詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「G」、徳永孝「ポリゴナム」、青柳俊哉「生まれえぬバラ」

2020-10-31 11:28:42 | 現代詩講座
池田清子「G」、徳永孝「ポリゴナム」、青柳俊哉「生まれえぬバラ」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年10月19日)

G 池田清子

テーブルの前の椅子に座り
パソコンの前の椅子に座り
座卓の前の床に座り
車の座席に座って

合間に

家事をすませ
用事をすませ
寝床に入る

座っている方が
楽になってしまった
股関節が座った形を
喜ぶようになってしまった

立って歩けよ
かかとに
しっかり
Gを感じよ

二足歩行ロボットが 笑ってる

 タイトルの「G」について、地面に背中を丸めて座っている人間の感じがする。座っているけれど、Gの最後の一角が垂直なので、立っていることをあらわしている、という感想が受講生のなかから飛び出した。
 飛び出した、と書いたのは、私がびっくりしてしまったからだ。私は、そういうことは一度も考えず、即座に「G」は重力と思って読んでしまった。
 あまりにびっくりしてしまって、そこに踏みとどまることができなかった。文字の形と人間の肉体の関係というものについてみんなで話し合ってみるべきだったなあといまごろになって反省している。詩は、どこにあるか、わからない。ひとりひとりが驚き、たちどまり、何かを発見したとき、そこにはいままで存在しなかったものが明らかになっているはずなのに、そのそばを素通りしてしまった。
 つぎは気をつけよう。
 さて。
 私がこの詩でいちばん感心したのは二連目の「合間に」という一行の呼吸。そして、その指し示すものの関係。
 ごくふつうに一連目から三連目までを「日記時系列」として書き直せば、「テーブルの前の椅子に座り/合間に/家事をすませ/(それから)パソコンの前の椅子に座り/合間に/用事をすませ」になる。ただし、日常の感覚から言うと、たぶん逆。「家事をすませ/合間に/テーブルの前の椅子に座り/(それがすんだら)用事をすませ/合間に/パソコンの前の椅子に座り」になるかな、と思う。家で、テレワークで仕事をしているのでなければ。
 池田の書き方からは、「家事/用事」と「テーブルの前に座る/パソコンの前に座る」という生活のなかの重点が逆になっていることがわかる。暮らしぶりがわかる。そして、私が散文形式で書き直したような「時系列」を気にしていないこともわかる。必要不可欠なこと(家事/用事/睡眠)と必要不可欠ととは言い得ないかもしれないこと(テーブルの前の椅子に座る/パソコンの前に座る)がぱっと分類(仕分け?)して、それを「合間に」ということばで整え直している。
 うまく説明できないが、この分類と再統合の処理の仕方に、池田自身の「暮らし方(思想)」が「肉体」の動きとして具体化されていると思う。たしかな「存在感」がある。こういうことをことばのなかに反映できるというのは、とても重要なことだと思う。分類と再統合によって「座り/座り」「すませ/すませ」ということばのリズムも生まれる。このリズムも、私にはやはり「肉体の思想」として感じられる。
 三連目まで客観的なことばを動かし、四連目で「楽になってしまった」「喜ぶようになってしまった」と感覚を語る。ここにも自己を見つめる落ち着いた分析がある。分析した結果、五連目で自分に命令する。自分の肉体を動かすために意識を動かしている。
 ことばがとても自然に動いている。ことばを整えることで肉体までが整えられる。この肉体とことばの強い結びつきが、とても静かで気持ちがいい。
 最終連の一行。「二足歩行ロボットが 笑ってる」の「笑ってる」も「反省」しながら、「反省」にはまり込んでいない余裕があってほっとする。
 池田は、この五連目と最終連の間に、

せっかく人間に生まれついたのだから

 という一行を書こうかどうしようか悩んだ。最終的に書かなかった、と言った。私は、いまの形がいいと思う。「人間」ということばがなくても「ロボット」を出すことで、池田が「人間」を強く意識していることがわかる。「人間」を書いてしまうと、より明確になるかもしれないが、少し「認識」のおしつけという印象が生じるかもしれない。



ポリゴナム   徳永孝

この花知ってる?
ポリゴナムというんだよ
雑草じゃないよ

ぼくも雑草と思ってた
薬局の花だんに
名前の書いた紙がさしてあった

ゆうこ先生に見せたら
雑草なんて言ったらかわいそうよ
わたしは かたくりの花も好きだな
かたくりって知ってる?
って言ってた

 一連目の「知ってる?」と三連目の「知ってる?」の呼応によって、この詩が「対話」構成になっていることがわかる。「かたくりって知ってる?」という行に「花」を補って「かたくりの花って知ってる?」にすると「この花知ってる?」との呼応がいっそう明確になる。そしてまた、なぜ三連目で「花」が省略されているか、ということも意識できるようになる。「花」について語っているという認識の共有がことばを省略させる。
 何かが省略される。そして省略されたものこそがいちばん大事。それは「肉体」にしみついて思想になってしまっているから省略される。それがキーワードというのが、私の詩を読むときの姿勢。キーワードを探して、読む。
 そして、この省略という視点から見ていくと、一連目と二連目の間、一行空きの部分にも何事かが省略されていることがわかる。
 「雑草じゃないよ」と「ぼくも雑草と思ってた」の間には「えっ、雑草じゃないの?」ということばがある。それは「ぼく」以外の人のことばである。そのことばがあるからこそ「ぼくも」と「も」がつかわれている。そして、この省略された「えっ、雑草じゃないの?」という声はだれの声なのか。徳永は問題にしていない。問題は、「ゆうこ先生」が何を言うかである。徳永は「ゆうこ先生」はなんて言うかなあ、ということを意識し、期待しているのである。そのこころの動きが、一連目と二連目のあいだに隠されている。「ゆうこ先生」は三連目にならないと「ことば」としては登場しないが、それに先立って存在している。存在しているがことばにならずに「肉体」のなかに隠れている。書かなかったのは、それが徳永には「わかりきったこと」だからだ。こういう「わかりきったこと」こそが人間の思想。いちばん大事なもの。「ぼく」は「ゆうこ先生」が「好き」なのだ。
 この「好き」は徳永のことばとしてではなく、「ゆうこ先生」のことばとして出てくるが、このとき「ぼく」は「ゆうこ先生」と「好き」という感覚(こころの動き)を共有しているのだ。「ぼくはゆうこ先生が好き」とは書いていないが、共有される感覚がある。
 こういう感覚(感情)の共有があるからこそ、「ゆうこ先生」は「かたくりって知ってる?」と聞く。それは、単に花を知っているかだけではなく「かたくりの花って好き?」という問いかけであり、また「かたくりの花が好きなわたしのことを好き?」という問いかけでもある。だからこそ、そのことばが忘れられず「って言ってた」ということばが動く。
 若々しい恋だなあ、と思う。
 私の印象では「わたしは かたくりの花も好きだな」と「かたくりって知ってる?」のあいだに一行空きがあった方が、対話の揺らぎというか、呼吸が感じられると思うが、どうだろうか。



生まれえぬバラ  青柳俊哉

遺構のうえの 水のない川のほとり
さびれた庭の鉄骨階段の上にひらく
生まれえぬバラ
月の光の燦爛(さんらん)とながれる部屋で
小さなバラのグラスをさしだす少女
十二光の小さな像を髪に飾る少女は
わたしの髪を同じ色の波でなびかせようとする
夜があけて 少女はうすい一枚の鳥となり
巡礼の坂をあざやかに飛翔する
そして 風にひるがえる寺の 
新緑の葉(は)末(ずえ)にとまり
立ち去るわたしを見おくる

