい反応を一貫して持続し続ける。母が死ぬなんてどんなに寂しいことだろう。人間が死ぬなんてどんなに悲しいことだろう。そういう視点で人間と絶えず接している。彼だけが一貫して愛を生きている。その愛を、やがて全員が共有するようになるのだが、これもまたちょっと安直な感じで描かれている。
 ほんとうに映画でしか描けないものがあるはずなのに、それを省略して、ストーリーにしてしまっている。映像が欠落して、ことばだけが一人歩きしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ44)

2007-06-25 00:10:50 | 詩集

 入沢康夫『夢の佐比』(1989年)。
 「「夢の錆」異稿群」。これは散文形で書かれた「夢の錆」に対して「異稿」という意味だろう。しかし、「異稿」という限りは、そこに「同稿」というものが含まれていなければならないのではないだろうか。あるのかもしれないが、一目でわかる、というものではない。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」の詩のように、「校異」が存在するような形では、そこには違いが存在しない。
 なぜ「異稿群」なのかわからないのだが、同時に、これがほんとうに入沢のことばなのか、と思う行も出てくる。
 「Ⅲ(屋根の棟に)」の後半。

もう動けなくなつてしまつたのは
何か どこかで まちがつたのかもしれないと
私の心でない もう一つの心が
どこかで考えてゐるやうであつたが
あれも やはり私の心かもしれないし
それとも
どこにもないのかもしれない
いまの私に 心などは

 「あれも やはり私の心かもしれないし」の「あれも やはり」という語調にのみ入沢を感じる。ただし「あれも やはり」の1字あきを存在しないものと考えたら、のことではあるのだが。
 どうして入沢はこの詩群を書いたのか。

 私にとってなじみ深い入沢も、随所にはあるのだが……。たとえば、「Ⅴ(漂白)」のなかほど。

天の軌道から垂れ下がる大蛇の尾
鳥どもは右に大きく傾いた帆げたにひしめき合ひ
真上に輝く《青みを帯びた環に囲まれた赤い星》を崇める
遥かな島の湖の中の岩の上の卵の殻
その中にあるといふ宝玉は 実は蜥蜴の糞にすぎない
死者たち全ての願望が凝つて成つた(と思はれてゐる)
どすぐろい翼を持つた太古の爬虫の……

 「宝玉」と「糞」というような激烈な対比、対比によって輝くことば。「成つた(と思はれてゐる)」というような先行することばをすぐに否定する(疑問視する)ことば、その接近感。そこには一種の「ゲシュタルト」の裂け目がある。そして、その「裂け目」はまたある意味では「ゲシュタルト」そのものをつくりだしているのだが。

 入沢のことばはいつでもある運動を含んでいる。その運動がある世界を描き出す。と同時に、その描き出したもの、というより、運動が描き出す世界の、その描くスピードが速すぎるので、ことばから「別の意味」が浮かんできてしまうような、「誤読」を誘う何かがある。
 正確に読まれない--そうすることが唯一正しい読み方だというような、不思議なことばのスピード。スピードが描き出す幻影。幻影であるがゆえに、人はそこに自分自身の見たいものを反映させる。
 --これは、私自身への批判を含めてのメモなのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」ほか

2007-06-24 22:39:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」ほか(「hotel 」17、2007年05月20日発行)

 海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」を読みながら不思議な気持ちになった。引用が多く、海埜自身が何を感じたかわからない。
 セザンヌは私の大好きな画家のひとりだ。セザンヌを見るとき私は何を見ているかといえば何が描かれているかというよりも、色だ。どの色も私には出せない。塗り残しの「白」、キャンバスの色さえ、私には出せない。どうしたらこんなに堅牢な色になるのかわからない。その色は、たとえば林檎やポットや木々や洋服そのものが持っている色を超えている。現実に存在する色はもっと不確かだ。セザンヌの視力をとおして、その色が鍛え上げられ、それしかないという感じで絵のなかにある。そのことに私は驚く。
 ひとのセザンヌに対する感想と私の感想が重なり合わなくても不思議なことではないけれど、あまりにも印象が違いすぎて、とまどってしまった。

 詩の場合も、内容よりも私は「ことば」そのものを読んでいるのかもしれない。私にはつかえないことばというものがある。そういうものに出会ったとき、私は驚く。そして、その驚きとともに、その詩にひかれる。
 海埜は「とんぼ玉、買い」という詩を書いている。その1連目。

