日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「日本人の知らない世界の歩き方」曽野綾子著 PHP新書

2007-03-25 14:53:48 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
曽野綾子さんが、あちこちに書いてこられた、掲題に叶う文章をまとめた、新書本です。
アジア、アフリカ、アメリカ大陸、本当に世界の国を居ながらに、私のなけなしの想像力を相棒に、旅している気分で読みすすめています。
短文だから、読みやすいし、拾い読みも可。
だけれど、今日、読んだ箇所の一つを引用します。
「そのまま、噛み砕くこともなく」です。
彼女の解釈のそのまんまを、弊ブログを訪ねてくださる、だれか一人にでも、読んでいただけたら、いいなと、思ったもので。

書道に臨書、という練習の仕方があります。
今日、まるっきり書き記すことは、私にとっての「臨書」の意味合いがあるのかもしれません。
この文章が綴られた年がわかると、もっといいのですけれど。

- 以下引用 -

『人間』               ・・・サハラ砂漠・・・

 再び文明とは何か、と私は二度目の安易な答えを出そうとする。文明とは、自分ではなく、他者がどう思うか、と考える余裕のあることだ。もちろん、推測したことが当たっているとは限らない。しかし、まちがっていようとも、推測するという姿勢は、文化の尺度とかなり一致している。
 サバンナに住む人たちには、ほとんどこのような推測と自制の要素がない。彼らは、輝くばかりの自分本位である。そうしていかなければ、生きていけないのだ。そして自分本位ということが、私たちの生きる姿勢の基本であることを、私たちもまた再確認する。その点で、この土地の人々は紛れもない人間で、私たちのほうが奇形であることを思う。
 見物人はまた、争ってあらゆるものを拾う。私たちの捨てたビスケットの包装紙、紙コップ、食べてしまったツナの缶詰。捨てることが恵むことだという危険を察知して、私たちの誰もが、言葉少なになり、表情が険しくなっている。食事は大急ぎとなる。どうせ相手が拾うなら、地面に捨てないで、せめて手渡しする方がいいかということになり、私は底にわずかに残ったコンビーフの缶を赤ん坊を抱いた母に渡す。しかし、「食べ残し」を渡したということに、私はかなりどぎまぎしている。
 アフリカでは、何をしても傷つく。それも無意味に、効果なく傷ついていなければならない。傷つき方が初めから見当違いなのだ。
 食事を済ますと、私たちは大急ぎで車を出す。私たちだけになると、誰もがほっとしている。
 サバンナに入るということは、不動の死が支配する荒野から、たまゆらの生の漲る現世に帰って来たことだ、と私は自分自身に言い聞かせていた。砂漠には永遠があり、サバンナには昨日と今日と明日がある。どちらがいいか、人間には計ることができない。しかしいずれにせよ、私たちは人の世に帰ってきたのだ!
                         -砂漠・この神の土地-
コメント (5)
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