幾度もアイヌの反乱の中で、最も大きな影響を国に残したのが、「クナシリ・メナシの戦い」である。1789年(寛政元年)現国後島の北海道側と現羅臼町と標津町と別海町と根室市で散発的に起きたが、明らかに計画的なものであった。武器を持たないアイヌ人たちの反乱は、相当な覚悟がないとできないと思わる。
和人(日本人)は71名(から89名)が殺害された事件である。明治維新のほんの79年前の出来事である。松前藩は制圧に乗り出したが、戦いを続けても敗北は明らかと各地の首長たちがおさえにかかった。お味方アイヌと揶揄されながらも、首長たちは安寧を選択した。アイヌの反乱者は幕府によって、37名処刑された。
その後のアイヌの平定には、南下するロシアの存在が大きかった。アイヌ人の同化政策はこうした背景で始まった。明治以降の海外進出や平定に、このクナシリ・メナシの戦い大いに参考になった。
アイヌの同化政策は、名前や言葉や狩猟などや宗教など文化を奪い、土地を奪って日本文化に迎合させたのである。この同化政策は、台湾で、朝鮮半島で、満州地域で積極的に取り入れられた。
現在、チベットやウイグル系民族に対する、中国の同化政策が全く同じである。あれ程暴力的であったとは思えないが、先住民族の宗教や文化や言葉を奪うのは同じである。
北辺のアイヌを日本の同化させることは、北辺の防衛にも役に立ったが、アイヌ人の差別政策は明治政府が「旧土人保護法」(明治32年:1899年)として、更に強めることになる。これはほぼ100年間我が国のアイヌ人を支配した。
国連の、先住民族の権利に関する国際連合宣言(2007年)によって、アイヌ人は先住民族に認定されたが、日本国内ではすっかり同化政策は成果を上げせしまっている。戦闘的でないアイヌ人は和人との交雑も進んで、我々周辺にも言葉も文化も知らない方々が多く住んでいる。
アイヌの方々は、現在でも9月にアイヌと和人の100名を超す霊を弔っている(イチャルパ、上図)。和人は何もしていない、
強権国家は世界中で、少数民族の同化をドンドン進めている。それが叶わぬとみた、プーチンのように暴力的、軍事的に支配しようとするのである。
当時のロシア帝国はモスクワやウクライナなど欧州だけで、ウラル山脈を超えてシベリアにはまだ進出していません。
対してクナシリ・メナシの戦いは平和な江戸時代の1789年なので全く時代背景が違っています。
ゴローニンはロシア海軍ディアナ号艦長でアラスカなど東方に拡大していたロシア帝国皇帝の命令で千島列島での海図作成が任務だった。
幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していたが、フヴォストフの襲撃を受けて奥羽諸藩に出兵を命じ蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。
また、1808年(文化5年)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。(Wikの記述)
この日本幽囚記によると、
ゴローニンの測量船は最悪のタイミングで日本に来航して捕縛されるが、アイヌ人にクナシリ・メナシの戦いの日本側の非道を訴え「助けてくれ」と泣きつかれるのは国後島の話でクナシリ・メナシの戦いの22年後の1811年の出来事なのです。大事な歴史的事件だが、何故か日本の学校教育(教科書)では教えないのです
ゴローニンの日本幽囚記は、当時のヨーロッパの日本入門の手引きのような扱いだったらしいので、それから半世紀後のアメリカ東インド艦隊のペリー提督も参考にしていると思われます。ところが薩長新政府としては都合が悪いので沈黙。今の日本人知識層でもほとんどが読んでいない幻の書になっていた
一番新しいクナシリ・メナシの戦いは、近代になろうかという時代で、最近の研究者たちによって、いろんな事実が判明してきています。様々なところで五月雨的に起きて、89名の和人の商人が狙われて殺されています。「クナシリ・メナシの戦い」菊池勇夫著:エクセレントブック
事件が幅広く散発的であり、アイヌ側の飼料が乏しいのですが、日本側には実に多くの飼料がり菊池氏がまとめていますが、地域が広く実に読み難い書籍です。
それと、地元の研究会のグループに参加していますが、アイヌの方も沢山いらっしゃいますが、迫害を受けた場所(ほとんど何も残っていませんが)に行って、アイヌの人たちを体感するなどしています。
それと、松前藩にすべてを任せていた幕府ですが、松前藩のかきゅぶしの多くは東北アイヌの人たちだと言いうのです。その人たちも和人との交雑が進んでいて、彼らこそ手柄を求め、アイヌ討伐の先頭に立っていたということです。
極めて複雑な民族関係があって、そして記録が一方的であって、研究者が少ないということも、詳細が判っていないということもあります。
と、国後島に来航したロシア海軍のゴローニンの足に縋りついて「どうか、日本からアイヌ人を助けてくれ」と泣きつかれたエピソードが書かれていた。ゴローニン自身も同じく騙されて、松前藩番屋に交渉に出かけて捕縛され2年3カ月も拘束されています。
ところが不思議なことにロシア帰国後のゴローニンの捕虜記(官費で出版)の記述では日本人役人?(侍?)のことを何故か罵倒せず、加害者である日本人の露骨な憎悪の中においてさえ、その行動を理解し赦すという公平さを示し、
この「ゴローニンの日本紀行」を読んだハイネは、日本人が地球上で最も文明化した、最も洗練された民族
で、私は日本人になりたいとまで書いている。(Wikの記述)
騙し打ちは古くは日本書紀の熊襲タケルを女装して酒を振舞って酔い潰れたところを殺すとか、土佐の山之内一豊が長曾我部の家臣の一両具足を矢張り騙し討ちで皆殺しにする話など日本の伝統芸なのですか、平和な江戸時代のサムライでは穏健だったらしい