 西洋の光景のようだが、「十二光の小さな像を髪に飾る少女」や「巡礼」「寺」は日本の光景にも感じられる、という声があった。私も「十二光」からは「十二面観音」を思い出した。
 ことばの特徴として、ことばがイメージをつむぐ。そして、そのイメージはだんだん焦点を一点にしぼって固定するというよりも流動していく。「遺構」から「川」へ、さらに「庭園」「バラ」へ。しかも、その「バラ」は「生まれえぬバラ」。存在していない。
 イメージの流動/変遷をいちばん明確に語るのは「少女はうすい一枚の鳥となり」である。「少女」と「鳥」は別の存在である。しかし、「少女」は「鳥」に「なる」。しかもその「鳥」はただの鳥ではない。
 「うすい一枚の鳥」。
 このことばは「うすい一枚のバラ(の花びら)」のように感じられる。少女はバラを通して鳥になる。そのバラは「一枚」という独立した形をとっている。散ったのかもしれない。散って、落ちるのではなく、風に舞ってかろやかに飛ぶ。ただし、そのバラは「生まれえぬバラ」。存在しないものが、ことばとして存在して動く。あるのは、ことばを通して「想起するイメージ」であって、「実在」ではない。実際に存在するのは「想起する」という運動、想起とともに動くことばだけである。
 だからこそ、こういうことも起きる。
 その「バラ=少女=鳥」はほんとうに「少女」なのか。「わたしの髪を同じ色の波でなびかせようとする」の「同じ色」とは何と同じなのか。前の行の少女のと同じ色だろう。そうであるなら、このとき「わたし」は「少女」になり、同時に「バラ」になり、「鳥」になる。
 渾然一体となってイメージが動く。「生まれえぬバラ」そのものが「わたし/生まれえぬ少女」という感じ。少女は生まれていないから、「少女=わたし」であっても矛盾しないという「自画像」。
 私は、こういう「ことば」でしかありえない世界というものが好きである。
 しかし、

立ち去るわたしを見おくる

 この最終行は、それではどうなるのだろうか。私は、ここには「わたし」があらわれない方がいいと思ったが、青柳は「全体が夢のイメージで、夢から覚める感じ」というようなことを語った。あ、なるほど。





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2020年10月30日(金曜日)

2020-10-30 16:15:20 | 考える日記
 私はまだボーヴォワール「アメリカその日その日」を読んでいる。こんなことが書いてある。

ほんとうの若者は、人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる若者であって、自分に割当てられた領分に迎合的な諦めを以て閉じこもる若者ではない。

 まるで、いま私が日本の若者に対して感じていることそのままだが、ここで「いまの若者は」と言ってしまうのでは年寄りになってしまう。
 ホーヴォワールのことばを借りて、私自身が「若者」にもどってみることにする。「人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる」ということを試みたい。
 いくつになっても「自己を超出しよう」とすることはできるはずだ。本を読む。そこでみつけた「ことば」を自分に引きつける。その「ことば」を頼りに、自分を動かしていく。この小さな行為も「自己を超出しよう」とする試みであるはずだ。
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青木由弥子『しのばず』

2020-10-30 10:04:50 | 詩集


青木由弥子『しのばず』(土曜美術社出版販売、2020年10月10日発行)

 青木由弥子『しのばず』の、「光る花」は青木のことばの運動の特徴をよくあらわしているかもしれない。
 後半を引用する。

私は暗がりの中で人の手を求めていた。いつかし部屋は、ニオ
イショウブとミソハギの茂る水辺に変わり、もうどこにも行か
なくてもよいのだと、柔らかな日差しが頬に告げる。

 ゆきすぎるものを追うのではなく
 霧のむこうを探り求めるのでもなく
 いのちのあふれこぼれるきざしを
 ふいにもれおちることばにからめとること
 蜘蛛の巣にかかってもなお羽ばたきを失わない
 蝶の翅が照り返す光を丁寧に写し取ってゆくこと

向う岸は見えない。ただ水面をゆらす風が身の内を抜けてい
くのを感じている。

 散文形式と行分けがが混在している。そして散文形式の方は「客観的」であり、行分けは「主観的」という印象がある。どちらのことばにも「感情/意識」は含まれているが、行分けの方は「感情/意識」が動くままに動いている。「散文」の方は、何かしらの抑制が働いているという感じがする。
 たとえば「柔らかな日差しが頬に告げる。」という翻訳調の言い回し。「日差し」は人間ではない。動物(小鳥とか犬とか)のように声を持たない。声を持たない「もの」が「告げる」というのは、独特の用法である。そして、それはあまり日本語にはみられないつかい方である。犯罪小説などでは「証拠」が「事実を告げる」ということはあるが、その証拠には「人間」がかかわっている。でも「日差し」には人間がかかわりようがない。非情の自然である。非常に何事かを語らせているから「客観」という印象が生まれる。「物理の現象」の描写がそういうものである。
 一方の行分けの方には「あふれこぼれる」「もれおちる」「からめとる」という動詞がある。「あふれる」か「こぼれる」、「もれる」か「おちる」、「からめる」か「とる」でも意味はほぼおなじ(現象的にはほぼおなじこと、結果がおなじになることを描写している)と思う。しかし、青木は「あふれる」「もれる」「からめる」だけでは不十分で「あふれこぼれる」「もれおちる」「からめとる」と言わなければ落ち着かない。何かが過剰に動いている。「感情/意識」が過剰に動いている。これは「追うのではなく」「探り求めるのでもなく」と「……なく」をくりかえすところ、「言葉にからめとる」を「蜘蛛の巣にかかる」と比喩を言い直すところにもあらわれている。
 青木には「事実」を「客観的」に書こうとする意識と、「客観」で終わってしまっては満足できない欲望があり、それがぶつかりあっている。そのぶつかりあい、拮抗が「文体」を鍛えている。似ているけれど違う、違うけれど似ている。そういうことを、どれだけことばで「一つの世界」として提出できるか。それを青木は試みている。
 「雨上がり」には、こんな展開がある。

つぶだって
あわだって
陽の光を集めてはずんで
ころがりだしていく
みどりの草の上

手放す 弾ける 割れる 広がる

 これはすべて雨上がりの草の上の水滴の動きを描写している。どれか一つだけの描写でもいい。けれど、青木はそれでは満足できない。過剰に書きたい。その「過剰」を結晶させるために「詩」を選び、そこに独自の「文体」をつくろうとしている。




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中神英子『一歩』

2020-10-29 11:24:23 | 詩集
中神英子『一歩』(私家版、発行日不明)

 中神英子『一歩』は手作りの本である。コピーを袋とじにして、表紙はヒモで閉じてある。中神が撮ったのだろか、蝶のカラー写真が挿入されている。斎藤茂吉の短歌も挿入されている。ほかは詩が二篇と長い「あとがき」。
 「白紙」という作品。

夜の机にノートが光っている
その上に青白い胡蝶の実が
滅ぶように去った女の嘆きで濡れている
「ここに書いておかなければならないことが
あったんです」
彼女はそれを淀んだ話で濁した

 古くさい(?)静けさがある。この場合の「古くさい」は肯定なのか、否定なのか、書いたものの、私にはまだわからない。なんとなく「古くさい」と感じた。それはこの詩集の「手作り感」にも通じている。あ、いまでも、こういう方法があるのだ、それを実行している人がいるのだという驚きと、安心と、不安。
 「古くさい」の「否定的」な部分を言えば「女の嘆きで濡れている」。「肯定的」な部分を言えば「淀んだ話で濁した」。
 この「淀んだ話で濁した」の「淀んだ」と「濁した」のたたみかける重さが、不思議な手触りとして響いてくる。言ったことばよりも、その「言い方」に中神が身を乗り出している。こういう「肉体の感じ」をもったことばが、私は好きである。
 「肉体」に重心を起きながら(あるいはそこを出発点としてと言えばいいのか)、ことばは「精神(意識)」の方へ動いていく。

それから
ノートはただの白紙ではない使命を覗かせる

青白い胡蝶の実が転がっている

 「それから」は「そのあと」という「時系列」をあらわしている。「その結果」でもある。彼女が「淀んだ話で濁した」がなければ、「白紙」は存在しなかったのである。「淀んだ」と「濁した」が「白紙」を輝かせる。
 そこに、不在の、実現しなかった「書いておかなければならないこと」があり、それは「青白い胡蝶の実」として象徴される。「青い胡蝶の夢」と読み直すと、嘘になってしまう。「胡蝶の実」という「もの」だからこそ、事実という詩が生まれる。

瞬間に押し出される人の言葉は
不確実で曖昧なことが多いけれど
この世は大抵それで動いている
歪んだ歯車でまったく構わない

 これは「意識/精神」そのものを「説明」している。「説明」であることが詩を窮屈にしているとも感じられし、その窮屈さが「深み」への入り口であるとも言える。ここでは、私は「肯定」も「否定」もしない。
 すこしつまずく感じがするが、つまずいたのか、踏み台を踏んだのか、判断できない。たぶん飛翔のための踏み台と考えた方がいいだろう。

