熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ストラトフォードのシェイクスピア旅(13)ロミオとジュリエットの家

2023年10月08日 | 30年前のシェイクスピア旅
   「ロミオとジュリエット」の観劇記の後に、ヴェローナの二人の家についての記述が残っているので、再録して、ヴェローナの思い出を書いてみたい。

   シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、1302年、町が、教皇派のモンタギュー家と皇帝派のキャピュレット家とが内部抗争していた頃の事実を題材にしているので、真実かどうかは別にして、ロミオとジュリエットの家がある。
   ロミオの家は、繁華街の中心、シニョーリ広場に近いスカリジェリ家の廟の向かい側にある建物で殆ど目立たない。塀に説明書きのプレートはあるが、隣の貧相なレストランで聞いても英語が通じないので全く要領を得ない。しかし、宮殿と政庁舎の裏に位置しているので、当時は、一等地であったのであろう。

    
    ジュリエットの家は、ヴェローナ屈指の観光スポットで、ロミオの家から歩いてほんの5分、シニョーリ広場を抜け、エルベ広場を右折れして、カッペルロ通りを、アレィジェ川に向かって少し歩くと、左手に見える。入り口を入って中庭に出ると、右手奥に、アーチ状の小さな玄関口がある。その左手に小さな窓があり、その上に例のバルコニーが突き出している。壁の構造体はしっかりとした煉瓦造りであるが、バルコニーは、石造りで飾り柱が付いている。RSCの舞台などでは、貧弱な、あるいは、省略されたバルコニーを観ているので、壁面に蔦が絡みつき重厚な建物の石造りのバルコニーを観るとイメージが違ってくる。ゲスの勘ぐりだが、このような重装備のそして警戒の厳しい邸宅に、ロミオが入り込むためには大変な努力をしなければならない筈だと、現実的になってしまう。
   中に入ってみると、かなり大きな邸宅で、床も天井も殆ど木製で、中々立派な素晴しい建物である。しかし、窓が小さくて天井が低いので結構内部は暗い。
   (この口絵写真は、インターネットから借用したのだが、バルコニーである。上の写真は入り口から中庭越しに建物を見た写真。左手奥にジュリエットの銅像が建っていて、写真スポットであり、観光客が撫でるので、ジュリエットの胸が光っている。)

   
   さて、上の写真は、ウィキペディアからの借用だが、ヴェローナを良く表している。
   私は、都合3回ヴェローナを訪れている。
   もう、30年以上も前の話になり、記録や写真も失ってしまったので殆ど記憶に残っていないのだが、ローマ時代の巨大な野外劇場アレーナ・ディ・ヴェローナでの壮大なオペラ公演は忘れられない。
   アイーダとトーランドットを観劇した。
   宿泊先も一番古いホテルに泊まって、ドップリ古いイタリアを味わおうと試みたのを覚えている。
   
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PSジョセフ・S・ナイ「戦争に運命づけられてはいない Not Destined for War」

2023年10月07日 | 政治・経済・社会時事評論
   PSの、ジョセフ・S・ナイ教授の論文「戦争に運命づけられてはいない Not Destined for War」

   現在、深刻な米中対立が懸念されているが、
   米国が同盟を維持し、自国に投資し、不必要な挑発を回避すれば、中国との冷戦または熱戦に陥る可能性を減らすことができる。 しかし、効果的な戦略を策定するには、よく知られているが誤解を招く歴史的な例えを避ける必要がある。と説いている。

   米国と中国の大国間の競争は今世紀前半の特徴だが、 これを、前世紀の二度の世界大戦前のドイツとイギリスの対立に似た「永続的なライバル関係」だとか、アメリカと中国は紀元前5世紀のスパルタ(支配的大国)とアテネ(新興大国)のようであり、「戦争する運命にある」のではないかと心配する向きがあるが、 問題は、紛争は避けられないと信じることが、自己実現的な予言になってしまう可能性があることである。
   「永続的な競争」自体が誤解を招く言葉である。 1949 年に中国共産党 (CPC) が権力を掌握して以来、米中関係を考えてみれば、1950 年代には、アメリカと中国の兵士が朝鮮半島で殺し合いをしたが、 1970年代、リチャード・ニクソン米大統領の歴史的な中国訪問後、両国はソ連に対抗するために緊密に協力し、1990年代には経済関与が高まり、米国は中国の世界貿易機関への加盟を支持した。 現在の大国間競争の段階に入ったのは2016年になってからで、現下では、中国を、米国にとって、経済的、技術的、政治的、 そして軍事的にも、「最大の長期的脅威」と見做している。

