詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井喬子『岩根し枕ける』

2012-06-30 10:55:10 | 詩集
三井喬子『岩根し枕ける』(「思潮社」2012年06月30日発行)

 三井喬子『岩根し枕ける』は、タイトルがふたつあるような作品群で構成されているが、タイトルがひとつしかない巻頭の「水」の最初の部分がおもしろい。

水、
わたしが生まれたその町の
はずれの小川の
春の水
柳の新芽の柔らかな命

 「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」が並列でおかれている。「春の水」と「柳の新芽の柔らかな命」がそのとき一体になるのだが、この一体、融合が「動詞」を仲介にしていないところが、とてもおもしろい。「動詞」があれば、たぶん、「水」は「柳」と対応しているのか、「新芽」と対応しているのか、あるいは「柔らかな」か、それとも「命」か、あることばに焦点がしぼりこまれると思うのだけれど、「動詞」がないので、どのことばと結びつけて考えるかは読者に任される。(学校文法的な意味では、最後の「命」だろうけれど。)
 この感じは2連目で補足される。

水、ゆるゆると動き出す春の匂い
受胎する夜のために
解きほぐされる畑
まぶしい期待が満ち
野はふるえる
水よ 水!

 「動詞」があふれる。氾濫する。
 「動き出す」「受胎する」「解きほぐす」「満ち(る)」「ふるえる」--これは、すべて1連目の「春の水/柳の新芽の柔らかな命」という2行のことばのなかに隠されている「動詞」である。
 隠れていた動詞を春の雪解け水のようにあふれさせている。
 それが三井にとっての「いのち」というものなのだろう。
 「動き出す」と「受胎する」は紋とちがう言い方があると思うけれど、ことばと肉体がまだ動きはじめたばかりでうまくなじめず(?)、ことばが肉体をひっぱる形で動いてしまうのだろう。
 「解きほぐす」と「満ちる」というのは、一見、矛盾した動詞のようにも見える。というのは、「解きほぐ」されるまえの「もの」は硬く結びついている。それがぼどかれるとき、「もの」は水平に広がる。これは、「もの」の嵩が小さくなるという印象がどこかに残る。そのため、えっ、「解きほぐされて、満ちるのか……」と思うのだけれど、すぐ、そうか解きほぐされたものは水平にどこまでも広がり、その広さを覆っていく。だから、「満ちる」か、と納得できる。解きほぐされ、どこまでもどこまでも「満ち」潮のように広がる「もの」。その「もの」たちは、「もの」自身の、固く結ばれていた状態から自由になって「ふるえる」。ふるえている。
 それが「いのち」といえば、「いのち」だろう。
 ほーっと、溜息がもれる。
 美しい光景だなあ、と思う。
 「ゆるゆる」も私の肉体には自然に響いてくる。「まぶしい」も明るくていいなあと思う。
 「ふるえる」がひらがななのもとてもいい。
 ただ、その印象が、後半、がらりと変わってしまう。
 三井の書きたいのは、私がいま引用した部分の行、そのことばが乱反射させる「いのち」ではなく、どうも死んでしまった「命」らしい。その「命」を掘り起こし、揺さぶり、いま/ここを突き動かすものとして利用する--というのが詩集全体のテーマにつながっていく。
 うーん。
 だとすれば(なにが、だとすればなのか、論理が乱れているね)。
 最初の「いのち」の描き方は、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。まあ、これは私の「感覚の意見」というもの。

すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭い

 「暗い水」(聖運河)、あるいは「聖運河/暗い水」の冒頭である。
 学校文法では、たぶん

すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭くなる

 「臭い」ではなく「臭くなる」、「なる」がないと、「捨てたままにしておくと」という「時間」が生きてこない。
 まあ、それは詩だからどうでもいいことなんだけれど--実は、ここが詩のポイントなんだなあ。
 「記憶(主語)」は「臭くなる(述語)」、「記憶」は「臭い(述語)」は似ているようでも、違う。特に、間に「捨てたままにしておくと」が入ると、それは完全に違う。
だれかが(主語--私がでもいい)、記憶を(補語)捨てたままにしておくと、記憶は(主語--重複するので省略されるのが一般的)臭くなり、私は(冒頭の主語)それを臭いと感じる。
 主語が「記憶」と「私」とふたつある。そして、そのふたつが「臭い」という述語のなかで結びつき、その結びつきのなかに「感じる」という肉体(感覚)が入り込んでくる。感覚をとおして、「対象(もの、この詩の場合、記憶)」は「私(と、仮に呼んでおく)」が融合する。あるいは、「肉体」が解きほどかれて、対象と混じり合う。
 こういう肉体があいまいになる一瞬(それは肉体が対象に覆いかぶさり、飲み込み、消化する一瞬と言ってもいいのかもしれない--私は時と場合に応じて、その両方を適当につかいわけているといういいかげんな態度だけれど)、
 いろんなことを「誤読」したくなる。
 つまり、そこから考えたくなる。
 で、そういう一瞬が、私はとてもとても好きなのだけれど……。

 これは、好みの問題になってしまうのかなあ、と思うのだけれど。そういう一種の幸福な瞬間のあと、私は、三井のことばに、しばしばつまずいてしまう。

すべて記憶というものは
捨てたままにしておくと臭くなる
埋めるか沈めるかが手っ取り早い
水の底には暗い墓場があって
男が沈められたのはそんな理由からで
身元を詮索するのはやめてください

 「物語」が入ってくる。「そんな理由」の「そんな」は「埋めるか沈めるかが手っ取り早い」という理由。その説明が「物語」の入り口で、「身元を詮索するのはやめてください」の「詮索する」がストーリーの展開ということになる。
 そういう「枠」を利用してことばが動きはじめると、そのときから、あの「肉体と対象の融合」が消えてしまって、何やら「構造物」のようなものが動きはじめる。そこには「肉体」はない。

とても長いあいだかかったが
骨だけになったよ骨だけには

ときおり大きな声や小さな声で呼んでみたが
返事がないのは 声が<肉>に属するからだろうか
紐が太い頸部を圧迫したとき
発されたのは
声だったろうか音だったろうか
質問に答えず
白骨はつらねられて横たわっている

 「声が<肉>に属するからだろうか」はとても魅力的なことばだが、「属する」ということばは「頭」のことばであって、「肉体」のことばではないし(と、私は思う)、「紐が太い頸部を圧迫したとき」というのは、首を絞められたということをわざわざ複雑に言っただけの--そして,その「わざわざ」に「物語」への指向が強く反映しているのだけれど--いやあなことばだ。

 私には、どうも三井のやっていることは、三井の感覚を裏切っているように思える。「物語」を捨てると、肉体自体の物語が始まると思う。そこからが三井の詩なのではないか、という予感があって、それにじゃまされて(?)、どうにも読みながら違和感を感じてしまうのである。
 これは、またしても私の「感覚の意見」。
 うまく説明できないんだけれどねえ……。



紅の小箱
三井 喬子
思潮社
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山田由紀乃「「で」でも「が」でも」ほか

2012-06-29 07:35:11 | 現代詩講座
山田由紀乃「「で」でも「が」でも」ほか(現代詩講座@ リードカフェ、2012年06月27日)

 ことばは、突然、発見される。でも、ほんとうは突然ではない、ということがわかる。山田由紀乃「「で」でも「が」でも」を読む。

いつもは二人掛けに座る
ゆったりペース
それが楽しみなJRだ

その席の隣が埋まった
骨太の男が座ったので
突然きゅうくつ
同じ姿勢でいるわたしてのに
きゅっと小さく縮んでしまう

男は体中の骨に居場所を与えようと
首 肩 腕 背骨 腰 脚と
びくびく動かし
落ち着き先を探している

気になる
ヒザノ開閉
小刻みに揺する足
手のひらを体中にこすりつける

「お留守番頼むね」
「わっかりました」
と答えたのはテレビの九官鳥
「また出かけるのか」
とこたえたのは家(うち)のおとこ

ご飯がいいか パンがいいか
パンでいいとおとこが言う
「でじゃなくてがといって」
おんなは言葉を叩き固めて出て来たが

こんなに窮屈なら
「で」でも「が」でも
家の男と出かけたらよかったなあ

ででもがでもない男
骨均(ほねなら)しを終えたひろばの
なかにいる

 「骨均(ほねなら)し」ということばは初めて聞く。山田さんの造語だという。でも、「意味」はわかるなあ。
 では、なぜ,その意味がわかったのか。わかったと、勝手に思い込むのか。
 3連目に「居場所」ということばが出てくる。山田さんは、「居場所」をしっかり守っている。「居場所」というのは、別のことばで言えば「落ち着き先」である。
 ふつうなら(いつもなら)二人掛けの椅子に座っているのに、隣に男が座ったために「居場所」が窮屈になる。「落ち着き先」が定まらず、窮屈に感じる。
 そういう思いを無視して、隣り男は自分の「居場所」を整える。骨をぼきぼき鳴らして(?)、凝りをほぐして、それぞれの骨を、それぞれの「落ち着き先」に落ち着かせ、体の緊張をほどく。そうして、体全体の調子を均(なら)す。
 ああ、こんなわがままな、自分勝手な男によって、私の席が窮屈になるなら、ふまんがあれこれあるけれど、家の男といっしょの方がよかったかもしれない。なぜって、ほら、わたしの「居場所」がはっきりする。わたしの「落ち着き先」がはっきりしている。
 ことばにこだわり、「パンでいい」じゃなくて「パンがいい」と言いなさい--と叱り飛ばせる。それが、山田さんの、わたしと家の男の位置関係(居場所、落ち着き先)である。
 そんなふうにがみがみ(?)いうのは、まあ、男が「骨均し」しているのだとすれば、山田さんは「関係均し」をしているということになるのだろう。
 人はだれでも、自分の「居場所」(落ち着き先)を、自分の都合のいいように「均す」ということを自然に身につけるものである。
 そうして、そういうことを「肉体」で覚えて、それをそのまま動かすと「骨均し」という造語も、なんとも自然な感じに落ち着く。
 とても幸福なことばの誕生の瞬間である。



