根室原野に戦後10年ほど経って入植した爺様がいた。骨太で背の高い爺様であったが、とっつきにくいところがあったが、黙々と仕事をする典型的な百姓である。口数は少なくても眼光が鋭い爺様は、経験浅い私は苦手であった。
何かのついでに上がらしてもらったことがある。そこで爺様と話をすることになった。
満州開拓者であったが、終戦と同時に祖国と逆の方向に列車で運ばれて、シベリアに抑留され強制労働をさせられた。地獄のようだと、何度も声かけるようになって話すようになった。私の記憶の数字は正確ではないが、おおむね次のようであった。
抑留されて人たちは50人に数人しか生き残って帰ってこれなかった。食料も衣類もなく住むところも狭く、押し合いながら寝ていた。朝起きると冷たくなった友人を何人も凍った大地を削って埋めた。何人も何人も何回も何回も埋めたという。
爺様は決して、ソビエトとかソ連などは決して口にしなかった。爺様はいつも吐き捨てるように、「ロスケ」と言った。爺様の精いっぱいの卑語である。自分が抑留されて強制労働をさせられ、多くの友人を亡くした国家を爺様が恨むより術がなかった。
ソビエト崩壊後にエリチェン大統領が来日した時に、シベリア抑留について口頭で謝罪をしたが、何らかの内容があるものでもなく、単なる外交辞令の域で終わっている。
ロシア外交の専門家であった、佐藤優氏がよく言うことに次のような言葉がある。「条約は批准したが、守るとは言わなかった」という言葉である。シベリア開発は、ソビエトの東進に不可欠であった。囚人で間に合わなかったのでスターリンは、留萌ー釧路で線を引き北海道の半分の割譲を連合軍に望み、そこからの労働力を期待していたが叶わなかった。それにとって変わったのが、旧満州地区からの大量の抑留である。ソビエトに倫理などない。
シベリア抑留を生き抜き帰国し戦後活躍た人物として、作曲家の吉田正、歌手の三波春夫や青木光一、作曲家の米山正夫、プロ野球選手の水原茂などがいるが、何んといっても黒を基調にした画家の香月泰男の苦悩が胸を打つ。
この何の罪も罪状もない国民がシベリア抑留されたことに、だれの責任となるのか不明で、責任の所在すら解らない惨事である。爺様が「ロスケ」と吐き捨てるように恨み続けるのが精いっぱいのことである。
日本にもソビエトにも何の責任も求めることなく、国家の後始末を個人が肉体で受け止める不条理は、黙したままで歴史の中に埋め込まれたままである。
私の夫は何かで読んだのか聞いたのか、
「関東軍が自分たちの安泰の為に日本人をソ連に渡すことを了承したのだ」と、度々言っていました。
どういう経緯でそうなったかは分かりませんが、
シベリアに抑留された方々の苦難は、筆舌に尽くせないものだったと思います。
ソルゼニーツィンの小説によると、
ロシア人自身も大勢シベリアに連れて行かれて、
苦労させられたらしいですが、
寒さに強いロシア人にさえ苛酷な環境が、
温暖な日本に生まれた者にとってどれだけ大変だったか、
想像を絶するものだったと思います。
戦前の日本軍もシベリアで色々と悪いことをやっていたらしいですが、
苦労させられるのは何時も罪のない庶民なのですよね。
この問題は、簡単に書きましたがとても不条理で意味の深いものです。敗戦国の国民だからと、多くの抑留者が自分を納得させようとしています。
しかい、どう考えてもこれは不条理で、敗戦国であっても日本には責任のないことだと思います。
関東群が認めていたのではないかというのは、軍人と満鉄職員の幹部職員の家族は、6月には帰国していました。そのことを指しているのかもしれません。
東北震災の時には、原発事故の前、震災当日の夕方にはすっかり東電の家族もいなくなっていました。信じられません。
が、同じ構図化と思います。
敗戦国であっても同胞の帰国には体を張る必要があった。ポツダム宣言の9項、10項をよく読んでほしい。
そこに全てが書いて有る。