詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

徳永孝「森の小馬」、池田清子「曇り」、緒方淑子「時季」、青柳俊哉「鏡」

2022-01-31 22:16:21 | 現代詩講座

徳永孝「森の小馬」、池田清子「曇り」、緒方淑子「時季」、青柳俊哉「鏡」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年01月17日)

 受講生の作品。

森の小馬 徳永孝

森の少し開けた所に湖が有りました
そのかたわらに小馬が居たので
話しかけてみました

こんにちわ 何をしているの?
水仙の花を見ている
花はどれも好きだよ

お姉さんはどうしてここに来たの
あなたに会うためかもね
うそだあ
そうね ちょっと言ってみただけ

ひとりなの?
ひとりって何?
友達や仲間がいない事よ
親せきはたくさんいるよ
アポロンの黄金の戦車を走らせたり翼をもって天を駆けるとか
馬車を引いて旅したり人を乗せて狩りに出かけたり
競走選手やポロの選手もいるよ
遠い親せきのユニコーンはプレイボーイって言われてる
乱暴なくせに乙女の前では優しくなれなれしいんだって

まあ いろいろな方がいらっしゃるのね
君は何になりたいの?
よく分からない どれも楽しそう
今決めなくちゃいけないの?
大人になれば何かの仕事をするものよ
その時好きな事をすればいいんじゃないの?

話し疲れた
そう? じゃあ私はそろそろ行くわね
さようならまた今度ね
さよなら

そして私はここへ戻ってきました
その後あの小馬に会う機会は有りませんでしたが
今どうしているのか
どんな大人になったのか
気になります

案外分かれた時のまま
変っていないのかも知れません

 受講生に、どんな意図で書いたか、何を書いたか説明してもらい、そのあとで感想を言うという形で講座を展開してみた。
 「湖、小馬の光景が浮かんできて書き始めたが、途中で主人公が交代した」
 この説明と関係があるのかもしれないが、途中の部分に「発話者」がだれなのかわかりにくいところがあったという声が出た。メルヘン、絵本、子どものときの心情かなあ、と思って読んだという意見も。終わり方が余韻に駆けるという指摘もあった。
 それと関係するが「今どうしているのか」以降は、「お姉さん」のことばと読むのがふつうだろうけれど、逆に、「小馬」のことばとして読んでみるのもおもしろいかもしれない。
 小馬が「あのとき会ったお姉さんは、どうなっている」そう想像してみるとどうなるだろうか。時間が経過して変っていくのは「子ども(小馬)」だけではない。「おとな」もまた変っていく。変っていくからこそ、この詩が書けたとも言える。
 あるいは変ってしまった「お姉さん」が、小馬は変わらずにいてほしいという願望をこめて、この詩を書いているかもしれない。そうだとすると、そこには「童心」の「自己」が投影されていることになる。
 「アポロン」からはじまる「小馬の親戚」には変わることのない「童心の夢」のが書かれているのかもしれない。

曇り  池田清子

晴れた日は
とても 太陽がまぶしい
雨の日は
とても 視界が悪い

雨のふる日も大雪の日もかけつけた
一途な雨女はもういない

とうとう
曇りの女になってしまった

 「車を運転していると、太陽がまぶしくて運転しにくくなった。曇りの日が一番運転しやすい」
 とても直接的な説明だったために、逆に読みにくくなったかもしれない。二連目がインパクトがあるという評価の一方、どこへ駆けつけたのかわからない、具体的な場面がわからないという指摘があった。活動的だったのに、それができなくなった。最終連が悲しいという感想も。
 三連目の「とうとう」は直前の「もう」とむきあっている。「雨女」はふつうは、何か大事な時(晴れのイベントの時)、雨を招いてしまう女という意味でつかわれるが、ここでは「一途な雨女」というつかわれ方をしている。これは「雨が降ろうが、やりが降ろうが」ということばを隠している。「もう」も「とうとう」も、その精神につながることばである。

時季  緒方淑子

秋のコーヒー 真冬に飲んでる
 引き出しに ある 冬のコーヒー

春には春のコーヒー 買うだろう
 棚に 手を伸ばして

そして開けるのは 冬の
 春の中の 冬のひと息

 「季節限定のコーヒーを買うが、飲むタイミングがずれる。季節に追いつけない自分がコーヒーに象徴されている。一方で、コーヒーを開けた時と、現実の季節とのずれを楽しんでいるかもしれない」
 三連目が印象的。朗読を聞くとニュアンスがつたわってくる。繊細な感じがとてもいい、という声。
 その三連目の「そして開けるのは 冬の」の「冬の」は何だろうか。この「冬の」をどう読むか、質問してみた。
 「冬の思い出、冬の名残、冬のまどろみ」「冬の実感であって、思い出ではないと思う」
 私は次の行の「冬のひと息」と読んだ。これはいわば「誘い水」のような働きをしている、と。「冬の何か」といいたい。でも、そのひとことがなかなか出てこない。でもとりあえず「冬の」と書いてみる。それから、ことばを動かしているうちに、遅れて「ひと息」がやってくる。しかも、ただ遅れてついてくるのではなく、追いついて、一緒にそこにいる感じ。
 この感覚がいいなあ、と思う。それこそ、ことばの「呼吸」なのである。
 そこで、また質問。書き出し。「秋のコーヒー 真冬に飲んでる」。この一行、あなたなら、どう書く?
 「助詞の『を』を書く。秋のコーヒー『を』 真冬に飲んでる、と」
 緒方は意識的に助詞を省略し、ことばが「散文化」するのを防いでいる。
 

鏡  青柳俊哉

未明の空に鳥がうまれ 
暗い水田(みずた)に美しい叫びがふる 
空にしるされる覚醒 鳥の声をながれる朝の水音 
自然はよく響く鏡

冬の黄昏を 艶(なま)めかしい声で鴉が飛びすぎていく 
朝には青い蛙がなき 夕ぐれには茶色い蟋蟀がわらう 
夏草を摘みながら 落日にまるく染まり眠る女 
生きものたちの声と色彩が一つに溶けあう鏡

ヒメジョオンの小さな太陽を 童女は水辺の空に
かえした 花たちは柔らかい音をたて 水中を
上っていった 花や生きものたちの声が 光と水に
波立ちふるえ 夜に高く硬く澄んでいく鏡

 「自然は鏡であり、何かを反響している。鏡は、反響、呼応の象徴」
 一連目が音、二連目が色、三連目が光と変化していく。透明な情景が重なり合う感じが美しいという感想。
 私は三連目「ヒメジョオンの小さな太陽を 童女は水辺の空に/かえした」という描写が美しいと思った。水に映る空、その空のでヒメジョオンの花が太陽になるという変化がいい。さらにそれが「水中を/上っていった」という動きがいい。童女が立ち上がり、視線の変化が生み出す世界の変化。そのなかにすべてが統一されていく、その透明感。

 

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇133)Jose Enrique Melero Blazquez

2022-01-30 22:58:44 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo 7

 

Que fuerza tan misteriosa.
Este hierro esta a punto de tomar forma a si mismo, mientras se quema solo.
Ademas, es una forma nueva que nadie habia imaginado nunca.
Es como si el corazon de hierro manda a los huesos y musculos de hierro.
"Convierteos en una nueva forma".
Al leer este, Jose podria ser de enojarme.
"Yo soy el que hace el trabajo. No es hierro".
Sin embargo, Jose esta tan integrado con hierro que me hace sentirlo que el hierro esta haciendo su propio trabajo.
Jose es, por así decirlo, una "partera"....para mi poinion.
Hay un poder misterioso que me hace sentir asi.
Mi espanol es pobre.
No puedo escribir lo que pienso en espanol.

