詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」

2010-08-31 12:12:21 | 詩(雑誌・同人誌)
犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)

 犬飼愛生「牛の子ではない」の書き出しが強烈である。

牛の子ではないから
人間は人間のお乳で育ててほしいの
牛のような助産婦が そう言ったのだ

 これは犬飼が助産婦から聞いたことばをそのまま書いたのだと思う。「詩」を書こうとして(詩にしようとして)発せられたことばではないが、だからこそ、そこに詩がある。母乳で育ててほしい--といえばそれですむのだけれど、日常の会話でも、こんなふうにことばは逸脱していく。ほんとうに何かを言おうとすると、ことばは過剰になる。その過剰の瞬間に、ことばが詩になる。
 この助産婦の本心の過剰に、どんなふうに向き合えるか。それを超えて、どれだけ過剰なことばを書きつづけることができる。
 これは難しい。

雲ひとつない空が 真っ青な
月曜日だった
目も開かぬうちに
私の胸に乗せられた子
たったいま、この世に生まれた子が
ちう、と吸った
私ははじめて 自分の体内から
乳が湧くのを見た

 「見た」ということばに、犬飼の必死を感じるけれど、それでもまだ助産婦のことばに負けていると思う。過剰なことばになっていない。逸脱していない。

私の乳だけで ここまで育った
歯が生えた、髪も伸びた
よつんばいになった子の
手が もうすぐ
一歩でる

 助産婦のことばに対抗しきれないまま、こどもが成長している。ことばではなく、赤ん坊が「いま」を突き破っていく。これでは母子手帳の記録になってしまう。
 せっかく助産婦のことばを受け止めたのだから、そこから先へ過剰に逸脱していってほしいと思う。



 高田太郎「河骨川」は風景のスケッチだが、ことばの逸脱の仕方が自然で、スケッチの詩にとても似合っていると思う。

うつらうつらしていると
いつのまにか浮子の姿はなかった
燃えつきようとする落日が
川面を静まらせ
そこには河骨の花が小魚とふざけながら
黄色い蝶のように
ゆらゆらゆれて美しく舞い上がったりするが
その川底の深い土の中では
風化した白い人骨のような根が絡み合い
みだらな夜を待っているのを
だれも知らない

 「河骨」の花。「河骨」ということばのなかに「骨」があり、骨とは一般的に「死」の象徴である。そうしたごく普通の連想にしたがってことばを動かしているのだが、白い人骨という比喩をつかった瞬間から、「根」ではなく、「人骨」そのものがからみあう死後の夜、淫らな死が生きて動きはじめる。死が生きるというのは矛盾だが、矛盾だから、そこに詩があるのだ。
 淫らなセックス--そこで人間は死を体験する。死を体験することで、生きている、と感じる。矛盾はいつでも淫らなのだ。矛盾を淫らと定義するのは、高田の過剰な意識である。だから、それが詩なのだ。





高田太郎詩集 (新・日本現代詩文庫)
高田 太郎
土曜美術社出版販売

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(31)

2010-08-31 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(31)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「後記」にも3句書かれている。

枕との旅ななそとせ唯朧

枕これ夢の器ぞ花の昼

枕より進まぬ噺暮遅き

 高橋にとって「枕」と「ことば」は同じものかもしれない。「ことば」とともに旅をして70歳になる。「ことば」は、そして「夢の器」でもある。「ことば」なしには「夢」か語れない。
 高橋のことばの特徴はなんだろうか。この句集は、いわば一人連歌であり、連歌をともなった「古典細道」とでもいうべき「紀行文」かもしれない。高橋は古典のさまざまな「ことば」(夢の器)を旅する。そのとき、寄り添うのは「古典」の作者であり、あるいは歴史である。故事である。
 高橋と同伴者は、共生者であり、また共犯者でもある。それも互いを犯すのである。
 助けてもらいながら、助けてくれたひとを犯す。
 高橋は、たとえば「古語」を見つけ出し、いま、新しく句の中に取り込む。そのとき、高橋は「古語」を死からすくい上げ、いのちを吹き込みながら、その古語を高橋の色に染め上げる。高橋の好みのスタイルに仕立て上げる。セックスの相手を自分の好みのスタイルに仕立て上げ、こんな色っぽい人間になった、と自慢するようなものである。
 一方、耕され、犯された「古語」の方も、だまってはいない。したがったふりをして、ひそかに反撃をねらっている。知らないうちに、高橋も、その「古語」に影響され、そのスタイルになっていく。
 いま生きて、ことばを書いているのが高橋なので、高橋が一方的に何かをしているように見えるけれど、きっと高橋の内部で変化が起きているはずである。ことばを書くということは、書いたことばによって、自分の「肉体」が変化してしまうことでもある。自分の「肉体」がどうなってもかまわないと覚悟しないかぎり、ことばは書けない。
 セックスも、極端な例になるかもしれないが、誰かを犯す。それは犯した方の一方的な暴力に見えるが、そういうときでも、そのセックスで犯した方も変わってしまうことがあるのだ。そういうやり方が病みつきになったり、あるいは逆のことに目覚めたり。どんなことでも一方的に何かがおこなわれるということはない。
 ことばの場合、それは、つぎのことばがどうなるかわからないという意味で、もっと「共犯者」の度合いが強いかもしれない。
 高橋がこの句集(紀行文風のの俳文)のあと、どんなことばを動かすことになるのか、高橋も、高橋によって書かれたことばも、わからない。だれも、どうなるかなどわからない。ただ、同じものは書かれない。どうしても次は違ったものを書かざるを得なくなる。そういう変化を人間にもたらすのが、ことばである。

 この高橋の俳文の特徴--それにもどろう。
 ひとつは、すでに書いたが「古典」「古語」(雅語)の発掘にある。もう一つは「造語」にある。
 「古語」を耕しているうちに、「古語」だけでは書き表せないものがでてくる。「古語」を犯すことによって、高橋が逆に犯され、新しい「何か」に目覚めてしまうのだ。いままでなかったものに目覚めてしまうのだ。それは「古語」からの逆襲のようなものである。高橋のことばを「変形」させ、高橋の「肉体」を変形させ、高橋を突き破って「生まれてしまう」のである。
 このエネルギーの噴出、逸脱--それを私は「誤読」と呼ぶのだけれど。
 そういう「造語」(誤読)と「古典(古語)」が共犯して、「文学」を犯す。「文学」に新しいものをねじ込む。それが今回の高橋の俳文というものだと思う。
 これは新しいスタイルの俳文なのだ。

 そして、その紀行俳文の果て、未知の荒野にあらわれる輝き、新しいいのち--それを高橋は「夢」となつかしいことばで呼んでいる。この「夢」を枕にして眠るものは、いつか、かならず、その高橋の「夢」によって己の夢を攪拌されることになる。
 覚悟せよ。



 アマゾン・コムのアフィリエイトシステムでは、高橋睦郎『百枕』は検索できない。
 高橋の「夢」に同行し、それにいつか乗っ取られてもかまわないという覚悟のある人は、書肆山田へ直接注文し講読してみてください。書肆山田は、
 東京都豊島区南池袋2-8-5-301
 電話 03-3988-7467
 在庫の有無は、私は確認していません。




詩人の買物帖
高橋 睦郎
平凡社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビリー・ワイルダー監督「アパートの鍵貸します」(★★★★)

2010-08-30 22:46:58 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ、レイ・ウォルストン、デイヴィッド・ルイス

