山本育夫書き下ろし詩集『ことばの薄日』十八篇(2) (「博物誌」43、2019年12月15日発行)
「双子の姉妹/事実/現実」と「ふたごのしまい/ことば」の発見は「災厄」と呼べるかもしれない。「災厄」の意味も知らずに、私はそのことばをつかうのだけれど。「09災厄な日」という詩があるので。
男の口元からひとつながりのことばがず
るずると吐き出されてひものようにこち
らに伸びてくるその先が女の耳の穴から
するすると入り込んでいくそうして午後
の長くなった日差しの角度に合わせるよ
うに整えられてこんや災厄な日を閉じよ
うとしている
「災厄」というのは、きっと面倒なものなのだと思う。そこで起きていることにつきあうのが面倒ということだけれど。できるなら、かかわりあいになりたくない。と、テキトウに考えておくのだが、それは「災厄」がきっと「結論」のようにして書かれているからだろう。「結論」などどうでもいい。
「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」にひきもどして言えば、「男のことば」が「双子の姉妹」であり、「女の耳の穴」から入り込んだのが「ふたごのしまい」だろう。そこには「男と女」「口(元)と耳(の穴)」「ずるずるとするする」の対比がある。対比(組)になることで、「現実」が生まれてくる。「受け入れる」ものがあって、「吐き出されたもの」が「かたち」になる。この「かたち」を「現実」と呼べば、「もの」と「ことば」の関係に落ち着く。どんな「ことば」もそれを「受け入れてくるもの」がないと単なる「概念」にすぎなくなる。「現実」にはなれない。(逆に言うこともできるかもしれない。)
で、この対比というのか、結びつきというのか、現実化というのか、よくわからないが、そういう「運動」を山本は「合わせる」「整える」という動詞で考えている。私は前の「日記」で「もの」が「ことば」を壊していく運動があると書いたのだけれど、「09」では一歩踏みとどまって、「合わせ/整える」。それをさらに「閉じる」と言い直す。
「双子の姉妹」と「ふたごのしまい」の関係を「一致」させ、世界を閉じる。乱れないようにする。
そうすると安定する。
ここから逆に、詩とは、閉じられていない世界、完結していない世界と読み直せば、「災厄」が詩ということになるかもしれない。「もの/現実」にとっての「災厄」なのか、「ことば」にとっての「災厄」なのかははっきりしないが、詩(ことばにならないもの)が存在していては、たしかに面倒くさい。だから、そういう面倒を「閉じて」しまう。
それが日常というものかもしれない。
でも、日常は同時に、その「閉じた世界」をこじ開けたがる。こじ開けたいと思う人の欲望で動いている。
11ビジネスホテルに残された紙片
二階建てのそのビジネスホテルは戦後まもなく建てられた
ものだが固定客がいるらしくいまもそのままの姿で営業を
つづけていたそのホテルの三階の一室で自死した男がいてた
ぶん太い鉛筆で書き込まれたであろうと思われる一枚の紙
片が残されていたそれは鏡のような光沢をもち金属の気配
を放っていた若い検死官はその表面が無数のことばの重な
りによってできていることを静かに指摘したふちの部分に
文字のような痕跡がかすかにずれて見えていたからである
その黒光りした紙片には書かれたことばたちがその暗黒か
ら一文字も逃れ出ることができなかった証のようにそこに
引きとめられていた
「ことば(文字)」が重ねて書かれたために、一面に真っ黒になった紙。しかしよく見ると「ふち」のあたりに「ずれ」が見える。「ずれ」の発見が「ことば」を誘い出す。「ずれ/差異」を消すために重ねられたはずなのに、どうしても「ずれ」はあらわれてしまう。残ってしまう。
「論理」(結論)は閉じているようであっても、かならずどこかに破綻を隠している(開かれている)ということか。
そう読むと、つまらない「論理」になってしまう。