白紙を抱いて去って行ったものら
その歩みの跡が
黒い地面に金の粉のようにしんみり光って
地平までずっと続いている

一日の手綱を取るものがつぶやく
「なぜ、あんなに煌きだけが残るのだろう」

 「煌き」と呼ばれているのは「白紙」だが、それを煌めかせているのは「胡蝶の実」よりも「淀んだ」「濁した」ということばかもしれない。「淀んだ」「濁した」は「しんみり」ということばで「煌き」に静けさを与えている。
 「白紙を抱いて去って行ったものら」の「ら」のなかには中神自身も含まれる。中神は、このとき「女」と一体になっている。その「一体感」もまた「煌き」であり、静けさである。

 豪華な詩集もいいけれど、こういう手作りの小さな詩集で、静かに詩を読むのもいいなあ。それこそ、「煌き」が残る。





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「言い逃れ」と「言いがかり」(その2)

2020-10-29 10:25:07 | 自民党憲法改正草案を読む
「言い逃れ」と「言いがかり」

   自民党憲法改正草案を読む/番外409(情報の読み方)

 2020年10月29日読売新聞(西部版・14版)に国会代表質問の詳細がのっている。その内の学術会議に関する菅の答弁。(番号は、私がつけた。)

①必ず推薦通りに任命しなければならないわけではないという点は、内閣法制局の了解を得た政府の一貫した考えだ。
②個々人の任命理由は人事に関することで差し控える。
③任命を行う際には総合的・俯瞰的な活動、専門分野の枠にとらわれない広い視野に立ってバランスの取れた活動を行い、
④国民に理解される存在であるべきだということ、
⑤民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りが見られることも踏まえて、私が任命権者として判断した。任命を変更することは考えていない。

 この答弁からわかることは、菅のやっていることは「言い逃れ」と「言いがかり」であるということだ。
 こんな「やくざ手法」に対抗するには、菅のやっていることが「違法」であると指摘するだけではダメだ。もっと「俗なことば」で批判しないといけない。もっと「日常的なことば」、だれもが「理不尽」と実感できることばで批判しないといけない。
 「言い逃れ」「言いがかり」ということばで、菅のことばを分類してみる。

①「内閣法制局の了解を得た」と言っているが、その「了解」をあらかじめ学術会議に伝えているか。言い直せば学術会議の了解をとっているか。国会でも表明しているか。その記録はあるか。「後出しじゃんけん」のように「内閣法制局の了解を得た」というのは「言い逃れ」である。
②「個々人の任命理由は人事に関する」というとき、それは個人に配慮しての措置が基本だろう。理由を明らかにすることで、該当者、その関係者が不利益を被るときは「理由」を明らかにしない。また該当者も、「理由を明示しないよう」求めることもできるだろう。ところが、今回は、該当者が「理由」説明を求めている。不利益を被ったものが「理湯」を求めているのにそれを明示しないのは「言い逃れ」である。
 ここからさらに、こんなことを考えてみる。ひとはだれでも自分の「不利益」になることをいわなくてもいい。裁判でも「黙秘権」が認められている。憲法にも第38条に「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と書いてある。菅が、いまやっているのは、これである。「理由」を説明すると菅が「不利益」になる。だから、言わない。NHKの番組のなかで菅は「説明できることと、できないことがある」と開き直っている。これは「言い逃れ」である。

③6人の活動が「総合的・俯瞰的」「専門分野の枠にとらわれない広い視野に立った活動」ではない、という根拠はどこにあるのか。6人が政府の方針を批判している。「政策決定」は6人の「専門分野」ではないかもしれない。だとすれば、その6人こそ「専門分野の枠」にとらわれず「広い視点」で意見を述べている。「総合的・俯瞰的」に活動している。菅が気に食わないからといって、6人が「総合的・俯瞰的」「専門分野の枠にとらわれない広い視野」を持っていないというのは「言いがかり」である。
 菅は、何と何を「総合」したのか、どのような立場から「俯瞰」したのか。どの「専門分野」を問題にしたのか。何も明示していない。
 菅の方が、批判を聞き入れるだけの広い視野を持っていないし、総合的・俯瞰的に考えることを放棄している。
 「総合的・俯瞰的な活動、専門分野の枠にとらわれない広い視野」ということばは意味のない「言いがかり」である。
④「国民に理解される存在」もまた意味のないことばである。6人の学者の何を国民が理解できるか。「専門分野」に関して言えば、その専門家しか理解できないだろう。国民が理解できないことを理解している(研究している)からこそ「学者」なのである。国民に理解できるのは、その人が「専門分野」以外で(あるいは専門分野に関する何か日常的なことで)何をしたか、何を言ったかである。
 6人は政府の方針に反対意見を述べた。この事実は、私には理解できる。(たぶん、ほかの国民にも理解できる。)このとき、6人の意見に賛成であるか反対であるかは問わない。理解できるからこそ、賛成、反対が言える。
 菅が言いたいのは「国民に理解される存在」ではなく、「政権が賛成できる存在」である。これを「国民に理解できる存在」と言い換えて批判している。政権を国民に、賛成を理解と言い換えた「言いがかり」である。
⑤「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏り」というが、絶対数ではなく「割合」で見るとどうなるのか。たとえば国会議員でも東京都から出馬し当選した人の数は、島根県から出馬し当選した人の数より少ない。けれど、絶対数が少ないからといって、それが「不平等」ということにはならない。むしろ議員一人当たりの「有権者」が問題になる。つまり「一票の格差」が。もし「民間出身者や若手が少ない、出身や大学にも偏り」ということを理由にするならば、6人の選任によって全体のバランスがどう変化するのか、その詳細な情報が必要だろう。「専門分野」によっては、ある特定の大学でしか研究されていないということもある。そういう「情報」を提供していないのは、単なる「言いがかり」である。

 しかも、問題なのは、この「言いがかり」が「後出しじゃんけん」であるということだ。
 最初から学術会議のメンバーについて、どの分野は何人、どの大学は何人、さらには出身地別には何人、という基準があって、それを逸脱しているというのなら「民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏り」とは言えるが、それがないなら、単なる「言いがかり」。一票の格差は、国民は法の前に平等であるという原則を逸脱しているが、菅の6人拒否には、そういう「明確な基準」がない。
 ただ6人を拒否したいがために、学術会議にまで「言いがかり」をつけている。つまり、「あり方の見直し」を主張している。
 「論点のすりかえ」というものではなく、「言いがかり」である。「言いがかり」で学術会議の存在をねじ伏せようとしている。

 私たちがここから考えなければならないのは、このことである。
 菅は国民に対してどんな「言いがかり」でもつけてくるだろう。そして気に食わない国民を排除しにかかるだろう。
 すでに政府方針に反対する官僚は異動させると明言している。官僚の世界の異動は国民にはよほどのことがないかぎりはわからない。「左遷」といわれても実感がない。「左遷」されても給料は一般国民よりもいいとなれば、「左遷」をどう判断して判断していいか、実感できない。単に、誰か知らない人の「出世」が遅れた、くらいにしかわからない。自分の家系に無関係だから、そんなことを気にする余裕はない。「学者」もおなじ。私の知らない「専門分野」のことを研究している人が会員に任命されなかった。会員になれなくても研究(学問)はできるはず、関係ない。「わからない世界で、わからないことが起きている。」でも、それは自分の生活とは無関係だから、気にしない。
 でも、その「わからない世界」が、私たちのすぐそばにもある。
 私はこういう文章を書いているが、おなじマンションに住むひとの何人がそのことを知っているか。だれも知らない。私が何をしているか、わからない。その「わからない人間」がある日、菅を批判する文章を書いたということで警察に逮捕されたとする。そのとき多くの人にわかることは、私が菅を批判したから逮捕されたということだけであって、私の批判が妥当かどうかは、だれも判断しない。だれも判断しないけれど、あ、菅を批判すると逮捕される可能性があるということだけは、わかる。
 そういうことが、私たちから遠い世界、「学者の世界」でこれからはじまるのだ。菅を批判すると冷遇される。きっと予算が削減される。それでは自分の望む研究ができない。自分のしたい研究をするためには予算が必要。菅を批判するのはやめておこう。そう考える人が出てこないとは限らない。そういう動きは、よそからは見えない、見えにくい。だから危険なのだ。国民から遠いところから徐々に「排除」の枠が押し迫ってくるのである。
 こういうことに対抗するには、菅のやっていることは「違法行為」であるというまっとうな批判だけではダメだ。(枝野のやっているような正当法では限界がある。)菅のやっていることは「言いがかり」をつけて気にくわない人間を排除するという暴力団の手口だと言う必要がある。気取っていてはダメだ。日常の論理、暮らしの感覚(日常使っていることば)で語らないといけない。
 私たちの身近にある「事実」から出発して、菅を批判することだ。
 たとえば「いじめ」。いじめも菅の手法だ。おなじ構造だ。パワハラもおなじだ。「あいつ、家でうんちせずに、学校でうんちしている。まだ、くさい。どうして家でうんちをしてこいなのか」というようなわけのわからない「言いがかり」からはじまり、それが拡大していく。いじめられたくないから、いじめる側に加担する。いじめられるひとを擁護するといじめられてしまう。
 「言いがかり」と「言い逃れ」しかできない「幼稚な人間関係」が政治を動かしている。その「幼稚性」を問題にしないといけない。菅を「教養がない」と批判した人がいるが、「教養がない」ではなく、「幼稚」なのだ。「幼稚な知恵」をふりかざして「言いがかり」で「大将」になって威張っている。