 とても好きなシーンがある。ラスト近くなのだが、ジャック・レモンがテニスのラケットに1本残っているスパゲティを見つける。シャーリー・マクレーンに食べさせようとして料理したときのものだ。その1本を指に搦め、指をくるっとまわす。そうするとスパゲティが指にくるくるっと巻きつく。
 なんでもないシーンなのだけれど。
 この指の動きから、何か思い出しません? エレベーターガール(古いことばだなあ)のシャリー・マクレーンが「○階です」というような案内をするとき、指を(掌を?)くるっとまわすしぐさをする。
 同じ動きではないのだけれど、あ、ジャック・レモンとシャリー・マクレーンの指の演技合戦だ、映画ならではの遊びだ、と思ってとても楽しくなる。
 二人の目の演技合戦も楽しいけれど、この指の演技合戦は、映画の本筋そのものとは関係ない。特に、シャリー・マクレーンの指の動きは何ともからんでこない独立した「逸脱」なのだが、そういう「逸脱」があるから、映画に奥行きがでる。登場人物の「肉体」がくっきりと伝わってくる。
 シャーリー・マクレーンが自殺未遂したあと、ジャック・レモンの隣の部屋のドクターの妻がスープを持ってくる。シャリー・マクレーンに食べさせる。その親切な感じも、いまの世界からは消えてしまった人情というものを感じさせる。1960年というのは、そんなに遠い昔ではないのだけれど、昔は、「いいひと」がたくさんいたのだなあ。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


アパートの鍵貸します [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小長谷清実「誰かが、空を」

2010-08-30 09:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小長谷清実「誰かが、空を」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)

 小長谷清実「誰かが、空を」は短い詩である。その短い詩の、なかほどにある1行にまいってしまった。繰り返し読んでしまった。

誰かが爪を空で引っ掻き
その化膿した傷口から どろどろした何かが
悪口雑言のように降ってくる
誰かが指で空を突っつきくすぐって
そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ
快と不快の入り混じった笑声が漏れでてくる
誰かがことばで空を引き裂き
ぽっかり空いた裂けめから
得体の知れないざわめきが這いでてくる

無数の虫がいっせいに
ある方向に
走りだすざわめきが 詩が

 私が気に入ったのは「そのしわしわのたるみから ヒッヒッヒッ」がなんとも生々しい。
 この空は「しわしわ」だから、幼いこどものように、その表面(肌?)がすべすべでもつるつるでもない。「しわしわ」。それなのに(?)、くすぐられると、くすぐったい。それなのに--と書いたのは、くすぐったいという感じは、こどもの方が強いでしょ? 年をとるとだんだん鈍感になってくる。そのたるんだ「しわしわ」が、「突っつきくすぐられ」、反応して、我慢しきれずに声を洩らしてしまう。こどものような、きゃっきゃっというようなひびきではなく、「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」という音の中にある弱さと輝きがいいなあ。それが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。
 --と、ここまで書いて。
 私は、急に、別のことが書きたくなった。
 それをまず、書いておく。

 途切れながら、つながる。--これは小長谷の詩の特徴ではなかったか。この詩でも、1連目は「誰かが空を」という書き出しが3回あらわれる。3回とも同じ動詞がつづくのではなく、それぞれ違う動詞が空に働きかける。「誰かが空を」というひとつのものが、別の動詞によって、別の反応をする。その「別」をさして、私は「途切れる」と感じる。「途切れる」のだけれど、「誰かが空を」ということばがあらわれると、そこにひとつの「つながり」があらわれる。
 意識が「誰かが空を」に帰っていく。
 帰還と逸脱が繰り返され、世界が少しずつ変わっていくのだ。
 そして、そのたびに、そこから何かが漏れる。こぼれ落ちる。この何かを小長谷は「無数の虫」と2連目で呼んでいる。「漏れる、こぼれ落ちる」を「走りだす」と言っている。
 そして、その「走りだす」ものを「ざわめき」「詩」と名づけ直している。

 あ、そうなのか。
 「詩」って、そういうものなのか。

 私は、それを「詩」とは別のことばで言ってみたい。別なことばで呼んでみたい。「息」と呼んでみたい。
 「ヒッヒッヒッ」。「ヒ」れが「ッ」によって途切れる。途切れるけれど、つながっていく。その途切れ、つながるもの。それは「呼吸」、「息」である。

 私が、小長谷の詩を読みながら「共有」しているもの(共有していると勝手に感じているもの)は「肉体」ではなく、「息」である。
 私は小長谷の詩、そのことばのリズム、音にいつもひかれるが、それは息のリズム、息の音にひかれるということである。

 小長谷の詩は「息」なのだ。

 こんな言い方は乱暴過ぎるかもしれない。
 けれど、あれこれ思い出してみて、私は小長谷の詩から「意味」を思い出せない。「しわしわの」というような繰り返される音の不思議さである。
 私は音読はしない。小長谷の朗読を聞いたこともない。小長谷が朗読をするかどうかもしらない。(声そのものを聞いたことがない。)だから、小長谷の詩から私が聞き取っているのは「音」ではなく、「息」なのだ。「声」が生まれる前の、もっと奥深いところにあるリズムなのだ。

 ヒッヒッヒッ。くすぐられて笑うときの、快感と不快。そのあいだから、声にならずにこぼれる息。

 私の書いていることは、わけがわからないかもしれない。私にも、実は、よくわからない。書いている私がわからないのだから、このことばを読むひとにはわからないにきまっているのだが、わからないまま、ともかく書いておきたいのだ。
 私はあるひとのことばに喉を感じたり、耳を感じたりする。それと同じように、小長谷のことばに感じているのは「息」である、ときょう、気がついた。



わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(30)

2010-08-30 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(30)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕の果て--十二月」。

夜よるの枕の果てや虚ナ枕

 高橋の詩(俳句)にかぎらないことだが、知らないことばがたくさん出てきて、私は困ってしまう。
 「虚ナ枕」(むなまくら)。枕というものは、それに乗せる頭があってのもの。夜に夜を重ね、いま、その枕は乗せるべき頭を持たない--つまり、枕の主(?)は死んだということ?
 うーん。発句にはなんだが、似つかわしくないように思えるのだが……。
 あるいは、夜に夜を重ね、ペちゃんこになってしまった、中身がなくなってしまったということか。このとき、枕の中身は「蕎麦殼」なんかじゃなくて、「夢」になるかもしれない。夜に夜を重ね、夜ごと、「夢」を送りつづけてきた枕。もう送り届ける「夢」もなくなった、かな?

枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)

 眠りは、単なる眠りではなく、そこには「夢」も入っている。一年三百六十五日、「夢」を届けてくれたことに対する感謝かもしれない。

夜々の寝(い)の一年分や枕垢

一とせの夢の果てとや枕垢

 枕からは「夢」をもらった。人間がお返しできるのは、「垢」。という意味であるかどうかはわからないけれど、この句は、いいなあ。つかいつづけられた枕が人間の垢で光っている。「俗」の強さがある。暮らしの根強さがある。
 華麗な、文学の教養がないとわからない句も、それはそれでかっこいいけれど、文学の知識がなくてもわかる、こういう句が好きだなあ。

 高橋は、最後のエッセイで「よ」という音について書いている。世・齢・代・米、ねして夜。

夜は詩の時間であるから、試作することを詠(よ)むというが、それは夜の中にある魂を呼ばい、呼び寄(よ)せることだろう。夢もその元は夜目(よめ)または夜見(よみ)ではなかろうか。そしてもちろん、原始古代人が永遠の住まいと考えた黄泉(よみ)の国がある。

 夜から、連想として夢へ。その夢から「夜目」「夜見」をへて、「黄泉」へと動いていくことば。こういう運動を私は「誤読」と呼んでいるのだが、そこにはある不思議なエネルギーがある。逸脱していくエネルギーがある。逸脱するエネルギーがないと、「誤読」できない。

 その最後の「夢」。高橋の今回の句集(+エッセイ)は連載形式で書かれたものである。今回が最終回。そこで、高橋は、究極の「夢」を書いている。「夢」を見たまま、永遠に目覚めぬという「夢」を。

