今日は62回目の終戦記念日である。復古的国粋主義者の安倍首相の、「戦後レジュームからの脱却」などと戦前への憧憬とも思える数々の発言などから、この一年はかなり憲法についての論議が行われるようになった。彼の行った功罪のうちのある意味、功と考えてもいいだろう。
今日も、テレビなどではかなり論議がなされている。憲法を変えたい人たちは、戦争を誤解している。それは、近年の戦争はすべて例外なく「自衛」として行われている事実を、知らないようである。
憲法は理念であり目標である。あるいは国家が、国民へこれ以上のことをやらないとい、約束手形のようなものである 。改憲派の論調は、「平和」を語らず「安全保障」を語ることであるが、これは最も危険なことである。
あの理不尽極まりない、イラク戦争でさえもアメリカにとっては「自衛のための戦争」なのである。安全保障はいつでも戦争をするための口実になるのである。
アメリカに従属して、核の傘の下で経済繁栄を甘受してきた日本自身を捨て去る勇気がないために、憲法を変えたり、軍隊をもったりしたいのであろう。
軍隊を持つ国が、安全である保障はどこにもない。世界各国の軍事予算の総計とほぼ同じ、軍事予算を持つアメリカが世界で最も安全な国家とは思えない。力で抑え込むと、相手は力でこれに対抗するからである。そこで、巨大な国家はさらに強力な軍事力を持つことになる。
この武力の螺旋は、弱者からは断ち切ることができない。強者は、弱者に力でない存在感を示さなければ、この螺旋は断ち切ることができない。人類は、このことを体験的に獲得している。日本国憲法の、前文と9条にその理念が明記されている。日本はそれを破棄するべきではない。