時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌ魔女物語(5)

2009年02月15日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌ十字といわれるユニークな十字架。


大国の狭間に生きたロレーヌ公国 
 魔女審問が行われた頃のロレーヌ公国の歴史や風土を知る人は少ない。ロレーヌ公国は小国であった。当時の領土は面積にして、日本の九州の6割くらいだった。加えて、16世紀から17世紀前半にかけてのロレーヌは、地政学的観点からみても、きわめて複雑な状況にあった。その実態を理解しないかぎり、このブログのひとつのテーマであるジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の実像は見えてこない。 
 この時代、ロレーヌという小国の置かれた状況は、現代に引き戻して考えれば、ドイツとフランスの間にサンドイッチのハム状態に挟まれた形である。しかも、挟まれた内容がさらに複雑なものだった。神聖ローマ帝国とフランス王国という強大勢力の間に挟まれたこのロレーヌ公国の権威は、国内に存在する司教区(メッス、ツール、ヴェルダン)の教会権力にも脅かされていた。
 17世紀初頭のロレーヌの地図を見ると、海に浮かんだ島々のように、司教区などが領土を分断していた。それぞれの政治領土の間には、法制、関税、言語などの点で微妙な差異が存在した。歴代のロレーヌ公はこうした複雑な政治風土の中で、できる限り戦争などの争いを避け、小国としての安定と繁栄を探し求めた。


1600年頃のロレーヌの地図(詳細はクリック)。領土の中に多数の司教領、王領などが散在していることが分かる。 

フランスとのつながり 
 しかし、小国の悲しさ、神聖ローマ帝国とフランスという二大勢力を中心にヨーロッパ政治が変動すると、たちまち存立を脅かされる不安定な状況になった。
 他方、16世紀、17世紀前半は、フランスの王権も十分確立されたものではなく、当時オーストリアとスペインを統治していたハプスブルグ家に国土を包囲されているとの強迫観念にとりつかれていた。そして、この包囲網を破ろうと、フランス軍は神聖ローマ皇帝軍、スペイン軍と激しく戦った。フランス王は敵の敵は味方と考え、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯やスエーデンのようなプロテスタント国とも同盟した。 ロレーヌ公の家系的、政治的つながりも、こうした勢力関係を強く反映していた。
 総体として、言語、文化の点では、ロレーヌ公国はフランスとのつながりが強かった。これには16世紀頃から歴代ロレーヌ公が、年少の時期をフランスの宮廷で過ごす慣行が成立していたことが影響していた。 しかし、この小国が宝石のように輝いていた時期もあった。ロレーヌ繁栄の頂点には、公国の歴史で「偉大なシャルル」といわれたシャルルIII世Charles III, duke of Lorraine and Barがいた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた時のロレーヌ公であった。

ロレーヌ公シャルルIII世:繁栄の時代 
 シャルルIII世は1552年からフランスの宮廷で過ごし、その知的・文化的環境を体得していた。在位の間は領土の拡大はできなかったが、公国としての独立を維持し、繁栄を生み出した。16世紀後半、フランスが宗教的、政治的混乱に陥っている間を利して、シャルルIII世は巧みに教会などの世俗的財産を司教区から公国側へ移すことなどに成功した。とりわけロレーヌにとって寄与したのは、マルサルでの岩塩生産の権利を取得したことだった。この塩田はロレーヌ公国の経済的繁栄の基盤となった。 
 ロレーヌ最大の都市として、ナンシーでの新市街開発も1590年代に進んだ。メッスが北の砦として、重きをなしているのに対して、バランスをとることが図られたようだ。絶えず隣国からの脅威の下にあったロレーヌ公国での最大都市としての位置をはじめて確立した。
 こうして、ロレーヌ公国に繁栄をもたらしたシャルルIII世だが、1608年3月14日、世を去った。この時、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは15歳になっていた。画家を目指し、修業の途上であったと思われる。 ロレーヌ公国の存在をヨーロッパ史上で知らしめたひとつの出来事は、皮肉なことにシャルル公の葬儀だった。葬儀は実に2月半以上続いた。その盛大さはフランス王や神聖ローマ帝国の戴冠式にも匹敵するほどだったと言われている。小さな国の大儀式だった。その盛大さは、今日まで伝わっていrる。


