詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

芥川賞2作品

2024-08-15 21:36:23 | その他(音楽、小説etc)

芥川賞2作品(「文藝春秋」2024年09月号)

 「文藝春秋」2024年09月号に、第171回芥川賞受賞作が二篇掲載されている。朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」と松永K三蔵「バリ山行」。この二作品を選んだ選者は「天才」である。全員が「天才」である。よく二作品の「区別」がついたなあ。私には一人の作者が書いた、一篇の作品にしか見えない。
 少し引用してみる。

 富士山の形をした雲は呼吸に合わせて、大きくなり小さくなる。遠くから園児のはしゃぐ声も遮断機の音に変わり、すぐに何頭かの犬の吠え声になる。獣道はコンクリートの細い路地に変わり、それも次第にひび割れてガタガタになり、しばらくして土道に変わる。草が膝丈あたりから太ももあたりまで伸びだす頃には、土道は木の杭と細い丸太で土止めされた簡素な階段になった。

 斜面に貼りつき足を掛け、手掛かりを掴み懸垂して身体をぐっと持ち上げる。そうやって全身で攀じ登る。登山口から入って登山道を歩く、そんな当たりまえの登山とはまるで違って、アスレチックに近かった。急斜面が続くと息が上がる。ヘルメットから汗が流れ、アウターにも熱が籠もり、私は堪らずジッパーを下げた。

 最初が「サンショウウオの四十九日」、あとが「バリ山行」。では、つぎの引用は、どっち?

 階段を登りきると小さな広場に辿りつく。不思議な懐かしさのある広場だった。周囲は高い樹々で囲まれて薄暗い。ごつごつした岩で縁取られた緑の池、どうやって遊べばいいのかわからないペンキの剥げた遊具が設置されている。林の奥に電線のない捨てられた鉄塔が一本立っている。今は誰もいないが、地面の草が踏み固められていて、ここを訪れる存在はあるらしかった。

 ただ思い付きで引用したのだが、もっと丁寧に読み込めば、もっと「そっくり」の文体を提示できるだろう。ただ、そんな面倒までは、私は、したくない。(三番目の引用が、「サンショウウオ」なのか「バリ」なのか、あるいは私の「捏造」なのか、興味のある人は、調べてみてください。最初に断っておくけれど、私はときどき「捏造」を交えて自分のことばを動かすので、三番目の文章が見つからなかったとしても、大騒ぎしないでください。)
 私が言いたいのは。
 この三つの文章を読み、その筆者を即座に特定できる人がいるなら、そのひとは「天才」だと思う。選評を私は全部読んだわけではないが、選者の誰一人として二人の文体がそっくりであると指摘している人はいない。つまり、彼らには、ふたりの文体の区別がついているらしいのだ。
 それだけではなく、二つの作品が「対照的」だとさえ言っている選者がいる。(「対照的」ということばがつかわれていたかどうか、まあ、いい加減な私の印象なのだが。)
 どこが対照的?
 「サンショウウオ」が空想的な「結合双生児」を題材にし、「バリ」が建築会社の登山好きの人物を題材にしていることだろうか。前者は「空想的」、後者は「現実的」。でも、そんなものは単なる「ストーリー」であって、小説にとって、何の意味もない。
 「サンショウウオ」の双生児が、性格(精神)も肉体的特徴も違う双子が身体的に「結合」したものであるのに対し、「バリ」ははっきりは書いていないが性格(精神)も似通ったところのあるふたりが双子ではなく身体的にべつべつに存在するというだけのちがいである。どちらのばあいも、その似ているのか違っているのか、どうとでも言える「ふたり」が出合い、行動し、そこで何事かが起き、精神的に変化していく。まあ、こんなふうに「要約」してしまえば、どんな小説でも、たいていの場合、誰かが誰かと出合い、似た部分、違った部分を触れ合わせながら「人間として」変化していくことを描いているから、こうした「要約」は批評でもなんでもなく、ただの「後出しジャンケン」のようなものであるけれど。
 それにしてもなあ。
 「サンショウウオ」は「哲学的」な思考がときどき言語化されるのだけれど、それは全部「つまみ食い」。作者が、「私は、こういう哲学的な文章も読んでいる人間です」と宣伝するだけのもの。ほんとうに「哲学」を深めたいなら(小説のなかで展開したいなら)、誰彼かまわず「つまみ食い」をするのではなく、ひとりの思想家の文体と取り組み、苦闘すべきだろう。何も考えていないから、「つまみ食い」をして、「私はこんなに知っている」と宣伝し、何も考えていないことを隠蔽しようとしている。
 他方、「バリ」は、そういうことをせず、ひたすら「昔風純文学文体」を継承しようとしている。しかし、その継承にオリジナルが組み合わさっていないから、なんというか、そのすべてのことばが、やはり「つまみ食い言語」に見えてしまう。
 二作品とも、「つまみ食い」の寄せ集めでできた「盛り合わせ」にすぎないのである。

 筒井康隆や志賀直哉が書いたら、ふたつの作品とも原稿用紙15枚、どんなに長くても30枚で終わってしまうだろう。ただただ長くて、一行として、ぜひこの一行を引用して感想を書きたいという「ことば」がない。

