熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

堺屋太一氏・上海万博を語る・・・中国経済シンポジュウム

2007年06月15日 | 政治・経済・社会
   堺屋太一氏と上海復旦大学の樊勇明教授が、「経済発展の飛躍台に~万博開催の意義」について、夫々の持論を述べながら対談形式で語りあった。
   日経主催の「中国経済シンポジウム」の第一部がこれで、第二部は、討論会「中国の発展は続くか~安定成長の条件」で、興味深い中国経済論が展開された。

   堺屋氏は、1970年の大阪万博を推進したお祭りのオーソリティであるが、当時の日本のライフスタイルの変化を語りながら、2010年の上海万博が中国経済社会を大きくサービス産業化させるであろうと予言する。
   中国政府は、上海万博の入場者数を大阪万博の6400万人を考慮して7000万人と見込んでいるが、優に1億人は突破するであろうと言う。
   入場者の90%は中国人のようだが、日本からは300万人を見込んでおり、1日に2万人、ジャンボが引っ切り無しに上海に飛ぶ勘定である。

   大阪万博の時、閉鎖的であった日本のレストランが外から見通せるオープンなレストランに変わり、入場者達がラフな服装を愛用するようになって、その後、ファーストフードが生まれ、カジュアル・ウエアのファッション化が進んだと言う。
   これと同様に、上海万博は、世界の政府や企業が、自らの名前と費用でパビリオンを建てる巨大行事であり、各国の仕事のノウハウや技術、知識が中国に伝わり、中国の経済社会や経営事情を大きく変えるであろうと堺屋氏は言うのである。
   中国の経済については、日本の場合と同様に、一時的には経済調整の一環として小規模な経済後退はあろうが(と言うことは、バブル現象の調整など短期的に不況局面に入る可能性があると言うことであろう)、再び回復して成長傾向は維持するであろうと予想していた。

   堺屋さんは、日本の企業が共同参加する「日本産業館」の建設を推進しており、上海万博出展を通して日本の技術と企業文化を表現して存在価値をアピールせよと企業の勧誘をしていると言うことだが、4~50億円のコストを各企業が3億円程度づつシェアーするのだと言う。
   隣の未来の超大国中国の万博に、たった一つしか日本産業館が建てられなくなってしまったのかと思うと、何となく、日本の産業政策の貧弱を感じざるを得ない。

   一方、樊教授は、「世界博覧会と上海経済社会」という演題で、中国の視点から、万博と上海経済について語ったが、見方が違っていて新鮮な感じがして聞いていた。
   大規模な万博会場の計画やそれに伴う交通網など膨大なインフラ整備計画などを、青写真を示しながら語っていたが、私自身には、北京オリンピックと上海万博を同時に、中国の経済社会の屋台骨を大きく揺るがすことなく成功裏に完遂しとおせる能力が、今の中国に備わっているようには思えない。
   先日、北京のオリンピックを成功させるべく水資源確保の為に地方に大きな犠牲を強いている姿をNHKが放映していたし、現実的にも公害や資源問題などは危機的な状態にあり、何処かで歯車が狂うと大変なことになる。

   面白かったのは、世界博覧会を迎える文明行動計画として、市民への教育として、「七つの建設」を定めたことで、中身は、
   秩序を遵守、清潔を保つ、礼儀を正す、環境を護る、信用を重んじる、新しい知識を吸収、ボランティア活動に積極的に参加

   もう一つは、「文明行動計画の骨子」で、
   ・交通信号を守り ・列を作ってバスに乗り ・ごみのポイ捨てをやめ ・タンを吐かない ・緑を大切に ・公共の場所の喫煙を自粛 ・老人優先、レディファーストなどのマナーを ・相手に優しく対応

   先日、これもNHKだったが、北京で、列を作って行動することを役人が市民に指導しているのに「私の勝手でしょ」と言ってそっぽを向く若い女性を映していたが、マナーとか道徳などを市民に教えないと世界的なイベントを実施出来ない国と言うのは中国だけかも知れない。
   礼節を重んじ、仁に篤い筈だった孔子の国中国が、何処へ行ったのであろうか。確かに、同じ中華民族の国シンガポールも昔から街を綺麗にする為には極めて厳しかった。

   しかし、2年前に、上海などで数日過ごした時、私自身は、地下鉄で、客が降りる前に外で待っていた客が我々を押しのけてドッと雪崩れ込んで来て恐怖を感じたことがあったが、無茶苦茶な交通信号無視など以外は、衛生的な面は多少気なったが、別に特に不都合は感じなかった。
   中国産の毒入り食品が世界を騒がせ、知財無視で海賊版大国で有名な国であり、世界市民としての経験にはまだ慣れていない中国である。騒乱や事故が起きないよう徹底する方が大切なような気がしている。
   
   

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世界の頭脳を一網打尽のオープンソース・イノベーション

2007年06月14日 | イノベーションと経営
   リナックスは、1991年にヘルシンキ大学生リーナス・トーバルズによってスタートしたオープンソースのOSだが、グーグルと共にマイクロソフトを追い上げている。
   リナックス現象は、コンピューターの世界の未来像を示しているだけではなく、これからのイノベーションのあり方を示すメタファーである。
   世界中から、自分の知識と有能さを積極的に発揮したいと考えている優秀で腕利きの情熱に溢れた人材を糾合して追求する新しい「オープンソース・イノベーション」手法であり、20世紀の「プロフェッショナルが頂点に立つ大きな階層的組織によって推進されるイノベーション」の対極にある。

   W.C.テイラーとP.ラバールが「マーベリック・カンパニー(Mavericks at Work)」という最新刊で、「常識の壁打ち破る超優良企業」の経営を浮き彫りにしながら、極めて斬新な切り口からイノベーションの生まれ出る舞台を活写しており、その一つがこのオープンソース・イノベーションである。
   マヴェリック(Maverick)とは、焼印のない、群れから離れた、独立独行の牛や馬のことで、いわば一匹オオカミと言った英語だが、この本の副題(何故、ビジネスにおける最もオリジナル・マインドが勝利を収めるのか)が示すようにオリジナリティやオンリーワンと言ったニュアンスを含んでいる。
   昔、サンパウロで4年間フォードのマヴェリックに乗っていたのを思い出して感慨一入でもあるが、このマヴェリックが、今日の企業経営のあるべき姿を一語で表現しているのが興味深い。

   イギリスのC.レッドビーターとP.ミラーが、このオープンソース手法による分散型の創造的プロセスを、「プロアマ革命」と呼んでいる。
   プロアマとは、「プロの水準で働くアマチュアであり、「博識で専門的知識が豊富で、献身的、新技術を利用したネットワークで繋がっている」人々を指す。
   プロアマは、正に、プロジェクトや組織に貢献できる才能の宝庫であり、彼らは自らの意思でそこに参加し、意欲的に働く。
   プロアマ革命は、「革新的、柔軟、低コスト、という新しい分散型の組織によって推進されるイノベーションのモデルとなっている。
   地球上に張り巡らされたインターネット網を活用して、世界中から最高の頭脳を糾合して「巨大ネットワーク型イノベーション」を追求して成功を収めている驚くべきケースを「マーベリック・カンパニー」は紹介しながら、あるべき経営革新の未来像を示している。

   最近では、パソコンから色々なオープンソースであるフリーソフトをダウンロードして結構重宝して使わせて頂いているが、最も利用価値の高いのは、ジミー・ウエールズが創設して世界中の利用者が執筆・編集するフリー・スタイルのインターネット上の百科事典ウィキペディアで、初見資料としてはブリタニカなどよりは遥かに便利で役に立っている。
   
   著者達は、およそオープンソース手法でイノベーションなどやれるように思えないような業種で成功しているエクセレントカンパニーを紹介している。
   金鉱山の開発に万策尽きたカナダのゴールドコープ社のロブ・マキューアン社長が、MITのセミナーでリナックスを知り、なんと、インターネットで自社の保有するあらゆるデータを総て開示して、世界中の科学者やエンジニアにダウンロードしてもらって、自由に分析した上で採掘プランを提起して貰うことにしたのである。
   トロントに膨大な数の提案が届いた。内容の多様さと独創性の豊かさ、そして、鉱業界とはまるで畑違いの分野の技術、データについての斬新な考え方をする科学者達が、様々な提案をしてきたが、結果は大成功で、業績と株価が急上昇したと言う。

