私の映画玉手箱(番外編)なんということは無い日常日記

なんということは無い日常の備忘録とあわせ、好きな映画、韓国ドラマ、そして
ソン・スンホンの事等を暢気に書いていく予定。

父の日に・・・

2014-06-16 20:25:58 | なんということはない日常
母が亡くなってから父と二人暮らしだったのだが、そんな父が道で転び骨折したことで病院暮らしが始まったのが震災から半年位経ったH23年の秋の 始めの頃だった。
母が亡くなって元気が無くなっていたため、無理を言ってデイケアに週3日お願いしていたが、毎日私の帰りを待ちながら簡単な掃除をしたり、洗濯物 をたたんでくれたりと、それなりに楽しい二人暮らしをしていた。しかしそんな穏やかな日々は大腿骨骨折という出来事であっという間に消え去ってしまった。

救急病院に2週間、リハビリ病院に3ヶ月、老人介護施設に3ヶ月、転々としているうちにどんどん衰えていく父を見ながらも何も出来なかったのが大 変心苦しかった。
骨折で歩けないことが良く分かっていない父にとってはリハビリ病院にいる3ヶ月間は非常につらいものだったようだ。リハビリを手助けしてくれるスタッフの人も話し相手になってくれる余裕はない。私の顔を見るたびに「家に帰ろう。車に乗せて。」と懇願されるのはとても辛かった。「本当にここ に入院する前に家で一人で留守番していたんですか?そんなことが出来るわけがない。」リハビリ病院の医師にそんな風に逆に質問される私も辛かった。私と一緒に暮らしている時は、電車にもキチンと一人で乗っていて道に迷うこともなかった。日付も間違えることはなかった。同じ話は何度もした が、それは私が毎回聞いてあげれば済むことだった。毎日夕方に桃ゼリーとアセロラドリンクを買いには行っていたが、それも本人曰く「一日が終わったという印に買い物に行くんだ。」ということで2回に1回は私が食べたり飲んだりすれば済むことだった。

老人介護施設を退所した後は、間を空けずに家から歩いて5分の特別養護老人ホームに入所が出来た。二人暮らしで私以外に面倒を見る人が居なかった せいもあるが、リニューアル中だった特養に新しくユニットタイプの部屋が出来オープン前に入居者を募集していた時期だったので、すぐに入居する ことが出来たのだった。歩いて5分だから平日にも立ち寄れるし、週末は土曜日も日曜日も立ち寄ることが出来る。一緒に住むことは出来ないが、平日 仕事がある私にはとてもありがたい状況だった。

元気だったときに毎日散歩していた場所を車椅子であっても散歩出来る。
そんな穏やかな日々がずっと続けばいいとは思っていたのだが、特養に入所してから2ヶ月も経たないうちに誤嚥性肺炎になってからはどんどん体力が 落ちていった。普通の食事から流動食のようなものになり、飲み込めないことから胃ろうにする話が立ち上がったりした。点滴で持ち直し、また嚥下の 問題が出てまた点滴。そんなことを繰り返しているうちに体力はどんどん落ちていき、特養に入所してから半年も経たないうちに「看取りについてお 話しましょう。」とスタッフの方から話し合いをすることを持ちかけられた。
骨折してから1年で看取りの話をするのは辛かったが、体力が落ちているのは素人の私でも簡単に分かる。仕方の無いことだった。
「年が越せないかもしれません。」「桜が見られないかもしれません。」そんな風に言われながらも、父は静かにがんばっていた。食事が飲み込めず、目にいっぱい涙をためていることもあったが、「私が手を握っていてあげるから、がんばって飲み込んでみようね?」というと、力が無い中でもうなずいたりしていた。

一番最後に文章らしい言葉を話したのは、一緒に入所しているおばあちゃんたちと、村上春樹の新作が話題だというニュース番組を見ていた時だった。
「村上春樹って知っている?」と聞いてみると「知っているよ。作家だろう。。。読んだことは無いけどね。」とそれまでの元気の無さがうそのようにしっかりと答えてくれた。たずねた私がびっくりする位だった。
しかしそれが文章らしい言葉を聞いた最後になってしまった。
去年のGW明けにはもうほとんど食事が取れなくなってしまった。

高栄養の点滴を刺そうにも血管が脆くなってしまっているので、点滴が周囲に漏れてしまうのだという。
6月に入ってすぐに点滴を抜くことになった。意識があるのに、私の言葉には目で答えてくれるのに・・・そんな状態で点滴を抜くことに同意するのは 辛かったが、なによりも一番辛かったのは父だったはずだ。
去年のAKB総選挙も父のベットの横で見た。「(看取り用の)ベットを部屋に入れることも出来ますよ。」といわれたが、なんだか待っているようで辛く、「なるべく普通の状況で見送ってあげたい。会社帰りに毎日立ち寄るようにはしますが、会社にも休まず行きます・・・・」父はそんな私を気遣ってくれたのだろう。

去年の父の日の日曜日、特養のスタッフがほぼ全員そろっている午前中、大きな深呼吸を2回した後に父は苦しむ様子もなく静かに亡くなった。

「ゆみこさんがいる日曜日に、そして私たちスタッフが全員揃っている時間までがんばってくれたのね・・・」スタッフの人はそんな風に言ってくれた。
私が何かしてあげなければならない父の日だったはずなのに、最後にそんな風に気遣ってくれた父。 父の日が来るたびにこのことを思い出すと思う。