 福間明子「豆の種を蒔く」。

両手を広げる形の半島の突端では
今も変わらず祈りのような淋しい雨が降るのだ
そこでは想いだけが煩わしくはためいているが

 この3行の、2行目と3行目がとても美しい。
 人はだれでも何かを言おうとして、言い切れないものを自分の「肉体」のなかに残してしまう。そうして、その「肉体」のなかに残ったものをなんとかしてもう一度外に出す。山田さんの詩では「居場所」が「落ち着き先」と言いなおされて、「肉体」のなかに取り残されたものが外に出ることができた。
 福間さんの作品では「淋しい雨」の「淋しい」が「想いだけが煩わしくはためいている」と言いなおされている。これは、肉体の深い部分を刺激するとてもいい表現だ。「淋しさ」のなかには「煩わしい」ものがたしかにあると思う。「淋しさ」は「煩わしさ」だと思う。「想い」の「ざわめき」。想いの「居場所」(落ち着き先)がはっきりしないとき、人は淋しい。
 山田さんの詩と福間さんの詩には関係はないのだが、いっしょに読むと、そういうことを感じる。
 ひとりで詩を読んでいるときは、まあ、こういう出合いはない。たまたまいっしょに二人の作品を読むという時間があったから、そこで二人のことばが出会って、私のなかでそういう「誤読」を誘う。
 ひとといっしょに詩を読むというのは、案外、おもしろいものがあるものだと思った。


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田島安江「ゾウガメ」

2012-06-28 12:03:24 | 現代詩講座
田島安江「ゾウガメ」(現代詩講座@ リードカフェ、2012年06月27日)

 「思想」はどこにあるか--というのは、なかなか難しい問題だけれど、私はおおげさなことばではなく、小さなことば、無意識のことばのなかに、思想を探すのが好きだ。
 田島安江「ゾウガメ」は、月に一回、カフェで開いている「現代詩講座」のときの作品。


朝目覚めると枕元にカメがいた
わたしをうかがうようにじっとみつめている
たしかに突然だったけれど
どういうわけか
わたしはその大きなカメがそこにいることに
なんの違和感も覚えなかった

あたふたと起きだし洋服を着て
洗面所の鏡の前に立つと
鏡の奥に
ちらっと歩いていくカメの姿が見えたけれど
振り向いたときにはもう姿はなかった
いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
ああすぐに帰ってくるのだなあと思った

夜のニュースでこの地球上に生息する
最後のゾウガメが死んだことを知った
ガラパゴスという
南の島にいたのだ
地球上でたった一人になったゾウダメ
「ロンサム・ジョージ」という名前をもらって
最後までただひとりで生きた
彼はもう
だれにも会えないとわかっていたにちがいない

あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの
眼がわたしのなかで消えない

 出席者の感想は、
 「読んで胸がきゅんとした」
 「1連目、突然、カメが出でくる。それが好き」
 「発想がいい」
 「タイトルはゾウガメだけれど、最初はカメということばで登場するのがいい」
 というような感じだった。
 田島さんは、「この詩はスケッチで、まだ作品としては完成していない云々」のような発言をした。特に3連目「夜のニュースでこの地球上に生息する/最後のゾウガメが死んだことを知った」が事実をそのまま書いているので、不満を持っている(?)、「書いていいかどうか悩んだ」というようなことを言った。
 これに対しては、
 「すっきりしていて読みやすい」
 「3連目の2行が特に問題だとは思わない」

 私の第一印象は、ことばの運びにむりがなく、とてもスムーズで読みやすく、なおかつ印象が鮮烈と感じた。とてもいい作品だと思った。
 で、「いいね、いいね」だけでは、詩がどこにあるのか、どのことばに注目すれば、この詩の印象がより強く胸に刻まれるのか--ということに焦点をしぼって作品を読み直してみた。

 この作品で私が取り上げたことばは1連目の「なんの違和感も覚えなかった」の「なんの」である。
 ほかにも、「じっとみつめる」の「じっと」、「たしかに突然」の「たしかに」など、無造作に書かれたことばがある。田島さんが「スケッチ」と呼んでいるのは、そういう無造作の部分、詩的操作(?)がほどこされていないことばがたくさんあるという思いのためだと感じた。
 そして、この無造作のことばのなかでも、特に無造作なのが、「なんの」だと私は感じた。そこで、質問。

質問  「なんの」を自分のことばでいいなおすと、どうなる?

 というのは、ちょっと意地悪すぎたようで、答えが出てこなかった。書いた田島さんも、まさかそんなことばがこの作品のなかで取り上げられるとは思っていなかったようだ。

質問  ちょっと質問の仕方をかえますね。
    「なんの」に対応することばを、この詩のなかから探すと、どこかにない?
受講生 「いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
    ああすぐに帰ってくるのだなあと思った」かなあ。

 私も、そう思う。
 (このあと、私はちょおしたミスをしてしまった。回答が期待通りの部分に触れたので、そのあとさらに質問して、受講生の読みが進むのをまつ--というのではなく、私が喋りすぎた。で、そのしゃべりすぎたというのは……)
 「いつも」と同じだったから、「違和感」がなかった。単に違和感がないのではなく、「いつも」と同じだから、「なんの」という一種の強調形(違和感を修飾することば)がついてしまった。
 「いつも」というのは、繰り返し。繰り返しのなかには、いま見た一瞬のできごとではなく、それから先のことも含まれる。連続する日常の時間が含まれる。
 この詩の場合、「ああすぐに帰ってくるのだなあと思った」の「すぐに」帰ってくるが、繰り返しの日常、繰り返しの「未来」である。
 いつもは、出でいってもすぐに帰ってくる。このすぐには、まあ、その日のうちにくらいの意味だろう。どこかへ行きっぱなしになるというわけではないというくらいの意味だろう。
 そういう暮らしに田島さんは「違和感」を感じていない。
 その「違和感」のなさと、カメがいるということに対する「違和感」のなさがつながっている。
 ある一瞬のできごと(カメをいる、と気づいたこと)を、一瞬ではなく、暮らしの繰り返される時間のなかにおいてみると、それは「いつも」の風景のように感じられる。
 田島さんは、「いつも」何かを、その一瞬ではなく、暮らしのなかの時間においてみつめなおす、とらえなおすという詩人なのだ。田島さんのことばの肉体は、暮らしのなかの時間をとおり、「いま」だけではなく、それを「未来」「過去」と結びつけながら消化していく。田島さん自身の肉体がそういう構造(?)を生きているということだろう。
 そういうことが、この「なんの」という何気ないことばのなかに見える。

 「なんの」は田島さんが意識して書いたことばではない。無意識に書いたことばである。そして、そういうことばは、往々にして「意味」がない。たとえば、「なんの違和感がなかった」から「なんの」を省略しても、この1行のもっている「意味」はかわらない。「なんの」には「意味」が付加されていない。
 しかし、だからこそ大切。
 そこには「意味」にできない田島さんの「肉体」そのものが関係している。「なんの」は田島さんの肉体そのものなのである。思想そのものなのである。「いま」を「過去-いま-未来」と結びつけてとらえる生き方が田島さんそのものになっていることを告げる重要なことばなのである。

 「過去-いま-未来」。そういう時間のなかに、たとえば3連目の「名前をもらって」ということばが入ってくる。「名前をもらった」過去が浮かび上がり、同時に、ある存在に「名前をつける」という行為の時間が深くかかわってくる。「名前」をつけるのは、その対象が特別な存在だからである。
 たとえば近くの公園にいるカメの一匹一匹にだれも名前をつけない。「名前」をつける瞬間から、私たちはその存在と親密にかかわり、その存在の未来をも自分の未来と結びつけて見てしまうものである。
 「ロンサム・ジョージ」と名前をつけたとき、ひとはそのカメの孤独ないまだけを見ているわけではない。「なんの」意識もないまま、つまり無意識のまま、それがどうなるかを見てしまっている。「無意識」とは、そこに意識が存在しないというのではなく、意識として意識されないというだけで、ほんとうは存在している。意識として意識されないというのは、意識が意識の領域にあるのではなく、「肉体」の領域に入りこみ、「肉体」に隠れている--見えなくなっているというだけのことである。
 「ロンサム・ジョージ」という名前をもらったとき、カメにその未来(だれにも会えない)がわかっているように、名前をつけた人にもそれがわかっている。
 名前をつけられたもの-名前をつけた人。そこでは「未来」が共有されている。そのことに私たちは「なんの違和感」も覚えないまま、そのことばを読んでしまう。
 だから、そこで、立ち止まって、そのことばを読み直す。--あるいは、私の大好きな表現でいえば「誤読」しなおす。
 そのとき、詩は動く。

 「未来」が共有されたあと、では、ひとは(詩人は)どうなるか。

あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの
眼がわたしのなかで消えない

 「まっすぐにわたしを見たカメ」は「わたし」になってしまう。そのカメの「眼がわたしのなかで消えない」のは、「わたし」がカメになったしまったからである。
 カメとわたしは同じ存在--区別できない存在になった。
 カメがわたしであり、わたしがカメなのだから、「カメがあらわれなくなった」というのは当然のことであり、また「カメの/眼」が私のなかにある、というのも当然のことなのである。

 ことばを動かすと、人はそれまでの人ではなくなる。ことばを書くまえと書いたあとでは、人は違ってしまう。そして、その変化に、書いた人は「なんの違和感も覚えない」のがふつうである。自分の肉体のなかで無意識として存在しているものが、無意識のまま動いただけなのだから。
 でも、そういう運動をみると、人は(私は)感動する。
 で、その「無意識」の部分をさぐっていく。そうして、そこに肉体をつかまえる。そうすると、うれしくなる。
 この講座のとき、田島さんは私の隣に座っていて、私の言っていること、そのひとことひとことに驚いていた。私のことばの肉体が、田島さんのことばの肉体に触れて、そのために田島さんのことばの肉体がびっくりすると同時に、田島さんの肉体そのものも(無意識も)驚いている。
 --これって、ことばのセックスです。
 と書いてしまうと、まあ、セクハラ(セックスの強要?)になるのかなあ。
 でも、まあ、私が詩を読むときやっているのは、そういうことです。
 どこに触ると、どうことばが反応するのか。私のことばも変われば、そこに書かれていることばも変わる。どちらも自分が自分でなくなる。エクスタシーというと、ほんとうにセックスそのものになってしまうけれど、そういうとこを「ことば」の場で楽しむというのが、詩のよろこび、と私は思っている。




トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
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境節『歩く』

2012-06-27 08:35:27 | 詩集
境節『歩く』(思潮社、2012年06月20日発行)

 境節『歩く』のことばは、私には無造作に感じられる。そして、無造作には無造作にしか描けない美しいものがある。
 「虫の」のなかほど。

絵を描くことを忘れていたので
上手には描けない
構図なんて気にしなくても
いいから 力いっぱい描いていく
教えられることもなく
ただ虫のきもちに近づく
水たまりに足をとられて
小さな いきものに気づく
神さまはこの辺にいたのか
あぜに咲いていた野アザミを
ふいに思い出す

 境は何を描いているのだろうか。虫を描いているのだと思うが、虫ではなんのことかわからない。まあ、それはいいのだけれど。
 「構図なんか気にしなくても」「ただ虫のきもちに近づく」。ここに出てくる「気」と「きもち(気持ち)」は同じかな? 似ているような、似ていないような。
 「構図なんか気にしなくても」というのは、「気(持ち)」とはちょっと違う。どちらかというと「頭」だね。
 それが「教えられることもなく」ということばを挟んで「きもち」にかわる。
 「教える」というのは--「構図を教える」というのは授業。授業で問題にあるのは「頭」。学校で教えるのは、そういう「頭」で判断できることがらだ。「構図」というのは「頭」で整理した存在の配置だね。頭で整理しなおして、「図」を「構える」。「図」を整える。それは、世界を整えるということになるかもしれない。
 でも、学校で教えないものもある。
 「虫のきもち」。虫にきもちがあること自体、学校からは、逸脱している。教えようがない。
 でも、境は、その「きもち」に近づいていく。
 教えられないものに、自分の肉体で近づいていく。
 そうして、「水たまりに足をとられて」、

小さな いきものに気づく

 この「気」は何? 
 「構図なんて気にしない」の「気」、「虫のきもち」の「き」、どっちに似ている?
 とてもむずかしい。
 「気づく」は「発見」である。発見するのはたぶん「頭」である。「発見」したとき、頭の中で「世界の構図」が変化する。世界の構図を変化させるものだけが「発見」と呼ばれる。
 でも。
 「虫のきもち」の「き」と、この「気づく」の「気」は重ならない? 一体になってしまわない? 「小さな いきもの」の「きもち」そのものになる。「いきもの」という外見を発見するのではなく、その瞬間、境は「いきもの」になっている。こうやって、ここに、こうやっていきているものがいる--ということを発見して、そのいきものそのものになってしまう。
 この「気」(きもち)も、きっと学校では教えられない。
 教えてもらえない。
 それは、自分で「気づく」しかない。自分で見つけ出すしかない。発見するしかない何かである。
 
 さっき「気づく」を「発見」と言い換えたけれど……。

 「発見」のなかには「見る」がある。
 境は「ちいさな いきもの」を「見つけた(見た)」。それを「気づく」といった。目で見るのではなく、「気持ち(きもち)」で見つけた、見たのである。
 このときの「気持ち(きもち)」は「目」ではなく「肉眼」そのものだね。
 で、「気持ち(きもち)」という肉体のなかにある「肉眼」そのもので見るから、ふつうは見えないものが、その瞬間に、肉眼を破って出現する。

神さまはこの辺にいたのか

 「神さま」というものを私は信じるわけではないが、あ、たしかに「見える」とすれば、こういう瞬間だなあと実感できる。言い換えると、あ、境はほんとうに「神さま」を見たのである。神さまに気づいたのである。小さないきものに気づくように。そうして、虫のきもちに近づき、虫になるように、一瞬、境自身が「神さま」になってしまったのかもしれない。その「神さま」が、境から飛び出して、そこに一瞬だけ、姿をあらわした。「この辺」というぼんやりとした--けれど境自身にとってははっきりした場所に。
 それは、見えるけれど、見えない。見えないけれど、見える。

あぜに咲いていた野アザミを
ふいに思い出す

 「ふい」という一瞬。
 そして「思い出す」という一瞬。
 「思い出す」のは「頭」で思い出すのではないなあ、と思う。「思う」のなかには「気持ち(きもち)」がある。「気」で思い出すのだ。「気」と「思う」は重なる。
 これも、教えられるものではなく、自分で見つけ出すものだね。繰り返し繰り返し自分を生きることで。
 境の詩には、そういう「気(気持ち・きもち)」が静かに動いている。





薔薇のはなびら
境 節
思潮社
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季村敏夫『豆手帖から』

2012-06-26 09:07:18 | 詩集
季村敏夫『豆手帖から』(書肆山田、2012年06月25日発行)

 季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれた」と書いた。そのことばの衝撃を私はいまも忘れることができない。阪神大震災のことを書いた詩集だ。その季村は、この詩集では東日本大震災に向き合っている。
 「出来事は遅れてあらわれた」は「ことばは遅れてあらわれた」「出来事は、遅れてことばになってあらわれた」ということだと私は思っているが、そうしたことばと現実の関係を震災をとおして体験した季村にとってさえ、東日本大震災は衝撃だった。そのことが、ことばになろうとしてなりきれないもののように、うごめいている。
 「しじま」という作品のなかほど。

 ありえない散乱に投げ出されると、そよ風まで、うずく。

うなだれる 男よ
ここへ 来て
おおいかぶさればよい

 「うずく」。この動詞の「主語」は何か。「そよ風」か、ありえない散乱のただなかに投げ出された「私(季村)」か、あるいは「男」か。
 それは、区別ができない。主語が重なり合う。主語が単独では「あらわれる」ことができない。
 ああ、こんなときにまで、「そよ風」というものがある。
 その衝撃。
 自然は、人情とは無縁の、非情なものである。そして非情であることによって、しかし、「うずく」のだ。非情だからほんとうはうずかないのだが、人間は「うずく」と感じてしまう。そして、「うずく」のなかで重なってしまう。
 人間だって、非情さ。だって、何をしていいのかわからないのだから。こういうとき、人情あふれる行為とは何か、そういうことがわからない。人として、人につながるときに、何をしていいのか、わからない。
 うなだれている男がいる。
 ここへ来いよ。おおいかぶさろうよ。でも、何に? この散乱したものたちに? それとも空き地に? あるいは、「私」に?
 もし、男が「私」におおいかぶさるのなら、その瞬間、「私」は男になって、男におおいかぶさることになるだろう。区別がなくなる。
 人情というのは、たぶん、私がこれまで考えていたものと違って、他人に対する思いやりのようなものではないのだ。「他人」というものが存在しないのが人情なのだろう。他人になれないのが人情なのだろう。
 自然が、「私」と「男」を区別しない。その非情、その非人情。そういうこころの動きが人間のなかにうまれるとき、それが人情になる。これは、もともとこころをもっているものと、もっていないものの、ちょっとしたアンチ・パラレルなのだ。
 こういう「場」を通って、ことばは出来事として、おくれてやってくるのかもしれない。

「名前を明かすと もう戻って来ない気がする」、春の到来を
待つこともなく、「逝ぐべぇ」、この世をあとにしたひとの数、
よみとることができない。

 「名前を明かすと もう戻って来ない気がする」。でも、呼ぶには、その「名前」が必要だ。探すには、その「名前」が必要だ。
 --ここに矛盾がある。
 ことばになろうとして、ことばになれないものがある。つまり、思想、そして肉体がある。
 何かが「遅れている」、遅れてしまって、「あらわれる」ことができない。
 そして、そこには「あらわれていない」にもかかわらず、私は「あらわれ」を感じる。「あらわれない」が、そこにおおいかぶさり、「あらわれる」まで「うずく」、その「うずき」がここにある。
 「逝ぐべぇ」。私はこれをどう読んでいいのか、わからない。
 主語は?
 ここにいても仕方がない、未練が残るだけだ、「いこう」なら「行く」ではないのか。それとも、亡くなったひとの声なのか。ここまで会いに来てくれた人に感謝し、あの世へ「逝ぐべぇ」と仲間に語りかけているのか。そこに何人いるのか。
 「ひとの数、よみとることができない」--この主語は?
 「私」? 「名前を……」と言った人? それとも亡くなった人?
 ここでも「主語」は重なり合う。区別がつかない。だからこそ、悲痛である。

 し、島々
 うしなわれた 名前

 「し、島々」の言いよどみ。「うしなわれた 名前」とは、どういうことか。うしなわれたのは「名前」ではない。でも、「名前」である。「名前」とともに、私たちは「あらわれる」。「あらわれ」は「名前」をともなう。
 だからこそ、主語は?
 私は問いかけてみる。そして、その答えが見つからない。何もかもが重なり合う。おおいかぶさっている。そうして、うずいている。

 この共感をほどいて分析することは意味がない。この共感には、私たちは、おおいかぶさるしかできない。おおいかぶさるとき、私たちは、おおいかぶさられて、そこにことばにならない鼓動を聞く。





日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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藤維夫「遠い花」ほか

2012-06-25 09:28:26 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「遠い花」ほか(「SEED」29、2012年06月15日発行)