   優良企業向けの高性能ソフトウエアを製作している「トップコーダー社」は、クライアントからコンピュータのアプリケーション・ソフトを受注すると、コンポーネントを細分化して、クライアント名を伏せて、登録しているプログラマーにオープンソース・スタイルで作成を依頼する。
   プログラマー達は、最高にエレガントなソフトウエアを構成する為に熾烈な戦いを繰り広げてライバルの鼻をあかそうと努力する。

   驚くべきは、芸術の世界にまでオープンソース・システムを導入して成功しているエジンバラ・フリンジ・フェスティバルのケースである。
   このフェスティバルは自主運営のシステムで、どんな個人でも団体でも参加できるが、条件はただ一つだけで、それは、250の会場の何処かと交渉して出演許可を貰うことである。
   パーフォーマー、会場、観客、メディアの4本柱が作り出すこのフェステイバルだが、世界中から観客とメディアが殺到する。交渉が成功して出演にこぎ着ければ、次の試練は、如何に自分たちを目立たせるかで、パーフォーマーは、必死になって観客やメディアの評価を高くして登竜門をくぐり抜けることである。
   「世界最大の芸術のインキュベーター」と呼ばれるこのフェステイバル、人気を博せばロンドンやニューヨークでの檜舞台が待っている。
   芸術監督という肩書きを持つ人物がいるが、アート界のカリスマが居る訳でもなく、委員会も、運営母体も何もない。間違いなくフェスティバルをそっくりアーティストと観客に委ねて、ルールを最低限に保つこと、これが鉄則だと言う。

   余談だが、賢くて優秀な日本の社会に、いまだに蔓延り、天下り先ばかりに興味がある官僚の支配する、官僚統制が如何に時代から遊離したシステムであるかが分かろうと言うものである。 
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ピーター・ゲルブMETを語る(1)・・・テアトロ ジーリオ ショウワ

2007年06月13日 | クラシック音楽・オペラ
   オペラの殿堂METを極めて斬新かつイノベイティブな経営で蘇らせたピーター・ゲルブ総支配人が、2時間以上にわたって自分自身のキャリアを紐解きながらMET経営に対する熱い思いを語った。
   昭和音楽大学が精力的に推進している世界の主要歌劇場の運営や現状を調査分析の一環としての公開講座で、今回は、「メトロポリタン歌劇場の未来戦略 メディアと劇場の融合」と言うタイトルで、やっと初年度のシーズンを終えたばかりのピーター・ゲルブを招聘したのである。

   この5月で終わったシーズンでは、大晦日に歌舞伎座で上映された高度なIT技術を駆使してハイビジョン映像と素晴らしい音響とでモーツアルトの「魔笛」を筆頭に、6回にわたってMETの生中継映像を世界各地の映画館で上映して話題になった。
   私はロンドンに居た時に、BBCがロイヤル・オペラの舞台をよく放映していたのでそれほどオペラの劇場生中継には驚きはないが、今回のMETの試みは、それより遥かに大規模で、カメラが縦横無尽に舞台裏に入り込んで舞台設営の様子を映し出したり、休憩途中にビバリー・シルスやルネ・フレミングがドミンゴやネトレプコの楽屋を訪れてインタビューするなど想像を絶する企画で、それも生中継(日本は時間の関係で録画)だと言うからその質の高さに驚かざるを得ない。
   このプログラムの4演目を、この週末にNHKがハイビジョンで、早速放映すると言うから楽しみでもある。
   今回の公開講座でも、最後に、プッチーニの「外套」が上映されたが、M.グレギーナ、S.リチャートラ、J.ポンスの素晴らしい舞台を改めて楽しむことが出来た。

   ゲルブは、この映画劇場の上映をスポーツ、特に、あらゆるところで必ず放映されているニューヨークヤンキースの生及び録画による放映にヒントを得た。
   野球と同じ様に、オペラにも熱烈なファンがいて必ず歓迎されるであろうと思ったと言う。
   それに、METの観客のアンケートを調べたら、その平均年齢が65歳であることを知って愕然として、若い観客やオペラに触れたことのない人々への関心を高める必要に駆られて、その一環でもあったと言う。

   素晴らしかったのは、昨年のオープニングの演目であった「マダム・バタフライ」を、タイムズスクエアとリンカーンセンターに野外ステージを設けて大スクリーンで放映しニューヨークっ子たちの度肝を抜いて一挙にオペラファンの裾野を広げたことである。
   当時のTV映像を放映していたが、あのタイムズスクエアの交通が遮断されて、道路全体にイスが並べられて客席になり、コーナーの円形大スクリーンに蝶々夫人の映像が大写しになって素晴らしいアリアが流れていたのにはビックリしてしまった。
   
   ところで、この「マダム・バタフライ」だが、「イングリッシュ・ペイシェント」や「リプリー」のアンソニー・ミンゲラ監督演出のイングリッシュ・ナショナル・オペラの舞台で、音楽と劇との融合を目指すゲルブ総支配人にとっては願ったり適ったりの舞台で、ライオン・キングのジュリー・テイモア演出の「魔笛」と同様、これから、オペラ劇としての劇に比重をかけた奥行きの深い舞台が楽しめそうである。
   METをシアターとして見てくれとゲルブ氏は言っているが、歌が上手いだけの大根役者的な歌手はどんどん排除されて行くのであろう。
   私は、その意味では、シェイクスピアの国イギリスでは元々芝居を演じられないオペラ歌手は評価されず、ロイヤル・オペラもイングリッシュ・ナショナル・オペラでも、歌手達が皆芸達者なのには常々感心していた。
   ついでながら、日本の役者や芸人には、歌えなかったり踊れなかったりする人が結構居るが、イギリスのシェイクスピア役者は何でも出来るのが普通であることを付記しておこう。

   従来のオペラ演出家の枠を超えて幅広く演出家を起用して、新演出のオペラ公演をシーズン8演目に倍増すると言うから、益々、楽しみである。
   ミュンヘンのズビン・メータのリハーサルの「リゴレット」を見たら、殆どの歌手が、サルさながらのプラネット・エイプの格好をしていて、ラモン・ヴァルガスが衣装を脱ぎ捨てて舞台を下りたのを見たと語りながら、こんな舞台は創らないと言っていた。

   演出家には、あまり注文をつける心算はないが、一つだけ、オペラの中身に誠実であること、ストーリーを守り立てる演出をしてくれるよう頼むことにしていると強調していた。
   独善的で、中身を勝手に変えたり、奇を衒った演出をする演出家が多いが、あくまで作品に忠実にオーソドックスな正攻法で臨もうと言うことであろうか。
   昨シーズンの劇場版オペラは、その意味では実に素晴らしい演出ばかりであったような気がしている。
   
   
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「課題先進国」日本の役割・・・小宮山宏東大総長

2007年06月12日 | 地球温暖化・環境問題
   日本は、現在、次のような多くの深刻な課題に直面している。
   ・ヒートアイランド現象
   ・エネルギー・資源少
   ・廃棄物増加
   ・環境汚染
   ・少子高齢化社会
   これらの問題は、今までに世界の誰もが経験したこともなく解決したこともないフロントランナーとしての先進国日本に与えられた課題である。
   地球や人類の将来がかかっているこのような深刻な問題は、日本が最も解決出来る能力を備えた国なので、真正面から挑戦して課題解決先進国を目指そう。

   小宮山宏東大総長は、本日有楽町のよみうりホールで開かれたECO JAPANと日経が主催した「環境・エネルギー課題解決のための賢人会議」で、持論である「課題先進国日本の役割」について、熱弁を振るった。
   
   20世紀は膨張の世紀で、物質生産の膨張によって、環境・資源問題を引き起こし、知の膨張によって全体像が見えなくなってしまった。
   エネルギーと環境のトータルビジョンを描く為に、時間、地域、対象、技術等細分化された1億枚のピースを繋ぎ合わせて、現実把握、理論、推論、あらゆる手段を動員して知の統合をはかり重層構造の全体像をつかまなければならないが、何が正しいのかシャーロック・ホームズの知が欲しいと仰る。