われをまつ晦枕年の淵

 そのことについて書かれた文章の一部に、

永劫つづく苦の輪廻の大車輪から弾き出され、全き無となりおおせることこそ、生という迷妄に搦め取られた人間なる者の大理想だろうから。

 「苦の輪廻」「生という迷妄」。それはやはり「誤読」というものだろう。
 そして、それから解放され「全き無」になる。--でも、それは「誤読」ではない、とだれが言えるだろう。また「無」が、形が定まっていないだけの状態、エネルギーがありあふれて形になることができない状態である、と言うこともできるのではないだろうか。 
 死は「誤読」からの解放ではなく、「誤読」のリセットである。それは詩が「誤読」を炸裂させることで「誤読」をリセットするのと、ほぼ同じ意味である。
 たとえば、今回の連載で高橋の句は「おわる」。続きがない。高橋のことばは、おわった瞬間「全き無」の状態にある。けれど、一連のことばを読んできた私にとっては、新しく書かれることのないページの中に、これまで読んできた句のエネルギーが形のないまま(無のまま)うごめいている。
 いま、それに、私は形を与えることができない。いままで私が書いてきたことも「形」にはなっていないのだが、それはしかし、永遠に形がないままであるとは言えない。いつか、きっと、何か--高橋のことばとの連絡もわからないまま、別のことばになってあらわれるはずである。
 そういう体験が読むということだ。
 読み終わって「誤読」をリセットする。高橋の、この句集とは関係ないところで、突然高橋の句とエッセイが、まだ書かれていなかったことばとして噴出してくる。そういうことがきっとある。書かれなかった高橋の句が、どこか別の場で、新しく生まれる。それはいつになるかわからないけれど、そういうことがあるから(そういうことを引き起こすために)、本は読まれるべきなのだと思う。
 --というのは、私の「誤読」に対する永遠の「夢」である。





姉の島―宗像神話による家族史の試み
高橋 睦郎
集英社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(29)

2010-08-29 12:14:24 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(29)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕狩--十一月」。
 「枕狩」とはなんだろう。私はそのことばをはじめてみた。わからないなりにあれこれ想像してみると、品のない人間なので、どうしても品のないことを考える。どうしても「下ねた」になってしまう。

狩鞍の冬となりけり木根枕

夜興引(よこびき)のよべの枕か五郎太石(ごろたいし)

狩さまざま中に極みは真暗狩

 この三句目、「極みは真暗狩」が、とくに「下ねた」っぽい。「枕」は、ここには出てこないのだが、なぜか真っ暗闇での「夜這い」(あ、前の句にあるのは「夜這い」じゃなくて「夜引く」だね)の醍醐味(?)は相手が違っているかもしれないということ。でも、それが思いもかかずというか、予想を裏切っていい相手ということもあるだろう。
 というようなことを勝手に妄想していたら……。
 冬は獣の肉がうまい上に毛が抜けにくいので、狩りは冬に集中する、と書いたあとで高橋はつづけている。

夜間、猟犬を連れて睡眠中の獣を襲う夜引(よびき)、夜興引(よこびき)が多かった。狩枕といえばその折の仮眠の枕、これは文字通り仮枕に通じる。これを転倒させて枕狩といえば、にわかに艶がかってくる。色ごとにいわゆる百人切・千人切の様相を帯びるからだ。

 あ、「枕狩」も、「狩枕」の積極的「誤読」から派生した、いわゆる造語だね。そして、そういうときの想像力の暴走、逸脱というのは、どうも人間に共通のものを含むようである。
 この不思議な「共有(共通)感覚」があるから、ことばは暴走することを許されるのかもしれない。
 想像力というのは、ものをねじ曲げて、「共有(共通)感覚」を浮かび上がらせるものかもしれない。「誤読」には必ず「共有(共通)感覚」がある--と書いてしまうと、これは私の「我田引水」になるかもしれないけれど。(私はいつでも「誤読」だけが正しい--と自己弁護しているのだから。)

狩り誇る枕の数や恋の数

 恋は「数」ではないはずなのだけれど、やっぱり「数」にあこがれる。「数」がうらやましい。なぜだろう。

枕狩百千(ももち)を狩ると一つ狩る

一生(ひとよ)かけ狩らん枕ぞただ一つ

 「数」にあこがれるくせに、「一つ」はそれはそれで、いいなあ、とも思う。人間は(私は?)わがままにできているらしい。

恋狩のなれの果てとよ常(とこ)枕

 「なれの果て」と言い切る強さがいいなあ。「なれの果て」までいける人間は、いったい何人いるだろう。



 反句。

枕知らぬ狩処女(かりをとめ)汝(なれ)恋知らず

 これはギリシャ神話の、アクタイオーン。(高橋が、エッセイできちんと説明している。)そうか、恋も知らずに無残な最後をとげるのも、それはそれで、あっぱれ、という気がする。
 でも、これは「処女(をとめ)」だからだねえ。残酷は、被害者が美しいとき、なぜか耽美にかわる。これは世界に共通する感覚だと思う。血は白い肌にこそ似合うのだ。


宗心茶話―茶を生きる
堀内 宗心,高橋 睦郎
世界文化社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利岡正人『仮眠の住処』

2010-08-29 00:00:00 | 詩集
利岡正人『仮眠の住処』(七月堂、2010年07月15日発行)

 利岡正人『仮眠の住処』を読みながら、私はとまどってしまった。ことばのリズムに、どうにもなじめない。
 「風のあてど」という作品。

空を参照してどこまでも歩きたい

 この書き出しはとても魅力的である。ことばのリズム、音楽も、私にはここちよい。けれど、2行目からもうつまずいてしまう。

空を参照してどこまでも歩きたい
頭蓋の増長にかすれ声を反響させる不可能さ

 ことばが多すぎる。3行つづけて読むと、さらにその印象が強くなる。

空を参照してどこまでも歩きたい
頭蓋の増長にかすれ声を反響させる不可能さ
遥か果てを見遣るつもりで都会の喧騒と向き合う

 1行目の「空」の広さ、美しさが、ことばの多さに埋もれてしまって、どのことばを読んでいいのかわからない。1行目は「空」「参照」「歩く」。2行目は? 「頭蓋の増長に」ということばの濁音が、私には汚く感じる。
 私は清音よりも濁音の方が豊かな響きがあって好きなのだが、「頭蓋の増長に」は音で聞いたとき、何をいっているかわからないと思う。
 声の豊かさに酔う暇がない。
 こういうとき、私は音を汚いと感じる。意味が充分にわかって、その音をもう一度記憶の中で繰り返したいという欲望を、喉や口蓋が先取りして、肉体が(発声全体にかかわる筋肉が)ゆったり動く--こういうときに、私は音を美しいと感じる。音楽を感じる。
 1行目には、そういう美しさがある。
 「どこまでも」の「ど」の音の輝き、ゆったりと広がっていく響き(「空」、とも、「参照」とも違う声帯のゆったりした感じ)が、とてもいいのに……。

 思うに、利岡は、ことばを「音」にしない詩人なのだろう。私は音読はしないし、朗読にも関心はないが、書かれた文字を読むとき、無意識に発声器官が動く。(書くときも動いていると思う。)利岡は、どうだろう。発声器官が動いていないと思う。
 奇妙な言い方になるが、ことばを聞くとき、私は発声器官で聞くのだ。耳で聞くよりも、喉で聞く。言い換えると、喉が動くときの肉体の反応で聞く。
 喉で聞いてしまう私にとっては、利岡のことばは、とてもつらい。

