熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

年々寂しくなって行く年賀状に思う

2018年01月11日 | 生活随想・趣味
   虚礼廃止とか言われて久しいが、私は相変わらずに、毎年、年賀状を出している。
   筆書きの昔と違って、大分以前から、富士通のパソコンにビルトインされているソフト「筆ぐるめ」を活用しているので、それ程、苦労することなく準備して出し得ている。

   住所録のメインテナンスに注意を払っておれば、出し忘れや宛先の誤りなど、トラブルは最小限に避け得るし、努力して準備すべきは、裏面のデザインと文面である。
   タイトルは、謹賀新年や、Happy New Yearとか、平成30年元旦と言った型通りのものは、そのまま使わせて貰って、写真は、気に入ったものを選んで取り込んで、最近は、短い文章で近況を伝えることにしている。

   年賀状を出す相手は、長年の流れをそのまま踏襲していて、小中高から、大学大学院の同級生や会社の同僚や仕事関係での人々、その他お世話になった知人友人たちで、恩師や上司などは殆ど既に物故者となっていて、同年齢前後以下の人ばかりである。
   以前には、自分自身が選んで出した相手もあるが、頂いた人へも継続して出しているので、最近では、どちらがどうだと分からずに、継続していると言うことである。
   いずれにしろ、年賀状を頂いて、知人友人の近況を知ることは、非常に嬉しい。
   はっきりしていることは、自分から、年賀状の交換を止めたことはないのだが、返事が来なかった相手へは、次から出さないと言うことにはしている。

   年々、少しずつ年賀状が減る勘定だが、それ以上に、気になるのは、毎年、何枚か、喪中はがきを受け取って、知人友人の逝去を知ることである。
   もう一つ、歳なので、年賀状の交換を次から止めると言う通知を受け取ることで、健康上の問題なり煩わしさの所為なのかもしれないが、この方が多くなっている。
   私など、パソコン任せの年賀状なので、それ程苦労はないのだが、律儀な人にとっては大変なのであろうと思う。

   目が悪くなって、年賀状を出せなくなった親しい友人がいるのだが、彼には、関係なく、毎年年賀状を出している。
   昔は、600枚くらい年賀状を出していたと言う程の情報人であったが、必ず、元旦に電話をかけてきて、近況を語ってくれており、関西に行く時に余裕があれば、会うことにしている。
   親しかった大学時代の友人10人の内、既に、3人が亡くなっており、残っている友人でも、私も含めて、死地を彷徨った経験のある者も半数はいる。

   年賀状が、一年に一度の遠く離れた知人友人の情報源だが、大切な便りである。
   しかし、少しずつ、行き交いが先細りして行くのが寂しい。
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社員再教育、日本は最低だと言う

2018年01月10日 | 経営・ビジネス
   今日の日経夕刊トップに、「社員再教育 日本は最下位と言う記事が掲載されていた。
   勤務先は費用負担するのは4割で、男女格差が著しいと言う。

   今でも、私の友人の中には、日本の労働者は最高の知識や技術を持っており、日本の経済力は世界屈指の実力を維持しているなどと思っている者がいるのだが、これ程時代錯誤が甚だしいことはないと思っている。
   
   まず、真っ先に感じているのは、海外留学制度の退潮である。
   以前にも、米国の知日知識人が、ハーバードの日本人留学生が5人だと嘆いていたと書いたことがあるが、いくら何でも5人だとは思えないが、雲霞のごとく押し寄せている中国人留学生と比べれば、雲泥の差で今昔の感がある。
   冒頭の社員教育の貧弱さにも呼応するが、Japan as Np.1の頃、日本経済が破竹の勢いで快進撃する少し前頃から、日本の主な大企業は、社員の海外留学制度を設けて、若い社員を、欧米のトップクラスの大学院や高等教育機関、あるいは、MNCなどの先進的大企業や国際組織に、留学生を送り込んで、社員を教育していた。

   私も、その恩恵に預かって、トランプと同窓のウォートン・スクールでMBAを取得して、欧米などで仕事をしてきており、ヨーロッパでの事業で私と一緒に働いたスタッフの主な者は、欧米のMBA取得者やスタンフォードなどで学んだエンジニアや、欧米企業での研修留学を経た者たちであったので、欧米ビジネスマンたちと互角に渡り合って、仕事が出来たし、何の怖気も不安もなかった。

