詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の死(1)

2024-11-21 22:17:35 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

 谷川俊太郎には、四回か、五回、会ったことがある。忘れられないのは、やはり、一回目のときである。私はもともと谷川を含め詩人とはつきあいがない。たまたま、谷川が福岡へくることをポスターか何かで知った。(新聞の小さな案内だったかもしれない。)なぜだかわからないが会ってみたい気がした。大胆にも、私ははがきで「福岡の催しのとき、楽屋に訪ねていっていいですか?」と問い合わせた。すると自宅に電話がかかってきて「いいよ」。直接声を聞いたのが初めてだったこともあり、まさか電話で返事が聞けるとは思っていなかったので、とても驚いた。
 これからが、たいへんだった。
 私は、情報収集(?)のために、池井昌樹に電話で訪ねた。「谷川って、どんなひと?」「おまえなあ、谷川はたいへんなひとだぞ。若いときから詩ひとすじで苦労してきたひとだからなあ。おまえは礼儀知らずだから気をつけないといけない。おれは、新幹線でたまたま谷川を見かけ、詩集にサインをしてもらった。そのとき、新幹線の通路に立っていたら、池井君、そこに立っているとほかのお客さんが通れない。はい、こっちによけて」と叱られたそうだ。どんなときにも、周囲への配慮を忘れない「おとな」の対応を貫くひとだと言う。「そのコントロールの仕方が、とても美しい」。
 そうか、と思ったのは「序の口」で、これからが、ほんとうにほんとうにたいへんというか、私の「おっちょこちょい」をさらけだすことが起きた。
 催しは、たしかタイのシンガー・ソングライターのような若者との詩の朗読を含めたコンサートのようなもので、定員が五十人くらいのものだった。私は谷川から「会える」という返事をもらったあと、チケットをあつかっているところへ買いに行ったのだが……。知らなかった。現代詩の催しのチケットが売り切れることがあるなんて。どうしよう。もちろん催しを見ないで、催しがおわったあと楽屋(?)へ訪ねていくこともできるが、それではなんだか申し訳ない。せっかく谷川が朗読か何かをするのに、それを聞かず、その感想も言わないなんて(言えないなんて)。
 大慌てで、主催者のホームページを通じてなんとかできないか問い合わせようとしたら、「当日券あり」という表示。なんでも、数枚だけ、当日発売用に残してあるそうだ。ただし、販売は、朝から。朝から並んで買うひとだけに販売するという。催しはたしか午後からで、私は仕事がおわったあとゆくつもりだった。午前中は仕事で会社に拘束されている。 困ってしまって、電話で「催しのあと谷川と会う約束をしている。催しの感想も言いたいので、なんとかチケットを買えないだろうか。直前まで仕事で、チケットを買うために列に並ぶことができない」と頼み込んだ。「確認します」。しばらくして、「確認がとれました。開場前にきてください。チケットを渡します」。
 で、会場について、受け付けでチケットを受け取り、入場料を払おうと思ったら、「招待券」だった。これでは、まるで私が「招待券」をねだったみたいだ。初対面の、しかも谷川俊太郎に。スタッフの「確認します」は、チケットを一枚抑えることができるかどうかではなく、ほんとうに谷川と会う約束があるかどうかの確認という意味だったのだ。
 わあっ、はずかしい。これは、池井が新幹線の通路を塞いで、谷川から注意されたことの比ではない。初対面なのに、とんだ失態である。チケットも買っていないのに、「会いに行きたい」と言ってしまった。現代詩のチケットなんて、売れないに決まっているとタカをくくっていた。つまり、谷川のファンがどんなに多いかさえ知らなかったのである。