そのとんぼをこぼしましたか
こえのきれつがどこまでも 闇
いちにあてがい
たまを あなを
糸のはてにひろってやる
くるんだことがしりたくなって
ぬった筆をしみました

 何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、「ぬった筆をしみました」の「しみました」に非常に驚いた。「しみる」ということばは知っているが、こんなふうにつかうとは知らなかった。知らなかったということが、非常に印象に残るのである。
 海埜の、この「しみる」のつかい方が正しいかどうかわからない。しかし、セザンヌの絵の色を見て、あ、あの色をどこかでつかってみたいという衝動に襲われたときのように、このことばをどこかでつかってみたい、という気持ちにさせられる。
 詩とは、たぶん、そういう衝動を引き起こすことばなのだ。
 こんなふうに、ことばをつかってみたい。こんなふうなつかい方をしてみたい。こんなふうなつかい方でなら今の自分の気持ちをはっきりさせることができる……。そう思わせることばが「詩」なのだ。
 そうしたことば、そうした1行が、この詩のなかにはほかにもある。

といきのながめかたをなんどもきく

 3連目のなかほどに出てくるこの1行の美しさ。強さ。ひとが吐息を吐いているのを何度も見たことがある。吐息なら何度も聞いたことがある。見ることと聞くことが、そのときどんなふうに私のなかで融合していたのかわからない。思い出せない。けれども、たしかに吐息は眺めることと聞くことはどこかでつながっている。

といきのながめかたをなんどもきく

 この1行が、吐息を吐く人間と、「私」の距離をくっきりと浮かび上がらせる。そういう時間があった、ということをくっきりと思い出させる。
 こういうとき、セザンヌの「色」そのものを見つめたときのように、私は「ことば」そのものを読んでいるという気持ちになる。



  野村喜和夫「わたくしはけさ起き上がり肺胞きりり青空をみていました」は、ことばをことばそのものとして読ませることを狙った詩かもしれない。

わたくしはけさ
起き上がり
肺胞きりり
外に出て
伸び
樹を包み
祖を接ぎ
石を脱ぎ
風をいたみ
すいと
また内へへこんで
妻を詰め

 「石を脱ぎ/風をいたみ」の2行が美しい。特に「風をいたみ」。あ、いま、こんなふうにつかうのか、と驚く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ43)

2007-06-24 00:25:05 | 詩集

 入沢康夫『夢の佐比』(1989年)。
 「夢の錆 あるいは過去への遡及」「夢の錆 遺稿群」のふたつの部分から構成されている。最後に「付記」があって、それには次のように書いてある。

 「佐比」は「●」(利剣)であり、「鋤」であり、「荒び・寂び」であり、とりわけここでは「錆」である。
               (谷内注・●は原文は「金偏に且」、すき。)

 まるで、この付記のために詩集全体が書かれている、という印象がある。「佐比」が「錆」である、と言いたくて書かれた詩集という印象がある。

 私は「佐比」の出典を知らない。そして、ただ想像するだけなのだが、入沢はある文献で「佐比」ということばに出会った。それは「さび」と読むのではないのか。「錆」なのではないのか、と思ったのではないのか。文脈からすると、するどい刃物(剣)のようである。何かを耕すものでもあるらしい。--しかし、その耕す(あるいは切る)ということと、「錆」はどこかで通じているのではないのか。「耕す」ということは、土を豊かにすることだ。豊かにするということは、それはそのままでは豊かではないということだ。いわば「錆」ている、つかいものにならないということと、どこかで通じているのではないのか……。あるいは逆に、「耕す」--すると、そこは一瞬は豊かになるが、何かを生み出したあとは「耕す」前よりも貧しくなる。荒んでしまう。寂しいものになる。「錆」びてしまう……。(たぶん、あとに書いた方が入沢の考えに近いように、私は直感的に感じる。)
 ということは、もちろん、この詩集には書かれてはいない。入沢はそんなふうに感じた、思ったとは書いていないけれども、私はなんとなくそんなことを想像してしまった。

 詩集のなかでもっとも印象的なのは、書き出しである。

薄暮の背広に包まれた肉質の悪夢 随所に踞る消炭の行
路標識 季節の裂け目にうづたかく積つて行く綿埃 再
会した二人の友 前世の友のあひだを 走り抜けるまつ
白な雉の幻 この雨がちの箱庭の中で そこだけが深々
と燐光を放つてゐるidの井戸
 (谷内注・「踞る」は原文には「うづくま」るとルビがついている。)

