詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(46)

2018-03-30 11:16:29 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(46)(創元社、2018年02月10日発行)

 「瓦の小石」は、河原の小石になって語っている。

ここに連ねられる言葉は
誰かさんが沈黙を恐れるあまり
私の無言を翻訳しているだけの話

 こう「種明かし」をしている。「沈黙」と「無言」が対比されている。
 「無言」は「言(葉)」が「無い」であり、また何も「言わな(無)い」である。「言う」を「無」で否定している。「言う」を否定するとき、そこに「沈黙する」という動詞が結びつく。しかし、小石はことばを持たない。だから、小石は「沈黙する」ことはできない。小石にとっては「沈黙」は動詞にはならない。
 「誰かさん」はどうか。「ことばを持っている」。「言(葉)あ(有)る」。「無言」ではなく「有言」。有るけれど、「言えな(無)い」。「沈黙」には「言わない沈黙」と「言えない沈黙」がある。「誰かさん」は「言えない沈黙」を恐れている。「言えなくなる沈黙」かもしれない。それは「言(葉)を無(な)くする」ことによって起きる「沈黙」であるとも言える。「沈黙を恐れる」は「言えなくなる」「ことばをなくす」ことを恐れるでもある。
 「翻訳する」は、自分のことばではないものを、自分のことば(自分の理解できることば)に言いなおすことである。そこにあるものが「無」であったとしても、その「無」を別のことばで言いなおすこと、とらえなおすことはできる。
 この「翻訳」には、ただ「名詞」を「名詞」、「動詞」を「動詞」として「逐語」的に言いなおすものもあるが、「名詞」をそのことばが生まれてきた「動詞」に還元してとらえなおすということもある。「無言」を「言(葉)」が「無い」ではなく、「言わな(無)い」という具合に。「外国語」を「母国語」に言いなおすことを「翻訳」というが、「言い直し」は「母国語」のなかでも起きるし、また必要なことでもある。こういう「翻訳」は、「ことばを耕す」というような「比喩」として語られることもある。

 さて、その「翻訳」のハイライトはどこか。「無言」と「沈黙」を谷川は、どう「翻訳」している。

私はいつもただここにいるだけ
静かに何一つ表現せずに

 「小石」は「ここにいるだけ」、「何一つ表現せずに」。ことばでは「何一つ表現しない」から、これは「無言」。そして「沈黙」である。「無言」か「沈黙」かは、区別がつかない。「ことばを持たない」から「表現しない(できない)」のか、「ことばを持っている」のに「表現しない」のか。常識的には石はことばを持っていないから「表現できない」ということになるが、ほんとうは持っていて「表現しない」かもしれない。「持っていない」というのは、人間の一方的な判断である。
 というようなことを書くと、きりがない。
 ここで私が注目するのは、

静かに

 ということばである。

私はいつもただここにいるだけ
何一つ表現せずに

 と「静かに」を省略しても、「意味(ストーリー)」はかわらない。なぜ「静かに」ということばが必要なのか。どうして、ここに「あらわれて」来たのだろう。これは、何を表わしているのだろう。
 「静かに」は「無言」にも「沈黙」にも通じる。でも、この「静かに」は「ことば」とは関係がない。「ことば」の「有無」の「静か」とは違う。
 「動静」ということばがある。「動く」と「静かにしている」。「静かにしている」は「静止」にもつながる。
 ここでの「静かに」は「動かずに」である。
 でも、それなら

私はいつも「静かに」ただここにいるだけ
何一つ表現せずに

 でもいいはずだ。「動かずに、ここにいるだけ」。けれど谷川は「静かに」を「ここにいる」ではなく、「何一つ表現せずに」と結びつけている。
 「表現しないこと」を「静か」と定義している。「静か」を「表現しないこと」と定義しているのだ。「ことばを動かさない」を「静か」と定義している。
 石というもの(客観的存在)が動くか動かないかではなく、石の「内部(主観)」が動くか動かないか。
 「内面」が動かない。
 「内面」というのは、まあ、石ではなく、人間に通じるものだが。
 外から「外面」を客観的にみつめているだけではなく、「内面」を主観的にみつめ、「内面」の「静かさ」をとらえ、それを「何一つ表現しない」と言いなおしている。
 ことばが「表現する」のは、いつでも「内面」なのだ。

 けれど、その「内面」を重視するために、この詩は書かれているのかというと、私にはそうは思えない。

あ 私の上に紋白蝶がとまった
かすかだけど重みがあります
この蝶も河音を聞いています
石と蝶のあいだには絆があります
心の絆ではなく物質の絆が
だから存在するだけで良いのです
黙って存在するだけで世界は満ちる
人間がいてもいなくても
さらさらさらさら

 「心」は「内面」、「物質」は「外面(外形)」である。「内面」のつながりではなく、「内面」を必要としないつながり(絆)がある。それは別のことばで言えば何か。「存在する」という「事実」である。「ある」という「事実」が、ただ、そこにある。
 これを「静か」と言う。

黙って存在するだけで世界は満ちる

 は、

何一つ表現しなくても、存在するだけで世界は満ちる

 であり、

静かに存在するだけで世界は満ちる

 である。
 「静かに」と「黙って」が重なる。「静か」と「沈黙」が重なる。そこに「もの」が「ある」。
 「人間がいてもいなくても」は、ことばはあってもなくても、ことばにしようがしまいが、でもある。
 これだけで「良い」と谷川は言っている。
 もちろん、これを「内面を重視しない、と思う内面(感情/認識)を書いたもの」と読むこともできるのだが。つまり「内面を重視しない、ただ存在を重視するという思想が内面である」ということもできるのだが。

 私は、しかし、「ここにいるだけ」という「ある」が、とてもなつかしい。

 私は山の中の田舎で育った。幅がせいぜい3メートル程度の川を「大川」と呼ぶくらいの田舎である。正式な名前はみんな知らない。ほかの川に比べて大きいから「大川」と読んで区別しているだけである。そういうとこのろ「河原」は、まあ、単なる川辺というものだが、小石はある。そこに立ってぼんやり流れを見ている。そのとき川は「さらさらさらさら」と音を立てて流れていたかどうか、私にはわからない。「音」は確かににあった(はずだ)。だが、私は、その「ある」を「ことば」にするということを思いつかなかった。川も小石も、まわりの木や草、その向こうの畑や田んぼ、川の中の魚も、ただ「ある」。「ことば」だけが「なかった」と言い換えられるかもしれない。
 川の音、風の音、光の音も、「ある」。けれど、それはただ「ある」だけで、「聞く」ものではなかった。
 そういう「時間」を、思い出すのである。そのとき、私は「静か」だったと思う。何も動かない。

私はいつもただここにいるだけ
静かに何一つ表現せずに

 この二行に、「ああ、そのとおりだ」と思う。そこから、あの川岸、あの大きな石のそば、あるクルミの木、畦道を歩いていく友だち……と「ある」が広がり続ける。

 それを思うと、いま、私はどうしてこんなに「騒がしい」いるんだろう、とも思う。




*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(45)

2018-03-29 09:04:01 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(45)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽の時間」の「時間」とは何だろうか。

鍵盤の上の手を休めて
シューベルトは未来の子どもの眼で
暮れかかる野に目をこらす
子どもよ 君は聞くだろうかこれを
この生まれたばかりの旋律を
太古から存在していたかのように