 藤維夫「遠い花」を読み、何か書こうと思った。思ったのだけれど、その何かが、うまく近づいてくれない。

ずっと遠い花が見えて
今日一日の風貌にこたえている
どうしてもという一瞬もあったはずで
わたしは動くことができない

風も語りかけて揺れたようだったが
とおい視線の渦のなかにいて
陽にさらされるつめたさではなく
もう永遠の佇まいのふかさにしまわれている

二三日して乱れた心が起き出し
ふいに防風林の山なみのひろい展望に出よう
待ちぼうけのような熱い炎
そばにひとがじっといるだけだ

 3連目の「二三日して乱れた心が起き出し/ふいに防風林の山なみのひろい展望に出よう」という2行のなかにある「主語」の省略が、それこそ「遠い」何かを感じさせる。
 「乱れた心が起き出し」は「乱れていた心が正常(?)になって」ということなのだろうか。それとも「正常だった心が乱れはじめた」ということなのか。わからない。正常になったから、「ひろい展望」がほしくなったのか、乱れたから「ひろい展望」がほしくなったのか。--どちらも、ありうる。
 何か、詩には、そういう両義性があって、それが一種の「パラレル」な構造をつくりだす。「パラレル」というのは「平行」ということになるのだろうけれど……私はちょっと別な意味でつかっている。
 「平行」して何かが存在する。それは、まあ、平面的なことになってしまうかもしれないけれど、私は何かが「平行」するとき、そのふたつの間に「隙間」(空間)があるということがおもしろいと思うのだ。
 間。ま。魔。
 平行をつくりだす「もの」からはみだしたものが、ふたつの「もの」のあいだで「もの」から自由になって動く。そして、何か、いままでそこには存在しなかったものになって動いていく。--魔、というのは、その変化のことか。それともそこで生まれたもののことか。よくわからないが、「間」と何かしら関係がある。
 こういうのは、私のことばで言うと「感覚の意見」であって、論理的な考証でも分析でもないのだけれど……。

 そう思って読み返すと、たとえば2連目。

陽にさらされるつめたさはなく

 この「陽」と「つめたさ」の矛盾。ふつうは陽はあたたかい。でも、それが「つめたさ」としてあらわれてくるとき、何か私たちの知らないものが動いているのである。
 それは「遠い花」(1連目)と「とおい視線」(2連目)の「遠い-とおい」の「間」を動いている何かが噴出してきたのかもしれない。
 「遠い-とおい」の「間」は、藤にしかわからない。そして、藤にしかわからないからこそ、私は「わかる」と感じる。私の肉体のなかに、漢字で「遠い」と書くときと、「とおい」と音そのものだけを喉でうごかし耳で聞くときの「間」のようなものができあがり、その「間」が私の何かを誘っている。その誘いを感じる。それを「わかる」と私は言ってみるのだが、まあ、これも「感覚の意見」だね。
 で、「遠い-とおい」の「間」のなかで、陽がつめたくなるとき、「永遠の佇まいのふかさ」の「ふかさ」がずしんに肉体に響いてくる。「永遠の佇まい」というような抽象的なことは何が何だかわからないが、そのあとの「ふかさ」が、そのひらがなで書かれた何かが、あ、それを見たことがあると感じてしまうのである。

 というようなことを思っている……。

ずっと遠い花が見えて
今日一日の風貌にこたえている
どうしてもという一瞬もあったはずで
わたしは動くことができない

 この1連目の2行目は、「今日一日の風貌にたえていると」ではないか、と思ってしまうのだ。「こたえている」ではなく「たえている(耐えている)」。
 というのは、実は、正確ではなくて……。
 私は「たえている」と読みはじめて、引用するとき、あ、「こたえている」か、と驚き、その驚きのなかで、最初に書こうと思っていたことが消えてしまった。でも、その消えてしまったことをなんとか書きたいと思い、そのことを隠しながら、ここまで書いてきたのである。
 「たえている」だと「どうしてもという一瞬」「動くことができない」が近づきすぎておもしろくないのかもしれないけれど、耐えて、動かないからこそ、幻の動きに肉体が揺さぶられ、そこに「間」ができ、「魔」にかわるという気がする。それが「乱れた心が起き出し」という具合につながっていくと、「わたし」という主語が肉体になってくれるのだけれど。
 まあ、私の「誤読」だね。

 「夢の比喩のなかで」の書き出し、

ふるい歳月が去り
空はくらく閉じられる
しかたなく何かを思い出すことだってあるとき

 の3行目が、とても好きである。
 それから2連目、

さしずめ反対側の家の裏には
おいてきぼりの白昼の空しか浮かんでなくて

 の2行目もいいなあ。
 「空しか」の「しか」と「しかたなく」の「しか」は違うものだけれど、同じだっていいよね。同じだと錯覚したって、いいよね。学校の国語の授業じゃないのだから。
 で、それを同じだと錯覚すると……。
 「あるとき」の「ある」、「浮かんでなくて」の「なく」が、何といえばいいのかなあ、「同じもの」に感じられる。「ある」は「ない」、「ない」は「ある」。そのふたつの間で、ゆらぐもの。
 魔。
 見えてこない?
 まあ、それは「夢のなかの比喩」(私は、こんなふうにして間違えるのである)みたいなものだ。これも「感覚の意見」である。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社

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オタール・イオセリアーニ監督「汽車はふたたび故郷へ」(★★★★)

2012-06-24 08:07:52 | 映画
監督 オタール・イオセリアーニ 出演 ダト・タリエラシュヴィリ、ビュル・オジエ、ピエール・エテ

 オタール・イオセリアーニ監督の自伝らしい。旧ソ連の一共和国だった頃のグルジア。仲良し3人組(男2人、女1人)。そのひとりが映像が好きで、やがて映画監督になる。グルジアでは思うように映画が撮れず、フランスに出国するが状況はかわらない。そして、なつかしい故郷へ帰ってくる。
 というようなことは、半分重要であり、半分重要ではない。
 半分重要というのは、最初の方に音楽がたくさん出てくるからである。映画は映像と音楽でできている。監督は最初からそのふたつに深い関心があるのだ。イコンを盗みに行った先で歌を歌う。それも「斉唱」ではなくハーモニーを響かせるために。教会(?)の音響がよかったのかもしれない。だからハーモニーにしたかったのかもしれない。これは、彼の音楽に対する欲望だね。ひとつのメロディーがあればいいのではない。違ったものがであって、調子をあわせ、ひとりでは出せない音をつくりあげる。美しいなあ。それに女の声も加わる。
 ほかにもあらゆるところに音楽が出てくる。主人公たちが暗室に隠れて(?)写真を現像しているとき、髭を剃りながら歌う父親。映画のなかの、映画撮影のシーン。軍人(?)の暗殺があるのだけれど、その直前の楽団の演奏……。これはイコン(絵)や写真という映像への興味よりも重要かもしれないと思う。
 あらぬるものに、聞こえないけれど音楽が存在している。内包されている。古びた建物や、調度品。そこには、そこに生きてきた人の時間があり、ひとが生きていれば、そこにリズムがある。そして知らず知らずに交わされることば、音がある。リズムと音が出会えば音楽である。
 少年たちがぶら下がって移動する貨物列車、そして彼らがおとなになってから試写室(?)に窓から入るときの身のこなし、自転車--そういうものにも、彼らをつらぬく音楽、彼らの肉体のなかにある音楽がある。それが、自然に、とても自然にあふれるようにして肉体の動きになる。
 この音楽の存在を「自伝」として組み込んでいるところに、この映画のおもしろさがある。重要性の半分は、そこにある。いや、全部といってもいいかもしれない。
 思わず全部--と言ってしまうのは。
 音楽には独特の洗練がある。つまり形式だね。その形式が、生活を、生きるということを人間の内側から統一する。言い換えると、人間にはある音楽の形式があり、その形式に会わないことがらはできない。自分の音楽の形式にしたがって行動してしまう、ということ。
 これは主人公だけに視点を注いでいるとわかりにくいかもしれない。ちょっと目をずらして、たとえばおじいちゃんを見る。ダンスパーティーに行く。途中で若者に、「わっ」と脅かされる。その若者に頭突きで押収する。ダンスパーティーではちゃんと女性をみつけて踊る。ダンスは音楽にあわせて踊るものだけれど、年をとってくると、音楽のリズムよりも自分の肉体のリズムが優先するね。で、ほかのペアとぶつかる。こういう、いっしゅの「ずれ」のようなもの--そこにその人の「音楽」がある。
 主人公のほかのひととの調和、ずれも、音楽の違いとしてみると楽しい。ほんとうは思想や体制やらなにやらいろいろ複雑なものがからんでくるのだけれど、それを音楽の違い、それまでその人がなじんできた音階とリズムの違いと思えば、深刻な争いにもならないでしょ? その人の「芸術」そのものの違い。それは、政治ではないからね。権力ではないからね。
 突然あらわれる人魚、そして人魚とともに消えていく主人公。--これ、なあに? なんでもありません。思いつき。だからこそ、思想。理由なんかないのである。この音楽が好き、この音楽はあわない--そういうことってあるでしょ? この不思議な飛躍、その転調(?)。好きなひとは好き、わからないひとはわからない。そういうものを肉体の内部にもっていないだけ。
 私はいいなあ、と思う。人魚といっしょに手をとって、水の奥深く深くへ行ってしまうなんて。残された釣り竿を見て、あいつはどこへいったんだ?と思うなんて、しゃれている。
 そう、ウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」より格段にしゃれている。たしかに雨にぬれたパリは美しいかもしれないが、人々が「芸術」なんてものを特に目指さずに、けれども音楽といっしょに生きているグルジアのつかいこれまた家々、緑、その自然、空気の色が、とてもとてもすばらしい。
                          (福岡・KBCシネマ2)





オタール・イオセリアーニ コレクションDVD-BOX
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店
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松川穂波「傷川」

2012-06-23 09:24:28 | 詩(雑誌・同人誌)
松川穂波「傷川」ほか(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)

 松川穂波「傷川」の前半はひらがなで書かれている。

 じぶんのこどもをころして かわにすてたおんなのひとがいました。ふくろのようなものをかぶせられて れんこうされるのをてれびでみていました。かわのなまえはわすれましたが おばさんたちがおしゃべりをしていました。むかしはなんでもかわにすてましたね。 あら いまだっておんだじですよ。れいぞうこをすてたひともいたんんですって。おしゃべりがだんだんずれていって さいごにおおきなこえでみんなわらいました。

 この場合、ひらがなは何を意味しているだろうか。漢字がわからない(漢字を書けない人間)が発言者であることを意味しているかもしれない。その証拠(?)に、この詩は次のようにつづく。

