WTO(世界貿易機構)の多角的貿易交渉が、ジュネーブで始まった。世界各国は、それぞれ異なる風土や地質や歴史を持っている。むしろそれぞれの国が個別のものであって、固有であると言って過言ではない。
ある国に偏る鉱物資源もあるだろうし、気候風土の異なるところから持ってこなければならない農産物もあるだろう。当然そのために起きる価格差が生じる。基本的には、こうした価格差と輸入国の必要性から、世界貿易は語られるべきである。
ところが、WTOはそうした商品としての本質論や、人々の生活の必需品として論じられてはいない。必要性とは無関係に、相互の政治的な力関係や、輸出入のバランスの調整とやり取りで語られる。
こうしたことの犠牲になるのが、食料である。自国の安いのを買わせるために、輸出国は様々な圧力をかける。今回も同じである。長年見てきた構図である。
しかし、時代は大きく変わった。温暖化によって、国の有り様よりも地球環境保全の方が重要になってきたのである。洞爺湖サミットの主題は何だったのか思い起こしてみるが良い。
食料を海外から求めることや、地球の裏側まで運んでまで売りつけることが、どれほど温暖化に貢献することになるのか、WTOでは語られることがない。
レジ袋を減らすことに庶民は躍起になっているが、海外に食料を求めることの方が余程、高炭素社会であることを思い起こすべきである。
片方で、経済の自由化や市場原理を検討しながら、CO2を半減の目標を掲げることはダブルスタンダードである。基本的に双方は矛盾するテーマである。低炭素社会の実現のためには、輸出入は必要最少限にしなければならない。
食料は当然のこと生活必要な製品は、可能な限り自給するか地域内で賄うか、それもかなわぬ時にあっても最短距離の輸送を前提に検討するべきである。
同じくサミットの懸案となった食料問題は、WTOはどのように取り組もうとするのか。食料自給率を上げる努力をしながら、食料の輸入関税を下げる行為もこれに矛盾する。こうなると、トリプルスタンダードになりかねない。
これからの社会にとって、何が重要かWTOには語る理念がない。金銭評価だけで、商品価値を語ることが、現在の温暖化する地球を作り出したことを忘れてはならない。
>1960年ころまでは、食料自給は健全な状態にありました。
上記のページによれば、「日本が第二次世界大戦後、農業国で生きていくという方針で、山の奥にまで、畑を作り、渓流に田んぼを作ったあとが、いまでもいたるところに自然破壊の痕跡として残っていることを考えていただきい。すなわち、食糧自給は自然保護と相反する上、それに有機栽培や放牧が絡むと日本の森林の大半はなくなる計算になる(家畜飼料を含めた自給率が28%だから)。」ということなるようですが。
農業こそが地力を収奪する、環境破壊産業なのですよ。
ご指摘の話は、戦前のように海外に植民地などが無くなった時に例えられたものだと思いますが、1960年ころまでは、食料自給は健全な状態にありました。
食生活が変わったことと、耕作地の放棄が今日にの状況を生んでいます。
耕作放棄地をなくし、食生活を欧米の畜産品主体から日本食にシフトすれば可能です。
もし、日本が石油などの輸入をやめ、食料を国内生産力のみで賄おうとするなら、江戸時代の人口(6千万人程度?)しか養えないと言う話を聞きます。
残りの5千万人はどうするのでしょうか?
口減らしをしますか?それとも、海外に植民地でも作って移住させますか?