 ここには三つの「時間」が書かれている。「未来」と「太古」と、ことばになっていないが「いま」。「生まれたばかり」が「いま」を「強調」している。
 未来-いま(現在)-過去(太古)は、一本の線上に書き表わすことが多いが、実際の「時間」のすぎ方(意識の仕方)は、一本の線上をまっすぐに進むというわけにはいかない。
 シューベルトは「いま」から「未来」の子どもを想像し、その「未来」から「いま」を見つめなおしている。そこに単なる「過去」ではなく「太古」という「時間」が書かれている。未来から見たいま(過去)よりも、さらに過去だから「太古」なのか。未来を「いま」と呼ぶとき、「いま」は「過去」になり、「過去」は「太古」になるということか。
 でも、そうではない。未来-いま-過去-太古というような「線上」で時間を割り振ってしまうと、「時間」のあいだを行き来する動きがなくなってしまう。
 シューベルトは「時間」を自在に行き来している。
 ピアノをつかって「旋律」を生み出す、いま。
 未来の子どもになって野を見る、いま。
 未来の子どもになって旋律を聴く、いま。
 旋律を聴きながら、この旋律がいつ生まれたのか、考える、いま。
 「ここ」にあるのは「いま」だけであり、未来も太古も「考え」のなかにあらわれてくる「時間」であり、それは「呼び方」に過ぎない。「ある」のは「いま」という時間だけ。
 そして「いま」しかないのだとしたら「未来」も「過去」も故障に過ぎないのだとしたら、最後の一行は、

未来に存在しているかのように(未来からやってきたかのように)

 と読み直すこともできるのではないだろうか。
 少なくとも、シューベルトにとって旋律は「太古から存在していた」というよりも「未来から」やってきたの方が近いと思う。まだ存在していないもの(存在したことのないもの)が、どこからともなくやってきた。「未知(未来)」からやってきたからこそ、「未来の子ども」はどう聞くかということが気になる。シューベルトにとって、旋律が「太古」から存在していたものとして認識されるなら、「太古の子ども」がどう聞くかが気になるはずだ。「太古の子ども」は旋律が「未来からやってきたかのように」聞くのではないか、と想像するはずだ。
 で。
 こんなふうに感じたことを全部ことばにしようとすると、「未来」と「太古」が交錯する。どちらも「いま」とつながっていて、「未来」と呼ぶか、「過去」と呼ぶかは、何を考えるかによって決まるだけになる。
 「音楽の時間」は「音楽という時間」であり、「音楽」を「時間」で言うならば、どう言い表わせるかを考えた詩(考えさせる詩)と言えるかもしれない。




*


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小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(44)

2018-03-28 12:29:53 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(44)(創元社、2018年02月10日発行)

 「八ヶ岳高原音楽堂に寄せて」は「音楽の前の……」からつづいている詩、「音楽の前に……」の別バージョンの作品なのかもしれない。二連目に、

音楽の始まる前の静けさに抱かれて

 という一行がある。でも、違うかもしれない。直前の作品では、「音楽の始まる前の」
この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている

 と「この」があった。
 「この」とは何か。「この」としか言えない何かだ。だから何度も「この静けさは」と繰り返し、「この」を言いなおしていた。「未生のことば」を生み出そうとしていたのが前の作品である。
 「八ヶ岳」では「この」静けさではなく、違うものが語られている。「木立をそよがす風が」や「木々の緑をホリゾントとして地平をのぞみ」という行もあるが、「静けさ」よりも「音(音楽)」の方にことばの「重心」が移っている。

宇宙に澄まされる精密な耳は
絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちの鼓膜は見えない指の愛撫を待っている

 「音楽の始まる前の静けさに抱かれて」という行があり、それが「私たちの鼓膜は」とつづいていくので、「主語」は「私たち(聞き手)」のように書かれているが、私はこの詩を「音楽の作り手」を「主役」にして書かれていると読み直す。
 「音楽の作り手」という「主語」を補うと、この連は

「音楽の作り手は」、宇宙に向けて精密な耳を澄ます
「音楽の作り手は」、絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聞きとる
(「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す)
(私たちは)、音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちは、「音楽の作り手の」見えない指が私たちの耳を愛撫するのを待っている

 ということになる。
 前の二行で「音楽の作り手」が「私たち(音楽の聞き手)」とどう違うかを書く。主役を「音楽の作り手」にしてことばを動かす。後半の二行で「私たち(音楽の聞き手)」を主人公にすることで、「対構造」をつくりだしている。
 そして、この「対構造」の中心に、

「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す

 という「書かれない一行」がある。
 詩はいつでも「書かれるもの」だが、同時に「書かれないことば」を持っている。「書かれないことば」というのは、詩人にとってわかりきっていることなので「書き忘れる」のである。
 「音楽の作り手」という「主語」も「書かれていない」。谷川が「音楽の作り手」について書いている意識が「肉体」にしみついてしまっているので、「主語」としてあらわれてこないのだ。「無意識」の奥でことばを突き動かしているからだ。
 この「無意識」のかすかな「あらわれ」が「という」という「伝聞」のことばであらわされている。

絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
 
 この一行は「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」にしても「意味」はかわらない。むしろ「強い」印象(断定)になる。けれど「という」を省略し、断定にしてしまうと、谷川が「無意識」と交渉しながらことばを動かしているということがわからなくなる。「無意識」がことばを動かしている、「無意識」にことばが動かされているという感じがなくなる。
 「音楽の前の……」では「この」が繰り返され、その「内部」を充実させながらことばが動いた。この詩では、何かが「意識」されないまま、一回だけ、谷川を強く動かしている。

 「音楽」が「沈黙」と向き合っている。「沈黙」を不可欠な「対」の要素として向き合っているとするならば、「詩」もまた「書かれないことば(沈黙)」と向き合っている。
 私のこの感想は「雑音」のようなものかもしれないが、「雑音」こそが「沈黙」なのである。

絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという

 「雑音」があるから「沈黙」がある。「沈黙」は「信号」と言いなおされているが、その「信号」は「音楽の作り手」にしか聞こえない音だからである。
 最終行、

無から生まれ出た音楽というもの

 は、「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」を言いなおしたものである。「無」とは「雑音の中」の「中」であり、「沈黙」だ。
 「沈黙」を、書かれていなことばを、演奏されていない音を聴く。
 「書かれたことば」と「書かれたことば」、「演奏された音」と「演奏された音」の「あいだ(中)」に「書かれていないことば」を読み、「演奏されていない音」を聴く。
 これが詩を読み、音楽を聴く喜びではないだろうか。



*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(43)

2018-03-27 08:56:45 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(43)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽の前の……」に、私は違和感をおぼえた。

この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている

 読んだ瞬間に、「なぜ静けさなのか、なぜ沈黙ではないのか」と思った。「この静けさは」と書き出されているが、詩のタイトルとつづけて「音楽の前の、この静けさは」という意味だと思う。
 「音楽」と拮抗しているのは「沈黙」ではないのか。これまで詩を読んできて、私は、そう感じている。「静かさ」と向き合うのは「自然」である。
 だから、

この静けさに時を超えた木々のさやぎがひそんでいる

 の「木々」は「静けさ」には似合うし、「静けさ」をそっと招き寄せる感じもする。ただし「時を超えた」となると、やはり「沈黙」の方が「美しく」見えると思う。
 「説明」できない。ただ「直感」で、そう感じるだけなのだが。

