最初からこの程度にしかならないだろうと思っていたので、いまさらどうということはないのだが、やはり少しだけ書いておこう。全国最低賃金の引き上げ率である。中央最低賃金審議会の「目安に関する小委員会」が、引き上げ率を全国平均で時給にして14円とすることを決めたとメディアは伝えている*。けれども、これでいったいなにがどう改善されるのか。
日本の最低賃金率は依然として、先進国中最低に近い水準にとどまっている。憲法で定める「文化的な最低限度の生活」を保障することが最低賃金法成立の精神であることは改めていうまでもない。
そして、いまや未組織、非正規労働者が圧倒的な時代なのにもかかわらず、組合の「連合」が「セフティネットとしての最低賃金の機能を考えるときわめて不十分」といい、経営側も大企業と中小企業では見解が異なるが、「環境の厳しい地方の中小企業に一定の配慮がなされた」(日本経団連)と評価しているらしい。
しかし、この引き上げでなにがどう改善されるのか、まったく分からないというのが少し離れてみている評者の感想だ。最低賃金制度が、現代の労働市場でセフティネットの重要な一部を構成していることはいうまでもない。財政支出を伴わないですむ政策でもあり、適切に制度設計され運用されれば、その重要性はきわめて高い。
従来、最低賃金率を引き上げると、雇用が減少するという面だけが強調されがちであった。その論理は単純化していえば、引き上げで企業の人件費が上昇し、価格転嫁ができない場合は利益が圧迫され、経営不振になって、新規採用を抑制したり、雇用の削減につながるという脈絡である。しかし、こうした筋書きは「他の条件が一定として」というお定まりの経済理論の抽象の世界の話である。現実には業態や企業の経営力などさまざまな要件で、動態的で多様な展開が進む。賃上げに対応できない企業がある傍ら、賃率上昇が刺激となって、経営効率化の推進や見直しなどが行われることも多い。「高賃金・高生産性」がうたわれた時代もあった。
他方、最低賃金の議論の過程で、しばしばことさらに軽視される面がある。最低賃金引き上げで収入増加となった労働者の消費購買力が拡大し、地元企業を中心に活性化へのひとつの刺激要因となり、売り上げ増加、そしてさらには雇用増加へとつながる道である。
この側面に関連して、マクロ的には賃率の低い地域からは高い地域へと労働力は流出してしまう。地域停滞に拍車をかけることになりかねない。これは国内外の出稼ぎ労働者のインセンティブを考えれば明らかなことだ。
最低賃金引き上げの影響評価は、これまでも内外で行われてきたが、雇用についてはプラス・マイナスの効果があり、どちらか一方が歴然としている分析結果は少ない。たとえば、同一地域・産業でも小規模個人経営のレストランと大型ファミリーレストランへの影響は、人件費比率も異なり、当然違ったものとなる。業態が異なればさらに違った状況となる。
最低賃金引き上げの対象となった地域の企業や産業は、どこの地域の企業・産業と現実に競争しているのか。現行の最低賃金制度の改定単位となっている都道府県別区分は行政上の区分であり、現実の労働市場の代理指標としてもかなり問題がある。
今回の最低賃金引き上げをめぐる議論で、この制度へのメディアや国民の関心が少し高まったのは大変望ましいことではある。しかし、現行制度の内在する欠陥をそのままに上げ幅の大小を議論してみても、ほとんど得るものはない。ましてや今回程度の改定幅では雇用にいかなる影響が生まれるか、信頼できる評価測定ができるとは思えない(全国一律で時給1000円水準程度に引き上げられれば、多少有意な影響が計測され、効果判定ができるかもしれないが)。
最低賃金制については、国民の総合的セフティネットの一翼を構成するものとして、旧態依然たる枠組みから脱し、新しい視点が要求されていることは間違いない。投薬の効果測定と同様に、正確な効果測定ができない政策は、政策自体に問題があるのだという認識が必要ではないか。
*「最低賃金14円引き上げ:全国平均政府審議会小委が目安」『日本経済新聞』夕刊2007年8月8日