 


なんという不思議な強さ。
この鉄は、まるで自分で燃えながら形になろうとしている。
ホセがつくっているのではなく、鉄が自分で新しい形になろうとしている。
しかも、いままで誰も想像しなかったような新しい形に。
まるで鉄の心臓が、鉄の骨と筋肉に対してけしかけているようだ。
「新しい形になれ」と。
こんなことを書くと、ホセが怒るかもしれない。
「作品をつくっているのは私だ。鉄ではない」と。
しかし、鉄が自分で作品をつくっていると感じさせるくらい、ホセが鉄と一体になっている。
ホセは、いわば「産婆」のような存在だ。
そう感じさせる不思議な力がある。

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

2022-01-30 11:31:37 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(5)

 「一元論」についてビジターのGladys Arango Hern ndez から質問を受けた。そのとき、こう答えた。
La definicion de monismo es dificil.
Creo que hay diferencias en la definicion dependiendo de la persona.
Escribo mi forma de pensar. 
No distingo entre cuerpo y mente. 
No distingo entre yo y los demas. 
No distingo entre yo y las cosas (por ejemplo, arboles y rios). 
Reconozco el mundo como "caos". "Caos" significa que la forma es indefinida y no hay distincion.
Entonces, el mundo aparece frente a mi segun sea necesario. 
Creo que estas aqui porque tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece como tu. 
Leo la palabras las de Garcia Marquez. Cree que tengo un problema que aun no he resuelto y se aparece frente a mi como las palabras de Garcia Marquez.
Reconozco la existencia de los seres humanos (mi existencia) asi. 

 すこし抽象的すぎたかもしれない。
 私がこれまで書いてきたことに触れながら、
書き直してみる。

 「oxymoron」は、私の考えでは「一元論」に通じる。「el rencor feliz 」はrencorとfeliz が強く結びついたものである。el rencor feliz =rencor+feliz 。ここにはrencor→feliz とrencor←feliz のふたつの動きがある。これは、区別がつかない。前者が後者を結びつけたのか、後者が前者を結びつけたのか、区別がない。どちらでもいい。そこにはただ「運動」があるだけである。まだ名づけられない「感情」がある。この「名づけられる前の感情」を「混沌」と呼ぶ。ここから「 rencor 」だけが姿をあらわすとき「感情は「rencor」になる。「feliz 」があらわれるとき「feliz 」になる。しかし、「rencor」も「feliz 」もすでに私たちになじみのある感情である。彼女が感じたものは、そういう私たちの知っている感情ではない。新しい感情である。「rencor」と「feliz 」が分かちがたく結びついた感情。その結びつきの「運動」が、結びついたまま「世界」へあらわれた。ことばは、その「運動」を、そのままあらわしている。そして、そのとき「世界」とは「ことばの運動」である。「ことば」の運動から、そのとき、その瞬間に「世界」があらわれる。これが、私の考えている「一元論」である。

 「oxymoron」は、意識の絶対的な覚醒である。「rencor」と「feliz 」という結びつきは、ふつうの感情ではありえない。しかし絶対的な覚醒のなかでは、それはあり得る。新しい感情なのである。
 
Era como estar despierto dos veces. (p92)

 という文章がある。「despertar dos veces 」を「一元論」から見つめなおしてみる。これは、一度目覚めたあと、もう一度新しい世界に目覚めるということである。

despertar una vez (=primera vez )y ver el mundo→despertar dos veces (=segunda vez )y ver el mundo nuevo
 このとき「→(運動)」の「主語」は「人間」であるが、el mundoがel mundo nuevoに変わったとき、「主語」もまた新しい主語になっている。主語の意識がかわったときと、主語は新しいいのちを生き始める。世界は、そうやって変化しづける。世界に存在するといえるのは、この運動だけである。
 一度目の目覚めで「rencor」という感情に気づく。二度目の覚醒で「rencor」に「feliz 」が結びついていることに気づく。そして、この場合、絶対的覚醒の方が、最初の目覚めを支配してしまう。生まれ変わる。「rencor」に「feliz 」が結びついているというよりも、「rencor」から「feliz 」が誕生してくる感じだ。
 どちらが重要かは、あまり大事ではない。「生まれ変わる」という運動の方が大事だからである。生まれ変わるとき、その肉体のなかには、過去の「血(いのち)」が引き継がれる。これは、人間も、感情もことばも同じこと。

 「生まれる/生まれ変わる」に限らず、運動はもちろん「主語/存在」を必要とする。「私」がいなければ「感情」もない。「私(主語/存在)」がなければ運動は描写できない。しかし、運動をともなわない存在は、存在したことにならない。「私」にしろ「感情」にしろ、それはまだ形にならず「混沌」のなかで、生まれる前のままでいると考えている。「ことば」になって生まれるという「運動」のなかで「主観/精神」と「客観/肉体」を統合される、というのが私の「一元論」。

 私は、ことばがどんな運動をしているかを読みたい。ことばの運動に焦点をあてて、文学を読んでいる。

 

 

 

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「敵基地攻撃」改称論

2022-01-30 09:56:05 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞の政治面。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220129-OYT1T50255/ 

「敵基地攻撃」改称論…自民「反撃」「打撃」案、公明「先制と誤解も」
↑↑↑↑↑
 なぜ「改称」なのか。なぜ「ことば」なのか。
 この問題は、よく考えてみないといけない。「戦争法」のとき「集団的自衛権」ということばが飛び交った。そして、そのことばは、多くの人によって、次のように誤解された。「日本が中国や北朝鮮から攻撃されたら、日本だけでは対抗できない。アメリカの協力だけでも不可能だ。近隣諸国と共同して(集団になって)日本を守る(自衛する)しかない。集団的自衛権は、日本にとって重要な防衛政策である」。
 これは「日本の自衛隊が集団的自衛権を行使する」という文脈を無視している。つまり「集団的自衛権」の「主語」が「自衛隊」であることを忘れた論理である。しかし、この「主語」をぬきにした論理、主語を「近隣諸国」にすりかえた論理が、安倍を支持するサイトで横行した。
 「集団的自衛権の主語は自衛隊」と説明しても、だれひとり納得しない。「集団」も「自衛」も誰もが知っていることばである。その知っていることばを自分の知っている定義で組み立て直して理解する。政治家は、その「国民の日本語能力」を利用する。
 今回の場合、どうか。

 「敵基地攻撃」。「敵」も「基地」も「攻撃」も知っている。敵は中国、北朝鮮。基地はミサイルを配備している場所。攻撃は、ミサイルを打ち込むこと。つまり、中国や北朝鮮のミサイルに向けて日本がミサイルを発射するのが「敵基地攻撃」である。どこにも間違いがないのだが、これでは「自衛」の感じがなくなる。「自衛」の感じを出さないと、国民に受け入れてもらえないのではないか、と心配しているのである。
 「戦争法」では「集団的自衛権」が絶大といっていいほどの効果を上げた。名称が「日米共同戦争権=アメリカが攻撃されたら、いつでもどこへでも自衛隊を派遣し戦争できる法律)」だったら、国民の受け止め方は違っていただろう。
 自民党の一部や公明党が狙ってるのは、どうやって「自衛権」の要素を盛り込むか。どうすれば国民の目をごまかせるか。そのための「ことば探し」である。