この詩では、そんなものは無視して、太い鉛筆でひたすら紙を真っ黒にしていく男を思い描き、同時に紙の真っ黒な光沢を「目」で見ることが大切だ。こどものとき、やったでしょ? どこまで黒くなるか。それだけを目指して画用紙のかすかな凹凸を鍛えなおすようにして平らにし、鉛筆だけで黒光りさせたことが。手を真っ黒にして、画用紙の黒い光沢を自慢したことが。まさに「鏡」のように光るのだ。あのとき、ただ真っ黒にするという衝動、欲望を支えていたのは、「ことば以前のことば」だったのかもしれない。こどもだから「ことば以前のことば」で欲望を満たすことができたが、大人になってしまうと「ことば(文字/意味)」が欲望を満たすというより破壊してしまうのか。ややこしいことは考えずに「ずれ」があるのだ、「現実/双子の姉妹」と「ことば/ふたごのしまい」の間には、どうすることもできない「ずれ」が残るのだと思うだけにしておく。
「二階建て」なのに「三階の一室」というのは、間違いなのか、わざとの「ずれ」なのかということは、私は考えない。それを考えていたら、せっかくの「黒光り」の迫力がなくなる。
「ずれ」は「12割烹恩の時の憂鬱」では、こう展開する。
男はいつもカウンター席の一番左端に座ったそのカウン
ターの角のところにはめられた板の「奥」にことばが刻
まれていたそのことばが読み取れず目をこすり見なお
してみたがその刻み込まれたことばの意味は降りてこな
かった不思議なことがあるものだと男はランチを食べ
ながらもそのことばが気になった読めなければそのこ
とばは刻まれたモノの気配だけでそこにあることにな
るのだなあ
「ことば(文字)」が読めなければ、それは「モノの気配だけでそこにあることになる」。
おおおっ、おおおっ、おおおっ。
そうすると、なんだろうか、あの「黒光りの紙片」は、「自殺した人間の気配だけでそこにあることになる」のか。そのときの「気配」は「自殺」に重心があるのか、「人間」に重心があるのか。「自殺」だとしたら、悩む男の側に重心があるのか、追い込んだ側に重心があるのか。手がかりは、「ずれ」の中にある「文字(ことば)」だろうけれど、それは誰にも読み取れないのだ。読み取れないから「モノの気配」になってしまうのだが、「そこにある」を「あることになる」と畳みかけていく、この感じが「双子の姉妹」から「ふたごのしまい」への「ずれ」のようでおもしろい。
「ふたごのしまい」は、ほんとうに「そこにある」のか、山本が書くことによって「あることになる」のか。これは確実に、後者である。やまもとが書かなかったら「ふたごのしまい」が「その姿から少し離れたところに」「浮かんでいる」ことには「ならない」。山本が書いたから「ひっそりとゆれながら浮かんでいる」ことに「なる」のだ。山本のことばは事実を生み出した。「生まれる」は「なる」でもある。
で、こんなふうに「双子の姉妹/ふたごのしまい」を持ち出してくると、山本がやっていることが「双子の姉妹」を借りて「ふたごのしまい」の中へ侵入し、ことばを破壊し、「もの」として生まれ変わるということが、なんとなくわかると思う。
「ふたごのしまい」で「双子の姉妹」を整えるのではない。「ふたごのしまい」を「双子の姉妹」で叩き壊して「モノ」(生身の人間/誰にも属さない、ひとり)を、まるで未熟児のように、不気味に、現実にさらけだすのだ。手も足も顔も定かではない。けれど「胎児の気配」はある。
おおおっ、おおおっ、おおおっ。
そう叫ぶしかないではない。
このあと、どうするか。「13焼鳥屋のオヤジ」の最後は強烈である。
するとオヤジの曲がった背中のコブのようなところにことばが固まってはりついて
いるような気がしてきたそれをうしろからべりっとはがしてやりたい欲望がわいて
きて男は指や腕の筋肉が緊張し始めるのを感じた
ああ、この暴力の快感。「肉体」はいつでも「ことば」を破壊したくてしようがない。 そのとき「ことば」は壊れるだけではない。「ことば」は仕返しのようにして「肉体」の表面を引き剥がす。「肉体」もむき出しというかたちで壊れる。「肉体以前の肉体」という「もの」としてむき出しになる。
詩だ。
「むき出しの肉体」と「むき出しのことば」が戦う場が詩だ。
*
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