 最終連は、こうなっている。

この静けさに音は生まれ この静けさに音は還る
この静けさから聴くことが始まりそれはけっして終わることがない

 この連の「静けさ」は「沈黙」が似つかわしい。完全な「沈黙」からひとつの音か生まれ、「音楽」として宇宙の果てまで響いていく。それは宇宙の中心にある「沈黙」に還る。

 と、ここまで書いて、ふっと違うことを思った。
 私の書いていることは「抽象的」すぎる。
 私は「音楽」と書きながら、「音楽とは何か」と問い、その「答え」を探していた。「思考」していた。「思考」のなかでは、確かに「音楽」と「沈黙」は向き合うのだが。
 だが谷川は、ここでは「音楽とは何か」を問うてはいない、と気づいた。
 「音楽の前の……」というのは、「抽象的な音楽(音楽とは何かと問うときに浮かび上がるもの)」ではなく、「具体的」なものをさしている。
 谷川は「音楽」を考えているのではない。「音楽」を「待っている」。この詩は「ホール」で書かれている。音楽がはじまる(演奏される)前のホール。その「ざわめき」のなかにいる。

この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている
この静けさにかけがえのないあの夜の思い出がよみがえる

 こう書き出されるとき、そこには何百人ものひとがいる。「ホール」で、ひとりひとりが「あの夜」を思い出している。そのために「こころ」がざわめいている。「ときめき」が共鳴し合っているのを聴きながら、自分の中の「ざわめき」をおさえる。つまり「静かに」させる。自分でつくりだす「静かさ」の中にいる。
 「音楽」を「聴く」ために。
 自分の中の「音」を「静かに」させて、これからはじまる「音(音楽)」を受け入れる。そういう「具体的」な時間が書かれている。
 タイトルの「音楽の前の……」は

「音楽のはじまる前の、」この静けさ「という時間のなか」は何百もの心臓のときめきに満ちている

 ということになる。「時間」を共有している。

「音楽のはじまる前の、」この静けさ「という時間のなか」に音は生まれ この静けさ「という時間のなか」に音は還る
「音楽のはじまる前の、」この静けさから聴くことが始まり「、」それ(この静けさ「という時間」)はけっして終わることがない

 「時間」は、人間の「聴く」という「動詞」と一緒にはじまり、動く。「聴くこと」を「始める」。いつでも「始める」ことができるから「終わり」はない。
 この「時間」の共有の中に、「音楽を奏でる」ことで「始まる時間」が重なる。それが「ライブ」ということになる。

 「音楽とは何か」ではなく、そういう「問い」は封印し、「音」を聴く。「音楽」は「沈黙」と拮抗して輝くもの、生まれてくるものだとするならば、ひとは「音楽」を「聴く」とき自分の中に「静かさ」をつくりだし、「音」を「待つ」。「音」を受け入れる「準備」をする。「沈黙」と自分の中の「静けさ」が近づくとき、「音」は「音楽」になって「聴こえる」。その「聴こえる」を「聴こえる」ではなく、「聴く」という主体的な「動詞」にかえていくことが「静かさ」をつくること、自分の中の「音」をおさえる(鎮める/静める)こと。
 「静けさ」ということばに、何か「華やぎ」のようなものがあるのは、「聴く」ことへの昂奮があるからだろう。「音楽」が演奏される直前の、「ホール」をおおう昂奮が、この詩には書かれている。
 最初に感じた「違和感」がすーっと消えていった。






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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(42)

2018-03-26 12:17:40 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
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 「夕立の前」。三連目に印象的な二行がある。

沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 「沈黙」と「静けさ」が「宇宙」と「地球」の「対」で語られている。「対構造」が強いので、ぐいと引きずり込まれる。その強さのせいで見落としてしまうのだが、ここにはもうひとつの「対」がある。
 「無限の希薄さ」と「対」になったものが、ほんとうはある。そして、それは省略されている。
 どういうときでもそうだが、「省略されたもの」が「キーワード」である。「キーワード」は書いている本人にはわかっているので、書く必要がない。書かずにすましてしまう。
 (今、日本中で騒いでいる「森友学園文書改竄」も同じである。最初はあったことばを「改竄」し、「削除」する。それでも「わかる」。最初に書かれていたことばは、もう「財務省」のなかにしみついてしまっている。省内では「意図」は通じる。対外的に消してみせただけのことである。)
 で、その「無限の希薄さ」の「対」とは何か。
 「無限の豊かさ」である。「地球の無限の豊かさ」。
 宇宙には空気がなくて(無限に希薄で)、「音」がない。しかし、地球には空気があって「音」が無限にある。
 この「無限」は、二連目に書かれている。

静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音 遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風……

 「いくつもの」は「無限」に対応している。その「いくつも」は「かすか」という「希薄」の積み重ねである。「音」と言わずに「命」と谷川は書く。「音」が「命(生きること/動くこと)」から生まれているからだ。虻は羽を動かして生きている。せせらぎ(水)は流れることで生きている。草は風に揺れて生きている。無数の「生きているもの(命)」が響きあっている。「生きている」ものを支える「静かさ」がある。
 この「静かさ」と「音」との関係は、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を思い起こさせる。「音」から「音」ではなく、そのとき「共存」している「静かさ」を聞く。芭蕉の句には「蝉の声」とだけ書いてある。一匹の強靱な蝉の声か、無数の蝉の強靱な声か。一匹ととらえた方が「閑さ」が強靱になると思う。「一対一」の迫力。
 で、この「静けさ」を引き継いで、三連目、

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくても聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 と書かれている。「無限の希薄」の「対」は「濃密な大気」であり、それは「ぼくらを取り囲む」。「濃密な大気」のなかには「無限の小さな音」が「命」そのものとして「響き合っている」。
 このあと、詩は四連目に移り、

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか

 という行から「転調」する。複雑になる。
 「それ」というのは直前の「静けさ」を指しているととらえるのが、たぶん「学校文法(学校解釈)」の読み方だと思うのだが、簡単には、そう読みきれない。

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の刺は地下でからみあう毛根につながり
声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

 「声」と「沈黙」と「静けさ」の関係が、一回読んだだけではわからない。自然の命が持っている「音」と「静けさ」、その彼方にある「宇宙の沈黙」との「対」のような「構造」が見えてこない。
 「声」は「人間の発する音」。(自然なら「虻の羽音」など。)
 それは「沈黙(死=個人の主張が拒絶/排除されること/消されること)」を拒んでいる。つまり「自己主張している」。それは、「うるさい」かもしれないが、そこには「静けさ」が「ひそんでいる」。
 この「静けさ」は、これまで書かれていた「静けさ」とは何かが違う。「自然の音/自然の静けさ」は「同居」している。「響き合っている」。
 ところが、この四連目には「拒む」ということばがある。「同居/響き合う」とは異質なものがある。
 「地下でからみあう毛根」の「音」は聞こえない。そこには「静けさ」ではなく、むしろ「沈黙」がある。「責める声(怒り)」はたいがいは「大声」である。そこには「静けさ」はない。むしろ、「沈黙」のような、「強い」ものがある。(「沈黙」という「漢字熟語」が強さを感じさせる。)「沈黙」していた何かが、自己主張する強さ。「沈黙」させられていたものが噴出してくる「力」がある。

声には静かさのなかに安住すること(静かさと同居/共存すること)を拒む沈黙があふれていた

声には生の静かさの中に消え去ることを拒む沈黙が隠れていた

 という具合に「死」と「生」、「沈黙」と「静かさ」を入れ替えて読んでみる必要があると思う。
 「だがぼくはそれを十分に聞いただろうか」の「それ」は「静かさ」である、あるいは「沈黙」であると相対化、固定化して読むのではなく、ふたつがあわさったもの、ある瞬間瞬間にあらわれてくる「それ」としか呼べないものとして読みたい。