*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」

2020-10-28 16:43:38 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル
(https://www.asahi.com/articles/ASNBX4R1NNBXUTFK00G.html?fbclid=IwAR23_-EBvgBrFfNF-bwpPcbGW0dzRTMaLtGCbpFuKBqGigmxQ74LC6hxmvI)
が、菅の「代表質問」を記事にしている。テーマは「日本学術会議」。「6人任命拒否」問題。見出しは、

首相、学術会議の任命理由「答え差し控える」 代表質問

記事のなかに、こう書いてある。

「個々人の任命の理由については人事に関することで答えを差し控える」と改めて説明を拒否した。
↑↑↑↑
こういう「言い方」は、ふつうは、それを公表すると該当人物が不利になるときにつかうのではないか。
簡単に言いなおすと、たとえば6人が研究費を私的流用していたとか、学生にパワハラ、セクハラをしたことがあり、それを公表してしまうと本人が不利になるし、被害者の学生にも影響が出る。

6人に配慮をして「任命(拒否)の理由」を明らかにしないというのならわかるが、6人は「理由を公表しないでほしい」と言っているわけではないだろう。むしろ公表を求めているのではないか。
最初から菅に「任命権」(人事権)があるなら別だが、6人は「学術会議」の推薦を受けている。推薦を受けているということは「人事手続き」がとられているということである。その「手続き」を一方的に拒絶するのは、6人に対してだけではなく「学術会議」に対しても問題がある。

「表面的な言い逃れ」は単に「言い逃れ」という問題ではおさまらない。
「言い逃れ」は「言いがかり」を生み出す。
私がこういう文章を書いていることに対して、「中国から金をもらって菅批判をしている」という「言いがかり」を簡単にしてしまう。(いわゆる、デマ、フェイク)
そして、その「根拠」を求められても「個別の問題なので、答えを差し控える」といっておしまいにする。
きっと、これからそういうことが起きる。そして、そのとき、たとえば「逮捕」というようなことがあったとしても、菅は「逮捕」は警察が法に従っておこなったことであり、私は知らないし、そういうことに口を挟むと警察の自立性(司法の独立性)を損ねることになるから、それは慎むという具合にことが進んでいく。

実際、今回起きたことを見つめれば、菅のやっていることが「言いがかり」だとわかる。
「6人が政府の方針を批判したことがある、だから任命しなかった」が理由だと仮定する。
なぜ、それが「言いがかり」になるか。
単純である。
国民はだれでも政府を批判する権利を持っている。
「学者」であろうが、「議員」であろうが、一般市民であろうが。
国は、国民が政府を批判するからといって、そのひとを排除する権利を持っていない。もし「排除」するとするならば、その根拠となる「法律」を示さないといけない。「法律」を明示しないかぎり、国は国民のどんな行為をも受け入れないといけない。
国民はいつでも自由であり、その自由は憲法が保障している。
つまり、国は国民の自由を侵害してはならないと規定している。

これからどんどん、政府が「言いがかり」で国民の自由を侵害する。
今回の事件は、その第一歩なのだ。
「学者」の世界は、ふつうの国民からは遠い。何をしているかわからない。そういう「わからない」ところから、菅は手をつけている。
これは、とても危険だ。

菅の答弁を「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」から見つめなおさないといけない。
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破棄された詩のための注釈27

2020-10-28 16:01:58 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈27
                        谷内修三2020年10月28日

 折り畳みのパイプの椅子があり、高窓から光が差し込んでいる。つかわれていなかった部屋のよどみのなかで、その午後の光がうるんでいる。
 欲望についていけなくなった主人公は、「うるみ」ということばに倦怠と希望を託したいのだが、つぎのことばが動かない。

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為平澪『生きた亡者』

2020-10-28 10:29:04 | 詩集


為平澪『生きた亡者』(モノクローム・プロジェクト、2020年10月19日発行)

 為平澪『生きた亡者』を読むには体力がいる。「肉体」が弱っているときは、読むのがつらい。いちばん軽そうな(?)「台所」でも、私の「肉体」はとても苦しくなる。

そこには多くの家族がいて
大きな机の上に並べられた
温かいものを食べていた

それぞれが思うことを
なんとなく話して それとなく呑み込めば
喉元は 一晩中潤った

 「大家族」の食卓の風景として読むことができるが、家族が多いだけで、その家族につながりが感じられない。「大きな机」というのも「食卓」とは違う感じがする。「卓」と「机」がどう違うのか。見かけは同じようだが「卓」には「卓越」というようなことばがあるように、何か特別なものという感じが含まれるが「机」にはそれがない。「卓」ならば「食べるためにつくった特別なもの、食べ物を大切にするという意識が卓にこめられている」と強引に「意味づけ」できるが、「机」ではそれができない。そのために何か「殺伐」という感じを受けてしまう。
 さらに、

喉元は 一晩中潤った

 とは、どういうことだろうか。「温かいものを食べて」「喉元が」「潤う」というのはたしかにそういうことがあるだろうけれど、私の肉体は「喉元」を意識しない。食べたときは「腹」だ。
 なぜ、「喉元」なのか。
 その前の「話す」「呑み込む」が「喉」に関係している。
 こでは、だれも食べていないのだ。少なくとも「食べる」ということを楽しんでいない。「それぞれが思うこと」を「話す」。ことばが発せられる。そして、そのことばは発せられるだけではなく、ときには「声」にならずに「呑み込まれる」ときもある。そのとき自分の声を呑み込むだけではなく、他人の「肉体にいれたくないことば」も「呑み込む」のである。「喉」のなかで自分のことばと他人のことばがぶつかる。その衝撃を「呑み込む」と言ってもいい。
 こんなことが「潤い」であるはずがない。でも為平は「潤った」と書いている。しかも「一晩中」。
 ここには書かれていることば(ことばになっていることば)とは別のことばが沈んでいる。それこそ、ことばそのものに「呑み込まれている」。
 そういう「いやな感じ」が漂っている。

天井の蛍光灯が点滅を始めた頃
台所まで来られない人や
作ったご飯を食べられない人もでてきて
暗い所で食事をとる人が だんだん増えた

そうして皆 使っていた茶碗や
茶渋のついた湯飲を
机の上に置いたまま 先に壊れていった

 「来られない」「食べられない」という否定を含むことばが「暗い」で増幅され、「壊れる」ということばにたどりつく。いやだなあ。しかも「壊れていった」のは茶碗、湯飲ではなく「皆」(人間)なのだ。
 これ為平は、念入りに、こう言い直す。

カタチあるモノはいつかは壊れるというけれど
いのちある人のほうが簡単にひび割れる

 困るのは、それが「ひび割れる」ということだろう完全に「割れてしまう」のではなく、カタチはまだ残っている。遠くから見れば「ひび」はわからないかもしれない。しかし、遠くから見ればわからないからこそ問題は根深い。もしかすると「ひび」は本人にしかわからないかもしれない。そういう「傷」というものがある。

温かいものを求めて ひとり
夜の台所で湯を沸かす
電気ポットを点けると 青白い光に
埃をかぶった食器棚がうかびあがる

 「多くの家族」がいたのに、ここでは「ひとり」しかいない。しかも、この「ひとり」は台所の電気をつけずに、電気ポットにだけスイッチを入れる。そうすると、その小さなランプが台所の食器棚を照らす。埃を浮かびあがらせる。
 私は完全に気が滅入ってしまう。

