老いて心は千々に乱れる 作家・小池真理子
「老いとして自らを納得せしめるために・・・」悟りを拓く為に~~
読み進みて成る程と・・・、老いの深みを改めて知り悟りました。
「生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだった」
……三島由紀夫の最後の作品、「天人五衰」の一節である。
三島は老いを恐れ、拒絶していた作家だった。40代の若さで自ら幕引きをし
たのも頷(うなず)ける。
老いとは何なのか。どれほど魅力的だった人でも、例外なく皺(しわ)がで
き、皮膚がたるみ、見た目が著しく変貌する。
入れ歯だの補聴器だのを必要とするようになる。
身体のあちこちに不具合が起こる。物忘れが増える。
動作が鈍くなる。
そして、その先に厳然と控えているのは「死」なのである。
若いころは、公園のベンチで、高齢者が背を丸め、ぼーっとしているのを見か
けても、老人が眠たそうにしているな、としか思わなかった。
生命体である以上、誰もが老いる。どうすることもできない哀(かな)しみや
諦め、虚(むな)しさを抱えこんで、なお生きる。だからこそ、ぼーっとする
しかなくなるのだが、当時はそんなことは想像できなかった。
だが、自分が老いの道に入ってみると、「高齢者」として社会的に漫然と一括
(ひとくく)りにされることへの抵抗はもちろんのこと、感傷や千々(ちぢ)
に乱れる想いの数々に、日々、圧倒されていることがわかる。まるで思春期で
ある。
先日も、死んだ者たちのことをずっと考えていた。父、母、夫、友人、作家仲
間、愛して・・・・・・・・・・・。
膨大な記憶が洪水のごとく押し寄せてくる。
死と生は一本の線でつながっている。
若かったころは活(い)き活きとした命の真っ只中(ただなか)から死を見つ
めていたが、今は終末の側に立って生を眺めているような気がする。 (日経夕刊・2024・3・8掲載記事)
「老いの悟りを拓く」
◎ 読み進み 一字一句を 噛み締めて
老いと生とを まざまざと知る (縄)
コメント欄はopenです。
後期高齢者の方々は、どのように読まれましたか!?
私は短歌31文字の通り、繰り返し妻と読み納得し、老いに対して死と生は
一本の線で繋がっているとを教えられ老いの深さを悟りました。
老衰なれど長生き祈らん 》 栄螺
どんなになっても・・・老衰の域に達しても一日でも長く生きていられることを祈るのみです。
介護をしてくれる人がいる場合とそうではない場合とではまた違ってくることでしょうね。
複雑な思いです。手術も出来ない行き詰った病態においては老衰という事もまた味方にしてしまいましょうかと・・・・思う日々です。
≫≫≫老いも若い家族に見せていくのが務めだと・・。
良きことを聞きました。有難うございます!!
その昔は三世代家族などが普通でした、今は核家族!!
やはりこのような状態を「見せる」と言うことなのでしょうか!?
早速のコメ有難うございます。
辺句
・ 長生きに老衰加え2で割りし
ヤッパリ我はピンピンころり(縄)
最近通院加療、投薬などという毎日ふと老衰、長生き、病気、介護・・・・などについて深堀してしまうことしきりです。
夫婦で話し合うこと多くなりにけり~~と言った八十路の坂道です。
いいお話を今朝もありがとうございます。
しっかりと見せて聞かせていただきました。
参考にさせていただいてこの先も生きていきたい。
老いるって事は生きるってことは、
覚悟なしでは続けられませんでしょうから・・。
定年前後に両親を亡くし死生観について思う事もそれまでなかったが自分なりにぼんやり定めています、
生じた生命は必ず没するのだと。これだけは確定しているという事。
母を亡くした時、書店で出会ったテラワーダ仏教に心惹かれサポートしています、迷妄のない教理と一円もお布施を強要しない姿勢に満足しています。
私の歌二首です。
「また来年元気で会おう」と言った友訃報が届く春の嵐に
「舟歌」を老婆唄ひて涙ぐむ献花の後ろ遺影かすみて
人の死に思いをめぐらすのは生きている人間・・・。
今まさに老いの真っ最中です。
今回は大変重たい話になりましたね。
仏教の世界では、お釈迦様が「生老病死」という四苦を教えてくれ、「生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり」と言ったそうですが、もちろん日本語ではありませんね。
八十路に入ってきますと、「どう生きていくか」と考えるのと同じような重みで「どう命を終えるか」ということを否応なく考えるようになりますね。
小生の場合は弥陀の本願任せで、ケセラセラということに相成っています。
世の中はどんどん変わっていますね。
昭和から平成、令和と時代も周りも変わって行っているけれど、自分はあまり変わらない。
生と死。。。一生の間になにか出来るのかな。
悟るのは難しいです
老いと生、ゆっくり見つめたい。。。