 記事にこう書いてある。

 政府・与党内で、敵のミサイル発射基地などを自衛目的で破壊する「敵基地攻撃能力」の呼称見直しが、能力保有に向けた議論の焦点の一つに浮上している。特に、保有に慎重姿勢の公明党には、国際法に抵触する恐れのある「先制攻撃」と混同されかねないとの懸念が強い。
 公明の北側一雄副代表は27日の記者会見で、「もっと違った表現にしてもらいたい。言葉として、『敵基地』も『攻撃』もふさわしくない」と述べた。
↑↑↑↑↑
 「自衛目的」と、まず書いている。「自衛目的」なら何をしてもいいという感じを出すための工夫をしようとしている、ということである。まあ、これは、「戦争法」が問題になったとき「創価学会の女性たちが戦争法に反対している」をアピールしたのに似ている。なんとしても「戦争に反対している党」をアピールしたいというだけであって、戦争に反対というわけではないのだ。(反対アピールしただけで、創価学会の女性たちが、自民党、公明党以外の党に投票したかどうかは、結局はわからない。わかっているのは公明党が議席を減らさなかったということだけである。)戦争に反対している(戦争反対という意見は持っている)とアピールするけれど、戦争には賛成というのが公明党(創価学会)の「戦略」なのである。

 問題は。

 こういうとき、こういう「事実」をどう報道するかである。読売新聞は、ただ「こういう動きがある」とだけ書いている。「こういう動き」に対して、読売新聞はどういう立場をとるのかを書いていない。事実を伝えるために、どういうことばを選択するか、という姿勢を示していない。
 政府がつかえば、それをそのまま正確にコピーして伝える、というだけだろう。
 これは平成の天皇の「生前退位」報道のときとおなじである。誰が、何のために「生前退位」という「造語」を生み出したのか。(平成の皇后が、誕生日の談話で「生前退位」ということばを聞いたことがない、と語ったために、「生前退位」という表現を思いついた人間が特定されそうになった。そのため、あわてて「生前退位」ではなく「退位」という表現に切り換えた。まず読売新聞が、その先陣を切った、ということを絶対に忘れてはいけない。)
 「ことば」には「ことばを選択する」ときの「意思」がある。その「意思」にまで踏み込んで「ことば」を見つめないといけない。
 いま見つめなければならないのは、「敵基地攻撃」を「改称」することで、ほんとうに狙っているのは何か、ということである。
 私は、次の部分に注目した。
↓↓↓↓↓
 北側氏には、近年は移動式発射台や潜水艦からのミサイル発射が可能となっていることに加え、ミサイル攻撃だけが脅威ではないため、標的は「敵基地」に限らないとの思いがある。
↑↑↑↑↑
 「ミサイル基地攻撃だけではダメだ」と、ほんとうはいいたいのだ。つまり、もっと軍備を増強する必要がある。「移動式発射台や潜水艦からのミサイル発射」に対抗するために、日本も「移動式ミサイル発射台」や「ミサイル発射ができる潜水艦」を導入すべきだという方向へ論を展開したいのだ。
 そういう方向へ論を展開していくために、自民党は公明党を利用しているし、公明党はそれを知りながら自民党の「お先棒担ぎ」を嬉々としてやっている。「反戦公明党」をアピールしながら「戦争大好き公明党」を隠せる絶好の機会だからだ。「戦争法」のときとおなじだ。
 そして、この背後には。
 国民への配慮なんかは、まったく、ない。アメリカの軍需産業を儲けさせ、その見返りに「日本の国会議員」でありつづけるという「保身」の思いしかない。
 いったん戦争がはじまれば、極限状況に達するまで、戦争は終わらない。沖縄、広島、長崎だけではない。第二次大戦後のアメリカのかかわった「戦場」を見れば、すぐにわかる。どんな戦争も「自衛」を名目にはじまり、「反撃」を名目に拡大していく。「改称」するなら、そういう事実を隠すのではなく、もっと明確になるように改称すべきなのだ。
 自民党が進めているのは「敵基地攻撃」能力のアップではなく、「敵攻撃誘発」システムの完備なのである。日本が軍備を増強すればするほど、敵(中国、北朝鮮?)は日本の基地を攻撃するための準備を進めるだろう。名目は、やはり「自衛」なのである。日本から侵略されないために。なんといっても、日本は中国や北朝鮮に侵略している。「自衛力/防衛力」を増強しようとするのは当然のことだろう。
 侵略戦争への反省と、その戦争に関する近隣諸国との「共通認識」を形成するということからはじめないと何も解決しない。アメリカの手先になって、というか、アメリカの言うがままにアメリカの軍需産業に金をつぎ込み、国民は貧乏を強いられるだけだ。

 それにしてもなあ。
 こんな記事を嬉々として書いている読売新聞が信じられない。
 「敵基地攻撃」が「敵基地反撃」に改称されたら、読売新聞が報道した通りになった、とはしゃぐつもりなのか。読売新聞が報道したから「敵基地反撃」になった、そして国民が納得できるものになった、読売新聞は世論をリードする新聞である、というつもりなのかもしれない。

 

 

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ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★)

2022-01-29 15:01:25 | 映画

ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★) (2022年01月28日、中州大洋、スクリーン2 )

監督 ウェス・アンダーソン 出演 手作りのセット、いろんな人たち

 たいへんたいへんたいへんたいへんたいへん、おもしろい。でも、★ひとつ減点。だってさあ、最後の最後で、おもしろさを「解説」してしまっている。シェフが記者に答えた「セリフ」。「毒は、とてもうまかった。初めての味だった」と言わせている。しかし、その「初めての味」はぜんぶことばにできる。つまり「知らなかった味」ではなく「知っている味」の組み合わせ。つまり「組み合わせ方」が新しかったのだ。そして、この「解説」は単に「解説」しているだけではなく、長くなるからと言って切り捨てた「記事」を拾い上げてみたら、そこに書いてあった。それを「採用する」という手の込んだ仕掛けなのである。
 この「手の込んだ仕掛け」をいちいち言っていてもしようがない。でも、いちいちいわないとほんとうは「味わった」ことにならない。シェフが「毒の味」をひとつずつ語ったようにね。私は、そういうことは好きだけれど、大嫌いでもある。めんどうくさいからね。なかには「知らない味」もあり、それを書かないと、きっと「あの味が抜けている」ということを言う人がいる。まあ、それでいいんだけれど。
 「正確」がどうかわからないが、ひとつだけ書いておく。
 この映画ではセットが魅力。ほんものそっくり、というのではなく、手作り感がある。つまり、セットとすぐにわかる。そこに、「手作り」して遊んでいる感じがあって、とても気持ちがいい。できた料理を、入り組んだ階段をのぼって届ける。その、なんでもないけれど、単純で変な入り組み方の「リズム」。瞬間的に、ジャック・タチを思い出した。「ぼくの伯父さん」だったかなあ、パリの下町、入り組んだ街の高いところに住んでいる。その「住処」の雰囲気に似ているねえ、この手作りのセットの感じ。「ぼくの伯父さん」は、自分の家を出るときに、遠く離れた建物の鳥籠の鳥に、鏡で太陽の光を反射させて合図する。朝を送る。そのシーンが私は大好きだが、そういう「誰の迷惑にもならない自分だけの遊び」という感じが全体を支配していて、それがとっても、とっても、とっても、とってもいい。
 でもね、これは、やっぱり言ってはいけないことなんだと思う。言いたいけれど、ぐっとこらえて、ときどき、ついもらしてしまうという感じくらいがいい。最後にまとめて言ってしまっては、「わからないやつは馬鹿だ」といわれた気持ちになる。まあ、言われたって、平気だけれど。
 役者も、みんないいなあ。「演じない」ことを演じている。あるいは「演じる」を演じていると言えばいいのか、よくわからないが。登場人物になってしまわない。つまり、「役(登場人物)」を見ているというよりも、役者をみているという感じにさせてくれる。「登場人物」なのだけれど、登場人物であることを忘れさせて、この人、こういう人だったんだあと錯覚させてくれる。「あれは、役なんですよ。私じゃないんですよ」「えっ、でも、あなたにしか見えない。役じゃないでしょう」というような、とんちんかんな会話をしてしまいそう。そのうちに役者の方で、まあ、どう見るかは観客の自由だけれどという声をもらすだろうなあ。
 というような、どうでもいいことまで、私は考えてしまう。感じてしまう。この妄想している時間が楽しい。映画を忘れる。(笑い)
 映画にもどると。
 最初に「料理」が出てきて、最後にもまた「料理」が出てくる、という、「ほら、きちんと終わったでしょ」という感じも好き。
 最後の「ことばの解説」がなければ、★10個つけたいけれど、と思いながら★4個。こんな変なことで悩むというのも、まあ、快感ではあるね。

 

 


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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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なぜ、期間短縮?

