詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日米韓の連携はありうるか

2017-07-31 11:13:28 | 自民党憲法改正草案を読む
日米韓の連携はありうるか
               自民党憲法改正草案を読む/番外110 (情報の読み方)
 2017年07月31日読売新聞(西部版・14版)の一面。

米爆撃機と空自訓練/朝鮮半島沖 米韓も合同訓練

 という見出し。北朝鮮のICBM実験を受けた訓練である。北朝鮮が実際にICBMを発射したら、どう対処するか。

 航空自衛隊のF2戦闘機2機と米空軍のB1戦略爆撃機2機が30日、九州西方から朝鮮半島沖にかけた空域で共同訓練を行った。岸田外相兼防衛相が同日、防衛省内で記者団に明らかにした。北朝鮮による28日の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射を受け、日米同盟の結束を示す狙いがある。
 韓国軍は30日、B1が韓国空軍のF15戦闘機4機とも合同演習を行ったと発表した。発表によると、B1は30日に米領グアムのアンダーセン空軍基地を飛び立った後、空自の戦闘機2機と合流して訓練を実施。さらに朝鮮半島へ向かい、韓国軍機と演習を行った。

 何気なく読んでいたのだが、米軍と自衛隊は共同訓練をしている。米軍と韓国軍も共同訓練をしている。しかし日韓は共同訓練をしていない。
 ここから「有事」の際に、日韓がほんとうに共同で行動することがあるかどうか、疑問が生まれる。
 韓国軍と米軍は朝鮮戦争で、共同して北朝鮮と戦っている。共同した経験がある。
 一方、日本は韓国と共同して戦ったことはない。日本が韓国を侵略した。韓国は被害者である。もし「有事」の際、自衛隊が韓国内に入ることがあったら、それは韓国人にはどうみえるだろうか。第二次大戦の記憶が甦るのではないだろうか。
 また、自衛隊が北朝鮮を攻撃したとき、それはどう見えるだろうか。同胞(同じ民族)への攻撃に見えないか。政治体制と民族の血と、どちらが人間を強く動かすか。私は感覚人のことをよく知らないが、私の予測では民族の血の方が強いと思う。北朝鮮も日本軍によって被害を受けた。また被害を受けようとしている。そう思うと、韓国国民の怒りは日本に向けられるのではないか。
 日韓の合同戦闘は、私は不可能だと思う。だから訓練もしないのだと思う。
 米韓は「政治体制」を守るという意識で合同で戦える。けれど日米も同じ。けれど日韓は「政治体制」を守るという視点からだけで、共同戦線を構築するのはむずかしい。日韓の歴史が尾を引いている。
 
 で、「訓練」の内容に目を向けると、また違ったことも見えてくる。
 自衛隊はF2戦闘機2機、韓国軍はF15戦闘機4機が参加している。なぜ、自衛隊と韓国軍では参加している戦闘機の機種が違う? 日米と米韓では訓練内要そのものが違うのではないか。
 新聞には、そういうことが書いていない。
 だから、これから書くのは私の空想である。戦闘機の情報も聞きかじりであって、正確なものかどうかわからない。
 ある情報によると、F2戦闘機は「空中戦」向けではないらしい。対艦攻撃、対地攻撃向けらしい。一方、F15は対空中戦向けらしい。スピードや配備されている武器も違うようだ。
 自衛隊は海上で戦うことを想定し、韓国軍は空中で戦うことを想定して訓練したということか。韓国軍は、また、北朝鮮の「領土」への攻撃を考えていないということかもしれない。「空中」で限られた戦闘は想定しているが、一般市民をまきこむ可能性のある地上への攻撃を想定していないということかもしれない。同胞への攻撃を極力控えたいということかもしれない。
 もし北朝鮮の「基地」を攻撃するなら、それは米軍、あるいは米軍とともに行動する自衛隊ということになるか。
 さて、そうなったとき、では北朝鮮は、どういう攻撃に出るのか。(あるいは、米軍、自衛隊、韓国軍は、どういう攻撃があると想定しているのか。)
 北朝鮮は韓国領土の「基地」を攻撃しない。たぶん、同胞の血を流したくないという思いがある。
 けれど、日本にある基地(自衛隊、米軍を含む)へと攻撃をするだろうなあ。
 日本に対しては第二次大戦時の思いがある。米国に対しては、北朝鮮が苦しい状況に置かれているのはアメリカのせいだという思いがある。ICBM自体、アメリカ本土を狙って開発されたものであって、日本を狙って開発されたものではない。
 北朝鮮は日本を交渉相手とは考えていない。交渉相手はアメリカだけである。
 北朝鮮が日本を攻撃するとすれば、まず米軍の基地である。自衛隊は、米軍基地への攻撃を防ぐために動員され、北朝鮮とアメリカとの戦争にまきこまれるということだろう。

 岸田氏は日米共同訓練に関し、記者団に「日米同盟全体の抑止力、対処力をいっそう強化し、地域の安定化に向けた意思と高い能力を示すものだ」と語った。

 このとき「日米同盟」とは、日本が攻撃されたとき、米軍は日本を助けるという「意味」ではないだろう。日本にある米軍基地が攻撃されたとき(アメリかが攻撃されたとき)、日本が自衛隊を出動させるということだろう。そのための訓練をした、ということだろう。
 日本に「戦略」があるわけではない。
 北朝鮮に「戦略」があり、アメリカに「戦略」がある。日本はアメリカの「戦略」に利用されているだけなのだが、「利用されている」というかわりに、北朝鮮の脅威を宣伝しているとしか思えない。
 もしほんとうに北朝鮮の脅威を言うのなら、日本はまず韓国との関係を改善する方が先だろう。日韓が一緒に軍事訓練をしろというわけではないが、北朝鮮に対して共同して行動できるシステムを作る必要がある。韓国の頭越しに(領土、領海を飛び越して)、北朝鮮と対峙するというのは、韓国の「反発」を強めるだけだろう。



 少し話題は違うが。先日、朝鮮学校への教育費無償化問題について、大阪地裁の判決が出た。民主党時代に無償化したのを、安倍政権は取り消した。その対応を「違法」と認定した。
 これは安倍が打ち出している憲法改正、教育費の無償化と結びつけて考えてみる。
 まず安倍は「無償化」といいながら、「無償」の対象を限定する。政権にとって都合の悪いものは「対象外」とする。朝鮮学校の場合は、朝鮮総連との関係が理由だったが、他のことも理由になるはずである。安倍政権を批判するということを目的にした「学問」に対しては、同じように「無償化」は「対象外」とされるだろう。安倍政権に都合のいい「学問」は積極的に推奨されることになるだろう。「教育勅語」を復活させるための法的根拠を研究することにはどんどん補助がつぎ込まれるということになりかねない。
 「教育費無償化」を隠れ蓑にして、思想の統制がはじまる。
 憲法第十九条は

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 と言っているが、これを完全に否定する。安倍が狙っているのは、安倍にとって都合のいい思想は支援するが、そうでないものは弾圧するということだろう。
 ここから、もう一度朝鮮学校への教育費無償化対象外という安倍の措置を見つめなおすと、それは思想統制の一種だったのである。朝鮮学校が対象であるために、日本人には思想統制(思想の自由の侵害)には見えにくいかもしれないが、思想への攻撃だったのである。
 こういう攻撃は「血」が流れないために悲惨さが見えにくい。暴力として見えにくい。けれど、れっきとした暴力である。
 こういう「見えにくい暴力」が北朝鮮の「反感」をあおるかもしれない。そういうことも考えるべきである。戦争を回避するには、戦争を起こさなければやっていけないという気持ちを根底から変えることが重要だ。朝鮮学校への「差別」は、けっして日本の「利」にはならない。

 また、先の民主党の「教育費無償化」は憲法を改正しなくてもできたことである。同じように安倍も憲法を改正しなくても「無償化」できるはずである。それをあえて「無償化」を憲法に盛り込むのは、他の魂胆があるからだ。「自衛隊を憲法に付け加え、合憲化する」ということと抱き合わせで憲法を改正する。「自衛隊合憲化」だけでは賛成が得られないかもしれない。だから「教育費無償化」と抱き合わせ、反対という人には「教育費を無償化することが悪いのか」と批判するつもりなのだろう。


#安倍を許さない #憲法改正 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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橋場仁奈『空と鉄骨』

2017-07-31 06:27:40 | 詩集
橋場仁奈『空と鉄骨』(荊冠社、2017年06月14日発行)

