菖蒲祭り開催中、見ごろでした
平成28年6月1日(水曜日)から6月20日(月曜日)
水元公園で約100種14,000株の花菖蒲が咲きます。
水元大橋
絵を描く方々が多数見られました
デジブック 『水元公園 菖蒲祭』
菖蒲祭り開催中、見ごろでした
水元公園で約100種14,000株の花菖蒲が咲きます。
水元大橋
絵を描く方々が多数見られました
デジブック 『水元公園 菖蒲祭』
新ジャガを食べた
新じゃがを験掘り、試食、囲碁を見て過ごした日曜日。
縄文爺の1日でした。
外食するよりも、これが縄文爺の贅沢食三昧(昼食)で候。
畑での験(ためし)掘り
蒸し器で作りました。
力水、ジャガイモ、味噌にマヨネーズ。
これだけあれば90点、故郷の『オナメ』が欲しいところですが・・・・。
団扇でパタパタしながらジャガイモを食べた。ウマカノウ~、バッチリじゃん。
NHKの囲碁を見ながら、戦後の食糧難を思いつつ・・・。
感想をチョコッと。
① 男爵を掘った。マアマアの出来栄えかな・・・・ぁ?
難を言えば、連作、連作が5年も続いたので、その障害が出てきたようです。
② 終戦直後の、幼少期に母が一杯溢れるほど、手籠にジャガイモを茹でて、
お勝手に置いてあった。 三度三度食べて、お腹を満たした。
③ 都会から、大きなリックサックに衣類を詰めて背負い、『お米と交換してください』
そんな戦後の食糧難を思いつつ、力水で士気を高揚した。
④ ジャガイモの皮をむきながら、お味噌をつけほう張り、囲碁を鑑賞した。
・ ジャガイモや戦後直後の代用食
飽食時代いま思う日々
⑤ Y婦が、朝から出っぱりでしたので、こんな昼食を楽しんだ。
コメ欄は閉めてます。
人生を塗り替えることなんて出来はしない、これが人生さ。
この真っ直ぐな道
この道
人は知らず知らずのうちに
自分の道を選択しながら生きて来た。
あの時の、あの失敗が
いま、この道を歩くきっかけになったのか・・・・。
あの時の、あの喜びが
前を向いて明日を生きる情熱を支えてくれた・・・・。
川の流れのように
知らず知らず歩いてきた。
ふり返れば、遥か西のかなたに故郷の山々
道には、喜びも、悲しみも、辛いことも、坂道、でこぼこ道、そして峠道。
この道 この人生は、
たどり着いて、いま歩いている道である。
故郷の川を起点に、荒川の流れのように熊谷の地、
そして東京の地と所を変えた。
いろいろ有った、あれやこれやとふり返れば限はない。
失敗や思い出したくない心の傷を、 白で塗りつぶしたい。
振り返ることは出来ても、けして塗り替え、塗り潰すことはることは出来ない、
人生一度、道は険しい。
もしも塗り替えることができるとしたら
それは子らや、若い人達に将来を託し全面的に応援することだらろう。
若い人達には、夢、希望、大志、勇気がある。
コメ欄は閉めてます
百 度 石
お百度参りは、
願いを叶えてもらおうとする仏さまや神さまに、100回お参りして祈願することです。
同じ願い事で、100回を1セットとして何回も繰り返す場合もあります。
平安時代の末頃から始まったと言われています。
(注)
下記の百度石の周辺は、樹木や、熊笹に覆われて見出すことはできなかった。
先日散策で訪れると、周辺が綺麗に刈り払われ御覧のように整理され清掃してあった。
強く、百度石が目に飛び込んできた。
”やくしみしち”は、下↓の写真参道のことであろう。
薬師道 奥が薬師堂
弘法大師にかかわる塔、読み解くことが出来なかった。
百度石の裏側に
一度お参りする毎に、札を寄せた(数えた)のであろう札が有りました。
● お百度は通常、参道の入口から本堂までの間を往復します。
百度石があれば、そこを基点として本堂までを往復します。
● 数はお賽銭に入れる硬貨を100枚用意したり、棒などを100本用意して数えます。
● 『吾妻鏡』などの記述から、鎌倉時代初期には百度参りがあったことがわかる。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に「文治5年8月10日、奥州追討の祈祷のために御台所御所中の女房数輩に鶴ヶ岡に百度参りをさせた」
と記述がありる。
● 参道には必ず石畳がある。
お百度参りの際に少しでも雨やぬかるんだ時・・・の、心遣いか?
コメ欄は閉めています。
境内の枇杷(びわ)たわわ
境内を散策しているとビワにお目に掛った。
久方ぶりにみるビワに思いを寄せた。
宝蔵院本堂
・ 枇杷ありし我が家の庭を思いけり
平成20年頃?まで、庭の片隅にあった。
家の改築で、ぶどう、ミカン、ビワは切り倒された。
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鐘楼再建賛歌碑
近くに幾つかの寺があります。
中でも,この寺は緑濃く、参道に咲く彼岸花や、除夜の鐘は多くの人でにぎわいます。
東京都葛飾区奥戸八丁目、宝蔵院
1963年11月3日
いわれは「宝蔵院昔話抜書帖」関谷宣雄編にかかれている。
宝暦の頃、国事につ勤むる男女この寺へ逃れしが捕史の襲うところとなりて、
当時の住職と共に討たれしという哀史伝われり。
寺鐘の失われしはその頃のことにして、爾来堂宇荒廃のまま時移り、
世は変わり、今日まで鐘桜建つことなし。
昭和の住職関谷宣雄師、鐘桜再建を発願して、
多歳浄財を得て、昭和三十八年春、和光の鐘桜の建立を見る。
往古迦賦色迦王悪龍の請に依って伽藍を建て、鐘を打ってその瞋心を息むという。
諸々の悪龍の瞋心ここに息むべし、時恰も新中川放水路開鑿に当たり、
宝蔵院はその流れの岸に臨めり。
晨夕の鐘声は水底に没せし農家、耕地のために、
また新しき供養の意味を持つと謂うべし。
井上靖
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