父が亡くなって今日で1年。


****追記*****
2013・6.1(土)病院にて
前夜から食事が取れないとの説明 来週まで様子見。6/4火曜日に点滴が入らなければ点滴中止


2013.6.7(金)有給を取って病院で看護師と相談
点滴を抜くことを決める。最後にとハーゲンダッツの抹茶味のアイスを食べる。回復食として栄養価の高いアイスを食べることがよくあるとのこと。
何日も食事をしていないことがうそのように微笑みながら完食。
本来なら一匙、二匙がよかったらしいのだが、私は何も知らず全部あげてしまった。
本人の最後にとても満足そうだった。

2013.6.8(土)
韓国語のレッスンを終え施設に向かうと、午前中は熱があり、意識もなかったとの説明を受ける。
「アイスが肺にはいり、熱が出たのだろう。このまま意識が戻らないこともある。。。今後食事は中止」
ただ、午後になって熱も下がった。
夜は父の横で、AKBの選抜総選挙を見る。のどが渇くだろうと、水を含ませた綿棒で唇を湿らせてあげる。

2013.6.9(日)
天気がよかったので、お昼前に玉川上水沿いを1時間程散歩。
午後は、近所のカトリック教会の人が慰問に来られたので、讃美歌などを聞く。
教会の人が持ってきてくれた花束を施設代表として受け取る。
花束を持って撮影した写真が最後に撮った写真になった。


2013.6.10(月)
仕事帰りに施設に立ち寄る。
私が部屋に入ると目を開けてじっと私を見つめ、その後は部屋の蛍光灯をじっと見つめていた。

2013.6.11(火)
中国語のレッスンは休み、仕事帰りに施設に立ち寄る。
私が部屋に入ると目を開けてじっと私を見つめ、その後は部屋の蛍光灯をじっと見つめるのは昨日と一緒。
昼間は最後の力を振り絞ってシャワー浴をしたとのこと。

2013.6.12(水)
仕事帰りに立ち寄ると、看護師さんより「意識があるのは多分今日までだと思うから、最後のお別れをしてあげてください」とのメッセージあり。
スタッフの人も皆お別れをしてくれたとのこと。
翌日から会社を休むことも考えたが、そばにいると何かを待っているようなのがどうしても気になる。
「会社に行ってもいいよね?」と聞くと、小さく笑いながら、瞬きをしていた。
これが何か意思疎通ができた最後・・・・・


2013.6.13(木)
始業と同時に「意識がないから・・・・」との連絡があり施設に向かう。
昼に施設につくと、やや小康状態とのこと。

2013.6.14(金)
来週どうなるかわからないからと仕事に行く。


2013.6.15(土)
家の洗濯機とクーラーが壊れてしまったので、家と施設を行き来する。

2013.6.16(日)
「今日の夜は施設に泊まるつもりでいてください」との電話を朝に受ける。
昼前に施設に行こうとすると、近所のおばあちゃんに呼び止められ5分程立ち話。
施設のロビーについた時に、「今どこですか?」という電話を受ける。
急いで部屋に行くも、1,2分前に息を引き取った後だった。
手はまだ温かかった。日曜の昼前、午後からの会議に備え、スタッフも全員揃っていたとのことで、父は何人もの人に見守られて静かに亡くなった・・・・
看護師さんは「もっと急いでと言えばよかった・・・」と言ってくれたが、最後に立ち会えなかったことはそんなにショックではなかった。
毎日ちょっとでも顔を見ていたし、施設に入ってから1年ちょっとは落ち着いて見守ってあげることができたのだから・・・スタッフの人と「近所のおばあちゃんには、このことは黙っていないと・・・」などとのんびり話すことも出来た位なのだから・・・・
葬儀屋さんとは事前に打ち合わせをしていたため、10時半過ぎに亡くなったにも関わらず、自宅には午後1時過ぎに戻ってこれたのだ。
最近は湯灌の儀ではなく、エンジェルメイクというのが主流との説明を受ける。
火曜日にシャワーを浴び、亡くなる前の日に散髪を済ませていたこともあり、エンジェルメイクをお願いする。
好きだったジャケットと帽子、さらには夏に必ず持ち歩いていた扇子を持たせてあげる。
扇子には名前が几帳面そうな英語の筆記体でサインしてあった。
エンジェルメイクの方から「おしゃれなお父さんだったのですね」と言ってもらい、父も満足だっただろう。私はそんなサインがあることも知らなかったのだから・・・


2013.6.17(月)
午後一番遅い時間に斎場に向かう。
3時に斎場に入った際にはまだ人影はあったが、火葬を待っている間の待機所にはもう誰もいなかった。
大きな待機所で一人待つ。。。。他人から見たらさびしい光景かもしれないが、私は逆に一人でよかった。

*****
翌日の火曜日はさすがに仕事を休んだが、もっとゆっくりしてもと思ったが、仕事に行った方が気がまぎれると思い、水曜日からは仕事に行くことにした。
こまごまとした用事はあったが、案外あっさりと日常に戻り、今日にいたる・・・・

追記  2014.10.26




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文藝春秋