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小学生の低学年から、本屋に一人で出かけて好きな本を買って読んでいたほどの読書愛好家であるから、もう70年以上の年季が入っている。
従って、読破した本は数千冊に及んでいて、いわば、読書が趣味というよりも、人生そのものであったような気がしている。
さて、それで少し後悔しているのは、いわゆる、速読法をマスターせずに、普通に読んでいたので、実際の読書量が、少なかったのではないかと言うことである。
音読という訳ではないので、飛ばし読みしたり、斜め読みしたり、適当に読んでいたので、何の問題もなかったので意識はしなかったし、十二分に読書に勤しんできたので、慰めはしている。
私の場合、本の種類やシチュエーションによっても違ってくるのだが、これまで長い人生において、やはり、意識して多く読んできたのは、専攻の経済学や経営学と言った専門書であったので、結構難しいことへの挑戦もあって、じっくりと対峙しなければならなかった。早く読めればよいということではなく、読みながら、考え推敲する時間が必要だったのである。
そして、趣味の歴史書や美術書など文化芸術関係の本の場合には、あらゆる背景やシチュエーションを脳裏に展開しながら、空想の世界であったので、読書にも間が必要であった。
良く分からないが、著者が書く速度もそんななものであろうし、丁度、音読程度の速度で、考え空想しながら読んでゆくのが、一番馴染むような気がして、特に意識せずに、それを続けてきた。
私には、無意識ながら、頭が本の内容に即応するような速さで、適当にアジャストしながら、読んでいたということであろうと思っている。
もう、読書人生も、それ程残っていないので、このまま、速読法を気にせずに、じっくりと、積読の本の山を切り崩すことにしようと、
プラトンの「国家」のページを開いている。