   現在の「新冷戦」と、米ソ対立時代の「冷戦」との比較は不適切であり、米国が中国から直面している本当の課題について誤解を招く危険がある。 米国とソ連は世界的に高度な軍事的相互依存関係を持っていたが、経済的、社会的、生態学的相互依存性は事実上存在しなかった。 今日の中米関係は、あらゆる面で異なっている。
   まず、米国は自国と世界経済に多大な損害を与えずに貿易と投資を中国から完全に切り離すことはできない。 さらに、米国とその同盟国は、共産主義イデオロギーの蔓延によって脅かされているのではなく、双方が日常的に操作している経済的および政治的相互依存のシステムによって脅かされている。 安全保障問題に関する部分的なデカップリングまたは「リスク回避」は必要だが、経済全体のデカップリングには法外なコストがかかり、それに従う米国の同盟国はほとんどないであろう。 米国ではなく中国を主要な貿易相手国とみなす国が増えている。さらに、相互依存の生態学的側面もあり、デカップリングは不可能で、 気候変動、パンデミックの脅威、その他の国境を越えた問題に単独で対処できる国はない。 中国との「協力的競争」に縛られており、相反する目標を前進させる戦略を必要としている。 この状況は冷戦時代の封じ込めのようなものではない。

   台湾については、中国が反逆者の省とみなしている台湾をめぐって米中が戦争に突入すると考える向きがある。
   ニクソンと毛沢東が1972年に会談したとき、両者はこの問題について合意できなかったが、台湾に法定の独立を認めず、中国による台湾に対する武力行使を認めないというこの問題を管理するための大まかな公式を考案し、これが半世紀にわたって続いている。 現状を維持するには、台湾の法定独立を支持するという挑発を避けながら、中国政府を抑止する必要がある。 戦争にはリスクがあるが、避けられないわけではない。

   米国は中国との低強度の経済紛争を予期すべきだが、その戦略目標はエスカレーションを回避すること、つまり、ブリンケン米国務長官が最近「平和共存」と呼んだものであるべきである。 それは、抑止力を使って熱戦を回避し、可能な限り協力し、米国のハードパワーとソフトパワーを活用して同盟国を引きつけ、国内資産を結集して競争に成功することを意味する。 目標は、米国自身の同盟と国際機関を強化することによって中国の対外的行動を形作ることであるべきであ
る。
   例えば、南シナ海と東シナ海における米国の権益を前進させる鍵となるのは、米軍を駐留する緊密な同盟国である日本である。 しかし、米国も自国の経済的、技術的優位性を強化する必要があるため、より積極的なアジア通商政策を採用し、中国が取り込もうとしている低・中所得国に支援を提供するのが賢明であろう。 世界的な世論調査によると、米国が国内の開放性と民主的価値観を維持すれば、中国よりもはるかに大きなソフトパワーを持つことになる。
   米国自身の軍事的抑止力への投資は、中国との貿易関係を維持したいが、中国に支配されることを望まない多くの国によって歓迎されている。 米国が同盟関係を維持し、悪者扱いや歴史的な類似へのミスリードを回避すれば、「協力的な競争」は持続可能な目標となるであろう。

   以上が、ナイ教授の論点だが、極めてシンプルで明快であり、疑問の余地はなかろう。
   台湾については、米国があいまい政策を誠実に堅持して、現状を維持し続ければ、台湾は現在享受している厳然たる尊厳と存在価値を維持できるであろう。
   そして、米中のみならず、グローバル世界が、雁字搦めに錯綜して共存共栄している以上、デカップリングや分離分散など、永続的にはありえない。
   文明国同士は、失うものが大きいので戦争はしないとか、マクドナルドのある国同士は戦争しないとか言われていたが、プーチンのしかけたウクライナ戦争で、木っ端微塵に壊されてしまったが、世界戦争に至る前に収束するであろうと思う。
   私は、例え核戦争が勃発しても、当事国同士は崩壊し、グローバル世界は塗炭の危機に見舞われるであろうが、何らかの形で人類は生き延び、地球上に生命が維持されるであろうと楽観視している。
   ホモ・サピエンスは、そんなに軟であるはずはなく、言語を絶する運命を生き延びてきたのである。
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ピーター・アクロイド「シェイクスピア伝」:シェイクスピアは何処で学んだのか