 橋場仁奈『空と鉄骨』は奇妙な詩集である。
 
ある日、のびてくる
何もない空からのびてくる
からんとした空の向こうから
高く細くきらきらと鉄骨はのびて
斜めにななめにやがてロープが1本、下りてくる         (飛び散る午後)

空の空き地を見つめていれば
鉄骨はのびてきて
すこしずつ斜めになって
向こう側からこちら側へアームは回され
梯子は回され雪の舞い散る空から
ロープが1本吊り下がっている            (空と鉄骨と1本のロープ)

朝、鉄骨はのびて
するすると梯子はのびてロープはゆれる
ゆれてぶら下がっている                  (朝、鉄骨はのびて)

おはよう鉄骨、
おはよう鉄骨、長い休みのあいだ
折りたたまれていたけれど
今朝はのびてくる青葉の中からのびて
高く細くするすると中空へとのびて
やがて斜めになってロープが下りてくる                 (GW)

 引用しているときりがないが、詩の世界がつながっている。詩集は、まあ、何篇かの詩で世界を描いて見せるというものだから、そこにつながりがあるのは当然なのだが、その「つながり方」がしつこい。
 少しずつかわっていく。その変化をつうじて世界が広がっていくのだけれど、しゃきっとしない。「完結」というか、「結晶」というか、そういうものと無縁である。だらだらした「長編小説」のようである。
 前の詩で読んだようなこと、ことばがつながりながら、また別なことばとつながっていく。世界ははりめぐらされた電線でつながっていく。
 それで、その結果、どうなるの?
 うーん、そんなことは、どうでもいいんだろうなあ。つながっているということを書きたいのだろう。
 つながりながら、

吊り下げられている

 この感じなのかなあ。中途半端。不安定。不安定だから、さらにつながるのか。
 よくわからないが、あ、こんなふうなだらだらとした書き方があったのか、と驚いた。詩というものに対する「常識」をたたき壊された感じ。

 めんどうくさい感じ、はやく終わってくれないかなあ、と思いながら、他人の話を聞いている感じ。この終わらない感じがこのひとの特徴なんだなあと思いながら、じっと耐えてことばを聞いている感じ。
 あ、否定的なことばばかり並べたけれど、否定的なことばでしか語れない妙なおもしろさもある。

詩を読む詩をつかむ
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岩佐なを「仕事」(「孔雀船」90、2017年07月15日発行)

2017-07-30 09:33:48 | オフィーリア2016
岩佐なを「仕事」(「孔雀船」90、2017年07月15日発行)

 岩佐なを。また、気持ち悪い詩に戻った。「仕事」。

ひと気のない公園へ行っては
気になる樹をみつけその
肌に両掌をおしあててみる
性別があっても問わない
一本の気配や息づかいを
触覚でおぼえて言葉にしない

 公園へ行って、木に触る。そこから何かをつかみとる。そういうことを書いているのだと思うが。
 なんだろうなあ。
 書かれている「こと」そのものが気持ち悪いわけではない。木から「鋭気」をもらう、というのは岩佐以外の人もするかもしれない。
 「触覚で覚え(る)」というのは、「肉体」にグイと迫ってきて、あ、ここが核心だなあと思うのだが、どうも気持ちが悪い。
 「意味」ではなく、たぶん、リズムだな。

気になる樹をみつけその

 この「その」が特徴的だ。この「その」はなくても「意味」は通じるが、岩佐は「その」と書く。「その」と書いた後、一呼吸置いて(改行して)「肌」ということばにたどりつく。そのときの「ねちっこさ」。これが、気持ち悪い。
 「両掌」の「両」も「ねちっこい」。言い換えると、なくても「意味」は通じる。「おしあててみる」の「おし」も「みる」も「ねちっこい」。なくても「意味」は通じる。

公園へ行って
樹をみつけ
掌をあてる

 ほら、通じるでしょ?
 「幹」を「肌」と言っているのも「ねちっこい」。「肌」が「性別」と言い換えられるのも「ねちっこい」。こっちの「ねちっこさ」は「その」のように、なくてもいい、という「ねちっこさ」とは少し違う。妙に、余分な深みにはまっていく感じがする。
 で。
 いま書いた「余分」。
 これが「ねちっこさ」に共通している。
 どうも余分なことを書いている。言い換えると、「どうでもいいこと」を書いている。もちろんこれは説明のための極端な言い方なのだが。
 逆に言いなおすと、こうなる。
 「余分なところ」とは、つまり岩佐の個性である。だから、その「余分」をとってしまうと、単なるストーリーになる。「余分」こそが岩佐の詩を支えている。まあ、これは、だれの詩についても言えることだから、これでは岩佐の詩についての感想にならないのだが。
 「余分」の「特徴」について説明しないといけない。私が感じていることを書かないといけない。
 で、そうしようとすると、「うーん、気持ち悪い」という感じになってしまう。

あらためてみどりの匂いについて
記憶をまさぐる
子どものころの嗅覚は
年齢を経て立体から
平面に変わってしまった

 わっ、何だかすごいことが書いてある。「すごい」をどう言いなおせばいいのかわからないが、おっ「哲学」が書いてある、新しいことが書いてあると思い、どきどきする。
 どきどきするんだけれど。
 「みどり」(色)が「匂い」ということばでとらえられ、「まさぐる」という動詞と結びつくと、そこに前に読んだ「肌」とか「掌」という「主語」が侵入してきて、「触覚」が目覚める。「色(視覚)」「匂い(嗅覚)」と「まさぐる(触覚)」が、融合するというよりも「ねばる」、まじりすぎて「ねちっこくなる」。まじりすぎては「余分に」まじって、ということかなあ。
 何かが、妙に多い。

ふくよかに起立してる新緑の香が
黒一色で描かれていくふうに
悪いことではない趣はある
仕事場の机上では酉の内という
和紙が広げられ墨と筆で
たくましくしぶとい樹の胴体を描く
掌で想いおこすべき
こうしてああして触ったじゃないか
小声で念を吐く
こうなったら
色をほどこすことで
幹の肉の秘香を
引き出さなくてはねと聞こえる
耳 あすのあさはあらためて
公園へ味見しに行く
舌 あさってのよるもああ
仕事

 「趣はある」なんていう「哲学(概念化された意識)」が書かれた後、「胴体」を「こうしてああして触ったじゃないか」(こうしてああして、が余分)のあと、端折って書くと、声、耳、舌とあらゆる感覚器官があつまってきて、ごっちゃりとねばる。
 私は、こういう「感覚の融合」というのは「肉体」そのものをつかみとっているで、とても好きなのだが、どうも岩佐の場合、それが「多すぎる」。融合しすぎて、ねばっこい。
 これが、私には苦手。
 これはすごいなあ、と思いながら、うっ、気持ち悪いなあと思う。肉体が感覚レベルでリアルにいきなおされている。しつこく再現されすぎている。細密すぎる。私の肉体は岩佐のように貪欲ではないということなのかもしれない。岩佐の肉体は貪欲で強靱である。その強さの前に、私の方がひるんでしまうと言いなおせばいいのかもしれない。

 気持ち悪いは、すぐに快感に変わってしまうものではあるけれど。
 快感は気持ち悪いにもすぐに変わるとも言える。

パンと、
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甘里君香『ロンリーアマテラス』

2017-07-29 10:14:31 | 詩集
甘里君香『ロンリーアマテラス』(思潮社、2017年04月30日発行)

 甘里君香『ロンリーアマテラス』には母と子の姿が書かれている詩が何篇かある。読みながら、甘里は母なのだろうか、子なのだろうか、と思う。
 「食べるのは嫌いなの」

ほらもう
これしかないの
おかあさんは
おこったような顔で
お財布をひらく
白いお金
茶色いお金
きいろいお金
が底の方に
重なっている

いつものもやしと
いつもの豚こま
を買って
黙ったまま
おうちに帰る

おかあさんは
痩せっぽちで
猫背の私に
たくさん
食べなさいっていう

食べるのは
嫌いなの

 最初の「おかあさん」は甘里の母と読むことができる。幼いときの思い出を書いているのだと読むことができる。もちろんそこに書かれている「お母さん」が甘里で、それを子どもの視点から詩と読むこともできる。自分を対象化することで、「いま」から自分を救い出そうとしていると読むこともできる。
 どちらであってもいいと思う。言い換えると、ここでは、私は甘里と母なのか、子なのかと悩んでいない。
 ああ、どっちかなあ、と考えてしまったのは……。

おかあさんは
痩せっぽちで
猫背の私に
たくさん
食べなさいっていう

 この「痩せっぽちで」である。おかあさんを修飾しているのか、私を修飾しているのか。「おかあさんは痩せっぽち」なのか。「痩せっぽちで猫背」なのが私のなのか。
 たぶん後者なのだが(後半に、はっきりそう書かれている)、私は「おかあさんは痩せっぽち」と読みたい。どこかで、そう「誤読」したいと思ってしまう。
 それは、その次の連。

食べるのは
嫌いなの

 これを、だれのことばと思って読むかに影響してくる。ふつうは子どもの声だと思って読むのだろう。おかあさんが「たくさん食べなさい」と言っている。でも「私は、食べるのは嫌いなの」と口答えしている。
 しかし、私はどうしても、これを母のことばとして読んでしまう。
 そのときは、四連目と五連目の間に、こんなことばが入るだろう。

おかあさんは
食べないの?