 催しが終わり、谷川がファンがもっている本にサインをしている。それが終わるのを待って、私も『世間知ラズ』にサインをしてもらった。非常に恥ずかしかったので、チケットのお礼を言ったかどうか、忘れてしまった。たぶん、ど忘れして、言わなかったと思う。何から話したか忘れたが、たぶん『世間知ラズ』というタイトルが読めずに苦労したこと(私は「世間知/ラズ」と、世間には「ラズ」という誰でもが知っている知識がある、と思い込んでいた)や、「父の詩」がとても好きと話した。私がもし無人島に一篇の詩をもっていくとしたら、「父の死」だというようなことを話した。この詩には、散文精神が動いている。そして、その散文精神が、そのまま詩になっている。森鴎外のことばのようだ、というようなことを語った。そのとき、谷川は、「そうか、私は散文が書きたかったのか」というようなことを言った。
 谷川には『詩に就いて』という「書き下ろし詩集」がある。このタイトルの「就いて」は、いまはふつうには「ついて」と書く。鴎外は「就いて」と書いていたなあ、と思い、あ、あのときの鴎外(散文精神)がここにあらわれたのか、と私は密かに思った。このことは谷川に確かめたわけではないが、いまでも『詩に就いて』を読むと、そのときのことを思い出す。
 ほかに、そのとき何を話したか、よく思い出せない。たしか田原がH詩賞をとった直後で、田原について話したと思う。何について話しても、非常に話しやすかった。池井が私を脅したけれど、私は、「私も本をもってきました。サインしてください」と言って、そのあとまったく緊張しなかったことは覚えている。とても話しやすかった。
 ほかは、すぐには思い出せないのだが、ただ、催しのなかで忘れらないことがひとつある。最後に谷川は「鉄腕アトム」を歌った。「鉄腕アトム」は、私のなかでは、谷川の詩のベスト3に入る作品だ。(あとのふたつは「父の死」と「かっぱ」である。)私はいっしょに声を出して歌いたがったが、音痴なので、声を出す勇気がなかった。ほかの観客も歌いだしそうになかった。結局、谷川の「独唱」に終わったのだが、これが非常に残念でならない。あのとき一緒に歌っていればよかった。谷川の死を聞いたとき、まっさきに思ったのは、そのことだった。
 なぜ、「鉄腕アトム」が好きなのか。なぜ、ベスト3に入るのか。
 私が「鉄腕アトム」が谷川の作詩であると知ったのは、ずいぶんあとのことだ。テレビで「鉄腕アトム」を見ていたときは、まったく知らなかった。だれが作詩であるかなど、気にしたこともなかった。いまではかなり有名だが、それでも「鉄腕アトム」が谷川の詩だと知らないひともいるだろう。
 これは、とてもすばらしいことだと思う。詩の「理想の形」がそこにあると思う。作者がだれだか知らないまま、それでもことばが共有される。作者を必要としない、完全な「古典」の姿が、そこにある。
 手塚治虫が死んだとき、読売新聞の社会面の見出しは「手塚アトム、空の彼方」だった。「空の彼方」はもちろん「鉄腕アトム」からの借用なのだが、そのときそれが「鉄腕アトム」の歌の一部であるとわかっても、それが谷川のことばだとわかったひとは何人いただろうか。もしかすると「空の彼方」と手塚治虫が書いたことばだと思ったひともいるかもしれない。でも、私はそれでいいのだと思う。詩は(ことばは)、書いたときから(発せられたときから)、書いたひと(発したひと)のものではなく、それを受け止めたひとのものである。百人一首の「春すぎて夏きにけらし白妙の……」の歌が誰のものであるか知らなくても(忘れていても)、そのことば、その歌は多くのひとが知っている。誰が書いたか気にせずに口にしている。そのとき、詩は、ことばは古典になる。そういう意味では「空を超えて星の彼方」は「古典」になっているのである。谷川のことばには、何か、そういう「古典になる力」というものが含まれている。
 「おなら」の詩でも、「おまんこ」の詩でも同じ。それはたしかに谷川が書いたものだが、谷川が書いたという「署名」がなくても、そのまま読んだひとの肉体に重なっていく。そこには「ひとの力」がある。「生きる力」がある。そして、その「生きる力」に対して、あるいは「生きている力」に対して谷川は感謝し、「感謝」という詩のなかで

感謝の念だけは残る

 と書いたように、私には思えるのだ。あらゆることばが、谷川が「生きて」、そして「生きている」ことに対して「ありがとう」と言っているように思える。
 谷川のことばを、私は谷川が書いたと知っているが、そこから谷川の署名が消えたってかまわない、むしろ署名が消えたとき、それは間違いなく、詩そのものになるのだと思う。
 だからこそ、というのは変だけれど、あの最初の出会いの日、谷川俊太郎といっしょに「鉄腕アトム」を歌わなかったことが悔やまれてならない。あのとき一緒に歌っていれば、私は谷川にこういうことを言えたのだ。
 「谷川さん、この歌は、私がこどものときテレビで覚えた歌です。谷川さんもテレビを見てたんですか? それで覚えたんですか? うれしいなあ。私たちは、同じ時間を生きてたんですね。そして、いまここで、また出合っているんですね。いっしょに歌ってくれてありがとうございます。私は、この歌のラララの部分が大好きなんです。ほかの部分は、ほかのことばでもいい。でも、ラララはラララでしかない。だれのことばでもない。みんなの、ことば。みんなのことばだから、ひとつだけの意味というものがない。そう思いませんか?」

 「ありがとう」はだれもがつかうみんなのことば。それと同じ、みんなのことば。そのことに対して、私は、ほんとうに「ありがとう」と伝えたい。

 最後の部分で私は「谷川さん」と書いたが、それは面と向かって話すときのことばだからである。文章で書くときは、「谷川さん」とも「谷川氏」とも、私は書けない。今回も私は「谷川が死んだ」と書いた。「谷川俊太郎氏が死去した(死亡した/亡くなった)」とは、どうしても書くことができない。谷川のことば、そのことばの肉体は私のことばの肉体と重なり合っている。それを引き剥がすと、もう、その瞬間から、何か違ったものになる。「鉄腕アトム」の歌は谷川の作詩だが、それを「谷川の作詩」と読んだ瞬間に生まれる違和感に似ている。あれは谷川の作詩かどうかは関係ない。あれはテレビのなかで「鉄腕アトム」が歌っていた歌なんだ。谷川の作詩なんかであってたまるものか、という気持ちがどこかにある。つまり、あれは「鉄腕アトム」の肉体そのものである。「鉄腕アトム」と切り離してはいけない歌なのである。そう信じさせる不思議な力がある。
 これは逆に書いた方がいいか。
 たとえば村上春樹が死んだと仮定する。そのとき、私は絶対に「村上春樹が死んだ」とは書かない。書けないだろう。そう書くことは、何か、私をぞっとさせる。私は村上春樹のことばとは関係がない。そのことばに重なりたくない。私とは切り離して、「村上春樹氏が死亡した」と書くだろう。

 私が書いた文章は、あまりにも飛躍が多く、でたらめな感じがするかもしれない。仕方がない。「整理」できない。思いつくままに、ただ、思いつくままに書いておきたい。「整理」なんて、あとからすればいい。

*

「父の死」の感想は、下のURLに。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/59c19002d057011a087ebed81cc3f018


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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(30)

2022-01-07 11:19:12 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(30)

(足は地を)

足は
地を知っている
眼は
天を仰ぐだけ

星々は
毎夜
空にいて

地に
甘んじて
ヒトは
誤る

地から
天が
見えると

 「地から/天が/見えると」思うのは誤り。「見る」と「知る」と違う。「知る」ためには「足」が大地に触れるように、「肉体の接触」が必要だ。しかし眼はいったい何に直接触れることができるか。そして、ことばは。

 

 

 

 

(ひと足)

情熱は
無い
ただ穏やかな
興味で

贈られた
世界を
見つめる
歓び

未来を
手探りする

明日へ
遅々と
ひと足

 「情熱」と「穏やか」は相いれないものなのだろうか。『女に』のなかで谷川のつかっていた「少しずつ」は「穏やかな情熱」、「確かな情熱」「手探りの情熱」「ひと足ずつの情熱」ではなかったか。

 

 

 

 

 

(二月)

地に
惜しみなく
陽は
降り注ぎ

トレモロは
沈黙の
饒舌

ヒトは
多事
繭は眠る

宇宙に
濾過された
現世の
悲しみ

 「濾過」。谷川は「濾過された」と受け身でつかっている。そして、「濾過され」ると「悲しみ」が残る。そうではなくて、「濾過された/悲しみ」は「悲しみ」とは別のもの、たとえば「沈黙」だろうか。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

2022-01-06 21:30:20 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(29)

(私は今ここに)

私は

ここに
いる

どこへ行こうが
動けない
私を

言葉で
リモコンして
言葉の涯まで
連れて行く

そこも
ここ
だろうか

 「リモコンして」の「原形」は「リモコンする」だろうか。「名詞+する」という形で「動詞」をつくる。谷川は、いまはつかわないようなことばもさらりと書くが、こういう新しいことばもさらりとつくってしまう。

 

 

 

 

(そこにいつまでも)

そこにいつまでも
私はいる
地面に木漏れ陽が
落ちて

おもかげは
川音に
紛れ
言葉は薄れて

そこに
独り
立ち尽くし

すべてを
愛でる
私がいる

 「いる」ことが「愛でる」こと。それだけでは足りなくて、谷川は「すべてを」と書いている。「すべてを」は「いつまでも」に通じるだろう。そこには「限界」がない。そして、その中心に「独り」がある。

 

 

 

 

 

(諦め故に)

諦め故に
希みの
滲む

手足と
腹の
温かみが
語を生み

自は
他へと
動き出す

眉の黒
水の透明
唇の赤

 「諦める」のは何が諦めるか。こころか、精神か。「手足」と「腹」、その「温かみ」は諦めない。つまり「語を生む」。「諦める」の反対は「生む」なのだ。「肉体の温かみ」は「語(ことば)」だ。

 

 

 

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(28)

2022-01-05 11:56:55 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(28)

(小さな黄色の花)

小さな黄色の花に
小さい白い蝶がとまった
見る歓び
今日が始まる

大きな混沌に
宿る
小さな秩序

タンブラーが
指を離れ
床へ落ちていく
一瞬

時を
凍らせる
言葉という破片

 「見る歓び」を、私は、花の歓び、蝶の歓びと読みたい。床に落ち砕けるガラス。そのとき「凍る」のも、ガラスのことば、床のことばと読みたい。ことばは詩人だけのものではない。

 

 

 

 

(姿なく)

姿なく
その道を行く
あのひとは誰?

時を嘲り
死を友として
未知の幻へ
人をいざない

終わりなく
問いつつ
答え

かりそめの
コーダに憩う
あのひとは
誰?

 姿がない。でも、どうして「あのひと」が見えたのか。「その道」は実在なのか。最初に存在するのは「道」なのか「ひと」なのか。私は「ひと」と読む。「ひと」を思い浮かべたとき、そこに「道」が始まる。

 

 

 

 

 

(昨夜から)

昨夜から今朝へ
夢無く
生きた

幾万の
胎児とともに
秋桜の
蕾とともに

眠りの
無心
目覚めの
苦に

些事の
淡い

 「目覚めの/苦に」の「に」は何だろうか。後に何が省略されているのか。この問は「些事」か。私は判断しない。ただ、この「に」につまずいた、と書く。その瞬間、見えたとも言えない「光」、暗い光を感じた。

 

 

 

 

 


(水平線で)

水平線で
陽炎に
揺れている
遠い誰か

そこへと
夢が
泳いで行く

頑なに
沈黙する
椅子と

言葉の
無垢受胎の

 「頑な」と「無垢」。「頑な」には意思があるが、「無垢」には意思がない。だから「頑な」には拒絶感がともなうのに、「無垢」は逆に拒絶感がない。「無垢」がさまよいだすのは「幻」に騙されてか。

 

 

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(27)

2022-01-04 11:57:20 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(27)

(死の色は)

死の色は

まばゆさに
目を瞑る

ざわめきの
静まる
今日

慎ましく
黒は
隠れる
人の無明に

古の
金の輝き
鉄の錆

 「無明」は色だろうか。白と黒のあいだにある灰色かもしれない。この灰色は仮の名前で、ほんとうはまだ名前のない色。さわがしい灰色、静かな灰色。灰色は、いくつあるかもわからない。

 

 

 

 

(無はここには)

無は
ここには
ない

どこにも
無い
宇宙にも
心にも

無は偽る
文字で
詩で
こうして

無いのに
時に
有るに似る

 「偽る」と「似る」は微妙な関係にある。「偽り」のなかには事実に似たものがある。似ているから、ほんものと間違える。Aを以てBと為す。騙すは馬ヘンだが「偽る」も「似る」も人ヘンである。罪深い。

 

 

 

 


(水平線で)

水平線で
陽炎に
揺れている
遠い誰か

そこへと
夢が
泳いで行く

頑なに
沈黙する
椅子と

言葉の
無垢受胎の

 「頑な」と「無垢」。「頑な」には意思があるが、「無垢」には意思がない。だから「頑な」には拒絶感がともなうのに、「無垢」は逆に拒絶感がない。「無垢」がさまよいだすのは「幻」に騙されてか。

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(26)

2022-01-03 14:36:35 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(26)

(欲は涸れず)

欲は
涸れず
死に
向かう

善悪
不問
美醜を忘れ

庭の
若木
見守る

守られて
いる

 三連目。若木「を」見守るか、若木「が」見守るか。「美醜を忘れ」のつづきで言えば「若木を見守る」だろう。しかし、私は「若木が見守る」と読んだ。だから四連目は「若木に見」守られていると自然につづいた。

 

 

 

 


(死は私事)

死は
私事
余人を
許さない

悲苦を
慎み
生は静まる

色から
白へ
色から
黒へ

いつか
透き通る
現世

 「死は私事」というが、死は実感できるのだろうか。「死んだ」と私は納得できるだろうか。想像できない。私の知っている人は死を「自覚」して死んで行ったように見えるが、自覚は予測にすぎない。不透明だ。

 

 

 

 

 

(残らなくていい)

残らなくていい
何ひとつ
書いた詩も
自分も

世界は
性懲りもなく
在り続け

蝶は飛ぶ
淡々と
意味もなく
自然に

空白が
空を借りて
余白を満たす

 「淡々」「意味がない」「自然」。三つが同じものとして書かれている。「空白」を「余白」にかえるとき、谷川は「空」を借りている。「淡々と/意味もなく/自然に」だろうか。これは谷川の蝶になった夢だろうか。

 

 

 

 

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(25)

2022-01-02 09:35:04 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(25)

(問いに)

問いに
答えはなく
いつもの

棚の土偶の
古代の
ほほえみ

日常と
地続きの
朝の
永遠に

安んじて
不可知に
親しむ

 「親しむ」は二連目の「ほほえみ」から始まっている。その「ほほえみ」が「古代」のものならば、「親しむ」という動詞も古代からのものだ。「問いに/答えはない」というのも「古代」から「地続き」の「永遠」だ。

 

 

 


(どこ?)