 利岡の詩群のなかから、私の喉が繰り返し聞きたいと感じている作品について書いた方がいいのかもしれない。たとえば「真夜中の掃除夫」の書き出し。

深い眠りにつく
おまえの断崖
ぼくは沈み込んで行けない

 こうしたことばの数が少ない行は、喉で追いつづけることができる。喉の筋肉でことばをとらえることができる。

もう耳を貸すな
ほのめかされる囁きを
もう聞くな、黙って噂されるのを
受け入れぬよう
寝姿を簡単に縁取りされるな

 「寝姿を簡単に縁取りされるな」というのは魅力的な行だと思う。思うけれど、どうも前の行のリズム、音楽とは違うと感じてしまう。
 私は音痴だから、私の「音楽」の方がずれているのかもしれないけれど、どうにも読んでいて苦しい。喉は音を発声しようとするが、発声する前に耳が拒んでいるという感じもする。--というのは、逆で、利岡のことばを読んでいると、耳が発声しようとするのを喉が聞くまいと拒んでいるというような、ありえないことばでしか言えないような感覚に陥る。
 あ、これも、変な言い方かもしれない。
 私は喉で聞きながら声を出す、あるいは耳で声を出しながら音を聞く--言い換えると、喉と耳は区別のない状態、一体になった状態でことばの音を出し、聞くのだけれど、利岡のことばにふれると、その一体感が消えてしまう。
 ことばをひとつの音にするには、肉体ではなく「頭」をつかわないといけない。
 喉も耳もつかわず、「頭」でことばを読んでいく--そうすると、そこに「意味」と「内容」が浮かび上がってくる。利岡には書かなければならないことばがたくさんある。省略するのではなく、そのすべてを書き留めたいのだ。
 またまた抽象的な譬えになるが--たぶん、だれにもわからない譬え、私だけが「わかる」譬えなのかもしれないが……。
 利岡は、たとえていえば999角形の図面のような詩を書きたいのだ。999角形というような形は「頭」では理解できる。それが「1000角形」とも「998角形」とも完全に違うということを「頭」は完璧に証明できる。
 私は、そういう「頭」で書かれたものを受け付ける「肉体」を持っていない。「998角形」「999角形」「1000角形」を目で区別することができない。だから、それを喉で発音することもできない。耳で聞き分けることもできない。
 ようするに、私は馬鹿であって、利岡のことばの運動にはついていけないのだ。

 それなら、利岡の詩についての感想を書かなければいい--のかもしれない。でも、書いてしまう。それは、ときどき、あ、これは美しいなあ、と思う行があるからだ。
 だから、困るのだ。

空模様を測る舌は引っ込めておけ。劇場に足を運ばず、帰るべき控え室もない雲のために。

 「眠りの授業」の中の1行である。声に出して読みたい--と耳は叫んでいる。けれど、声に出したくても出せっこないと喉は訴えている。何か余分なことばがあるのだと思う。あるいは順序が不自然な(私にとって、という意味である)ことばがあるのだと思う。これはとても感覚的なことなので、どれ、とは指摘できない違和感なのだが……。

 詩集ではなく、1篇1篇、独立した形で読めば、利岡のことばの多さにたじろがずに読めたのかもしれない。1日1篇と決めて読めばよかったのかな、と反省している。



人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(28)

2010-08-28 10:58:25 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(28)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「秋枕--十月」。

人の秋枕の秋やしみじみと

 「しみじみと」ということばは、こんなふうに静かにつかうと、ほんとうにしみじみとしてくる。秋は人が恋しくなる。

暮残る枕白しよ秋もすゑ

 「白」という色は不思議だ。暗くなっていくなか、ぽつんと残されると、そのまずしさがつらくなる。何色にも染められずに取り残されたむなしさを、受け止める相手もいないまま、吐き出している。

いなづまと交す枕や小傾城

 この句については、高橋がエッセイで注解(?)している。去来の「いなづまやどの傾城とかり枕」という句に刺激を受けて書いた句であることがわかる。去来の句を注解は別にして、高橋は、次のように書いている。

 いなづまはいまは稲妻と書くが、ほんらいは稲夫とあるべきところ。晩夏から初冬にかけてのいなづまは天の射精とされ、これが地の卵巣たる稲田に走ることにより、稲に実が入るものと考えられた。そのいなづまが稲田ならぬ遊廓に通うとなると、どの傾城と仮枕するのだろうか、という。

 後半が注解の本筋なのだが、その前段がとてもおもしろい。いなづまは天の射精か。そんなことは、ないね。いまの科学からみると「誤読」だね。しかし、それがおもしろい。「誤読」のなかには「事実」ではなく、「祈り・願い」としての「真実」が含まれている。「考えられた」ということばが、その「しめ」に出てくるが、そうなのだ、ひとは考えたいのだ。考え、それをことばにすることで、その考えが「事実」にかわってほしいと祈るものなのだ。
 「誤読」のことばの運動には「事実」はない。そのかわり「こころの真実」がある。あるいは、ちょっと言い換えて、「誤読」のことばのなかには「真実」はない。そのかわり「こころの事実」がある、と言うこともできる。「事実」と「真実」というのは、それくらいの違いだろうと思う。
 さらにおもしろいのは、ひとはいつでも「誤読」のことばに乗っかって、「誤読」を加速させるということだ。
 いなづまが天の射精と考えたあと、それが遊廓に通う。あれっ、稲が卵巣じゃなかったの? 射精して、受精して、実になる--それが「こころの真実・事実」ではなかったの? 遊廓は、射精をするところではあっても、受精し、妊娠し、出産するところではない。妊娠せず、出産せず--つまり、男にとって、ただ射精するだけのところであるはずだ。「こころの真実・事実」、つまり「夢」が微妙に逸脱している。
 逸脱しているのだけれど、うーん、それを普通、逸脱とは言わないね。「夢」が加速し、逸脱していくことを、人間は好んでしまうのかもしれない。それがスケベな逸脱なら、「こころの真実・事実」は「こころ」ではなく「肉体」の「真実・事実」の方を優先するのかもしれない。「こころの真実・事実」は実は「こころ」ではなく「頭」が「考えた」ことにすぎなくて、ことばとは無縁であるはずの「肉体」の方が、「ことば」にならない「人間の真実・事実」という「夢」をつかみとるのかもしれない。
 天と地の生理、自然の摂理もの大事だけれど、それだって、よくよく見れば人間の「生理」の比喩である。天の射精、稲の受精のなかに人間の「生理」が紛れ込んでいる。「誤読」は「人間の生理」によってまぎれもない「事実・真実」になる。その「事実・真実」から、「肉体」がまた別の方向に勝手に動いたってかまうものか。
 あ、こんな面倒くさいことを高橋は書いているわけではないのだけれど、私は高橋のことばから、そんなふうに「誤読」を拡大してしまう。
 「読む」というのは「正解」をしるためのものじゃないね。あくまでも「誤読」をつづけるためのものだ。「正解」に納得ができなくて、ひとは「書く」。書きながら「誤読」を拡大する。

 「正解」にも「誤読」にも、詩、はない。詩は、「誤読する」という「動詞」のなかにある。



 反句。

鯔子(からすみ)の枕ざまなる見事さよ

 これは去来の故郷が長崎であることに由来する。去来の句の遊廓が「長崎」であると見て、長崎の珍味カラスミをもっきてたのだ。カラスミを枕にみたてているのだ。枕ほどもあるカラスミを私は見たことがないが、こえふとった立派なものを賞讃している。--だけではないかもしれない。カラスミはボラの卵巣。あら、それは射精を待っている? 誘っている? そういう意味での「枕」?
 --こんな読み方は「誤読」を通り越しているのだけれど、そんなふうに逸脱を誘いつづけることば、それが私には楽しい。
 立派な卵巣だねえ。で、射精は? 女は「見事さよ」と言ってくれるかなあ。
 私は下品だなあ、と反省しながらも、こういう下品を受け入れてくれるのも俳句のおもしろさのひとつであると勝手につけくわえておこう。



日本の川
大西 成明,赤江 瀑,高橋 治,高橋 睦郎,大庭 みな子,北村 想
ピエブックス

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「狼・シュン」

2010-08-28 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「狼・シュン」(「映画布団」4、2010年08月24日発行)