はるか彼方の雲から地上へ稲光りが走り
しばらくしてゆっくりと長く雷鳴が尾をひいた
人間がこの世界に出現する以前から響いていた音を
私たちは今なお聞くことができる

 この「音」を支えているのは(この「音」と向き合っているのは)、「静けさ」なのか「沈黙」なのか。「宇宙」と「地上(地球)」、「人間」と「世界」(「私」と「他者」)を「対」にして、私は、この「わからなさ」に立ち止まる。
 「わからない」、言い換えれば、読む瞬間瞬間に感想が違ってきてしまう、そういう違いを生み出しながら生きているのが「詩」なのかもしれない。「わかってはならない」もの、その前で立ち止まるしかないものが「詩」なのだと思ってみる。





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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)

2018-03-25 14:09:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)(創元社、2018年02月10日発行)

 「* 夜ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、」の最初の断章。

 夜、ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、それもまた、沈黙との
ひとつの戦いである。その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にあ
る。月の夜の草原でコヨーテが長い吠え声をあげるのと同じように、
われわれ人間もまた自らの声で、沈黙と戦う。

 「その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にある。」という一文に強く惹かれる。「声」に思わず傍線を引く。私は「声」に対する「好き嫌い」が激しい。
 詩から脱線するが(谷川が書いているのは、私がこれから書くこととは関係ないのだが)、私は美空ひばりの声が好きだ。森進一の声も好き。都はるみは、若いときの声が好き。五木ひろしの声は嫌い。
 で、こう書いてしまって、なぜ「脱線」したのかなあ、私はほんとうは何が書きたかったのかなあ、と考え始める。「脱線」しなければならない「理由」が私にはあったのだ。それは何かというと……。
 「意味」だな。
 美空ひばりの歌を聴いているとき、私は「歌詞(ことば)」を聞いていない。「メロディー」も聞いていない。「声」を聞いている。それを思い出したのだ。
 美空ひばりが好きな理由を、谷川のことばを借りていいなおせば、美空ひばりを聞く「意味」は「歌(歌詞、曲)」にはなく、むしろ「声」にある、ということである。

 さて。

 ここからまた「脱線」するのだが、あるいは、詩にもどるのだがといった方がいいのか。私は考える。谷川の書いている「意味」とは何だろうか。「労働とは、働くという意味である」というときの「意味」とは違うね。
 あえて言いなおせば「重要なこと」だろうか。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ声にある。
(その時、重要なのは言葉ではなく、むしろ声である。)

 こう言い換えることができる。「大切なこと」とも言いなおせる。
 それでは「何にとって」重要なのか。大切なのか、と問い直す。「肉体」にとってである、と私は直感する。「自分の肉体」にとって重要である。
 先の一文は、

その時、「こころを動かすのは(こころを支配するのは)言葉にはなく、むしろ声である。

 という具合に言いなおすこともできるかもしれないが、わたしは「こころ」の存在を信じていないので、わきにおいておいて考えをすすめる。
 「肉体」と「ことば」と「声」とどういう「関係」にあるのか。(谷川は、言葉、と書いているのだが、ここからは私の考えなので、私のいつもつかっている表記で書く。)
 「ことば」は「肉体」をとおって「声」になる。肉体をとおるから「具体的」である。「聞こえる」ものとしてつかむことができる。書かれていれば「読む」という形でつかむ。この場合も「文字」を「書く」という手を媒介とした動詞、「読む」という目を媒介とした動詞が動く。「ことば」は、こんなふうに「肉体」をともなわない。その分、私には「抽象的」な存在に思える。
 「声」は「肉体」を実際につかって「出す」ものである。「ことば」も「ことばを出す(発する)」という言い方があるが、「声を出す」というときのように、「肉体」の「ここ」をつかってというのとは違う。「声を出す」ときは、「のど」「舌」をどのように動かしているかはわかるが、「ことばを出す」とき「頭(能)」をどのように動かしているかはわからない。もしかすると「頭」ではなく「小腸」で「ことばを動かしている」のかもしれない。脳波を調べればわかるのかもしれないが、それはのどや舌のように、自分の思うようには動かせない。
 「ことば」と「声」を比較すると、「ことば」は抽象的。「声」は具体的である。「声」は「声を出す」という「動詞」を含めた「肉体」の動きとしてとらえなおすことができる。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ「声に出すこと」ある。

 さらに、「言葉」と書かれていたのは、「愛する者の名」であったから、これは

その時、「重要なこと」は「愛する者の名」にはなく、むしろ「愛するものの名を声に出して、呼ぶこと」にある。

 とも言いなおすことができる。
 「呼ぶ」のは「名」だけではない。「名」をもった「肉体」そのものを「呼ぶ」(招く)でもある。
 「ことば」もまた、「ことばで指し示されたもの」を「呼ぶ」ことだが、これもまた「声を出して呼ぶ」ことに比べると、抽象的である。「声に出して呼ぶ」というのは具体的で、「声の出し方」によって、「呼ぶ-呼ばれる」の間が具体的にゆれる。「やさしい声」で呼ぶ、「怒った声」で呼ぶ、では、その後の関係が違ってくる。

 さらに詩に引き返すのだが。

 谷川は、最初に「愛する者の名を呼ぶ」という「具体」から始まって、その「呼ぶ」という動詞を「声」という名詞で言いなおしている。(私は、これを逆に「声」から出発しなおす形で「声に出す」「呼ぶ」とたどってみたのだが。)言い換えると「具体」から始まり「抽象」へ、ことばを動かしている。
 「具体」は「個別的」であるのに対し、「抽象」は「個別」をこえる。「普遍」(真理)につながるからである。
 なぜ「普遍」につながることを書いたかというと、「コヨーテ」を出すためである。
 「人間」と「コヨーテ」が「普遍(声を出す)」という「動詞」でひとつになる。そうすると「人間」の「動詞」が「人間」の枠を超えて、「いのち」のようなものに結びつく。「人間」の「比喩」が「コヨーテ」なのか、「コヨーテ」の「比喩」が「人間」なのか。どちらでもない。「いのち」が「人間」と「コヨーテ」として、一緒に生まれてくる。「比喩」というか、「例示」というか、別なもので言いなおすとき、「二つの存在」は「一つ」につながり、「一つ」の奥にあるものを浮かび上がらせる。「声を出す」という「動詞」と一緒に。こういうことろが「詩」の魅力。論文では、こういう展開は頻繁には起きない。
 で、この「声を出す」ということを、谷川は「沈黙との戦い」と「定義」している。

 このとき「沈黙」というのは、どこにあるのだろうか。ひとりの「夜」、あるいは「月の夜の草原」ということばから「私」のまわり、「コヨーテ」のまわりに「沈黙」があると読むのがふつうかもしれない。「沈黙」につつまれて、孤独な「人間(私)/コヨーテ」と読むとわかりやすい。
 けれど、「声に出す」という「肉体」に引き返すと、「沈黙」は「肉体」そのもののなかに「ある」とも考えることができる。自分の中にある「沈黙」を突き破るために「声を出す」。その「声」は「名」というような「明確なもの」ではない。すでに存在するものではない。「声」はまだ「名づけられていないもの」を噴出させるためにもつかわれる。「名づけられていないもの」とは「未生のもの」である。「肉体」のなかにある「未生のもの」、それを「生み出す」ために「吠え声」をあげる。
 これが谷川のいう「戦い」。
 「詩」とは自分の中にある、まだ「ことばにらないないもの」と戦い、その存在を「声にする(声に出す)」ことである。声をつかって(肉体をつかって)、「形」を生み出すことである、と言える。
 