   海外留学には、賛否両論あって、これ以上の議論は止めるが、今でも、欧米、特に、アメリカのトップ大学や高等教育機関の実力とその凄さは、想像を絶するほどのものであることは疑いの余地のない事実であって、ここで学び、世界に雄飛してグローバルに通用するコスモポリタン社員を育成しない手はないと思う。
   ところが、貧しくなって成長意欲の萎えた日本企業は、殆ど、この虎の子の海外留学制度を止めてしまって、また、日本の若者たちも、海外へ出ようとしない。
   現在、日本人留学生の大半が、語学留学であったり短期間だと言うのだが、これではほとんど意味がなく、欧米のトップ高等教育機関で、世界の優秀な若者たちと、丁々発止のバトルを繰り広げて、切磋琢磨しなければならないと思う。
   今、アメリカのトップ大学のMBAを取得するためには、少なくとも、2~3000万円掛かると聞くが、個人では、費用のみならずキャリア上も無理で、キャリア・ディベロップメントの一環として組み込まれた企業なり政府機関なりが、海外留学制度を整備することが、一番良いように思う。

   尤も、冒頭に書いたように、「社員再教育 日本は最下位」と言うことで、勤務先が費用負担するのは4割だと言うのでは、海外留学制度などは、夢の夢かも知れない。
   それに、名だたる大企業でさえ、社員をこき使ってブラック企業リストにランクされるような日本の現状であるから、植木等の時代とは雲泥の差で、サラリーマンとは、気楽なもんではないのであろう。

   もう一つ、社員教育における日本の企業の良さは、オン・ザ・ジョブ・トレイニング(OJT)にあった。
   アメリカでは、プロフェッショナルを育成するためには、プロフェッショナル・スクール、すなわち、ビジネス・スクールやロー・スクール、エンジニアリング・スクールやメディカル・スクールと言った大学院制度が整っていて、ここでマスターやドクターを取得した者が、即、プロとして役に立った。

   ところが、日本では、大学はあくまで基礎学力をつけるだけの基礎機関であって、その企業に役立つ一人前のプロは、企業での仕事を通じて教育訓練されると言う、いわば、企業がプロを育成するプロフェッショナル・スクールの役割を果たした。
   エンジニアでも10年くらい徒弟奉公しなければ一人前のエンジニアにはなれなかったし、文科系でも、どこの学部卒かは関係なく、色々な部門を回りながら勉強して、すなわち、OJTで事務屋として一人前になって、専門業務に就くと言うのが一般的であった。
   ところが、バブルが崩壊した頃からであろうか、企業に余裕がなくなって、OJTが作用しなくなって、大学が旧態依然の体たらくであるから、研修や教育の機会を失った社員の質がどんどん劣化して行ったという。
   このあたりも、日本企業の国際競争力の低下原因ではないかと思う。

   さて、本題に戻るが、今や、ICT革命が時代の潮流を激変させてしまって、並の生き方をして居れば、時代の流れについていけないし、どんどん、新しい仕事の流れに取り残されて、アメリカのトランプを熱烈に支持したラストベルトの低学歴のプアーホワイトのように、経済社会から排除されてしまう。
   しからば、社員の再教育は、企業生き残りのためには、絶対に必要な最重要課題である筈で、このままでは、益々、日本経済が沈んで行く。
   AIやIOT全盛の時代であって、高度に専門化が進んでいるので、OJTは勿論、貧弱な企業内教育では、キャッチアップ不能であって、特別な専門機関へ社員を送り込むなど、益々、社員教育にコストをかける必要がある。
   日本企業の大半は、社員の知的武装や技術武装への教育費用を、避けたいコストだと考えているようだが、ドラッカーが口を酸っぱくして説き続けていたように、これを投資だと考えられないところに悲劇がある。
   どうするか、日本企業。教育投資如何が、その企業の命運を分けよう。
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イアン・ブレマ―の世界10大リスク:保護主義