 母親が子どものために節約に節約を重ねてごはんをつくってくれる。それは小さな皿に載っている。一人前だ。子どもは思わず、「おかあさんは食べないの?」と聞く。母親は、「おかあさんはね、食べるのは嫌いなの(いまは食べたくないの)」と答えてしまう。そう答えないと、子どもが食べないから。
 子どもには、それがわかっている。
 そしてわかっているから、今度は、こどもが「食べない、食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。
 母と子が、互いに相手のことを思い、強情になっている。

 これはだれの台詞、この母は甘里なのか、子どもが甘里なのか、という「問い」は、そういうとき「邪魔」である。区別はできない。二人は交互にいれかわる。お互いにお互いの気持ちがわかる。「現実」がわかる。わかって、どうしようもなく、我を張ってしまう。「二人で食べようね」にはならない。料理が足りないとわかっているから。お金がないとわかっているから。

 途中を省略する。最後の方は、こうなっている。

おかあさんは
ほらもう
これしかないの
とお財布のなかの
白いお金と
茶色いお金と
きいろいお金を
見せる

食べるのは
嫌いなの

だけど
知ってる?
ほんとうは
おかあさんが
嫌いなの

知ってる?
ほんとうは

 食べたくないわけではない。食べたい。だけど「食べるのは嫌いなの」と言ってしまう。そう言わないとすまないような状況に追い込むおかあさんが嫌い。いっしょに食べないおかあさんが嫌い。貧乏が嫌い。
 でも、それだけではないのだ。そんな理由で強情を張っているわけではない。
 最終連の「知ってる?/ほんとうは」は、直前のことばを繰り返しているのではない。そのあとには語られない(書かれない)ことばがある。

知ってる?
ほんとうは
おかあさんが
大好きなの

 好きなのに、好きといえない。好きをどう伝えていいかわからない。「おかあさん、食べて」と言えば、おかあさんは叱る。だから、「食べるのは/嫌いなの」と言ってしまう。私が食べなければ、おかあさんが食べるだろう。
 子どもは子どもで、精一杯考えて、そんなことばを口にする。
 このとき、そのことばを聞いた母はすべてがわかる。母は母であって、同時に子どもの気持ちになっている。

 この詩のなかでは、母と子どもが、完全に「ひとつ」になっている。母には子どものことがわかるし、子どもには母のことがわかる。わかるから、どうしようもなく、互いに我を張る。
 そこに、愛がある。
 ここに書かれているおかあさんが甘里なのか、子どもが甘里なのか。区別してもはじまらない。区別しないで、両方と思って読んでみたい。

 行の展開の仕方(改行の仕方)も、とても気持ちがいい。音が自然で美しい。ワープロで書いているというよりも、「声」で書いている。「声」を確かめながら、自分で自分の「声」を聞きながら書いている。

白いお金
茶色いお金
きいろいお金
が底の方に

いつものもやしと
いつもの豚こま
を買って

 助詞「が」「を」が行頭にきている。「きいろいお金が」「いつもの豚こまを」の方が「文法」的には正しいのかもしれないが、そういう正しさよりも、ことば(もの)を確かめながら、確かめたあと、ことばを動かすという感じが切実でとてもいい。切実さがそのまま「音楽」になっている。

ロンリーアマテラス
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引責か、隠蔽か

2017-07-28 10:07:07 | 自民党憲法改正草案を読む
稲田辞任(引責か、隠蔽か)
               自民党憲法改正草案を読む/番外110 (情報の読み方)
 2017年07月22日のブログで「稲田は第二の甘利か」と書いた。その予測通りになった。
 先日の「国会閉会審査」は安倍と加計学園との関係が焦点だったが、稲田の「陸地日報隠し」関与問題が直前に発覚し、野党の追及は分散してしまった。稲田が、いわば「弾除け」になった。
 稲田は安倍のお気に入りだから、安倍が稲田を「弾除け」にするはずがない、と思う人がいるかもしれないが、天皇さえ「生前退位」させ、憲法改正の邪魔にならないようにするのだから、稲田を「弾除け」につかうことなど、安倍にとっては何の問題もない。それまでかばってきたのだから、最後は利用させてもらう、ということだろう。だから自衛隊側から漏れてきた「稲田は日報隠しを知っていた」という情報も、きっと安倍が根回ししてリークさせたものだろう。
 また、きのう発表された「辞意」そのものも、「日報問題」をうやむやにするための工作である。甘利の辞任と引き換えにTPP法案を成立させたように、稲田の辞任と引き換えに「日報問題」を封印する。きょう監察結果が公表されるが、責任者の稲田が「辞任」しては、発表する責任者がいない。内容について、だれが責任を持って質問に答えるのか。稲田が辞任するのだから、もうこの問題はいいじゃないか、と封印されてしまう。
 陸上幕僚長が辞任し、稲田と防衛次官が辞任し、「制服」側も「文民」側も責任者が辞任する。「痛み分け」、あるいは「喧嘩両成敗(?)」のような感じで、何もなかったことにしてしまう。
 これは、ひどい。
 また、もう一つのことも考慮すべきかもしれない。27日、稲田に先立って蓮舫も民進党代表を辞めると表明した。野党ががたがたしている。この機会に、一気に問題を「処理」してまう。なかったことにしてしまえ、ということだろう。少なくとも民進党は稲田問題(日報問題)を追及しようにも、党内のごたごたを整理するのにエネルギーをとられてしまって集中できないだろう。
 安倍は、こういう「政局」の処理の手筈は巧みだ。
 甘利に内閣復帰への「密約」があったように、稲田にもおいしい「密約」があるのだろう。
 読売新聞(西部版・14版)社会面には、稲田の最近の様子が統合幕僚監部の幹部の証言として、こう書かれている。

稲田氏が、今週に入り、満面の笑みで周囲に接するようになった。この幹部は「統幕内でも、『なにかある』と話題になっていた。数日前から決断していたのではないか」と推測した。

 私は、「数日前」に安倍から「次の次の内閣で入閣させるから」という「密約」をもらったのだろうと読んだ。国会審議で「弾除け」になり、日報問題の監査結果が公表される直前に辞任することで、今度は稲田自身がさまざまな追及の攻撃から完全に身を隠してしまう。「辞任」が「弾除け」になる。

 「引責」とは、変なことばである。
 問題の解明は、だれかが辞めることで明確になるわけではない。問題を明確にした上で辞めるのでなければ、「どんな責任」があったのか、「どうすべきだったのか」があいまいなまま処理される。
 すべてを封印して、一個人の身分と引き換えにしてしまう。
 政治とは、ことばである。ことばで説明しなければならないことを、「身分を捨てる」ことで封印する。
 「引責辞任」ではなく、「隠蔽辞任」である。

#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
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パオロ・ジェノベーゼ監督「おとなの事情」(★★★)

2017-07-27 08:47:37 | 映画
パオロ・ジェノベーゼ監督「おとなの事情」(★★★)