2023年10月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   シェイクスピアは、ダンテとゲーテと共に、世界三大文豪のひとり、
   イギリスの片田舎のグラマー・スクールを出たのか出なかったのか分からないほど学歴には縁の遠いシェイクスピアが、どの様にしてあれだけ素晴しい30以上の戯曲を創作できるほどの資質と能力を得たのか、ずっと、私の問題意識にあった。

   同時代の作家クリストファー・マーロウやトマス・ナッシュなどは、ケンブリッジ大学を出ているし、ロンドンで活躍していた頃に交流のあった劇作家連中の多くはかなり高学歴で、シェイクスピアのように、片田舎ストラトフォードのグラマー・スクールで学んだだけで、それ以上の高等教育を受けた形跡がないのとは違っている。
   ウェストミンスター文法学校に学び、古典についての基礎を学んだベン・ジョンソン は、シェイクスピアの教育に対して、優越感を持っていて、「しばしばシェイクスピアの学識の欠如と、古典に対する無知をとがめた」が、アクロイドは、無知を無視に訂正して、シェイクスピアが古典の規範に従わなかったことを意味しているとしている。

   いずれにしろ、シェイクスピアの戯曲誕生の秘密を知りたくて、色々な本を読んできたのだが、
   ピーター・アクロイドの「シェイクスピア伝」には、かなり、子供の頃のシェイクスピアの教育遍歴について書かれていて、参考になるので、取り上げてみたい。

   まず、シェイクスピアが本を夢中で読んだことには疑いの余地がない。幼い頃読んだものは大抵作品に生きている。として、多くの文学作品を列挙している。また、地元の民話や妖精物語なども、シェイクスピアの後期戯曲で息を吹き返し、末永い命を与えられている。と言う。
   しかしこれに対しては、訳者の河合祥一郎東大教授は、シェイクスピアが確実に触れたと言える本はオウィディウスと聖書くらいで、多くの種本は成人してからであろうとホランド説を訳注に記している。

   シェイクスピアは、小学校からキングズ・ニュースクールへ進学し、市の参事会員の息子の特権として無料で教育を受けた。入学には、英語の読み書きができ、ラテン語を学ぶ「適性があり」、「文法の初歩や規則を習う準備ができている」ことを示さなければならなかった。学校のカリキュラムの基本は、読み方、暗記、作文の技術によって、ラテン語文法と修辞学をしっかりと身に着けることに置かれていた。 
   二年生になると、学習上だけではなく道徳的な見地からも注意深く選ばれて言い回し、警句、決まり文句を使って、文法の理解を実地に試されることになり、これらも暗記させられたので、この記憶術の訓練を継続的に受けたことが、役者になった時に役に立った。この学年で、ブラウトゥスとテレンティウスの劇選集も教材になり、シェイクスピアの演劇魂を呼び覚ましたかもしれない。
   三年生では、やさしいラテン語に訳されたイソップ物語を読んだ。エラスムスやヴィヴェスの対話文学にも目を通し、決まり文句を積み重ね、言葉を飾るために隠喩を用い、教訓を強調するために直喩を使う方法を学んだ。
   シェイクスピアが模倣を学んだのは四年生の時で、ラテン語詩の「詞華集」の勉強でウィリギリウスやホラティウスを知った。もっと重要なのは、オウディウスの「変身物語」を読み始めたことで、日常の世界から連れ出されて、その幻想的な技巧、脅威に満ちた演劇性、そして全体に浸透した官能性としか呼べないものに魅せられた。また、サルスティウスやカエサアル、セネカ、ユウェナリスを学んだ。
   教育の最終段階は、文章作成。文法から雄弁術へと進み、朗読法の技術を学んだ。「創作」を当時は「修辞学」と呼んでいたが、いまや秘伝とも呼びうるこの教科の原則や法則を、シェイクスピアは教室で学ばされたのである。主題に対して変奏を考案したり、言葉の意味だけではなく音の違いを強調する方法を教わり、」主題の組み立て方や形式的な演説調の書き方を学び、誇張や、誤った修辞を避けるべきことを知った。身振りや話し方についての特別の稽古もあった。