2018年01月08日 | 政治・経済・社会
   昨日の日経朝刊の「パンゲアの扉 つながる世界」で、”保護主義の誤謬 相互依存の網は切れず”が掲載されていた。
   ブラジルの製薬会社が、米国では専門技術を持つ外国人用のHIBビザ取得が困難になったので、米国を避けてカナダのトロントに研究所を開所したこと、会計会社EYが、BRIZITを嫌って、スタッフをロンドンからフランクフルトやダブリンに移す予定だとかを紹介しながら、貿易赤字の削減、産業の保護、雇用確保などのために、多くの先進各国は、内向きになって、保護主義が台頭し始めている。
   しかし、グローバル化の進展で、国境を越えたヒト・モノ・カネの移動が活発になり、相互依存は網の目の様に張り巡らされおり、保護主義では立ち行かなくなり、自由貿易こそ、今後の人類の目指すべき方向である。と説いている。
   トランプの常軌を逸したアメリカファーストの保護主義が打ち上げられて以降、戦々恐々となった他の先進国の一般的な心境であろう。

   さて、イアン・ブレマーのユーラシアグループが発表した2018年の10大リスクのNO.8に、Protectionism 2.0 保護主義2.0が挙げられている。
   ポピュリストの圧力で、国家資本主義の拡大や進行中の地政学的リセッションが、寝ていた保護主義を起こしてしまった。先進国の反体制運動の台頭が、為政者をして、グローバル経済競争に対して更なる重商主義的アプローチを、そして 失われた雇用の回復を強いた。壁は、どんどん、高くなって行く。と言うのである。

   しかし、ブレマーの説くリスクは、一般論ではなく、特定分野のリスクである。
   まず、論じているのは、中国の戦略的な外国資産の積極的な取得買収の拡大増加。
   今日のGゼロとアメリカのリーダーシップの退潮下においては、このような急速な変化をマネッジするために、新しいゲームのルールを書く、あるいは、書き得るリーダーがいないので、益々速度を増しスケールが大きくなって行く国際的な財産や知的資産の移転が、深刻な政治的な対応の必要を迫ってくる。と言うのである。
   急速な経済力の拡大によって、世界の資産を手あたり次第に買収して覇権を確立しようとする中国の動向は、アメリカにとっては、正に、脅威であり、
   その中国が先鞭をつける前に、環太平洋地域の国際貿易ルールを確立しようと必死になったオバマの推進したTPPを、トランプがぶっ壊してしまったのだが、良否は兎も角、バキューム化するアジアの貿易秩序の確立が、遠のいたのは事実であろう。

   知的財産や国際競争の根幹となる重要なコンポーネント関連技術などに関わる、デジタル経済やイノベーション集約的産業に対する国家介入が強化される。
   保護貿易政策も、かってのような関税やクオーター制度とは違って、WTOを迂回するのではなく、企業への財政援助、補助金、現地調達比率などの非関税障壁を適応するようになって、現行のグローバル貿易ルールをアップデートし強化しながら集団的無力化に頼ろうとする。と言う。

   保護主義の新しい形態は、自国にとって政治的に敵対する相手国に対して取られる政策なので、益々、とげとげしく厳しくなって行く。
   直接投資が、問題の国からであったり、その投資が、国家のチャンピオン企業であったり国家にとって国益を犯すテクノロジーであったりすると、益々、政治問題を引き起こす。
   欧米対中国あるいはロシアともなれば、当然、疑惑の対象となる。

   以上のような状況が、2018年の貿易リスクとなる。
   まず、第1に、
   新しいグローバル貿易ルールは、管理者なしに、共通規範なしに、書かれるので、保護主義が台頭した時に、チェックしたりバランスを取る手段がない。
   第2に、
   この新しい保護主義は、進行中の地域自由貿易協定と共存しながら作用するので、グローバル貿易規制環境が、益々、複雑化し、矛盾や相反する。複雑化するサプライチェーンの適応、データフローや可視不能の事案など不測の事態が発生し困難とコストが増加する。
   第3に、  
   保護主義は、列強間の憤りを引き起こして、色々な外交問題を惹起することとなる。
   と、指摘している。