 豊原清明「狼・シュン」は「短編シナリオ」。詩であろうが、シナリオであろうが、小説であろうが、私はそれを「ことば」としてしか読まない。ジャンルは気にかけない。ことばがどれだけ刺激的であるかだけが問題である。
 豊原は詩と俳句も書いている。どれもおもしろいが、私は、最近シナリオがいちばんおもしろいと感じる。

○ 駅前・切符売り場(日曜日・春)
   大倉山太郎(14)と、吉野健太(15)が、切符を買っている。
   多くの人が、イコカカードや、携帯で、駅の中に入っていく。
太郎「切符の方がいいのにな。」
健太「どっちでもええやないか。」
太郎「あの子、いるかな?」
健太「おるよ、きっと。」

 これは書き出しだが、これだけでドラマがある。何も書かれていないけれど、太郎と健太がいつも日曜毎に切符を買っていることがわかる。いつもいっしょにどこかへ行っている。そして、そこには「あの子」がいる。「あの子」が来る。「あの子」がいつも来ていた。
 その「過去」が見える。
 豊原のことばは、いつでも「過去」を抱え込んでいる。
 「切符の方がいいのにな。」「どっちでもええやないか。」というやりとりは、どうでもええやないか、という感じの台詞だが、そこに二人の性格が見える。性格が見えるといっても、それをいちいちことばにするようなものではないのだが、あるいはことばにならないようなものなのだが、そこに「人間」の「肉体」が見える。その「肉体」というのも、私の定義では「過去」である。
 ちょっと比較してみよう。今回の芥川賞受賞作。赤染晶子「乙女の密告」の冒頭。

 乙女達はじっとうつむいている。静かな教室のあちこちからページをめくる音が響く。日本人の教授は黒板を書く手を止める。さっと後ろを振り向く。教室はしんと静まりかえる。

 ここには「過去」がない。教室で教授が板書し、学生が本のページをめくるのかノートのページをめくるのか、よくわからないが、そういう行為は「日常」であるはずなのに、つまり繰り返されているはずなのに、その繰り返しと、繰り返しの中で動く肉体がぜんぜん見えてこない。
 教授が黒板に文字を書いている間、本の(教科書の)ページをめくるというのも、馬鹿みたいだなあ、と思う。(私は、そんなことをしたことがない。教授が黒板に何か書いているならそれを見ている。あるいは、それをノートに写している。教科書のページなどくらない。)リアリティーがまったくない。
 嘘を書いている、と思ってしまう。これから始まるのは嘘なんだと告げる文章である。
 豊原のことばは違う。それが「つくりもの」であっても、嘘ではない。どのことばも「過去」をもっている。ことばの一つ一つから「過去」が噴出してきている。
 これは、とても衝撃的なことだ。
 太郎と健太は、ストリートでギターを弾きながら歌っている。そこへ、いつものように「あの子」がやってきて、歌を聴く。

   紫の服を着た、女性、山野裕子(20)が太郎と健太の前に来て、微笑している。   太郎、話しかける。
太郎「一寸、喫茶店か、公園行きませんか?」
裕子「ううん。もっと、聴かしてちょうだい。」
   太郎、しつこく話す。裕子、向こうに行く。太郎の靴を踏む、健太。
太郎「つけよう。」
健太「しゃあないやっちゃ。」
   俊二、横から口をはさむ。
俊二「あんさんら、アホか?」
太郎「あんさんもな。」
   太郎と健太、ギターを置いて、つけていく。 

 ここにも書かれていないけれど「過去」が見える。「つけよう。」「しゃあないやっちゃ。」という二人の会話の中に、二人の関係も見える。

 普通(といっていいかどうか、ちっと疑問だけれど)、ことばを書くとき、そのことばの「来歴」というか、「過去」が読者にどれだけわかるか(わかってもらえるか)、とても不安である。状況を書き手はどうしても説明してしまう。
 ところが豊原は「過去」を説明などしない。豊原がことばを書けば、そこに必然的に「過去」が噴出してくる。
 こうした性質をもつことばは、映画、あるいは芝居に最適である。映画も芝居も役者が「過去」を背負って、「過去」を見せる。「過去」を見せながら、未来へ進んでいく。豊原のことばも「過去」を見せながら、未来へ進んでいくという運動をする。

 豊原のことばは完璧である。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(27)

2010-08-27 13:48:07 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(27)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕討--九月」。
 「枕討」は高橋の造語である。高橋がエッセイに、そう書いている。寝取られ男が、腹いせに枕を討つ、という「意味」である。
 私はこういう逸脱が好きである。それは逸脱であると同時に「誤読」である。不義・密通の話は昔からあるが、寝取られ男が腹いせに枕を討つということは、きっとだれもしていない。していれば、その行為に相当することばがあるはずである。ひとはだれでも自分のしたことは語りたいものである。実際にしなくても、したいと思ったことは語りたいものである。

雷(いかづち)を逐うて失せしを枕討

枕討人数踏ン込む露の宿

人憎し枕憎しや残る蝿

 「枕憎し」の「憎し」がおもしろいなあ。枕が何かをしたわけではない。何かをしたのはあくまで人間である。その人間が憎いのだけれど、そこに人間がいなければ、枕にやつあたりしてしまう。枕がなければ不義・密通はありえない。枕のせいで不義・密通がおこなわれる。
 --こんなことは、「誤読」である。
 でも、そんな「誤読」をしないことには、こころの行き場がないのである。「誤読」はこころを救済するのだ。
 もし、江戸時代に高橋が生きていて「枕討」ということばを書いていたら、きっと何人もの男が「枕討」をしたに違いない。
 ことばは現実を変えていく力を持っている。

人は逃れ枕は討たれ秋深む

 この「秋深む」はいいなあ。人事と自然は無関係である。男が枕に仇討ちをしている。それだ何かが変わるわけではない。まあ、男のこころはいくらか晴れるのかもしれないけれど、そんなことは「思い込み」(誤読)である。そういう「誤読」の世界のとなり(?)に「秋深む」がある。となりというのは、へんだなあ。「誤読」を呑み込む(受け入れ、消化して)、秋が深まっていく。

枕捨てて落チ行く先や夜々の月

 これもいいなあ。「枕捨てて」の枕は実際にある枕だね。そして、これから迎える夜ごとの枕はどうだろう。時に「草枕」、時に「肘枕」--ではセックスはできないか……。まあ、枕なんて、セックスはできるからね。と、いうことろが、おかしい。
 枕はいくら仇討ちされても、恋には関係ない。恋にはひびかない。
 さて、どうしよう。



 反句、

この枕なくばあらずよ秋の翳

 「この枕」か。どんなものでも、思いがこもると「この」と呼ばれてしまう。「この」女、「この」男がつかった、「この」枕。
 「この」はこの句には欠かせない。




日本二十六聖人殉教者への連祷
高橋 睦郎
すえもりブックス

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂本和宏『あなたの中の丸い大きな穴』

2010-08-27 00:00:00 | 詩集
茂本和宏『あなたの中の丸い大きな穴』(ジャンクション・ハーベスト、2010年08月17日発行)

 茂本和宏『あなたの中の丸い大きな穴』には、わかりやすい詩とわかりにくい詩が同居している。
 「帰省」や「田に水を」は両親のことを書いている。ことばは、しずかに動いて、その静かさなのかに両親への愛情が見える。
 一方、詩集のタイトルになっている「あなたの中の丸い大きな穴」は、何が書いてあるかわからない。
 私は、そして、わからない詩の方が好きだ。どんなに「誤読」しても、「わからないから」と言い訳ができそうだからである。「わからない」をいいことに、思い付くままにことばを動かすことができるからである。
 全行。