 最初に美空ひばりのことを書いたが、私が感じるのは、美空ひばりの声からは「何か」が生み出されていると感じる。それは「ことばの意味」ではない。「感情」という便利な「流通言語」があるが、「感情」と言ってしまうとまた違う。まだ名づけられていない何かがあると感じる。





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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)

2018-03-24 08:33:45 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)(創元社、2018年02月10日発行)

 「モーツァルト、モーツァルト」。高橋悠治の演奏を聞いたときのことを書いている。私は次の三行がとても好きだ。

譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり

 音楽が乱れる。不完全になる。それを谷川は「物音」になると書いているのだが、私はここに「音楽」があると思う。ふいにあらわれた、そのときだけの「音楽」。あ、これを聴きたい、と突然思った。
 そして思い出したことがある。何年か前、ニューヨークへ行った。ヴィレッジバンガードだったと思うが、ジャズを聴きにいった。目当ての演奏家が出演しているからではなく、ニューヨークへ来たからジャズクラブへ行ってみたかったというだけのことである。誰が演奏したのか、何と言う曲だったかも忘れた。しかし、忘れられない体験をした。演奏の途中に「ゴーッ」と音がする。地下鉄の走る音だ。これを聞いた瞬間、「あ、これがジャズなのだ(音楽なのだ)」と実感した。生活が、そのまわりにそのまま、ある。暮らしが共存している。暮らしといっしょに「音楽」が響いている。
 これはCDや、音響が完全なホールでは味わうことのできない「楽しさ」である。
 谷川が書いているのは、私の体験した「暮らし」とは違うものだが、「完全な音楽(理想の音楽)」が乱れる瞬間の「物音」。そこに「音楽」では表現できない何かがある。谷川が書きたいことは、そういうことではないかもしれないが、私は、聴いてもいない高橋のピアノのその瞬間の「乱れ」を思い、「音楽」を感じる。

 谷川が書こうとしていることは何か。前後を含めて引用し直してみる。

疾走なんかしないでぼくらの隣で
モーツァルトは待ってくれている
いつかぼくらがこの世から消えて失せるのを
譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり
そのくせ時計には決してできないやりかたで
時間を定義した

 「時間」とは「生きる時間(生きている時間/人生)」を指しているのだろう。「ぼくらがこの世から消え失せる」を言いなおしたものだろう。
 「時間(限りある人生)」の反対のものは「永遠」である。「永遠」を「完璧なもの」と言いなおせば、それは「音楽」であり、「音楽を完璧なもの」というとき、「物音」は「不完全なもの」と言いなおすことができる。「時間」と「永遠」との対比に、「物音」と「音楽」の対比が重なる。私には、そう感じられる。
 「永遠(完璧な存在)」のなかで、一瞬「不完全なもの(時間)」が自己主張する。「意味」のなかで、一瞬「無意味」が自己主張する。この「無意味」を、私は美しいと思う。「意味」を拒絶して、それでもそこに「存在している」。「ある」ことの、無防備な美しさを感じる。
 これは「きいている」の最終連に出てきた、

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 の「無意味(ナンセンス)」に似ている。
 美しくて、しかも「強い」。
 ふうつ、あらゆるものは「意味」によって補強される。「意味」をもつことによって強くなる。重要になる、と考えられていると思う。「意味」があるから大切にされる。
 けれど、そうではなくて、「意味」から解放されて、ただそこに「ある」ことがとても不思議に刺戟的な瞬間がある。いや、「頭を殴られる」という感じに似ているかな。「あ、そうか、こういうものがあるのだ」と、その存在に気づかされる。
 それは、気づいた瞬間(いま)は、「意味」がない。しかし、いつかきっと「未知の意味」になると思う。「未生の意味」が「無意味」のなかに「自己主張している」と感じるのだ。

 谷川はモーツァルトを「定義」して、

オナラやウンコが大好きだった男

 と書いている。「オナラやウンコ」は、やはり、ふつうは「意味」から逸脱して「ある」ものだと思う。「意味から逸脱している」けれど、それは生きていくとき全体に「不可欠」なのものだ。「生きている」証のようなものだ。「生きている時間」を「定義」している何かなのだ。
 




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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(39)

2018-03-23 10:48:12 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(39)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽ふたたび」は「音楽」という詩を引き継いでいるのだろうか。

いつかどこかで
誰かがピアノを弾いた
時空を超えてその音がいまも
大気を震わせぼくの耳を愛撫する

 この詩でも「音楽」が具体的に何を指しているかはわからない。ピアノだけの曲なのか、ピアノを含んだ曲なのかもはっきりしない。
 詩の主題は「時空を超えて」だから、「音楽」はわきに置かれたのかもしれない。具体的な「音楽」そのものではなく、抽象的な「音楽というもの」と人間(ぼく)との関係が書かれていることになる。
 このとき、ここにとてもおもしろいことが起きている。
 「音楽」にはいろいろな要素がある。メロディーがある。テンポ(リズム)がある。楽器があり、声がある。「音色」がある。
 谷川は、この詩では、

その音が

 と書いている。「音」だけにしぼっている。もちろん、この「音」は「メロディー」と読み替えることも、「テンポ」と読み替えることもできる。「音色」と読み替えることもできる。
 でも、そうは言わずに「音」と言う。
 これは、「音楽」をさらに抽象的に言いなおしたものか。
 それとも「音楽」になる前の、一つの具体的な「音」へと帰っていくためのことばなのか。
 どちらとも読めるが、私は「単独の音」と読みたい。
 「音楽」はメロディー、テンポによって構成されているが、「構成された世界」になる前の「音」。「未生の音楽」の出発点としての「音」。孤独に震える音といってもいい。それが「ぼく」と「共鳴」する。メロディーでもテンポでもなく、「共鳴」が「音楽」を生み出していくのだと感じる。

時空を超えて

 が、それを強調する。もちろん「楽曲」が時空を超えてやってきてもいいのだけれど、完成された大きなものではなく、単独の小さなものが「時空を超えて」やってくる。「ぼく」に会いに来る。一個の星の光のように。
 きっと、そうなのだと思う。
 三連目に、こう書いてある。

初めての音はいつ生まれたのか
真空の宇宙のただ中に
なにものかからの暗号のように
ひそかに謎めいて

 一連目の「その音」は「初めての音」と言いなおされている。「初めて」なのだから、それは「一個」である。
 巨大な沈黙と拮抗する「一個の音」。
 それを思うと、宇宙の真ん中にほうりだされたような不安とよろこびを感じる。
 「ある」ことの不思議さに、不安とよろこびを感じる。

初めての音はいつ生まれたのか

 この「生まれる」もいいなあ。
 「生まれる」、そして「ある」。それが、何かに「なる」。何に「なる」のか、だれもわからない。




*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(38)

2018-03-22 09:20:34 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(38)(創元社、2018年02月10日発行)

 「このカヴァティーナを」の前半部分。

このカヴァティーナを聴き続けたいと思う気持ちと
風の音を聞いていたいという気持ちがせめぎあっている

木々はトチやブナやクルミやニレで
終わりかけた夏の緑濃い葉の茂みが風にそよぎ
その白色雑音は何も告げずにぼくを愛撫する

そして楽器はヴァイオリンとヴィオラとチェロ
まるで奇跡のように人の愛憎を離れて
目では見ることの出来ない情景をぼくの心に出現させる

 詩は要約できないものだが、あえて要約すると「このカヴァティーナは目では見ることの出来ない情景をぼくの心に出現させる」になるかもしれない。「目では見ることの出来ない情景」を「出現させる」。それが「音楽」である、と。
 たしかに三連目の三行目は印象的なのだが、私は