2022-01-29 13:56:01 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞の、次の記事。

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220128-OYT1T50179/ 

濃厚接触者の待機期間、7日間に短縮…首相「社会経済活動とのバランス取る」

 岸田首相は28日、新型コロナウイルスの変異株「オミクロン株」対策として感染者の濃厚接触者に求める待機期間について、現在の10日間から7日間に短縮すると表明した。エッセンシャルワーカーは2回の検査を組み合わせ、5日目に解除する。首相官邸で記者団に語った。
↑↑↑↑↑
 これは、あまりにも状況を無視した政策だ。感染者が現象に向かっている、ワクチンの接種が進んでいるという状況なら、まだわからないでもないが、感染者は急増している。28日の感染者は8万人を超えた。それなのに、3回目の接種をすませた国民は、たった2・7%にすぎない。
 私の知っているスペイン人は、3回目の接種を受けているが感染したという。2歳の孫が感染したという人もいれば、家族6人が感染したという人もいる。私でさえ、そういう情報をもっているくらいだから、政府はもっと情報をもっているだろう。
 いまは、濃厚接触者の待機期間を短縮するかどうかではなく、ワクチン接種をどれだけはやく進めるか、それを考えるべきだろう。
 なぜ、突然、こういうことを打ち出したのか。

 岸田首相が28日、首相官邸で後藤厚生労働相らと協議して決めた。オミクロン株の感染拡大で濃厚接触者も急増し、職場を欠勤する人が増えているため、一定の感染拡大リスクを受け入れつつ待機期間を短縮しなければ、医療機関や企業の業務継続が困難になると判断した。
↑↑↑↑↑
 「医療機関や企業の業務継続が困難になる」と書いてあるが、医療機関の問題なら、医療機関に限定して期間を短縮すればいいだろう。医療ではなく「企業」が問題なのだ。
 安倍が登場して以来、情報操作で株は上がったかもしれないが、実質的な経済は悪化をたどっている。円高でも売れるヒット商品が何もない。円安が進むから、輸出商品をもっている企業は潤うが、輸入品を加工して販売している企業は赤字になり、それが日本で消費される商品の値上げにつながっている。国民は、どんどん貧乏になっている。「企業の業務」を優先するために、貧乏な国民は健康を無視して働かされる。そして、実際に、働かなければさらに貧乏になる、なけなしの貯金を取り崩し生きていくということになる。 あまりにもひどい。
 すくなくともワクチン接種3回が、国民の過半数になるまでは、まず感染防止を最優先に考えるべきだろう。

 さらに、米軍関係者の外出制限を31日で解除するとも言う。感染状況が改善しつつある、というのが理由だが、米軍関係者が市中で感染し、ふたたび基地内で感染が爆発し、それがさらに市中に広がるとは考えないのか。

 で。
 コロナとは一見関係ないのだが、こういうニュースもある。

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220128-OYT1T50176/ 

「佐渡島の金山」世界遺産推薦へ、首相表明…韓国は相星駐韓大使を呼び抗議

 岸田首相は28日、「佐渡島の金山」(新潟県)を世界文化遺産の候補として国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)に推薦する方針を発表した。来年の登録を目指し、2月1日の閣議了解を経てユネスコに推薦書を提出する。
 首相は首相官邸で関係閣僚と協議後、「早期に議論を開始することが登録実現への近道との結論に至った」と記者団に述べた。
 昨年12月、佐渡島の金山が国内推薦候補に選ばれた際、文化庁は「推薦の決定ではなく、今後政府内で総合的な検討を行う」と異例の付言をしていた。
↑↑↑↑↑
 一時は「推薦見送り」と報道されていたが、方針転換である。何があったのか。読売新聞は、こう書いてる。

佐渡金山推薦、政権安定へ保守派に配慮…首相が「正面突破」

 岸田首相は28日、「佐渡島さどの金山」を世界文化遺産候補として、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)に推薦すると決断した。反発する韓国への配慮などで先送りすれば、自民党内や保守層の理解が得られないと判断し、「正面突破」を選んだ。
 「色々な意見があった。それぞれの立場で色々なことを言っていたが、冷静に検討を続け、判断した」
 首相は28日夜、首相官邸で記者団に、こう強調した。これに先立ち、推薦を求める「立場」の安倍元首相にも電話で自ら説明した。安倍氏は「いい判断だと思う」と評価したという。首相は表明後、「自分一人で決めた」と周囲に漏らした。
↑↑↑↑↑
 なぜ、安倍に電話で説明しなければならないのか。
 安倍との対立を避ける、ただ、その一点だろう。何も考えていない。対立を避けると書くと、まるで岸田が自分で何事かを判断しているように見えるが、そうではなく、安倍の指示に従っているということだろう
 コロナ対策も、岸田が主導しているのではなく、アベノミクスの安倍が主導し続けているということだろう。
 安倍と、安倍をよいしょしつづける読売新聞のために、日本はひたすら「壊滅」へ向かっている。

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(4の追加)

2022-01-27 13:54:51 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(4の追加)

 (これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。)

 「oxymoron」ということばを知った。日本語では「撞着語」というらしい。そういう「用語」があることを知らなかった。それで、日本語には「撞着語はない」と書いてしまったが、調べてみたら、ある。
 「愚かな賢者」「明るい闇」の類。森鴎外には、たしか「水が黒く光った」という表現がある。光の反射がまぶしくて、白ではなく、黒の方が視覚に飛び込んできた。まぶしさの強調である。何かを強調するとき「撞着語」がつかわれる。「論理」としてではなく、一瞬の「感覚」として。そこには、意識のスピードがある。早く動く意識だけがとらえることのできる世界だ。
 Garcia  Marquez の文体の特徴を「スピード」にあると私は書いてきたが、「oxymoron」もまたその精神のスピードがとらえた世界のあり方と言えるだろう。
 私が大好きな、次の表現もまた、ある意味で「oxymoron」と言えるだろう。

Era como estar despierto dos veces. (p92)

 人間が目覚めるのは一度だ。二度目覚めることはできない。マルケスがここで書こうとしているのは、「最初は現実の世界に目覚めた」、これは「肉体が目覚めた」ということ。しかし、次に「精神が目覚める」。「二度目は、精神が目覚めたので違った世界が見えた」ということだ。主語は「肉体」から「精神(あるいは感覚)」へとうつりかわっている。この瞬時の移り変わりが「oxymoron」ということばの背後にある。
 そして書くということ、ことばにするということは、最終的には「oxymoron」と深い関係がある。「肉体の目覚め」から「精神の目覚め」の変化、その移行には、いままでつかってきたことばでは伝えられないことがある。それを表現するためには、いままで「矛盾(間違い)」と考えられてきたことを「矛盾ではない」と書き換えることだからだ。いままでのことばでは書けない「別の真実」を書くためには、「矛盾」を跳び越えなければならないのだ。そのためには「スピード」が必要。「助走」が必要。また最初にもどってしまうが、そう思った。