あなたの中の丸い大きな穴が
ゆっくりと口から這い出て
私の腕にからみつく
腕に 肩に
身体中にからみついて
穴は
私の形に撓んでいく

ぽっかり撓んだ
丸い大きな穴
口から這い出た
あなたの中の丸い大きな穴に
身体ごと沈んでいく私
けれど
沈んでも
沈んでも
身体はあなたに届かない

あなたと
私と
ただそれだけのことが
こんなに傷んでいる

 「穴」を「あなた」のこころのなかの虚無--その比喩ととらえると、この詩は、とても読みやすくなる。その「穴」は、ことばにならないことばである。「あなた」は「私」に対して何かいいたいことがある。そしてそのいいたいことは、ことばにはならない。もどかしさ、言っても言っても、ことばでは埋めつくせない何かが、口から出て行く。そして、「私」の体にからみつく。でも、からみつくだけだ。1連目は、そういう状態を描いている。
 2連目は、それを「私」の方から描いている。「あなた」のことばにならないことば、虚無に「私」は身体ごとつつまれる。呑み込まれる。沈んでいく。けれど、「あなた」のことばはことばになっていないので、結局、「私」は「あなた」にはふれない。
 二人は触れ合わない。
 3連目。そして、二人は、触れ合わない、「ことば」と「身体」が、すれ違うことによって傷ついている。そう語る。

 だが、そんなふうに簡単に「比喩」をもちだしてきては、だめなのだ。「穴」を「ことばにならないことば」、その「欠落」という具合に整理しては、だめなのだ。それでは、詩はおもしろくない。

 真剣に「穴」を思い描いてみる。
 「穴」はどんな具合だろう。「穴」はたいてい「暗い」。奥に明かりがついていて、あかるい穴もあるかもしれないが、私は暗い穴を思い浮かべてしまう。「あなた」はそれを吐いている。
 詩では、穴が這い出てくる、と書いてあるが、私は「あなた」(女)が穴を吐いている姿を思ってしまった。穴はまわりがあってこそ穴なのだが、吐き出された穴はまわりをもたない。女の身体のなかにあったときは、身体が穴を支える周囲であったが、いったん吐き出されるとそれは、穴である要素を失ってしまう。
 それでも、穴、なのである。

 想像せよ。
 その不可能を想像せよ。
 周囲をもたない穴を想像せよ。

 できない。

 できないから、想像しなければならない。
 そうすると、穴のなかから(穴ということばのなかから)ただ黒いもの、暗いものだけが輪郭をもたずに見えてくる。
 穴--ではないのに、それを穴と呼んでみる。(ほかに、ことばを知らないので)

 そのとき、とても変なことが起きる。
 詩では、その穴に沈んでいくのは「私」(茂本)なのに、その「私」が茂本ではなく、いま、こうしてことばを書いている私になってしまう。
 穴を、存在しないものを、想像した瞬間に、その穴と関係している肉体は、茂本の肉体ではなく、私の肉体になる。
 私(谷内)が、私(谷内)の身体が沈んでいく。
 沈みながら、私は、その穴が、違ったものになっていると感じる。茂本が書こうとしていたものからずれてしまって、あ、いま、私の身体にあわせる形で、撓み、歪んでいる。変なものになっている。「あなた」の穴でも、茂本の穴でもなく、私(谷内)によって傷つけられ、どうしようもないものになっている、と感じる。

 そう感じながら--これから先が、また矛盾したことというか、変なことになるのだが、あ、この印象が「私(茂本)」が感じていることかなあ、とも思うのだ。
 私(谷内)と「私(茂本)」の区別がつかなくなる。それは「穴」が「あなた」のものであるかどうかわからなくなる、ということでもある。「私」が茂本であることは、(私小説風に読んではいけないのかもしれないけれど)、まあ、わかる。けれど「あなた」に関しては私(谷内)は何も知らないので、そこに書かれている穴も、いったい何を指しているのかわからなくなり、穴は、ほんとうは私(谷内)? とさえ思ってしまう。
 穴は「あなた」から吐き出された(這い出してきた)。それはほんとうか。そう見えただけで、ほんとうは、「私」から這い出したものではないのか。「私」が吐き出したものではないのか。

 ひとは、結局、自分のことしかわからない。自分のことしか語れない。
 「あなた」から穴が這い出してきたとは、だれが言ったのか。「あなた」が言ったのか。そうではなく、「私」が言ったのだ。
 そうであるなら、それは「私」なのだ。「あなた」から這い出してきた穴、「あなた」が吐き出した穴--それは「私」以外の何物でもない。穴が「私」であるから、穴に「私」は沈み込む。穴と「私」は一体になる。
 けれど。
 一方で、「私」は「私の身体」ということばで「私」を呼ぶ。それは「穴」ということばではない。齟齬が生まれる。矛盾が生まれる。その矛盾の中で、「私」と「穴」は傷つけあう。
 この矛盾が--傷つけあうという矛盾が、詩である。

 そして、ここまで書いてきて、私はふいに思うのだ。「帰省」も「田に水を」も美しい作品だが、そしてそこではやはり「私」と母、「私」と父は一体になっているのだけれど、その一体には「矛盾」がない。傷つけあう関係にない。それが、少し物足りない。静かに愛し合うのもいいけれど、どうしていいかわからず、ただ傷つけあうしかない向き合い方、矛盾の中でうごめくことしかできないもの--それが詩だなあ、と思う。
 「帰省」ではなく、「田に水を」でもなく、「あなたの中の丸い大きな穴」について書きたいと思ったのは、その作品の方が、私にはより大きな穴(わけのわからない詩、ことばにならろうとしてもがいていることば)に感じられたからだ。 




ネジといっしょ
茂本 和宏
思潮社

このアイテムの詳細を見る
冬のプール
茂本 和宏
思潮社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(26)

2010-08-26 11:03:18 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(26)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕占--八月」。
 「枕占」は「夢占い」に同じ、と高橋は書いている。「枕占」が高橋の造語かどうかはわからない。造語と思いたい。

秋や今朝枕をたのみ何占ラふ

 夢占い--その夢は夜見るものだけれど、ここで高橋が書いているのは、真夜中に見た夢の占いだろうか。それとも、目覚める寸前に見た朝の夢だろうか。それとも、夢を見なかった。見なかった夢を捏造して、それを占うのか。
 「たのみ」のひとことが、夢の捏造を思い起こさせる。
 私の「誤読」だろうけれど、私は「誤読」をしたくてことばを読む。「誤読」ができると、とてもうれしい。
 詩は、たぶん、いま、ここから、いま、ここへ逸脱していく瞬間に輝くものだ。
 「誤読」ではないときは、それまでの私のことばの運動が、たとえば高橋のことばの運動にであうことで成り立たなくなり、はっと目覚めるときである。古い「誤読」が否定され、「真実」が突然あらわれてくる。--そのとき、それは「真実」であっても、私からすれば、いま(過去)からの逸脱である。
 「誤読」が詩人のことばで否定されるか、逆に私が詩人のことばを「誤読」してとんでもないところへ行ってしまうのか--どちらにしろ、そこには「誤読」がからんでいる。「いま(過去)」の否定がからんでいる。
 朝、目覚める、というのは、いわば「夜」の否定である。「夢」の否定である。「夜」と「夢」から逸脱していくことが目覚めるということである。どこへ逸脱していくのか--それを占いたいというのは、占いに身をまかせるということでもある。身をまかせることを「たのむ」とも言う。
 だれもが、いま、ここではなく、どこかへ行ってしまいたいのだ。

迎火や寝慣れ枕を縁の先

 迎え火を、寝ころんで見ているのだろうか。寝慣れた枕を縁側に出して、ごろり、と涼をとりながら。
 「寝慣れ枕」は、自分が慣れているということだろうか。それとも、迎え火に誘われて、遠い国から帰ってくる愛しい人がつかっていた枕だろうか。長い旅だっただろう、さあ、いつもの枕で休んでください、というのだろうか。