木々はトチやブナやクルミやニレで

 この一行がこの詩の中でいちばん好きである。この一行は「主語」である。そして、そこには「動詞」がついているのだが。さらに言えば、私は「動詞」を出発点にして「ことば」を読むのが好きなのだが。
 この詩でも「そよぐ」「告げる」「愛撫する」という動詞を出発点にして読めば、それはそれで書きたいことが出てくるのだが、でもきょうは、そういうことをしたくない。
 まわりに「動詞」があふれすぎているせいかもしれない。
 「音(音楽)」と「白色雑音」、「愛憎」、「目に見える光景」と「目に見えない情景」、「静けさ」と「騒音」が「せめぎあっている」ことが、さまざまに言い換えられている。「せめぎあい」に「音楽」が生まれてくる瞬間をとらえているとも言える。
 でも、そういう「意味」ではなく、単にそこにある

トチやブナやクルミやニレ

 この「存在」(固有名詞)に感覚が、意識が、洗い清められる気がする。
 「意味」を気にしない。「動詞」によって何かになろうとはしない。ただ、そこに「ある」。それを谷川のことばは「描写」するが、描写しなくても、そこに「ある」。
 「意味」を拒絶しているわけではないが、「意味」と無関係にそこに「ある」。

 この感じは、ちょっと不思議である。
 私は、谷川がこんなふうに「木の名前」を具体的に列挙している作品を思い出す事が出来ない。いつもは「木」としか書いていないような気がする。「木」に限らず「草」も「花」もたいていは「木、草、花」と書いていないだろうか。「山」「海」「星」も同じだ。「固有名詞(?)」を書くときも、バラならバラと一種類の「花」ではないだろうか。そういう印象が強いために「トチやブナやクルミやニレ」が新鮮に迫ってくる。
 「存在」の強さが、「ある」という動詞を呼び覚ます。「意味」を拒絶して、ただ存在として「ある」。その「ある」が見える。

 そして、それが、この詩には書かれていない「沈黙」を呼び覚ます。(この詩には「静けさ」ということばはあるが、「音楽」と対になっている「沈黙」は登場しない。)
 「トチやブナやクルミやニレ」は「沈黙」として、音楽(カヴァティーナ)と向き合っていると感じる。ここでは「聞く」と「聴く」、「自然」と「人工」が向き合っている。「聴く」にとっては「沈黙」、「聞く」にとっては「ある」。切断と接続の接点として「沈黙がある」か、「あることの沈黙」が「ある」か。





*


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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(37)

2018-03-21 15:27:58 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(37)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽」は「音楽」について書いているが、具体的にどの音楽、誰の曲、誰の演奏かはわからない。

穏やかに頷いて
アンダンテが終わる
二つの和音はつかの間の訪問者
意味の届かない遠方から来て
またそこへ帰って行く

 「二つの和音」は、二通りに読むことができる。「一つの和音」と「もう一つの和音」、つまり「二種類の和音」と読む読み方と、「一つの音」と「もう一つの音」によって構成される和音、つまり「二つの音による和音」と。
 私は「二つの音による和音」と読んだ。「一つの音」が「もう一つの音」と出会い、「和音」になる。
 そしてこのとき、それぞれの「一つの音」は、たとえばピアノの「ド」と「ミ」ではなく、一つはピアノ、もう一つは谷川の「肉体」のなかにある音と読んでみたい気持ちになる。たとえピアノの「ド」と「ミ」の「和音」であったとしても、「ド」と「ミ」のどちらから谷川の「肉体」に深くしみついている音、谷川の「肉体」にひそんでいる音と読みたい。誰の「肉体」にも何か「基本の音」がある。それが別の「音」と出会って、「和音」となって響く。そういうことがあると思う。
 そう読むと、つづく二行がとてもおもしろい。
 「意味の届かない遠方」というときの「遠方」も二通りに読むことができる。谷川の「意味の領域(圏域)」の彼方というのは、一つはたとえば「宇宙の彼方」のような「遠方」ととらえることができる。存在を知らなかった「未知の意味」「まったく新しい意味」と呼び変えてもいい。それとは別に「肉体」のなかにあって「意識されない意味」があり、それはやはり「遠方」と呼べないだろうか。それは「未生の意味」と言いなおすことができると思う。
 どこか谷川の「肉体」の外の「遠方」から「未知の意味」があらわれる。それは谷川の「肉体」のなかの「未生の意味」と出合い、それまで存在しなかった「意味」を生み出す。「和音」のように、出合いの瞬間に結晶し、「意味」になる。
 そして、これは、いまは便宜上、「肉体の外にある意味」を「新しい意味」、「肉体のうちにある意味」を「未生の意味」と区別したけれど、逆かもしれない。「新しい」と「未生」の関係は、出会った瞬間に決まることで、どちらがどらかとは言えない。
 「ド」の音に「ミ」の音が出会うのか、「ミ」の音に「ド」の音が出会うのか。区別がつかない。というよりも二つの音が出会ったとき、それぞれを「ド」「ミ」と認識し、同時に「和音」になるということが起きるのではないだろうか。一つ一つの音が「生まれ」、また「和音」が生まれる。二つの音が「和音」を生み出し、同時に「和音」が不つたの音を生み出す。そういうことが起きると思う。(こういう思いつきを書くと、絶対音感の持ち主からは、ドはドの音、ミはミの音と叱られそうだが。)

 こういうことは、長く書き続けられない。つまり「明確」に論理化できない。強引に書けば、どうしても「破綻」してしまう。瞬間的に感じる「錯覚」のようなものである。
 「意味」は、また「未生の意味」へ帰っていく。
 同じように「音(和音)」もどこか、それが生まれ来たところへ帰っていく。それは「遠方」なのか、「肉体の奥」なのか、わからない。区別ができない。




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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(36)

2018-03-20 10:03:27 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(36)(創元社、2018年02月10日発行)

 「武満は好きな絵を仕事場は置かなかったそうだ。」で始まる文章に、こういう一段落がある。

 武満が浅香さんをなぐったのを、私はただ一度だけ目の前で見た
ことがある。彼が音楽をつけたある芝居を、浅香さんが私たち夫婦
に同調して批判したのが理由だった。そのとき私はおろおろするば
かりだったが、いまはそれが愛情からだったということがよく分か
る、妻への、音楽への、そして生きることへの。

 わかるようで、わからない。つまり考えさせられる。いや、考えさせられるではないなあ。ここから「何か」を感じてしまう。
 こういうことは「感じた」ままにしておくのがいいと思う。
 この文章を書いている谷川は、もう「おろおろ」していないかもしれない。
 でも、私は「おろおろする」。そして、おろおろしたままにしておく。

 かわりに、私の武満徹への思い出を書いておく。
 ある日、FM放送を聴いていたら「海へ」という曲が聴こえてきた。武満の曲である。曲に刺戟されて「海へ」という詩を書いた。詩を書いたあと、もう一度聴きたいと思ったが、レコードがわからない。
 どうやって調べたのか忘れたが、私は武満に手紙を書いた。「あの曲をもう一度聴きたい、レコードは出ていないだろうか」。書いたばかりの詩を同封したかもしれない。
 武満から返事が来た。北欧の音楽祭へ行く途中の羽田空港(あるいは成田だったろうか)から書いているという。演奏者とレーベルの名前が書いてあった。FMで聴いたのはフルートとギターだったか、フルートとピアノだったか、あるいはバイオリンだったか。その奏者(また楽器の構成)とは違うのだが、という断り書きがあった。
 そのときのはがきも、レコードも、そして私の書いた詩も、なくなってしまった。
 覚えているのは、出国する寸前のあわただしい時間を割いて、武満がはがきをくれたということだけだ。それが忘れられないのは、そこに武満の「人間性」を感じたからだ。見ず知らずの私の質問に、きちんと答えてくれる。そこには、谷川のことばを借りて言えば「愛情」がある。音楽への、生きることへの。