わたしのおかあさんも いっしょにかたをゆすってわらっていました。まんしょんのじてんしゃおきばのことでした。

 「わたし」には「おかあさん」がいる。そして、その「おかあさん」と「おばさんたち」は同じような年代。「わたし」は小学生(低学年)とか、幼稚園とか、そういう設定でことばが書かれていると思う。
 そう思って読むと、しかし、どうも私の肉体がむずむずする。違和感があるのだ。こどものことばとは思えない。
 「れんこうされるのを」というのは、これはこれで正しい(?)と思う。子どもというのはことばの意味など知らない。知らないけれど、みんながそう言うからそういうだけなのである。そのうち、それが積みかさなって、からだのなかではっきりした意味に育つ。その意味を育てるのが、まあ、社会というものだと思う。
 私が変だ、ありえないと思うのは、

はなしがだんだんずれていって

 この「ずれる」という感覚。これは、子どもにはわからない。だいたい、話している「おばさんたち」にもこれは実感としてはありえない。「ずれ」が意識できるなら、そのひとは話をずらさない。踏みとどまる。「ずれ」が意識できないからずれる。その「ずれ」を認識できるのは、テーマとことばを明確に識別できるひとだけである。
 ここに書かれている「わたし」は、子どもではない。こどものふりをしている。
 もちろん、子どものふりをしていてもいいのだが、そういうときは最後まで子どもで押し通さないと、気持ちが悪い。--私の場合は、肉体に、ぞくっとした感じが生まれる。このぞくっは、ときには「好き」にかわるものもあるが、松川のことばがかかえているぞくっは、私には絶対になっとくできないものである。私の肉体が完全に拒絶している。

わたしのおかあさんも いっしょにかたをゆすってわらっていました。

 この笑いの描写の「常套句」も、とても気持ちが悪い。何も見ていない。子どもはおかあさんが笑うとき、「かたをゆすって」など意識できない。肩など見ない。これは、笑いをどこか客観的に見ている。笑いではなく、肉体の動きとしてみている。そういう動きがことばに定着するのは、子どもの時代ではない。「れんこう」はわからないまま子どもの肉体のなかに流れ込み、しみつく。しかし、「肩を揺すって笑う」というのは、子どもの肉体には流れ込まない。
 なぜか。
 「れんこう」はわからないことばである。だから、それを繰り返し繰り返し口にする。そして音が肉体に入っていく。そして意味になる。ところが「肩」も「揺する」も「笑う」も、それは子どもにはわかることがらなのだ。そういうものは肉体に堆積せずに「意味」をつくる。
 この「意味」をつくるということ、そしてそれが共有される(常套句になる)ということは、子どものことばの運動とは違う、と私は思う。

なんでもすてるんだったら くれよんしんちゃんのでいびいでいとかまんがとか げーむぷれーやーないか かわになげてあげたらいいのに。そしたら ころされたこどもが たいくつせずにああべるでしょ。ともだちもできるとおもいます。

 これは、子どもっぽい発想だろうか。子どものことばだろうか。たぶん松川はそう頭で考えて書いている。
 私は違うと思う。こんなことを子どもが考えるとは思えない。見も知らない「友達」のことなど、子どもには想像できない。ここで書かれているのは、大人が作り上げた子どもの「純情」(?)というものである。こういう純情が、私は大嫌いである。

ゆらゆらするおうちでは はんにんのおんなのひとが あしたようちえんにもっていいくふくろをそろえています。かおはみえないけど せなかのかっこうが わたしのおかあさんそっくりです。かわのなかはおにわみたいに とてもあかるくて おにゆりのはながまんかいです。

 詩の最後(前半の最後なのだけれど)にきて、世界は一転する。「わたし」はどうやら殺された子どもらしい。おかあさんははんにんらしい。だから、詩の最初の方とは、なにやら世界がねじれていることになる。--まあ、こういうねじれは、詩なのだから別に気にならないが、

かおはみえないけど せなかのかっこうが わたしのおかあさんそっくりです。

 これが、またまた非常に気持ちが悪い。なぜ「かおはみえないけど」ということわりがあるのだろうか。子どもはそんなことを考えない。少なくとも、私は考えたことがなかった。手が見える。足が見える。背中が見える。それだけで、おかあさん。手からおかあさんとわかった。背中でわかった。--そのとき、「顔は見えないけど」って、意識がある?
 ない。絶対にない。私の肉体の記憶ではそういうことは絶対にない。
 「かおがみえないけど」というのは一種の強調である。こういうレトリックは子どもにはない。そういうことを無視して書かれたことばは、私は大嫌いだ。
 子どものふりをするな。子どものふりをして、子どもの純情を語るな。
 私は子どもが好きではないが、こういう子ども像を作り上げる大人はもっと大嫌いだ。こういう大人に育てられる子どもは不幸だ、と思う。子どもがかわいそうと思うのは、こういう瞬間だ。



 江夏名枝「いのこり天使」には、ひらがなをたくみにつかった部分がある。

あいたい
あいたい
あいたい
天使の改行は祈りに似て、いのこり天使のいのり

 「いのこり」と「いのり」が交錯する。これは大人のことば遊び--に似ているが、ここに子どもがいる。その子どもというのは「れんこう」ということばを口にする松川の子どもに通じるものである。
 「いのり」って何? 
 わからないけれど、「いのこり天使のいのり」と言ってしまうと、そこに「いのこる」ことが何だか正しいもののように思えている。のこっている。まっている。そうすると、いのりがかなう--かどうかわからないけれど、そういうわからないことのなかに「いのり」がだんだん肉体化してくる。
 ひらがなは、こんな具合につかうと、とても有効である。「居残り天使の祈り」では、意味がぎすぎすしてきてしまう。






ウルム心
松川 穂波
思潮社


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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渡辺めぐみ「遥か」

2012-06-22 09:14:41 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺めぐみ「遥か」(「イリプスⅡnd」9、2012年05月25日発行)

 渡辺めぐみ「遥か」には、わからないところがある。そして、誰の詩についても思うことなのだが、そのわからないところが一番わかる。いいかえると、そのわからないところへ向けて、私のこころは動いていく。そして、それを「誤読」する。

地を光が這い
風が這い
木々が凪ぎ倒されると
大切なものが失われた
それを見ていたものの
心に枝が生え
枝が心を破ると
枝々は囁いた
少しだけ間に合わないかもしれない
少しだけ遠すぎるかもしれない
        (谷内注・「凪ぎ倒される」は「薙ぎ倒される」の誤植だと思う。)

 私が驚いたのは、「枝が心を破ると」である。こころのなかに生えてきた木、その枝。それが、こころを突き破って育っていく。
 あ、すごい。
 頭で考え出した比喩の場合は、こういう具合には行かない。
 「比喩」とは人間が思うものであって、その比喩が育っていくにしろ、その領域は想像力に限定される。「心に枝が生え」たときは、とはこころが枝を思い描いたとき、想像したときということであり、枝の育つ範囲は「心のなか」だけである--というのが頭の論理である。
 でも、渡辺の枝は「心を破る」。
 もちろん「破る」も「比喩」であり、「破る」は「傷つける」という意味であるという具合に読むこともできるはできるが。
 違うね。

 こころを突き破って、こころの外へと枝が育っていく。これは、枝が渡辺のこころなんかには配慮しないで、木のエネルギー(枝のエネルギー)そのものとして育っていくということだ。(想像力が独立して育っていくこと--という具合にも考えられるけれど、ちょっとそこまで書くと、面倒でうるさいことになるので、省略。)
 それはもう一度言い換えると、木が木になってしまうということ。自然になってしまうということ。人間とは無関係になってしまうということ。人間の思い、渡辺の思いを裏切って、育っていく。
 自然は、いつでもそういうものだ。
 自然は非人情で、人間のこころなどに配慮はしない。うれしかろうが、悲しかろうが、そんなこととは関係なく、木は育つのである。
 この非人情は、人間を洗い流す。それが気持ちがいい。

枝々は囁いた
少しだけ間に合わないかもしれない
少しだけ遠すぎるかもしれない

 何のことかわからない。わからないけれど、わかる。
 枝は、そこに書いてあるように囁いた。それが渡辺には聞こえた。それは、もしかすると渡辺の「こころ」がつくりあげたもう一つの「声」、自分自身の「声」かもしれないが、そんなことを考えるとおもしろくないので、ここはやはり枝が囁いたと思いたい。
 その声を聞いてしまったから、渡辺は、その瞬間から、木そのものになるのだ。
 もう「心に枝が生え」の「心」はそこには存在しない。
 「心」があるとすれば、それは「木」の形になって、育ちながら、「心」とは違う声を発している。
 「育つ」とは、別のものになる、ということだ。「育つ」は、「生える」から始まって、「破る」を経て、どこまでも動いていく。「育つ」は「動く」ことなのである。

心から突き出た枝々は
互いをこすり合わせ
不気味な音を立てて
記憶の風を脱ぐ
十六枚 八十二枚 百六十八枚
脱ぐたびに
悲しみが飛散し
悲しみが笑う

 「互いにこすり合わせ」。これがまた、頭ではつくりだせない1行である。育った木が、その枝がかってに、そういうことをしている。人間の(渡辺の)思いなどは無視して、そこで動いて、自然そのものになる。木は、植物ではなく、このとき「動物」である。「動くもの」である。
 「悲しみが飛散し/悲しみが笑う」。「悲しみが飛散」するは、わかる。だが、「悲しみは笑う」はどうか。矛盾している。--けれど、矛盾しているからこそ、「わかる」。頭は矛盾を指摘するが、肉体は悲しくて笑うということを覚えているので、その矛盾を肉体で突き破って、わかってしまうのである。

きっとこの地は眠らない
心を突き破った枝々が
火にくべられても
くべられても
激しい心音を
刻み続けて行くだろう

 「火にくべられても/くべられても」の繰り返し。そこに、激しさがある。もうひとつの「自然」の力がある。「自然」はへこたれるということを知らない。
 だから「間に合わない」ということはない。「遠すぎる」ということもない。そういう「意識」を突き破って動いている。
 そういう力と呼応して動いていることば、それが今回の渡辺の詩だ。