此ノ君の枕の別れ今日や明日

 竹でつくった籠枕。「別れ」は季節が夏から秋にかわるからだけれど、「君」が出てくると、竹であんだ籠枕だけではなく、いろっぽいものもただよってくる。
 ことばはいつでも、複数のことがらを行き来する。
 だからこそ、「占い」というものも必要なのかもしれない。「此ノ君」は竹? それとも愛しい人? 占いは、たぶん、占ってほしいひとの「希望」にあわせて選ぶ「誤読」かもしれない。
 ひとは、自分ののぞむように「世界」を理解したいのだ。だれもが「誤読」したがっているのだ。



枕とも筮(ぜい)ともならず竹の花

 数十年に一度花を咲かせて枯れていく竹。その花は生きてきた証か、死への旅立ちの印か。同じことを、違うことばで言うことができる。だから、ひとつのことは必ず「誤読」できる。

 これは、「誤読」しかできない私の、強引な自己弁護にすぎないかもしれないけれど。



日本二十六聖人殉教者への連祷
高橋 睦郎
すえもりブックス

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩佐なを「銅版画苦楽部」、廿楽順治「ライトバース」

2010-08-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「銅版画苦楽部」、廿楽順治「ライトバース」(「出来事」6、2010年夏発行)

 岩佐なを「銅版画苦楽部」を読みながら、うーん、まずいなあ、と思う。何がまずいかというと……気持ち悪くない、気持ちがいい、好きなのである。
 これは、まずい。
 私は岩佐なをが嫌いであった。大嫌いであった。ともかく気持ちが悪い。気持ちが悪い、気持ちが悪い、と書くことで、なんとなく私自身の平穏を保っていたところがある。気分が滅入り、ひとを罵倒してすっきりしたいと思ったとき、そうだ、岩佐なをの詩について、気持ちが悪い、と書けばいいんだ--ということが、できなくなった。
 岩佐なをがかわったのか、私がかわったのか。よくわからないが、まずい。
 ちょっとまずい、を通り越してしまった。
 何かが変である。
 「銅版画苦楽部」は右ページに詩、左ページに版画という構成で組まれているが、その「備考②(ワラビ発見)」を読みながら、ほんとうに、変だ。どうしてこんなふうになってしまったのだろうと思った。
 左のページには、ネコが描かれている。これが、なんとも不思議。私はネコを直視できない。直視できるのは、ピカソの描いたネコ、右目と左目が違っていて、片方の目でテーブルの上の魚を狙い、片方の目で人間を見つめているネコの絵だけだと思っていた。そのピカソの絵ほどではないのだけれど、なんとなく岩佐のネコの版画を見つめてしまって、黒くてよく見えない口元をじーっと見てしまったのである。ネコ恐怖症の私が、である。これはおかしい。私は病気かもしれない、熱があるかもしれない……。でなければ、そこにはネコではなく、「他人」が描かれているのかもしれない。
 詩は、というと……。

五分の魂とはこれかと思う
しかしワラビだそうだ
土のなかからスルスル出てきやがって
五分どころかもっと伸びた
あるモノはこれはハテナだと云う
ワラビもハテナも似たようで
似て非なるものだ
兎に角最初に発見したものに
与えられるそうだ
欲しくないんだ
タマシイもハテナもワラビも
ウミニトケルタイヨウモ
モチロンエイエンモ

 何が書いてあるかというと、何も書いてない。いや、ひとつだけ、書いてあるものがある。
 口調である。
 それも、自分をみせない口調というか、自分を他人にしてしまう口調である。いや、そうではなくて、他人と他人を平気で(?)つなぐ口調である。
 岩佐には岩佐のいいたいことがあり、岩佐自身の声というものももちろんあるのだろうけれど、それは、まあ、出さない。他人を次々に登場させ、そこに「世間」というものを浮かび上がらせる。岩佐の「肉体」ではなく、「世間」の肉体を浮かび上がらせる。
 「世間」というのは、どうにもうさんくさいものであるが、岩佐はそれと正面きって対決する(向き合う--そして、自分を変える)のではなく、「世間」と「世間」をつっつきあわせる。
 結果的に、そういうものを平然と見ている岩佐という「肉体」を浮かびひ上がらせるのだけれど、そのときの落ち着きはらった感じが、たたいても壊れない感じで、それがいいのだ。その感じこそ、「世間」であり「他人」だ。
 昔は(とは、いったいいつのころだろう--私は30年ほど岩佐の詩を読んでいると思うけれど……)、たたくと、いやたたかなくても、そこから体液のようなものがあふれてきて、それが気持ち悪かったが、いまは、その体液のようなものが「他人」になってしまっていて、それがおもしろい。
 あ、なんのことかわからないね、これでは。
 たとえば、

あるモノはこれはハテナだと云う

 この1行。ワラビの描写である。土のなかから出てきたワラビ。その形は?(クエスチョンマーク)に似ている。これを自分の考えだとは言わずに、「あるモノ」の主張(云う)だと突き放す。そうすると、その反動で、それまで書いてきたことは「わたし」の考えでありながら、相対的に「他人」の考えになってしまう。「わたし」から吹っ切れて、何か、客観的な感じになる。いろんな考えが、それぞれ「あるモノ」がいったことのように、独立した「肉体」をもってしまう。
 そして、そこにはだれもが知っているランボーの「肉体」さえ登場してくる。
 その瞬間。
 ワラビはハテナ。ハテナは疑問。疑問が伸びる(成長する)と、そこに必然的に「答え」のようなものが引き出されてくる。それは、実はどこかにあるのではなく、「疑問」そのもののなかにある。「疑問(ハテナ)」のなかには、答えが「五分(の魂)」も含まれている。答えは、疑問をもった人間がみつけだすものである。疑問をもたない人間は答えも「発見」しない。答えは最初に「疑問」をもった人間に「与えられる」。
 という「意味・内容」が吹き飛んでしまう。
 そんなものよりも魅力的なのは「口調」である。

見つけた
何を
永遠を
海に溶け込んだ太陽を

 だったかな? その「口調」が

見つけた
何を
ワラビを
自然に溶け込んだハテナを

 という書かれなかった「意味」を、同じ次元にしてしまうことも可能なのだけれど、(そんなふうに書き直すことも可能なのだけれど)、そうしない。
 違った「口調」のまま、そこに併存させる。
 きっと「世間」とは「他人」が同居する状態なのだ。岩佐は「他人」として自分を「他人」のなかで同居させる力を確実に自分のものにしているのだ。
 これは、気持ち悪がることはできないなあ。



 廿楽順治「ライトバース」にも「他人」が出てくる。「他人」の「声」が出てくる。「角」という作品。(作品は行末が下にそろえられているのだけれど、引用では頭をそろえた形にしている。)

おぼえてろよ。
おぼえてられませんな。

 この「おぼえてられません」、「他人」は他人のまま、けっして「わたし」の内部に取り入れ、引き受けるようなことはしません。「わたし」の「肉体」を変えるようなことはしません、ということなのだ。
 「あるモノ」は「おぼえてろよ」と言う。けれど「おぼえてられませんな」と「他人」のままにしておくのである。
 それが「世間」だ。

 「世間」は、ことばにしないときは「世間」のままだけれど、ことばにすると「他人」があふれる詩になる。「個人」とは無関係な、さっぱりした運動になる。





しましまの
岩佐 なを
思潮社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋睦郎『百枕』(25)

2010-08-25 11:54:05 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(25)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕川--七月」。
 「枕川」は高橋の造語。川の名前。その川を高橋は廓のなかを流れさせている。

枕川明易き夜を重ねつつ

明易き枕いくたび裏返し

 遊女の眠られぬ夜の感じが、「枕いくたび裏返し」という動作のなかにしっかりおさまっている。遊女にかぎらず、夏の夜は寝苦しく、熱のある枕を何度もひっくりかえし、少しでも涼しくなろうとする。客のいない遊女は、何を考えるだろう。何を思ったかではなく、枕を裏返すという、だれにでも通じること(だれもがしたことがあること)が、遊女をぐいと引き寄せる。こういう単純な動きが俳句ではとても強く働く、と思った。