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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(35)

2018-03-19 08:19:19 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(35)(創元社、2018年02月10日発行)

 「「音の河」武満徹に」には、

音楽はいつまでたっても思い出にならない

 という強い一行がある。読んでいて、思わず傍線を引いてしまう。なぜ、思い出にならないか。谷川は、

この今を未来へと谺させるから

 とつづけている。「谺させる」が不思議だ。「谺」は「させる」ものではなく「する」もの、と私は思っているので、不思議に感じる。この「谺させる」という不思議な言い方が、「思い出にならない」の「ならない」と通い合う。ふつうはどんなことでも「思い出になる」。それが否定されている。そして、それは単なる否定ではなく「思い出にさせない」という具合にも読むことができる。「谺させる」の使役の言い回しと、何かが似ている。使役といっても、人が働きかけるのではなく、「もの」自体がもっている力がおのずと「使役」に動く感じだ。
 「音楽」のもっている力が動き、思い出になることを拒む。生きていく。
 「谺」というのは「反響」だが、「反響」の前の、もとの「音」が「反響」を一回で終わらせない。生きていく、という感じだ。

 最終連も大好きだ。

言葉の秩序は少しずつ背景に退いてゆき
世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を
ぼくらは耳元に感じる

 「音楽」の前では「言葉」は無力である。「言葉」は「意味(秩序)」に縛られるのに対して、「音楽」は「意味」とは無関係な力を生きるからだろうか。
 こういうことは、あまり考えてはいけない。
 わかっているつもりだが、私は考える。
 「言葉」の「意味」が消えていく(前面から背景へと退いていく)と、「世界の秩序」も消えていく。その結果「矛盾」に満ちてくる。この「矛盾」は「混沌」というものに近いかもしれない。「未生の言葉」が生きている世界だ。
 そう読み取った上で、私は「世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を」をさらに解きほぐしていく。「世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を/ぼくらは耳元に感じる」で「ひとつ」の文章なのだが、これを解きほぐす。
 「未生の言葉」が生きている「世界」を「主語」にして読み直す。

世界は矛盾に満ちた暖かい吐息を吐く

 さらに、

世界は吐息を吐く。矛盾した吐息を吐く。それは、熱い。

 世界は矛盾に満ちている(矛盾している)、矛盾のなかで世界は熱くなり、吐息を吐く。吐息は熱い。「耳元に感じる」のは「吐息」ではなく「熱さ」そのものである、と。
 「熱さ」とは「熱」。「熱」とは「エネルギー」。
 「世界は矛盾する」、つまり「対立する」。「秩序をなくす」、あるいは「混沌」とする。「未生の世界」へ帰っていく。

 音楽も詩も、形のない「熱」に形を与える。秩序を与えることで「未生」から「生まれる」にかわる。かわるけれど、そこでおしまいではない。生み出されたものがさらに「未生のもの」として動き、新しいいのちを生みつづける。
 その可能性を谷川は「耳」でつかみ取っている。
 そして、これが武満の音楽だと言っている。





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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)

2018-03-18 20:35:14 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(34)(創元社、2018年02月10日発行)

 「聴く」は「ベートーヴェンの家」を訪問したときのことから書き出している。「雑音」と「音楽」の関係についての思いめぐらし。
 本筋(?)ではなくて、「起承転結」の「転」の部分に、こういう文がある。

 詩の中にときおり〈おお〉とか〈ああ〉とかの感嘆詞を読むこと
がある。それらを私は読んでいるのか聴いているのか。

 私は、「読む」ではなく「聴く」。「読んでいる」と感じたことはない。
 私は、知っていることばは、すべて「読む」ではなく「聴く」感覚である。「文字」ではことばが覚えられない。私が文字を覚えたのが遅かったせいかもしれない。私は小学校に入学するまで「文字」を知らなかった。正確に言うと、入学式の前日、「名前くらいかけないといかんなあ」と言われて、自分の名前の「ひらがな」だけ教えてもらった。それまでは「声」でしかことばというものを知らなかったからかもしれない。
 そのせいか、いまでも「聴いたことのないことば」というのは読めない。聴いたことがあることばなら「文脈」から「これかなあ」と思うことがある。
 安倍や麻生が「云々」「未曾有」が読めなくて話題になったが、あれは文字が読めないというよりも、「うんぬん」「みぞう」という「音」を聴いたことがないのだろう。言い換えると、他人と会話したことがない。「声」に出したことがないせいだろうと思う。
 あ、これは私に引きつけすぎた「感想」かもしれない。
 知らない漢字は、私は、いまでも読みとばす。読める部分だけ読む。これは「聞こえる」ことばだけ読むということだ。
 「おお」「ああ」は確実に読むことができるから、「聴いている」としか感じたことがない。
 さらにいうと、そのときの「音(声)」というのは、自分の「声」である。私は「音読」はしないが、本を読んだあと、喉がつかれる。目ももちろん疲れるが、喉がつかれる。無意識に「声」を出しているのだと思う。
 で、少し脱線すると。
 私は「黙読」しかしないが、「語学」はさすがに黙読というのはめんどうくさい。それで「声」を出すのだが、そうすると「声」がきちんと出るようになってくると目が疲れない。「声」に出せない間は、とても目が疲れる。ここからも、私は「読む」というのは「声」を出そうが出すまいが、喉をつかっていると思う。もちろん舌も、唇も。「声」を出して読むと、「肉体」全体が解放されて、目の負担が軽くなるのかも、と自分勝手に考えている。

 谷川の書いていることに戻る。こうつづいている。

                         前後の文脈
に従って私は無意識のうちに、それらにある声を与えてはいるけれ
ど、本当の声は文字の中に閉じこめられている。黙読ということに
は、どこかうさんくさいところがある。

 うーん、「うさんくさい」か。黙読派の私には、これは厳しい指摘である。
 しかし、たしかにそう思う。
 先に書いたけれど、「黙読」というのはなんといっても「読みとばし」ができる。「音読」は「読みとばし」ができないからね。
 でも、こんなことも考える。
 では「音読(朗読)」ではなく、それを「聴いている」ときは、どうなんだろう。「おお」とか「ああ」とかということばを聴いているとき、私は「意味」を受け止めているのか、「音(声)」を受け止めているのか。
 これはさらに「書く」という行為とも関係づけて見る必要がある。「書く」とき、それは「意味」を書いているのか、「音」を書いているか。私はワープロで書いているが、手書きに比べて喉がつかれる。手書きに比べて早く書けるから、それだけ喉が忙しい。私は書くときも無意識に「声」を出しているようだ。
 で、そのときの「声」は「音」、それとも「意味」?
 実際に「声」を出すわけではないから、「書く」もの「うさんくさい」?