   資源が乏しく人口密度の高い、しかし、豊かな先進国日本は、これまでに水俣病や多くの公害問題に挑戦して解決してきた。
   アメリカは、資源多消費の20世紀型国家で多くを期待できないが、日本は公害対策のみならずエネルギー効率最高の経済社会を実現してきた国であり、この実績を活かし、資源節約型社会と環境調和型社会の形成に邁進し21世紀の先進国モデルとなり得る、これこそが、正にこれからの日本の世界史的役割である。
   同時に、日本の国際競争力を強化し、世界の国々から敬意を集める源泉でもある。

   さらに、小宮山先生は、知を構造化する場が不可欠であり、そのためにも大学の役割は大きいと付け加えた。
   ハーバードは潰れても良いが、東大を潰してはならない、と笑わせていたが、かって、優秀な人材を育んできた日比谷高校などの公立エリート校を葬り去った文部行政があった以上、笑ってもいられないかも知れない。
   
   小宮山総長は、地球のサステイナビリティについても語っていたが、sustainableと言うのは維持可能と言うことであって、少なくとも現状維持で、良くなるという見込みが希薄な後ろ向きの概念である。
   もう、悲しいかな、地球や環境を語る時には、この言葉しか使えなくなってしまったのである。

   ところで、このシンポジウムは、小宮山総長の講演の後、
   山口光恒東大教授の講演「ポスト京都―日本の戦略」
   山根一眞氏の司会によるパネルディスカッション「地球環境問題克服に向けた日本の対応と課題」が行われた。
   パネルの最後に、来年の阿寒湖でのサミットには、会場設営を徹底的にエコシステムで行うべきであると言う提言があったが、確かに日本が21世紀ビジョンを世界に発信する千載一遇のチャンスであり、日本に何が出来るか日本の気迫と科学技術の粋を世界に叩きつける好機であることには間違いない。
   東京オリンピックまで待てないのである。
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クリエイティブ・クラス頭脳の世界的争奪戦

2007年06月11日 | イノベーションと経営
   アカデミー賞監督となったピーター・ジャクソンは、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作を故国ニュージーランドで製作して、ウエリントンを一躍世界最先端の映画都市にのし上げた。
   こんな話題から、リチャード・フロリダ教授は、「クリエイティブ・クラスの世紀」を書き始めて、今、世界中が、クリエイティブで有能な人材の争奪戦争に鎬を削っていると説いている。

   グローバルな経済力と文化力の象徴である映画産業において、ひとたび世界の脚光を浴びるような作品さえ生み出せば、世界中から調達された資金を使って、世界中から来た最高の映画制作者を集めて卓越した作品を造り続けて来たハリウッドも一瞬にして凌駕することが出来る。
   このことは、とりもなおさず、経済的優位を維持するためには、製品、サービス面や資金面で競うよりは、才能ある人を惹きつけ、留まらせることが必須であることを示している。
   クリエイティブ・クラスの人々の大移動が始まり、世界中の国々が、クリエイティブな才能を持った人々の獲得を巡って争奪戦争がヒートアップしたのである。

   国際競争力とは、天然資源や製造技術力、軍事力、科学技術による経済力の優位性などではなく、クリエイティブな才能を生み出し、集め、引き寄せ、引きとめる力で、卓越した製造業から科学技術の先端まで、国際経済競争の主導権を握る為には、このことが最も重要なのだと説きながら、フロリダ教授は、アメリカのこの方面での遅れに危機感を持っている。
   何世代にもわたってチャンスと革新の国として世界に君臨してきたアメリカが、今や、政府の無為無策によって、その地位・クリエイティブな競争力を奪われつつあり、これは、正に産業革命以来の最大の挑戦・危機に直面していると言うのである。

   アメリカの国際競争力優位を作り出す要因については、沢山の研究がなされ諸説が錯綜しているが、フロリダ教授は、最も重要な点は、外国からの頭脳の流入、即ち、優秀なクリエイティブ・クラスの人財を惹きつける移民政策だと考えている。
   人種の坩堝のような異文化・異民族の融合する文化・文明の十字路。そのような交差点を作り出すことによって、創造性を爆発させてメディチ・イフェクトを誘発すること、これ以外に経済社会の発展は有り得ないと言う発想である。

   これは、国粋的とは言わないまでも、移民を頑なに拒否し続けている現在の日本の移民政策の対極にある考え方だが、島国で単一民族として高度な文明国家を維持してきた日本にとっては、和魂洋才程度の純粋培養対応で十分に経済競争に打ち勝ち国力を保つことが出来たのである。
   しかし、この考え方は、追いつけ追い越せ政策が有効な時代は良かったが、文明社会の先頭集団に入って、先に進む為に未踏の未来を前にするとクリエイティブな発想がなければ活路を切り開けない。
   雁行経済政策で日本の真似をして追随しておれば自然に経済発展を遂げ得たアジアの諸国や都市が今や日本を凌駕し、日本の国際競争力が先進諸国の殆ど末尾にランクされるようになったのも、日本の成功体験の弊害とこの国際社会への閉鎖性にあったことは間違いなかろう。   

   さて、このクリエイティブ・クラスが最も重要な経済的な資産となったと言う発想は、社会発展段階に応じてこれまで、農業、工業、情報が夫々経済社会の価値を体現して来たのだが、その資産としての価値がモノ、カネ、情報、ヒトと比重が移って来たと言うことであろうか。
   益々激しくなる経済戦争において、頭脳を求めた競争が熾烈化するということは、ヒューマニズムの進展とも思えないが、人間の価値を改めて見直すという意味では歓迎すべきかも知れない。

   ところで、フロリダ教授は、専門が「地域経済発展論」なので、このクリエイティブ・クラスを育み、文化文明を爆発させるのは都市であるとして、都市発展論を展開しているが、IT革命によって加速的に進展したグローバリゼーション故の傾向で、国家を超えた地域、都市の役割の重要性が増す。
   マイケル・ポーターのクラスター理論の延長線上で考えるとイノベーションの将来が見えて面白い。
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フェジョアが咲くとブラジルを思い出す

2007年06月10日 | 海外生活と旅
   淡い赤紫の地に白の裏地を付け巻き上がったビロードの様な四つの花弁の間から、鮮やかな黄色い花粉をつけたピンと四方に勢いよく張ったおしべの真ん中に一本の少し太い赤いめしべを突き出したフェジョアの花。
   梅雨の少し前辺りから一斉に咲き始めるこのフェジョアの花を見ると、無性にブラジルが懐かしくなる。
   ブラジルから帰国してしばらくしてから東京から千葉に移り住み、すぐに、近所の園芸店で苗を買って植えたフェジョアだが、すぐに大きくなって四方八方に枝を伸ばすので、今庭にある5本の木は挿し木による二代目である。

   何故か、ブラジルでのフェジョアについての印象は希薄で、実際にフェジョアの実を食べたのかどうかの記憶さえも定かではない。
   あの紫色の花をつけて堂々たる風格を持つジャカランタの木とは違って、なよなよとした細くて長い枝を四方に広げて樹形がすぐに乱れてしまうので、住宅街の樹木としては不向きで、あくまで果樹園での木であった所為で、殆ど見かけなかったのが原因かも知れない。
   当時はまだ珍しくて、同じ種類の木ばかり植えたので実付きが悪くて、実がついてもすぐに落ちてしまう。違った種類のフェジョアを植えようかと思っているのだが、これ以上庭を占領されても困るので諦めている。

   ブラジルに住んでいたのは1974年から1979年末までの4年間で、ブラジルブームで沸きかえっていた頃であるが、その後急転直下で不況に喘ぎ、今再び、BRIC’sの一つとして脚光を浴び始めている。
   30年周期のサイクルなのかも知れないが、とに角、膨大な国土に自然資源の豊かさは群を抜いていて、未来大国と言い続けられている。
   私がブラジルにいた頃は、ローマクラブによる「成長の限界」と言う経済成長に否定的な本が出ていたけれど、世界の大勢は、地球を切り刻んででも開発して経済成長を追及しようと成長一辺倒であった。
   世界中の企業がブラジルを目指して殺到し沸きに沸いたが、石油危機が勃発すると、ブラジルには石油がなかったので、一気にブームも終息してしまった。
   ところが、その後たった30年の間に、あの広大で未踏の大地であったアマゾン流域が乱開発で無残な姿を晒し始めた。

