善光寺坂&ムクノキと幸田露伴の家
歴史の積み重ねられた文京区、地図を見ていたら思わぬものを発見。
ムクノキを調べていたら、目の前が幸田露伴の元邸宅でした。
露伴はこのムクの木を眺めながら、作家活動を続けたという。
思わぬことで道草をしてしまった。
東京大空襲に耐えた推定樹齢300年の古木です。
東京メトロ後楽園駅から文京区役所の先の富坂下交差点を渡る。
源覚寺の先を伝通院方面へ善光寺坂を上り善光寺と慈眼院の前にある善光寺坂を歩いて10分ぐらいで着きます。
善光寺坂のムクむ木は東京大空襲にも耐えた推定樹齢300年の古木で木の高さは約13メートル、
幹の太さは約5メートルで見ごたえあります。
黄色い幟旗の横の塀が「幸田露伴の旧宅」です。
幸田露伴とは
慶応3年7月23日江戸下谷生まれ。
青年時代は北海道の電信技師を務めていたが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』に心酔し、
小説家を志した露伴は仕事を放棄して上京した。
電信技師を首になり父が始めた紙店に勤めながら小説家修行に励み、明治30年代には
同世代の尾崎紅葉と並び称せられる「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。
『風流仏』『五重塔』『一国の首都』のような評論、『芭蕉七部集評釈』などの
古典研究、『滑稽御手製未来記』は多岐にわたる。
(皆の百科事典から転載)
===『[五重の塔』雑感===
棟梁として人を動かすには高度な技術力がものをいう、という単純なものではないのです。その人の人望とコミュ力。どんなに腕がよくても、十兵衛のように自分勝手で人望とコミュ力がなければ、只の腕のいい職人。
露伴から4代続く作家一家ですが、この家のことを作品としているのは
青木玉の「小石川の家」です。
「二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで廊下のガラス戸を開ければ枝先が触れそうだ」
と書いています
この旧露伴鄭は、昭和2年に「小石川の家」から移り住み、
その後は娘の幸田文(亡)、その娘の青木玉、さらにその娘の奈緒が住んでいます。
≪露伴は昭和21年1月に千葉県市川市菅野へ移った≫
(善光寺坂のムクの木-小石川散歩から転載)
旧露伴鄭裏口
GOO鳥瞰図
ムクノキ所在と善光寺坂付近の様子、図の右上に善光寺という
お寺があります、そこから来ている坂の名前でしょう。
幸田露伴は、向島の蝸牛庵から小石川の伝通院近くの小石川表町79番地に移り、昭和20年に疎開するまで長い間住んだ。戦災で焼けた後の昭和22年、再び同じ場所に新居を構えた。露伴の次女・文(あや)はこの家に残り、執筆活動を行った。現在もその子孫が住んでいる。