夜に積もる底冷えした何かがこみあげて
沸騰した水は泡を作ってあふれかえる

 「あふれええる」のは「沸騰した水」ではないだろう。だいたい、「湯」をわざわざ「沸騰した水」と分析的(?)にいう必要もない。でも、為平にとっては「湯」ではなく「沸騰した水」なのだ。しかも、それは「泡」をつくっている。そこまで執拗に「もの」を分析しないと落ち着かない。
 この、なんといえばいいのか「湯」という変化してしまったものを拒絶し、それがあった「元の形」にこだわって言い直すということばの運動が、きっと詩の(詩集の)全体を貫いている。
 それはそれですごいことだと思うが、きょうの私の肉体は、そういう「元の姿(ひとり/他人と隔絶した個人)」にこだわることばの運動に、どうもついていけない。ぞっとしてしまう。

 私は「おばさんパレード」というタイトルで女性の詩集の感想をまとめてみたいなあと思っているが、そのとき思い描く「おばさん」というのは、簡単に言えば「意地悪おばさん(おばあさん、であってもいいなあ)」。自分の生き方に開き直って、それをさらけだす。批判できるなら、どうぞ批判して。反撃してやるからね。そういう感じ。逞しい。生きてるものが勝ちなんだから。この「勝ち」は「価値」なんだよなあ。つまり「肉体になった思想」。私は、そういう「ことば」が好き。
 為平のことばも「さらけだし」には違いないが、開き直りの「肯定感」ない。それが私にはつらい。「肯定感」のなさにひかれる人もいると思うが、私にはつらい。





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ヌードを見るのは誰か

2020-10-28 08:59:10 | estoy loco por espana

Jose Maria Pecciの写真


柱が非常に印象的。(板かもしれない)
タイトルは「ヌード」。たしかにヌードの絵が柱の左側の床に置かれている。
しかし、男の視線はその絵を見ていない。
まるで柱の影に誰かがいて、そのヌードを見ている感じ。
ヌードを見るといっても、視線はあくまで相手の視線を見つめているので、視界のなかにヌードが入ってくるだけ。
もし柱の影にいる誰かのヌードを見る人がいるとするならば、それはこの写真を見ている私たちだ。


El pilares es muy impresionante.
El titulo es "Desnudo". Ciertamente, un cuadro desnudo se coloca en el suelo a la izquierda del pilar.
Sin embargo, la mirada del hombre no ve el cuadro.
Es como si alguien estuviera detras del pilar y el hombre observara al desnudo.
Incluso si miras al desnudo, su linea de vision es solo mirar la linea de vision de la otra persona, por lo que el desnudo simplemente aparece en su vista.
Si alguien ve el desnudo de alguien detras del pilar, somos nosotros mirando esta imagen.
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浜江順子『あやうい果実』

2020-10-27 10:47:17 | 詩集


 浜江順子『あやうい果実』を読み始めてすぐ私は疑問に思う。浜江はいつもこんなふうに話しているのだろうか。
 「あはれあれは森色毒色」のなかほど。

                 毒の官能は蛍の光
と混在しはじめ、蛍と織り成し、怪しく蠢くほどに、森
はひたすら沈黙を古い鍵に塗り込める。

 詩なのだから日常のことばと違っていてかまわないのだが、私は、どうもついていけない。なんとなく、高校時代に読んだボードレールを思い出す。高校生にはなじみのないことば、しかしかすかに聞いたことのある強烈なことばがボードレールのなかでは響いていた。「毒の官能」がそれに似ている。高校生だから、知っている官能というのは自慰くらいのものである。そこにも毒はあるかもしれないが、ボードレールの書いているのは「女の毒(他人の毒/絶対的他者の毒)」である。私とは違う存在が、私を誘い出す。その瞬間に触れてしまう「異質(自分の知らなかったもの)」。それによって、自分が自分でなくなってしまう。そういう「運動」がボードレールのことばのなかにあった。私の知らないものが「ことば」としてそこにあり、その「ことば」に触れることが私を私ではなくさせてしまう。強烈なシンナーのような錯乱と愉悦。私は「ことば」そのものに頼って、何かを感じ取ろうとしていた。そんなことを思い出す。
 知っていることではなく、知らないものを、「ことば」に頼って引き寄せている。そのために、「ことば」が「肉体」にならないうちに動いている。つまり、「硬さ」をそのまま残している。「現実」とふれあっていない、という印象が、そのまま「異化」として動く。浜江は、「私は知っている」というかもしれない。ボードレールも、私は知っている、という位置でことばを動かしている。しかし、私は浜江の「私は知っている」をそのまま納得できない。浜江は「ことば」を知っている。ボードレールは「ことば」というよりも「事実」を知っている、という違いを感じてしまう。ボードレールが詩を書いた時代よりもはるかに時間がたっているのに、ボードレールの書いた「ことば」が浜江の肉体で消化されず、「ことば」のまま、そこに提出されている感じがする。「事実」を知っているのではなく、「ことば」を知っている、という印象が残る。
 私は、どうも、この「私はことばを知っている」という印象が残る作品が苦手である。その「ことば」が「詩的言語」であったり、「最先端哲学用語」であったりすると、私の苦手意識はさらに強くなる。「知っていることば」ではなく「知っている事実」を知りたいと私は思う。
 この作品とはまったく「ことばの性質」が違う作品も浜江は書いている。「フルエ」という詩は、こうはじまる。

フ、フ、フ、フルエがきて
加速するフカカイが
フクロウの声を一瞬、さえぎる時
ブワーッとフクレるナイフを
フルワセル

訳の分からないフカカイが
さらにフカヅメしながら
内臓に食い込み
鋭いナイフとなった

 「フ」という音からはじまる音が交錯する。脈絡はない。脈絡はあとから付け足し、いつでも「意味」になる。それは、高校生のときに読んだボードレールとおなじ。(私にとって、という意味である。)知らないことばであっても、「意味」を強引につくってしまう。「意味」をつくって、納得するのである。
 「加速するフカカイ」という音は、とても美しい。何度でも読みたくなる響きがある。この音楽にのって、イメージの飛躍がはじまる。「フクレる」は怒りを感じさせる。怒りは「ナイフ」という凶器を呼び寄せる。凶器をつかむと「肉体」が震える。その震えはナイフの震えと一体化する。怒りとは、また、フカカイなものである。「理由(訳)」はもちろんあるのだが、それに自分がのみこまれてしまうというのは、やはりフカカイなことである。自分の感情なのに、自分では制御できない。自分が自分でなくなる。その瞬間のフカカイさ。それが加速する。
 「フ」は「フカヅメ」にまで乗り移り、その「フカ」は「深い」ではなく「サメ」につながり、サメのナイフ(牙)は内臓に達する。「深爪」も血を呼ぶだろうが、「フカ(サメ)の爪(ナイフ)」は内臓にまで食い込む。そういう「夢」を見るとき、浜江はサメ(フカ)に襲われているのか、それともナイフをふりまわすサメ(フカ)になっているのか。怒りのことを思うと、浜江はサメ(フカ)になっているのだろう。フカになりながら、サメに襲われる相手、その流血を想像し、興奮している。
 その興奮は、こう書き直される。

もう脳のフルエは止められない
 ナイフをフルエ
 ナイフをフルエ
 ナイフをフルエ
フルエをナイフに込め
血の臭いを充満させる

 「脳のフルエ」。それは「肉体」のフルエを超越し、「ナイフ」のフルエも超越する。もっと形而上的なものだ。(「形而上」ということばを、浜江は「月下の穴」という作品のなかでつかっていた。)つまり「後出しじゃんけん」のように、簡単に別の意味に転換できる軽さを持っている。言い直すと「フルエ」は、この瞬間から「震え」ではなく「奮え(興奮)」にかわり、興奮をくぐり抜けることで「振るえ」にかわる。怒りに充血した脳が、「ナイフを振るえ」と肉体に命令するのである。怒りという「脳のフルエ(奮え/興奮)」を「ナイフに込め」るとは、ナイフが「怒った脳になる」ということである。「怒り」そのものに変身することである。「怒り」といういわば「肉体」の内部にある見えないものが「ナイフ」という「事実」に転換する。
 ここのところ。
 ほから、ボードレールの「知らないことば」が「事実」にかわるのと似ていない?
 「ことば」を通ることで、はじめてあらわれてくる「事実」がある。「ことば」が「事実」を作り出すのだ。
 そして、それは身近な、いつもつかっていることばのなかでも起きる。私は、こういう日常的なことばの暴走が好きだ。ことばが肉体そのものになって暴走し、ことばをさらに過激にする。
 だれのものでもない浜江のことばが動いていると思う。浜江には会ったことがないが、浜江の「肉体」が見える気がする。