監督 パオロ・ジェノベーゼ 出演 スマートフォン

 三組の夫婦、一人の独身男が集まり、食事会。一組の「新婚」のお祝いを兼ねているのかも。その食事のテーブルで、ゲームが始まる。
 電話がかかってきたらスピーカーをとおして会話する。着信したメールは公開する。みんな親友なのだから「秘密」はないはず。でしょ?
 でもね。
 みんな「秘密」をもっている。それが電話、メールのたびに明らかになって、だんだんそれぞれの夫婦仲があやしくなってくる。愛していることに間違いはないのだけれど、不信感が強くなる。愛は最初は強くてだんだん弱くなるのに対して、不信感は一度持ってしまうと消えることがない。愛とはまったく逆に動く。
 問題は(?)は、このグループにゲイがいたこと。
 一人の男が「女が毎晩写真を送ってくる。スマホが同じだからきょうだけ交換して」と独身男に頼む。で、なんとか「女の写真」問題を乗り越えるのだが。そこへ独身男の恋人からメールがくる。電話がかかってくる。ゲイだった。突然、ゲイを隠していたことになってしまう。みんなの態度ががらりと変わる。「俺はゲイげはない。この電話は俺のではない」と言ってしまうと、クリアしたばかりの「女の写真」の問題が持ち上がってくる。隠していただけに、問題は大きくなる。どうしよう……というどたばたがある。
 ほかは、精力をもてあまし何人もの女に手を出していることがばれたり、フェイスブックの男とメールのやりとりをしていたりという、まあ、「単発」ものというか、話題(?)が他人にはあまり広がっていかない。
 そのなかで、「秘密ではない秘密」がある。高校生の娘から父親に電話がかかってくる。「男友だちの家に誘われたのだけれど、行っていい?」これに対する「答え」がなかなか心を揺さぶる。そうなることが半ば予想できたのだろう、父親は娘にコンドームを渡していた。娘はそのことも電話で語る。「コンドームをくれたのは初めて。どうしてくれたの?」さて。いろいろなことを言うのだが「笑って家に帰れるという自信(?)があるなら、男友だちのところへ行きなさい。そうでないなら、ことわりなさい」というような結論。
 ここが美しすぎて、コメディーになりきれていない。
 のが、残念だけれど。
 このシーンと、ラストシーンが好きだなあ。ゲイの男にはときどき「エクササイズメール」がくる。それがくると何をしていても体操をする。そうすると減量できるというシステム。車を運転して帰る途中、そのメールがくる。橋の上。車をとめて、歩道で体操をはじめる。その律儀なおかしさが、とてもうれしい。
 いろいろあったけど、なんとなく元におさまってめでたしめでたし。いつもとおなじことがつづくだけ。いや、つづけるだけ。それが夫婦。その感じがとてもよく出ている。独身の男に、そういうことを象徴させているのが、軽くていい。
 ほぼ会話だけ、ほとんど一室でのストーリーなのだが、脚本が非常によくできていて、それぞれの登場人物をいきいきとさせている。
                     (KBCシネマ1、2017年07月26日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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林嗣夫『林嗣夫詩集』

2017-07-26 11:54:34 | 詩集
林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫134 )(土曜美術出版販売発行)

 林嗣夫『林嗣夫詩集』に『四万十川』の全篇が収録されている。集落の「墓移し」を書いている。「三、豊おじはひょっとしたら」は、こう始まる。

こっちの春おばのところへ行っちょりやせんやろうか
生きちょる時にはようけんかもしよったけんど
ほんとうは仲が良かったがぜ
墓の下で一緒になっちょるかもしれん はは

 集落全員で作業をしている。昔の思い出がいろいろまじってくる。こういうとき、「口語」というのは強い。ことばをととのえるのが「肉体」だからである。「欲望」だからである。
 「一緒になっちょる」というのは単に隣り合わせにいる、そばにいる、ということではない。一緒に暮らす、つまりセックスもするということだ。これは同時に、生きていたときだって「春おばのところへ行っちょりやせんやろうか」ということでもある。夜這いに出掛けている。こっそりセックスをしている。
 それが「事実」かどうかわからないが、いまとなっては「事実」になってしまう。「事実」はとりつくろってもはじまらない。あるがままにしておくしかない。
 一方で、こういうこともある。祖父の遺骨がなかなか見つからない。やっと頭蓋骨が見つかる。

筏流しを請け負って失敗し 多くの借財をかかえ込み
酒やら何やらで家族を泣かせ……
いまはひとすくいの空洞である

 遺骨を前にして、「過去」がぱっと浮かんでくる。
 そのあと、

さあ これじゃあ壺に入らんねえ 割るか
父がくわを取り
手ごころを加えるように降りおろす
ぽこん!

鈍い音がして頭蓋骨はつぶれるように割れた
あの 祖父という不思議な世界はどこにもない
骨の内側に
湿ったわたぼこなのようなものだけをこびりつかせて
これでもか これでもか というように
父は何回もくわをたたきつける

 最初は遠慮している。配慮している。死をうやまっている。けれど、違う気持ちもまじってくる。生きているときはできなかったことをしている。うらみ、つらみをぶっつけ始める。
 それは父にしかわからないことなのだけれど。
 林にもわかってしまう。
 父の苦しみ、悲しみがわかってしまう。祖父のために苦労した。それを林は肉体で覚えている。もしかすると林自身も苦労したかもしれない。祖父なんか大嫌いと思ったことがあったかもしれない。
 「これでもか これでもか」というのは父の思いであると同時に林の思いでもある。私と私以外のものの「思い」が重なり合う。つながってしまう。それが「家族」というものであり、また小さな「集落」の「生き方」でもある。
 そこではすべてが「共存」する。許される。
 遺骨をたたき割らないといけない悲しみ、遺骨までたたき割ってしまいたい怒り、苦しみ、怒りを発散する喜び。ことばにしてしまうと、そのすべてが違ったものになってしまうが、入り乱れる思いが「ひとつ」の肉体のなかで動くように、「ひとつ」の暮らしのなかで、そこに生きる人の欲望も論理もからみついて動く。それが「集落」であり、「家族」である。そして、それはそのまま「肉体」なのだ。切り離すと、「いのち」がなくなる。死んでしまう。
 だからこそ「墓移し」をするだろう。「死者」をふくめて「肉体」なのである。「ひとつ」なのである。

 いまは「ひとつ」の家族でも、ここに書かれている「関係」を生きることがむずかしくなっている。
 林の詩には、その土地の「口語(話しことば)」と「書きことば(標準語)」がまじっている。「口語」が「口語」としての自然な力を持っていた最後の時代かもしれない、ということも少し考えた。
 いま、林の詩のように「口語」をいきいきと響かせながら「集落」の最後を詩として書き残すことはむずかしいかもしれないとも感じた。

* 

 私は、ふと、加計学園問題をめぐる安倍の「閉会中審査」での答弁を思うのである。
 安倍は加計理事長とは「おごったり、おごられたり」の関係にあると言った。(正確には、そういうことばではないが。)これは、ふいに口をついて出たことばであり、「ほんとう」のことである。
 一方で、加計学園が獣医学部を新設することを計画していたということを「一月二十日まで知らなかった」と言った。これは意識化されたことば、「嘘」である。嘘を「論理的」に説明するために、安倍は四苦八苦している。あらゆる「仲間」を動員して「記憶にない」と言わせている。「口語」を封印して、「嘘」の整合性をでっちあげようとしている。「嘘」の完成を画策している。
 「ほんとう」への返り方を知らない。
 林は、知っている。林の描いている父親をはじめ、「集落」の人間はみんな「ほんとう」への返り方を知っている。

こっちの春おばのところへ行っちょりやせんやろうか
生きちょる時にはようけんかしよったけんど
ほんとうは仲が良かったがぜ
墓の下で一緒になっちょるかもしれん はは

 これを安倍の答弁にあてはめれば、

ゴルフ代も食事代も全部おごらせて
あのときは偉そうなに「認可」はまかけておけといっていたが
ほんとうは加計に利用された
いまごろ 必死になって獣医学部の話はしたことがないと言ってくれ と
加計に頭を下げて頼み込んでいるかもしれん ははは

 ということになるかも。
 こういうのが「口語」の納得の仕方。
 「おごったり、おごられたりする」と言ってしまった以上、全部「口語」でいわない限り、誰も納得はしない。
 一緒に暮らしていない人の「口裏あわせ」は、どんどん亀裂がひろがる。論理的に語ろうとすればするほど嘘が大きくなる。論理の嘘を、ひとは許さない。



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「おごったり、おごられたり」(論理、倫理、生理)