   保護主義の台頭が、2018年の経済情勢を、後ろ向きに複雑化して行くと言う論旨ながら、
   いずれにしても、イアン・ブレマーが問題としているのは、トランプが取っているアメリカファーストの保護主義貿易ではなく、アメリカにとって安全保障上重要な国家戦略的な保護主義で、むしろ、戦略的に重要なアメリカのチャンピオン企業や最先端イノベーション集約的テクノロジーや知的財産など国益に取って重要な国家財産の保護に対する保護主義を論じている。
   ブレマーは、コメントを避けているが、アメリカが、この保護主義を取ることが、アメリカにとっては、国際競争上、国家安全上、必須と考えられるならば、この保護主義は排撃すべきものではなく、むしろ、アメリカが、どのようにして保護政策を実施して、国益を守るかと言うこと、
   これに、失敗すると、アメリカ自身が危うくなるので、本来とは違った、逆の保護主義戦略の追求が求められることとなる。

   したがって、アメリカとしては、むしろ、トランプ流の保護主義は、百害あって一利なしだと言うことであったとしても、安全保障上あるいは国益維持上守るべき保護政策は、それなりに慎重を期して維持すべきと言うことであろう。

   さて、日本はどうであろうか。
   円安になって、トヨタの輸出が増えると喜び、貿易収支が上向くと経済浮揚だと喜ぶが、果たして、それだけで良いのであろうか。
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国立名人会・・・小三治の「千早振る」

2018年01月07日 | 落語・講談等演芸
   正月の国立名人会は、2日から毎日やっていて、7日は千穐楽。
   東京に住んで居れば、毎日でも行きたいのだが、今年は三が日はまずダメで、4日と5日は箱根へ行き、6日は国立能楽堂に行ったので、この千穐楽の、小三治の高座を聞きたくて出かけて行った。
   勿論、チケット取得は30秒の勝負で、大変であった。

【7日(日)1時】の公演プログラムは、次の通り。
寿獅子  太神楽曲芸協会
落語 「 謎のビットコイン」 柳家花緑
奇術    ダーク広和
落語 「豊竹屋」       古今亭志ん輔
漫才    すず風にゃん子・金魚
落語  「松山鑑」      林家正蔵
       ~仲入り~
落語 「身投げや」     五街道雲助
落語 「親子酒」       柳家小さん
紙切り   林家正楽
落語 「千早振る」     柳家 小三治

   今回は、小三治は、市井の我々の世界には縁のない「記憶にございません」と言う言葉が、昨年から現れ始めたなどと、知っていることを知らないと言う世相を揶揄しながら、短いマクラで切り上げて、「千早振る」を、たっぷり、30分語った。

   「千早振る」は、「百人一首」の在原業平の「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」を、奇天烈な解釈で笑い飛ばすと言う噺で、
   「先生」と呼ばれている隠居に、八五郎が、娘に小倉百人一首の在原業平のこの歌の意味を聞かれて答えられないので聞きに来たのだが、全く知らない隠居が、相手の無学を良いことに、苦し紛れに口から出まかせ、いい加減な物語をでっちあげる。

   女断ちをして5年の修業の後大関に上り詰めた「竜田川」が吉原へ行って、花魁の「千早」に一目ぼれしたが、千早に力士は嫌いだと振られて(「千早振る」)妹分の「神代」も嫌だときかない(「神代も聞かず竜田川」)。
   落胆した竜田川は力士を廃業して、実家に戻って家業の豆腐屋を継ぐ。5年後、成功した竜田川の店に零落して女乞食に身を持ち崩した千早太夫が訪れて来て「おからをくれ」と言ったので、激怒した竜田川は、千早を思い切り突き飛ばした。千早は吹っ飛んでしまい、井戸に落ちて死んでしまう(「から紅(くれない)に水くぐる」)。
   八五郎は、大関が失恋くらいで廃業するかとか天下の花魁が乞食になって地方を彷徨うかと言ったり、おかしいと思って抗弁するのだが、隠居に押し切られるので、それでは最後の「とは」は何だと突っ込むと、隠居は、とっさの苦し紛れに、千早は源氏名で、彼女の本名が「とは(とわ)」だと逃げる。
   竜田川を川と思うか、そう思うのが畜生の浅ましさ・・・と大上段に振り被って、隠居の奇想天外な講釈が展開されるのだが、いくら無学と言っても半信半疑で聞きながら、チャチャを入れながらの二人の会話を、至極真面目な調子でユーモアたっぷりに語る小三治の語りが、実に味があって面白い。