ナイフの暴走が
さらにフルエ
フル、フル、フルエ
もうすぐ死者になるものもの
果てしないフルエも
肉にフーインさせ
闇へとフルフル進む

 「フル、フル、フルエ」には意味はない。とくに「フル、フル」は単に音としてあるだけだ。音楽だ。その音楽の愉悦(超越)が「死者」を呼び寄せる。この部分が、この詩のハイライトである。「フル、フル、フルエ」の「フル、フル」には意味がないが、意味がないからこそ、それは浜江によって書かれるしかない「全体的な何か」である。言い換えが聞かない「瞬間的な事実/絶対的な事実」がある。それは「フルフル進む」という形へと転化しながら無意味をいっそう強くなる。

残されたものへのフアンも
フーインし
フカカイなフルエが
ブキミなフリョクをいっそう大きくする

刺すフルエと
刺されるフルエが
地下を一直線にすすむとき
フルエはついに頂点にまで拡散する

フサガる大地と
フサガる想いと
時をフルフル、フク、フエが
もうフッカツすることはない

 「語呂合わせ」でことばが動いているだけ、と思う人もいるかもしれない。でも、その「語呂合わせ」(音楽)のなかに、突然、「事実」がまぎれこむのだ。「加速するフカカイ」「フカカイなフルエ」「ブキミなフリョク」(不気味な魅力、ではない)という音楽が「頂点(エクスタシー/自分の外)」へと拡散すると、もうそこには「無」しかない。何も「フッカツ」しない。「ことば」はただ疾走し、そのスピードのなかで「詩」になるだけなのである。
 「蛤蝓揺れたら」もおもしろかったが、書いている時間がなくなった。



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2020年10月26日(月曜日)

2020-10-26 15:52:49 | 考える日記
 ある本に、こんなことが書いてある。

彼らは日ごとにますます険悪になる人種差別や反動の強化、ファシズムのきざしをちゃんと見ている。世界の未来に対して自分の国がいかなる責任をになっているかも知っている。しかし彼ら自身は、何に対しても責任がないと感じている。それは彼らが、この世界で何かをなすことができると思っていないからである。二十歳にして彼らは自己の思考は無益で、善意は無効だと確信しているのである。

 まるで日本の若者のことを書いているように感じてしまう。「人種差別」を「中国・韓国への差別」と書き換えれば、そのまま日本の若者に対して私が感じているとことと一致してしまう。ここに書いてあることに「政治を追認し、いまの自分を守ることだけが未来を生きることだと確信している」とつけくわえれば、いっそう、いまの若者に近づくだろう。
 そう気づいて、私は、かなりぞっとした。

 ある本とは、ボーヴォワールの「アメリカその日その日」である。ホーヴワールはこの「日記」を1947年に書いている。そのときボーヴォワールが見たものが、いまはさらに増幅された形で世界をおおっているということかもしれない。

 ところで。
 私が大学生の頃、ボーヴォワールの「第二の性」は北九州市立図書館では閲覧は可能だったが貸し出しは禁止だった。図書館の本は必ずしも借り出せるものではないし、図書館には読みたい本がそなえてあるわけではないということを教えてくれたのは、ボーヴォワールだった。必要な本(読みたいと思う本)は自分で買い揃えなければならないと覚悟できたのはボーヴォワールのおかげである。
 脱線したが。
 やはり読むべきはボーヴォワールである。活字が小さくてつらいが、人文書院の「全集」をやっと手にすることができた。「源氏物語」を手に入れたなんとかという人のように私はうきうきしている。
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吉田博「光る海」

2020-10-26 10:57:20 | その他(音楽、小説etc)


吉田博「光る海」(「没後70年 吉田博展」福岡県立美術館、2020年10月25日)

 吉田博の版画は浮世絵と違い「線」が強調されていない。「線」がないとさえ言える。「面」で全体が構成される。
 「光る海」は舟の帆の処理に「輪郭線」があるが、これはむしろ珍しい印象がある。「光る海」を含む「瀬戸内海集」では、ほぼおなじ構図の時間とともに変わる海と空の色の変化をとらえたものが人気のようだ。私の隣で、高齢の夫婦が「やっぱり、朝がいちばんいいよねえ」「これが見たかったんだよ」などと話している。たしかに美しい。
 しかし、私は「光る海」がいちばん気に入った。
 海に乱反射する光の帯が鮮烈だ。セザンヌの塗り残しの白いキャンバスの輝きのように、ほんとうに光っている。この光を吉田は「丸鑿」の彫り痕で表現している。彫り痕の「丸み」が海のなめらかな(静かな)うねりにぴったり重なる。光を見ているのか、海を見ているのか。区別がなくなる。もちろん区別はないのだが。
 私はふつう「絵」に目を近づけるということはしないが、思わず目を近づけ、その反射の一つ一つの「彫りの深さ」「彫るときのスピード」が見えないものだろうかと、立ち止まってしまった。どうしたらこの軽快さが実現できるのだろう。
 「完成された作品」のなかに隠れている「過程」の美しさ、と書いてしまうと違うのだろうけれど、この「丸鑿」の彫り痕をそのままつかうという発想と、それを実現してしまう彫りの力に、こころを、というより「肉体」そのものを刺戟された。あ、彫ってみたいという気持ちになるのだ。
 私は一時期、「版画」にあこがれたことがある。とくに「丸鑿」をつかって彫っているとき、その彫りが重なりながら変化する「面」に非常に愛着を感じた。彫ったときと、刷り上がったときの印象が違うのも興味深かった。狙いどおりにならない。特別に勉強したわけでもないのだからあたりまえのことなのだが、なんとなく、こういうことを仕事にしてみたいなあとあこがれたのである。あれやこれやしていう内に、級友たちの才能に打ちのめされ、私はこういう世界には向いていないとあきらめてしまったのだが、そんなことも思い出したりした。
 専門家から見れば、もっといろいろな技法が見えるのだろう。たとえば「渓流」の水の流れ、泡立つ感じの表現には非常に根気のいる刀さばきが必要なのだと思うが、それは素人の私にはわからない。しかし、「光る海」の「丸鑿の痕」は私のような素人でもわかる。すぐにでも真似して彫ってみたいと思わせるものがある。「肉体が刺戟される」というのは、そういう意味である。版木と彫刻刀を買いに行こうかな、と私はほんとうに思ってしまった。版画をあきらめながらも、私はかなりの長い間、年賀状の絵を版画で彫っていた。彫らなくなってからも、かなりの期間、彫刻刀を手離さずにいた。中学生がつかう程度の彫刻刀だが。

 あ、どんどん、作品から離れてしまう。でも、感想というものは、そういうものだろうと思う。純粋に作品についてだけ語ることなどできない。



 この展覧会では、刷り上がった作品と同時に「版木」も展示されていた。ただ残念なのは、ガラスが表面をおおっていて、「彫り」の「肉体」の感じがわからない。ガラスに私の顔が映ってしまって、何がなんだかわからない。
 また、この展覧会では版画作品のほかに、水彩画、スケッチ(画帳)も展示されている。福岡県立美術館が所蔵する油絵は四階で見ることもできる。そういう「吉田の全体像(?)」を見たあとで思うのだが、とくに画帳のスケッチを見たあとで思うのだが、こんなに「手の速い」吉田が「版画」に向かった不思議さ、である。
 版画は非常に手間がかかる。私のような素人の彫ったものでも(素人の彫ったものだからかもしれないが)、刷りを重ねると(年賀状などたかがしれているが)、版木が歪んでくる。版木を最初に彫った状態に保ち続けるだけでもたいへんである。重ね刷りも紙が縮むので調整がむずかしいだろう。専門の「職人」がいるのだろうけれど。
 で、ふたたび「光る海」にもどるのだが。
 その手間のかかる仕事のなかで、「丸鑿」の処理が際立って見えるのである。その部分は、ともかく「速い」だろうと思う。ていねいに彫ることには間違いないだろうが、ゆっくりだと光の反射が弱くなるような気がする。一瞬で、ぱっと彫らないといけない。白い光のそばにある波自身の黒い影(森鴎外なら黒く光った、と言うだろうか)と比較するとわかりやすい。凸の形に彫り残すのは一瞬ではできない。光の反射の彫りは一瞬の判断に任されている。