2017-07-25 11:03:37 | 自民党憲法改正草案を読む
「おごったり、おごられたり」(論理、倫理、生理)
               自民党憲法改正草案を読む/番外109 (情報の読み方)
 2017年07月24日の衆院閉会中審査で、加計学園理事長との関係を問われて、安倍は「おごったり、おごられたり」の関係だと語った。これを新聞は、どう書いているか。
 読売新聞2017年07月25日朝刊(西部版・14版)を読んでみる。
 三面に、民進党・大串の質問に対する答えとして、

「何か頼まれてごちそうされたことは一切ない」

 という部分だけが、記事として書かれている。
 やりとりの「図」では

安倍「学生時代からの友人。自分のゴルフ代は自分で払っている。食事代は先方が持つ場合もある」
大串「国家公務員は倫理規定で利害関係社とゴルフが禁止されている。大問題だ」

 とある。
 七面の「詳報」は、

大串氏「昨年の夏以降、極端に理事長とのコンタクトが増えている。食事やゴルフ料金は首相がちゃんと持っているのか」
首相「私のプレー代は私が払っている。食事代については友人関係なので私がごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もあるが、何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」
大串氏「国家公務員は権力関係にある人と食事をしてはいけない倫理規定がある」

 表現に「微妙」なずれがある。
 同時に、ここには「書かれていない」こともある。「記事」だけではわからないものがある。
 読売新聞の「詳報」は「食事代については友人関係なので私がごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もあるが、何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」と「一文」で書かれているが、これはここに書かれているように、すらすらと語られたことばなのか。
 「先方が持つ場合もある」と聞けば、たいていの議員は驚く。声を上げる。みんなが騒いだので、安倍は大慌てで「何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」と付け加えたのではないのか。「弁明」「釈明」の匂いを感じる。
 「何か頼まれて」という表現が、「大慌て」の感じを含んでいる。
 だいたい加計学園獣医学部の新設には巨額の金が動く。食事をおごるくらいで巨額の補助金が入るのなら、だれだって食事代くらいおごるだろう。そういうチャンスがあるなら、だれだって食事代くらい出す。
 ここで問われているのは、「倫理」なのである。
 「友人感覚」をひきずったまま、国家戦略特区の責任者と、その認可を求める人が、おごったり、おごられたりする。しかも審議が佳境に入るところで、「なあなあ」のつきあいをしている。
 政治と交遊関係の区別ができていない。首相の「適格性」に問題がある。それが証明されたのである。
 「何か頼まれてごちそうされたということは一切ない」という付け足しは、何の弁明にもなっていない。むしろ、付け足すことで、ごまかそうとする安倍の姿勢が露骨に出たものだといえる。わざわざそういうことばを追加するのは「何かを頼まれた」という証拠でもある。頼まれたことがないなら、そういう弁明を思いつかない。こういうことを、私たちは「論理」ではなく「肉体」で知っている。「生理」でつかんで生きている。

 このあと、この安倍発言を、どう問い詰めていくか。
 問い詰めるのではなく、安倍と加計が「なあなあ」の関係であるということを知らせるためにどんどん口コミで広げればいい。
 東京都議選での「こんな人たちに負けるわけにはいかない」という安倍のことばは、新聞では一面の見出しにならなかった。小さく書かれていたに過ぎない。けれど、国民の感情に直接訴える力を持っていた。安倍は批判する人間を「こんな人たち」と否定的に呼ぶ。こういう問題は、「論理的」に説明しなくてもいい。だれもがわかる。
 同じように「おごったり、おごられたり」という感覚も、国民に直接的にわかる。だれもがしていることだから。そのだれもがしていることを、安倍が政治でやっている。しかも、そこで動いている金は巨額であり、国民の税金である。
 国民の生の反感を呼び覚ます力を持っている。
 「論理」よりも「生の反感」の方が強い。
 こういう力を組織化する方法を野党は持っていない。
 いったい何回ゴルフをし、何回おごり、何回おごられたのか。具体的に問い詰めていけばいい。そのときの金はポケットマネー? コンビニで買うジュース(甘夏ちゃんだっけ)さえ自腹を切らない安倍がゴルフの食事代をポケットマネーで払うか。領収書はあるのか。また加計の方はどうか。接待経費として処理していないか。領収書はどうなっているか。そういう国民が身近に感じられる「金額」と「証拠」を積み重ねて、安倍と加計の「なあなあ」が、そのまま政治の場で巨額の金を動かしているということを明るみに出す必要がある。
 安倍は「友人」のために政治を利用している、政治を私物化しているということがわかる。



 興味深い点はほかにもある。

 前愛媛県知事・加戸「今治市にとって、黒い猫でも白い猫でも獣医学部を作ってくれる猫が一番良い猫というのが純粋な気持ちだ」

 「黒い」「白い」が何を意味するかわからないが、一般に「黒い」には否定的なニュアンスがある。「黒/白」とわざわざふたつ対比させるということは、加戸には加計学園が「黒」という認識があるということだろうか。
 でも、なぜ獣医学部?
 今治市を活性化する(学生を呼び込む)というのなら獣医学部でなくてもいいのでは? だいたい今治市って、獣医学部を必要とするくらいの「畜産市」なのか。
 四国に獣医学部がないとしても、別に今治市に獣医学部が必要ということにはならないだろう。
 この加戸の発言でも「黒い猫でも白い猫でも」という非論理的な、生の感覚を刺戟することばを、もっと不正を暴く場に活用してもらいたい。そうすると、国民はその場に直接入って行ける。巧みに仕組まれた「言い訳」を「生理」の怒りが突き破る。
 生理的な怒りを呼び覚まし、それを同時に組織化する、ということが必要なのだと思う。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位 #稲田防衛大臣
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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安倍の「ほんとう」のことば

2017-07-25 00:11:39 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「ほんとう」のことば
               自民党憲法改正草案を読む/番外109 (情報の読み方)
 衆院閉会中審査が2017年07月24日に開かれた。加計学園の獣医学部新設をめぐる疑惑解明のためである。
 この日の朝日新聞夕刊(西部版・4版)の見出し。

首相「加計計画 選定後知った」

 読売新聞夕刊(西部版・4版)の見出し。

加計側依頼 首相「なかった」

 おそらく誰も安倍の言っていることを信じないだろう。嘘だと思う。しかし、この嘘を嘘であると「証明」するのはむずかしい。
 こんな言い分をそのまま一面トップの見出しにしてしまえば、安倍は何にも知らなかったという「誤解を招きかねない」。
 最初から嘘をついて、嘘で切り抜けようとしている安倍の言い分を、そのまま見出しにとってしまっては、「報道」の意味はないだろう。

 私が注目したのは、次の部分。(朝日新聞からの引用)

加計理事長とのゴルフや会食の費用については、「私のプレー代は払った。(食事は)私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」とも述べた。

 ここは、嘘を準備する余裕がなかったのか、これくらいはどうでもいいと思ったのか「ほんとう」のことを語っている。私はテレビを見ていないので全部の発言を知らないが、おそらくこの「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」は、間違いなく「事実」である。唯一、「ほんとうのこと」である。
 ここを野党は追及するべきである。
 それぞれが、それぞれに「用意してきた質問」を投げかけるのに夢中になって、安倍の「ほころび」を見逃している。
 政府が補助金を出す事業、それを受ける企業。そのあいだで「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」という関係は許されないものだろう。私は法律は知らないが、そういうことを禁止する法律がきっとあるはずだ。
 安倍は、加計が計画を持っているということを知らなかった、と言い張るだろう。しかし、加計は計画を持っているだけではなく、国家戦略特区のことを知っている。一方が知っていて、安倍に接近してきて食事を提供する。これは「わいろ」である。安倍が、加計の計画を知らなかったから「収賄」にあたらないとはならないはずだ。

 「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」、いわゆる「おごったり、おごられたりする」という「友人関係」。「友人」のあいだでは、まあ、よくあるかもしれない。しかし、その関係を首相が企業の代表とのあいだで持つというのはどういうことか。
 首相としての自覚がないのである。
 「友人感覚」のまま、政策も決定しようとしているということだ。
 この「友人感覚」の「おごったり、おごられたり」は、「食事」だけではないだろう。
 国から私学(加計学園)に補助金が出る(安倍からのおごり)。その返礼に加計が安倍に「献金」する。それ以上に、補助金からいくらかを安倍に「返還する」ということもあるかもしれない。これはたいへんな犯罪だが、きっと「おごったり、おごられたり」という「友人感覚」のなかで、犯罪意識が消えてしまっているのだろう。
 いったい安倍と加計は何回一緒にゴルフをし、そのうち何回安倍がおごり、何回加計がおごったのか。そのときの金はどこから出たのか。ポケットマネーか。企業の「経費」として処理していないか。「経費」として処理すれば「税金対策」にもなるだろう。領収書は、どうなっているか。小さな金の流れかもしれないが、ここから安倍と加計の関係を深く追及できるはずである。
 安倍のあからさまな嘘は言わせるだけ言わせておいて、いまは、「おごったり、おごられたり」という安倍が「自発的」にいった「ほんとう」に焦点をしぼって問題にすべきだろう。