   おからを渡そうと零落した千早太夫を見た時に、”互いに見交わす顔と顔・・・”
   このところに差し掛かると、小三治はあらたまって、口調のトーンを変えての名調子、
   私など、仮名手本忠臣蔵の七段目の寺岡平右衛門の台詞を語り始めるのかと思って聞き耳を立てたら、浪花節・・・
   それに、投げ飛ばした千早太夫が、何も食べていないので、風船のようにあっちこっちにぶつかって飛びまわると言う話も面白い。

   この「千早振る」は、2年前のこの小三治の名人会で、桂文楽で聞いており、面白かったのを覚えている。
   また、Youtubeで、小三治の「千早振る」が見られるが、少し若い頃の動画で、雰囲気が大分違っていて興味深い。

   千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)
   からくれなゐに 水くくるとは
      在原業平朝臣(17番) 『古今集』秋・294
   と言う歌だが、百人一首講座によると、現代語訳は、
   さまざまな不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえも、こんなことは聞いたことがない。龍田川が(一面に紅葉が浮いて)真っ赤な紅色に、水をしぼり染めにしているとは。
   因みに、この舞台の竜田川は、奈良県生駒郡斑鳩町竜田にある紅葉の名所だと言う川で、JR王寺駅から、奈良交通バスに乗って竜田大橋で下車と言うから、法隆寺のすぐ近くである。
   余談だが、このような真っ赤な紅色の紅葉は、奈良や京都では見たが、欧米や関東に移り住んでからは、一度も見たことがない。
   
   
   
   
   
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国立能楽堂・・・能「難波」狂言「松楪」

2018年01月06日 | 能・狂言
   今年の私にとっての初芝居は、国立能楽堂の「定期公演」であった。
   演目は、新春の目出度さを祝して、能 難波(金春 安明(金春流))、狂言 松楪(山本 則孝(大蔵流))であった。

   能「難波」は、2時間に及ぶ長舞台で、金春新旧宗家が、華麗な舞を見せる素晴らしい舞台であった。
   この能「難波」は、世阿弥の真作の脇能で、自作本が残る由緒正しい春の名曲だと言う。
   「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」と言う古歌を引用して、天皇への即位を遠慮していた仁徳天皇を促すように咲いた難波の名花梅の花の目出度さを称えた、祝祭の能だと言うことで、後場では、
   梅花の薫る早春の夜、木花開耶姫(後ツレ/金春憲和宗家)の精魂が現れて華麗な序の舞を舞い、続いて、仁徳天皇をサポートした王仁(後シテ/金春安明)が、荘厳な舞楽を披露して天下泰平を祝福する。
   前シテは、小尉の面の老人姿だが、後シテの王仁では、鷲鼻悪尉の面に厳めしい兜のような冠をつけた、中国の武将のような出立で舞う姿には、威厳と荘厳さが漂っていて素晴らしい。
   安明師の朗々と美しく響く謡にいつも感動している。
   前ツレ/女も後ツレ/木花開耶姫も、憲和宗家は、増の面で舞っていたが、実に優雅で美しい。

   狂言「松楪」は、祝福を主題とする脇狂言なので、今回は、能「難波」の後に上演された。
  摂津の百姓(山本則孝)が松を 丹波の百姓(山本則重)が楪を、、年貢として持って上洛する途中道連れになって領主の館に行く。奏者(山本東次郎)の取次で収めた後、年貢によそえた和歌を詠まされたのだが、出来が良かったのでほめられて盃を頂戴する。洛中を舞下がりせよと言われた二人は、喜びの気持ちを込めて松と楪の目出度さを謡いながら、三段の舞を舞って帰って行く。
   大長老東次郎のサポートよろしく、若い二人が達者な芸を披露する素晴らしい狂言で、フルアテンドの囃子方の演奏する楽に乗って、三段の舞を舞い続ける。

   一つ、馬鹿らしい疑問だが、丹波は、京都や兵庫の北方、摂津は、兵庫の南方・大阪の北方であり、逆方向であるから、京都に行くのに、二人が合流する地点がどこなのか、分からない。淀川沿いの山崎や三川合流地帯ででも出くわすのか、関西は故郷であるので、つまらないことを気にしながら観ているのも、狂言なのかも知れないと思っている。
 