   あの30年以上も前に、初めてサンパウロの市外を見下ろしてビックリした。東京にさえ高層ビルが少なかった時代に、20階以上のビルが3000本以上も林立していたのである。
   この姿が、何となく、現在の上海の姿と二重写しになって見えて来るのが不思議である。
   ブラジルの場合は、石油危機を逆手にとって、幸いと言うべきか、石油代替エネルギー・エタノールに力を注いで世界一のエタノール先進国になった。
   しかし、その結果、アメリカ資本と一緒になって、エタノールの原料である大豆やトウモロコシの畑を作る為に、人類最後の酸素供給源であるアマゾンを切り刻んで破壊し続けている。

   中国も、やっと公害問題の深刻さを語り始めたが、経済成長ブームのお陰で水を使い過ぎ、あの強大な黄河が、年間二百何十日も断流して、上流から下流まで水が流れないと言うのである。
   水や空気のように無尽蔵にあると思っている生きとし生けるもの共有の自然財が一番危ない。
   安いと言って中国でモノを作って輸入している日本企業も、言うならば、中国の水や空気を輸入して、即ち、犠牲にして、自分たちの豊かさを享受していることを忘れるべきではない。
   時代が変わったと言うが、リービッヒの樽の法則が働いて、何処かでボトルネックが生じれば、簡単に経済システムは破綻してしまう。
   グローバリゼーションのお陰で、その連鎖は一瞬にして世界を覆う。

   フェジョアの妖しい花を眺めていて変なことを考えてしまったが、もう一度、サンパウロやリオを訪れてみたい、アマゾンやイグアスを見たいと思っている。
   アメリカで留学を終えたばかりで赴任したブラジル。
   合理的な生活に慣れ過ぎていたので、アスタマニアーナ(明日まで 明日は明日の風が吹く)、マイゾメーノス(MORE OR LESS ABOUT まあまあそんなとこですわ、ぼちぼちでんなあ)と言った生活リズムに馴染めなくて、あまり好きではなかったブラジルだが、今は、無性に懐かしくて仕方がない。
   歳の所為であろうか、不思議なものである。
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子供の教育は社会全体の責任

2007年06月09日 | 政治・経済・社会
   クリエイティブ社会の構築の為に、子供たちの教育もクリエイティブ時代に合わせた教育に変えて行かなければならないとリチャード・フロリダ教授は説く。
   M・デルやW.ヒューレットとD.パッカード等が、自分の空き時間に寮の一室やガレージで起業したのは良く知られた話ではある。
   しかし、クリエイティブな時代では、それこそが教育の目的なのであるから、学校は、総ての子供たちが、自由に創造性を発揮して伸び伸びとモノを創り出せるような、クリエイティブな能力を広げて動かす入れ物でなければならないと言うのである。

   子供が生涯学習を続けるような人間に成るかならないかは、結局は親次第なのだが、最近アメリカでは、親たちには、子供を敢えて教育しないと言う力が働いている。
   実際に、特に良い大学の教育費は大変な経済的負担になっている。
   ところが、政治家たちは、「家族の価値」とか「子供たちへの投資を」等と好んで口にするが、親たちを支援するような大規模な新しい提案をする訳でもなく、育児は親子だけの為であり、育児支援政策は子供のいない人への差別だと不満を抱く人もいる。
   しかし、少子高齢化、経済や人口動態上の現実を見れば、賢くてクリエイティブな子供たちに自分たちの将来が委ねられていると言う事が分かる筈で、こんな考え方は全く自己的で時代遅れである。
   子供たちは、自分たちの大切な共通の宝であって公共財だと言う認識を持つべきだと言うのである。

   クリエイティブ社会の特徴である移動性が、教育を受けた場所と実際に働く場所との関係を切ってしまった。アメリカの頭脳流出を知る為に、地元で大学教育を受けた人数と、地元の労働人口のうち大学の学位を持つ人数との比である頭脳流出指数を調べるて見ると、アメリカの90%の地域は純頭脳流出だったと言う。
   高い移動性故に、魅力のなくなった地方から若年層の流出は止まらず、地方での教育投資のインセンティブがなくなって、益々、地方の教育投資の減少が地方の経済成長をダウンさせるという悪循環が生まれてしまった。
   ピッツバーグは、今では、地域の輸移出品目は鉄鋼ではなくて才能だと言う冗談が飛び出るほどだが、しかし、これも全く見返りのない放出であって、今日本で話題の「ふるさと納税」で回収でもしない限り報われないと言うことであろう。
   問題は、この傾向が地方だけではなくアメリカ全体の傾向となってしまったので、将来が暗いとフロリダ教授は嘆くのである。

   もう一つフロリダ教授が強調しているのは、
   「次世代の養育に従事すればするほど、受け取る報酬が少なくなるとの法則が働いて、自分の子供の養育に自らを奉げる人に賃金は出ない、保育所の職員はホテルの清掃人より稼ぎが少なく、小学校の先生はカジノのディーラーになった方が余程良い。
   これでは、先進国の殆どで出生率が人口維持に必要な水準より低くなるのも当然だ。」と言う点である。

   フロリダ教授の論点で卓越しているのは、クリエイティブ社会と言っても必ずしもハイテクや高度な学問や知識や芸術だけを言っているのではなく、ローテクであろうと在来業種であろうとクリエイティブであれば、その価値を総て認めていることである。
   子供たちをクリエイティブ経済に備えさせるうえで本当に必要なのは、美的感覚を養うことと代数を学ぶことを別物と考えず、包括的に学べる教育だ。
   子供達の夢見るガラス工芸やケーキ職人のコースを学ぶことが、社会的にも認められていると思わせるような方向にむけれれるべきである、と言って、実利一辺倒の教育ではなく情操教育の重要性を説いている。
   
   私が感銘を受けたのは、フロリダ教授の子供たちは我々の価値ある財産であって、親だけに養育を押し付けるのではなく、我々社会全体で責任を持ってクリエイティブな人財として育成していかなければならないと言うことである。
   そう言う視点で教育の問題を考えて行けば、今のような教育制度なり教育行政で良いのかどうか自ずから分かってくる。
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養老孟司先生「違いを分かれと」と言う

2007年06月08日 | 生活随想・趣味
   養老孟司先生は「ルイ・パスツールを現在から考える」と言う演題で講演をしたのだが、同じフランス人でも好きなファーブルの話の方が多くなった。
   先生の話を聴くのは今回で2度目だが、やはり、最後は豊かな感受性と「違い」の分かる感覚を失ってしまった現代人を語って終わった。

   パスツールについては、「目に見えない小さな世界が、目に見える世界と、同じ法則で動いている、そう思っていたに違いない。そう思わないと、酒石酸の結晶に関する最小の研究も、それ以降の大きな仕事の総ても、成功した理由が分からなくなってしまう。多分パストゥール自身にとって、それは暗黙の前提だったはずである。」
   顕微鏡で追求し続けた世界も、見える世界と同じ法則で動いている筈だと考えたから、パストゥールには見えない筈のミクロの世界を見通せたと仰るのである。

   別な所で、独創性とは何か、そんなものはないと言う気がする。独創的なことなど考えたこともないし、もし自分が本当に独創的なら、自分の本など全く売れないだろうとも言う。

   独創性について間違った理解が横行すると学問が歪むとも言っているので、私は、養老先生の話を聞いていて、パストゥールやファーブルが偉いのは、独創的だからと言うことではなくて、豊かな感受性故に違いが分かりその違いの価値を理解して追及し続けたからだと考えているのではないかと思った。
   同じ花鳥風月を見ていても、凡人は何も感じないが、歌人や詩人達は限りなき詩情を感じて素晴らしいうたを創る。
   独創性とは、即ち、あるものを凡人と全く同じ視点から客観的に見ながらも、その違いの価値を認めて法則化するなり、その素晴らしさを他に認識させることの出来る力のことを言っているような気がしている。

   赤ちゃんは絶対音感があるが、年を取ると音の違いが分からなくなって音痴になってしまうが、動物達は何時までも絶対音感を忘れない。
   そうでないと、かもめや海鳥達が、何万匹もいる大群の中で自分の子供を間違いなしに探し当てて餌を与えることなど出来る筈がない。
   何時も庭に飛んできて木の実をつついているメジロたちが、この広い野山で自分の番の相手とはぐれることなく飛び回っているのを不思議に思って見ているが、これも鳴き声なのか匂いなのか分からないが他のメジロとは違う特性を何処にいても認識出来ているからであろう。