 都議選の最終日、安倍は激昂して「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。「本音(ほんとうに思っていること)」を口走ってしまった。そのことは新聞では小さくしか書かれていなかった。一面のトップの見出しにはなっていなかった。
 しかし、一面トップにならなかった「ことば」こそ、「反安倍」を結集するものになった。
 安倍は、安倍と加計が「おごったり、おごられたりする」関係にあると、自分の口から言った。
 どんな経緯で加計学園の獣医学部の新設が認めれたのか。政府は「正しい手続き」で認められたというだけである。
 そんな「形式」的なことはどうでもいい、というと間違いだが。
 「おごったり、おごられたり」する関係がどんなものか、ふつうのひとにはわかる。「なあなあ」である。ほんとうはしてはいけないことも頼まれると「しかたないなあ」と引き受け、「あとでお返ししてよ」と言ったりする。もちつ、もたれつ。そんなところに「正義」(正論)は入り込まない。
 こういう「人間感情」に響いてくるものをえぐりだし、それを「国民運動」にかえていく工夫が野党に求められている。
 平気で嘘をつく安倍を相手に戦うには、「正論(正攻法)」だけではだめなのだ。
 安倍が自ら提供してくれた「ほころび」を徹底的に追及するべきである。
 「おごった、おごられた」は読売新聞には書いてなかった。朝日新聞も「私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある」とさらりと書いている。この安倍のことばを、誰か、「その『私がごちそうすることもあれば先方が持つ場合もある』というのは、いわば友人として『おごったり、おごられたり』ということか」と問い直してみるとおもしろい。
 安倍は何と答えるか。
 「いや、おごったり、おごられたり、ではなく、費用を私が持ったり、先方が持ったりすること」
 と気取って答えるか。
 飛び交っていことばを、自分の知っていることば、いつも話していることばで言いなおしてみると、世界がはっきり見えるのだ。世界をはっきり見せるには、ふつうのひとがふつうにかわしていることばで言いなおす必要がある。
 安倍の「あんな人たち」というのは、「政治のことば」ではなく、ふつうのひとのことばだった。誰だって瞬間的に「あんな人たち」ということばを発するときがある。そのときの「あんな人たち」の「意味」は? 説明はいらない。誰もが知っている。だから、みんな怒ったのだ。
 「おごったり、おごられたり」というのも、ふつうのひとはみんな知っている。そこでどういうことがおこなわれるか、みんな「体験」を持っている。その「体験」と安倍のことばを結びつけ、そこから安倍への怒りを結集することが、いま必要なのだ。

 野党は、気取るな。
 マスコミも気取るな。
 安倍は「おごったり、おごられたり」する関係の人間だけを優遇している。私たちが収めた税金で、「友人」をもてなし、「お返し」をもらっている。
 これを追及すべきである。
 安倍は自分の口から、それを認めているのだ。そこを攻めないで、どうする。
  

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石毛拓郎「蝉の暮方」

2017-07-24 10:01:09 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「蝉の暮方」(「飛脚」18、2017年07月10日発行)

 朝から蝉が鳴いてうるさい。シャワシャワシャワという声はまるで雨のようで、まさに蝉時雨れ。
 で、詩人は、どんなふうに蝉を描いているか。
 石毛拓郎「蝉の暮方」。

うたうには この甲冑が邪魔だ
ぱっくりとわれた背殻を 脱ぎ捨て
蝉は うたっている
風が立ち 初霜が降りてくるというのに
まだ 朝な夕なにうたっている
うしろむきの奴もいる
ああいつのまにか 秋が来てしまった

 「暮方」というタイトルに不安がよぎる。や、やっぱり、夏の終わり、命の終わりの蝉か。蝉は短命の象徴だからなあ。
 ちょっとがっかりするのだが。
 でも、「この甲冑が邪魔だ」という書き出し、それを受けての「ぱっくりとわれた背殻を 脱ぎ捨て」という部分に、破れかぶれのサムライのようなものを感じたので、もう少し読んでみることにする。

こまった
こまった
蝉は 歯がないことを
すっかり忘れていた
樹液は乾き 固まってきた
それでも飢えたまんま 蝉はうたっている
腹がへっても
蝉は 樹の蜜を吸うことはない
木の皮に かじりつくこともなく
短命にへばりつき ただうたうだけだ

 ここは、いいなあ。
 「蝉は 歯がないことを/すっかり忘れていた」って、蝉が忘れていたわけじゃないだろう。蝉に「歯がある/ない」の意識はないだろう、でたらめ書くな、と石毛の頭をゴツンとたたきながら、蝉に人間(石毛自身というよりも、サムライ)を重ね合わせる姿に、なんとなく笑いたいような親しみを感じる。そうか、石毛はサムライ型の人間なのか。
 武士は喰わねど高楊枝。
 「飢えたまんま」「腹がへっても」のくりかえしが切ない。やせ我慢の向こう側に、どうしても守りたいものがある。
 なんだろう。

ただただ ひとつの歌をうたうだけだ
もちろん 情けないほど短い地上の生なのに
歌と 歌の合間をぬって
ちゃっかり 生殖も忘れちゃいないが……

 笑ってしまうなあ。サムライの精神性とは関係ないなあ。「生殖も忘れちゃいないが」というけれど、まあ、蝉は「生殖」かもしれない。でも、人間は「生殖」とは関係なくセックスをする。貪欲なのである。
 貪欲、貪欲の奥に動いている「いのち」そのものを石毛はつかみとってきて、ぱっとほうりだす。それは「いのち」を「精神」に結びつけるというよりも、「精神」というものをたたき壊す、「精神(性)」というものの「嘘っぽさ」を「肉体」そのもので否定する感じがする。
 石毛も「精神性」を求めて書いている、現実のなかから「精神性」をつかみ取ろうとしているとは思う。しかし、その「精神性」は、なんといえばいいのか、「西洋哲学/現代思想」のような「頭」のなかにある「精神性」ではなく、もっと生々しい「肉体」。「頭」に頼らずに生きている「肉体」の奥にある、まだ形として整えられていない欲望、貪欲に根ざしたものだ。
 貪欲の称賛、貪欲の肯定とでもいうべき視点が石毛のことばの基本にある。「生殖」と書いてしまうところが気取りなのか、皮肉なのか、よくわからないが、このことばを踏み台にして、詩は大転換する。ここに詩の華がある。

暗黒の夕暮れ 空腹になると
ノルウェイ人は 鉋屑を喰い
ロシア人は 煉瓦を喰らう
なんと かれらは便利な胃袋をもっている
中世戦乱の飢えが 朦朧をひき起こすと
山形荘内民は 乞食に化け
常陸荘内民は 詐欺師に代わる
なんとなんと かれらは便利な渡世術を
餓鬼の頃から 叩き込まれていた

 貪欲は「便利な胃袋」であり、「便利な渡世術」である。「便利」は、自分にとってという意味。そして、それは自分を変えていく力である。「世界」がかわらない、「世界」が自分の味方をしてくれないなら、自分の都合(便)が利くように自分をかえていくしかない。人間には、そういう力がある。「他人」は関係がない。他人なんか、たたきこわしてかまわない。
 ここに書かれているは、蝉(サムライ)の生き方とは正反対のもの。

 この「起承転結」の「転」のような九行のあと、詩はこう結ばれる。

七日もすれば
蝉は カラカラになって
藪椿花のように 木から落ちる
蝉は みのりの秋というものを
うたわないのだ
ただ ひとつの歌をうたうだけだ

 「蝉」と「歌」にもどってしまう。「精神」を歌う。
 これ、どういうこと? 石毛は、この詩で何がいいたい?
 私は非論理的な人間なので、こういう問題には関与しない。論理的に結論を出したいとは思わない。
 ばかな蝉にかこつけて、「山形荘内民は 乞食に化け/常陸荘内民は 詐欺師に代わる」という「便利な渡世術」の鮮やかな形で提示したかったのだと「誤読」する。書きたいのは蝉ではなく「便利な渡世術」。その奥に生きている「貪欲」。「貪欲の力」。それを書きたいのだ。