   ところで、これは、大蔵流だが、和泉流になると、おほめにあずかった後、二人に対して一つの烏帽子を貰い、最初は、交互に着けて出るのだが、二人一緒に出よと言われて、烏帽子を三方に載せて、夫々片手で捧げて、二人の頭上に頂いた形にして出ると言う。
   「二人袴」の発想であろうか、面白い。

   綺麗な正月飾りだが、伊勢エビなど作り物なのが、少し寂しい。
   
   
   
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箱根の強羅温泉での一夜の湯けむり

2018年01月05日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   何年ぶりであろうか、と言うよりも、10年以上にもなると思うが、久しぶりに、温泉地に出かけて、ゆっくり、温泉での一夜を楽しんだ。
   子供の頃、遠足や合宿などで、良く、有馬温泉に行ったことがあり、白浜温泉や城崎温泉、別府温泉などの記憶もあるが、殆ど団体旅行で行っており、本来、温泉をそれほど好きでもないので、あまり行く機会はなかった。  
   監査の時に、地方に行くことが結構あったので、休日などに足を延ばして、日本の故郷を感じたくて、田舎の鄙びた温泉に出かけて泊ったことがあったが、普通の日本人とは違って、温泉巡りをしたいとは思わなかったし、したこともなかった。

   ところで、今回は、次女家族の誘いで、箱根の強羅温泉に出かけた。
   鎌倉からは、熱海同様に、非常に近いのだが、今回は、小さな子供たちも居て、移動に大変なので、車で出かけた。
   JRや小田急、箱根登山鉄道を乗り継げば、1時間一寸で行けるのだが、年初でもあり、国道一号線の事故などで、車の渋滞で大変だったので、どちらが良かったかは分からない。
   

   箱根に行くのは、温泉を無視すれば、結構車で来ているのだが、年初の休暇シーズンと言うこともあって、湯本も強羅も大変な人であった。
   一本道の道路なので、渋滞状態で、延々と車列が続いていて、それに、鉄道の方も大変な人で、箱根人気は衰えそうにはない。

   今回は、強羅の旅館に一泊して、温泉と食事を楽しむと言う簡単な移動で、一切、観光やショッピングを無視して立ち寄らず、強羅と鎌倉を車で往復すると言うシンプルな旅行であった。

   ホテルの夕食は、綺麗にアレンジされたコースの定食メニュー+αであったが、当然、日本酒を伴奏に、楽しませて貰った。
   その後、遅くになって、一人で、貸し切りの個室露天風呂に入った。
   入浴は、欠かさず毎日続けているが、長居は嫌なので、どちらかと言えば、烏の行水に近いのだが、寒くて震え上がりそうな真冬の露天風呂と言うこともあり、気持ちよかったので、結構、長湯をした。

   大浴場の外れに、風情のある長屋形式の個室風呂が並んでいて、脱衣所を出ると、全くの戸外で、一気に冷気が肌を刺す。
   それだけに、丁度適温の湯の温かみが身に染みて爽やかである。
   外側との境は、赤く綺麗に咲いた寒椿が植わっていて、電光に映えて美しく、その背後は竹藪になっていて孟宗竹が綺麗にカーテンとなっている。
   物音ひとつしない森閑の、その竹林の合間から、冷気を震わせるように、美しい月が輝いていて、一幅の絵になっている。
   東北の旅で、殆ど観光客の来ないような、鬱蒼と森が茂った山間の鄙びた料理旅館で、渓流の水音を聞きながら、地酒でヤマメを楽しみ、温泉に浸かって疲れを癒した素晴らしいひと時を思い出していた。
   
   
   
   
   
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大晦日をホテルで過ごして初参り

2018年01月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   最近、毎年の新春を、佐原の菩提寺に初参りすることで、一年のスタートとしており、今回は、年末年始の雑踏を避けたくて、成田空港のホテルで大晦日を過ごして、翌元旦の朝、佐原へ向かった。

   何故、成田空港かと言うことだが、孫たちに成田空港の展望所から飛行機を見せたかったのと、孫息子がJRの特急成田エクスプレスに乗りたいと言ったからである。
   と言うよりも、佐原にアプローチするのに一番ホテルを予約出来易くて、良質なホテルのあるのは、成田空港であり、もう一つは、成田エクスプレスを使えば、年末年始のJRの混雑に遭遇せずに、大船が発終着駅なので、往復割引の指定席で行き帰りが出来ることである。