   先日、聞くとはなしに歩きながらラジオを聞いていたら、男女が恋に落ちるのは、襟元の辺りから発散されているフェロモンを感じて相性が合うと互いに惹かれるのだと言っていた。
   まだ、人間には、絶対音感とは違った動物的な嗅覚なり六感が残っていて、それが人間生活を豊かにしてくれていると思うと多少だがほっとする。

   今回も、養老先生は、NHKが公平客観中立の放送に努力すると言いながら、一方向から見たカメラで撮影した独善的な番組を製作していて何が公平客観中立なのかと毒づいていた。
   どこの階段も、道も同じ。例えば、階段など、段差やピッチを一段毎に変えたらどうかと言う。ファーブルやパストゥールたちは、一歩毎に全く違ったステップの野山を歩いていたので、あの素晴らしい発見が生まれたのだとも言う。

   モンテスキューの話で、玉座に座っている王様は、玉座と言うよりは自分の尻の上に座っているのだと言う話にかけて、最近の学生は、自分で勉強や科学せずに出来上がった学問の上に座ってあぐらをかいていることを忘れていると叱るのだと言っていた。

   画一化に向かう現在社会にも問題があるかも知れないが、いまだに、先生の教えたことをその通りに回答しないと点を貰えない日本の教育制度を続けている限り、学校も社会も永遠にNHKである。
   せめて、欧米流に、先生が教えたことをそのまま回答したら零点で、勉強して自分独自の見解を書かなければ点を与えないような手段を取らない限り違いが分かるような感受性など育つ筈がない。
   イノベーション、イノベーションと安倍内閣も、財界も騒いでいるが、意図して違いを育てなかった日本の土壌には中々難しい話で、もの作りは得意だが、特に、豊かな発想などものの考え方に比重を置いたプロセスイノベーション等ソフト面では外国勢に苦戦せざるを得ないであろう。
  一番動物離れをした文明人(?)は、日本人かも知れないと思っている。
   
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知識化社会へ・・・青山有紀教授

2007年06月07日 | 政治・経済・社会
   2020年には、ユビキタス社会が頂点に達して脱情報化社会に入り、新しい「知識化社会」に突入するのだと、青山有紀慶大教授は予言する。
   農業社会、工業社会、情報化社会、と進展してきた人類の経済社会発展が、第4次の新しい発展段階に達するのだと言うのである。

   次世代ネットワークNGN(Next Generation Network)の先を行く、新世代ネットワークNWGN(New Generatin Network)の時代のことのようである。
   NGNは、IPパケット転送をベースにしたTriple/Quadruple-play Serviceを実現するネットワークだが、NWGTは、このインターネットのアーキテクチュアやプロトコールとは異なった形態で将来のユビキタスサービスを提供するネットワークで、超大容量のコンテンツから、膨大な数量のセンサーや電子タグから発する極小容量のデータを疎通させるスケールフリーなネットワークだと言う。
   セクリティやプライバシィの要求条件を満たすと共に、ユーザーの要求条件に即応してカスタマイズされたネットワークを提供できるユーザーオリエンテッドなネットワークであって、IPネットワークの延長線上では実現できないので、イノベーションが必須であり、欧米では大々的な研究プロジェクトがスタートしている。

   私が興味を持つのは、経済社会発展論の方で、農業社会が産業革命によって工業化社会に到達するまでには気の遠くなるような永い年月を必要としたが、この工業化社会が情報化社会に到達するのには、仮に、ARPANETがスタートした1969年だとするとワットの蒸気機関の発明から200年しか経っていない。
   ところが、青山教授の説を取るとすると、次のこの情報化社会を脱して知識化社会に到達するまでには、半世紀しか必要としないことになる。
   一世代で産業革命を2度も経験できると言うことなどは、考えも及ばないことだが、私自身の経験でも、この情報化社会の進展が加速し始めた1980年代あたりから、世の中が急速な変化を遂げて、過去の経験や知識があれよあれよと言っている内に陳腐化して役に立たなくなって行くのをゴマンと見てきた。
   ずっと昔にドラッカーがコインした断絶の時代が実際に起こっているのである。

   さて、この経済社会発展論に沿って、人類が発展段階を上り詰めていくことが幸せなのかどうか、私自身は、進めば進むほど人類の歴史は終焉に近づかざるをえないのにと思っているのだが、最近、養老孟司先生と月尾嘉男先生の面白い講演を聴講したので、次にコメントを試みながら考えてみたいと思っている。


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移民が経済社会活性化の鍵?

2007年06月06日 | 政治・経済・社会
   昨年から日本の人口が減り始めて、今後少子高齢化がさらに進展して行くと、経済成長が期待出来なくなって大変だと言う。
   出生率が1.29から1.32に上がったとかで一喜一憂しているが、抜本的な出生率上昇策を取れないのなら、地方の疲弊や日本の経済社会構造が歪になるなど不都合が生じるので、その解決策として移民を考えるのは当然だろうと思う。
   しかし、どのメディアも世論も、正面切ってこの移民問題を取り上げようとしない。

   今話題を呼んでいるリチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラスの世紀」の中で、フロリダ教授は、アメリカが、最近、移民にとって閉鎖的な政策を取っているのみならず、益々魅力のない国になりつつあるので、イノベーション等経済発展と国際競争力を下げて著しい経済損出をもたらしていると嘆いている。
   アメリカの今日あるのは、移民たちがアメリカに持ち込みアメリカにインパクトを与えた活力とエネルギー、多様な文化と価値観などの貢献あってのことだと言うのである。
   日本の場合でも、今の相撲や野球を考えなくても、飛鳥奈良時代に、大陸からの渡来人によって大きく文化の華が開いたことは、誰でも知っている厳然たる事実である。

   国連の調査でも示されているように、世界の最先進国では、「補充移民」が重要な役割を果たしていると言う。
   補充移民とは、「人口や労働力人口の減少、さらには高齢化をも埋め合わせるために必要な国際的移民」と定義されているようだが、正に、将来の日本にとって必要なのはこの移民なのである。
   ありもしない生産性の向上による経済成長や所得の上昇を前提にして国民年金の支給金額を推計するよりも、移民による経済成長を図った方がはるかに現実的である。
   トヨタの奥田前会長が「移民をどんどん受け入れるべきだ」と言っていたのは、トヨタのお膝元で沢山のブラジル移民が働いていてトヨタグループの生産を支えていることを熟知している上での発言であろう。

   アメリカの大学教授やノーベル賞受賞者の相当数は外国籍であることは衆知の事実である。
   例えば、アメリカの学位取得者のうち博士号では38%、エンジニアリング、コンピューターサイエンス、生命科学、物理化学の博士課程の大学院生の半数以上は外国籍だと言う。
   シリコンバレーのハイテク企業の30%は、中国人とインド人によって創設・経営されている。外国出身の起業家は、技術的にも起業家精神的にも、シリコンバレーの推進力の核を担っており、そのことがアメリカをクリエイティブ時代の疑いのないリーダーに仕上げている。この推進力の核が、アメリカを含む各国にとって起業家精神的にも世界標準になっている、とフロリダ教授は言うのである。

   このような帰国移民が、インドや中国、台湾で起業しハイテク産業を興しており、今や頭脳流出から頭脳循環時代に入って、世界中で熾烈な頭脳獲得戦争が始まっていると言う。
   埒外に置かれているのは日本だけである。
   イチローや松井がアメリカへ行ってプレイしている程度なら被害が少ないが、多くの中村修二級の頭脳が流出して行くと日本の経済的な国際競争力に大きな打撃となる。
   攻撃は最大の防御なりで、日本も移民政策を大きく転換して世界の頭脳を求める戦いに参戦すると言うのはどうであろうか。 
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フォトアルバムセットで旅の写真集を作成

2007年06月05日 | 海外生活と旅
   キヤノンから売り出されている「フォトアルバムセット」を使えば、自分で簡単に写真アルバムが作成出来る。
   裏表両面に印刷できる写真用紙に自分でアレンジした写真をプリントして、所定のアルバムに挟んで綴り込めば出来上がりである。
   写真を編集して各ページを作成するのが多少面倒だが、これには便利なソフトがあり、それを使って構図などを決めて写真をパソコンなどから取り込ば良く、それに、説明文を書き込んだり写真の大きさは勿論自由にアレンで出来る、年賀状や案内チラシを作るのと全く同じ要領である。
   全ページが写真の印画紙で出来ているようなものだから、写真アルバムに写真を貼ったような歪さがないのが良い。

