日々の暮らしから

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「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」 曽野綾子著 を読む

2008-01-24 07:46:05 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
作家曽野綾子さんが、渡嘉敷島で300名を超える集団自決があったという事実に着目し、昭和45年頃から関係者への取材を重ね、資料を分析しながら、ノンフィクションとしてまとめた「ある神話の風景」(昭和48年 文芸春秋)が先にあり、絶版になっていたものを、掲題の書名で、改めて2006年に出版したのが、本書です。
平明で飛躍することのない文章、結論を急がないで、事象をひとつひとつ検証する方法、事実を知ろうとする場合の、その丁寧な検証ぶりに曽野さんの仕事の誠実さ、その力量に圧倒されます。

・300名を超える集団自決があったのは、昭和20年3月28日。
・当時駐留していた赤松氏(25歳)の部隊は特攻隊(人間魚雷)で、任務は特攻隊長。
・隊員は、近い将来の任務の先に戦死があることを了解していたこと。
・守備部隊ではなかったため、現地住民との対応まで、任務の内になかったこと。

事態が急変して、特攻隊としての出撃がかなわぬことになって、アメリカ軍の上陸となる。土砂降りの雨。
艦砲射撃を受け戸惑う住民は、日本軍に助けを求めようとする。
敵に陣地を察知されてはかなわぬと、住民が近づくことを拒む日本軍。

・手りゅう弾を住民に渡したではないか、との疑問。
一般的には、招集された兵は地元を離れて派兵されるが、当時の沖縄では、急きょ地元住民から招集して防衛招集軍人となっていたため、軍から手りゅう弾を受け取った防衛招集軍人が、家族に手渡してしまったこと。但し不発が多くて、ナタなどの刃物やひもなどを使って、近い身内から、か弱いものから殺していった。

赤松隊長が渡嘉敷島での戦後25年の慰霊祭列席を拒まれたのは、昭和45年3月26日。
曽野綾子さんが、この本のために取材を始めたのも、昭和45年~。
大江健三郎さんの「沖縄ノート」出版、昭和45年。

曽野さんは取材の意図もあって、45年9月に開かれた赤松部隊の集まりに出席。
集団自決の記事は沢山出回っているけれど、報道機関が部隊の関係者に取材したケースは極端に少なく、多く世間に知れ渡っている、集団自決命令の情報の出所は、古波蔵惟好村長側から発せられた記事なり、文章ではなかろうかと受け止めたこと。

部外者からの現実的な意見として、こんな記述もある。

それは軍命令であったことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が下りなかったのだ、という説。
戦傷病者戦没者遺族等援護法ができたのは昭和27年、渡嘉敷の場合は軍の要請で参加したということで、島民全部が準軍属とみなされ、気の毒で戦死とみなした。

とある。

本書の展開は、曽野さんが昭和63年4月家永訴訟の法廷で、
「できる限り直接資料にあたり、ご存知の方がいればお目にかかるやり方をとった。推論や断定を避け、矛盾した証言があっても、統一は図らないことを心がけた」と証言されたごとく、本書もその姿勢に徹していらっしゃる。

ひとつきりの真実が書かれているという趣旨はどこにも見当たりません。
曽野さんの調べらた限りの、事実が並んでいます。
その彼女が、書いておかねばならないとして、

私よりはるかに沖縄のことをよく知っていると思われる先輩の言葉として
「島の人は、とにかく何も話さんでしょう」
という、一言を加えています。
これほど、たどってきたけれど、村の人が話してくれたと思っていたけれど、
実は誰も、何も喋ってくれなかったのかもしれない。
人々は事のあまりの大きさにそれを表現する方法を初めから失っているのかもしれない。
と。

この本は、沖縄を知ることのためにも、曽野さんという物書きさんを知ることでも、幾重にも私にとって、かけがいのない出会いの本となりました。









コメント (13)
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