時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(61)

2006年02月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
St. Mattews
Cortesy of Olga's Gallery
http://www.abcgallery.com/L/latour/latour12.html


宗教改革の流れに棹さす画家(6)
 

  次々と広がる宗教改革の動きに危機感を強めながらも、ローマ・カトリック教会は、布教の前哨線となったロレーヌには大きな期待をかけていた。ジェスイットなどのカトリック諸派は、布教の精神的風土を確立するに有効と思われることを次々と実行に移した。教会・修道院の充実と併せて教育の拠点つくりにも乗り出した

  ロレーヌ公シャルル3世は、一時はフランス国王の座を目指したといわれるが、アンリ4世(1589-1610)の即位によってフランス王への望みが絶たれた後、 ロレーヌ公国とフランスの融和、安定化に努め、ナンシーにも新市街を造営して文化的な発展も図った。

布教の拠点としての大学
  神学を教え、プロテスタントの攻撃に対抗するための知的・精神的基地とするため、ローマ・カトリック教会はロレーヌ公シャルル3世と協力して1572年ナンシーに近いポンタ・ムッソンにジェスイットの大学を設置した。ツール、ヴェルダン、メッツの3司教区からほぼ等距離の地であり、布教上の拠点として選ばれた。ポンタ・ムッソンの大学は、この地域のカトリック教育と布教の基地として、さまざまな活動を行った。

  ロレーヌのカトリック改革者として知られ、ル・クレAlix Le Clercを助けて女性の教育にあたる修道女のためにノートルダム修道会 Congregation of Notre Dameを設立したピエール・フーリエ Pierre Fourier(1565-1640)もポンタ・ムッソンの大学で学んだ。フーリエはカトリック宗教改革の中で、芸術が果たす役割を認識していたといわれる。1616年、自分の教会のために絵画を注文したりしていた。彼はスペイン審美主義に傾倒していたといわれ、1623年にはリュネヴィルのサン・レミ修道院の改革を委託され、翌年にかけて同地で過ごした日々が多かったことが知られており、ラ・トゥールとの交流があったかもしれないと推察されている。

  フーリエはカトリック宗教改革の方向に深く心酔していたので、1634年にフランス軍がロレーヌに侵攻した時、ルイXIII世(1610-43)への忠誠誓約書に署名することを拒み、逃亡している(Conisbee 75)。

影響力のあったフランシスコ派
  カトリック宗派の中で、フランシスコ派はジェスイットのスコラ主義よりもポピュリストで情緒的な運動だった。ジェスイットは法王に近く、カトリックの教義の学問的・理論的防衛に専心していた。ラ・トゥールの時代に、フランシスコ派はロレーヌで最も活動し、聖人の役割、巡礼などプロテスタントが攻撃した点をむしろ守ろうとしていた。そして芸術家に最も影響力のある精神的な源となっていたようだ。

  伝統的に、ロレーヌの社会階層はカトリックの強い影響下にあり、プロテスタントに傾いてはいなかった。地方で保守的であったことも影響して、一般大衆は宗教改革の衝撃を他の地域ほど強く感じていなかった。しかし、すでに1530年代には宗教改革を求める運動は、燎原の火のようにフランス全土に及んでいた。各地で宗教紛争が続発していた。

  ロレーヌでは新しく貴族に列せられたいわゆる法曹貴族 nobless de robe(貴族は元来、武人とされた)も、侯爵によって任じられることもあって、ほとんど常にカトリック側についた侯爵に加担した。このカソリックへの傾斜は侯爵たちのスペインと神聖ローマ帝国への強い結びつきを意味していた。

強行姿勢のロレーヌ公
  ロレーヌ公国のシャルルIII世、アンリII世、そしてシャルルIV世は、いずれもプロテスタントに対して弾圧的な政策をとった。彼らはプロテスタントに他地域への逃亡を強い、宗教的寛容さに関するフランス王のアンリIV世のナントの勅令(1598年発布。フランスの新教徒ユグノーに信仰の自由を認めた)を決して受け入れなかった。それにもかかわらず、ロレーヌにいた少数のプロテスタントは、教会が注意する対象となっていた。ラ・トゥールが生まれ育ったヴィック=シュル=セイユがあるメッス司教区などには、人文主義に根ざした文化の開花に伴って、プロテスタントが浸透を見せていた。  

  ボルドーの東南約120キロの所にあるネラックという小さな町に、ナヴァール公国という小さな公国があった。1526年に公妃となったマルグリートは、宗教改革の唱道者たちの庇護者であった。    

  1589年、ナヴァール王アンリがフランスの国王アンリIV世となった時、ロレーヌの侯爵たちはシャルル3世がフランス王に対して忠誠を誓ったつながりがあるにもかかわらす、フランスに対抗する側に立った。彼らはスペインおよび神聖ローマ帝国側に加担したのである。とりわけスペイン側についた。それは聖俗一体の理想的なキリスト教国家を創ったスペインに期待したからであったと思われる。

  すでに記したように、ラ・トゥールはロレーヌ公国に拠点を置きながらも、フランス王室とも深くつながりを持っていた。この画家の生き様を知るためには、フランス王室との関係にも立ち入らねばならない。ラ・トゥールの精神世界と制作態度にはさらに究明したい多くの問題が残っているが、ひとまず世俗の世界へ立ち戻ることにしよう。

Reference
Choné, Paulette. 1996. Georges de La Tour: un peintre lorrain au XVIIe siecle. To urnai: Casterman.
Conisbee,Philip ed.1996. Georges de La Tour and His World. Washington D.C.:National Gallery of Art & New Heaven: Yale University Press. 
Heckel, Brigitte et al. 1997. Georges de La Tour: L' exposition du Grand Palais. Paris: L'Oeil.
Taveneaux, René. 1960. Le Jansénisme en Lorraine 1640-1789. Paris: Librairie Philosophique J. Vrin.

大野芳材「ロレーヌのラ・トゥール:画家を育んだ世界」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
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