 「oxymoron」は日本語の場合、「愚かな賢者」「明るい闇」のように「慣用句」が多い。造語(?)は「現代詩」には見られるが、日常会話では絶対にないと言えるくらいに少ない。(私は思い出せない。)
 しかし、スペイン語圏の人には、「oxymoron」はふつうのことなのかもしれない。インターネットのコメント欄に書き込まれるくらいなのだから。

 

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特ダネの読み方

2022-01-26 14:11:47 |  自民党改憲草案再読

特ダネの読み方

 2022年01月26日の読売新聞が、非常におもしろい。私はコロナワクチンの三回目の接種後であり、ぼんやり読んでいたのだが、フェイスブックである人が「共通テスト問題流出か」という特ダネを取り上げていた。「どこから、どうやって漏れたんだろう」。この疑問は二つ。ひとつは会場から「①どうやって?」。もうひとつは「②ニュースの情報源は?」 
 ①は、まあ、デジタルカメラをつかってということだろうなあ。いろいろなカメラがあるから、見過ごされたのだろう。
 私の興味は②。
 一面の記事。(西部版・14版)
↓↓↓↓↓
 大学入学共通テストの試験時間中に「世界史B」の問題が外部に流出した疑いのある問題で、警視庁が偽計業務妨害の疑いで捜査を始めたことがわかった。問題を写した画像を受け取った複数の大学生が、SNSで回答を返信しており、大学入試センターは不正行為が行なわれた可能性があると見て警視庁に相談している。

 ここから考えられるのは「大学入試センター」と「警視庁」。どちらかに懇意の人間が檻、そこから記者は情報をつかんだ。しかし、つづきを読むと、少し事情が違ってくる。↓↓↓↓↓
 問題を受け取った大学生によると、画像は15日午前9時半から午前11時40分にかけて行われた「地理歴史・公民」の試験時間中に送られてきた。
 東京大の男子学生(19)は午前11時6分、インターネット通話アプリ「スカイプ」を通じて、世界史Bの問題用紙が写った画像計20枚を受け取った。学生は送られてきた19問中14問を解き、午前11時28分と同39分の2回にわけて返信。東大の別の男子学生(21)は同8分に計10枚の画像を受け取り、同26分までに解答を送り返した。

 「問題を受け取った大学生によると」と読売新聞は書いている。つまり、記者は問題の学生に取材している。「大学入試センター」か「警視庁」が、まだ「事件」が発覚する前に、学生の存在を教え、さらに「住所」などの個人情報を教えたのか。もし、そうだとすると、その「情報源」は、かなり危険なことをしていないか。
 読売新聞が取材できたのは一人の学生(19)なのか、もうひとり(21)にも取材できているのか、よくわからないが、ともかくひとりからは確実に取材している。もしかすると、その学生が読売新聞に情報を提供したのではないのか。先に「大学入試センター」か「警視庁」に相談したが、ニュースにならない。それで読売新聞に声を掛けてみた、ということではないのか。読売新聞記者は、それをもとに「大学入試センター」と「警視庁」に問い合わせてみて、「裏付け」を取った上で記事にした。
 私は、そう読んだ。

 で。
 私はこの「事件」の行方にも興味があるが、それよりもきょうの読売新聞にはもうひとつ「特ダネ」がと載っており、そのニュースの方が一面のトップだったということだ。
 証券会社が、新規上場株の公開価格を低く設定していた。独禁法違反の恐れがある、というのである。
↓↓↓↓↓
 企業が新規上場する際、事前に投資家に販売する時の「公開価格」を巡り、公正取引委員会は広く普及する値決めの商慣行が独占禁止法に違反する恐れがあるとの見解を示すことが分かった。優位な立場にある証券会社が一方的に価格を低く設定する行為が多くみられると問題視している。公開価格が低くなると新興企業が十分な資金を調達できないため、公取委が改善を促す。
 政府関係者が明らかにした。公取委は近く、見解を示す報告書を公表する。

 疑問は。
 この新規上場株問題は、きょうニュースにしなくても、あすでも「特ダネ」として掲載できるのではないか。社会的な関心は、少なくとも「共通テスト」の方がはるかに高いはずである。そして、各ジャーナリズムがいっせいに後追い報道をする。受験シーズンであり、受験生にも衝撃が大きいだろう。つい最近も、東大で傷害事件があったばかりだ。「新規上場株」問題は公取委が報告書を発表してからでも十分だろう。
 ここから、さらに問題は、と繰り返してみる。
 共通テストの方は「情報源」がよくわからない。「大学入試センターは不正行為が行なわれた可能性があると見て警視庁に相談している」と書いてあるだけである。一方、「新規上場株」問題はどうか。「政府関係者が明らかにした」と情報源を「政府関係者」に絞り込んでいる。
 おもしろいと思うのは、ここである。
 「共通テスト」のニュースは「情報源」がわからない。そして、取材記者は、たぶん「社会部記者」。それに対して「新規上場株」は「情報源」が「政府関係者」。取材記者は「政治部」か内容から見て「経済部」。読売新聞では「政治部」「経済部」が「社会部」より優遇されているということだろう。そして、それは「政府関係者」を優遇するということである。せっかく「政府関係者」がニュースを提供してくれた。それを一面トップにしないと、次から情報がもらえなくなる。そういう「思い」が働いているのだろう、と私は勘繰ってしまう。「共通テスト」は「情報源は学生だろう? 次も特ダネ情報をくれるわけじゃないだろう? 政府関係者とのつきあいを優先させるべきだ」。あくまで私の「妄想」だけれど、そう思ってしまう。
 さて、ここからもう一歩。
 読売新聞は、国民のことなんか気にしていないなあ。政府関係者が何をやりたいかを宣伝し、その見返りとして取材を優遇してもらう。さらには電通に働きかけてもらって広告を確保する。そういうことを考えているんだろう。私の「妄想」だけどね。これからも、どんどん政府のやりたいことをそのまま宣伝するだろう。「敵基地攻撃」だとか「台湾有事」だとか。

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(4)

2022-01-26 09:13:46 | その他(音楽、小説etc)

 (これは、フェイスブックのガルシア・マルケスのサイトのために書いた文章です。いままで書いたものも、そこで書いたものです。記録として残しておく。)

 どんな本にも忘れられない強烈なことばがある。Garcia  Marquez の「Cronica de una muerte anunciada 」(p108)では「el rencor feliz 」と「el remanso deslumbrante 」(p134)。私はネイティブではないので、この強烈なことばの組み合わせにびっくりしてしまった。ネイティブのひとたちは、このことばをどんな気持ちで読むのだろうか。それを知りたいと思った。でも、突然、聞いても返事はないかもしれない。そこで、私は自分の考えを書いてみることにした。
 二つのフレーズの背後には、Garcia  Marquez の「書くこと」についての「思想」がある。彼にとって「書くこと」は「二度」目覚めることである。より「正気」になるのことである。
 最初に「現実」がある。これは一度目の目覚め。それをことばにすると、ことばにするまでは見えなかったものが見えてくる。二度目の目覚めのはじまり。「現実」をより正確に見るための何か、「現実」を補強する何かが見えてくる。それをことばにするとき「二度目」の目覚めが、はっきりと自覚される。それは、ぼんやりとした意識ではなく「正気」がみつめた世界。二度書くことで、より「正気」になる。
 Garcia  Marquez は一度目は「el rencorz」「el remanso」と書いた。しかし、それだけでは何かが足りない。二度目の目覚めで「feliz 」と「deslumbrante」に気づいた。そして、それを組み合わせた。
 Garcia  Marquez は「二度」目覚めたものだけが見ることができる世界を書いている。それは、ある意味では、まるで「ドラッグ」によって覚醒した肉体だけが見ることのできる世界のようだ。しかし、Garcia  Marquez は薬物中毒患者ではない。「正気」である。私たちが体験できない「正気」を体験している作家なのだ。
 そして、こういう「二度」目覚めるための「助走/準備」としてGarcia  Marquez が採用しているのが「強調構文」なのだと私は考えた。そのことを書いた。