   当時の文化は、必ずしも活字中心ではなく、主に、説教師、聖職者、役者に代表される音声の文化だった。だからこそ、演劇が急速にこの時代の最高の芸術形態となったのである。
   口承文化には、強い記憶力の形成が必須で、本で調べられなければ、記憶せざるを得ない。生徒たちは、「記憶術」と呼ばれる記憶法の訓練を受けた。ベン・ジョンソンが読んだ本の総てを復唱できると豪語したが、当時の役者たちが1週間の間に複数の芝居を上演できるといった記憶の妙技は、このような訓練が土台になっている。
   グラマー・スクールでは、教育の基礎として、演劇が定期的に上演されていて、プラウトゥスやテレンティウスの作品はレパートリーの定番であった。
   シェイクスピアが、演劇教育を受けた証拠は、ストラトフォードの教師たちの経歴にも窺えるとして、クロイドは、トマス・ジェンキンズとジョン・コタムについて詳述している。

   以上が、クロイドのシェイクスピアのストラトフォードでの学問履歴のかいつまんだ説明だが、どこまでが真実か分からないし、これだけでは不十分であろう。
   ここでは、省略するが、これらと同様に重要なのは、ストラトフォードにもロンドンの最高の劇団が来て、シェイクスピア少年が、その舞台を観て、まさに花開こうとしていた演劇の詩心やスペクタクルを吸収できたことである。
   また、ストラトフォードには、聖霊降臨祭の「余興」など、ほかの種類の演劇的な娯楽もあった。それに、父に連れられてコベントリーまで聖史劇を見に行ったともいう。

   いずれにしろ、演劇に魅せられて若くしてロンドンに出て、田舎者のシェイクスピアが、役者稼業に足を踏み入れて、激流にもまれながら艱難辛苦、
   偉大な戯曲作家になった。
   その秘密の一端が、このストラトフォードの少年時代にあったことは事実である。
   
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何よりも大切なのは健康の維持

2023年10月04日 | 生活随想・趣味
   いつも元気で挨拶を交わして親しんでいた近所の奥方が、しばらく見ないと思っていたら、認知症でデイサービスに通っていると聞いた。
   先日も、親しくしていた町内会長が逝ってしまって意気消沈したところである。
   後期高齢者になっているのだから、いつ、異変があっても不思議ではないのだが、同世代の知人友人が、亡くなったり倒れたりするのを聞くと他人ごとではない。実に寂しい。
   大学や高校などの学友や、それに、同郷や会社関係など関係した多くの知人友人がいるのだが、その多くは、亡くなったり病床に居たり、元気で動き回っている人は非常に少なくなって、消息不明者も多くなってきている。

   先日、大学経済学部の卒業60周年同窓会(最終回)の案内が幹事から来て、
   皆さんどれだけ出席出来るのか見当つきません。そこで出席の意思があり、体力的にも問題なさそうという方で、参加希望者の人数を把握したいと思います。日程も場所も決まっていないので申し訳ありませんが、5月連休明けならなんとかなりそうという方は、このメールに①8割以上出席可能、②出欠5分5分、③出られそうもないか出るつもりはない、のいずれか返信いただけると幸いです。
   と参加可能性の有無を聞いてきた。

   小学校と中学校に同窓会があるのかないのか、迂闊にも知らないのだが、高等学校の方は旧中学および旧女学校から続いていて同窓会は非常にアクティブで、90代の卒業生も元気で同窓会に参加しているようで、寿命に恵まれた元気な人は元気なのである。大学院アメリカのウォートン・スクールの方は、グローバル・ベースでも活発に活動を続けているが、現役を退いてからは、遠のいている。

   さて、私の体調だが、高血圧や放射線治療や歯科などの検査結果は、全く異常がなくて、定期健診や薬剤処方で、お世話にはなっているが、特に、常時病院や医者にかかると言うことはなく、困っているのは、弱い脊柱管狭窄症と老化による足腰の弱体化による杖突き歩行だが、日常生活にはそれ程苦労はない。
   
   このブログを書くことも日常業務の一つだが、読書を楽しむことに結構時間を割いている。
   今日は、久しぶりに、ピーター・アクロイドの「シェイクスピア」を引っ張りだして読んだ。
   経済学や経営学の本を読むときには、それなりの姿勢で集中して読むのだが、
   時には、無性に、シェイクスピアやダ・ヴィンチ、ローマやギリシャ等といった何度も読み続けて心に染みこんだテーマを反芻して楽しみたくなる。本やトピックスに関係なくページを繰って、気に入った所を読み返して、美術書や歴史書なども取り込んで空想を膨らませて、思い出に耽る。ダ・ヴィンチにしても作品の殆どは鑑賞しているし、シェイクスピア戯曲の舞台は過半数観ているし、ローマやギリシャも歩いてきたので、どんどん、世界が広がって行く。