詩をつくろう (さ・え・ら図書館)
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二重国籍よりも二枚舌が問題

2017-07-23 15:18:30 | 自民党憲法改正草案を読む
二重国籍よりも二枚舌が問題
               自民党憲法改正草案を読む/番外108 (情報の読み方)
 蓮舫の「舫」の字が私のワープロにはなくて、なかなか書くことができなかったのだが。
 蓮舫の「二重国籍」が問題になって、戸籍の公開にまで事態が進んだよう。私は二重国籍のどこに問題があるのか理解できなくて、関心も薄いまま。日本の国籍があれば、選挙に出てもいいだろうし、国会議員になるのも問題ないだろう。憲法を守るのであれば、蓮舫が二重国籍であろうと関係ない。
 「台湾籍」を持っていると、有事の際に日本を裏切り、台湾にそった政策をとる可能性がある、というけれど。日本は独裁国家ではない。蓮舫が首相になったとしても、蓮舫ひとりの判断で日本の行動が決定するわけではない。国会の決議があって、その決議に従って首相は行動するだけである。
 二重国籍の蓮舫が首相になったら、日本を裏切る可能性がある、という論理の立て方は「首相独裁」を認める考えである。首相が判断したことに対して、内閣も、議会も反対しない、反対できないということを前提としている。前提がおかしい。
 だいたい日本国籍を持っていれば日本を正しく導き、二重国籍を持っていれば日本の進路を間違った方向に向けるという「仮定」がおかしくないか。
 日本を第二次大戦に向かわせたのは日本国籍を持った政治家である。

 こんなことも考えてみよう。
 安倍が二重国籍かどうか私は知らない。たぶん日本の国籍だけを持っているのだと思う。その安倍がやっていることは「友人」優遇の政策である。国民のためといいながら「友人」のための政治しかしない。「TPP反対」と言っておきながら「TPP反対と言ったことは一度もない」という。「ていねいに説明する」といいながら、何一つ「ていねいに説明したことはない」。
 こういうことを「二枚舌」という。
 政治は「ことば」でおこなうもの。「ことば」に嘘があってはいけない。「ことば」とそのことばを実行に移すこと(実践)。その二点の関係から政治家の「価値」を判断すべきだろう。

 すでに日本には多くの外国人が住み、日本人と結婚して、子どもも産まれている。その人たちがどう生きるかは、その人の自由。どこの国籍を選択しようが、それは他人が口出しすべき問題ではない。
 二重国籍は、ある意味で、日本の「多様性」を推し進めるキーワードである。さまざまな二重国籍のひとが、やっぱり生きていくなら日本がいいと思える社会にしてゆくこと、それが日本の方向性ではないのか。
 いろんな職場で外国人の手を借りなければ仕事が進まなくなっている。こんな時代に日本以外の国籍、その国籍をもっている人間を排除するというのは、動きとして逆方向だろう。

 あすから始まる予算委員会の「国会閉会審査」。安倍が、どんな「二枚舌」をつかうのか、稲田がどんな「二枚舌」をつかうのか。そのことに注目したい。

 

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河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』

2017-07-23 09:15:38 | 詩集
河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』(いぬのせなか座叢書2)(いぬのせなか座、2017年07月17日発行)

 河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』は装丁が凝っている。活字の組み方が縦組み、横組みと変化する。活字の大きさも変化する。ページに幾何学的な模様が入っている。紙面が黒く、活字が白いページもある。装丁がことばを「演出」している。一瞬、驚き、新鮮な感じがするが。
 私は、こういう詩集にはなじめない。
 私は黙読する。ことばを目で読む。そのとき、他の視覚要素(レイアウト、侵入してくるデザイン)よって、ことばの印象がかわる、あるいはかえられることに、私の「肉体」はついていけない。私の目が悪いということもあるが、書かれていることばと、デザインの関係がつかみきれない。
 ことばと他のジャンルとの総合芸術には、芝居や映画がある。それは役者や演出、舞台装置、そして観客の質、劇場の大きさによって、全く違うものになる。視覚だけではなく、聴覚、あるいは触覚(空気の変化を感じる)も影響してくる。「場」がひとつの作品になる。その「場」へ行くことが、「体験」として「肉体」に残る。
 詩集で、そういうことを試みているのかもしれないが、よくわからない。「本」というのは、「場」にはなり得ないと私は思う。理由は簡単である。「本」がおかれる「場」、「本」を読む「場」がひとりひとり違い、その「場」はけっして共有されない。「共有」されるのはあくまで「本」である。他のひとはどうか知らないが、私は読むとき、勝手気ままに読む。ページをあちこちめくるし、休憩もする。コーヒーを飲むときもあれば、途中で外出したりもする。「本」はそういう個人の行動を封印し、ある「場」を、ある「時間」として「体験させる」装置にはなり得ない。芝居や映画とは違う。
 最初は目新しい風景に緊張するが、いったん、これは「装丁によって演出された詩集だ」とわかると、気持ちが一気にだらけてしまう。「装丁」が「解釈」を押しつけてくることを私は好まない。また、「装丁」がどこまでことばに「圧力」をかけているのか判断するには、私は、その「基準」のようなものをまったく持っていない。詩集になる前の河野の詩を読んでいない。比較のしようがない。

 だから、そういうことは無視して感想を書く。と、言いたいのだが、もうすでに装丁の影響を受けているから、どこまで正直な感想になるかわからない。ともかく、いつもと同じように、私なりに書かれていることばを動かしてみる。
 「クマの森」が、私には親しみやすかった。

ぼくが三日生きるあいだにきみは八十九年としをとる
八十九年のあいだに
ヒトはクマになりクマはヒトになる
秋の河原で鮭を串に刺し
たき火で炙るヒトはクマだ
どんぐりの木を倒すヒトはクマ
ハチの巣を探すヒトはクマ

 なるほど、ヒトとクマは交錯する。この瞬間に詩があると思う。あるものが概念を引き剥がされ、むき出しの存在になると、別の存在と「同じ」になってしまう。こういうことを体験するのが詩であると、私は感じている。
 野村喜和夫について書いたとき、定冠詞、不定冠詞のことを書いたが、定冠詞付きの名詞が定冠詞を一つずつ捨てて不定冠詞としての存在になる。それは存在が「むき出し」になるということであり、「むき出し」になった存在が詩ということになる。
 「私とは一個の他者である」とランボーは言ったが、ここでは「ぼく(私)とは一個のクマである」ということ。「私」が「他者」ではないのと同じように、「私」はけっして「クマ」ではない。けれども、「私とは一個のクマである」。
 「家」の書き出しもいい。

あの角を曲がり
この家までまっすぐのびる
おまえが道を走ってくるときの
ゆるやかな喜びの感覚を
何と名づけるべきだろう
かくれんぼが終わると三輪車が疾走し
チョークの線路をオモチャの汽車が駆けぬける

 書き出しの「あの角」「この家」の「あの」「この」は指示詞であるが、定冠詞の働きをしている。「おまえ(子ども?)」の意識している角であり家であると同時に、「私(詩人/書き手)」の意識している角、家。そこでは「場」が共有されている。
 そこをおまえが走ってくる。いつものことだが、いつもと違う。「ゆるやかな喜びの感覚を/何と名づけるべきだろう」と河野は書いている。「わからない」ものが瞬間的にあらわれる。河野の「肉体」をつきやぶってあらわれる。意識にとらえられていない何か。定冠詞のついていない何かが噴出する。
 そのあとの「三輪車」「チョークの線路」「オモチャの汽車」は、「おまえの三輪車」「おまえが書いたチョークの線路」「おまえのオモチャの汽車」なのだが、定冠詞の働きをする「おまえの」が取り払われて、全く新しい不定冠詞の存在となって、むき出しで迫ってくる。
 こういう光景は誰もが覚えているかもしれない。子どもとして覚えているか、大人として覚えているかは別にして、誰もがどこかで「体験」したことがあると思う。その「肉体」の記憶を呼び覚ます不定冠詞の「三輪車」「チョークの線路」「オモチャの汽車」。不定冠詞つきの存在だからこそ、読者はそこに自分自身の「体験」を投げ込み、それを自分の「定冠詞付きの(私の)」覚えていることとして体験しなおすことができる。
 こういう河野のことばの美しさを、凝った装丁で「定冠詞まみれ」にしてしまうのは、私には納得ができない。装丁者の観念(概念)が河野の本質を隠してしまわないか、と私は疑問に思う。