 「id」。精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。「源泉」であるから、それはすでに「井戸」なのだが、それにさらに「井戸」と繰り返す。繰り返すことで、ことばをはがす--耕す。
 「裂け目」「再会」「前世」。「再会」には「裂け目」がある。「前世」にも、「前世」と「いま」という「裂け目」がある。「裂け目」とは断絶であり、それは接合(再会)によって明確になる。断絶と接合は切り離せないものである。「耕す」とは、そういうことかもしれない。何かを耕すことは何かを断ち切ることであり、新たな接合を演出することである。そして、その新たなものもやがて古びていく。
 「佐比」(鋤)と「錆」のあいだには果てしない循環がある。

 「id」の「井戸」。覗き込んで、そこに見えるのは「わたし」の姿である。深く深くのぞけばのぞくほど、それは「わたし」に近くなる。何か、そういう物もある。

 この詩、「夢の錆」は、不思議な具合に展開する。たとえていえば「歌仙」のように展開していると私には感じられる。ある結末が設定されているのではなく、最初に提示されたことば(1連目)はそれ自体で独立している。2連目は1連目を受けてはいるけれど、1連目の延長にあるのではない。古い土地を耕し新しい植物を植えるように、何か新しものが展開していく。
 そして、それは入沢が付記で書いていた「佐比」から「鋤」「荒び・寂び」「錆」への移行のように、何か少しずつずれていくという感じでもある。

 「歌仙」のとき、参加者は必ずしもその場の「現実」を句にするわけではない。古典を引用したりもする。そこで問題になっているのはことばの運動と、ことばの共有である。あるいは「文化」の共有であり、「誤読」の共有である。
 そういうことを、入沢はひとりでやっている。「句」ではなく、数行の「詩」を組み合わせることでやっている。
 そんなふうにして、私はこの詩集を読んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀田孝一「猩 猩 記」

2007-06-23 21:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 堀田孝一「猩 猩 記」(「鷭」2、2007年05月31日発行)
 庭で吐血するか。そのあと、

 夜 どうしてもいっしょに行く と言って用意を
はじめたおふくろをふりきって 私はひとり 町の
内科医院へ車を走らせました 草ぶかい堤防を 何
度か立ち止まり 我家の方をふりむいたりしました
 どんよりとした闇でした くま川に架かる歩道橋
の灯りが押さえつけられた仔猫たちの眼のようで
川面にちゃぷちゃぷゆれるそれがふいに涙をかきあ
げました

 この部分に、なんともいえない「正直さ」を感じる。不安ゆえに、ひとりで病院へ行きたいという気持ち。その裏側には、母を心配させたくないという気持ちもある。それでいて、母というか、肉親というか、「家」にすがりたい気持ちもある。「仔猫たちの眼」は堀田自身の眼でもある。押さえつけられて、どうすることもできない眼。いのちと風景が一体となっている。
 最後の方の「それが」の「それ」を特定するのはなかなか難しい。
 堀田自身にも、「それ」が何をさすのかは具体的にはいえないのではないだろうか。それまでに書いてきたことばすべてが「それ」としかいいようがないのではないだろうか。こういうことばの力が、私は、実は好きである。
 ことばがふいにことばの機能を果たさなくなる。指し示しているものがあいまいになる。あいまいになればなるほど、「それ」はこころのなかで巨大になる。「涙」になってしまう。「涙」になって、あふれてしまう。
 「涙をかきあげました」の「かきあげました」もいいなあ、と思う。
 いのちと風景が一体になり、その風景がいのちの内部の「涙」を「かきあげる」。こみ上げる涙ではなく、かきあげられる涙。

 「わたし」というひとりの人間が存在するのではなく、「わたし」のまわりに風景が、自然が存在する。あるいは「わたし」のまわりに、「おふくろ」や、その他のひとが存在する。そうした存在とともにあって、「わたし」以外のものが「わたし」の内部に入ってきて、「わたし」を突き動かす。
 これは、「わたし」だけにかぎったことではない。堀田のまわりのすべての存在、犬やじいちゃん、ばあちゃんも同じである。
 肉体を病んで、そういう原初的(?)な肉体感覚がよみがえったのか、堀田自身が最初からそういう肉体感覚をもっていたのかよくわからないが、この感覚をおしひろげていくとおもしろい言語空間ができると思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする