詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

luciano gonzales diasの作品

2019-12-30 11:13:00 | estoy loco por espana


リボンと女が出会う
見つめ合う
近づく
触れ合う

ふたりが
離れようとするのは
より近づくため

ふたりの間に
ふたりの知らなかったものが
生まれる

音楽だ

音楽が
リボンと女を
新しい世界へつれて行く。

una cinta y una mujer se encuentran
los dos se miran
se acercan
se tocan

los dos
tratando irse
para mas acercarse

entre los dos
nace
lo que no sabian

musica

musica
lleva a mujer y la cinta
a un mundo nuevo
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Luciano gonzales dias の作品

2019-12-29 11:07:21 | estoy loco por espana


リボンが肉体に変わるのか
肉体がリボンに変わるのか

リボンは飛ぶ力を獲得し
肉体はしなやかさを獲得する

ふたつは融合し躍動する


una cinta se convierte en un cuerpo?
un cuerpo se convierte en una cinta?

la cinta gana poder de vuelo
el cuerpo gana flexibilidad

los dos funsionan y se mueven
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しばらく休みます

2019-12-26 18:23:41 | アルメ時代
しばらく休みます
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藤井晴美『イブニンゲケア』

2019-12-25 10:11:41 | 詩集
藤井晴美『イブニンゲケア』(私家版、2019年12月05日発行)

 藤井晴美『イブニンゲケア』の「青から出た悪い口」にこんな一行がある。

これは、事実ではなく詩です。

 しかし、逆にも言えるだろう。「これは、詩ではなく事実です」。詩と事実はいつでも入れ替えが可能である。
 私は、いつまでも詩のままである詩よりも、詩が事実に変わる瞬間が好きである。たとえば、巻頭の「新虚構主義」。

   僕は呑みたいすべてが、否、ぼくはことばを嘔吐した。不可能と可能は意識のカ
ラクリの両極かもしれない。窓を開けているので隣の夕食の匂いが入ってくる。肉挽き
機が目に浮かぶが、うるさい!

 「隣の夕食の匂いが入ってくる」は「現実/事実」だ。しかし、「肉挽き機が目に浮かぶ」は「事実/現実」ではなく、「詩」である。
 どう違うか。
 「隣の夕食の匂いが入ってくる」はふつうに体験できることである。匂いから、きょうはハンバーグか、きょうはカレーか、きょうはおでんか……とひとは想像する。こういう想像をひとは「共有」している。それが「現実/事実」というものである。
 ところが、その「共有」できる「現実/事実」から出発して、きょうはハンバーグかと思ったあと、ハンバーグをつくるときは挽き肉をつかう。その挽き肉をつくるための機械が目に浮かぶ、となると、これは個人的な体験、個人的な想像であって、すべてのひとに「共有」されるとは限らない。それはあくまでも藤井の「個人的な現実/事実」である。
 その「個人的な現実/事実」を、「個人的な言語によって描写された事実」と言い直すと、それが「詩」であることがわかる。詩とはいつでも「個人的な言語」によって書かれている。藤井の詩は、一見すると「日本語」の詩に見えるが、厳密に言えば「藤井語」によって書かれている。
 そして、この「個人的な現実/事実」がいったん「詩」というかたちで言語化された瞬間から、いままで存在しなかった「事実/現実」が姿を見せる。ハンバーグ、挽き肉、肉挽き機というつながりが見えてくる。そのつながりは、これまで無視されてきた(隠されてきた)が藤井によって明るみに出された。
 その衝撃が、ふたたび、そのことばを詩にする。

 詩から現実、現実から詩へ。

 この動きは、いわば手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのようなものである。その存在はだれもが知っている。しかし、その存在を明確につないで見せたひとはいない。「可能性」が瞬間的に噴出し、それが欲望を刺戟する。
 「ことば」の欲望を。
 「ことばへの欲望」というよりも、「ことばの肉体が抱え込んでいる欲望」が「藤井の肉体」になる。だから、「肉挽き機が目に浮かぶ」ということばに触れた瞬間、私は「肉挽き機」だけではなく「藤井の肉体」を思い浮かべてしまう。「私の肉体」ではない、ひとりの生身の「肉体」を。私は藤井には会ったことがない。だからそのときの「藤井の肉体」というのは、いわば「渾沌」から分節されたばかりの、まだかたちになっていない「肉体」というものである。つまり、「定型」をもっていない。だから、そのまま「私の肉体」に重なる。「藤井の肉体」と「私の肉体」が「分節されたばかりの不定形の肉体」のなかで融合する。セックスする。
 私は、これをことばのセックス、もっと厳密に言えばことばの肉体のセックスと呼んでいる。「誤読」といえば「誤読」なのだが、私は、こういう「誤読」が好きだ。こういう「誤読」をするために、ことばを読んでいる。「私の肉体」が「分節されたばかりの肉体」を媒介として「他人の肉体」になってしまう。この快感を味わうために、「ことばの肉体」を読んでいる。 

 こんな書き方では藤井の詩がどんなものであるかわからないかもしれないが、「あれ、どんな詩」とほんとうに思うならば、詩集を買って読んでください。
 読んでみようかな、と思うひとへのプレゼントとして(きょうはクリスマスだからね)、次の一行を引用しておく。「流星の町」に出てくる。

ここに何かが描かれた。線は意味を持つために骨抜きで休憩した。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(57)

2019-12-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (大きな幹によじのぼりたい)

その幹から黄金虫が一匹
サハラ砂漠の太陽へむかつて飛びたつた

 「黄金虫」は嵯峨である。「よじのぼりたい」という欲望が、嵯峨を黄金虫に変える。そして、黄金虫は嵯峨の欲望にしたがって「サハラ砂漠」へ飛び立つ。ここに書かれているのは、欲望の現実である。小さな風景を描いているわけではない。
 欲望から詩を読み直せば、

駱駝は砂漠のなかを大きな数字を踏んで歩いていく
「無限」ということを考えよう

 という詩も、「歩いていきたい」「考えたい」という嵯峨の欲望だったのだ。

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佐々木安美『佐々木安美詩集』(現代詩文庫245)

2019-12-24 18:38:54 | 詩集
佐々木安美『佐々木安美詩集』(現代詩文庫245)(思潮社、2019年11月30日発行)

 佐々木安美の『新しい浮子 古い浮子』について何か書いたような記憶がある。書こうとしたことがあるだけかもしれない。『佐々木安美詩集』の冒頭の「最上川」は『棒杭』という詩集に収録されている作品。読んだことがあるかどうか、わからない。たぶん読んだことがない。

流れないわたしは
流れるわたしを引きとめて
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる

 わかったような、わからないような、詩である。
 「流れる」と「引きとめる」が対になっている。「流れない」を「引きとめる」と言い直していることになる。「とめる」のなかに「流れない」がある。「とめる」は「放してやる」と対になっている。「引きとめる」と「とめる」はほんとうは違うが、「とめる」ということばで見つめると、全体の関係がわかりやすくなる。「放してやる」と「流れる」。ここにも対があることになる。
 さて。
 さっき省略した「引きとめる」の「引き(ひく)」は、どうとらえなおすべきか。
 この詩には、もうひとつ「見つめる」という動詞がある。この「見る」が「引きとめる」の「引き(引く)」と対になっている。
 「見る」ということ、目の力で、流れていくものを「引きとめる」。ひっぱって、とめる。塞きとめるではない。塞ぐのではない。
 この「見る」は二連目で、突然別の動詞に転換する。

書く
そして隠れる
書くことの中に隠れる
流れ得ないものとなって隠れる

 「書く」は「書き表わす」ということばがあるくらいだから、基本的に「表わす」ものであって「隠す」ものではない。「書く」に「隠す」という要素があるとすれば、意識を「書かれたもの」の方へ引っ張ることで、見つけられたくないものを隠すということだろう。「書くことの中に隠れる」とは、そういう意味になるだろう。
 そうやって隠したものは、どうするのかな?
 「流れ」にもどって言うと、そのまま「ためつづける」のか、それともそっと誰も見ていないときを見計らって「放してやる」のか。「放してやったもの」は、どうなるのかなあ。「隠したもの」が「流れる」要素をもっているかどうか、それによって違ってくだろう。どうしても、たまりつづけるかもしれない。

隠れるままのうちに日々が流れる
流れる日々のうちにも流れ得ないものとなって隠れる

 「流れる」の「主語」は「わたし」から「日々」にかわっている。突然、変化する。でも「日々が流れる」というのは「比喩」だね。「日々」が流れるの比喩なのか、「流れる」という動詞が日々の比喩なのか。特性はむずかしい。両方の比喩かもしれない。つまり「日々が流れる」ということば自体が何かの比喩である可能性もある。「日々」になるまえの主語「わたし」を比喩で言い直すと「日々が流れる」になるのかもしれない。
 比喩というのは何かの特徴を浮かび上がらせるためにつかわれる。しかし、そういう強調によって何かを隠すということもあるだろう。「書く」という動詞を考えたときに動いたものがここでも動いている。
 そなんことを考えていると……。
 「隠す」という他動詞が、ここでは「隠れる」と言い直されていることに気づく。視点が、微妙に、しかし、確実に動いている。移動している。
 視点の位置を変化させた上で、詩はつづいていく。

わたしの中に隠れる
わたしがいてその中に隠れる
隠れるわたしの外側にいるわたしが
隠れているわたしの外側に
そしていつも晒されている

 「外側」というのは「表面(表側)」とも言い直すことができる。「隠れる」と対になることばを「表わす」と想定したが、「隠れる」と対になるのは「表われる」、「隠す」と対になるのが「表わす」ということになる。
 そしてこの「表われる」は「晒される」に変わっている。「晒される」と書くと「受け身」になるが、それは「晒す」でもあるだろう。そうなることを「自覚」している。あるいは「覚悟」している。
 だからこそ、このあと

浮かばれない決意と

 という具合に「決意」ということばも登場して、詩を引き締める。
 でも、私は、こういう「決意」のようなものには、あまり関心がない。「意味」はそれぞれの人間が独自に持っているものだから、他人の「意味」に同意したって何も始まらないと考えてしまう。
 それよりも、一連目の、

ひととき 見つめる
そして そっとまた

 という二行の、「間」が非常におもしろいと思う。
 私は、ここまで動詞の対と、その揺らぎのようなものを追ってきたが、それを支えているのが「間」なのだ。肉体の、「間」。生きていくときの「呼吸」のようなものが、ここにことばにならないまま出ている。
 だからなのだと思うが、この二行は詩の最後でもう一度繰り返される。

あれは生きているのか
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる

 佐々木のことばは静かだが、その静かさの奥に、この「間」があるのだと思う。「見つめる」ことで時間をとめる「間」が。





*

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2019年12月24日(火曜日)

2019-12-24 11:45:08 | 考える日記


 巨大な木がある。冬、真下に立って見上げるとどこが梢なのかわからない。どの枝先が一番空に近いのか。その枝とは逆に地中には根が広がっている。肉眼では見えない。
 巨大な木を見上げるとき、木と私は別個の存在なのだが、別個の存在であると考えるはじめると、どうにも納得ができない。
 別個ではなく「ひとつ」と感じるのだ。
 しかし、すぐにその考えに仕返しされる。
 私は手を天へ向かって伸ばすことはできる。しかし、足はどんなに工夫しても地の中へは広がっていかない。
 「ひとつ」になれるはずがない。
 何が邪魔しているのだろうか。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(56)

2019-12-24 09:13:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが道に迷つたのか)

あるいは炎えあがる砂漠の道が行衛に迷つたのか

 「行衛」は何と読むのか。「ゆくえ」と読んでいいのかどうかわからない。
 こういうとき、手がかりは「動詞」である。
 ぼくが「迷う」、砂漠の道が「迷う」。
 道に迷うことは誰もが体験する。しかし、このとき「迷う」が成り立つのは道が動かないからである。「選択」を間違うことを迷うという。
 逆に道が「迷う」としたら、どういうときか。人間が動かないときである。人間が動かないときは、どんな道も道ではなくなる。人間は(ぽくは)、そのとき、どうしているのか。

一頭の獅子が逞しく立つている

 獅子になって、そこにいる。ぼくが「迷つたのか」は反語である。迷ってはいない。ぼくは、ここに「逞しく」立っている。迷っているのは道の方である。獅子は比喩ではなく「逞しく」の修飾語なのだ。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(55)

2019-12-23 07:58:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (この重量のある金庫は)

いまも大きな鉄の扉が閉されている
神と悪魔と閉じ込めている扉の前に立つて

 この二行のあとに、どうことばをつづけるか。
 私は神も悪魔も実感として体験したことがない。だからどうしても「頭」で考えてしまう。嵯峨は、どうか。

人間は何を考えているだろう

 「考える」に、やはり、「頭」を感じる。もし神、悪魔がいるとしたら(あるいはその存在を実感しているのだとしたら)、考えても始まらないだろうと私は思う。
 「考える」というのは人間の仕事だが、ここから詩が始まるとは私は感じない。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨恵子『旗』、阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』

2019-12-22 19:03:11 | 詩集
嵯峨恵子『旗』、阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』

 嵯峨恵子『旗』(ふたば工房、2019年11月01日発行) は散文詩である。あるいは「物語詩」と言ってもいいかもしれない。
 「塔」という作品がある。

 村では誰もが知っている塔だ。知っていながら、誰も党について語りた
がらない。塔の中に何があるかを知らない。塔の中に入ったことがない。
塔は教会の敷地内にあるが、神父は、塔は教会のものではないと言い張る。
ものではないがあるからそのままにしてある。村長はあれからは税が取れ
ぬ建物だと嘆く。しかし、壊すことも出来ないのでそのままにしてある。
土産物屋の女将は塔が観光にでもなれば修理したり、大事にされるのだろ
うが、何の役にも立たないのでそのままにしてあると残念がる。

 「しつこい」文体である。「神父は、塔は教会のものではないと言い張る。ものではないがあるからそのままにしてある。」という部分に、とくに「しつこさ」を感じる。
 散文は、たぶん「事実」を積み重ねていくことで世界をつくる。そのときの「積み重ね方」が、「前」をひきずるという感じだ。だから、スピード感がない。あるいは「前」に書いたこと(過去)にひっぱられながら、それでも先へ(未来へ)進もうとする。
 「原因」があって「結果」が生まれる。
 たしかにそうなのだろうが、どうも、楽しくないなあ。どんなふうに展開しようと、この「原因」があって「結果」が生まれるという関係はくずれそうにないというのは、「予測可能」という印象を与えてしまうのである。どんなに予想外なことが起きても、裏切られたという感じがしない。
 それがいいと思う人もいるだろうけれど。

 阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』(星雲社、2019年07月01日発行)は対照的である。書いてあることの「原因」が、書かれているもののなかにはないからだ。
 どういうことかというと。

 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ……のカタマリとなって、コンフリーのようなチ
ンゲンサイのような葉の幅の広い野菜が沢山並んで、
 縦にきちんきちんと並んで、角から角まできちんきちんきちんと並んで、
 風が吹くと風に乗って、
 サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、

 誰も愛のためには、動かない。たとえ一センチでも。一ミリだって、皆一斉に
 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
 野菜たちのささやき。ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、ねたみ、そねみ、ひがみ、
うらみ……
 そのように揺れてそのようにサヤサヤとサヤサヤと。        (7ページ)

 動かしているのは、風ではない。「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」という、ことばにすると面倒くさい感情が「原因」になっているのだ。この「原因」は「物理」ではないから「ひとつの結果」にはたどりつかない。そのつど紆余曲折する。しかし、どんなに紆余曲折しようとも、

きちんきちんきちん

 全体に「きちん」を守る。
 阿賀の思想(肉体)をことばにすれば、「きちんきちんきちん」なのだ。全部、省略せずに、きちんと並べる。つまり積み重ねる。
 
 スペインの古い絵で、子供をむさぼり食う男があった。どうしてそんな絵が描かれ
たのか、わからない。だがこの絵は間違っている、と母。

 --食っているのは、女。男は食うことができない。
 女は糞と一緒に子を生み落として、それからたゆまず心がけて、立派なエサにし
て、それから食べようとする。自分がひりだしたものだから、自分で食える。

 ここにある「原因」は「こころ」が生み出したものである。たまたま「母のこころ」は「子供を食べるのは女だ」という「結論」を導き出す。そして、その「結論」とは違っていれば、それが「存在」しようがしまいが、そんなことは気にしない。「間違っている」と断定する。
 ここに阿賀の、

きちん

 がある。「正直」がある。「正直」を積み重ねていけば、どうしたって「他人」と違ってくる。だから、その違いが「物語」の必然となる。

 嵯峨のことばは頭でつくりだした「論理の必然」である。阿賀のことばは、こころが生み出した「個人的の必然」である。共有されなくてもかまわないという開き直りがある。 「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」は「サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ」とさやかに揺れるものなのだ。揺れることで、こころを開放する。こころには、開放されなければならないものが「必然」として存在する。
 それを掴みだす。
 さっぱりするなあ。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(54)

2019-12-22 10:28:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ただ白く広々としていて)

どこにも焦点がない
人それぞれ立つているところが焦点になつて

 焦点はあるのか、ないのか。
 「焦点がない」というときの「ない」と「焦点になつて」というときの「なつて」は意味が似ているが、違う。「焦点がない」から「焦点になる」。「なる」はそこにあたらしく生まれてくるということ。
 これを嵯峨は「眼覚める」と言い直す。

人それぞれが眼覚めると
時間は駱駝のようにむくむくと首をふりふり重く静かに立ちさつていく

 「時間」は「駱駝」という比喩になる。「さつていく」よりも「むくむく」「ふりふり」ということばが持っている実感の方が重い。駱駝というよりも「人」が、つまり目覚めた私(嵯峨)の姿のように見える。「焦点」になって、「焦点」として消えていく。











*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(53)

2019-12-21 11:13:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (驢馬は描かれた輪の上をぐるぐると廻つている)

人間はいつも己れ自身を求めている
二つの眼で世界を見ているためかも知れない

 「二つの眼」ということばに私はつまずく。
 驢馬には眼は二つないか。二つある。そうだとしたら「驢馬はいつも己れ自身を求めている/二つの眼で世界を見ているためかも知れない」とも言えるのではないか。なぜ「人間」なのか。
 「二つの眼」は肉眼のことではなく、肉眼の眼とこころの眼(精神の眼)のことか。感覚と知性のことか。そう言い換えても、やはり奇妙である。驢馬にも感覚もあれば知性もあるだろう。
 「知性」を「ことば」と言い換えるとどうだろうか。
 きっと驢馬にしたって、それなりの「ことば」を持っている。人間が理解できないだけだ。
 むしろ、この「人間」は「私」と読み替えた方がいいのかもしれない。「私はいつも己れ自身をもとめている」。それは「他人が共有していることば」と「私自身のことば」の「ふたつのことば」で世界を見ているためではないか。
 「ことば」は常に「ふたつ」に分裂する。ひとつは、自分自身にしかわからないことば、まだ「生まれていないことば」。そして、それこそが「己れ自身」であると嵯峨は語っている。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

2019-12-21 09:16:20 | 映画
J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

監督 J・J・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック

 正確にはどう言ったのかわからないが、映画の後半に興味深いセリフが出てくる。「スピリット」と「ハート」をつかいわけている。主役のレイ(デイジー・リドリー)に対して、人間には「スピリット」は「ハート」がある、と言う。レイア姫だったか、ルークだったか、忘れてしまった。これは、言い直すと「ハート」があれば、人間は(レイは)ダークサイトには落ちない、という「予言」である。「ハート」を生きろという教えである。
 そうか。「スピリット」と「ハート」は、そういう具合につかいわけるのか。
 たぶん「科学」なども「ハート」でつくるのではなく、「スピリット」で切り開いてくものなのだろう。研ぎ澄まされた力。それは両刃の刃で、良い面もあるが危険な面もある。「ダスベーダー」は「ハート」を欠いているために、ダークサイトに落ちた。
 このときの「ハート」というのは、もう少し説明がいるだろう。たぶん、「愛」と言い直せばわかりやすくなる。そこには「憎しみ」は入っていない。私は単純な人間だから愛も憎しみも「こころ」の動きだと思うが、英語の感覚(ディズニーの感覚?)では「ハート」は「愛」なのだ。
 それを象徴するの「論理」と「シーン」が最後に二つ用意されている。ダスベーダーの親分(?)、パルパティーンが出てきて、レイに対して「俺を殺せ、憎んで殺せ。そうすればお前はダークサイトに落ちる。暗黒の支配者になれる」というようなことを言う。「憎しみ」がダークサイトにつながっている。「殺し」はどうしたって、どこかに「憎しみ」を含む。
 じゃあ、どうやって、その「縁」を断ち切るか。パルパティーンが繰り出す雷光のようなものを、レイはライトセーバーを十字に組み合わせて(キリストだね、笑ってしまうけれど)、その中心で反射させてしまう。パルパティーンはみずからの憎しみ(怒り)の「反射」で死んでしまう。レイはその死に直接関与していない。(詭弁だね。)だから、レイはダークサイトには落ちない。
 さらにパルパティーンとの闘いで死んでしまったレイをカイロ・レン(アダム・ドライバー)が自分のいのちを吹き込むことでよみがえらせる。キスシーンもある。これが「愛」。いかにもディズニーである。
 で、これを「ふたり」の物語ではなく、宇宙の物語にする。そのとき映画の最初につかわれていたことば「共生」がよみがえる。「愛とは共生である」。
 まあ、いいんだけれどね。映画だから。でも、映画だからこそ、「愛」とか「共生」なんてものはぶっ壊して「ダークな力」のなまなましさを展開して見せるというあり方もあっていいんじゃないかねえ。「ジョーカー」がそうであったように。だいたい、第一作の「スターウォーズ」がヒットしたのは、なんといってもダスベーダーの力だな。何だかわからない(セリフなんか聞こえない、息づかいだけ)けど、かっこいい。誰も傷つけない「共生」の世界は、理想かもしれないけれど、味気ないと思うよ。
 映画が「論理」になってしまっては、映画の意味がない。
 それにしても、42年前とは違って映画制作技術はどんどん発達しているか、宇宙船がやたらと出てくる。うるさすぎて、おもしろくない。もっと省略しても「量」を感じさせるのでないと、なんだか逆に「手抜き」に見えてしまう。工夫が足りない。それもつまらない理由だな。「おもちゃ」が減ったのもつまらないね。
 でも、まあ、これで「スターウォーズ」を見なくてすむと思うと一安心。「サイドストーリー」はこれからもつくられるだろうけれど。

(2019年12月20日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン13)
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山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(2)

2019-12-20 21:01:21 | 詩集
山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(2) (「博物誌」43、2019年12月15日発行)

 「双子の姉妹/事実/現実」と「ふたごのしまい/ことば」の発見は「災厄」と呼べるかもしれない。「災厄」の意味も知らずに、私はそのことばをつかうのだけれど。「09災厄な日」という詩があるので。

男の口元からひとつながりのことばがず
るずると吐き出されてひものようにこち
らに伸びてくるその先が女の耳の穴から
するすると入り込んでいくそうして午後
の長くなった日差しの角度に合わせるよ
うに整えられてこんや災厄な日を閉じよ
うとしている

 「災厄」というのは、きっと面倒なものなのだと思う。そこで起きていることにつきあうのが面倒ということだけれど。できるなら、かかわりあいになりたくない。と、テキトウに考えておくのだが、それは「災厄」がきっと「結論」のようにして書かれているからだろう。「結論」などどうでもいい。
 「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」にひきもどして言えば、「男のことば」が「双子の姉妹」であり、「女の耳の穴」から入り込んだのが「ふたごのしまい」だろう。そこには「男と女」「口(元)と耳(の穴)」「ずるずるとするする」の対比がある。対比(組)になることで、「現実」が生まれてくる。「受け入れる」ものがあって、「吐き出されたもの」が「かたち」になる。この「かたち」を「現実」と呼べば、「もの」と「ことば」の関係に落ち着く。どんな「ことば」もそれを「受け入れてくるもの」がないと単なる「概念」にすぎなくなる。「現実」にはなれない。(逆に言うこともできるかもしれない。)
 で、この対比というのか、結びつきというのか、現実化というのか、よくわからないが、そういう「運動」を山本は「合わせる」「整える」という動詞で考えている。私は前の「日記」で「もの」が「ことば」を壊していく運動があると書いたのだけれど、「09」では一歩踏みとどまって、「合わせ/整える」。それをさらに「閉じる」と言い直す。
 「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の関係を「一致」させ、世界を閉じる。乱れないようにする。
 そうすると安定する。
 ここから逆に、詩とは、閉じられていない世界、完結していない世界と読み直せば、「災厄」が詩ということになるかもしれない。「もの/現実」にとっての「災厄」なのか、「ことば」にとっての「災厄」なのかははっきりしないが、詩(ことばにならないもの)が存在していては、たしかに面倒くさい。だから、そういう面倒を「閉じて」しまう。
 それが日常というものかもしれない。
 でも、日常は同時に、その「閉じた世界」をこじ開けたがる。こじ開けたいと思う人の欲望で動いている。

11ビジネスホテルに残された紙片

二階建てのそのビジネスホテルは戦後まもなく建てられた
ものだが固定客がいるらしくいまもそのままの姿で営業を
つづけていたそのホテルの三階の一室で自死した男がいてた
ぶん太い鉛筆で書き込まれたであろうと思われる一枚の紙
片が残されていたそれは鏡のような光沢をもち金属の気配
を放っていた若い検死官はその表面が無数のことばの重な
りによってできていることを静かに指摘したふちの部分に
文字のような痕跡がかすかにずれて見えていたからである
その黒光りした紙片には書かれたことばたちがその暗黒か
ら一文字も逃れ出ることができなかった証のようにそこに
引きとめられていた

 「ことば(文字)」が重ねて書かれたために、一面に真っ黒になった紙。しかしよく見ると「ふち」のあたりに「ずれ」が見える。「ずれ」の発見が「ことば」を誘い出す。「ずれ/差異」を消すために重ねられたはずなのに、どうしても「ずれ」はあらわれてしまう。残ってしまう。
 「論理」(結論)は閉じているようであっても、かならずどこかに破綻を隠している(開かれている)ということか。
 そう読むと、つまらない「論理」になってしまう。
 この詩では、そんなものは無視して、太い鉛筆でひたすら紙を真っ黒にしていく男を思い描き、同時に紙の真っ黒な光沢を「目」で見ることが大切だ。こどものとき、やったでしょ? どこまで黒くなるか。それだけを目指して画用紙のかすかな凹凸を鍛えなおすようにして平らにし、鉛筆だけで黒光りさせたことが。手を真っ黒にして、画用紙の黒い光沢を自慢したことが。まさに「鏡」のように光るのだ。あのとき、ただ真っ黒にするという衝動、欲望を支えていたのは、「ことば以前のことば」だったのかもしれない。こどもだから「ことば以前のことば」で欲望を満たすことができたが、大人になってしまうと「ことば(文字/意味)」が欲望を満たすというより破壊してしまうのか。ややこしいことは考えずに「ずれ」があるのだ、「現実/双子の姉妹」と「ことば/ふたごのしまい」の間には、どうすることもできない「ずれ」が残るのだと思うだけにしておく。
 「二階建て」なのに「三階の一室」というのは、間違いなのか、わざとの「ずれ」なのかということは、私は考えない。それを考えていたら、せっかくの「黒光り」の迫力がなくなる。
 「ずれ」は「12割烹恩の時の憂鬱」では、こう展開する。

男はいつもカウンター席の一番左端に座ったそのカウン
ターの角のところにはめられた板の「奥」にことばが刻
まれていたそのことばが読み取れず目をこすり見なお
してみたがその刻み込まれたことばの意味は降りてこな
かった不思議なことがあるものだと男はランチを食べ
ながらもそのことばが気になった読めなければそのこ
とばは刻まれたモノの気配だけでそこにあることにな
るのだなあ