どこ?
と問えば
ここ

天の下
地の上で

一つ

いつ?
と問えば
いま

岩より若く
刻々に老いて
鬩ぎ合う
人と人

 「岩」という漢字は「若」に似ている。「老」に似ているのは何だろう。石も砂も似ていない。「鬩ぐ」は門構えに「兒」。争うのは「若い」からではなく「幼い(児童)」だからか。幼・若・老。「命は一つ」。

 

 

 

 

 

(なんでもない)

なんでもない
なんでもないのだ
空も
人も

未来のせいで
思い出が消える
行けば海はあるのに

呪文は
魂の深みに
とぐろを巻く

穏やかに
過ぎるのがいい
時は
そして星々も

 「魂」。「ソクラテスの弁明」のなかに「たましい (いのちそのもの) 」という表記がある。谷川がここで書いている「魂」は「いのちそのもの」と言いなおすことができるか。魂を実感できない私にはわからない。

 

 

 

 

 

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(19)

2021-12-27 19:33:38 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(19)

(事実が)

事実が
物語となって
終わる
後に

黙りこむ
人と
卓上の
果実

解釈を
許さない
存在を

時に
任せて
眠る

 セザンヌの静物画を思い出す。「解釈」は画家からの働きかけではなく、存在が画家に働きかけてくるときに生まれる。セザンヌは静物を「解釈」したのではなく、「解釈された」。これが、私の「物語」だ。

 

 

 

 

(言葉が落としたもの)

言葉が
落としたものを
詩は拾う

草むら
横断歩道
プラネタリウム
動物園で

言葉の
落としもの
燃える
ゴミ

炎を
上げずに
くすぶっている

 「言葉が落としたもの」と「言葉の落としもの」は、似ているけれど違う。その違いが、「燃える」「燃えない」の違いを生む。「燃えるゴミ」はほんとうは燃えていない。怨念のようなものが、残っている。

 

 

 

 

 

(記憶にないのに)

記憶にないのに
思い出す
その道をあなたは
去って行った

山々は
不機嫌で
池は
静まりかえっていた

何ひとつ
拒めない世界の
哀しみ

渇くわけを
心は
知らない

 「思い出す」を「知っている」と読み替えてみる。「記憶にないのに知っている」。私個人の体験ではなく、人間が共有する体験だからだ。「いのち」が共有することだからだ。いのちには、拒めないことひとつがある。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(18)

2021-12-26 08:48:40 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

(秋 落ち葉の)


落ち葉の
葉脈を辿って
迷う

世界は
きりのない
言葉を秘めて
無言

理は偽るが
美は
真のみ

闇に守られて
眠る

 「闇」は「偽る」ことはない、ということか。見えるのは、自分の内部にあるものだけ。でも、「美」や「真」だけ見つめていては退屈。だから「眠る」のか。夢で「迷う」のは「言葉」か「無言」か。

 

 

 

 

(昨日は嘘)

昨日は

明日は

今の

私は私

無数の

一個の

熟してまた
未知の
種子

 「また」がいいなあ。「種子」に帰る、の「帰る」という動詞が隠されたまま予告されている。「未知」にだけ、「嘘」は含まれていない。「明日」にはすでに「明日」という「知(嘘)」が含まれている。

 

 

 

 

 

(本にひしめく)

本に
ひしめく
語たち

語は
語を喚び
語は
語と通じ

意味を
孕み
時に歌う

文字を
忘れ
電子の
声で

 「文字を/忘れ」を読んだ瞬間、声は?と思ったら、その「声」が出てきた。でも「電子」の「声」。あっ、電子に「声」があるのか。私は知らなかった。「通じ」「孕む」という動詞に「ことばの肉体」を感じた。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

2021-12-25 10:20:24 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(17)

(自然に帰依して)

自然に
帰依して
神を
忘れる

人智の
届かぬものを
名づけず
信じて

空は
宇宙へ
開き

草摘む手
泉に
触れる

 草を摘む手が、そのとき草に触れるだけではなく、草の「内部」にある泉に触れると読んだ。谷川が「泉」と名づける前は存在しなかったひとつの「宇宙」である。「摘む」が「触れる」に変わる瞬間の驚き。

 

 

 

 

(自然に帰依せず)