   これこそ、正に、アルビン・トフラーの言う生産消費者(Prosumer)で、消費者が自分自身で生産して消費する典型的なケースである。
   イノベーションの力のお陰で、本来プロでないと出来なかった仕事を素人でも出来るようになったので、自分自身の工夫を交えて楽しみながら物を作り出すことが出来るのである。
   多少これよりは難しいが、極めて困難であった本の出版も自分自身でパソコンを使って本を製作することが出来るし、ドットコムの会社を通せばもっと簡単に可なり安く出版できるようである。

   ところで、このフォトアルバムであるが、今のところ、まだ半年に一冊、孫の写真を集めてアルバムを作っているていどだが、これはこれで便利である。
   問題は、今までのように写真をアルバムに貼る方が簡単だしアルバムに多くのバリエーションがあって選択の楽しみもあり、それに、コスト的にもこの方が安いので、それほどのメリットはない。
   しかし、自分自身で自由自在に好きなようにオリジナルのアルバムが作成できるので、その楽しみは何ものにも変え難い。
   特に、今回、何十年も前からの過去の海外旅行などの膨大な写真をアルバムにしようと思うと、パソコンに収容してあるデジタル画像から自由に写真を選べてアレンジできるのであるから実に有難い。
   私の場合には、デジタル写真の修正や編集などは、特別な場合は別として、普通は露出補正やトリミング程度で間に合わせているが、この方面も懲りだすと大変なことになる。

   イーストマンが写真フィルムの開発と同時に展開した個人ベースの写真イノベーションが発展して、デジタル化によって益々便利になり、完全に、個人のアマチュア写真愛好家が、芸術性はとも角も、技術がプロの域にまで達して写真を楽しめるようになった。
   どんな旅の写真集が出来るのか、楽しみながら試みてみようと思っている。

   
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六月大歌舞伎・・・昼の部

2007年06月04日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部の冒頭は、正味殆ど3時間の「妹背山婦女庭訓」の初段から3段目「吉野川」までの重厚な古典歌舞伎で幕を開けたかと思うと、次は、吉右衛門作の狂言仕立ての実にコミカルで味のある「閻魔と政頼」、最後は、染五郎の息子2歳の藤間齋の披露を交えた「侠客春雨傘」、とに角、面白い舞台であった。

   面白かったのは、何と言っても、富十郎の閻魔大王と、中村吉右衛門の鷹匠政頼の「閻魔と政頼」で、閻魔の家来赤鬼の歌六と青鬼の歌昇兄弟の実に呼吸の良くあった演技がまた秀逸で流石に歌舞伎役者であると楽しんでみていた。
   最近は、口が上手くなって言い逃れる悪い人間が多くなって亡者の数が激変して閻魔大王も上がったり。主人の鷹を殺して閻魔様のお裁きに現われた鷹匠を徹底的に取り調べて地獄に送り込もうとしたのだが、体よく騙されて逃げられると言う、地獄の沙汰も金次第以前のお粗末なドタバタ喜劇だが、実に味のある楽しい舞台で、富十郎も吉右衛門も楽しみながら演じていて清々しい。
   
   富十郎の閻魔大王は、胴長単足で派手な衣装で大音声、これが威厳を保とうとしながらも何処かずっこけていて様にならない。誰だと誰何すると「鷹匠」と応えられて「タカ・・」「タカ・・」とどもりながら「わしは鷹に弱いのだ」と言うと客席は大笑い。
   年老いて生まれた跡継ぎ鷹之資が可愛くてしょうがないので、作者の吉右衛門のサービス精神旺盛なところだが、とにかく、明るくてユーモアたっぷりの舞台で、このあたりの富十郎は実に上手い。

   松貫四名で能を題材にして描いた愛する者同士の別れを扱った前3作の歌舞伎作品も、今回は4回目の吉右衛門だが、閻魔さまの話を少し捻って現代風にアレンジしてエスプリを利かせた。
   政頼は、鷹匠を演じろと言われて、閻魔大王の家来の鬼達を勢子に使って鷹狩をして、捕った鳥を地獄の火で焼いて閻魔さまに食べさせると、いたく喜ばれて褒美に何でもやると言われる。
   思案した政頼は、閻魔さまのかぶり・宝冠を所望するのだが、閻魔大王の大王たる由縁の品であるから渡す訳には行かず逃げ回るが、鷹を飛ばせて取り上げる。
   不老長寿を保証する宝物を抱えて逃げ延びて地獄行きを免れると言う実に他愛のない話なのだが、閻魔さまがウソをつく訳にもいかず、狼狽するあたりは、何処かの国の政治の舞台とよく似ていて面白い。

   能を題材にした狂言仕立てのコミカルな歌舞伎だが、松羽目をバックに、音曲に合わせて竹本と長唄の掛け合いが舞台を盛り上げ、素晴らしい舞踊劇となっている。
   吉右衛門は、本来の骨太で格調の高い立役以外に、喜劇役者としての素養と言うか滲み出るような人間のユーモアとエスプリを醸し出す豊かなパーソナリティを持った奥行きの深い歌舞伎役者で、次の喜劇作品が楽しみでもある。

   ところで、「妹背山婦女庭訓」だが、久我之助清舟が梅玉、その父大判事清澄が幸四郎、清舟の相思相愛の相手・雛鳥が魁春、その母太宰後室定高が藤十郎、そして、蘇我入鹿が彦三郎である。
   イメージ的、年齢的には、梅玉・魁春兄弟の若い恋人同士は一寸無理があるような気がしたが、全く杞憂であった。
   特に、魁春の乙女の恥じらいと初々しさ、一途に思い詰める女心の健気さなど実に素晴らしかったし、また、梅玉の自己主張を極力抑えた品のある貴公子然とした演技など魅力的であった。
   父歌右衛門が定高を演じた舞台に二人とも何度か登場しているので、直接教示を受けている筈で、上手くて当然なのであろう。
   それに、その時の大判事は幸四郎でもあった。

   この「吉野川」は、雛祭りの日に、越すに越せない急流吉野川を挟んで、久我之助と雛鳥が、互いに見つめて「心ばかりの抱き合い」と嘆き、男は腹を切り女は母に首を切られて死んで行き、不仲の両家が和解すると言う実に悲しい物語。
   腹を切って瀕死の久我之助の元に、雛鳥の首だけが嫁入し、大判事の手で悲しい祝言が行われる。
   渋い焦げ茶の羽織袴の年老いた出で立ちの幸四郎が、大振りで豪胆な愁嘆場での肺腑を抉るような演技で聴衆の涙を誘う。
   藤十郎の定高は、逝った夫の身代わりの女主人としての凄い威厳と風格が冴えていて、それに、娘可愛さのあまり揺れ動く女心を垣間見せる悲しさが素晴らしく、何よりも、絵になるような身のこなしの美しさが感動的である。

   この舞台は、正に日本版の「ロミオとジュリエット」なのだが、私は、舞台劇やオペラ、バレーなどのシェイクスピア版の方を良く観ており親しみがある。
   シェイクスピア劇の方が、不仲の両家が若い恋人達の純愛によって和解すると言う同じ話でも、現代劇として通用する普遍性がある。しかし、この婦女庭訓の方は、入鹿と言う傍若無人な暴君がいて、この男の無理難題、人質として久我之助を出仕させ雛鳥を入内させよと命令され、それに親たちが従ったので不幸が起こる封建制と言う時代背景を色濃く背負っていて、感情移入をしないと楽しめない。

   何時も思うのだが、何でもかんでも蘇我入鹿は悪者に描かれているが、そんなに極悪人だったのか。
   世界史の大家J.M.ロバーツさえ、日本の実質的な歴史の始まりは大化の改新だと言っているくらいだから、滅ぼされた蘇我一族が悪者で、藤原鎌足派が正統だとなっても仕方がないのかも知れない。

   ところで、ベローナには、ロメオの家もジュリエットの家もあって、特に、ジュリエットの家のバルコニーなど何時も観光客で溢れている。
   私は2度も見ているが、尤もシェイクスピアの戯曲はフィクションで、シェイクスピア自身外国へ出たこともないし、二人の家などある筈もないのだが、しかし、この名所は、ローマ時代のアリーナで毎夏開かれるベローナ野外オペラと共に観光のメッカとなっている。
   日本は、木と紙と土で作られた建物が多くてすぐに朽ち果ててしまうので、物語の舞台が残らないのが残念で、良く、物語の故地を訪れて、「ここが元○○があった所」と言う表札を見るだけである。

   ところで、染五郎が主役した「侠客春雨傘」の舞台で、染五郎の長男藤間齋が、祖父幸四郎に手を引かれて、吉右衛門、仁左衛門、梅玉に付き添われて登場した。
   幸四郎に「神様にはどうするの」と言われて、顔を前に向けたままで腰を折ってお辞儀する愛らしい姿に観客は大喜びで拍手で応えていた。
   大判事で剛直な演技で沸かせた幸四郎が打って変わったように、デレデレの好祖父ぶりを見せていたのが印象的であった。
   
   
   

   
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株不足で吹き上がる日本株?