LA POMPE FUMÉBRE DE CHARLES III
NANCY MUSÉE LORRAIN 
歴史に残るロレーヌ公シャルルIII世の葬儀


 シャルルIII世が在位中に魔女裁判に直接関わった証拠はなにもない。一時フランス王の座を目指したこともあった公だが、それが叶わないとなった段階で、旧い状態を維持することを前提にフランス王と平和協定を結んだ。

宗教改革の衝撃  
 こうした努力にもかかわらず、ロレーヌ公国は次第に深刻な問題に直面していた。その大きな原因は公国の外にあった。フランスにおける宗教戦争の拡大と新教国としてのオランダの独立だった。宗教改革と対抗宗教改革(カトリック宗教改革)の衝突は、この時代を支配した最大の問題だった。フランスではアンリ4世のナントの王令で、ヨーロッパでは類を見ない一国王2宗教(カトリック、プロテスタント)の体制がしばらくの間だが実現した。 
 宗教改革で防衛側に追い込まれたカトリック教会側は、16世紀中頃、代表がトリエント公会議を開催、教会の改革に精力的に取り組んだ。そして、プロテスタントから批判の的となって諸点を含めて、カトリックとしての基本方針を定めた。その線上に、17世紀には「対抗宗教改革」(カトリック宗教改革)
と呼ばれるカトリック教会の自己改革が進められた。

カトリックの拠点だったロレーヌ 
 ロレーヌ公国の政治を貫いていた糸は、カトリック信仰への忠誠であった。すでに1525年ドイツ農民戦争で、アントワーヌ公はアルザスから進入した農民兵を撃退している。その後も、ロレーヌ公国内のプロテスタンティズムの騒乱を初期に押さえ込むというカトリック側としては、効果的な対応がとられてきた。
 公国内にみられた一部の目立ったプロテスタントのコミュニティは、公国の権力が十分およばないような地域とか縁辺部に限られていた。プロテスタントの最も重要なコミュニティは、メッス、ファルスブルグのような独立性の高い地方、南東部のドイツ移民鉱夫の間などだった。メッスはフランスの駐屯軍が置かれていて、プロテスタントへの暗黙な協力があった。
 ロレーヌはカトリック宗教改革のいわば最前線、拠点であった。そのため新しいカトリック改革の秩序を確立したいという努力が他地域よりも速やかに進んでいた。1572年、ポンタムッソンにはジェスイット大学が設置され、改革の神学的支えを提供した。 
 しかし、カトリック内部にも新旧の摩擦が絶えなかった。トリエント公会議の方針を推進する動きとカトリックの旧来の体制との摩擦も多く、かなり複雑な様相を呈してはいた。新旧の権威と迷信がしばしば一貫せず、混じり合っていた。こうしたロレーヌ・カトリシズムは、この時代の典型でもあった。魔女狩りが多発したのもこうした風土においてであった。当時のロレーヌでは、新旧の権威と迷信がしばしば一貫しないままに存在していた。
 公国として注意深く設定され、統一された強い政策が欠如していたこと、隣国フランスやオランダのような深刻な宗教上の闘争があまりなかったことは、ある意味でロレーヌ公国の大多数を占めた農民などにとっては幸いだった。小国であるがゆえに、軍隊の力や税金に、ほどほどしか依存しえなかった。結果として、公国として統一できない地域文化が存在することを許容していた。地域性に根ざしたさまざまな民間の習俗、信仰、呪術が生き残る地盤があったといえる。魔女審問が多かった背景のひとつである(続く)。

コメント (2)
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