熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

冬のガーデニングで考えたエコシステムの戯言

2009年12月26日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   年の瀬も押し詰まってきた所為でもないが、暖かくて良い天気だったので、庭に出て、今年最後の庭仕事を始めた。
   堆積した枯葉の処理をしたり雑草を抜いて綺麗に掃除するだけなのだが、剪定や植え替え、球根植え付けなど定期的な大きな仕事以外はやらずに、殆ど、自然状態に放置してあるので、結構、手間隙がかかって大変なのである。

   雑草と言っても、枯れ草や枯れ枝の処理が主な仕事なのだが、私の場合には、自然からもらったものは自然に返す主義であるから、枯れ草も枯れ枝も、小さく刻んで、地面に掘った穴に埋め戻して、上に土をかけて放置して置く。
   本当は、枯葉などに手を加えて堆肥を作るべきなのであろうが、うまく、埋め戻せば、土に馴染んで、そのまま土に返るので、特に不都合は感じていない。

   枯葉や枯れ草を取り除くと、下から、小さな木の芽が沢山現れて来た。
   よく見ると、万両とアオキの小さな苗が大半で、しっかり根付いたものからモヤシのようひょろ長く伸びた芽までいろいろだが、びっしりと群生しているものまであり、鳥が落とした種が芽生えたのであろうが、あまりの多さにびっくりである。
   それぞれ、ポットに植え替えれば、時間が経てば立派な苗木に育つのであろうが、とりあえず、そのまま放置して、春を待って、しばらく様子を見てからにしようと思っている。

   この万両とアオキは、明らかに吾が庭の木から鳥が落とした種が芽吹いたのであろうが、他に、ヤツデ、カクレミノ、ナンテン、ヤブラン、つわぶき、もっこく、それに、私の知らない木の苗までもが芽を出していて、他の庭から小鳥が持ち込んだ種も発芽している。
   自然に種が落ちて発芽しているのが椿で、植え替えても処理に困るので、そのまま放置して様子を見ることにした。

   ところで、宮脇昭先生によると、日本の自然の森では、シイ、タブ、カシなどの照葉樹などの巨木の下に、亜高木のヤブツバキ、モチノキ、シロダイ、ヤマモモなどが生え、その下に、低木のアオキ、ヤツデ、ヒサカキなどが生えるようだが、一般家庭の庭では、精々、亜高木がやっとであろう。
   この日本の森では、自然のエコシステムが完結していて、一切手入れが必要ないのだということである。
   確かに、このような木の下での雑草の管理は比較的楽で、私のように、落ち葉をかき集めて鋤き込めば肥料が程々でも青々と木が茂り花が咲く。

   こまめに手入れをしないと駄目になるのは、草花を植えている花壇の方で、頻繁に除草をして、病虫害を避けるために薬品散布を行い、肥料を与えないと、満足に花が咲かなくなる。
   この肥料の窒素リン酸カリが問題で、禁断の果実であるNPK人工肥料が、バクテリアやミミズが生み出した腐植を破壊して、土壌だけではなく国家の健康さえも損ねていると言うのであるから、美しい花を咲かせることが、文明文化的な営みなのかどうか分からなくなる。
   私自身は、肥料には、油粕や鶏糞、牛糞などの有機肥料を使うことを心がけているが、薬剤散布には、どうしても人工的な化学薬品を使わざるを得ないのが残念である。
   家を建てた時には、コンクリート片などが混じっていた貧しい庭土だったが、長年の手入れで、今日など、掘り起こしていると、ミミズが飛び出し、寝ぼけた冬眠中の蛙がのっそり歩き出したり、セミであろうか、蛹が出て来たりしたので、私の庭土は、今では、立派にエコシステムの仲間入りを果たしているのである。

   さて、問題は、人間が園芸品種として育てている植物が、果たして、植物にとって幸せなことかどうかと言うことである。
   人間が、手間隙かけて大切に育てているので、大抵の場合、最早、自然の中で、自活して生きて行けるかどうか疑問であり、自然環境が変われば、瞬時に適応能力を消失する。

   この問題のもっと切実なのは、動物の家畜化で、野生から家畜になって人間の生活と切っても切れない関係になった家畜が、幸せかどうかと言うことである。
   犬の場合には、野生の狼が極めて少数で、それに比べて人間と共同体同盟を結んだ犬は、その何千何万倍もの生命を維持しているのであるから幸せであろうが、食用に供される牛や鶏、特に、狭い小屋で身動きも取れずに餌を食わされて殺されて行く動物などは、個体数は文句なく野性よりは多いが幸せであろうか。
   尤も、馬鹿な人間が地球温暖化で北極海の海氷を消滅させてしまうのでホッキョクグマの運命は風前の灯火だし、アフリカのサバンナの野生動物だって、弱肉強食を生き抜くのは並大抵ではないであろうし、人間も動物も、平安無事に生きて行くのは大変なことなのである。

   話が変な方向にそれてしまったのだが、私の言いたかったのは、人間が、文明か文化か知らないが、自分勝手に、自然界の摂理であった地球の生命体系であるエコシステムを、手前勝手に無茶苦茶にしてしまって、地球上の生命体そのものを危機に追い込んでしまったのではないか、と言うことである。
   覆われていた雑草や枯葉を取り去ると、元気な木の芽が顔を出して、太陽に向かって伸びようと、必死になって次のチャンスを待っている、そんな健気な姿を見て、真冬のほんの束の間の気持ちの良い陽だまりで考えた私の戯言である。

   口絵写真は、私の庭仕事などには全く無頓着で、紫式部の枯れた実を啄ばんでいるメジロである。
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