 それとも「読む」と「書く」は、わけて考えるべきなのかなあ。

 「朗読」にもどる。
 私は、実は「朗読」を聴くというのがとても苦手だ。「声」がもっている「意味」以外のものが多すぎる。「感情」と簡単に言ってしまうといけないんだろうけれど、私は他人の感情なんか知りたくない。他人の「意味」も実は知りたくない。自分の「意味」と「感情」で手一杯である。もちきれない。「ことば」は自分のペースで(つまり、声で)読みたい。「意味」と「音」は密接なので、よけい、他人の朗読が納得できないのかもしれない。

 「結」の部分は、こう書かれている。

 苦しみのあまり、また哀しみのあまり人が呻くとき、その声は表
記できない。〈おお〉でも〈ああ〉でもない呻きを聴くとき、私たち
の心身にうごめくもの、そこに言葉の本来のボディがあり、それを
聴きとることは風の音、波の音、星々の音を聴きとることにつなが
る。どんな雑音のうちにも信号がかくれている、どんな信号のうち
にも楽音がかくれている。

 「雑音→信号、信号→楽音」という「運動の構造」が文をつくっている。「信号」を中間項にはさみ、「雑音」が「楽音」にかわっていく。このとき「信号」とは何だろうか。「信号」を「意味」に限定すると、たぶん、「超合理主義(経済主義)」の何かになってしまうなあ。「意味」がすべてを支配(統一)してしまう。
 それでは「芸術」なんて、なくなってしまう。
 「意味」そのものではなく、「意味」になる前の「未生の意味」ということだろうか。「雑音」のなかにかくれている「未生の意味」が、「雑音」を「楽音」に変えていく。「既成の意味」ではなく「未生の意味」だから、それがどんなものか「わからない」。つまり、まったく「新しい何か」(独自の何か)かもしれない。
 でも、その「未生の意味」は、どうして人間にわかるのだろう。「かくれている」とどうしてわかるのだろう。
 ひとが呻く。それは「声」を聴くだけではなく、たいていの場合「肉体」そのものをも見る。そして、肉体を見て、呻きを聴くと、自分がおなじカッコウで呻いていたことを思い出す。それで「痛い」とか「悲しい」とか「悔しい」とか、「呻きの意味」を「ことば」を媒介にせずに、わかってしまう。この「わかる」は「未生のことば」を肉体で反芻するということだろうなあ。
 どんなことばも、そういう「領域」をとおって生まれてくると思う。「言葉のボディ」についての谷川の定義はわからないけれど、私は「ことばの肉体」と「人間の肉体」はつながっていると思う。
 
 とりとめもなく、ここまでことばを動かしてきて、ぱたっと止まった。どこかで何かを間違えているのかもしれない。






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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(33)

2018-03-17 08:52:59 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(33)(創元社、2018年02月10日発行)

 「泣いているきみ」。一連目を私は繰り返し読む。

泣いているきみのとなりに座って
ぼくはきみの胸の中の草原を想う
ぼくが行ったことのないそこで
きみは広い広い空にむかって歌っている

 「泣いている」で始まり、「歌っている」と終わる。主語は「きみ」。ただし、「泣いている」の「きみ」は現実の「きみ」。「歌っている」の「きみ」は、ぼくが想像している「きみ」。
 どうして「泣いている」人間から、「歌っている」人間を想像するのか。
 ここにある「切断」と「接続」が詩である。
 「泣いているきみ」の「となりに座る」。何ができるわけではない。何もできない。でも、座っている。
 声をかけるでもなく、想像する。
 ここに、こうして座っていれば、やがて晴々とした笑顔に戻る。草原で、広い広い空にむかって歌っているきみに戻る。「胸の中の」きみが、「いま/ここ」にあらわれるのを待っている。
 ほんとうは「泣いているきみ」の「となりに座っている」のではなく、「歌っているきみ」の「となりに座っている」。
 こういうことが想像できるのは、「ぼく」が「きみ」を知っているからだ。「知っている」は「好き」ということだ。

 書きたいことはたくさんあるが、ここまでにする。
 これ以上書くと、一連目を読んだときの「うれしい」気持ちが台無しになる。





*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(32)

2018-03-16 10:44:55 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(32)(創元社、2018年02月10日発行)

 「魔法」に出てくる「音楽」は「小鳥たちは歌い」という部分にある。でも私が思わず傍線を引いたのは「答えはないけれど」ということばである。「答えはない」は「答は聞こえない」であり、「沈黙」である。こう書かれている。

青空はどうしてどこまでも青いの
子どもが問いかける夏の昼さがり
誰もほんとうの答えを知らない
風にゆれる木立がかぶりをふっている
答えはないけれど青空は美しい
子どものこころは歓びにはじける

 「答えはないけれど」は三行目の「ほんとうの答えを知らない」を言いなおしたものである。「答え」ではなく「ほんとうの」答え。空が青いということなら、太陽の光(青い光)が空中にある小さな粒子にぶつかり反射しているから、という具合に「科学的」に説明はできる。でも、それは「ほんとう」の答えではない。子どもが求めているのは「説明」ではない。
 あえて「答え」を探せば「青空は美しい」が「答え」と言えるかもしれない。青空が「ある」。その「ある」が「答え」だと。「ある」が「美しい」なのだと。
 でも、こんなふうに「急いで」読んでしまっては、いけないのだろう。
 三行目の「誰」という「主語」を借りてくると、「答えはないけれど」は「誰も答えないけれど」ということになる。「誰が」沈黙しているのだろうか。
 二連目を読んでみる。

この今にこうして私たちは生きる
見えない手が始めた時は果てしない
誰も問いかける手だてを知らない
雲間から太陽がほほえみかける
答えはないけれど小鳥たちは歌い
世界は限りない魔法に満ちている

 「誰もほんとうの答えを知らない」は「誰も問いかける手だてを知らない」と「対」になっている。「答え(答える)」は「問い(問う)」とで「ひとつ」になっている。「問いかける手だてがわかる」、そして「問いかける」ならば、「答え」は「わかる」ということだろう。「問い」のなかに「答え」は存在しているのだ。
 (「問いかける手だて」の「手」に注目すれば、答えは「見えない手」の持ち主なら知っているということになるが、私はここには深入りしない。「見えない手」の持ち主も、「魔法」も、私は「存在」を確かめたことがない。)
  「答え」と「問い」が「対」である、「問い」のなかに「答え」があるということろから、詩を読み返してみる。「答え」はたしかに「ない」が、「問い」はないか。ある。子どもが問いかけている。

青空はどうしてどこまでも青いの

 ここに「答え」がある。「答え」と気づきにくいけれど、かならず「答え」はある。「説明」ではない「答え」がある。
 ここでは、ことばが繰り返されている。「青」が二回出てくる。ここに「答え」がある。これが「答え」なのだ。
 「青空即青」であり「青即青空」が「答え」。それは「同時」にある。切り離せない。「青空は青いから青空という」。「どうして」かといえば「どうしても」なのだ。「どこまで」かといえば「どこまでも」なのである。そうとしか言えない。
 この「そうとしか言えない」は「完全」であるということ。「そうとしか言えない」は「変わることはない」であり、「変わることはない」は「変わらない」であり、「そのまま」である。「あるがまま」にかわらないのが「そのまま」。この「そのまま/あるがまま」を「美しい」と言いなおせば、

答えはないけれど青空は美しい

 になる。「そのまま/あるがまま」が「美しい」。「青空」だけではない。「風にゆれる木」は「風にゆれる」から「美しい」。もちろん風がないとき、ただまっすぐに立っているときも、「そのまま/あるがまま」に「美しい」。
 問いかけても答えない。ただ「そのまま/あるがまま」の「ある」に触れる。それが「答え」であると子どもはわかっている。だから「歓びにはじける」。
 でも、こうやって、こんなことを書いているのは、「青空はどうしてどこまでも青いの」と問いかけて、それっきり問いかけたことも忘れて笑う子どもに比べると、何もわかっていないことになる。「答え」にとらわれて「答え」をつかみそこねることになる。

 詩の感想はむずかしい。




*


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