 ネイティブのみなさんが、Garcia  Marquez の「構文」やつかっていることばについてどんな「実感」をもっているのか聞きたかった。けれど、何人からに「Garcia  Marquez の本に線を引くな」「Garcia  Marquez を批判するな」「追放しろ」「スペイン語を読み書きできない中国人、動物」「カリブ海に住まなければGarcia  Marquez を理解できない」「ラカンを引用して分析しないと意味がない」などと言われた。私はGarcia  Marquez の文体もことばも、一度として批判してはない。ただ、引用し、考えているだけだ。
 多くの友人に出会え、また助けてもらったが、私はもっとみなさんの具体的な感想が聞きたかった。Garcia  Marquez を読んだとき、新しいことばにであった瞬間、どう感じたのか。どんなことばを手がかりにして、そう感じたのか。そうしたことを聞きたかった。
 「追放しろ」と書いた人に約束したように、私は「Cronica 」を読み終わったので、このページではもう書きません。しかし、しばらくは訪問します。君たちが「Cronica 」のどのことばに感動し、どう思ったのか。私が感動した「Cronica de una muerte anunciada 」「el rencor feliz 」をどう感じたか教えてください。

 

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検査行なわず?

2022-01-25 11:25:10 |  自民党改憲草案再読

 2022年01月25日の読売新聞。https://www.yomiuri.co.jp/national/20220124-OYT1T50166/ 
濃厚接触者、検査行わずに症状で診断可能に…厚労相が表明

 政府は24日、新型コロナウイルスの感染拡大時の外来診療について、感染者の濃厚接触者に発熱などの症状があれば、医師の判断で検査を行わずに感染の診断を可能にするなどの新たな対策を発表した。オミクロン株の急拡大を受け、自治体の判断で外来診療のあり方を見直せるようにする。

 一見、診断→治療のスピードアップに見えるが、ほんとうなのか。もし、濃厚接触者に「自覚症状」がなかったときはどうなるのか。検査をおこなわないまま「行動制限解除」ということになるのか。診断に検査が必要ないなら、検査なしで自由行動、ということになってしまうだろう。いままでつづけてきた「検査」→「感染者数発表」という流れはどうなるのか。
 だいたいねえ。
 コロナが発覚して以来、ずーっと自民党政権は「検査数」を抑制してきた。検査しないことで、感染者の実数を隠してきた。態勢が整わないとか、テキトウな理由をつけているが、あれから2年もたつ。いまだに検査体制が確立されないというのは、どうみたって何もしていないということだ。
 きっと最初にもどって「検査したって、検査で感染者が減るわけではない」というところへもどるのだろう。確かに検査をしようがしまいが、感染する、しないには関係がない。しかし「感染させる可能性があるかどうか」には密接な関係がある。症状がなくても、感染者が動き回り、他人と接触すれば、感染が拡大する。「感染しない/感染したらどうするか」と同時に「感染させない」ことが大事なのに、あまりにもずさん。
 「検査体制」で「感染させない」を無視しておいて、飲食店に「感染拡大防止のため営業自粛(禁止)」を求めるというのは、やり方として矛盾しているだろう。私が飲食店経営者だったら、絶対に文句を言う。
 と、書いてきて、思うのだ。
 今回の措置は「医療体制」に配慮したもの。「蔓延防止」にもとづく「営業抑制」は飲食店への働きかけ。一方は「医師(病院)」、他方は「中小の飲食店」。どちらが金持ち? 一概には言えないけれど「病院」だね。金持ちの「苦労」にはどんな対策でもひねりだすが、貧乏人の「苦労」には知らん顔。というよりも、貧乏なのは「自己責任」。貧乏人だから助けてもらえない。助けてほしかったら、最初から自民党に献金しておけ。献金しないものには「公助」があるとは期待するな、ということだな。自民党が「公助」に支出するときの「公」とは「お友だち」ということだ。安倍のお友だち、菅のお友だち、岸田のお友だち(まだ発覚していないみたいだが)なら助けるが、あとは知りません。
 ほんとうに、むごい。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

2022-01-25 09:10:34 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3の追加)

 前回の文章は、少し書き急ぎすぎた。これまで書いてきたこととの関係を省略しすぎた。少し追加しておく。
 Garcia Marquezの文体の特徴のひとつに「強調構文」がある。口語的なことばのリズムがそれを引き立てている。
 私が最初に取り上げたのが、

lo fueron a esperar 

 という単純なものであった。単純すぎて、その文章にGarcía Márquezの「独自性」を見出せないかもしれない。特にネイティブのひとは何も考えずに読むと思う。でも、これは「lo=santiago Nasar」を強調したスタイルなのである。「fueron a esperarlo」では、「lo」が「esperar 」という動詞にのみこまれてしまう。焦点が「 fueron a esperar 」という動詞の主語、「los gimelos 」になってしまう。さらに、ことばのスピードも落ちる。「 esperarlo」は「 esperar」より長いからだ。
 これと逆の「強調構文」が133ページに出てくる。Desde el lugar en que ella se encontraba podía verlos a ellos, この最後の部分

 verlos a ellos 

 「los 」=「a ellos (los gemelos )」。「a ellos 」はなくても意味は同じ。でも、García Márquezはあえてつけくわえている。文章が長くなるにもかかわらず、この構文を採用している。この文章の「主語」であるPlácida Lineroの動きをまず書きたかったからだ。この部分では「主役」はPlácida Lineroである。しかし、los gemelos も忘れてはならない。だから、それを強調するために「 verlos a ellos 」と書いているのだ。
 また「構文」とは関係ないのだがClotilde Armentaの次の描写も強烈である。

Clotilde Armenta agarró a Pedro Vicario por lacamisa (P131)

 「agarró」はなんでもない動詞だが、私はここではっと目が覚めた。それまでの登場人物は双子の兄弟に触れていない。肉体接触がない。だれも彼らを直接止めようとしていない。市長はナイフを取り上げたが、彼らに触れてはいない。彼女だけが自分の肉体をつかっている。このあと、彼女は地面に突き倒される。
 ここから目が眩むような殺人が描かれる。「agarró」ということばがきっかけで、実際の行動がはじまるのである。殺人計画が準備準備だけではなく、実際に動き始める。実際の犯行の前の、その「動詞」が犯行を強烈に浮かびあがらせる。「agarró」は、すぐに反対のことば「tiró」になって動く。「反動」が鮮烈である。さらに「empellón」に肉体を印象づけることばがつづく。

Pedro Vicario, que la tiró por tierra con un empellón,(P132) 

 「agarró」→「tiró」→「empellón」。これも「強調」のひとつなのだ。

 もう一つ、「dos veces 」の結果として生まれてくる不思議なことばがある。

remanos deslumbrante(P134)

