このところ記憶の糸が不思議なほぐれ方をしている。映画『善き人のためのソナタ』のブレヒト詩集の連想から、グリンメルスハウゼン、『肝っ玉おっ母とその子どもたち』までつながったのは予想外であった。さらにベルリンの陰翳、イシャウッドまでいってしまった。
これでしばらく、このトピックスはお休みと思っていたところ、ブログではあえて触れないでおいたブレヒトの名作『三文オペラ』が、東京で10月9日から音楽劇として公演の運びとなるとの案内を受け取った。あまりにタイミングがよいのでまた驚くことになった。
『三文オペラ』は名作だけに世界中でとりあげられてきたが、そういつでもどこでも上演されているわけではない。幸いこれまで文芸座公演、ミュージカルを含めて見る機会があった。しかし、ブレヒトが考えていた音楽劇なるものが、本当はどんなものであったかについては、あまり深く考えたことがなかった。
人生の結末が見えてきた今、もう一度だけ見せてやるよという神の思し召しと考えることにして、早速予約手配をした。文学や美術を専攻したわけでもなく、世俗のまっただ中で日々を過ごしてきた。ブログでとりあげている対象も、その間いくつかのジャンルに引っ張られて息抜きのように見てきたものの断片にすぎない。しかし、不思議なことにある時代にはまったく見えなかったものが、急に見えてきたりしている。
『三文オペラ』は、「オペラでもオペレッタでもミュージカルでもない音楽劇」(岩淵:解説)であるとのこと。今回、演出の白井晃氏は音楽劇を標榜されており、その点でも楽しみである。今回の翻訳は酒寄進一氏である。設定も異なり、新しいイメージが創られる。『三文オペラ』はかなり自由度がある。
『三文オペラ』の邦訳は、2006年にブレヒト研究の第一人者、岩淵達治氏の新訳(岩波文庫)*で読んだこともあり、とりわけソングの翻訳になみなみならない努力を傾注されていることに圧倒された。新訳に付された「訳注」、「解説」部分は、この翻訳がプロの仕事であることを十二分に見せてくれた。今回の公演ではどんな翻訳がされているか楽しみだ。
演出に当たる白井晃氏は現代のアジアのどこかの街をイメージして描くとのこと。どこのことだろう。これまで異なった解釈から、いくつもの『三文オペラ』がステージに登場してきたが、それもブレヒトの意図なのかもしれない。
そのひとつの証左として、原作の『三文オペラ』自体、時代設定が特定されておらず、19世紀後半のような雰囲気といわれてきた。読んでみて確かにそうした印象を受ける。ヴィクトリア女王の戴冠式では外れている。といって、他の時代への特定はできない。ブレヒトは設定を演じる者や見る者の裁量にかなり委ねている。他方、ブレヒトにはこの作品にベルリンの「黄金の1920代」の空気を反映させたいという思いもあったらしい。読んでいると、また眠っていた脳細胞が呼び起こされそうな部分がいくつもある。
ここでは、ブログとの関係でひとつだけ記しておこう。個人的には、以前にとりあげた1910年頃のロンドンを舞台としたT.シュヴァリエ『天使が墜ちるとき』ともかなり重なるような読後感がある。 ここでは戴冠式ではなく、婦人参政権運動サフラージュのデモのシュプレヒコールが響いていたが。
*ブレヒト作・岩淵達治訳『三文オペラ』岩波文庫、2006年。