   ホテルについては、当初、booking・comで検索して予約したのだが、年末年始で非常に高くて、直接ホテルのHPを叩いて検索して、自分で決めた。
   不思議なことに、booking・comでもそうだが、必ずしも、早く予約した方が好条件で予約できるとは限らないことである。
   例えば、二人部屋で検索した時には、同じホテルでも、クィーンサイズのダブルルームしかなかったのだが、次に、キングサイズのダブルとなって、土壇場になって、ツインルームが予約可能となったので、結局、何度か予約とキャンセルを繰りかえした。
   実際には、クィーンズサイズべっドのツインルームに宿泊出来て、幸いであった。
  
   夜は、カニやステーキ、握りずしと豪華メニューが勢ぞろいと言う能書きの「年末年始ディナーバイキング」で、次女家族ともども楽しい夜を過ごした。
   その後は、部屋に帰ってゆっくりと寛ぎながら、今年は、NHKのテレビ「紅白歌合戦」を見ることにした。
   随分、この紅白を見続けているのだが、歌は、正に、世につれ人に連れそのもので、全く様変わりだが、音響や映像技術の進歩発展も凄くて、若い歌手たちが多くなって、戸惑いを感じながらも、結構楽しんでいる。 
   私など、どちらかと言えば、静かで大人しい歌が性に合っているのだが、それより、若い歌手たちが歌う歌など、殆ど、歌えないほど変わってしまっており、クラシックの現代音楽を聴き続けた頃に似たショックを感じている。

   いずれにしろ、サンパウロにいた時と、ロンドンにいた時には、現地で「紅白歌合戦」が放映されていたので見ていたが、アムステルダムにいた時には、日本での放送を録画して送って貰って聞いていた。
   家族にとっても、海外では、この「紅白歌合戦」と寅さん映画は、日本との数少ない接点であったのである。

   空港では、飛行機の離陸が見えると言う第1ターミナルに行った。
   寒かったが、孫たちは満足していた。
   第2ターミナルの方だが、何十回も、ここから欧米などに向かって離着陸していた頃が懐かしかったが、展望所からの飛行機を見るのは初めてであった。
   戦後初めて、日航機が、伊丹空港に降り立ったのを見に行った少年の頃の思い出も蘇ってきた。
   
   

   ところで、翌日元旦に、ホテルバスで、成田駅まで出たのだが、結構多くの人が、成田山新勝寺へ初詣に出かけて行った。
   私たちの様に、成田空港ホテルを利用して、初詣に行く人がいたのである。
   流石に、いつもと違って、JR成田駅は人の出入りが激しく華やいでいた。
   
   
   我々は、成田から、銚子行きの成田線に乗り換えて、佐原に向かった。
   佐原から、鹿島神宮行きの列車が出ている。
   既に、出発間際の列車が待機しており、佐原で降りた乗客の大半が、その列車に向かって、ホームを急ぐ。
   この佐原にも、香取神宮と言う人気の高い由緒ある神社があって、初詣の参拝客が多いのだが、大半は、佐原インターチェンジで降りる車客が多いのであろう。
   数年前の元旦の朝に、佐原インターチェンジを降りようとして、延々と繋がる車の列に遮られて大変であったことを思い出す。
   

   佐原に降り立って、少し時間があったので、古い佐原の面影が色濃く残っている川沿いを歩くことにした。
   観光客は殆どいないし、すべての店や商家が休んでいるので、物音ひとつしない気の遠くなるような静けさである。
   江戸時代の雰囲気を残す蕎麦屋の小堀屋本店も戸を閉ざしており、先の大震災で見る影もなく破壊された姿と、その後の改修後の店の佇まいを知っているので、愛しみ育てて来た文化財は、大切にすべきだと思う。
   伊能忠敬旧居も記念館も、当然、休館であったが、全く静かな寝静まったような佐原は初めてなので、文化を感じて清々しい思いであった。

   大晦日は、雨交じりの寒い日であったが、翌日は、天気が良くなって、清々しい綺麗な穏やかな新春を迎えて、素晴らしい元旦であった。
   今年も、良いことがありそうな気がする。
   
   
      
   
   
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