 「remanos 」は、常識的には「deslumbrante」ではない。私はネイティブなので誤解しているかもしれないが、「remanos 」は、むしろdeslustrado やpenumbraであり、oscuroである。しかし、異様に覚醒した状態、絶対的な正気(lucidez )では、矛盾が矛盾ではなくなる。
 似たような矛盾したことばの強烈な結びつきは「rencor feliz」(P108)に出てきた。これも「強調」なのである。
 García Márquezzの文章は、頻繁に「realismo magico 」と呼ばれるが、「remanos deslumbrante」や「rencor feliz」のような強烈なことばが出てくるからかもしれない。しかし、これは「魔法」ではない。Garcia Marquezが生み出した現実である。こういうことばを読者が自然に受け入れられるようにするために、García Márquezは強調構文を積み重ねているのである。
 これは、こんなふうに考えてみればわかる。
 私は人を殺したことがない。殺されたこともない。だから、García Márquezが書いていることが「真実」かどうか判断することができない。本当はできないはずである。しかし、それを「事実/真実」と思ってしまう。ことばの力が「事実/真実」をつくりだすのだ。
 書かれていることが「絵空事」(現実には起こり得ないこと)であっても、そこに書かれていることばは「事実」そのものなのである。ことばが、架空の存在ではなく、いつも現実に存在する。だから読むことができる。「文体」もまた「事実」である。架空のものではない。だから、私は「何を書いている」ではなく「どう書いているか」について感想を書く。「文体」について感想を書く。

 

 

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

2022-01-24 15:23:08 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(3)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』を最初に読んだときの驚きは、小説が「ハッピーエンド」で終わらないことだ。殺人事件は起きてしまっている。どうしたってSantiago Nasarは生き返らない。そうであるなら、生き残ったAngela VicarioとBayardo San Roman が幸福になること以外に「結末」はないからである。
 しかし、そこまで書いたあとで、ガルシア・マルケスは「最初」にもどるのだ。最後に「殺人」が復習のようにして再現されるのだ。
 私は「doc veces 」と「lucidez 」がこの小説のキーワードだと書いた。その「doc veces 」「lucidez 」が、最後の章である。
 殺人事件(現実)は、一回(una vez )起きる。それは最初(primera vez )である。このとき、私たちはそれがどういうことなのか「意味」がわからない。「正気(lucidez )」のつもりでいるが、「意味」がわからないのだから、まだ「正気(lucidez )」は目覚めていない。眠っているようなものだ。見たもの、聞いたものを、ことばを通して再現するとき、殺人事件は「真実」になる。「正気(lucidez )」が見た「現実」だ。
 みんな「正気(lucidez )」にもどりたい。だから、みんなが自分の目撃したことを語りたい。語ることで「真実」をつかみたいと思っている。語ることで、殺人事件は「二度(dos veces )」起きるのだ。「正気(lucidez )」にもどるためには、語ることで、殺人事件を「二度(dos veces )」起こすしかないのだ。
 そして、ことばを通して起きる「二度目の殺人事件」は「一度目の殺人事件」よりも、より鮮明で強烈だ。私は、Angela Vicarioが「生まれ変わった」あとの描写も大好きだが、この「二度目の殺人事件」の描写も大好きだ。残酷でむごたらしいのに、わくわくしてしまう。切りつけても切りつけても死なないSantiago Nasar。双子の兄弟の絶望に、思わず共感してしまう。現実には、共感などしてはいけないのだが、小説なので共感してしまう。それは、クライマックス中のクライマックスの描写についてもいえる。

Hasta tuvo cuidado de sacudir con la mano la tierra que le quedó en las tripas.(P137)

  実際に見てしまったら、ぞっとするかもしれない。しかし、この光景を見たWenefrida Marquez はなんという幸運なのだろうと思う。そういう光景を見ることができるひとは、きっと誰もいない。世界でたったひとり、彼女だけが体験したのだ。それを語るとき、しかし、彼女は「正気(lucidez )」のままである。「正気((lucidez )」でないなら苦しくないが、「正気(lucidez )」のままそれを語らなければならない。これは、幸福であると同時に、とても苦しいことである。
 これはガルシア・マルケスも同じこと。
 人間が引き起こした不幸。それをすべての登場人物の「正気(lucidez )」として描き、それでもなおまだ「正気(lucidez )」でいる。これは、つらいことに違いない。
 書く順序が逆になったかもしれないが……。
 「正気(lucidez )」ということばは、この最終章にもつかわれている。きちんと読み返したわけではないが、この小説では「正気(lucidez )」がつかわれるのは、前に紹介した部分と、次の部分。Santiago Nasarが瀕死の状態で自宅へ帰るシーン。

Tuvo todavía bastante lucidez para no ir por la calle, que era el trayecto más largo, sino que entró por la casa contigua.(P136)

 そして、最後のセリフ。

Que me mataron, niña Wene.

 「正気(lucidez )」とは何とつらいことだろう。

 この小説に限ったことではないが、文学とは「二度(dos veces )」の世界なのだ。現実にあったことが「最初の一回(primera ves =una vez )」。それを「ことば」にして再現するとき、それは「正気(lucidez )」が見た「二度目(segunda vez =dos veces )」なのだ。
 そして、「最初の一回(primera ves =una vez )」は長いのに対して、「二度目(segunda vez =dos veces )」は短い。それは書き出しからAngela Vicarioの幸福までの長さと、最後の章の長さを比較するだけでもわかる。Garcia Marquezは、ことばを加速させ、激しく暴走する。そのリズムがとても効果的だ。強調構文を積み重ねて、想像力を爆発させる。

 キーワードについて。私はキーワードということばを「キー概念」とは違った意味でつかっている。「キー概念」は、ある文章のなかで何度もつかわれる。その文書を要約することばである。私がいうキーワードは、たいていの場合一回しか出てこない。それをつかわないとことばが動かないときだけつかわれる。『予告された殺人の記録』では「dos veces 」。私が読んだ限りでは、これは一回だけつかわれている。そして、もうひとつの「lucidez 」も二回だけ。誰もが知っている。しかも、最小限度の回数しかつかわれない、作者の無意識になってしまっていることばを、私はキーワードと呼んでいる。

 

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ことばの読み方

2022-01-24 00:36:00 | 考える日記

ことばの読み方

 私は特別変わったことばの読み方をしているとは思わなかったが、マルケスのサイト(スペイン語)で対話していて、私の読み方が他の人とは違うことに気がついた。みんなが「文学を楽しめ」としきりに言うのだ。私は私で楽しんでいるのだが、どうも楽しんでいるようには見えないらしい。あまりに何度も言われるので、みんなのやっていることとどこが違うのか考えてみた。多くの人が、作品の「一部」だけを引用して、何もコメントしていない。これ何? これが「楽しむ」ということ?
 で、気がついたのだ。

 音楽を例にすると、きっとわかりやすくなる。
 音楽は、たいていは「聞く」。聞いて楽しむ。ところが、音楽にはほかに「演奏する」楽しみもある。私は「聞く」ではなく、「演奏する」という方の楽しみ方なのだ。
 楽譜がある。読むと音が聞こえてくる。あ、この音(メロディー)がいいなあ。この部分をもっとも印象づけるにはどういう演奏方法があるだろう。それを考えるように、私はことばを読むとき、これはどんなふうに全体のなかで位置づけ、どこを強調すればいちばん強烈に印象に残るか、と考え、そこで考えたことを書いている。それを考えるのが楽しみ。
 全体を「聞く」だけでは満足できないのだ。「聞く」で満足するときも、ある人の演奏、別の人の演奏と聞き比べて、こっちの方が好き、という感じで聞いてしまう。「ここの演奏の仕方が好き、嫌い」という感じ。
 読むときは、読みながら、こういう書き方の方が好き、と思ってしまうのだ。「書いてあること(テーマ、意味)」ではなく、「書き方」の方に興味があるのだ。

