時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

キリストはエボリに止りぬ:ある個人的な回想

2007年08月20日 | 書棚の片隅から


 10代の終わりの頃であったか、「岩波現代叢書」と呼ばれたシリーズをかなり夢中になって読んだ時があった。別に岩波書店のPRをするつもりではないが、大変魅力的なタイトルが含まれていた。その中には今もかなり鮮明に記憶に残っている数冊がある。

 すぐに思い出すかぎりでも、R.ネイサン『いまひとたびの春』 、C.レーヴィ『キリストはエボリに止りぬ』、H.J.ラスキ『国家:理論 と現実』、E.コールドウエル『タバコ・ロード』、P.ギョーム『ゲシュタルト心理学』などである。たとえば、『いまひとたびの春』は1920年代の大恐慌のことが話題になると、どういうわけかキーワードのように最初に出てくるほど記憶度の順位が高い。後になって読んだガルブレイスの『大恐慌』よりも先に思い出す。このブログで映画「クレードル・ウイル・ロック」に関連して、記したこともあった。

 数年後初めて仕事に就いた職場の先輩で、なにかとご教示いただいた Iさんが、この叢書にも含まれているラスキやカーの翻訳でも知られたIR氏の奥様であったのも、人生の出会いの不思議さのひとつであった。

 余談はさておき、配送されてきたばかりの雑誌を拾い読みしていると、「キリストはまだエボリに止まっている」:Christ still stops at Eboliという小さな囲み記事が目にとまった。カリオ・レーヴィCario Leviの作品表題が未だ生きていたからだ。今の時代、ほとんど誰も忘れているだろうと思っていた。個人的にはこの作品を読んだことがひとつのきっかけとなって、その後グラムシやパオロ・シロス=ラビーニなどの著作に惹かれることにもなっただけに、強く印象に残っていた(これについても、後年不思議な出会いがあるが、別の機会に記す)。

 レーヴィは、北と南が別の国のように異なる当時のイタリアについて、北の繁栄と対比しての南の絶望的な貧困を描いた。エボリは、1935年ムッソリーニがカリオ・レーヴィを追放した場所である。ちなみに、エボリは長靴型のイタリアの底に近い所である。

 エボリ周辺の今日の風景は、カリオ・レーヴィの描いた当時とあまり変わっていないらしい。土灰色の丘陵が平原へ急斜面でつながり、アグリ川が流れている。渓谷の上に広がるアリアーノと呼ばれる一群の家々も当時と変わりなくそこにある。

 もちろん、レーヴィがこの地域の貧困の悲惨さを書いた後、70年余の年月が過ぎ、多くの変化もあった。今日のアリアーノには水道、電気、道路、学校もある。長らく人々を悩ませたマラリアも50年前に絶滅された。出稼ぎ労働の結果とイタリア政府やEUからの地域開発援助によって多くの消費財も持ち込まれた。

  しかし、ここはいまやマフイア組織犯罪の巣窟ともいえる地域に化しているようだ。その内部抗争はエボリという地域を離れて、今年8月初めドイツのデュイスブルグ駅近くで仲間同士の争いになり、6人のイタリア人が射殺されるという事件にまで展開した。デュイスブルグは、何度か訪れただけに記事を見て驚いた。

  こうした抗争の背景には、EUから流れ込む南イタリア地域開発のための多額な公的資金の争奪がかかわっているらしい。あらゆる組織が犯罪にかかわり、歯止めがかからない状況が生まれている恐ろしい状態。自浄作用がほとんどなくなっているのだ。考えてみると、南イタリアばかりではない。世界には神も足を踏み入れない地域がまだ多数あるようだ。 酷暑の中、突然の記憶の再生に複雑な思いだった。

 

References
‘Southern Italy: Christ still stops at Eboli.’ The Economist August 18th 2007.


C.レーヴィ(清水三郎治訳)『キリストはエボリに止りぬ』岩波書店、1951年。

コメント (2)
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