   この楽しみも、健康あってのお陰、
   その幸せを噛みしめながら、日々、手を合わせて感謝の祈りを捧げている。
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平川 祐弘 :ダンテ『神曲』講義  煉獄篇の夢幻能の世界

2023年10月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   煉獄とは、地獄、煉獄、天国の三篇構成の「神曲」の「第二の世界」で、浄罪篇とも呼ばれ、ダンテは、煉獄篇を「人間の魂が浄められて、天に昇るにふさわしくなる第二の世界」と呼んでいる。
   この煉獄での逸話が、日本の複式夢幻能と相通じているとイエイツの作品などを交えながら、語っているのが興味深い。

   まず、複式夢幻能についてだが、著者の説明を脚色すると、
   前場では、旅の僧が、歴史的記憶を留めている場所にやってくると、行きずりに、この世の人とは思えない人に会い、故事来歴などを聞いていると、相手は正体を名乗って姿を消す(中入り)。後場では、その亡霊が、生前の豪華な姿と面で現われて、その人の苦悶の時を語り、最期の時を再現して舞う。しかし、僧の祈りが効いて救われて、現世に対する執着が失せて、霊魂は自由となり、亡霊は消えて行く。

   さて、ダンテの「煉獄篇」の方だが、煉獄篇第五歌で非業の死を遂げた人で、臨終の真際に前非を悔いたので地獄落ちは免れたヤコーポについて書かれている。ここで、生きているダンテに出会ったので、生前の壮絶な悲劇を語り、この煉獄および天国の旅を終えて現世に帰ったら、この重い罪を浄めて早く天国に行けるように、故郷ファーナの町で、皆に丁重に頼んで、祈りをあげてくれるよう取り計らって欲しいと頼んでいるのである。
   煉獄でも、天国へ上るべく必死になって、責め苦と闘いながら修行を積んでいるのだが効果が少なく、現世の親戚縁者や人々の祈りの効果や功徳が絶大だと言うのが面白いが、何人もが、ダンテに擦り寄って頼み込んでいる。

   一番分かりやすい類似点は、祈りによって成仏したり天国への道が近くなるという祈りの功徳だが、
   このストーリーだけからでも、ヤコーポがシテで、ダンテがワキであり、彼岸と此岸にまたがる劇的構造、シテが語らざるを得ない動機、鎮魂する側とされる側の心理と論理、主役の懐旧談形式が持つ劇的効果など、複式夢幻能と似ていることが良く分かって非常に興味深い。

   ダンテの「神曲」の逸話なりストーリィが、現代能になっているのかどうかは分からないが、この煉獄篇だけでも、ヨーロッパの凄まじい殺戮や悲劇が幾重にも語られているので、複式夢幻能の格好のテーマには、事欠かないのではなかろうか。
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ストラトフォードのシェイクスピア旅(12)ロミオとジュリエット

2023年10月01日 | 30年前のシェイクスピア旅
   午後遅くウォリックから帰り、アーデン・ホテルでゆっくりと寛いで夕食を取り、劇場へ出かけた。 
   大劇場の玄関前、ロイヤル・シェイクスピア・シアターと大書された看板の前で、日本の高校生のグループが記念写真スタイルで並んでいる。前で若い男の先生が、前方の低い塀の上に直にカメラを置いて、しまらぬ格好でファインダーを覗いてシャッターを切り、生徒の列に走り込んだ。あまりいいカメラでもないし、塀の一部にレンズが蹴られていて、上手く写っていないと思って、シャッター押しを買って出た。カメラ王国から来た記念写真好きの日本人とは思えないような体たらく、携帯用か簡易三脚を所持すれば済むことである。折角のイギリス旅行の全行程を、こんな馬鹿げた写真撮影を続けたのであろう。この高校生たちが、その後、劇場に入って、ロミオとジュリエットを観たのかどうかは分からない。

   今夜は、エイドリアン・ノーブル演出の「ロミオとジュリエット」である。ノーブルは、現在、RSCの芸術監督で最高の演出家の一人として呼び声が高い。これまで、彼の演出のRSCの舞台で、ヘンリー四世一部二部、冬物語、ハムレット、リア王を観ている。ハムレットを演じたケネス・ブラナー、リア王とファルスタッフを演じたロバート・ステファンスの姿を今でも思い出すが、それに、舞台もシンプルで、客を裏切らず結構古典的なのが好ましい。冬物語は、日本でも観たが、シェイクスピア劇には珍しく、出演者も多く大掛かりであって、カラフルで楽しく、どこかオペラの世界に浸っているような感じがした。