 「ことば(文字)」が読めなければ、それは「モノの気配だけでそこにあることになる」。
 おおおっ、おおおっ、おおおっ。
 そうすると、なんだろうか、あの「黒光りの紙片」は、「自殺した人間の気配だけでそこにあることになる」のか。そのときの「気配」は「自殺」に重心があるのか、「人間」に重心があるのか。「自殺」だとしたら、悩む男の側に重心があるのか、追い込んだ側に重心があるのか。手がかりは、「ずれ」の中にある「文字(ことば)」だろうけれど、それは誰にも読み取れないのだ。読み取れないから「モノの気配」になってしまうのだが、「そこにある」を「あることになる」と畳みかけていく、この感じが「双子の姉妹」から「ふたごのしまい」への「ずれ」のようでおもしろい。
 「ふたごのしまい」は、ほんとうに「そこにある」のか、山本が書くことによって「あることになる」のか。これは確実に、後者である。やまもとが書かなかったら「ふたごのしまい」が「その姿から少し離れたところに」「浮かんでいる」ことには「ならない」。山本が書いたから「ひっそりとゆれながら浮かんでいる」ことに「なる」のだ。山本のことばは事実を生み出した。「生まれる」は「なる」でもある。
 で、こんなふうに「双子の姉妹/ふたごのしまい」を持ち出してくると、山本がやっていることが「双子の姉妹」を借りて「ふたごのしまい」の中へ侵入し、ことばを破壊し、「もの」として生まれ変わるということが、なんとなくわかると思う。
 「ふたごのしまい」で「双子の姉妹」を整えるのではない。「ふたごのしまい」を「双子の姉妹」で叩き壊して「モノ」(生身の人間/誰にも属さない、ひとり)を、まるで未熟児のように、不気味に、現実にさらけだすのだ。手も足も顔も定かではない。けれど「胎児の気配」はある。
 おおおっ、おおおっ、おおおっ。
 そう叫ぶしかないではない。

 このあと、どうするか。「13焼鳥屋のオヤジ」の最後は強烈である。

するとオヤジの曲がった背中のコブのようなところにことばが固まってはりついて
いるような気がしてきたそれをうしろからべりっとはがしてやりたい欲望がわいて
きて男は指や腕の筋肉が緊張し始めるのを感じた

 ああ、この暴力の快感。「肉体」はいつでも「ことば」を破壊したくてしようがない。 そのとき「ことば」は壊れるだけではない。「ことば」は仕返しのようにして「肉体」の表面を引き剥がす。「肉体」もむき出しというかたちで壊れる。「肉体以前の肉体」という「もの」としてむき出しになる。
 詩だ。
 「むき出しの肉体」と「むき出しのことば」が戦う場が詩だ。






*

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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

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stoy loco por espana (番外42)Soy un refugiado.

2019-12-20 08:59:08 | estoy loco por espana

la obra de Luciano Gonzalez Dias

Soy un refugiado

En un naufragio, un refugiado llega a mi ciudad.
Yo soy un naufragio y un refugiado.
Cuando reconozco el barco como un naufragio, me convierto en un naufragio.
Cuando reconozco a esa persona como refugiada, me convierto en ella.
Soy yo quien queda excluido, cuando ignoro los naufragios y no acepto a los refugiados.
Nadie se da cuenta ahora. Nadie se da cuenta ahora.
Te daras cuento de que seas expulsado de tu hogar y seas dsterado al naufragio.

Soy un refugiado.
El mundo soy yo.

難破船に乗って難民がやってくる。
難破船も難民も、私である。
その船を難破船と認めるとき、私は難破船になる。
そのひとを難民と認めるとき、私は難民になる。
難破船を排除し、難民を排除するとき、排除されるのは私だ。
いまはだれも気づかない。いまはだれも気づかない。
やがて自分の場所を追われ、難破船に、難民に追いやられるときに気づく。
乗る船が難破船だと気づいたときに、やっとわかる。
私は難民だと。
世界は私だと。
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