 飛躍するが。

 たぶん、これは「一元論」と関係している。私はあらゆる存在は、そのときそのとき、必要に応じて、私の目の前にあらわれ「世界」をつくりだしていると考えている。そのつど「世界のあらわれ方」があるだけで、確固とした世界はない。あるとすれば「混沌」があるだけ。
 ことばは「世界のあらわし方」なのだ。音楽は「演奏の仕方」なのだ。楽譜に戻していえば「作曲の仕方/音符の組み合わせ方」なのだ。実際に「演奏されたもの」「書かれてしまった作品」よりも、それが「あらわれてくる、そのあらわれ方」に興味があるのだ。「出現(させる)方法」に興味があるのだ。
 世界は「出現(させる)方法)」によって違ってくる、「世界=世界出現(させる)方法)」なのだ。

 だから、私は、どの作品を読むときでも、他の作品とほとんど関係づけない。関係づけるとしたら「ことばのあらわれ方/あらわし方」だけを関係づける。外国の思想家のことばをもってきて、詩を解説するということをしないのは、そういう理由による。その思想家にはその思想家の「世界のあらわし方」がある。それはいま読んでいる詩人の「詩のあらわし方」とは関係がない。その思想家と、その詩人が交渉して、それぞれに影響を与え合っているというのなら別だが。ふたりが交渉していないなら、それは「無関係」としか言いようがない。私にとっては。私とその思想家、私とその詩人という「一対一」の関係以外の何も存在しない。

 

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ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

2022-01-23 14:13:55 | その他(音楽、小説etc)

ガルシア・マルケス 文体の秘密(2の追加)

 『Cronica de una muerta anunciada (予告された殺人の記録)』の109ページ。前回書いた、次の文章。

Le habló de las lacras eternas que él había dejado en su cuerpo, de la sal de su lengua, de la trilla de fuego de su verga africana.

 私は、この部分が本当に好きだ。マルケスの文章の特徴をあらわしている。構造がわかりやすいように書き直すと、こうなる。


Le habló de las lacras eternas(que él había dejado en su cuerpo), 
    de la sal de su lengua, 
    de la trilla de fuego de su verga africana.

 一行目、que以下は「las lacras eternas」の説明なので省略する。この(que él había dejado en su cuerpo)は厳密に言うと違うが、読んだときの印象としては、二行目、三行目のあとにもつづいているように感じられる。同じことばを繰り返したくないから一行目だけに書いている。
 彼女は話した。何についてか。あらためて、そこだけ取り出す。

de las lacras eternas
de la sal de su lengua
de la trilla de fuego de su verga africana

 ことばがだんだん長くなっている。一行目と二行目は見た目が同じ長さに見えるが、二行目には「de」が二回。最初の「de」は「habló de」だから、実際は、一回。一行目が「形容詞/eternas」だったが、二行目は「名詞」になっている。名詞が二個。
 三行目は「de」がもう一回増えている。さらに長くなっている。名詞が三個、形容詞が一個。
 でも、長さを感じさせない。
 なぜか。一行目で想像力をかきたてられ、二行目でそれが加速され、三行目で暴走していく。
 わいせつな「妄想」というのは、一度火がつくと、簡単にはおさまらない。それだけでなく、加速したことにひとはたいてい気がつかない。
 この「妄想力/想像力」をマルケスは利用している。リズムがいいのだ。
 これが逆だったら、きっとつまらない。

Le habló
de la trilla de fuego de su verga africana
de la sal de su lengua
de las lacras eternas

 違いが鮮明にわかるでしょ?
 マルケスは、口語のリズムを活用しているのである。そこにマルケスの文体の魅力がある。

 

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「パイドン」再読(3)

2022-01-23 12:12:38 | 考える日記

「パイドン」再読(3)(「プラトン全集」1、岩波書店、1986年6月9日第三刷発行)

魂は、存在していたのだ、シミアス。この人間というもののうちに存在する以前にも、肉体からは離れて、しかも知をともないつつ、存在していたのだ(219)

 私は魂の存在を感じない。ソクラテス、プラトンは好きだが、私は、ここは同意しない。
 私は、ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを「ことば」と置き換えて読む。
 私が生まれる以前(人間という存在になる前)にも、私の肉体から離れて、しかも知をともないつつ、存在していた。
 何の矛盾もない。「ことば」は語られると同時に書かれていた。書かれたことばが残されている。私の肉体は、その「ことば」のなかに生まれてきた。この世に生まれるということは「ことば」のなかに生まれるということである。
 「ことば」には、それまで生きてきた人の「肉体の記録」も残っている。「動詞」がそのことを教えてくれる。「肉体」はどう動くか。その結果、そこにあるものに対してどう働きかけるか。その具体的な証拠が「動詞」だ。

 ソクラテスは、「魂」を「想起」と関係づけて語っている。「想起」とは「学ぶ」ということである。

学び知ると呼んでいるはたらきは、本来みずからのものであった、かの知識をふたたび把握することとはならないだろうか。そこでそのことを、想起することというのは、ただしい言い方とはならないだろうか(217)

学知は想起だということになろう(217)

 「魂」はみずからが持っていたものを想起することでふたたび手に入れる。学ぶこと、知ることは、みずから知っていたことを想起すること--。この不思議な「論理」はどこから出てきたのか。なぜ、「魂」が「記憶」をもっていなければならないのか。
 私は、ソクラテスが「書かなかった」ということと関係していると考えている。
 ソクラテスは語ったが、ことばを書き残さなかった。書き残したのはプラトンである。ソクラテスにとって、ことばとはつぎつぎに消えていくものである。声そのものである。語るということは、過去に語ったことばを思い出し、点検することである。これを「学ぶ」と言っている。自分が言ったことばだけではなく、他人が言ったことばも「思い出し」(想起し)、それを動かしてみる。きちんと動くかどうか確かめてみる。これが「学ぶ」ということ、「ことばの働き」を学ぶ。そして、それが確立された(他人と共有された)とき、その「学び」は「知」にかわる。
 ことばが声に限定されるとき、魂は、たしかにそれを予め知っていなけばならないかもしれない。予めもっていなければならないかもしれない。そうしないと、「思い出す」ということができない。
 でも、ことばが「肉体」を離れて「文字」として記録されて残るならば、それは人間の肉体が覚えている必要はない。肉体とは別のものに託しておくことができる。この「消えない文字」こそが、「ことばの肉体」の証拠なのだ。人間の肉体は死とともにつかいものにならない。存在しないに等しくなる。でも「ことばの肉体」は残る。
 そして「ことば(の肉体)」のなかには「肉体の動き(動詞)」も含まれる。「動詞」に触れることで、「肉体」は「肉体」の動かし方を知る。そこから「肉体のことば」が生まれる。「ことばの肉体」と「肉体のことば」が交錯しながら、人間を作り上げていく。これを、私は「学ぶ」と呼びたい。

 ソクラテスが「魂」と呼んでいるものを、私は「ことば」と置き換える。そうすると、すべてが納得できる。「魂」は「学び知る」という働きをする。それは「魂」みずからがもっているものを想起するのではなく、「ことば」を肉体に還元しながら、つまり肉体の動かし方を学びながら、学んだことを蓄積するのである。

 

 

 

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