2007年06月03日 | 政治・経済・社会
   「三角合併解禁とグローバルマネーで 吹き上がる日本株」と言う派手な題名の元大和證券の堀井愼副社長の本が店頭に出ている。
   ”退職金総額が50兆円で、100兆円を下らない団塊の世代の総資産の1割が、株や投信に向かって株式市場に入ったとしたら、
それに、株式投資の比率が11%しかないのが20%にでもなったら150兆円増で、この東証時価総額の25%が株式市場に注入されたら、
加えて、日本企業買収をターゲットにBRIC’sの膨大な資金が乱入して来れば、etc.
株式市場は株不足時代に入って、日本株は吹き上がる。
   今こそ資産倍増のチャンス!グローバル投資に注目せよ!”

   一方、榊原英資先生は、
   超低金利時代が可なり続いているが、日本はインフレにならない、物価安定の時代が続くと考えている。
   個人は、あまり売り買いはしない、あまりリスクのあるものは買ってはいけない。リスクのある商品は10%か20%に押さえるべきで、元本保証のある金融商品が有利であり、国家財政が破綻しても最後に残るのは国債であり、国債への投資が最も安全である。
   こんな時こそ危ない株に投資するなどは止めて、国債を買いなさいと仰るのである。

   何れにしろ、我々庶民は、予想もつかない経済社会の荒波に翻弄されながら、ようやく、ここまで辿り着いた。
   十分な預貯金なり資産があれば別だが、国家財政の破綻も囁かれる今日この頃、年金はどんどん減額させれるし将来もずっと貰える保証もなく、税金や社会保険料などは逆にどんどん増額されて行き、これにインフレでも加われば忽ち家計は苦しくなる、老後の生活はどうなるのか。両人の何れの見解も無視出来ないのが悲しい。
   最近は、自分の生活を守るのは総て自己責任などと、強者の理論が闊歩してしまっているが、いくら不合理な現実が顕在化しても、最近の日本人は大人しくなって抗議の声も出さなくなってしまった。

   ところで、株不足を惹起して株を吹き上がらせると言う外資によるM&Aであるが、一般的には欧米、特に、ハゲタカ・ファンドを恐れている。
   私は、堀井氏が言うようにBRIC’sの企業による買収の方が可能性が高いと思っている。1980年代に日本が世界の企業や不動産を買い漁った、あの現象である。
   欧米のファンドの場合には、普通、買収会社の事業なり営業そのものには本来興味がないが、BRIC’sの企業の場合には、日本の企業の優秀な技術や人材に興味があり、一挙に最新技術や市場、経営ノウハウを買い取って自分たちの事業のグローバル拡大戦略としてM&Aを仕掛けてくる公算が強く、三角合併と言ったまどろっこしい手段を取らずに、潤沢なキャッシュを使ってTOBをかけてくるであろう。
   新日鉄でさえインド企業による買収を心配せざるを得ない時代である。日本には、時価総額1億円以下の優良企業はいくらでもあり、いかに厳重なTOB回避策をとってもキャッシュ攻勢には抜け穴も多く、軍門に下るターゲット企業は結構多い。
   相撲と同じで、如何に日本人がウインブルドン現象に慣れるかどうかである。

   日本人は、舶来指向がありながら、いまだに、外資アレルギーが強い。
   しかし、大英帝国として世界を制覇した事のあるイギリスでは、自国経済を発展維持するためには、外資の導入をむしろ積極的に画策して、今では、経済界でのウインブルドン現象は普通であって、好調な英国経済を支えているシティの金融業での主要プレイヤーは殆ど外国の金融機関である。
   イギリス人は、シティが世界一の金融センターであリ続ければ、一切気にはしていない。

   日本企業の場合も、投資ファンドの持ち株だとは言え、ソニーやキヤノンなど超優良企業の外人持ち株比率は50%に近づいており、BRIC’sの資金が入ってくると、50%をオーバーして実質的に外国企業になってしまう日本企業が結構多くなっている。
   元証券会社や金融機関にいた優秀なエキスパートが、外資ファンドなどの代表や専門家として日本企業のM&Aを画策し始めていると堀井氏は書いているが、このような投資ファンドが企業を建て直し株価を吊り上げてくれると言った発想は、元証券マンであったからであろう。
   何れにしろ、グローバリゼーションが益々進行して行く今日、日本も、近く、中国やインドに追い抜かれて普通の国になってしまうのであるから、外資アレルギーを続けて行くわけにはいかないであろうことだけは事実である。
   
   
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教育は効率の良い投資なのか?

2007年06月02日 | 生活随想・趣味
   ”海外体験をさせること。小学校の段階では、詰め込み教育を積極的に行うこと。理数系の勉強を文系の人間もしっかりすること。”
   これらのことが、子供たちが成人して社会にでるようになった時に重要な資質になる、と榊原英資早大教授が「経済の世界勢力図」で書いている。

   「知価社会化」して行くので、最も効率良い投資は「教育」である。
   専門的な技術や知識を持つ人は高い収入を得、反対に普通の、そういうものを持っていないホワイトカラーは没落して行く。
   「年収300万円」になって行く訳で、社会主義国の様な平等主義が一般的であった日本も、これからは次第に、(階級社会とは少し違う、)教育度が意味を持つ実力主義の社会になって行く、と言うのである。

   この本の中で、戦後の日本の教育、特に教育委員会が、教養主義的な美風を維持していた日比谷高校等を潰し、エリート教育の芽を摘んでしまったと糾弾しつつ、これからのグローバル化された世界において、世界に通用する優秀なエリートを育てる教育が如何に大切かを説いている。
   「イチローのバットだけは、何時も血が滲んでいた」と言われていたが、今、脚光を浴びているスポーツ選手にしろ芸能人にしろ、常人では理解し得ないような筆舌に尽くしがたい過酷な修練と苦難を経験して今日を築いて来た筈である。
   勉強も全く同じで、初等中等教育は勿論、学生は、「ゆとり教育」などはあって良い筈がなく、徹底的に知識・教養を叩き込まれるべきだということである。

   今の教育制度では、数理系の知識なしに経済学や経営学を学んでいる大学生が相当居ると言うことだが、これは、一般的な基礎知識さえなくて大学生になっている学生が多いと言うことと同根で、日本の若者達の教育水準が非常に低くなってしまったことを意味している。
   アメリカも、日本と全く同様な初等中等教育の水準の著しい低下に苦しんでおり、国際競争力の弱体化を非常に危惧し始めているのだが、所詮、いくら頑張っても、中国やインドの理数系技術教育と比較して、質はとも角としても量においては及びもつかないのが現状であり、早晩凌駕されてしまう。

   ところで、今日の知識情報産業化社会において、知識・教養と言えば、最もプロフェッショナルとしてその資質と能力を求められているのは、企業の経営者を筆頭に組織体の長であろうと思われる。
   昨日の日経夕刊に、野中郁次郎教授が、阿部謹也氏を引用して、教養とは「人と人との関係性のなかで自分の立つ位置と社会のために何ができるかを知ろうと努力している状態」で、その根底にあるのは「いかに生きるべきか」という構えである、と書いていた。
   経営においては、自らの生き方に照らして、特殊(個別)のなかに普遍(本質)を見る教養の能力が必要だとして、
   小林陽太郎氏を中心に集まった古典に学ぼうとする経営者有志の研修会「キャンプ・ニドモ」に、十数年参加して、参集した人々に啓発されたお陰で、物事を原点で捉える感覚が磨かれたと言う。