   今回の第一印象は、何故こんなに瑞々しい舞台なのかと言うことであった。これは、タイトル・ロールを演じた二人の若い役者に負うところが大きい。殆ど無名に近い二人の演じたロミオとジュリエットが、あまりも新鮮で初々しかったからだと思う。
   ジュリエット役のルーシー・ホワイトブローは、育ちの良い、良く教育された、可愛い良家の令嬢を、地で行くような演技に徹している。しかし、可愛い無垢な子供を演じながら、時折、しっかりとした大人の女の片鱗を覗かせる。
   第二幕の有名なジュリエットのバルコニーでの独白、「おお、ロミオ、ロミオ! なぜ、あなたは、ロミオなの」。このシェイクスピア劇のたまらない独白の場の役者の歌うような美しい詩形の台詞回し、この場のホワイトブローの演技は秀逸である。何処を見ているのか分からない、しかし、必死の目で中空を見つめながら、語りかけるように切々と思いを独白する。突然、バルコニー下にロミオがいるのに気付くと、一瞬狼狽して怯えるが、瞬時に、喜びの表情を示して、喜々としてロメオに対する。これは、演技ではない演技、したがって、尋常では出来ない素晴しい芝居心の発露である。

   ロミオを演じたズビン・ヴァルラは、これも、極めて素直な愛くるしい演技で、アクや嫌みを全く感じさせない。ホワイトブローより少し抑えた理知的な演技をしており、線は細いが安定した役作りが清々しい。マキューショーとティルボルトとの闘いの場で、ジュリエットとの結婚式を終えた所為もあるが、反目する両家の和睦の橋渡しをしようとする心理的に難しいシーンがあるが、その思いと親友のマキューショーを殺害された後の心の変化を実に鮮やかに演じていた。

   スーザン・ブラウン演じる乳母は、一寸家庭教師風の雰囲気が面白い。ジュリアン・グローヴァーのローレンス神父は、ロメオの唯一の理解者で、彼だけが旧世代から離れている。二人の運命が幸にも不幸にもどちらにも振れる重要なキャスティンボートを握っていたにも拘わらず、結局打つ手が遅れて、二人の死を招く役回りである。神に仕える身、どうにも逆らえない絶対的な運命を信じながら、理性的な行動を取りつつも、どうしようもない人間的な弱さ悲しさを滲ませながら懺悔する神父をグローヴァーが好演している。キャピュレットを演じるクリストファー・ベンジャミンとその夫人のダーレン・ジョンソンは、ベテラン役者で、ロミオとジュリエットの若い世代と対立する世代を、情け容赦なく厳しく演じて凄まじい。第三幕第五場のパリスとの結婚に対するジュリエットとのやり取りの激しさ凄まじさ、この戯曲のテーマでもある新旧の相容れない対立の悲劇を痛いほど感じさせてくれる。

   ところで、ノーブルは、最初から、イタリアをイメージするために、舞台に、戸外に干された洗濯物の旗竿を使っている。イタリア、特に、ナポリなどでは凄まじく、繁華街でも道路を渡して洗濯旗の満艦飾で、ロンドンやパリではあり得ない光景。
   ジュリエットが大きなブランコに乗って登場する第一幕も、頭上に洗濯物がびっしりぶら下がっているし、決闘の場も、あっちこっちに洗濯物が干してある。シェイクスピア劇の舞台なので、大がかりなセットはないが、第二幕の仮面舞踏会のシーンは、華やかなオペラの舞台の雰囲気があった。ノーブルの舞台は、奇を衒うことも、モダンな特殊なテクニックを使うこともなく、ビックリするような斬新さもないけれど、非常にオーソドックスながらも、色彩豊かでで美しく、いつも、キラリと光る何かを感じさせてくれる美しい演出だと思っている。

   さて、この舞台は、普通の大劇場での公演だったが、シェイクスピア当時の劇場は、グロ-ブ座のように青天井の劇場であったので、参考のために、口絵写真もそうだが、当時の公演の雰囲気を示すために、グローブ座の写真を掲載しておく。
   
   
    
   
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