自然に
帰依せず
ヒトは
不吉

言語に
溺れ
数字に
縋り

混沌に
意味
一閃

なお
未明に
夢魔

 「溺れる」と「縋る」は「帰依」とどういう関係にあるか。「自然」と「混沌」はどういう関係か。「言語」「数字」が「意味」なら、「混沌」は「夢魔」か。私は「混沌」を「自然」と考える。無為の状態、と。

 

 

 

 

 

(昼と夜の)

昼と
夜の境に
立ち
闇を待つ

木立が
見えなくなる
人も

暗がりに
身じろぐ
言葉の

ひそやかに
何一つ
指さずに

 「何一つ/指さず」という状態が「混沌」というものではないだろうか。それが、同時に「自然」。自足して、そこにある。何もせず、ただ「足りる」だけがある。ことばにした瞬間、失われてしまうが。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(16)

2021-12-24 10:56:30 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(16)

(悲鳴と喃語)

悲鳴と
喃語
失語と
饒舌

巨大な
火口
大笑い

意味の
素は
無意味

吃る

声の

 最終連、「声の/泡」に私はどきりとした。同級生に吃音の友達がいた。けんかをする。吃音がひどくなる。そのとき口のまわりに泡。見てはいけないものを見た、という記憶が今も頭にこびりついている。

 

 

 

 

(自他の)

自他の
二元を
心は
哀しむ

眼で見つめ
手で掴み
口で
強いるが

億の中で
兆の中で
二は二のまま

一は
私にしか
ない

 私は、そのつど「二」をもとめている。私には一と二と、ゼロ(無)があると考える。「無」から「一」が生まれ、「無」へ帰るためには、「一」を破る「二」が必要だ。「肉体」として生きているあいだは。

 

 

 

 

 

(夜 瓶は)


瓶は
倒れる

湖底には
孕む

少年は
独り
華厳経に
溺れ

暁闇の
野に
綻びる
何の蕾か

 夜、瓶は立ち上がる。湖底の水は龍になって天をつく。少年は経を叩き壊し、ことばの無を龍の眼に託す。蕾は闇を吸収し、大地に送り込む。銀河のような根の広がり。射精しながら、老人は新しい夜を眠る。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(15)

2021-12-23 10:42:14 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(15)

(悪は)

悪は
ヒトのもの
天地を
他所にして

手足は
具体
ココロは
抽象

地を掘り
天に焦がれる
ヒトの生き死に

朝の汀に
詩の
足あと

 足跡ではなく「足あと」。なぜ、ひらがなにしたのだろう。「跡」という具体的なものが消えて、「音」が広がる。具体的なものをもとめて。そのとき「足」が「肉体」として見えてくる。砂に触れて、砂がくぼむ。

 

 

 

 

(言葉は騙り)

言葉は
騙り
手足は
黙々

星辰に
疎く
人事は
不断

功を誇り
嫉視を
斥け

自我を
祀る
無恥

 「騙る/語る」「星辰/精神」「無恥/無知」。音で聞けば、私はきっと間違える。「不断/普段」も間違えるかも。「疎く」が「有徳」なら、「嫉視」にも同音のことばがあるか。「ある」と語れば、騙るになるか。

 

 

 

 

 

(気持ちが)

気持ちが
淀む

私は
何を
待っているのか

一日は
遅々として
明日は
迅い

言葉に
囚われて
言外へ
亡命する

 「亡命する」。「難民」の方が私にはしっくりくる。「政治難民」ということばがあるが、「難民」が「亡命(者)」より多いからだろう。「難民になる」ではなく「難民する」という動詞が生まれてくるかもしれない。

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(14)

2021-12-22 09:28:55 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(14)

(これを)

これを
好み
それを
嫌う

ヒトは選ぶ
物を事を
人を
自分を

唯一の
太陽に灼かれ
己れに迷い

無数の
因果の網に
かかって

 「ヒト」と「人」、「自分」と「己れ」はどう違うか。「因果」ということばに誘われて因数分解(?)をしてみたくなる。(ヒト×己れ)÷(人×自分)=0のとき、詩を顕現させる感情と肉体の値を求めよ。

 

 

 


(誰もが私なのに)

誰もが

なのに君が
いる

私の
言葉を
人々とともに
生きて

君の
言葉に
私はいるか?