   昨年のウォートン・スクールの同窓会で小林氏が私に「日本の経営者に欠けているのはリベラル・アーツの知識・教養である」と言っていたのを思い出したが、欧米のエリート経営者と付き合いの長い小林氏の偽らない気持ちであり、そのためにも、キャンプ・ニドモを主宰されているのかと思うと興味深い。

   革命で貴族制度がなくなったフランスでは、今様貴族とも言うべき超エリートは、あのパリ祭で凱旋門からシャンゼリーゼを先頭で行進するポリテクの卒業生。理工系だが、経済学は勿論リベラル・アーツも、そして、国家を背負って立つ為の知識と素養を徹底的に学ぶ。
   イギリスでのエリートは、オックスブリッジ(エジンバラが最高だと言う識者も居る)で教育されると言われているが、ラテン語から、哲学、歴史学と言った浮世離れした専攻のトップが結構多くて、アメリカのように実利に傾斜した専門大学院プロフェッショナル・スクールと一寸違うが、知識と教養の深さは底知れぬほど深い。
   アメリカ流のプラグマティズム教育もそれなりに現代的にマッチしているが、教養主義に徹したヨーロッパの教育の質とふところの深さを見習うことも重要であろう。
   ヨーロッパでの仕事を通じて付き合って来た私自身の経験だが、彼らから啓発されることが多かった。

   大学の入試に出ないから必須の世界史の授業を端折ると言うような教育現場を抱えているような日本では先が暗い。
   余談だが、先日のHPのセミナーで、伊藤教授が、その1週間くらい前に日経に掲載された「コーポレートブランド ランキング」を見たか、自分の著書の「コーポレートブランド経営」を知っているかと聴衆に聞いたら、殆ど反応がなかった。日経さえ読まないのかと教授は呆れ返っていた(?)が、CIOやIT関連サラリーマンが詰め掛けていたので、もし、この人たちがこの程度の経営情報にさえ無関心でアプローチしていないとすれば、開発を担当しているIT経営管理システムや内部情報システムの出来栄えは推して知るべしであり、恐ろしい限りである。
   アホな弁護士と会計士の言いなりになって無意味な内部統制システム構築に膨大な金を払っていると毒舌を吐いていた木村剛氏の声が聞えてくるような気がした。

   格調のある話に話題を戻そう。
   知識の配電盤と司馬遼太郎が言っていた東大では、今、知の集積と同時に社会に門戸を開いて知の伝播を図っている。
   今日の経済社会において、国際社会で名誉ある地位を築く為には、最も価値のある知の集積と創造において世界に冠たる日本を目指すことが肝要である。
   その為には、今様のメディチ・インパクトを爆発させ得るような知の十字路を日本に作り出すことである。
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全体最適経営でコーポレートブランドを高めよ・・・伊藤邦雄教授

2007年06月01日 | 経営・ビジネス
   企業価値を高めるのは、株主重視の「アメリカ型経営」でも、ステイクホールダー重視の「日本型経営」でもなく、第3の日本型経営モデル「コーポレート・ブランド経営」である。
   その為には、分権化、縦割り、部分最適を旨とし制度疲労した古い経営体質から脱皮することで、思考戦略の実践によって、見える化、危機意識の醸成、関心範囲の拡大、学習する官僚制度を駆使して、「全体最適経営」を目指すことによって、強固なコーポレートブランドを構築することが大切である。
   要するに、トヨタのような会社を目指して経営を行うべし、と言うのが、一橋大学伊藤邦雄教授のHP WORLD Tokyo 2007の基調講演「新しい価値創造競争の時代へ~これからの企業の競争力~」の要旨であった。

   全体最適経営への転換は、御手洗会長がキヤノンの経営を引き継いだ時の最大の課題でもあり、今回の起死回生とも言うべき松下電器の中村改革の実績から見ても、非常に時宜を得た日本企業の再生戦略であった。
   松下の場合を考えてみれば、見える化で問題を顕在化させて透明性を醸成し、全社員に危機意識を植え付けてコーポレートカルチュア化し、従業員の関心を広げて経営への参画意識を持たせ、持続的に革新的な思考を生み出せるようにあらゆるところから学習すべく方向付けるなど、伊藤教授の理論展開を正に地で行ったと言うことが出来よう。
   勿論、高度な確固とした思考戦略を策定・実践し、IT技術も縦横に駆使した。
   電工等の独立関係会社をも子会社化してブランドを統一しマーケティングシステムを統合し、電気ストーブで不祥事が発生すると徹底的に対策を講じてコーポレート・レピュテーションを死守し続けている。

   もっとも、この全体最適については、分権化が行きすぎた結果不都合を来たしたのであって、組織や企業の経営について分権が効果的なのか全体指向が良いのかと言った問題は永遠のテーマであって、あくまで現時点ではとしか言えない。
   このまま、企業組織が巨大化して行けば全体最適などと言って居れない事は自明であるし、世界経済のグローカリゼーションや道州制等の動向などがこのことを如実に物語っている。
   経営学には決定版などある筈がなく、政治経済社会情勢や時代の流れによって変化する、賞味期限の極めて短い生鮮食料品のようなものなのである。

   ところで、伊藤教授のコーポレートブランドと言う考え方だが、経営学先進国アメリカでは、以前から、コーポレート・レピュテーション・マネジメントと言う形で定着していて、私自身にはこの方が包括的で分かりやすい。
   もっとも、チャールズ・J・フォンブランのコーポレート・レピュテーション論を勉強しただけで、伊藤教授の著作を読んでいないのでなんとも言えないが、フォンブランは、既に、1996年にこの概念を確立して、レピュテーション指数(Reputation Quotient=RQ)として、ウォール・ストリート・ジャーナルに発表している。(これは、伊藤教授が作成して日経に発表している「コーポレートブランド価値 ランキング」と似ているのであろう。)

   伊藤版は、CB,顧客、従業員、株主の4項目でのスコアを集計してCB価値を算出しているのだが、2004年版以降トヨタがダントツである。
   伊藤教授は、企業価値を生み出す主要プレイヤーは、顧客、従業員、株主だと考えているので、このようなスコア付けなのだろう。
   しかし、フォンブランの場合のRQは、情調的アピール、製品とサービス、財政パフォーマンス、ビジョンとリーダーシップ、職場環境、社会的責任の6つの領域と20の属性を、1~7の7段階で評価しており、企業のレピュテーションに関する幅広い分析が試みられている。膨大な人数の調査を経てである。
   その上、RQ指数の高い会社と、レピュテーションのルーツである企業の顕示性、独自性、真実性、透明性、一貫性、の相関の高さも検証している。
   元々、ブランドと言うのは個々の商品に冠せられた属性で、会社と言う組織体に冠せられたコーポレートブランドと言う概念が、一体何を表すのか極めて不明確であり、レピュテーションと言う捉え方の方が遥かに明確なことは明白である。
   因みに、2001年版のレピュテーションRQでは、ソニーが第5位、トヨタは第18位であった。

   問題は、この「レピュテーション指標」や 「コーポレートブランド価値 ランキング」が、権威を持ち始めて独り立ちして来ると、点数や順位だけが踊り出して、企業の経営目的なり戦略戦術をスキューするかも知れないことである。
   早い話が、伊藤版での顧客、従業員、株主分類のスコア付けが適切なのかどうか、それが、フォンブラン流の欧米の指標とどうのような繋がりを持つのか。
  コーポレート・レピュテーションなりコーポレートブランドを高めて企業の市場価値を上げることが経営の目的となると、必然的に、評価項目が経営上重視すべき指標のように誤解されて、そのアップが企業の経営戦略目標となってくる。
   私自身は、混乱を避けるためにも、遅れて立ち上げたのだし、概念的にも狭くて不十分だし、この際、第3の日本型経営モデルと言っておらずに、フォンブラン流のデファクト・スタンダード「レピュテーション指数」に準拠して、日本企業の指数を出してランキング表示すればどうかと思っている。
   このブログで以前に書いたが、何処かの会計事務所に頼んで日本企業のCSR指数を作成して日経が発表しており、その一種独善的な評価項目に疑問を呈したことがある。
   もっとも、欧米の指標が総て優れているとは思わないけれど、結構このあたりの分析手法なり概念作りは日本人より遥かに優れていて十分批判に耐えられるのであり、今回も、これと似た感じを持ってしまった
   
コメント
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