内在地
渡辺 めぐみ
思潮社
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渡辺松男『蝶』五十首抄

2012-06-21 09:18:15 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺松男『蝶』五十首抄(「短歌」2012年06月号)

 第46回迢空賞を受賞した渡辺松男の『蝶』の50首が「短歌」に掲載されていた。

木にひかりさしたればかげうまれたりかげうまれ木はそんざいをます

 この歌は非常に印象的である。「私」のことを書かずに木のことを書いているように感じられるからかもしれない。木に光が差して、影ができる。影ができると木は存在を増すというのだが、最後の「存在を増す」が「哲学的」に響くから、木のことを書いているように感じられるのかな? 木の存在を光と影との関係で描いていて、そこに「私」が入っていないから、「理性的(?)」な印象が生まれるのかな?
 よくわからない。わからないけれど、
 でも、
 「存在を増す」は一見抽象的、あるいは哲学的言及に見えるけれど、「存在感を増す」とどう違うのかな? 「感(じ)」を取り除くと、描写は哲学的になるのかな?
 まさか。
 でも、よくわからないね。
 「存在感」ではなく、「存在」。しかし、存在「感」なら増えたり減ったりはするけれど、「存在」そのものは増えたり減ったりはしない。
 だとすると「感(じ)」は書かれていないけれど、その書かれていない「感(じ)」をこそ、渡辺は書こうとしているようにも思える。書くのではなく、消すことによって、その消したもののなかへ読者を誘い込むのかもしれない。
 この一首には、「漢字」は「木」という文字しかつかわれていない。これもおもしろいと思う。
 漢字はイメージをはっきりさせる。というか、まあ、私はずぼらなのか、漢字の方が意味をつかみやすい。ただ「漢字」になれ親しんでいるだけなのだが。
 それがほどかれて、音になる。ひかり、かげ、という名詞だけではなく、さす、うまれる、も音になる。ひらがなを読んでいる(見ている)のだが、ひらがなのことばは目から脳へと直接結びつかない。私の場合は。
 私の場合は、ひらがなは、いったん喉を通る。口を通る。耳を通る。そうして、「脳」のなかへ入ってくる--ではなく、どうも「脳」をすりぬけて、体のどこかわからない部分へ入ってくる。これは、入ってくる--という「感じ」がするだけのことで、はっきりとはわからない。
 で、その「感じ」と「存在感」の「感」の欠落が、なにか妙に響きあうというか、手を取り合う。ひとつになる。それが「そんざい」を「ます」という感じになる。
 そして、このことには、「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばの重複も影響していると思う。
 繰り返し同じところを通ることば。
 でも、おなじところと書いたけれど、ほんとうかな?
 違うと思うのだ。
 「かげうまれたり」「かげうまれ」ということばが喉を通るとき(私は音読はしないが、やはり音は喉を通る)、そして口を、舌を、耳を通るとき、最初の「かげ」と次の「かげ」は微妙に違う。二度目の「かげ」の方が明確である。「うまれ(る)」も二度目の方がしっかりしている。そして、それがしっかりしているということは、音と肉体の接触面が微妙に違うということだ。それは同じように、喉、口、耳を通るけれど、実際は、喉の奥(内部?)、口の奥、耳の奥--うーん、肉体の「核」のようなものを通るということだと思う。
 だからこそ、「そんざいをます」ということが起きる。
 最初「肉体」の外にあったものが、次は「肉体」の内部、「肉体」の核を刺激する。それは「肉体」を内部から目覚めさせるということかもしれない。
 だからね。
 というのは、私の「飛躍」(誤読)なのだけれど、渡辺が省略した「存在感」の「感」は、「感」というときにすぐに思い出すもの、たとえば「感情」「感性」というものではなくて、もっと「肉体」そのものなのだ。
 「感触」というのが近いことばかもしれない。なにかに触れて感じる肉体の感覚。気持ちではなく、あくまで肉体。

 渡辺は、あくまで「肉体」を書いているだ。

粥を食みつゆさきほどの時間さへとりもどせねば粥どこへおつ

 この歌には「時間」という、それこそ哲学的なことばがでてくるけれど、この時間も抽象的なものではない。渡辺にとっては、肉体そのもの経過というか、変化なのだ。渡辺は肉体=からだと向き合っている。だから、この歌は

粥を食みつゆさきほどの「からだ」さへとりもどせねば粥どこへおつ

 と読み替えると、ぐいと、そこにのみこまれてしまう。「時間」では抽象的だが、それが「からだ」だと思った瞬間、私の肉体は渡辺の肉体になってしまう。
 ちょうど道にうずくまり腹を抱えているひとを見たら、あ、腹が痛くて苦しんでいると、自分のからだでもないのにその痛みを感じるように。このときの「感じ」は「感情」ではないよね。「感性」でもないよね。「肉体の感じ」そのものだ。




蝶―歌集 (かりん叢書)
渡辺松男
ながらみ書房
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榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』

2012-06-20 09:47:48 | 詩集
榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』(思潮社、2012年06月30日発行)

 榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』はタイトル通り、「眼球」の詩集である。榎本は視力の詩人である。私のような、目の弱い人間には、読み通すのが厳しいものがある。榎本の詩を最初に読んだときは、これは詩集になってから読んだ方が全体像がわかると思ったが、詩集になってみると今度はその視力を強要することばがつらくなる。まあ、視力のいいひとは大丈夫なのだろうけれど。

世界の総体は悉く文字のみによってなりたっているので、《私》ですら例外なく、許多のまなざしに射貫かれ、夥しい文字を前に失明することを免れえぬ恐怖にうち震える《我々》は、さもしい聴力を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てるが、

 「増殖する眼球にまたがって」の書き出しである。
 ここにあらわれる「聴力を頼りに痺れた光線を辿ろうと企てる」という表現は、とてもおもしろいが、最初に書いたように、榎本はなによりも視覚の詩人である。聴覚は、瞬間的にはあらわれるが、しっかりと融合しない。「増殖する……」では、このあと「聞きなさい」という美しいことばが輝くのだが、それは一瞬のことであり、視力の闇がすぐに襲いかかる。見えすぎることによる闇が。

 ことばはどんなふうにして動くのかわからないが、私には、音といっしょに動くように思える。それは視力を生きる榎本の場合でも同じだ。書き出しには、音がある。
 巻頭の「あなたのハートに仏教建築」はタイトルそのものに音がある。書き出しにも音がある。

(岸辺に)打ち上げられた轢死体を跨ぎ越し、開かれた頸部に流水を圧しあてては、返すがえすも惜しくなる臀部の臭気、縊死の殺虫成分に毒される糠、開かれた帆布にまき散らしてまき散らされて、そのうち川を渡って--渡し賃に一枚の帆布--対岸で蹲る夜、

 「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」はいい響きである。「返すがえすも」「惜しくなる」という「漢字熟語」ではない口語の響きが、「臀部」「臭気」という「ん」とか「ゅ」とか、発音器官(聴覚器官)をくすぐる音を含みながら「漢字熟語」に溶け込んで行く。これは、とても、とても、とても美しい。
 でも「毒される糠」はどうかなあ。「まき散らしてまき散らされて」は、どうかなあ。まあ、こういう問題は、厳密に言おうとすると難しくなる。私は「音韻学」というものは「名前」でしか知らないから、適当なことを書くのだが、どうも「返すがえすも惜しくなる臀部の臭気」のような音楽がない。
 音楽の崩れというのは、立ちなおすことがなかなか難しいと思う。くずれる方へひっぱられていくような気がする。
 「返すがえすも……」までは、榎本も文字を書きながら口を(喉を、耳を)動かしているように感じられるが、それ以後は、そういう肉体を封印し、視力でことばを選んでいるように感じられる。

濡れている備忘録を唆すように隠蔽し、祭壇の技術的欠陥を勾引す御仏の遺恨を懐に仕舞って仕舞われて……(舌肥大)

 私が特に気になるのは「勾引す御仏」の「勾引す」である。どう読むの? 私には読めないのである。音が消えてしまう。そして、文字だけが残る。
 2連目は、

夥しい残骸に緊縛される視覚へ、

 と始まる。「視覚」ということばを必要としてしまうくらい、榎本のことばは、これからあとさらに文字だけになる。そして、文字は漢字熟語となって撒き散らされる。
 「いずれにせよ集積せよと云いながら痺れていった涅槃は」には「集積」「痺れ」「涅槃」という漢字だけが、「感じ」を浮かび上がらせようとしている。

 目の状態がいいときに読み直そう。
 モーツァルトの音楽は、私には、体調のいいときには快感だが、体調が悪いときには苦痛である。それによく似ている。榎本の詩は、視力がいいときには快感だろうけれど、視力が低下しているときには苦痛である。肉体の仲に入って来ない。
 --これが、まあ、私のきょうの状態ということであって、榎本の詩は、また別の生き物と考えた方がいい。
 視力の暴力に、視力で立ち向かえるひとが、きちんとした感想を書くだろうと思う。





現代詩手帖 2012年 06月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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岩佐なを「×」ほか

2012-06-19 10:13:09 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「×」ほか(「交野が原」72、2012年04月01日発行)

 岩佐なを「×」のことばの動きには、何か気持ちの悪いものがある。ひさしぶりに、その気持ち悪さを思い出した。最近は、不思議なことに、岩佐の気持ち悪さになれてしまったのか、あまり気持ち悪いとは感じなかった。逆に快感、と感じたりして、これはよくないなあ。岩佐の感覚を気持ちいいなんていうようになってしまってはダメだぞと思っていたので、今回はちょっと安心(?)。

朝おきると
つかわないじぶんがある
そして
つかえないじぶんがある
手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを
親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる

 「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」のほかに、「つかえるじぶん」があって、その「つかえるじぶん」があれこれやっているということなのかもしれないけれど。この「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」という分類の仕方、冷静な、科学的な(?)視点と、「手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを」という行の関係がとても微妙。「うすむらさき」「にく」というひらがなの表記が、私には、何かぞくってするものがある。なまっぽい。「つかわないじぶん」「つかえないじぶん」という分類は「頭」で仕分ける分類なのだが、「うすむらさき」「にく」は、その分類する頭ではないところで動いている。「はいった」というひらがなもそうだなあ。「はいった」というより、そこに最初からある。最初からあって、「はいった」のではなく「奥から浮き上がってきた」という感覚かなあ。--あ、これは、私の「感覚の意見」。
 この「感覚の意見」を誘う岩佐のことばの動き、その表記が、いやあ、気持ちが悪い。そんな感覚、誘い出されたくない。誘い出されて、岩佐の肉体にぴったり吸い寄せられていくのを感じるはいやだなあ。だって、会ったことはないからわからないが(想像で書くのだが)、岩佐ってぶよっとした肉のおじさんという感じがあるねえ。その肉の感じが「うすむらさきの斑のはいったにく」と自画像に書かれているんだから、あ、離れたい、近づきたくない、と私は思わず思うのだ。(失礼!)
 で、離れたい、近づきたくないと思うのだが、

親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる

 この不思議な粘着力。「はら」で「さすって」。「丹念に」ということばは漢字で書かれているからさーっとどこかへ消えていくが、「はら」と「さすって」がそれを裏切るように、ぴったりはりついてくる。「さする」というのは、面の接触だよなあ。点の接触じゃない。
 「しろにまでたかめる」の「まで、たかめる」というのは、その面の接触が持続し、その持続の中で白の変化があるということだねえ。
 接触と持続。
 接触と持続--というのが気持ちがいいのは、セックスのときだけ。それ以外はいやだよねえ。たとえば満員電車の、触れたくないからだの接触、その持続なんて、いやでしょ? そのいやな何かを岩佐は気持ちよさそうに、うっとりして書いている。
 吐息、溜息までもらしちゃって。

手にとってうすむらさきの斑のはいったにくを
親指のはらで丹念にさすって
斑の色をしろにまでたかめる
(遠くで風があえいでいますか)
もう少し「あ」と「い」という
ひらがなを書くふうにさすってやれば
しろいところはやんわり

 「溜息」の息のなまなましさを分かりやすくするために、あえて前の部分を重複させて引用したのだけれど、

(遠くで風があえいでいますか)

 この「遠く」って「遠く」ない。ものすごく近い。自分の「肉体」の内部だね。それがもし「遠い」とすれば「頭」から遠いだけ。「にく」そのものの、「肉」にはならない、ひらがなの領域だねえ。
 「あ」とか「い」とか--ああ、溜息では足りなくて、声までもらしちゃって。
 おじさんだろ、しっかりしなさい--というのは、マッチョ思想にそまった叱責か。
 「ひらがなを書くふうに」はふつう「あ」や「い」じゃないね、「な行」の文字じゃないと私は思うけれど、それはただし「さする」とは違うから。
 そうか「さする」ときは「あ」とか「い」か。

 --というより、これは、たとえばセックスだとすると、岩佐のむきあっているのは他者じゃないね。ほんとうの「他者」ではなく、「じぶんのなかの他者」。それを、「しろいところはやんわり」と、溜息、小さくもれる声とともに、うっとり眺めている。

 うっ、気持ち悪い。

 えっ、「誤読」?
 もちろん「誤読」なのだけれど、「誤読」して気持ち悪いと私が言っているだけなのだけれど、そういう「誤読」を誘う力がいいなあ、と私は一方で思う。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いというのは、どこかでそれが好きという感じがあって、それに対して私が必死になって抵抗しているのかもしれない。--と感覚の意見は言っています。



 斎藤恵子「耳を澄ませば」の2連目。

生まれたてのつめたさは
わたしの足を火照らせる
ほのあかるい暗がりが広がる

 「つめたさ」が「ほてらせる」というのは矛盾だけれど、こういう矛盾を私の肉体は覚えている。たとえば雪の上を裸足で歩く。だんだん足が熱くなってくる。肉体的には冷たくなっているのだが、感覚的には熱さが内部から発してくる。
 「ほのあかるい」「暗がり」というもの矛盾だね。矛盾だけれど、私の肉体はこういうものを覚えている。
 「頭」で整理すると矛盾。けれど肉体はそれがあることを覚えている。その覚えているものを刺激しながら(覚えているものを刺激されながら)、動いていくことばは、私にはとても納得がゆく。
 岩佐の肉体は、それがそばにあったら困るなあ、と思うが、こういう肉体なら、あ、なつかしいと思う。


 


鏡ノ場
岩佐 なを
思潮社


海と夜祭
斎藤 恵子
思潮社
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小長谷清実「迷図のどこか」

2012-06-18 10:26:19 | 詩(雑誌・同人誌)

小長谷清実「迷図のどこか」(「交野が原」72、2012年04月01日発行)

 どんな詩にも意味はある。でも、意味が意味になるためには、論理以上のものが必要である--というのは、たぶん、性急すぎる言い方なのだが。
 小長谷清実「迷図のどこか」の1連目。

何やら声高に喋くりながら
どこかわたしと似たような感じの
老若男女がぞろぞろ入ってくる
喋っている言葉は
シャモが互いに向き合ったときのよう
意味は殆ど交差することなく
威嚇が幅をきかしている
威嚇の響きと威嚇の谷間に
怯えがかすかにこだましている

 そうか「威嚇と威嚇の谷間に怯えがこだましている」のか。うーん、人間の威嚇はつねに怯えが原因なのか--なあんて意味は、それなりに「意味」を誘うねえ。つまり、そうか、と考えさせるねえ。
 でも、そんなことより。
 いや、でも、そういう考えというか、「意味」は最後の2行だけでは成立しない。というのは変な言い方だが、その最後の2行から「意味」、あるいは「論理」のようなものを感じるのだけれど、この「感じ」ははるか前から始まっている。
 と、私は感じる。
 最後の2行のつくりだす「意味」は、それはそれはとして--と書くとまた間違えてしまうのだけれど。この2行の「意味」の奥底、意味になる前の不安定なうごめきは、この2行のはるか前から始まっている。

何やら声高に喋くりながら

 なんでもないような1行なのだが、ここに「響きと響きの谷間」のようなものがすでに存在している。「なにやらこえだかにしゃべくりながら」と声に出してみると(私は音読はしないけれど、声を耳で確かめる癖がある--つまり、無意識に喉や舌を動かし、その動きを耳で感じる癖がある)、微妙でしょ? ふつう、こんな言い方をしないなあ。私ならば。
 「何やら声高に喋りながら」と私は書いてしまう。言ってしまう。「喋る」ではなく「喋くり」とそこに「く(か行)」が入ると、音が一気に二倍になる。「何やら声高に喋りながら」だと「な」にやら、「な」がらと「な」が響きあう。な「に」やら、こえだか「に」という「に(な行)」の音も響きあう。そうてして「こえだかに」が、ちょっといらいらする。舌の動きが忙しくて、その筋肉(神経?)の動きがわずらわしい。
 で、そのわずらわしいものに、しゃべ「く」り、と「か行」音がひとつ加わると、いっそう騒がしくなるはずなのに、これが騒がしくない。騒がしさになれてしまうというか、もっと騒がしくなってもいいという感じというか。
 矛盾した感覚が肉体の中でうごめく。
 この肉体のなかの感じが「威嚇の響きと威嚇の谷間に/怯えがかすかにこだましている」という表現と、生理的に結びつく。

 こういうことは、きっと、こんなふうに書いてもだれにもわからないかもしれない--と思いながら、でも、こういうことこそわかってほしいなあ、とも思う。

 「意味」はことばの論理の運動のようだけれど、そのことばが「音」を欠いたまま「頭」のなかだけに入ってくると詩にならない。「音」が耳から入ってきて、肉体のどこかに触れる。私の意識していないどこかに触れる。その微妙な接触が、「意味」をぐいと突き動かす。
 「音」のなかにある何か、声のなかにある何かが、意識できない「真実」を揺さぶる。まあ、この「真実」というのはほんとうは真実ではなく、「感覚の意見」というものかもしれないけれどねえ。

 あ。

 「感覚の意見」か--どこから、こんなことばがふいにでてきたのだろうか。書きながら、私は自分で驚いているのだが、そういう何か、思いもかけない考え(?)、勘違い、「誤読」を誘ってくれる。
 それが詩の魅力なのだと思う。

 ちょっと脱線しすぎたかな。というか、このまま「感覚の意見」を追いかけていくと、長くなりすぎるし、私自身、どうなっしまうかわからないので--これは、ふいに挿入された「欄外のメモ」と思ってください。

 詩にもどると……。
 私は小長谷の「音」がとても好きなのだ。小長谷の音には「周辺」があって「中心」がない--というのは、また変な言い方だが、音が「意味」の中心のことばではなく、「意味」の周辺のことばで響きあうところがあって、それが肉体なのかに不思議な空間(隙間」をつくる。小長谷のことばを借りて言えば「谷間」かもしれないけれど。
 「どこかわたしと似たような感じの」の「か」とか、「ろうにゃくなんにょ」という音、「ぞろぞろ」という音、さらに「しゃべる」「しゃも」という音。
 私だけの感覚なのかもしれないけれど、こういう音を聞いていると、私の肉体のなかに「音の肉体」ができてきて、「私」というものが二重化(?)され、あいまいにされる感じがするのである。そして、そのあいまいが、なぜか気持ちがいい。「音」が「意味」を解放しながら、どこにもなかった「意味」がそこから生まれてくるという感じかなあ。
 まあ、これも「感覚の意見」。真実を踏まえたことばではありません。つまり、厳密にテキストを読み、意味をまさぐった果ての結論ではないのだけれどね。

 2連目を省略して、3連目。

わたしは今 ノートを
慌ただしく捲り 捲り捲って
直線やら曲線やら斜線やらを
とめどなく走らせている
あたふたと書き込んでいる
迷図みたいな自画像みたいな
何かをスケッチしようとしている
迷図のどこか 中心でもなく辺境でもなく
あいまいな一点にあって

 「捲り 捲り捲って」よりも、「……やら……やら……やら」「……みたいな……みたいな」という音の繰り返しがつくりだす「感覚の意見」。
 ええっと。私の現代詩講座では、こういうとき受講生に質問する。

質問 「……やら……やら……やら」「……みたいな……みたいな」。
   意味はわかるよね。で、その「やら」や「みたいな」を自分のことばで
   言いなおすとどういう具合になる?