意味とともに
無意味を
喜んで

 自分と他者の問題は難しい。私は「君」は「私の必然」と考える。「必然問題」が「君」だ。「君」をどれだけ語れるかという問いが「絶対的無」として「私」に帰ってくる。「誰も」では「絶望的虚無」が残る。

 

 

 

 

 

(本を閉じる)

本を閉じる
緑が
目に沁みる

風が吹いて
揺れる葉が
今ここを
告げるから

人がすることを
今日も
する

必要は
不要
自足する
宇宙

 「する」。それは「自足」と、どう関係しているか。「必要は/不要」を「不要は/必要」と言い換えるとき、「不要」は「無意味」に変わり、「無意味は/意味」ということばのなかで「自足/する」だろう。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(10)

2021-12-18 10:34:38 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(10)

(分別の罪を)

分別の
罪を
言葉は
負う

無名に
色はあるか
透明には?

空に満ちる
自然は
無尽

なおヒトは
語と語で
色を
切り分ける

 「分別(する)」は「切り分ける」と言いなおされ、「言葉」は「語」と言いなおされる。言い直しは「罪」のひとつか。地上の罪はそうやって「無尽」に近づくのか。「語」がヒトを「切り分ける」こともあるだろう。

 

 

 


(書いた言葉を)

書いた言葉を
読む
私から離れる
意味

私有できないのに
負う

語が
語に絡んで

行と行の
間も

かな?

 私がことばを書くとき、ことばが私を書く。私がことばを読むとき、ことばが私を読む。私が谷川の詩を読むとき、谷川の詩が私を読む。どう読んだか、谷川も私も知らない。ことばの肉体だけが知っている。

 

 

 

 

 

(文字で)

文字で
読みたくない
声で
聞きたくない

言葉の
意味から
滲み出すものを
沈黙に探る

山の
無意味の
静けさ

死に向かう
人間の
無言

 「静けさ」と「無言」は違う。無言は外面的には静かだが、内面は音に満ちている。山にはいろいろな音があるが、内面は静かである。内面とつながるものしか音にならないと知っているからだ。言う必要がない。

 

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谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(9)

2021-12-17 12:01:05 | 谷川俊太郎『虚空へ』百字感想

谷川俊太郎詩集『虚空へ』百字感想(9)

(刻々の今を)

刻々の
今を
ヒトは憂い
泣き笑う

内臓の
無言の知を
血に
読んで

内は昏く
外は
明るい

遠近を
問わずに
歩む

 「知を/知に/読んで」。この「読む」は「読み替える」であるか。私は「誤読」を好む。「精読」「深読み」という言い方もある。「外は/明るい」という改行の、呼吸のようなものが「読む」瞬間に動く。

 

 

 

 

(私が)

私が
終わると始まる
見知らぬ
あなた

言葉がつなぐ
いのち
断つ
いのち

浮き世に
沈む

日月に
甘んじて
いる

 「いる」。私は「いる」か。「甘んじる」という動詞が、人間のように「いる」のか。私が「終わる」、あなたが「始まる」の「断つ」と「つなぐ」のあいだに、ことばにならない動詞が生きて「いる」のかもしれない。

 

 

 

 

 


(言葉の殻)

言葉の殻を
剥くと
詩の
種子

詩の種子を
割ると

何も
無いのに
在る

問えない
答えない
ものの
予感

 「空」は名詞、「無い」は形容詞。「無」と言えば、名詞になる。どんな違いがあるか。「空」がある、「無」がある、と言えるのはなぜか。ことばがなければ、考えることができない。この「ない」は助動詞か。

 

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