時計一族
河野 聡子
思潮社
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稲田は第二の甘利か(加計学園問題)

2017-07-22 19:19:51 | 自民党憲法改正草案を読む
稲田は第二の甘利か(加計学園問題)
               自民党憲法改正草案を読む/番外107 (情報の読み方)
 稲田の自衛隊日報隠蔽交錯と加計学園問題は関係がないのだけれど。ちょっと気がかりなのが、なぜ、この時期にこの問題が、ということ。もちろん、監査公表の時期が迫っているということも関係はしているのだろうけれど、あえて「疑問点」を書いておきたい。
 私が思い出したのはTPP審議と甘利の関係。
 週刊文春に現金授受問題をスクープされて、甘利経済再生相が辞任した。このときはTPP審議の山場だった。いろいろ問題が多いTPPの、肝心の問題点の追及が甘利の現金授受で焦点ぼけになった。それだけではなく、甘利が辞任することと引き換えにTPP法案が通った(野党の追及を甘利に振り向けることで、法案追及をかわした)という側面がある。
 今度も同じことがおきないか。
 甘利は安倍の「友人」だから切り捨てないというのが、もっぱらの「噂」だった。稲田についても、安倍の「お気に入り」だから切り捨てないと「噂」されている。どうだろうなあ。甘利は、都議選で自民党が大敗した夜、安倍といっしょに食事会(?)をしている。その情報と一緒に甘利の再入閣の「噂」も飛び交った。密約があったのかもしれない。
 今度も、「次の改造で入閣させるから」という「密約」で、稲田に「辞任」を迫るかもしれない。稲田が「辞任」を発表するとすれば、加計学園問題が審議される直前だろうなあ。抜き打ち的に「辞任会見」を開き、目先を稲田に集中させる。加計学園と安倍の関係に国民の関心が集中しないように工作する。
 そういうことがあるんじゃないだろうか。
 稲田が、平気な顔をして「職務をまっとする」と言っているのは、単に安倍の信頼が篤いということ以上のものを含んでいる気がする。
 稲田は「辞任」しないかもしれないが、そのときはそのときで、安倍が加計学園問題の追及の矛先は完全に分散される。安倍への矛先を分散させるために、仕組んだ「工作」のように思える。防衛省幹部が稲田の隠蔽工作情報を流したという形だが、安倍は、それを後押ししたのではないのか。
 人間はそこまでするか。ふつうはしないだろう。しかし、安倍は、そこまでする人間だと、私は感じている。
 市民に野次を飛ばされただけで「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言うほど、感情的反論をする人間が、「無口」を決め込んでいるのが不気味だ。
 きっと、何か、ある。

 一方、森友学園問題では、籠池を証人喚問したのに、加計学園問題では理事長の証人喚問を拒んでいる。参考人招致も拒んでいる。
 なぜだろう。
 加計学園には多額の補助金が支払われている。そのすべてがほんとうに加計学園だけにつかわれているのか。安倍にそこからいくらか還元(還流?、いわゆるキックバック)が行われていないか。
 加計学園にとっては安倍は金づるだし、安倍にとっても加計学園は金づるだと思う。それに比べると甘利や稲田は金づるにはならないからなあ。「再入閣話」だけで簡単に動かせるし、実害(金づるがとだえる)わけでもない。

 まあ、こういうことは「邪推」の類である。「妄想」である。
 私の「邪推」「妄想」であってほしいと思う。

 稲田の情報隠蔽問題、あるいはシビリアンコントロールの問題は、国の安全にかかわる。憲法にかかわる。重要性は加計学園と安倍の「友人優遇策」以上の問題である。だから、国会の審議はどうしても稲田問題に集中すると思う。集中せざるを得ないと思う。
 この稲田への質問集中に隠れて、安倍と加計学園の問題がおろそかにならないことを願うしかない。
 「予算委員会」は24、25日の二日間だが、さらに開催を拡大するように、野党は安倍を問い詰めてほしい。
 


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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憲法9条改正を考える。

2017-07-22 15:52:35 | 自民党憲法改正草案を読む


東京新聞(中日新聞)が7月15日の朝刊「考える広場」で「9条、変える?」をテーマにインタビュー記事を掲載しています。
私も発言しています。(やっと掲載新聞紙が手元にとどいた。)
ここをクリックすると、ネット版が読めます。

「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」はアマゾンで購入できます。

緊急出版の「憲法9条改正、これでいいのか」はアマゾンで予約受け付け中(8月7日発売予定)です。


あわせてお読みいただけると、うれしい。
みなさんと憲法9条について語り合えるきっかけになれば、と願っています。



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伊藤悠子「山早春」ほか

2017-07-20 10:09:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「山早春」ほか(「左庭」37、2017年07月15日発行)

 伊藤悠子「山早春」を読んでいて、ふと、読むスピードがかわった。

窓を斜めに白いものが横切って
煙突から煙といっしょに舞いあがった灰だろうと思ったら
左からも真正面からもくるので
忘れていたことを思い出すように


 窓から外を眺めていたら名残の雪が降ってきた、ということを書いている。特に目新しいことばがあるわけでもない。ことばのリズムは詩というよりも、散文である。もったりしている。
 でも、私は、ここで、あ、いいなあ、詩だなあと感じた。
 なぜだろう。
 たぶん、ことばを切り詰めて印象的に書くのが詩であると無意識の内に思っていて、その無意識がこの五行で壊されたからだろうなあ。
 「灰だろうと思ったら」というのは、そうではなかった、ということばへと自然につながっていく。「灰ではなく、雪だった」。それだけのことだが、この「思ったら」をそのままことばにしてしまうところが新鮮だった。
 はっきりどの作品とは言えないのだが、最初に伊藤の作品を読んだときの静かなことばの印象を思い出した。劇的に書こうとすればもっと劇的に書けるのかもしれないけれど、あえてゆっくりと立ち止まってことばを動かすような印象があったと記憶している。それを思い出した。
 きのう読んだ野村の詩は「スピード」で読ませる。
 でも、伊藤の詩は、逆。「思ったこと」を、加速させず、思ったときのまま、静かにことばにするという印象がある。そういう部分がとても印象に残る。
 「山探春」の次の部分。

鹿が私を見つめていた
きょとんと
一頭かと思ったが少し離れて二頭
これらは少し視線を深くして見つめている
一頭はオスで白い裸木のような角を持っている

 鹿を見つける。一頭が二頭になっていく。それからその一頭がオスであるとわかる。そして角の描写へと動いていく。このときのことばのスピードが自然なのだ。そこに、私は詩を感じる。
 この作品にも「思ったが」ということばがある。「思ったら」と書き換えても通じる。何かを「思う」、そしてその「思い」がしばらくして修正される。この思考の変化のリズムが気持ちがいい。
 特に目新しいことを発見しなくてもいい。そこにあるがままを、自然に見いだしていく。そのとき、一瞬自分をとらえた「思い」を捨てる、捨てて修正するということが、何か美しく感じられる。

 と、書いたことを、江里昭彦「悲恋を語る(騙る)こと[後]」に結びつけると、強引すぎるかもしれないが。
 江里はテレビで見た番組のことを書いている。沖縄。双子の姉妹がいて、一人は死んで、一人は生きている。生き残った一人が、もうひとりの女の悲恋を語る。それは「ととのいすぎている」。どこかに「騙り」があるのではないのか。
 というのは、江里の書いていることの一部で、それを引き合いに出すのは間違いかもしれないが。
 その文章を読みながら、伊藤の詩には「騙り」がない、と感じた。強引な「整え方」がない。「思い」が「思い間違い」を発見し、それを乗り越えて「事実」にたどりつく。伊藤の語っている「事実」は「事実」というには「おおげさ」かもしれないけれど、「事実」には違いない。そして、この「修正」を「世界を整える」、あるいは「思いを整える」と言えば言えるのだけれど、それが「整え方」そのものをことばのなかに残しているので、そのことが新鮮なのだ。
 人は誰でも語り続けていると、語りの「経済学」を身につけてしまう。より効果的に「感動」を演出することを覚えてしまう。そういう「技巧」のようなものを捨てて書く、というのは意外とむずかしいことかもしれない。


詩集 道を小道を
クリエーター情報なし
ふらんす堂
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