 答えられないよねえ。急に言われたって。
 私自身と、どういっていいかわからないから、時間稼ぎに質問するんだけれど。
 で、なんと言っていいかわからないのだけれど、この音の繰り返しがあって、

中心でもなく辺境でもない
 
 の「……でもなく……でもない」の「論理」が肉体のなかに自然にできて、それが「あいまいな一点」を納得させてしまう。(説得されてしまう。)
 しかも。

あいまいな一点にあって

 「あって」って、何だよ。「あって」どうしたんだよ、と言いたくなるひともいるかもしれないけれど、この連用形(?)の中途半端が、「感覚の意見」みたいな、感じ。

 うまいなあ。




わが友、泥ん人
小長谷 清実
書肆山田
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白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』

2012-06-17 11:53:07 | 詩集
白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社、2012年05月15日発行)

 白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』は活字がとても小さい。いまの私には読むのが非常に難しい。だから、いろいろなことを読み落とし、読みとばし、さまざまな誤読をしているかもしれない。でも、私がしたいのは「正しい読み方」ではなく「誤読」なのだから、それはそれでいいのだと自分に言って聞かせる。
 「宙に消え入る歌」の書き出し。

煉獄の地図を引く
春風におされてしまう羽根ペンが
海を描いている
きのうとおいとおい街のポスターに
あなたのなまえをみたよ ということは
ぼくはいま、どこかその辺りには いない

 「煉獄」が私にはわからないのだけれど(つまり自分のことばにはない、そういうものを肉体で覚えたことがないので、何をイメージしていいのかわからない)、そのあとが魅力的だ。
 「海を描いている」は「描いている」だから「絵(イメージ)」になるのだろうけれど、「海」と漢字を書いたときに、瞬間的に思い出す海そのものという感じがする。絵では描けないもの、絵をこえてそこにある「本来的な海」を思い出す。
 「本来的」なのものは遠くて近い。どんなに遠くても肉体のなかに覚えているものが「本来的」である。
 この感覚が「とおいとおい街」の「とおい」を「ちかいちかい」ものに変える。そして、もっとも「ちかい」存在である「あなた」と結びつく。
 けれど、この「とおい」と「ちかい」の矛盾した結びつき--接続と切断は、「ぼく」を不思議な具合に混乱させる。

ぼくはいま、どこかその辺りには いない

 「いる」ではなく「いない」ということで存在を明らかにする。
 どこにいるの?
 言わない。言えない。
 この矛盾のなかに抒情がある。

少女が
泳ぐのは
世界史の外がわ

 この不安定な抽象がいい。
 どこかに「いる」ことを「いない」ということで抽象化することばが、「世界史の外がわ」という抽象と「泳ぐ」という肉体の動きを結びつける。
 「本来的な海」が「世界史の外がわ」にある。
 でも、「世界史の外がわ」って、どこ?
 あ、これはわからなくていいんですね。
 「本来的な海」なのだから、どこにだって存在する。それを思うとき、そこに存在する。それが「本来的」ということだから。
 白鳥のことばは、何かしら「本来的」なものを中心におき、そのまわりに「本来的」なものと結びつく具象--具象なのだけれど、結びついた瞬間に抽象になってしまうようなものを接続させる。「本来的」な何かが、具象を抽象化し、普遍化するとでも言えばいいのかなあ。
 まあ、詩なのだから、これくらいにあいまいにごまかしておいて……。あ、これは白鳥のことではなく、私自身に向けて私が言っているんです。わけがわからなくなる前に、このへんでことばを中断して、次の思いつきを書こう--と促しているのです。
 で。

うみひいよう、うみ、ひい

 なぜだろう。「ひい、ふう、みい、よう」という数え方を思い出し、あ、ひいふ「うみ」いよう--「うみ」があると、海を見つけた感じ。
 「海のなかに母がある」なんていう気障(?)なことばではなく、そうか数を数えるときも「うみ」に触れているのか。それは、きっと「海のなかに母がある」の「海」よりも「本来的」だなあ、と思う。「海のなかに母がある」は「文字(視覚)」であるのに対し「ひいふうみいよう」は声(聴覚)だ。肉体そのものとの交渉が多い。文字は目と脳の結びつき。音は聴覚といいながら、喉をつかう。音のなかには喉と耳の出合いがあり、そこで感覚が融合する。感覚が肉体になる。そういうなかで覚える「うみ」は体から離れない。まあ、「海のなかに母がある」は「頭」から離れないだろうけれど、ね。

 ずーっと、飛ばして。「遮音室」。

湖底に束ねられた偽書へ
腰掛けていもうとは 七生子の髪を喰うだろう
次第に旧くなる外もまたひと束と数えられ 叫べない部屋を埋めるとしても
落ち髪のいつか凪ぐまでは
夜の訃報に被らせる二の腕は ぶれることを知らない
いもうとを待つゆびの腹が 日の色から 灯の白へうつり
航路の終端に 写真にない節気をおいてもどってゆく

 ここが美しい。なぜ、美しい、どこがどんなふうに、と問いかけられるとわからないのだけれど、美しいなあと思う。
 「日の色から 灯の白へうつり」というのは「ひ」という音がが「日」と「灯」の二つの文字に分かれ,その「日」という文字から「白」という文字経由の(?)音が生まれる--その不思議な感覚の融合が美しいのかもしれない。
 うーん、でも、こういうことは、書いてしまうと何かうるさいかなあ。
 そのあとの「写真にない節気をおいて」の「ない」は最初の詩に出てきた「いない」と同じだね。
 何かしら「不在」のものが「本来的」なものを引き寄せる。「ない(いない)」はブラックホールのようにすべてをのみこむのかな?
 そして、感覚(たとえば視覚と聴覚)を融合させ、そこに肉体を生み出し、その肉体を動かしはじめる。
 何か、そういうことを感じさせることばの運動が、白鳥の詩にはある。





晴れる空よりもうつくしいもの
白鳥 央堂
思潮社
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三井葉子「花野のいくさ」ほか

2012-06-16 08:41:25 | 詩(雑誌・同人誌)
三井葉子「花野のいくさ」ほか(「若葉頃」64、2012年05月発行)

 三井葉子「花野のいくさ」には、いくつかの時間が交錯する。

勝ってくるぞといさましく出でし花野の夕月夜かな

ほほ


下半身溶けるとあしはみえなるなる円山公園

そこはお曳きずりの裾で隠して男に逢いに行った


はきものがそろえてある芋坊(いもぼう)の京の煮物
おいしい
とも
言われへんけど
その なんともうすい味がよろしいのやろ
そうじて
濃いもんはなるべくつつしんで
うす味(あじ)に

きょうも医者に言われた
日本の体は濃いモンがきらいですのやろか

お父さま
おしずまりなさいませ と幸田文さんが父露伴の臨終に言った
 という話は粟津則雄さんの講演で聞いたが
いいことばですねと粟津さんも言われたけれど
わかしもそう思う

お父さま
おしずまりなさいませ

 若いころ、男に逢いに行った時間。医者通いしているいまの時間。そして粟津則雄の講演を聞いた時間。そして、その時間に、若いころの肉体、いまの肉体、幸田露伴の臨終の肉体、それを見つめる娘の肉体。--時間が、時間という抽象のままあるのではなく、肉体として重なってくる。
 肉体には、時間を統合する力が自然とそなわっている。時間が過ぎていっても、「私の肉体」は「私の肉体」のままだからねえ。細胞が次々に死んで、細胞が次々に生まれる。その切断と接続。これが「私の肉体」だけなら、なんともないのだが、どうして人間は「他人の肉体」とも重なってしまうのだろう。「他人の肉体」まで、統合してしまうのだろう。
 肉体には、何かしら不思議な力がある。
 それはたとえば、「濃いもんはなるべくつつしんで」と医者から忠告される「肉体」と臨終の露伴の肉体と重なりながら、すーっとそこからずれて露伴の娘・文の肉体を往復する。
 さらに、これが粟津則雄のことばというか、それを話している粟津則雄とも重なる。
 厳密にあれこれ言おうとすると、だんだん書きたいことが(書きたかったことが)ずれてきて、ことばが乱れてくるが……。
 そういうものをひっくるめて、三井は全部「自分の肉体」にしてしまう。自分の肉体をとおして、ことばにしてしまう。
 そのとき、ことばにあわせて、それぞれの肉体が三井の肉体から飛び出す。溢れだす。ことばと肉体も往復(?)する。

 あ、ますます混乱してくるなあ。
 まあ、いいか。

 で。
 最後の。

お父さま
おしずまりなさいませ

 これが、不思議。とても不思議。
 「お父さま」は露伴? それとも三井の父? 父の臨終に立ち会ったことを思い出して、ああ、あのとき「お父さま/おしずまりなさいませ」と言えばどんなによかったろうと思い出している?
 それとも、三井自身?
 こんなことを書くのは不謹慎と言われるかもしれないけれど……。もし、自分が臨終のときを迎えたら、この「お父さま/おしずまりなさいませ」を自分に言い聞かせようと思ったのかな?
 他人の肉体が自分に重なるなら、自分の肉体を他人の肉体に重ねてもいいじゃないか、と私は思う。そういう「思想(肉体)」を三井のことばの運動に感じる。



 斎藤京子「阿蘇」は同窓会であった同級生のことを書いている。シスターになり、チャドで奉仕の生活。水が貴重なので15年間風呂に入らなかったという。そのシスターが、

温泉はわたし初めてなのよ
どうやって入るの?
不安そうに尋ねる顔に
若い頃の面影がよぎった

 ふいに他人の肉体が動く。いまの肉体。そして若い頃の肉体。その瞬間、斎藤の肉体も一瞬、若い肉体にもどる。その重なりが自然でおもしろい。そこにあらわれる時間の姿がおもしろい。



人文―三井葉子詩集
三井葉子
編集工房ノア
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