「現代詩手帖」12月号(16)(思潮社、2022年12月1日発行)
平鹿由希子「集真藍忌考」。あづさいいみこう、とルビが振ってある。「集真藍」が「あづ(じ)さい」。本当の藍色を集めた花、ということか。音が漢字のなかで意味になるのか、音を漢字の意味が破壊するのか。
どちらかわからないが、平鹿は、「わざわざ」こんな書き方をしている。私は「わざと」違う読み方をする。
私は、漢字に破壊されても破壊されても、よみがえってくる音、音がよみがえってる部分が好きだ。たとえば、
水は火をけす魂鎮め 相生醒める浮気者の心根のよに七変化
「あなたは冷たい あなたは冷たい」
憂き言の葉は 萼の四片の咎じゃない
「あいおい」「あだびと」「あなた」「あなた」。繰り返される「あ」が「あじさい」を呼ぶ。「がく」「とが」の逆さしり取りみたいな感じの響きが、「あなたは冷たい あなたは冷たい」を「花占い」のことばのように感じさせる。「あなたは冷たい あなたは温かい」ではなく「冷たい」と繰り返すところが、恨みがこもっていていいなあ、と思う。
おたくさ たくさ しどけなく なまじの花器を拒むよに 花盗人の訪れを待つ
「おはさみ かりんこ おはさみ ちんりこ」茎剪み
ここも「音」がことばを動かしている。
平田俊子「ラジオ」。
畳の下から声が聞こえる
一階の人が
今夜もラジオをつけたらしい
「畳の下」が「わざと」である。平田は、いつもかどうかはよく知らないが、「わざと」ひとを喰ったようなことばの動かし方をする。
昔、私がまだテレビを見ていたころ、和田アキ子が司会していた番組で出演者が「あてこすり」の会話をするコーナーがあった。中尾ミエが、出色だった。「いま」をあてこするのではなく、少し前のことをあてこする。だれもが知っている。そして、忘れかけている。それを思い出させる。
平田の「畳の下」が、それにあたる。
いまの若い世代は、きっと「意味」が取りにくい。これがぴんと来るのは、木造のアパート、畳の部屋(四畳半のアパート、がよりわかりやすいか)で暮らしたことがある人。いまは鉄筋、コンクリートの床が主流だから、想像はしにくいかもしれない。しかし、木造のアパートで暮らしたことがある世代(たとえば、私や平田)なら、これだけで一つの情景が浮かぶ。その情景を「念押し」するのが「ラジオ」である。深夜ラジオが流行していた時代がある。(そのひとたちが、「ラジオ深夜便」を聞いているとか。)
畳を通して聞こえる声は
誰かのおしゃべりも歌も
くぐもっている
意味を失い
音だけになった言葉が
階段を使わずに二階に届く
これが半世紀前に書かれたのなら、それはそのまま、マンガ「同棲時代」になるかもしれない。
平田が「いま」を書いているか、過去の「記憶」を書いているのかわからないが、「いま」にしろ、そこには「過去」が入り込んでいる。これは、平田の「わざと」である。「わざと」、平田自身の「肉体」を見せるのである。私がよくつかう比喩を持ち出せば、いわゆる「役者の存在感(肉体の過去)」である。
それはそれでいいけれど。
でも、そういう「存在感」って、何か、鼻持ちならない。「ひとを喰っている」という印象は、そこから生まれるかもしれない。これは、私だけが感じることかもしれない、と私は「わざと」書いておく。
松下育男「川ひらた」。「私が生まれたのは九州福岡です。」と、松下は、これから書くのが「過去」であると、あるいは「過去」を思い出している「いま」であると「わざわざ」書き始める。「わざと」かもしれない。
そして、それは
東京に出てきてから父はさらに寡黙になりました。晩年は穏やかな顔から「ほとけさま」とあだ名されていました。この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのかと。わが家は浅瀬でどれほどにしなったのかと。
予定調和の「余韻」で終わる。「父はさらに寡黙になりました」の「さらに」が、私が引用しなかった部分をすべて暗示させるだろう。つまり、逆に言えば、最初からずーっ読んできて、ここで「さらに」が出てきた瞬間、この詩は「おわる」ということがわかるように書かれている。
それが松下の「作詩術」である。「術」であるから「わざと」であるといえるが、松下は「わざと」とは感じていないと思う。「自然」と感じていると思う。そして、私はこの「錯覚」が実は嫌いである。「さらに」では、ぞっとするひとは少ないかもしれないが……。次は、どうだろう。
この詩を書きながら私も「川ひらた」を思います。
この「私も」の「も」はいったい何なのだ。私は、ぞっとする。松下以外の、いっ たいだれが「川ひらた」を思い浮かべているか。松下の父か、母か。
なんというか、松下が思い浮かべるものとは違うものを思い浮かべる人間がいるということを、松下は拒否している。世界を閉ざすことで「完結」している。そして、それを「わざ」とではなく「自然」と思っている、らしい。そればかりか、それを「理想」と思っているようにさえ見える。「さらに」に、その「予定調和の理想」の「押しつけ」がある。「も」に「予定調和の理想」の念押しがある
ついでに書いておけば。
「父母はどのように私をここまでたどり着けてくれたのか」の「たどり着けてくれた」は妙な言い方ではないだろうか。「たどり着かせてくれた」「たどり届けてれた」が自然ではないだろうか。「たどり着く」は自動詞。父母が主語なら、他動詞をつかうのが自然だろう。ここにも松下の自他の混同があると思う。松下の「予定調和」はあくまでも「松下の予定調和」であって、それを押しつけられたくないなあと私は感じる。
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