枕川夏涸れ恋のいろくずも

 エッセイのなかに、高橋は、客の取れなくなった遊女について、「客離れ」と書いて「客がれ」と読ませている。その「かれる」が「夏涸れ」の「かれる」と重なり合う。
 句の「夏涸れ」よりも、私は「客離れ」の「かれる」に、はっ、とした。
 日本語は美しい。日本語は深い、と思った。
 客がつぎつきにつくときは「かれる」ではなく、きっと水がこんこんと湧いてくる感じなのだろうと思う。
 そういうときは、枕の上の頭の中では、楽しい夢もこんこんと湧いているだろう。
 「かれる」ということばが書かれているのだが、なぜか湧くということばを思い出してしまう。
 川の水も、もとへ逆上れば、こんこんと湧く水である。--そういう思いがあるからこそ、「涸れる」がより強烈になるのかもしれない。



 反句。きのう読んだ句の明るさにどこか似ている。いま、ここから遠くへ動いていく、そのさわやかさが気持ちいい。

枕川渡り夏越の祓へせん



柵のむこう
高橋 睦郎
不識書院

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』

2010-08-25 00:00:00 | 詩集
井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』(思潮社、2010年07月20日発行)

 井崎外枝子『金沢駅に侏羅紀(じゅらき)の恐竜を見た』の「わたし」のなかには「わたし」以外の人間がいる。
 「イモウト」という作品。

 イモウトの片側が、突然撃ち抜かれて帰ってきたので、イモウトは半分だけで生きるようになりました。
 (略)
 イモウトを元のところに戻しにいかなければ、二人が出てきたところにイモウトを早く送り届けてやらなければと、焦るばかり。(略)
 日に日に弱ってくるイモウト--口には出さぬものの、わたしの半分を欲しいと思っているのかも。気づかぬふりをしてはいるが、内心こちらもそのことばを待っていたのかも。
 わたし自身、誰か自分の半身をもらったのか定かではなく、この際イモウトに分け与えてもいいのではないかと。

 この「イモウト」はイタロ・カルビーニの「真っ二つの子爵」の「半分」とは違う。「わたし」から独立して生きている人間ではない。それは、

二人が出てきたところにイモウトを早く送り届けてやらなければ

 の「二人」ということばにあらわれている。この「二人」は、「イモウト」の片側と、残りの(?)片側かもしれないが、そうではなくて、「イモウト」と「わたし」の「二人」と私は読んだ。
 「イモウト」が片側の「半分」になることで、「わたし」は「イモウト」のことを考えるようになった。もし半分にならなければ、「わたし」は「イモウト」を書いたりはしないのだ。半分の「イモウト」は「わたし」と「イモウト」という「二人」をつくりだしたのである。「イモウト」が半分になることで、もしかすると「わたし」も「半分」になりうる--ということを「わたし」は知ってしまった。
 これは、まずい。
 「イモウト」を半分ではなく、「ひとつ」にしなければならない。そうしないかぎり、「わたし」が半分ずつに割れてしまうことを防ぐ方法はない。人間が半分(片側)で存在しているという事実を否定しなくてはならない。
 ここには、そういう「焦り」が書かれていると思う。

 そして、これは「身体」の問題ではなく、もしかすると「ことば」の問題を書いているではないか、という気がする。私には。

わたし自身、誰か自分の半身をもらったのか定かではなく

 これは「身体」というより、「ことば」のこととして考えるとおもしろい。
 私たちはだれでもことばをつかう。そのことばを、私たちはどうやってつかっているのか。いま、私が書いていることばは、私のものだが、私のものではないともいえる。私はそのことばを「発明」したわけではない。すでに誰かがつかっていた。それを「借りて」私が動かしている。そして、それが「だれ」からものらったものか、実は、わからない。「だれか」のなかで、すでにことばは交じり合っている。
 井崎も同じである。井崎の書いていることばは井崎のものだが、そのすべてはすでに存在している。新しいことばはない。新しいのは、それを井崎が動かしている(書いている)ということだけである。素材としてのことば(半分)+それを動かす井崎のエネルギー(半分)によって、井崎のことば(ひとつの文章)が成り立っている。
 「イモウトの片側」とは、エネルギーを含まない「素材」としてのことばというふうに考えることができるかもしれない。あるいは逆に、「素材」をもたずにエネルギーだけと考えるみるのもおもしろい。
 それは「半分」(素材、か、エネルギー、か)では生きていけない。組み合わさって、融合していないと生きていけない。
 「イモウト」の「もとのところ」とは、素材とエネルギーが融合した「場」ということかもしれない。

 もともと身体なんて、皮膚が幾重にも重なり被さったもの。
 毎日少しずつはがれ、こぼれ落ちていくもの。
 どこまでが自分のものといってみても始まらないのですから。

 「ことば」は幾人もの人(数えきれない人)によってつかわれ、そのつかわれ方が何重にも重なり合いながら、何かしら「ひとつ(複数)」を「つかい方」を規定しているように見えるが、それは日々変化し、ずれていっている。どこまでが「自分固有」のものであるといってみても始まらない。
 「ひとつ」があるとしたら、それは「素材+エネルギー(運動)」という形でしか明らかにできない。
 「ことば」はそのことばが「どう動いているか、何がそれを動かしている」ということを明確にしなければ「ひとつ」のものとして定義できない。エネルギーと運動ベクトルを除外し、ある文章を「引用」して、(作品からひきはがしてきて)、たとえば、これは井崎の文章である、といってみたところで、何も言ったことにはならない。
 それは「イモウトの片側」のように、「半分」なのだ。

 「ことば」だけではない。あらゆるものが「他者」を引用し、そこに「わたし」のエネルギーをつけくわえ、運動として存在する。
 どれだけ「他者」(自分以外の存在)を意識できるかが問題なのだ。

 自分のなかに「他者」を見る井崎は、他者の作品のなかにも、作者とは別に「他者」を見る。「「戸口によりかかる娘」よ」はジョージ・シーガルの作品に寄せた詩である。
 その後半部分に、とてもおもしろいことが起きている。

白いギプスの内側から かすかに聞こえる
呼吸音
あなたはたった一人
この広いフロアの中で生きているのよ
人知れず 呼吸している生き物なのよ

 白い石膏の少女--そのシーガルの作品のなかに井崎はシーガルではなく「他者」を見ている。「生き物」を見ている。
 それは、次の瞬間、別なものにかわる。

ギプスに固められたとき
言葉もいっしょに吸いとられたのかしら
なにか言って 少しでも
もしかしたら あなた あなたは死者で
やっといま 戸口にたどりついたところかしら
一人 抹殺の現場から逃れ出て
焼き尽くされ ざらざらになった
白い姿を晒しているのかしら

 「生き物」から「死者」への変化。--このとき、そこにはシーガルはいない。「ひとり」少女がいるだけで、井崎は、その少女と向き合っている。そして、それは「素材」だろうか。「エネルギー」だろうか。いや、そうではなくて、それは「運動」なのだ。
 白い石膏であるとき、それはシーガルの「イモウト」、つまり「半分」の人間である。その「半分」を井崎は引き受け、そこに井崎のエネルギーを注ぎ込む。すると、その「素材」である「半分」は、「一人」になる。「たった一人」はそのとき、唯一、井崎が向き合っている「いのち」になって、動きだす。生きて、死んで、それから、生まれ変わる。「死者」でありながら、「抹殺の現場」から逃れてきた「生きた死者」なのである。「矛盾」なのである。井崎がシーガルのつくったものを、叩き壊し、つくりなおし、「矛盾」という「運動」に駆り立てる。そのとき、少女だけではなく、シーガルも新しく生きはじめる。井崎が叩き壊したのに、そこからよみがえる。

 詩は、この瞬間に、動く。


金沢駅に侏羅紀の恐竜を見た
井崎 外枝子
思潮社

このアイテムの詳細を見る

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする