40代の頃の自分の病気に対する気持ちとして覚えていることが、もう一つあるので、続けて書きます。
体の定期健診をしたことがないのですが、はじめて町の案内に基づいて乳がん検診をしたときのことです。
透視の装置でディスプレイに写る画像を見る。
筋肉の層に、銀杏様の形をした黒いものが写る。
二つ、三つあっただろうか。
「良かったですね。いま検診を受けて、細胞を取って調べてみましょう」
「あっ、左側にも…」
「…」
このときも、精密検査のために細胞を取る日程を入れられ、注意事項の説明を受けた。
帰りの車の運転中。
こんな時は、あわてないこと。交通事故を起こしては話にならない。
そんなことを自分に言い聞かせていた。
プリントアウトしてもらった映像を何度見つめても、左右、どちらにもある黒い銀杏様のもの…、全部で5つ、6つと数えると、いくら治療が進歩したという乳がんでも、ここまでできていたらリンパとかに転移していないはずはない、私の思考は、どうしてもそっちのほうに行ってしまうのです。
次に考えることは、
手術となると、どこの病院がいいだろうか。
乳がんの経験者や、友人のお医者さんに電話で情報収集。
「デモね、そちらは遠すぎて、もっと交通の便のいいところでないと、私ダメなの」
「明日、すぐに専門病院で再診察を受けたい」
なんて、言っていました。
お医者さんの友人いわれたこと。
「命に関わることなのに、そんな(看病に来るのに便利がいいとか)ことを優先するのは、おかしいよ」
「今、ガンであることがわかったとしても、1週間の早い遅いで、そんなに違わないから…」
びっくりのあまり、ことを焦り、軽重が狂っていたのでしょう。
でも、考えると、やっぱり、家族の生活はあるのです。
サラリーマン家庭でもないから、自営の夫に有給休暇をとって自分の看病してもらえない。
実家の母親は高齢で頼めない。
だとすると、地下鉄で通学する高校生の子供が、必要なものを届けてくれることになるだろう。
だから、できるだけ地下鉄沿線にある病院でなければ…。
こんな論理なのです。
次に思ったのが、
私は、子供たちの、将来を見ることができないのだな、
そんな程度でした。
あまりにも突然で、自分が「もっと生きたい」なんて、いうところまで、行き着かなかったのです。
もちろん、一晩中、寝付けませんでした。
まだインターネットもないときでしたから、書棚から家庭の医学の本を取り出して、食い入るように眺めていたものです。
そして、友人のお医者さんに紹介された専門病院に。
順番が来て、
手にしていた映像をみるや、
「あー、これは、膿胞ですね。ガンとは違います」
私の体から今までこわばっていた力が抜けて、うれしい一瞬でした。
専門の検査も受ける前に、夫に電話。
帰りの車はルンルン気分だったと思いますが、こっちはもう覚えていません。
「もっと生きたい」という気持ちも、それはあるはずでしょうけれど、私が味わった、あの2日間では、そこまでも行き着きませんでした。
毎日の家族の生活への影響を最小限にしなくては、そう考えた自分だったことは確かなのです。
「子供を育てなければならない」
それが、根底にあったのでしょうね。
体の定期健診をしたことがないのですが、はじめて町の案内に基づいて乳がん検診をしたときのことです。
透視の装置でディスプレイに写る画像を見る。
筋肉の層に、銀杏様の形をした黒いものが写る。
二つ、三つあっただろうか。
「良かったですね。いま検診を受けて、細胞を取って調べてみましょう」
「あっ、左側にも…」
「…」
このときも、精密検査のために細胞を取る日程を入れられ、注意事項の説明を受けた。
帰りの車の運転中。
こんな時は、あわてないこと。交通事故を起こしては話にならない。
そんなことを自分に言い聞かせていた。
プリントアウトしてもらった映像を何度見つめても、左右、どちらにもある黒い銀杏様のもの…、全部で5つ、6つと数えると、いくら治療が進歩したという乳がんでも、ここまでできていたらリンパとかに転移していないはずはない、私の思考は、どうしてもそっちのほうに行ってしまうのです。
次に考えることは、
手術となると、どこの病院がいいだろうか。
乳がんの経験者や、友人のお医者さんに電話で情報収集。
「デモね、そちらは遠すぎて、もっと交通の便のいいところでないと、私ダメなの」
「明日、すぐに専門病院で再診察を受けたい」
なんて、言っていました。
お医者さんの友人いわれたこと。
「命に関わることなのに、そんな(看病に来るのに便利がいいとか)ことを優先するのは、おかしいよ」
「今、ガンであることがわかったとしても、1週間の早い遅いで、そんなに違わないから…」
びっくりのあまり、ことを焦り、軽重が狂っていたのでしょう。
でも、考えると、やっぱり、家族の生活はあるのです。
サラリーマン家庭でもないから、自営の夫に有給休暇をとって自分の看病してもらえない。
実家の母親は高齢で頼めない。
だとすると、地下鉄で通学する高校生の子供が、必要なものを届けてくれることになるだろう。
だから、できるだけ地下鉄沿線にある病院でなければ…。
こんな論理なのです。
次に思ったのが、
私は、子供たちの、将来を見ることができないのだな、
そんな程度でした。
あまりにも突然で、自分が「もっと生きたい」なんて、いうところまで、行き着かなかったのです。
もちろん、一晩中、寝付けませんでした。
まだインターネットもないときでしたから、書棚から家庭の医学の本を取り出して、食い入るように眺めていたものです。
そして、友人のお医者さんに紹介された専門病院に。
順番が来て、
手にしていた映像をみるや、
「あー、これは、膿胞ですね。ガンとは違います」
私の体から今までこわばっていた力が抜けて、うれしい一瞬でした。
専門の検査も受ける前に、夫に電話。
帰りの車はルンルン気分だったと思いますが、こっちはもう覚えていません。
「もっと生きたい」という気持ちも、それはあるはずでしょうけれど、私が味わった、あの2日間では、そこまでも行き着きませんでした。
毎日の家族の生活への影響を最小限にしなくては、そう考えた自分だったことは確かなのです。
「子供を育てなければならない」
それが、根底にあったのでしょうね。