 本が売れないと生きていけない、と選者が感じているのかもしれない。読者を増やすためなら何でもしよう、ということなのかもしれない。でも、非個性的な「つまみ食い大賞」のような小説を「選ぶ」時間があるのなら、いっそ、「古典」をとりあげ、その紹介文でも書いた方がいいのではないだろうか。「古典」をとおして「ことば」にめざめた読者なら、きっと「選者の書いているすばらしい小説」に目を向けるだろう。「コウショウウオ」や「バリ」を読んで、小説はおもしろい、こういうおもしろい小説を選ぶ選者の作品は絶対に読まなければ……と思う読者はひとりもいないだろう。私なんかは、こんな作品を選んでいる作家の作品なんか、もう絶対に読まない、と思うだけである。


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岸田退陣(読売新聞の読み方)

2024-08-15 13:03:34 | 読売新聞を読む

 岸田が突然、退陣を表明した。自民党総裁選(9月30日)まで一か月半。なぜ、いま? 
 いろいろな「見方」があるが、「新総裁」が舞台裏で決まったからだろう。「政治とカネ」の問題に「ケジメ」をつけるためと言っているが、これは表面的。だいたい、そう言わなければ、次の衆院選で敗北は必至。それだけはダメだ、とあらゆるところからケチがついて、もう持ちこたえられなくなったのだろう。
 で、舞台裏で決まった「次期総裁」はだれ?
 読売新聞2024年08月15日の朝刊(14版・西部版)の記事は「刷新 若手に期待」という見出しで、まず小泉進次郎、小林鷹之を紹介している。その記事の書き方が、おもしろい。

 小泉について、こう書いている。

 「総裁選で変わったことを示せなければ、自民党は終わってしまう」
 小泉氏は周囲にこんな思いを吐露している。周辺は「出馬を視野に入れて準備を進めている。気持ちも固まりつつあるようだ」と明かした。

 「周辺」は「出馬もある」と言っている。が、小泉自身の「動き」は書いていない。
 一方、小林は、どうか。

 小林氏は知名度は低いものの、「新顔」として注目を浴びている。14日には首相の不出馬表明を受け、「党が生まれ変わったと思ってもらえるような改革努力を我々が引き継いでいかなければならない」とのコメントを出した。安倍派で当選同期の福田達夫・元総務会長(57)ら中堅・若手が擁立に向けて会合などを重ね、出馬に必要な推薦人20人のメドはついたとされる。小林氏を推す衆院議員は「近く出馬表明に踏み切るだろう」と語った。

 首相退陣を受けた「コメント」を出している。(小泉は、出したかどうか知らないが、読売新聞で読むかぎりは、出していないようだ。出しているなら、紹介するだろう)。さらに「出馬に必要な推薦人20人のメドはついたとされる」といちばんのポイントを明記している。
 これは、他に出馬が予想される(?)石破について、

 石破茂・元幹事長(67)も訪問先の台北市で出馬意向を表明したが、記者会見で「推薦人20人をそろえるのは非常に難しい作業だ」と明かした。

 こう書いているのと比較すると、小林が「先行」していることは明瞭である。岸田退陣劇の裏側で、推薦人20人を確保したのは小林だけである。ほかの候補者は、確保していない。
 つまり、岸田は、小林が総裁選に出馬するのに必要な推薦人20人を確保したことが明らかになったから、退陣表明をしたのだ。単に推薦人20人確保だけではなく、たぶん、根回しもすんだから退陣表明をしたのだ。
 それをうかがわせるのが、次の文章。

 ただ、小林氏は9日のインターネット番組で、政治資金規正法違反事件で処分された安倍派議員が要職などから外れている現状を見直す必要があると発言し、「改革に逆行している」との批判も広がった。

 小林は、すでに「要職」に安倍派議員を復活させる「閣僚名簿」も用意している。それに対しては反発はあるようだが、すでにそこまで準備を進めているのは小林だけである。わざわざ「批判」も紹介しているのは、先に新聞に書いておけば、「衝撃」が少ないからである。これは、読売新聞が「よいしょ記事」を書くときの、重要な要素である。
 小泉については、

 無派閥を貫く小泉氏が出馬を決断した場合、党内で幅広い支持を集めつつ、いかに派閥の力学に左右されないかが課題になる。

 と「課題」を紹介しているが、これは逆に言えば、小泉がまだぜんぜん動いていない「証拠」でもある。

 私は政治には疎いから、小林鷹之という人物については何も知らなかったが、突然、新聞に「候補」と書かれ、しかも、その動きまで、批判を含めて書いている。これは、新首相が小林で決まっていることを「暗示」するものである。
 きっと、これから小林の顔、発言がマスコミでどんどん報道され、国民にアピールされる。そうやって小林人気をあおり、総裁誕生(新首相誕生)後、すぐに国会を解散し、衆院選で勝利する。そこまでシナリオを書いて(そういうシナリオで、いろいろな人を説得し)、その結果として岸田が退陣表明をしたのである。そして、読売新聞は、この「岸田シナリオ=作者は岸田ではなく、ほかの人だと思う)を「応援」している。次の衆院選で「自民党大勝」の先取り応援をしている。
 読売新聞の記事は、ほんとうに、「裏」が透けて見えて、とてもおもしろい。

 (いちいち引用しなかったが、これまで「総裁候補」としてうわさされた石破や河野太郎、茂木敏充、高市早苗、野田聖子については、いろいろ「難癖」をつけている。詳細は、紙面参照。)

コメント (1)
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