 それとは別に、不思議に感じたのは、多くの作品に共通するのだが、「視線の高さ」が私の「視線」よりも妙に高い。吉田の身長がどれくらいだったのか知らないが、どの風景を見ても、これはどこから見たんだろうと感じる。椅子か何かの上に立ってなら、こういう世界が見えるかもしれない。少し小高いところからなら、こういう世界が見えるかもしれない、とは思うが。全体を描いたあと、フレーミングを変えているのかもしれない、というようなことも思った。不思議な「間接性」の中を吉田は生きていると感じた。


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一色真理『幻力』

2020-10-25 17:24:16 | 詩集


一色真理『幻力』(モノクローム・プロジェクト、2020年10月19日発行)

 一色真理には一度だけ会ったことがある。詩人があつまる懇親会で、たまたまおなじテーブルに座った。二言三言、ことばを交わしたが、何を話したかは覚えていないが、およその年齢とか肉体の雰囲気とかは、それなりにわかった。私よりも年上である。私のようにそわそわしていない。一色の肉体のなかには「重り」のようなものがあって、それが動かないかぎり、全体が動かない。たとえ何かを食べている、飲んでいるとしても、それは手を動かし口を動かしているのであって、肉体は別のところにあって動いていない。そういう、なんとも不気味な感じの人間であった。その肉体を、私は詩を読みながら、思い出した。
 「暗喩」。

きみはことばに出会ったことがあるか?
ぼくは一度だけある
そのときことばは静かに眠っていた。
だから起こさずに、ぼくは無言で立ち去ったのだ。

--ことばは眠っていてさえ、美しかった。

もう何年も、あるいは何十年も前のことだ。

 この書き出しの「ことば」を一色にあてはめようとすると、まったく逆になる。一色は「静かに起きていた」。懇親会なので、多くのひとは「意識/思想」を眠らせて、表面だけが社交的ににぎやかに浮き上がっている。ところが一色は、目覚めていて、静かに全体を見つめている。この眠らない意識を眠らせることは、一色には不可能なことなのだろう。この眠らない意識(思想)と対話するのは、懇親会のような場所では不可能である。だから私は二言三言、挨拶程度のことばで口をつぐんだのだと思う。
 もちろんそのときここに書いてある通りに思ったわけではない。いまだから、つまりその場から離れているから、平気で書くのである。言い直すと、こういうことは、初対面の人に面と向かっては言わない。
 ことばには、動ける場所と動けない場所がある。いろんな意味で。

ことばは目が見えない。
耳も聞こえない。
自分の足では歩けない。
だから、ことばのいそうな場所を探して
暗がりから暗がりへと探し回らなければいけない。

そう。ことばは深い暗闇の中でしか生きられない。

 この「暗喩」のなかのことばはすべて刺戟的だ。それこそ詩集全体を暗喩する(象徴する)作品だといえるかもしれない。こういう強烈な作品の前では、私のことばはどうしても抽象的になる。つまり、逃げ出してしまう。私は、もっと、自分の手でつかめるものをつかんで、それを放さずに、その人の肉体(思想)がつたわってくるのを待ちたい。だんだんつたわってくる「熱」を自分で肉体で受け止めたいと思う。
 「検閲」という作品。

ある日きみのノートに、血溜まりのような真っ黒い月が昇ってくる。
昨夜、きみがボールペンで書いた「月」という丸文字。
よく見ると、真ん中に線が一本多い。

それからだ。きみの夜空に毎晩、巨大な「目」が昇り出したのは。
きみの書いた誤字を一つも見落とすことのない
真っ赤に見ひらかれた「超自我」が。

 「暗喩」で「ことば」と書かれていたものが、ここでは「月」と「目」という文字の違い(誤字)として書かれている。それはたいていは見落とされる。なぜか。「コンテキスト」というものがあり、それは「誤字」を勝手に「正しい文字」に認識し直し、「文字/単語としてのことば」よりも「全体」を把握するように人間の意識を誘うからである。「コンテキスト」が目覚めているとき「単語」は半分眠っていても「意味」は成立する。
 こんな例をここで出してしまうのは間違っているのだが、たとえば安倍が「云々」を「でんでん」と読む。だれもが「でんでん」ではなく「うんぬん」だと理解して、「でんでん」は間違っていると判断する。「コンテキスト」感覚がそうさせるのである。
 しかし、「誤字」はほんとうに「誤字」なのか。そうではなく、「誤字」という形であらわれたもう一つの「コンテキスト」なのではないか。そのことばを書いた人だけが持っている「コンテキスト」。「暗喩」にあったことばを借りて言えば「暗闇」という名の「コンテキスト」がある。書いた人の「肉体の奥」にあるコンテキスト。(安倍の「でんでん」は「肉体」とは無関係の、単なる無教養である。もちろん無教養は無教養でひとつの肉体なのだが、いまは、そのことを考えない。)
 「誤字」を通して、その「肉体の奥/闇」の「コンテキスト」が動き始める。世界を見つめなおしていく。それは

きみの書いた誤字を一つも見落とすことのない

 を超越して、逆に、ほかのひとが世界を描写する文字が「誤字だらけ」であることを指摘し、それを見落とさない。「きみの書いた誤字」こそが正しく、流通している「文字」は「誤字」である。これは、だから、戦いの宣言、宣戦布告なのである。
 「きみの誤字」を「正しい」と断定するのは「超自我」である。「正しい」としか言わない。他者を受け入れない。「絶対的正しさ」が「超自我」である。「自我」ならば間違いもするだろうが、「自我」を超えている。

高原の牧場には昨日まで、真っ黒い「うし」が草を食んでいたのに
今日はレタス畑に、もう真っ白い「うじ」が湧いてしまった。
昨夜、きみがたった一つ、文字を書き間違えてしまったために。

 「超自我」から言わせれば、「うじ」が間違いなのではなく「うし」が間違いなのだ。「うじ」を見ない「コンテキスト」、「うじ」を排除すること(隠すこと)で成り立っている(成り立たせている)「コンテキスト」が間違いなのである。つまり、流通している世界そのものが間違いなのだ。
 別なことばで言い直せば、一色は、常に流通している世界の「コンテキスト」を告発している。その告発の手段として、たとえば「うじ」という「暗喩」をつかう。「うじ」という「暗喩」を一色自身の「肉体の闇」から探し出し、解放する。「うじ」ということばが生きている「コンテキスト」そのものを動かそうとする。

 私は先に、巨大なものはつかみきれない。自分の手でつかめるものを頼りに、そこにあるものに触れる、というようなことを書いたが、これは一色の場合もおなじなのだろう。「自分の手でつかめるもの」というのが、たとえば「うじ」である。あるいは「月/目」の「誤字」である。他人(流通する世界)から「誤字」と呼ばれてしまう何かである。そう認識するところから、一色の「コンテキスト」は拡張を始める
 問題は。
 ここから先は、どう書いていいのか、よくわからないが。書かずに私の内部に隠しておいてもいいのだが、思っていることは書いた方がいいだろうと思って書く。
 問題は、「誤字」であると、だれが指摘するかである。(安倍の場合は「でんでん」は間違っていると指摘するひとが周囲にいなかった。)そして、その指摘に対して一色がどう反応できるかである。「他人のコンテキスト」と「自我のコンテキスト」が出会ったときに問題になるのは「コンテキスト」というような抽象的なものではなく、むしろ「肉体」そのもののあいまいな強さである。「コンテキスト」がどうであろうが、そんなことは関係なく「肉体」は存在してしまうのだ。そのために「コンテキスト」の対立がいっそう激しくなるということも起きる。
 「宿題」という作品には、そういうことが書かれている。

今日はやけにぼくの「め」がよく見える。地面に落ちた「なし」の
実に群がる「あり」の顔が、一匹ずつ見分けられるくらいに。それ
はぼくの顔見知りの「あり」たちだった。わざとらしく、ぼくに目
配せして見せるやつもいる。ぼくはもちろん、ものも言わずにそい
つを踏み潰したけれどね。白い汁が出て、気持ちがいい。

 「白い汁が出て、気持ちがいい。」のは「ぼく」の「コンテキスト/肉体」であって、「あり」の方は「気持ちがいい」はずがない。しかし、その気持ちがいいはずがないありに、「ぼく」は「ほら、気持ちがいいだろう」と自分の気持ちを押しつけることもできるのである。「テキスト」のなかでなら。そして、そういう「テキスト」が世の中には存在している。
 もしかすると一色が「あり」で、流通している世界が「ぼく」ということもある。そして、一色はそういうことを「肉体」で体験してきているかもしれない。そうでなければ「白い汁が出て、気持ちがいい。」という「テキスト」が「コンテキスト」のなかへ拡大(自己拡張)していくという運動はできないだろう。
 この「葛藤」というが「内戦」に、さて、どこまでついていけばいいのだろうか。どこまで、私は持ちこたえることができるだろうか。
 そこに一色が「正直」を抱えたまま生きているということはわかる。また一色の「コンテキスト」に触ることで生きる力を獲得する人もいるだろうと想像できる。しかし、私は懇親会で同席したときのように、ここらあたりで身を引く。一色の「重り」は私にはあまりにも重い。ついていくには、私は年を取りすぎている。




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破棄された詩のための注釈26

2020-10-24 18:48:30 | 破棄された詩のための注釈

破棄された詩のための注釈26
                        谷内修三2020年10月23日

 風が河口の上を渡り、水のにおいを呼び覚ます。「掠め」か「掃き」か。「顔に吹きつける」か「ぶつける」。
 考えている内に、その間に、水の色は変わってしまう。
 欄干にもたれている脇を犬が通っていく。何を見ない。しかし、犬のあとをついていく男は私を見る。
 「無礼に」「さげすむように」「何かを求めるように」。
 いったい、私は何を探しているのか。

 風が水の上を掃き、水のにおいを吹きつける。        
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山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(2)

2020-10-24 11:35:40 | 詩集
山本かずこ『恰も魂あるものの如く』(2)(ミッドナイト・プレス、2020年09月23日発行)

 「女主人の理由」は不思議な詩だ。

小川商店には
女主人がいた
着物をきていた
ように思うが
実際にはわからない
ずいぶん
年をとって見えたけれど
それも わからない
小さな
わたしからすると
みんな だれでも
年をとって 見えたからだ
女主人は 笑わなかった
笑った顔は 見なかった
はたして
女主人は 笑うことがあったのか
それも知らない

 たしかに子どもからみると、大人はだれでも年をとって見える。そういうことは、ある、とうなずきながらことばを読む。
 ところが、この一連目の最後に、こんな二行がある。

その頃は
気にならなかったからだ

 ふーん。わざわざ「その頃は/気にならなかったからだ」と書くのは、いまは(いまごろになって?)気になるからだろうか。
 何気ないことばなのだが、ここから山本の「正直」がはじまる、という「予感」のようなものがある。
 このあと、山本は妹と二人でエプロンを買いにゆく。母の日の誕生日にプレゼントしたくて、小遣いを貯めていたのだ。このときも女主人は笑わない。そのとき、お金が足りたのかどうか、いまになって山本は反省(?)している。もしかすると、足りない金は、あとから母が払っているかもしれない、と。この反省のようなこともおもしろいはおもしろいのだが、その先。
 白いエプロンを輪プレゼントすると、

母はびっくりして
そのあと
よろこんでくれた

母の笑顔を合図のようにして
わたしと妹は
つないでいた手を ぱっと離し
それぞれに それぞれの
遊びに散った
にこりともしない
小川商店の
女主人から
解放された瞬間だった

 ここがいいなあ。(ほかもいいのだけれど。)そして、この「いいなあ」と思うことが、ことばにならない。なぜ、ここがいいなあ、と思うのか。
 「女主人から/解放された」という気持ちが、なんとなくわかるからだが、はっきりとはわからない。
 これを山本は、こう語り直している。

この詩を書いていて
わかったことがある
女主人は
ケイカイしていたのだ
この村に
K市から
わたしたち一家は
引っ越してまもなかった
「よそ者」
と呼ばれる存在であった
女主人は
笑顔を見せるわけにはいかなかったのだ
女主人は
にこりともするわけにはいかない
理由があったのだ

 私は、しかし、この山本の「理由」の説明に納得しているわけではない。私の感動はちょっと違ったところ(ぜんぜん違ったところ?)にある。
 つまり、こんなふうに「誤読」する。

ケイカイ

 ということばを山本はつかっている。「警戒」。子どもには、まだわからないことば。わからないけれど、子どももまた、わからないままにケイカイする。
 女主人が笑顔を見せなかったように、山本も妹も、女主人に対して笑顔を見せなかっただろう。
 エプロンを買ってきて、母に渡し、母が笑顔になって、「母の笑顔を合図のようにして」、山本と妹のケイカイ(緊張)が溶けたのだ。
 ケイカイは緊張でもあったのだ。むしろ、ケイカイはおおげさで、緊張の方がより正直かもしれない。
 ひとはだれでもケイカイもするし、緊張もする。それは不必要なときもある。たとえば、『故郷』の「別離」は不必要なケイカイであり、緊張である。そのケイカイ、緊張は、相手が危険を及ぼすかもしれないというケイカイ、緊張ではなく、逆に、自分が相手を傷つけてしまうかもしれないというケイカイ、緊張でもあるのだ。
 「女主人の理由」にもどって言えば。
 山本と妹はケイカイし、緊張している。何に? 笑わない女主人がこわいから? そうではなくて、たぶんはじめての母へのプレゼント(小遣いを出し合って買った、はじめてのプレゼント)を母が喜んでくれるかどうか、それを心配している。気にかけている。
 母が笑顔を見せたのだ、「あ、喜んでもらえた」と「わかる」。わかって、それまでの緊張がほどけていく。

わたしと妹は
つないでいた手を ぱっと離し
それぞれに それぞれの
遊びに散った

 それまでは、緊張していて「手が離せなかった」。この「離す」と「散る」という動詞の中に、山本の「解放感」が動いている。

この詩を書いていて
わかったことがある

 と山本は書いている。そして、その「わかったこと」というのは、実は「女主人の理由」というよりも、山本自身の「緊張感」と「解放感」のことなのだ。自分自身こそがケイカイし、緊張していた。
 それはケイカイし、緊張するようなことではない。
 だからこそ、それは「ことば」にならないまま、記憶のどこかでほったらかしにされていた。これから先もほったらかしのままでもだれも困らない、どうでもいいようなケイカイと緊張。
 でも、そういう「時間」はたしかにあったのだ。その「時間」を山本は生きてきた。それをふいに思い出している。書くことで、はじめて「わかった」。
 この詩を書いたあとで、山本は「にこり」よりももっと小さい笑顔をしたと思う。それは、目の輝きが瞬間的に明るくなるような、小さな変化だと思う。そばにだれもいないし、だれも気づかない。でも、きっと一瞬、こころが「笑顔」になったと思う。
 そういう変化が「わかったことがある」ということばのなかにある。

 もちろん私の書いていることは「誤読」で、山本は一連目で書いた「わからない/知らない」が「わかった」かわったということ、「女主人が笑顔を見せない理由」を説明していると理解するのが「正しい」のかもしれない。しかし、私は、そういう「論理構造」のなかだけで山本のことばに触れたいとは思わない。「わかった」結果ではなく、「わかる」までの過程でおきたこと、この詩では、母親の笑顔と山本と妹の関係が大事なのだと思う。それがなければ「わかる(結論)」はありえないからだ。「結論」ではなく「過程」のなかに、ひとは生きている。
 きのう読んだ「還暦の鯉」も似ている。途中に挟まれた、父と山本の会話がなければ、詩の「結論(?)」はないのだ。「結論」から「過程」へ引き返し、その「過程」を生きることが詩を体験することなのだと思う。

 山本のことばには、何か、書いている「対象」を超えていくひろがりがある。自他の区別がふいに消える瞬間がある。消えるといっても、絶対に消えないものがあるのだけれど、その絶対に消えないものを間にして、その絶対をつらぬいてしまう力がある。
 きのう読んだ「還暦の鯉」。「生きている(さかなのにおい)」は「死んでしまう」を含んでいる。生と死の区別は絶対的で、だれにも変えることができないのに、その二つは「想起」のなかで融合し、別の次元、生でも死でもないもの、「名詞」ではとらえられないものとして動く。





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